京都府舞鶴市浜 |
海軍城下町の
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1の続き 艦隊は、艦隊に限らず何でもそうだろうが、努力と訓練次第ではこんなにも強くなれるもののよう。 連合艦隊解散の辞で、東郷は、 〈 神明はただ鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と。 〉 と東郷らしいこと、秋山文学なのだが、を述べたという。日露戦争はどの戦場も勝ったかも知れないがあくまでも超きわどい辛勝、紙一重の差、幾度もの天佑としか呼びようないもない超ラッキーが重なって奇跡のように信じられない「勝利」が得られたというもの。相手が負けてくれたようなもの、決して自慢できるようなワシは強くて優秀民族などと思い上がれるような勝利でもなかった。そのように考える根拠はどこにもなかった。思い起こすだけでもこわいよくぞあれで勝てたものと背筋が寒くなる、たまたま一時的に勝たせてもらったようなことになっただけだと言っているのてある。 知能優秀すぎる連中はそのあたりがわかってないのではなかろうか、肉ジャガは呉にくれてやればいいし、養老源水はやめればいい、あんな物は何も東郷さんとはまったく関係がないし明治海軍とも関係がない舞鶴の宣伝にもならない、戦史も知らない愚かな軍港人と世界が笑うし市民の歴史観を誤らせる。本当に利口な舞鶴人は横向いている。スーパーやコンビニに腐るほど並べてあるが誰も買わない、頭のよすぎる官僚が作った商品は私も絶対に買わないことにしている。 しかしこのな辞はしっかりと舞鶴に残しておきたいもの。ムダだろうがあるいは市役所にでも貼っておいたら…、問題あれば真下飛泉の「友は野末の石の下」と並べておけばよい。 米大統領セオドール・ルーズベルトはこれにはいたく感動して、ずいぶんと長いこの辞の全文を翻訳して自国の陸海軍に配布したという。 勝って兜の緒を締めよ。一勝に安ずるなかれ。 さすがに米の大統領。日本とは格が違う。日本はどうだっただろうか。締めたかといえばぜんぜん締まらなかったのであった。歴史から何も肝心なことを学ばず、教えず、日本よい国強い国、進め進め兵隊進め、神風吹く神国などと何か初めから正義で勝つものだと勝手に自分ででっちあげた神話を信じ思い込んでしまい日本人の皆が集団大発狂した、これからわずか40年後には太平洋戦争をやらかして大敗北。わずかに40年後である。そして今もなおそのままに狂ったまま氏もわんさかと多い。あの人もこの人も、そぞろ歩む、いつか来た発狂の亡国への道… 貧国強兵策は一歩先は亡国策であった。 ↑なぎなた訓練(丹後町・昭和16年頃) 間人尋常高等小での女子生徒のなぎなた訓練の光景。背後の日の丸も時代を語る。 ↑ほうたいの練習(舞鶴市・昭和14年頃) 非常時に備えて女子生徒は、担架運びなども訓練した。 ↑木の実あつめ(伊根町・昭和9年頃) ドングリを集めてまわる児童たち。 ↑消火訓練(宮津市・昭和18年頃) 防空ずきんをかぶり隣組の人びとが参加してバケツリレーなどの訓練が行われた。 (いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より、キャプションも) 舞鶴市は100年後に、この当時のもう役にも立ちそうにもない赤レンガのボロ倉庫(市役所横にある。というかここへ市役所が引っ越してきた)にさらに十億円の追加支出、国民文化祭の会場に当てるためだそう、どんなイベントをするにしろハコならいくらでもガラ空きハコがある、もしなければ外で勝手にやればよかろう、何を考えて誰のためにここにまた同じようなハコにゼニを投入して使いたいのか、市民の血税だぞ、発狂しているのかボケがきたのか、つまらぬ役にもたちそうにもないハコ作りよりもオマエらのスポンサーの市民生活をちいとは考えろ。土建屋助けもエエかげんにせえ、その土建屋は誰かさんどものの支持団体大票田、とすれば何でもない市民のカネで自分を助けているのではなかろうか。と市民はボヤく。 舞鶴に限らず地方の抱える問題はますます大きい、優れた政治家や行政家がこれほど地方に求められる時代はなかろう。しかしいるのはこの程度の何をなすべきかもわからぬ者ばかり。市民に舞鶴にはたして明るい未来など訪れるものなのであろうか。 作りたければ勝手に作ればいいが、ただし市民の税金はびた一文使うな、オマエらの負担で、犠牲で作れ。議員を削減し、職員を削減し、歳費を削減し人件費を下げて、その他ありとあらゆる方法を駆使してオマエらの金でやれ。市民にも舞鶴にもそんな無駄金はびた一文ない。オマエらのバカ計画に付き合う気は毛頭ない。 市民に本当に必要なものかどうか、ここがポイントである。どうしても必要な病院はつぶしてしまう、必要ではない、こんなどうでもよいし、上の写真のような戦争の匂いのするハコ、何もうれしそうに10億円かけることがあるのか、これらの写真を赤レンガに貼って置いてよく見ろ、ドングリ喰うのがグルメか、原爆になぎなたで立ち向かう、焼夷弾にバケツリレー、それがロマンただよう文化か、こんなものには大金を使い何かすばらしいことでもしてるかのように勘違いをしている、こうした両面の痴呆政治が○○市ではずっとここ何十年続いている。道楽バカ息子のお遊びのようなことをずっと続けられては負担者である市民の貧しいサイフがいよいよもつまい。 もしかして「地方政治」の誤変換でありませんか!と利口なパソコンソフトが問うてくるが、いいえ誤変換ではありません、○○市、どことは言いませんが、そこでは痴呆都市・痴呆政治・痴呆自治体・痴呆公共団体・痴呆政治屋・痴呆公務員などなどで正しい変換なのでないのでしょうか。パソコンさん。 要するに何も考えてはいない何も現場がわかっていないという事が子供からでも丸見えで、こんなところへ書くのもアホらしくなる低レベルな話であるが、厳しい地方都市にあってこんな話を平気なツラしていうてくるような痴呆官僚は私なら即更迭すると思う、他市の市長さんでもしお読みならどうされるかお教え願えないでしょうか。 わずか100年後である、人種が国籍が違うのではないのかと疑いたくなるほどの民族の理性の心の退行、零落ぶり、日本人の全員が、特に苦労のない役人どもや政治屋どもが悪い、これらは子供に、幼児化して痴呆になってしまった。ようである。 勝った負けたと騒ぐでないよ、あとの態度が大事だよ。これほどのゼニをかけ命懸けた戦争とは、大勝利とは大敗北とは一体何だったのかとまことに空しい。 イギリスが早くから新造艦を4隻1セットで作るのが有名。ドイツもこれに倣った。アメリカには16隻を一度に作る計画もあった。 日露戦争は日本側には民族解放戦争的な性格も一応は持っていてアジア解放のリーダー達からはそう期待されもしたが、しかし全体とすれば、帝国主義国同士の植民地を武力で奪い合う帝国主義戦争の近代国家同士の総力戦であった。当時の帝政ロシアが近代国家であったかは疑問だが、それは置くとして、全国民が物質的にも精神的にも持てる総てを挙げての戦いである。 ロシアは大国で自国製の戦艦を持つが日本は自前の戦艦を建造する能力はなかった。当時のロシアの国家歳出は20億円、日本は2億5千万円。 朝日クロニクル『20世紀』によれば、 〈 日露の比較 陸軍兵力と馬=平時の現役は日本16万7000人、ロシアは104万2000人で日本は6分の1。予備役などを含めた戦時では日本は63万2000人、ロシアは457万5000人で日本は7分の1。馬は日本が3万1000頭、ロシアは56万2000頭で18分の1。 海軍戦艦=連合艦隊は戦艦4(三笠、朝日、敷島、富士)、装甲巡洋艦8、バルチック艦隊は戦艦8(スウォーロフ、アレクサンドル3世、ボロジノ、アリヨール、オスラビア、シソイウエリキー、ナワリン、ニコライ1世)、装甲巡洋艦3隻。 〉 これは海軍兵力は日本海海戦時の様子のようだが、旅順艦隊は戦艦6、重巡3。ウラジオ艦隊もいて戦艦級の重巡4もいた。幸いにも三つに分かれていた、できるだけ分かれていてくれた方が貧国はありがたい、これらが合体する前に各個撃破で打ち破り日本海海戦の撃滅戦に望むことになる。どこかで一歩ミスればどう見てももう勝ち目の絶対にない戦争であった。 ←危険な冒険 日露戦争の将に起こらんとする頃パリの新聞フィガロ紙にのった漫画。列国は日本の冒険的な戦争にこのような観測を下していた。(『画報近代百年史3』より。キャプションも) 私らの頃の歴史教科書にこの漫画は載っていたが、この超危険な漫画オッサンが身の丈もわきまえず作った街が東舞鶴浜地区であり、郷土の誇り赤レンガの軍用倉庫群である。カンコーになどとその子孫の超漫画連中が有り難がって何億も使う。もう漫画以上に超おかしいと全世界が腹を抱え泣いて笑うことであろう。赤レンガにはこれも貼っておくといいだろう。このチョンマゲオッサンの物置です、花のパリからはこう見えました、とか書いて。 なぜクマはチョンマゲオッサンに負けたのか、なぜチョンマゲオッサンはクマに勝ったのか、この論文を公募して優秀なもには1億円づつやるほうがバカやってるよりはよほどに賢いと思う。舞鶴の名を高め、日本文化を高めることに寄与することとなるだろう。 遼東半島領有に対しての三国干渉は明治28(1995年)、これから一気に国家歳出は増える、前年に対して2.2倍、従って税金もそれだけ高くなる。税金が2倍以上になってそれは全部軍事に使われるなどと想像するのも嫌だが、舞鶴にはそんなのが大好き、明治のロマンが溢れる軍都の街などと勘違いする人の苦労も想像できない、頭の良すぎるクソ役人が多いようだが、何も誰もうれしいはずはない、ロシアが大連・旅順を租借(M31)すればますますそうなった。 消費税を上げ、地租を上げ、戦時特別税、戦時国債、建艦国債、寄付金、国家公務員全員が6年間にわたり俸給の1割を建艦に献納。日露戦争の戦費は現在のカネに換算すると200兆円ばかりに登った。今の国家予算は100兆円弱だから、戦争がどれほどカネを喰うものかがわかる。もちろん全部国民が負担することになる。当時の人口は4000万ばかりだから、国民一人当たり500万円、4人家族だと2千万円の戦費負担になる。 何時の世もそうだが、どんな時でも儲けるのは一部大企業のみでガボスカだろう、これこそがまことの国賊だろうが、あらゆる物資は涸渇し物価は騰貴する、全国民は三度のメシも一度にし、耐乏貧困生活の悲惨の限界を超えて耐えていた。特に出征兵士である、独身の現役はまだよいとしても、それだけでは足りなくなって後備兵が召集されると困った、お国のためと出征した兵士の妻は小さな子を抱えて乞食となり苦悶の末に死んだ、それを心配した夫は我が子を殺してから召集に応じたりもしたという。日露戦争のさなか東北は天明以来の大飢饉に襲われ収穫皆無、窮民は餓死したり四散し海外移民や娘を売った。 靴は軍隊に入って初めて履いたというし、お菓子も入隊して初めて喰ったという。今日死ぬかも知れないから、タダで喰わせてやるといっても彼らはそんなには喰わなかった。超質素な生活を当然のようにしていたようである、うまいもんを喰いたいなどと考えたりはしなかった、そんなヒマがあれば鍛錬に精を出す、涙ぐましい者たちであった。 「明治のロマンとグルメと文明のかほり」の頭の良すぎるクソ職員どもとは何か根本的に国が違うのでなかろうかと思えるほどにも違っているが、この時代の人びとを自分らと同じ程度に抜けた者と勘違いしているのではなかろうかと思われる、オマエら明治国民を見てるのか。 ↑6インチ速射砲による艦砲射撃訓練。周到な想定訓練はバルチック艦隊撃破をもたらした(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) 気が狂ったかといわれた猛訓練が続いた、この時の訓練ほどつらいものはなかったという、訓練だけが祖国を救う、みんな力合わせ元気だし勇気だし命の限りを戦おう、防禦は薄い鉄板が一枚だけ、なにオレたちはいい、赤紙1枚で召集された者、これで十分、祖国のため緑のわがふるさとのため自由のため独立のため、いつでも犠牲となろう。そう本気で信じていたかも知れない。 ↑戦い済んだ12月9日の203高地。203高地は両軍が死傷者の山を築いた激戦地だった。双方の死傷者を収容するため、12月2日には午前10時から午後4時まで一部休戦し、お互いに斃(たお)れた戦友の死体収容にあたった。写真は東北隅の塹壕内で折り重なって戦死したロシア兵(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) 旅順郊外の203高地は屍の山をとなった。要塞前面斜面は日本兵の死体で埋められた、敵味方のというかほとんどが味方の死体を積んで掩堡を作ったという。「オレたちはいい」の犠牲心の若者達が万の単位で天に昇っていった。予想を超えた大損害の連続に大本営は0が一つ間違ってないのかと、どの戦場からの報告も疑った。 塹壕という塹壕は日本軍の死者でアっという間に埋まってしまい塹壕の意味をなさない。休戦中にそれを取り除く。しかし次の攻撃で、またすぐに埋まり溢れたという。 旅順の場合は、ロシア軍の戦闘員4万5千人、死傷者は1万8千、死者は2〜3000人という。 日本軍は兵力10万人、死傷60、212人、死者は15、400人であった。全軍の6割も死傷者が出るのは世界戦史上でもまれなこと、損害が3割も出れば普通は全滅と呼ぶというが、ダブルスコアの常識はずれの全滅であったことになる。「負けた」方は3千人、「勝った」方は全滅、これは勝ったとは言い難い。 現在でもこのあたりでは敵味方の兵士達が叫び声や飛び交う砲弾の音が聞こえることがあるという、天に昇れない霊がまだたくさんさまよっているのかも知れない。 大連って赤レンガの建物が多くて、ノスタルジーだなあ、と市職員ども(と思うが)は大宣伝する。それは外国のロシアが建てたもので大連市民とは何も関係のないものだろう。通りすがりのツーリストのおよそ自国の歴史には超無関心な目であって友好都市の市民同士の目ではもとよりないし多くの犠牲者を生んだ国の末裔の目でもまったくない。三流観光業者の腐った商人の目であろうか。 「203高地の旅」乃木は詩人としての才能が高く、203高地を爾霊山と歌った 「旅順の町並み」現在の姿 天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のわが兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓う心の勇ましさ 日露戦争さなかに作られ歌われた『日本陸軍』。生きて還らなかった兵は日露とも11万人余。 では市職員どもの「ノスタルジー」を少しみてみよう。 ↑惨状! 遼陽の戦闘中最も激烈をきわめた首山堡。原文の表題に曰く「これにまさる反戦論なし」と。「絵入ロンドン新聞」1904・10.29所載。 遼陽城頭夜は更けて と「軍神橘中佐」を生んだ遼陽の戦闘はこのように累々たる戦死傷者(日本側死傷2万3千、ロシア側2万)をだしたのち、9月4日早暁ようやく占領されたが、大損害をうけた日本軍はとうてい追撃などできなかったのである。「軍神橘」の静岡歩兵第34連隊は太平洋戦争にはガダルカナルの若林中隊長を出し、「風にそよぐ葦」(石川達三)にも描かれるほどの悲惨な運命をもった。(『画報近代百年史3』より。キャプションも) 遼陽は遼東半島の付け根にある奉天に次ぐ南満洲第二の都市で露軍の総司令部がおかれていた。第一回目の日露両軍の大会戦がここで行われた。 遼陽城へは10師団(野津)麾下の福知山20連隊が一番乗りした。首山堡はその前面に築かれたロシアの主陣地であった。1万の骨箱は用意したそうだが、弾丸は用意がなかった。砲1門につき何発用意していたか、50発だそうである。一月あたりである。ドンと撃つとガラガラと砲車全体が後退してくる駐退機のない型で、再度前へ進めて再照準して発射、1分に2発がよいところであった(それで一日分の弾は予定終了だが)。小銃も小銃弾すらなく、おのおのの携行の弾でやれ、食糧もないので半分でやってくれ。なあに補給の不足は勇敢さで大和魂で補えるだろう。このころからそうであったようで、日清戦争当時の頭しかなく準備はなかった、砲弾生産力は1日300発、このあたりで、第一回目の最初の会戦で日本はもう限界がきていた。 ←遼陽におけるロシア軍の防備−鉄条網と落とし穴「絵入ロンドン新聞」1904.10.29所載 兵隊もタマがないのだから本気にやって来られたらもうもちそうにもなくなっていた。しかし本気ではこない、後退をして敵を広い国内へ引きずり込みその補給線が伸びきった所でたたくのがロシアの戦略、退却するロシアには気をつけろが常識、退却していくぞと勝った勝ったと喜んだらとんでもない話でナポレオンもヒットラーもこれには勝てなかった。 『福知山連隊史』には、 〈 遼陽はわが聯隊が偉勲を樹てた会戦である。… 敵将クロパトキンが極東軍総司令官に任ぜられて満州に入るや、彼は遼陽を以て第一期作戦の主陣地と定め、日軍を茲に誘導して一挙に撃滅するの計画を樹て、この地に集結した敵兵は総数実に十六万、砲六百門と算せられた。 既にして雨期も去り、満州軍総司令官大山大将は、馬を海城に進めて三軍を統べ、八月廿四日を以て遼陽総攻撃の命令を下した。黒木軍先づ行動を起し、次で野津、奥両軍起ち、激戦の結果、九月四日全く遼陽を攻略した。この戦闘に於てわが聯隊が、過半を犠牲とし、諸隊に先んじて遼陽城を占領した事は、支那事変における南京攻略並びに裏東会戦における殊勲と共に、聯隊史上光輝ある事跡とする所である。… …猛然城門内に突入して敵を北方に潰走せしめ、一部を以て東南角迄追撃し、主力を南門入口に集結して、国旗を城頭に樹立し、遼陽城占領を確実たらしめ、聯隊は先頭第一の栄誉を荷うに至った。 この日わが聯隊の攻撃正面は一望開濶にて一の拠るべき地点なく、且つ敵は高梁を八十糎の高さに折曲げ、一は我が軍の行進を困難ならしめ、一は自己の陣地を蔭蔽して掃射を有効ならしめ、且つ半永久的堡塁を築成して、壕前には鹿柴、狼穽、鉄条網、地雷等の副防禦を設け、之に拠って小銃火及び機関砲火を併用し、死物狂に我を射撃した為め、午前八時聯隊長先づ傷つき、代理次いで負傷し、殊に敵兵線に於ける各幹部は始ど死傷し、射撃に堪え得る健全の兵卒に至っては僅少となり、傷者苦痛を忍んで射撃を継続するの状態に至った。聯隊の指揮は遂に大尉に及び、損害の最も夥しき中隊に至っては上等兵、中隊の指揮を取れるもあり、聯隊は実に全員の約過半を失うに至った。 本日突撃の際敵弾は軍旗に集中し、一弾旗頭の御紋章に命中して一片面を毀ち、一弾は旗竿を擦過し、旗地には十数弾の命中を見るに及んだ。… 〉 のちの南京と並び武勲をあげたという。日清日露の時代は後の低国軍のような略奪や虐殺はなかったとされる(ウソ)。しかしその後の沙河会戦では「日本軍が演じたもっともぶざまな敗退」も遂げたという。何も悪くはない勇猛で知られた後備20連隊であったが、戦には負けも一杯一杯あるもの。『連隊史』にはその記述もあるが、さっぱり要領を得ない。負けたのだろう。 『福知山市史』に、 〈 (十月)十五日には第一・第四軍正面の敵は姿を消して平穏に戻ったが、第二軍正面の敵のみは頑強に抵抗を続けて退く様子がない。そこで総司令部は、臨時に第二軍の応援に回っていた山田支隊(福山第四十一連隊基幹、福知山後備第二十連隊、鳥取後備第四十連隊、姫路砲兵第十連隊第二大隊、野戦砲兵第十四連隊第二大隊、工兵第五大隊第二中隊混成旅団)を第四軍へ戻したうえ、第二軍の沙河墨攻撃に呼応して万宝山を奪取するよう山田支隊に命じた。山田支隊は十五日午後八時三十分万難を排して見事万宝山の占領に成功したのであるが、第二軍が攻撃挫折して退却に転じたため、敵中孤立の姿となり、万宝山から急拠撤退の止むなきに到った。夜中にわかの撤退のうえ、指揮に不手際が重なり混雑しているところへ、三倍とも五倍とも見られるロシア軍の横撃を受け、山田支隊は支離滅裂の状態となって四散した。中でも抵抗力に欠ける砲兵隊の打撃は大きく野砲九門、山砲五門を敵に奪れ、傷兵は虐殺されるという惨めな敗北を喫した。山田支隊長は責任をとって十一月十三日解任され内地へ追い帰された。これを万宝山の敗戦といい、日露戦争における唯一の野戦の敗北とされている。十月十八日以降ロシア軍は士気低下のため、日本軍は戦力消耗の故に両軍休戦の状態になり冬営に入った。 〉 『丹波文庫』に日露戦争出征日誌があったが、その中にこの戦闘もあったと記憶する、そのうちにさがしてみよう。後備というのは現役の20・21・22が戦死してしまい、その穴埋めに召集された者たちである。もちろん年齢は高い。それも戦死していくので、さらに高年齢が召集される。奉天会戦の時期になればある歩兵旅団は下士官と兵卒の平均年齢が45歳であったという。当時の男の平均寿命が44歳の時にである。今で言えば平均年齢80歳超の陸軍部隊である。そんな腰の曲がったジイさんを満洲まで引っ張っていっても勝てるワケがないではないか。そんなものでも引っ張っていかねばならないほどにもうどうにもならない仰天の時になっていた。クロパトキンさんがたいしたことがなかったので、何とかかんとか勝たせてもらえただけのもの。それも知らずか講和反対、ウラルを越えて、ペテルブルグまで攻めるのだ、と当時の新聞人も帝大教授も吼えた。何時の世も決してたいした連中ではないと頭に置いておきたい。 「ウラルの彼方」 ↑沙河の市街戦 1904年(明治37年)遼陽を抜いた日本軍はその10月には沙河をはさんだまま翌年まで対峙したのである。(いずれも『画報近代百年史』より。キャプションも) ノギさんの二百三高地ではなく、こちらが日本陸軍ロシア陸軍主力同士の決戦場。 後備兵、老兵たちが戦死していく様子を『天田郡志史料』が書いている。 〈 鳴呼忠烈の諸士 (福知山市野花の上川口)小学校運動場の一角に我々が常に眼にとまる碑か建っている。これは言ふまでもない、我が君国のために露と消え血を捧げた護国の士、陸軍歩兵曹長勲七等功七級足立定吉氏以下陸軍歩兵一等卒勲八等功七級宮本勢太郎氏、梅田千賀太郎氏、梅田市藏氏、桐村常吉氏等諸氏の霊を祀つた忠魂碑である。 『花は桜木人は武士』。 あわれ君の爲に花と散った武夫の譽は永遠に朽ちないであろう。今ここに一二の諸士の壮烈な最後を物語ろう。 足玄定吉氏は明治十三年二月、本村上大内の一農家に生れ資性常に快活であった、二十二年六月村立小学校の尋常科を卒業し進んで高等科に学び、二十六年六月に其業を卒え、其の後百姓に一生懸命であった。 三十三年十二日歩兵第二十連隊に入営業し、第十二中隊に編入され、三十四年十一月歩兵一等卒を経て、上等兵に進み、三十五年十一月歩兵伍長に任ぜられ、三十六年一月満期となり除隊した。現役中は能く勤務に勉励して度々褒賞休暇を受けた。 三十七年四月二十一日充員召集に応して、歩兵第二十聯隊第十二中隊に編入せられ、五月五日独立第十師団戦闘序列に入り、即日直ちに出征の爲、福知山を出で、十日神戸港を出発した。十四日韓国鎮南浦に着き十八日其の港を出帆して十九日清国奉天省、南尖澳に上陸し、魯家屯の寒い野原を宿とした。二十日江家堡子に着き、其處で戦争に加わる。六月二日何家堡南方高地の攻撃を終って、九日相家堡子に泊り、二十七日分水嶺の戦争に交って二十八日岫巌に帰つた。七月三十一日から八月一日にかけて、折木城附近の戦争に加わって、十三日『マホア』山北方高地に戦い、二十五日から二十六日まで鞍山站附近で、三十日から九月三日までは、遼陽附近で戦うと言う様に到る所で激しく戦って、二十七日歩兵軍曹となり、十月十日から沙河の会戦に入り十一日三塊石山の夜襲にも加わり、二十日までは東山口附近に戦った。三十八年三月一日から奉天附近の会戦に加って、三月二日小東勾北方高地の攻撃の時こそ足立氏の最後の激戦であった。 氏は部下を激励し、はけしい敵の銃火を冒して奮戦したが、不幸にも敵弾を受け負傷し、第三野戦病院に入院し四日遂に戦地の露と消えられ、其の日陸軍歩兵曹長に進められた。 氏の戦役の功により功七級金鶏勲章で年金百円並に勲七等青色桐薬章を授けられた。 宮本勢太郎氏は明治七年五月上小田の一平民に生れ、常に温厚な人と称せられた。十四年四月上川口小学校に入学して十八年三月に卒業した.卒業後提灯屋を職業にして居たが、廿八年十月二十八日歩兵第八連隊補充大隊第五中隊に入隊して十月二十一日補充として清国に渡船し、廿九年五月大阪に帰営して励み、現役を終って除除となった。 明治三十七年六月十六日、充員召集に応じ、後備歩兵第二十連隊に入隊し、第四中隊に編入せられ、次いで出征の爲福知山衛戍地を発し、七月一日、神戸港を解纜して、七日清国奉天省南尖澳に上陸し、十一日岫巌に着く、次いで二十日同地を発し、二十三日折木附近に戦い、三十一日折木城の攻撃に参加し、八日下旬より遼陽附近に前進し、九月三日、遼陽総攻撃の際、中隊は初め丸井枝隊長の直接令下に在って総予備隊となり、終に敵陣に突入するや勢太郎氏は猛烈な敵の射撃を冒して突進し、足部に負傷して倒れしも、奮然として蹶起し、敵陣に向って進んだが、遂に敵弾に下顎部を貫かれ、頸部に盲管銃創を被って戦死した。氏も亦足立氏と同じく功によって、功七級金鵄勲章、年金百円並びに勲八等白色桐葉章を賜った。 所属中隊長近藤兼三郎氏は書を勢太郎氏の遺族に送り、其の動作勇敢で衆の模範となったのを称して深く哀悼の意を表されたと云ふ事だ。 似下三氏も二氏と同様に銃火の中に突入して、名誉の戦死をされ、功七級金鵄勲章、年金百円勲八等白色桐葉章を授けられた。 〉 前後するが5月の南山、大連の北側の山。 こちらは出城を攻めるようなもので、どうでもよいはずのものだった、だが、ところがここに旅順艦隊がバルチック艦隊の到来を待っていた。 ↑日本軍得意の夜襲「絵入ロンドン新聞」所載。 ↑三度目の突撃の後に南山の戦闘、野を埋める日本軍の屍「絵入ロンドン新聞」所載 奥大将の第二軍は五月五日より一三日にかけて塩大湊(大連湾付近)沿岸に第一次上陸を終了し、主力の北進を安全ならしめるために、金州半島を遮断して、ロシア軍を南方に制圧しょうとしたが、ここに南山の堅陣に遭遇した。そもそも南山は遼東半島の最狭部を抗する要害で、ロシア軍はここに一〇数座の半永久砲台を築きあげ、鉄条網・地雷・新式機関銃の装備も完ぺきであった。 日本軍は、この堅陣に対して五月二五日の夜半から行動を開始したが、重砲なくしてこれを攻撃するので、肉弾を以て突撃につぐ突撃を敢行、四四〇〇に近い死傷者を出して、一日にして攻略した。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも) 『坂の上の雲』所収の地図だが、遼東半島の南の先端である。左手の大要塞が旅順、右手の大湾が大連。いずれも舞鶴とは友好都市である。仲良くするのはよいが舞鶴側の目の付け所が頼りない、中国は青くなっていることだろう。きっと何させてもこんなに頼りないことなのだろう。南山はこの地図の一番右側の半島が最も細くなった部分にある。 明治近代国家には徴兵制があった、全国民はこれから逃れる自由はない。それ以前はそんなことはなかった。いくさはプロの武士だけに限った話であったが、近代国家ではそんなことができない。しかもどんな低脳指揮官のどんな無茶な命令でも文句一ついわずに従うより方法がない。敵前逃亡や抗命は銃殺であった、命令通り進めば敵に蜂の巣にされ、勝手に退却すれば味方から銃殺される。文明的な味がする。何かなつかしいロマンの味がしてきた。 徴兵を逃れることもできた、ロマンチックだろ、文明だろ、大金持ち、地元の有力者とか、官僚や軍関係の大事な仕事に就いているとか理由をコジつけて逃れたという。貧乏人はそんな事はできない。世の中は公平では決してない。徴兵制は貧乏人だけが貧農の次男三男それ以下だけが己が命をかけて負担する超不公平な労役であった。進め進めといっている本人やそのムスコは戦場でムダ死することはない、地獄の沙汰もカネ次第、彼らにはカネがあり逃れる手段があった。こんなド卑怯な連中の末裔がまたも勝てるわけもない戦争したがるわけであろうか。徴兵復活とか赤レンガ赤レンガと叫び儲かるわけもない市税の大バカ使いをするのであろうか。 『伊根町誌』は、 〈 徴兵免除 徴兵令は国民皆兵のたてまえにもかかわらず、徴兵免除の規定があり、当初は戸主(税金を納める)、長男(あとつぎ)のほか官吏、医者、外国留学経験者、及び代人科二七○円を納めるものなどは免除され、抽籤(ぬけくじ)の制度がありくじのがれの者は平時の兵役を免除された。 …一般の国民にとっては、働きざかりの若者をとられ、一家の労働力を三か年間失うことは大打撃であり、政府が「四民平等」「国民皆兵」をうたっているが、免役規定により兵役にとられるものは、貧農の二男、三男が大部分を占め、特定の国民の負担であったから、徴兵忌避の風がおこり、徴兵養子といわれた養子縁組が結ばれる風がおこった。 〉 ↓ いずれも旅順攻略戦の日本側の絵であるが、「絵入ロンドン新聞」と較べてどこまで戦史資料的な価値のあるものかは不明。『御国の誉』(S11)より。舞鶴の戦争展に展示されていたもの。 ぜひ憲法を改正して、戦争になれば、まずはクソ政治屋とクソ役人など世の中の役に立たないクズどもから徴兵することにしようではないか。若者は大事だから一番最後でよい、年の上の者からカネのある者からこの世で良い目をしてきたクソどもからまず天に昇っていただくように特別枠召集することにしよう。 ↑旅順要塞の全景(『画報近代百年史3』より) 遼東半島の先端の旅順は舞鶴とは友好都市となっているが、舞鶴港とよく似た地形をしている。(朝日クロニクル『20世紀』より) 試みに両方の地図を同縮尺で重ねてみる。旅順湾は五老ヶ岳から先が海になった舞鶴湾である。 周囲の山々は大要塞が築かれていた。ここが旅順艦隊基地で戦艦ほか東郷艦隊以上のロシア海軍がいた。バルチック艦隊の到着をここで待っている。 舞鶴で言えば大浦半島や槙山などにびっしりと大砲台群があり、みごとな砲撃をするから海からは近づけない。 舞鶴湾の入口は一番狭い所でも700メートルほどもあるが、旅順の湾口は実に狭く273メートル、水深が深く巨艦が通れる巾は91メートル。由良川程度の広さしかない。この狭い湾口に自船を何隻も沈めて、艦隊が出撃できないように封鎖してしまおうと決死隊が出る。東郷さんも秋山さんも、最初から生還の期しがたい、兵員の多量死がわかっているようなものは作戦ではない、いかに貧乏でもそんなことはやるべきではないと乗り気ではない。 ↑第二回閉塞隊を見送る連合艦隊(『画報近代百年史3』より) 旅順港口閉塞は第1次作戦(2月24日)は天津丸、武揚丸、報国丸、武州丸、仁川丸の5隻。第2次作戦(3月27日)は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻。第3次作戦(5月3日)は、新発田丸、三河丸、佐倉丸、遠江丸、江戸丸、小樽丸、相模丸、愛国丸、朝顔丸、小倉丸、釜山丸、長門丸の12隻。 ←この絵は海軍記念館にあったように記憶する、額縁は福井丸のものとか 、しかし確かではない。 ↑広瀬武夫中佐は水雷艇隊艇長を務め、ロシア滞在5年の経験をもつロシア通として知られていた。旅順口閉塞作戦では第1次(2月24日)の「報国丸」を指揮し成功した。第2次(3月27日)は経験を買われて17人搭乗の「福井丸」の指揮をとった。作戦を終えたが杉野孫七兵曹長の姿が見えない。3回にわたって船内を探したが見当たらない。小艇に乗り移った直後に、弾丸に当たって吹き飛んだ。ロシア側では福井丸将校の遺体を発見し手厚く処置したという。(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) 広瀬中佐は戦艦「朝日」の水雷長であるが、開戦前からここは封鎖しかないと唱えて準備していた。どこかの政治屋や評論屋どものように自分は安全な場所にいてひとに行け行けではない、ワシが先頭に立って死地へ行くのだとモラル面もまあクリアーか、モテ男としても有名。明治以来今日までヨーロッパ婦人の間で彼ほど騒がれもてた男もいないのではないかともいわれる。カッコだけではだめ、ロシア文学が原典で読めて漢詩訳する、死地に何度でも赴く、こんな男、男でも好感がもてるが、もしやああうらやましいな、ワシもオンナにもてたいというのならばトクと見習って頑張って下されよ。いい男がいないとやはりいい女もいない、つまなぬクズばかりのマチになってしまう。 67名の決死隊を募ったところ2000名の応募があった。この戦は勝つぞと広瀬は言った。しかし湾口の封鎖は失敗であった。 『中舞鶴校百年誌』は、(写真も) 〈 川井林蔵氏(77才)のご回想によると5〜6才の頃、母に背負われて海兵団(現総監部)入口左手の斜面中腹の大砲練習建物(10数門の砲身が湾口向けて開口部から突き出ていた) 附近の道路で東郷大将の凱旋を見物したと のことである。(…) なお、同氏の語られるところによると、今に残る旧海軍需部煉瓦建倉庫(現在舞鶴倉庫及び海上自衛隊補給所が使用)の煉瓦はすべて和田の小字日の迫(現在白浜ニュータウン埋立地附近)に高さ10m、横8m、長さ30m、ばかりの円形の炉を煉瓦で築き、ここで焼いた煉瓦を浜に出し千石船で戸島を廻り北吸に陸揚したとのことである。 (明治30年頃は現在のような道路はなく陸路の輸送は不能であった。)ちなみに煉瓦を焼かれたのは同氏の親の孫左ヱ門氏だったとのこと。 明治の年皇太子殿下(後の大正天皇)が軍艦数隻を随え来鶴され和田のさきの乙栗に淀泊されたとき和田の浜で小便すると殿下が双眼鏡で見ておられるから淀泊期間は海に向って放尿してはならぬどの達しであったと今の若人には信じられない少年時代の思い出話を川井氏はつけ加えられるのである。 〉 〈 写真421は第3閉塞船相模丸の乗員でこの中に余部下旭西にご在住の上野山省三氏(75才)の養父上野山幸吉氏が写っているのである。 独身の上野山二等機関兵は後嗣として薮井省三君(当時6才)を迎えて家系断絶の憂いを絶ち、明治38年5月3日決死の行に参加し、功7級の金鶏勲章と一片の感状とに化したのである。 余談になるが旅順閉塞隊といえば広瀬中佐が有名で軍神として小学唱歌にまで歌われて杉野兵曹長(後嗣杉野中佐は今次大戦中の一時期舞鶴海軍工廠に勤務されていたと聞く)とともに全国民の話題となったがこの上野山機関兵その他数多くの無名の勇士が今次大平洋戦争における神風特別攻撃隊に比すべき決死の壮挙を而年前に敢行し、日本海の波間に泡と消え去っていたのである。 広瀬中佐の名を聞くと戦争の意味するものを深くは覚らずただ歌詞の魅力と一種哀愁をさそうメロデイーにつりこまれて無心に声張りあげて歌っていた少年の日が回想されてくる。 今も時たまナッメロの軍歌として歌われるその歌詞は次のようであった。 … 〉 旅順港周囲の山々は大要塞。要塞といっても日本人が考えるようなものではなかった、舞鶴要塞の百倍の強力さ。当時たぶん世界一の要塞でなかったかと思われる。数百万ルーブルの巨額をかけて20万樽以上のコンクリートで(そう言われても見当がつかないが)。要塞はロシアのお手の物。最強はジブラルタル要塞かここかといわれたという。 「旅順のロシア軍要塞跡」 舞鶴要塞は露天に砲が並べてある脆いもの、あれは日清戦争時代のものと考えればよい、もしロシアが攻めてきたならアっという間に破壊されよう、なきに等しい気安め程度の「要塞」である、旅順要塞とは比較にもならない(舞鶴の各砲台は明治32〜35年にそれぞれ竣工)。 旅順要塞はみな掩蓋砲台でコンクリートの天井があってその上に土が厚く被せてあり、地下には巨大な戦闘空間が掘られ地下道でお互いに繋がっていた、日本陸軍が持たない知らない機関銃というもののトーチカが無数にあった、これが近代要塞というモデルのようなもの。28センチ砲でも掩蓋の上に被せた分厚い土砂を吹き飛ばすくらいのことしか出来ない、要塞そのものはかすり傷も負わない。そこを時代遅れのわずかな野砲・山砲、舞鶴要塞にあったのと同じ青銅製のものまで、と銃剣突撃で攻める第三軍の乃木さんもその参謀もあまりにも子供、戦争の大局は理解せず、持ち場の現場すら見ていない幼児であった。10年前の日清戦争では1日で乃木さんらはここを攻略したのであった(清側の半分ほどが逃亡したのだが)、このとき南京の先例のような旅順虐殺事件が起きた、真相は例によってあいまいにされている(市民や捕虜など無差別虐殺、中国発表では死者2万人、本当はその半数ほどでないかと日本ではいわれているが、指揮官は乃木さんもふくめて極めて事態に無頓着であったという)、今回も1日でと期待されたのであったが、今回は違った。10年昔とはぜんぜん違う。 当人たちは専門家のつもりだが、自分で勝手にセンモンカと思い込んでいる者ほど視野の狭い保守的な使い物ならない役立たずはないかも知れない、新たな意外な期待されるような着想を生む意欲も知的な精神的なゆとりや余裕もなく、問題意識も危機意識もない、目の前でバタバタと大量に天に昇っていく姿を見ていても何ともしようともしない、ただ何十年も昔のままのマンネリと惰性だけで動いている、何十年もの遙かな大昔はこうだった、というだけで自分が今のしていることが効果があるのかどうかの点検もしていない、たいしたこともない「専門知識」を杓子定規にあてはめるだけの自己満足の世界。それはできません、これもできません、何もできません。オマエらは素人ではないか、何を言うか、と人の意見には耳もかさない。世界一の要塞を前にテイノウ幼児どもが集まる現場からははるかに後方の愚者のサロンからチンプンカンの指揮するのだから、命令される者たちにとってはここは地獄であった。 ↓槙山はどうだったか知らないが日本国内各地の海岸要塞から取り外してこの28センチ砲を大連に送ると、乃木司令部からは「送ルニ及バズ」と返事があったという。 新兵器の使い方も研究していない、あんなもんは役にたたん。と自分が使えないものだから頭から決めてかかっつている。どちらが役にたたんのか。 ↑旅順攻囲軍の攻城砲(『画報近代百年史3』より) ↑遠距離砲撃用に内地の海岸砲台からはずして運搬した28センチ榴弾砲。写真は王家甸(おうかでん)南西凹地に設置後の試射(10月1日)の情景。最大射程7900メートルで、203高地占領後は旅順港内のロシア艦撃沈に威力を発揮した(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも) 203高地は菅坂峠くらいの位置にあって、ここからは湾内が丸見えであった。海軍はもちろん大本営もここを早く取って湾内の艦艇を砲撃して沈めてくれと28センチ榴弾砲を18門も送り、艦艇から取り外した砲も送る、それで撃てと何度も言うのだが乃木さんたちは知らん顔、ご無用でございます、旅順包囲網線上1メートル当り3名の兵隊がおりますから十分、陸軍には陸軍のやり方がござると返事してくる。 あのなー陸軍も海軍もないだろう、そんなレベルの話か、一日も早く旅順艦隊を沈めないとどちらも亡ぶ、国が亡ぶ。 かくしてここでは6万人死傷者のミゾーユーのレコードがつくられた。 榴弾砲は曲射砲、弾道ミサイルのようなもので、目標との間が山で遮られていても飛び越えて射撃する。メクラ撃ちでは弾のムダ、203高地に観着弾測点を置いて山越えで撃てば旅順艦隊が沈められる。 そんな所を取っても何にもなりませんでしょ、アタシゃ正面から行きますよと、敵のどないにもならない堅塁にバカの一つ覚えの白兵銃剣突撃をくりかえす、見当違いの攻撃ばかりで死傷者はうなぎ登りで、兵舎もカラッポになり、白木の墓標ばかりが延々と増えていく。バルチック艦隊は近づいてくる。たった2つしかなかった最後の予備師団を乃木の元に送るかどうかで大本営はもめた、あんな所へ送ったら最後皆がムダに殺されてしまう、どうかそれだけはこらえてケレ、1師団だけを送るのであったが、乃木の部隊に配属と決まると兵隊の士気は目に見えて落ちた。あんな指揮官の下では犬死にだと口にする兵士もあった。 とても堅塁で落とせません。よし、それならタスキを締めてかかれ。本当は夜戦での敵味方識別のためという。 ↑白襷決死隊 1904年11月26日第2回旅順総攻撃の際各師団より選抜された切込み決死隊で、生還したものは殆どなかった。田山花袋の小説「一兵卒」はこの白襷隊の一兵士をモデルにしたもの。(『画報近代百年史3』より。キャプションも) 各師団から志願、選抜された3100名。命令はまず旅順要塞正面の最強の松樹山要塞を奪い、それから一気に旅順市街に突入せよ。そんなことが出来たら誰が苦労するか。26日はこの日になるとなぜか日本軍が銃剣突撃してくるので、ロシア側も準備を練って待っていた。ヘンなクセ通りに日没とともに出撃、すさまじい探照灯に照らされて前は見えない、砲台前斜面には地雷原があり落とし穴があり鉄条網がある。周囲の要塞からの十字砲火の中をシャニムに進む、攻撃開始1時間で壊滅状態、半数が死傷した、もっとも前面の補助砲台にまでも行け着けず天に昇っていった。相手も気付いているであろう26日なのかと問うと、偶数で割り切れるつまり要塞を割ることができる、と答えたそう。あああ何億人兵隊がいても勝てないわ。 のちには乃木神話が作られていて、そうした国民的神話に配慮してか映画などもそうしたストーリーに作られている、私が書くようなこんな話は信じられない人も多いかと思う、神話好きも結構だが、神話は神話である。現実とは違う空想の昔の世界。では現実はどうかとよく見なければならない。これは本当の話で、児玉という乃木の郷土長州の先輩が(満洲軍総参謀長)ここを代わって攻めた。アっという間に取ってしまった。 どうしても要塞を攻めるなら、要塞攻撃にはその方法がすでに全世界で考案されていてその通りにやればいいのである。まず周囲に攻撃用砲台をつくりガンガン撃つ、そうしておいて要塞の地下へトンネル掘って近づき火薬を詰めて山ごと土台ごと要塞ごと吹き飛ばす−。 白襷隊などは無益な殺生以外の何物でもない、銃剣突撃で落とせるほど甘いものではない。私でも知っているではないか。 乃木は長州、参謀長伊地知は薩州、まだ薩長連合の時代、陸の長州の時代の当人の能力とは関係がない派閥人事であった。そうした人事が生んだ大変に困ったコンビであったといわれる。別に乃木さんがわるいと言っているのではない、彼は命令されて一生懸命にやっているだけ、命令した陸軍が悪いわけで、40年後のその崩壊までたいした改善はなく同様の愚を繰り返した。そうして日本は亡びた。 ↑二〇三高地 旅順口の死命を制する高地として、その攻防に屍山血河の大激戦を演じたところ。攻撃軍司令官乃木大将の詠んだ詩の中に「山形改まる」といわれているのでも想像がつく。1904年11月30日の総攻撃で日本軍は遂にこれを占領した。(『画報近代百年3』より。キャプションも) ↑第一回総攻撃のあと サーチライトの光芒の下に照らしだされたのは累々たるしかばねである。「絵入ロンドン新聞所載」(『画報近代百年史3』より、キャプションも) 「日露戦争:陸戦編」 「203高地-8-」(いかに乃木軍とはいえ敵から丸見えの昼間に突撃したりはすまい、映画らしくかなりマンガチックではあるが、こうして天に昇っていったのだろう) 203高地そのものにはたいした要塞が築かれてはいなかった、そんなに重要とは気が付かなかったロシア側の見落としであった。ビデオにもあるような程度のものしかなかった。その後、日本軍が執拗に攻撃してくるのでその重要性に気づき、艦砲を引き上げて急遽要塞化していた。11月27日、203高地に正面転換して総攻撃開始、12月6日、山頂に日章旗が揚がった。5日から28センチ砲、6インチと4.5インチ艦砲が203高地に着弾観測点を置いて峠越しに湾内の艦艇を砲撃。乃木軍は軍艦は榴弾砲では沈まんでしょ、撃てば相手だって撃ち返してくるでしょ、艦砲は強力、それって大変にヤバイでしょと考えていたようであるが、… ↑炎上する旅順港 203高地占領後、日本軍の28センチ榴弾砲は確実にロシア艦を撃沈した。左が「パラーダ」(のちに「津軽」に)、右が「ポペーダ」(のち「周防」に)。港湾施設に火の手が上がっている。04年12月撮影 ←旅順港で日本軍の砲撃を受けて大破したロシアの巡洋艦「バヤーン」。激戦の末に203高地を奪取した日本軍の第3軍は28センチ榴弾砲で同港を砲撃し、停泊の軍艦の多くが沈み、港湾施設にも大損害を与えた (いずれも朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) バヤーンはこののち戦利品として接収され「阿蘇」となり舞鶴に配備された。 「203高地-18-」 旅順港は狭い、不忍池ほどとかある旅行記にあるそうだが、それほどではないとしても、舞鶴港東西併せて若干プラスしたほどだから、逃げ所がなく、攻撃には弱い。 勇猛をもって知られ日本海軍も恐れたフランス製一等巡洋艦バヤーン、マカロフが愛したバヤーンも沈んだ。この頃はどの軍艦も艦砲を取り外して陸揚げして砲台を作り要塞防衛のため戦っていた、水兵達もみな山に登っていて艦はすでにカラッポだった。 5日は30分で戦艦ポルタワが沈んだ、6日は戦艦レトウィザンとペレスウェートが、7日には戦艦ポベーダ、8日には重巡バヤーンなど、わずかの間に旅順艦隊は全部沈んだ。 全部沈んだか。戦艦「セバストーポリ」の姿が見えない。舞鶴湾でいえば平湾のような場所に隠れていて完全な確認が取れない。何度も水雷攻撃をかけてます、報告ではまず沈んでいると思えますが、それではワシが見に行くといって東郷は自分の目での確認にでかけた。周囲は懸命に止めた。まだ周囲の敵砲台のすべてが沈黙したわけでもなく、機雷もあろう海面であった。はるか後方にいて敵情も見なかった乃木さんとは違った。市民生活の現場も見ようともせずわかったつもりのどこかのクソ政治屋やクソ役人どものような世界一の○○どもとも違っていた。 ツァイスの双眼鏡と肉眼で何度も確認して、よし、と全艦艇を日本へ返して突貫修理をする。バルチック艦隊が迫っていた。まかせろ、工廠の工員たちが燃え上がった、2ヶ月かかる予定が1月でできた。 丹後に縁深い与謝野晶子は「君死にたまうことなかれ…親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや」。 「旅順軍包囲軍にある弟を歎きて」と題したもので 「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦に おほみづからは出でまさぬ かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは 死ぬるを人をほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ」 きびしく突いている。 われらの真下飛泉は「戦いすんで、日が暮れて…」の「戦友」。舞鶴市民の感情としても、舞鶴の文化としても外来の赤レンガボロ倉庫よりも、これらの方がはるかに縁深い、目出度いクソ職員どもでは理解はできまいが、… ↑倒れし戦友を埋める日本軍。 「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下……」この一種の哀調を帯びた軍歌「戦友」は、日露戦争にはじまり、その後永らく人々によって歌われたが、文字どおり真紅の夕陽沈む戦場に、友のなきがらを葬る兵士たちは、思を故国の父母の上に馳せて、涙を流したことであろう。それは日本兵・ロシア兵を問わず、共通した人間の感情でもあったろう。見も知らぬ、何の怨もない人々が、なぜ殺し合い、屍を広野に埋めなければならないのであろうか。平民新聞は、その愚を幾度びか警告したが、戦いは続けられ、鮮血を吸った満州の野には、驚くように真赤な大きな花が咲いたという。それにしても、戦争に当って、宗教家はどのような態度を示したであろうか。十字架を手にして先頭に進むロシアの宣教師、死者を回向する日本の従軍僧など、神を説き仏を教える宗教家も、ほとんどが戦争の遂行に一つの役割を果したのであった。(『画報近代百年史3』より。キャプションも) 後の世のように怒らなかった明治軍人はそれなりに偉い、それなりの正義があったのだろうと思われる。軍人といっても維新の元勲たちも多くいて筋がとおっていて、また彼らの多くは超貧乏人の出であった。私たちも命を懸けてます、あなたちも一生懸命なら道は違えお互い協力できるでしょう。 頭の良すぎるどこかの職員や、エエトコ出の議員その他どもはは「グルメとロマンと文明のかほりの近代化明治の舞鶴」と宣伝する。 深刻なビョーキではなかろうか。病院つぶし病で自分の脳天も潰してしまったのであろうかのお。 戦艦「三笠」はそれでも買うゼニがなかった。貧国の政治家は腹を切る覚悟を決めていた、違憲の予算流用して何とか発注したあと海相と内相は本気で二人で二重橋の上で腹を切ろうと約束していたという。春日・日進のゼニもなかった。石炭も買えなかったが支払いは翌年廻しにしてもらえた。 誠に苦労の連続であったと想われる、が、20対2.5の本気の勝負、はたして勝てるものなのだろうか。 それでもまずムリな話でなかろうか。負ければ暴動が起きよう。革命はロシアでなく、日本で発生したことであろう。日本は何とか勝ったが暴動が発生し東京市には戒厳令が敷かれた。 ↑05年9月5日、「講和反対国民大会」の会場である日比谷公園に続々と集まってきた群衆は、1時過ぎ、警察官の制止を振り切り、正門の丸太の柵を破って公園内に入った。夕方になってから内相官邸正門前で、突入しようとする群衆と防止する警察官との乱闘となった。(朝日クロニクル『20世紀』より) 戒厳令だから兵隊が出動している。敵国の兵隊ではなく、自国の丸腰の納税者が敵になった。自国民と戦う、何のために?誰のために? 勿論支配者どもを守るためだが、基地や兵隊とは、自国の兵隊も外国の兵隊も無論そうだが、実はこんな大きな役割もある。ご宣伝のような敵国に対する「抑止力」ではないようで、自国民に対する「抑止力」のようである。世も末。これが亡国、革命も起きよう。 貧国が10万d原子力空母を何隻も買い、超大国相手に命がけの大戦争をするのだから、国民の負担は超大変。その上に飢饉が発生した。 ↓05年の天候不順で東北地方東・南部は大凶作に見舞われ、同年秋から翌年にかけて大飢饉に見舞われた。食糧に窮した農民は木の根や草、あるいは稲わらを臼でついて食べ飢えをしのぐが、多くの餓死者を出し、農村は疲弊の極に達した。役所や慈善団体が援助物資をもって困窮農家を訪れるが、焼け石に水だった ↑東北の大飢饉で多数の孤児が発生。キリスト教や仏教の団体が中心となって孤児の引き取りに奔走した。各地の施設に引き取られた孤児は約2300人。地元の仙台養育院を始め遠く九州まで運ばれた子供たちもいた。写真は3月、石井十次の岡山孤児院に引き取られる途中、東京の篤志家の家にたどり着いた孤児たち(いずれも朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) ↑自在鉤のほかには、農家らしいものは何一つない。凶年に耐える力のないことは、徳川時代とちっともかわらない。 ↑凶年ともなれば、父は逃亡し、母は日傭取りをして糊口をしのいでいる、極貧の農家である。わずか7歳の子がほんの少しの薪をひろってくる。(『画報近代百年史3』より。キャプションも) 実はこうした農民や労働者など貧者の犠牲の上に作られた大貧乏国強兵策であり、その犠牲の上に軍艦通りや郷土の誇り赤レンガ軍用建物群などがあるわけである。陸軍が勝ったのでも海軍が勝ったのでもなくそのスポンサーである極貧に耐えた国民こそがロシアの帝政に勝ったのだと思う。赤レンガも軍艦通りも実は海軍のものではなかった。もちろんクソ職員どものものではない。彼ら幾千万の怖ろしく貧乏で靴もはけず低品位のアワヒエを喰い、それでもなけなしのカネで税金を払ってくれた貧農や低賃金労働者の勝利であった。これを明治人はよく知っていて忘れなかった、ここが明治人の偉いところかも知れないが、後の時代になるほど堕落してこうした大事な事が忘れられる、国が亡びたのは当たり前の道理であった。どうか同じ愚かな堕落と滅びをどこかの職員さまは繰り返されませぬように、決して過去の物語ではありませんから。 赤レンガ倉庫を見てロマンチックだなぁと単純に感激するのは利口がすぎて大事なもう片面がみえてない、想像もできない世界が笑う××市の職員どもだけではなかろうか。私などはこのボロ農家の方に感激する。これを赤レンガ倉庫の正面に復元保存する方がよほどに舞鶴の誇りとなり有意義であろう。 人の苦労もわからん、想像もできない最低人間どもに大金積んで職員をさせておいて大丈夫なのだろうか。市長さん。とにかく早急に赤レンガ10億円分+これまでの赤字分、市民病院の赤字分の職員あるいは議員を削減してくれ。超ノンキなゼーキン感覚では消費税10%ではもつまい、100%でももつまい。1000%でももつまい。 明治43年の中等農家の収支決算がある。同じく『画報近代百年史3』には、 〈 1町歩の田地を自作する中等農民の収支計算 親1人子2人をもつ夫婦があくせくと働いて1カ年の収入が267円10銭ある。ところがいろいろの税金、肥料、農具、衣食……などと支出を計算していくと合計316円20銭となり、49円10銭の赤字である。中等自作農家ですら、こうだから、それ以下の農民の状態は推して知るべしである。(「東京パック」明治43年2月10日) 〉 今も1町歩で、米だけなら同じらしく、作れば作るだけ赤字。明治以来進歩のない一等国である。 銃後は40年後も同じ様子、この頃から「千人針」があったようである。英語ではThe Safety Girdle よぶそうで、神戸の街角の風景。 ↑小学生の模擬戦 日露両軍に分かれて戦争ゴッコ。いずれも「絵入ロンドン新聞」所載。(『画報近代百年史3』より) 無茶苦茶な戦費。『宮津市史』は、 〈 …日露戦争の戦費は一八億円をこえ、約七億円近くを外債で賄ったほかは増税と国債により、これも庶民に重い負担となってのしかかった。とりわけ国債は、郡・町村を通して各家々に割り当てられて消化されていった。明治三十九年三月には、日露戦争の後始末のために臨時事件公債二億円を募集し、従来と同じく各村への割り当てにより消化が図られた。だが戦争終結後の募集であったことから、上宮津村組長会では割当額九二○○円の半額四六○○円を辞退する旨の請願書を提出している。その理由としては、@村の総地価八万円のうち二万六○○○円が他町村持ちとなっている、A韓国に渡来者が続出している、B三十八年の米作が二割以上の減収であったうえに降雪のため本年の麦作も収穫の減少が見込まれる、以上三点をあげている。上宮津村では奉公義会費二二六円余の各戸への割り当てもやめ、山林の材木を売却してしのいでいる(『上宮津村史』)。民衆の負担は限界に達しつつあったのである。 このように日露戦争は前線の兵士はもちろんのこと、銃後の庶民にも多くの負担を強いた戦争であった。しかし日本の勝利は薄氷を踏むもので、奉天会戦以後日本軍は戦場で指揮する将校や武器弾薬、さらには資金面でも行き詰まり、早急に講和を求めざるを得ない状況にあった。こうして明治三十八年九月五日、樺太の南半分を得たものの賠償金なしの条件でボーッマス条約が結ばれた。その内容に怒った民衆は、同日いわゆる日比谷焼き打ち事件を起こし、軍隊が出動して鎮圧する事態となった。以後講和反対運動は全国に広がっていく。宮津町でも九月六日、三井長右衛門ほか八人の発起により万年座で条約破棄を求める大会を開催し、次のような決議を採択した(『日出新聞』明治38・9・9)。 一現内閣員及有責元老は速に自裁して罪を上下に謝すべし 一現講和条件は極力破棄せんことを努む 決議後直ちに政談演説会に移り、岡野告天子、牧放浪、杉山荘太郎、津原武が講和反対の演説をおこなった。 〉 三井長右衛門さんは天橋立を守った宮津町長の先代かも。 当時のお金を、現在のお金に換算するのは、だいたい10万倍してもらえばよいよう。「日露戦争「勝利」の背景」 各戸割り当て分の226円なら現在なら2500万円程度になるのか。何戸あったかは知らないが、大変な金額になろう。戦争大好きな方はどうか買ってください。 ロシアではこの年の1月「血の日曜日」、12月には「労働者武装蜂起」など革命前夜の様相を呈していた。 ↑戦局の不利とともにロシア民衆ことに労働者の困窮は堪えきれぬものとなった。既に戦争第一年の一九〇四年、国内の不安と動揺はたかまっていたが、旅順陥落と共に明けた一九〇五年には抑えきれぬ段階まで達した。 1905年1月22日(露暦一月九日)僧侶ガポンに率いられた一四万人以上の労働者は、妻子をひきつれ、ツァーの肖像と教会旗を捧げ、雪の降りしきるペテルスブルクの街を皇帝の住む冬宮をさして行進した。 彼らの請願書には次のような悲痛な文字が綴られていた、…私達ペテルスブルク市の労働者、私達の妻、子供、頼り少なき老いたる両親は、正義と保護とを求めて、わが君、陛下の許に参りました。私達は貧窮に打挫かれ、抑圧され、堪えられない労働の重荷を負わされ軽蔑をうけ、人間らしい取扱いは受けていません。私達は専横と暴政のため今にも窒息しそうになっております。私達にとってはこの堪え切れぬ困難を続けるよりも死ぬ方がよいと思われる悲しい時機が到来しました… たしかにロシア民衆は皇帝に哀願することによってその困窮が救われると考えていた。 だが、彼らがナルヴァ門にたどりついたその時、皇帝ニコライ二世はかれらを射撃することを命じた。一瞬ペテルスブルクの雪は血潮でまっかに染められた。労働者は血の教訓を得た。かれらは哀願することで自分たちの権利を獲得し得ないことを理解した。 その日の夕方にはペテルスブルクの労働者地区でバリケードがきずかれはじめた。革命が勃発したのである。(『画報近代百年史3』より、キャプションも) ←オデッサのストライキ オデッサの軍港のドックがもえている。“Fight in the FarEast”所載。 1905年1月22日(露暦1月9日)の血の日曜日はロシア第一革命のきっかけを与えた。労働者の革命的闘争はいっそう激しくなり、かつ政治的な様相を帯びるにいたった。そして農民は、各地に地主に対する反乱にたちあがり、軍港オデッサにゼネストの火があがった。オデッサの近海に碇泊していた黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組水兵はゼネストに呼応して反乱をおこし、司令官の命令を拒否してオデッサに回航し、数日のあいだ、そのマスト高くへんぽんと革命の赤旗をひるがえした。この反乱は、陸海軍での最初の大衆的革命行動であり、ツァー(皇帝)の武力の大きな部隊が革命に参加した最初の事件であった。そして、これは、日露戦争の終結を早め、決定的なものとした。 ↑革命に参加した戦艦ポチョムキン オデッサで労働者のゼネストが進行していた時、黒海艦隊の戦闘艦「ポチョムキン」の水兵は反乱に立ち上り、艦をオデッサに回航し、マストには高々と革命の赤旗をひるがえした。「絵入ロンドン新聞」所載。(いずれも『画報近代百年史3』より、キャプションも) 労働者は社会変革の主力部隊。ここが立ち上がれば皇帝もひっくり返る。その知識と自覚と責任感があるのかどうか。どこかの旧工廠の労働者たちは病院つぶしどもを応援していたようだったが…。市職員さんや労働者諸君さん、帝政を潰すでなく何で病院つぶすんよ。全世界が大笑いしていることだろう。 近代国家に対する幻想が現実に打ち砕かれて社会問題が広範囲に噴出し、国民生活は逼迫して格差と貧困が極度に本格的に広がる。しかし政府も自治体も何も有効な解決策を差し伸べようとはまったくしない。国民生活には目を向けず一つは産業経済基盤を整備して経済力をつけ国力増進させようとする。もう一つは軍事力の増強・侵略の方向をとる。富国強兵策。富国ならまだいいが、実は一般人から見れば貧国強兵策。 どこぞの政党が出任せに言うが、豊かな活力ある国をといっても一般国民ではない、大金持ちのみがという意味であるが、戦勝と同時にとったのが貧国強兵の亡国への道。何かどこかのいつかと似てるなと思われるだろうが、そんな間もなく現代が生まれようとしていた。 八島通り八島通りの真ん中はアーケード街になっている。自称「北都の雄」第一の商店街である。 ↑しめやかな葬列(舞鶴市・大正11年) 軍の制限により、舞鶴でのこのような戸外撮影はきわめて珍しいことであった。現在の八島通りでの光景。 ↑八島通り(舞鶴市・昭和13年頃) 八島市場や各種の商店があり、当時のメーンストリートのひとつとして活気をみせた。八島通り六条から西を見る。 (いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) 戦艦八島は1896年に進水した。 排水量:12.320トン 最大速度:15.25ノット 全長:113.4m 航続距離:7.000海里 全巾:22.5m 機関:13.500馬力 乗員:741名 兵装: 主砲:40口径30.5cm2連装砲2基:4門 副砲:40口径15.2cm単装砲:10門 47m単装砲:24門 45cm水上雷発射管1門 45cm水中魚雷発射管4門 戦艦「初瀬」の所で書いたが、1904年(明治37年)5月15日旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山南東沖10海里を航行中、三番艦で続いていた八島は二度被雷して沈んだ。同じコース上のパトロールを繰り返していたのでそこに機雷を敷設されたわけである。この日限りでこんな危険はヤメというその日にひかかってしまった。このほかこの日の前後のわずかの間に虎の子の7隻の軍艦を失った。二倍以上の強大な敵を前にしたピリピリの東郷艦隊でもやはり人間、こんなことがある。皆の注意が極度の疲労で散漫になる魔の瞬間のアっという間の出来事であった。 戦艦「八島」と戦艦「初瀬」が触雷沈没。軽巡「吉野」衝突沈没、駆逐艦「曙」触雷沈没。通報艦「宮古」触雷沈没。軽巡「龍田」座礁沈没。特務艦「大島」衝突沈没。 「曙通り」「宮古通り」や「初瀬通り」「敷島通り」を通られる時は思い起こして気を引き締められるとよろしいかも。 龍宮橋の通りが「宮古通り」、もう一つ東側が「曙通り」→ 軽巡「吉野」は日清戦争で活躍した優秀艦だけれども、通り名には残っていない。 この1月前に逆に機雷でロシア艦を沈めている。同じコースを通るロシア艦の運動を見た、日本海軍が前夜敷設したばかりの機雷に旅順艦隊の旗艦「ペトロパウロスク」がひかかり真っ二つになって沈み、名将マカロフ提督が戦死した。世界的によく知られた軍事理論家で、秋山真之も愛読した、もし彼が生きていたなら東郷とてヤバすぎる名将であった。 ↓ペテルパウロフスク号の轟沈 1904年4月13日極東艦隊旗艦ペテルパウロフスク号は機雷にふれて轟沈、マカロフ提督も共に戦死した。「絵入ロンドン新聞」所載。(『画報近代百年誌史3』より。キャプションも) 初瀬・八島の虎の子の戦艦を失ったのは機雷であったし、マカロフが死んだのも機雷であった。浮島丸触雷説が舞鶴では支配的だが、というかそれしか言う者もない、というよりこんな分野でもたぶん思考停止の死んだ町なんだろう、では機雷爆発に関する確かな知識があるのかといえば別に何も聞いたことがない。機雷機雷というが、オマエは機雷ってどんな威力があるものか知ってるのかと問うと黙っとってんですわ、よその人はそんな事を言ってよく笑うが、舞鶴とはそんな町のようで、よく人の話を聞いて見聞をよくよく拡げてから言わないと世界が笑う。 『坂の上の雲』を読んでみよう。 〈 戦闘終了の鐘が鳴った。 水兵たちが砲側から離れ、甲板のあちこちで足をのばしはじめた。 マカロフは戦闘指揮所を出たとき、たまたまそこにいた従軍画家のウェレシチャーギンに気づき、陽気に声をかけた。 「うまく写生できましたかね」 というと、画家はスケッチブックから目をあげ、それが提督であることに気づくと、ちょっとはにかみながら両手でスケッチブックをかざしてみせた。写生帳の水平線上に、日本艦隊がえがかれていた。 現実の水平線上にも、日本艦隊がいた。空を幾すじもの煙が染めている。 そのとき天地が裂けたかとおもわれるほどの轟音がおこり、艦底が持ちあがり、甲板が大きくかしぎ、大火柱があがった。すべてが同時だった。マカロフは爆風のために飛ばされ、甲板にたたきつけられた。 マカロフが起きあがったときは、血みどろになっている自分を発見した。かれはすぐさま外套のボタンをはずし、ぬぎすて、さらに靴もぬいだ。この海に馴れた老将は、舷側から海へとびこむつもりであった。かれは重傷にも屈せず舷側へ出ようとした。しかし、甲板が胸突きの坂のようにかしいでしまっていて、うまく歩けない。 そこへ第二の爆発がおこった。かれはすでにのがれがたいことを知り、そのまま両膝をつき、最後の祈祷をする姿勢をとった。 戦艦ペトロパウロウスクが大爆発をおこしてから沈没するまで、わずか一分三十秒ほどでしかなかった。マカロフは艦とともに海底へ没した。このときマカロフと運命をともにした者は、六百三十余人であった。 「信じられない」 と、この光景をみて一様に叫んだのは、この水域のそばにある黄金山砲台の陸兵たちであった。マカロフは所属のちがう陸兵たちにまで評判のいい男だった。 砲台の陸兵たちがみた光景というのは、戦闘を終えていわばしずかに帰港しようとしている旗艦ペトロパウロウスクと、大小十数隻のその艦隊であった。その旗艦が、ロシア側でルチン岩といっている岩礁のそばまできたとき、突如大爆発をおこしたのである。海水が壁のように騰って艦をつつみ、やがて第二の爆発がおこり、艦体は青みがかった黄色の猛煙を噴きはじめ、すぐさま艦首が沈み、艦尾がたかだかとあがって、そのスクリューが非常ないきおいで空中で回転した。とみるまに沈み、あとの海面には煙だけがのこった……。 黄金山砲台の陸兵たちが目撃した沈没の光景というのはそういうものであった。 かれら陸兵はいっせいにひざまずき、脱帽し、右手の指三本をあわせて胸で十字を三度えがくというロシアふうの祈祷をして、かれらが誇りにしていた世界的名将の最期をとむらった。 一方、日本艦隊のほうでも、この光景を遠望していた。 遠景としてみたこの光景は、当然ながら不明瞭であった。ペトロパウロウスクとおぼしい一艦が急に黒煙につつまれ、轟音が水をひびかせつつ日本側にもつたわったが、しかしそのつぎの瞬間には艦影がなかった。 「どうしたのか」 と、幕僚が他の幕僚にきいた。たしかに後尾の巨艦が消滅した。しかしあまりとっさの光景のために、これは錯覚かもしれないとおもい、自信がなかったのである。 幕僚のひとりである真之は、双眼鏡というものをもっていない。この理由はのちに触れるが、かれはそのためにこの光景を見ていなかった。 「未確認なるも、敵一艦沈没せるもののごとし」 といったふうの報告を大本営にむかって幕僚たちが発しょうとしたとき、東郷が双眼鏡をおろし、「沈没した。旗艦ペトロパウロウスクじゃ」と、明瞭にいった。かれの高性能の双眼鏡だけがこの光景を確認できたのである。 〉 機雷とはこんなに威力あるものである。いかなる巨弾も及ばない。戦艦ですらアっという間に沈み、並の水兵以上に敏捷だったマカロフでも逃げられない。浮島丸がもし機雷ならあの程度の爆発だっただろうか。 旅順口外の偶発の小戦闘にマカロフが出て来たもので、このときばかりは掃海ができていなかった。 明日は我が身、同じ手で自軍が逆にやられるかも、東郷も旅順パトロールに2交代で出ていたので、順番が一日ずれていたなら、三笠が沈み、東郷も戦死していたことになったかも。 それも忘れてしまうほどに戦いが連続して、心に大きな死角ができていたと思われる。 同じく『坂の上の雲』 〈 この日の出番は、東郷の代理として海軍少将梨羽時起が初瀬に座乗し、敷島と八島をひきい、さらに巡洋艦、駆逐艦以下をひきつれて定期パトロールに出た。 「×地点(老鉄山付近)」 というのが、港口の外洋にもうけられていてこのパトロール艦隊はそこまで行ってぐるりと反転しもどってくる。この×地点をきょうかぎりで廃止しょうという日が、この五月十五日であった。 初瀬は一五二四〇トン、一八ノットの世界的な戦艦である。以下敷島、八島の順ですすみ夜が明けきったころ旅順にちかいあたりに達した。すでに夜来の濃霧もはれ、遠望も十分きいている。 「なんの心配もせず、平気でわれわれはすすんでゆく」 と、このとき敷島の艦長だった寺垣猪三という大佐が、のち中将になってから当時を回顧している。このあたりは水深もふかく、しかも旅順から南へ十一海里の地点で敵の砲台の射程からはるかに遠い。 ところで午前十一時前、敷島の前方にあたって海をゆるがすような大爆発がおこり寺垣大佐がそのほうをみると、初瀬の艫のあたりに大きな煙の渦が巻きのぼっているのがみえ、やがて艫から沈みはじめた。 あとでわかったところでは、初瀬は艦の尻が触雷して舵機をこわされた。そのあとすぐ別な機雷に触れ、こんどは火薬庫が爆発し、破片を天に四散させつつ一分十秒で沈没してしまった。戦死者は四百九十三人である。 戦艦八島(一二五一四トン)が後続している。八島は初瀬を救おうとするうち、これまた触雷し、大爆発とともに艦底をやぶられ、付近の岩礁にやっと乗りあげたが、ほどなく沈んだ。乗組員は全員救助された。 〉 富士通り富士は案内プレートがないようで写せないが、「八島」と同型艦、二姉妹艦である。 ↓戦艦「富士」(朝日クロニクル『20世紀』より) ↓富士通り(京都府舞鶴市浜) 本当は日清戦争の清の主力戦艦「定遠」「鎮遠」(7400トン・30センチ砲×4門。14インチ鋼装砲塔・12インチ舷側鋼帯)に対するためにイギリスで建艦されたものだが、日清戦争には一ヵ年、まに合わなかった戦艦であった。 当時の日本海軍には定遠・鎮遠をブチヌク大砲はなかった。定遠の半分の口径砲しかなかった。 急いで建艦されたのが三景艦と呼ばれる「松島」「厳島」「橋立」であった。これらの艦名の通りがある。 「松島通り」「厳島通り」「橋立通り」→ 松島橋の通りが「松島通り」、一つ東が「橋立通り」、一つ西が「厳島通り」。 これらを「三景通り」と呼ぶようだが、「三景艦通り」ではなかろうか。またいつか書いてみようか。 三景艦は定遠の30センチに対して32.5センチ砲を1門だけ積んだ4000トンの速力は定遠以上の艦であった。 今の自衛隊の中ごろの大きさの船に32.5センチ砲を1門だけ積んだようなものだからバランスが超わるい。いかにもビンボー国らしいビンボーたらしい船であるが、真正面向けていればいいが右や左を向けると艦全体が傾く。重量物を甲板上を移動させて水平を出して、出ないので水平に撃つにも仰角を付ける。ドカンと撃つと反動のショックで船の機関は故障する、進路は変わる。並大抵の苦労では発射できない代物であった。1発撃つにもどれだけ時間がかかることやら。定遠鎮遠相手に実際に撃ったのかといえば0〜2発は撃ってるが、当たるわけはなかった。 もうちいとらしい船がほしい、定遠鎮遠と正面から戦える船がほしいと建艦されたのが、「富士」「八島」であった。こいつならバンバンもったいないような戦艦であった、のちの日露戦争に役立った。 海岸通り富士通りのも一つ海側に「海岸通り」がある。今の「潮路通り」である。名の通りの海岸であった。↓海岸に沿う道路がそれである。五条桟橋も見える。 右の通りを手前に来て、寺川に架かる橋が「海軍橋」(今の夕潮橋)。この橋の下の泥の中にはゴカイがたくさんいて、魚釣りのエサに採りに行ったもの。 ↑寺川河口左岸の六島付近には、明治34年の舞鶴鎮守府開庁以来、舞鶴防備隊が昭和10年代まであったが移転。その後、同地は舞鶴鎮守府の経理部や施設部などが使用した。昭和30年代後半ごろは、上の写真の向かって右の建物を近畿財務局舞鶴出張所が、その左の建物を第八管区海上保安本部が使用していた。海軍橋は昭和7年、旧海軍が鉄筋コンクリート橋として完成させたが、昭和40年に架け替えられた。同時に橋名も「夕潮橋」に改められ、橋の架かる臨港線を「潮路通り」と呼ぶようになった。 寺川河口右岸と二条通り、そして富士通りに囲まれた一角には、戦前から戦中にかけて海軍関係の施設があった。また現在の防衛庁共済組合の地には、海軍准士官の社交機関だった舞鶴海友社があった。その西隣りの写真の位置は、海軍機関学校甲号官舎と海軍爆薬部官舎があったが、現在は大蔵省近畿財務局舞鶴出張所が建っている。そして、海友社と官舎の北側の広大な土地には、舞鶴下士卒集会所があり、多くの海軍の若者が集った。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) ↑下士官兵の修養娯楽施設 舞鶴海軍下士卒集会所は、明治三十六年、北吸の軍港構内に設置されたが、大正二年、浜の二条通り富士北に新築移転。海軍下士官の修養娯楽施設で、館内には、事務室や応接室、遊戯室、展覧室、理髪室などがあった。外には、奨武館という大道場があり、撃剣、柔道、相撲などの練習場として使用された。 広大な敷地のなかでは、春には桜が咲き乱れ、海軍軍楽隊の演奏が市民に披露され、大変親しまれた。現在その跡地は、舞鶴勤労者福祉センターや海上保安学校修練館、東乳児保育所、NHK舞鶴ラジオ中継放送所などとして利用されている。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも) 巡洋艦「日進」・「春日」↓日清戦争後、日本はイギリスに戦艦6隻の建造を注文するなど、海軍拡充にやっきとなっていた。日露対決を間近にした1903(明治36)年末には、イタリア・ジェノバの造船所でアルゼンチン海軍のために竣工直前だった巡洋艦2隻を急遽購入した。写真はジェノバ港外で儀装中の2艦で左が「日進」、右が「春日」。1本マストのほぼ同型艦で、一等巡洋艦に登録された。排水量7700トン、全長約105メートル、速力20ノット。なお「日進」には若いころの山本五十六元帥(当時少尉候補生)も乗艦し、日本海海戦で戦傷を負う(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも) 黄海海戦や日本海海戦で、初瀬・八島が欠けたあとを埋めるのが、重巡「日進」と「春日」であった。明治35年に軍都舞鶴の通り名を命名した時にはまだなかった船である。イタリアで造船中のアルゼンチンの重巡「リバタビア」と「モレノ」であったが、イギリスの情報で知りロシアと競り合って大金を積み明治36年暮れも押し詰まってようやく購入したものである。ともに優秀艦で、「日進」は舞鶴に配属された。 市史は、 〈 巡洋艦 日進 明治三十七年一月イタリアでしゅん工。排水量七、七○○トン、機関出力一万五、○○○馬力、速力二○ノット、一○インチ砲と八インチ砲、発射管四門を備え、その主砲の射程は二○キロメートルに達する性能をもつ主力艦に準ずる一等巡洋艦であった。同年舞鶴軍港に配属された。 日進は同型巡洋艦春日と共にアルゼンチン国軍艦として建造されたものを、日本が日露開戦に備えて急拠購入したものであった。黄海海戦や日本海海戦において目覚ましい活躍をしたことは有名である。 〉 艦隊一の長射程主砲を持っていた。外洋から山越えに旅順湾内が撃てた。 日本海海戦では若き日の山本五十六がこの日進に乗っていた、「テッポウ撃ち」をしていたそうで、この海戦で指を飛ばしてしまったという。 ↓「日進」「春日」が横須賀へ2月16日、イギリスの仲介でアルゼンチンから譲渡を受けた新巡洋艦「日進」と「春日」が、建造地イタリアのジェノバから長期航海をして横須賀へ入港。10日の対露宣戦の直後だけに、入港してきた両艦を官民あげて大歓迎。このあと両艦は呉に向かった。写真は3月14日、江田島に仮泊中の「春日」(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも) ↓天橋立の磯清水の近くにこんな大砲が1門、砲身だけ置かれている。「軍艦春日」のものと説明板にある。この巡洋艦春日と思われる。6インチ速射砲である、春日には14門あったがその1つと思われる。上の方の射撃訓練をしている砲も6インチ砲。 こうした小口径砲は日本海軍が得意としたものであった、大口径の数はロシア軍に劣るが小口径は上回っていた、これで敵艦を撃つには接近戦をしなければならなかった、4000メートルくらいに近づかないと命中率は上がらず有効ではなかった、この小砲の有効射程内まで接近して撃ち合えば、日本側有利の計算がされていた、常識を打ち破った接近戦が戦われた、6インチは日本を救った砲であった。 ロシア人も橋立観光に訪れるのでそうは書かれていないのか、これがバルチック艦隊を撃った6インチ砲↓ 秋山真之でしょう、砲弾は下瀬火薬…などと司馬遼太郎で読んだと女性でもけっこうご存じの様子。 津軽や宗谷海峡にバルチック艦隊が迂回するかも知れない、それに備えて各艦船は甲板にまで人の背以上に石炭満載で待機していた。 しかし予想した通りに対馬に来てくれた。大喜びで、超高価な英国インポートの無煙炭を惜しげもなく海中へ投げ捨てて、甲板を海水で洗い掃除し消毒し、砲塔の廻りには血糊で滑ることないように砂を撒き、総員が風呂に入り、ま新しい戦闘服に着替えて海戦に急ぐ。 さあいよいよ天下分目の関ヶ原。奇しくもこれを書いている今日はその105年のちの同じ日である。 関ヶ原や徳川家康や細川幽斎などは世界の誰も知らないし興味もないどうでもいいローカル史ものだろうが、日本海海戦やトーゴーは世界史ものでよく知られ研究されている。 東郷は明治34(1901)年に新設の舞鶴鎮守府の初代長官であった。舞鎮長官は閑職で次は予備役だろうとうわされていたが、明治36年連合艦隊司令長官に抜擢任命された。訝る明治天皇に日本海軍育ての親であった山本権兵衛は「東郷は若い時から運のいい男ですから」と答えたそうである。まあ運も実力のうち、名将は敵将よりも必ず運がよくなければならない。ギリギリの勝負ではそうだと思われる。東郷がいたころの舞鶴は確かに運がよかったかも知れない。ウンも実力のうち、ツキも実力のうち、こうしたときは必ずついてるやつにやらせる、が正解かも知れない。 とっくの昔にあるじすでになしだが、人気がある東郷邸↓ →与保呂小学校正門(すぐ隣に村役場があった)の斜め向い側に立つ忠魂碑。「海軍大将東郷平八郎」と書かれている。共楽公園と四面山の忠魂碑も「海軍大将東郷平八郎」の揮毫になる。61名かのこの村の戦死者の名が彫られていた、10インチ砲弾のよう、直径約25センチ、長さ約80センチある。戦艦主砲と重巡主砲の中間サイズ、日進・春日の主砲クラスである、信管がないので実弾ではなさそう。 靖国神社の当村末社のようなもので、A級戦犯などは合祀されてはいない様子、英霊に感謝の誠を捧げるとか本気で言っているのなら、こうした所へ詣でればいいのだが、そんなことはゼッタイにしないし、市民でもそう詣でる人はないよう。まぁこうした物が二度と立てられることなきよう、詣でることが繰り返されることなきよう努力し務めるのが戦後に生きる政治屋はもちろんだが、我らの責務である。詣でて文句あるかなどとバカボン丸出しの逆ギレして周辺諸国との平和構築にために逆のことしかしないようなふざけたことでは詣でる資格はない。 『中舞鶴校百年誌』(昭51)は、 〈 古老の回想と新聞の報道 古老(川井馬蔵氏明35卒)のお話によると、入学時の明治31年には今の郵便局の横にあって、屋根に大鼓堂のある校舎で授業の始まるのを、この大鼓をドンドン叩いて知らせたとのことである。(その後写真43のように鐘に変り、現在はチャイム) (注・椙山志香さん、坂本さよさんの記憶によると、余部小学校には大鼓堂はなく、小使いさんが「りん」を振って合図したそうであるから、川井氏の思い違いで、これは坂本さよさんが西の明倫小学校の高等科へ通学していたころ相生橋のあたりまで大鼓が聞えてきて慌てて走ったが遅刻したとの思い出話から想像すると、川井氏は初年も昔のこととて明倫校と混同されているとも考えられるが確かなあかしはない) 学校の前には余部下の田んぼの中を流れている小川が今のように港内に注いでいた。自分はこの学校へ通うために自宅(和田)から山道坂や峠を越して北舎上(現在の中保育所)へおり、それから南通りの山裾を通って下二丁目付近から田んぼへ出て通学した。 軍港工事や市街計画工事が進むにつれ、校舎も狭くなったので明治34年4月新築落成した木の香新らしい学校(前記中保育所位置)に移転した。丁度その年の10月1日舞鶴鎮守府が開庁になり、初代司令長官東郷平八郎中将が慥か軍艦吉野に乗って赴任せられた際3、4年の生徒(このころ余部小学校は尋常科のみで修業年限は4ケ年)が長浜海岸から大きなはしけ舟に乗って戸島付近まで出迎え、坂根益吉校長の発声で司令長官万歳を三唱したことは忘れられない思い出のひとつと述懐されている。 東郷中将は家族と共に写真44の長官々舎(現総監部会議所)に約二年近く在住されたので、長女八千代さんは明治34年本校4年生に転入、翌35年3月に尋常小学を出られた。(写真45)八千代さんは4年生の男女の中で一番背も高く体格のよいお派なお嬢さんであったとの、前記川井氏の追憶のとおり卒業写真にその面影が窺えるし、また身にまとう晴着には一般庶民の手のとどかない上流社会の豪華さが偲ばれ、まるではき溜に鶴の感じを村人にただよわせたであろうと想像されるのである。 〉 舞鶴鎮守府長官から抜擢されて、連合艦隊がいる佐世保へ向かった。この時は55歳と思うがヨボヨボのジイさんであったという。東郷は世界史上の名提督となったが、この当時は明治海軍の中でも最も名声のない人物であったという。 『坂の上の雲』は、 〈 東郷は終生、自分の賢愚をさえそとにあらわしたことがないというふしぎな人物であった。東郷は賢将かということについては、かれの辞令が公表されたとき、連合艦隊の基地佐世保でも話題になった。ほとんどの士官が東郷を無能ではなくとも、凡将であるとおもっていた。 真之の兵学校いらいの親友である森山慶三郎は、東郷の名前を佐世保できいたとき、 「東郷さんといえばその存在さえ現場の士官たちのあいだではおぼろげで、まして能力がわからない。われわれ士官仲間では、そろそろいくさがはじまるというのに、こんな薄ぼけた長官が来ちゃ海軍もだめだ、おそらく薩摩人だから選抜をうけたのだろう、何にしてもこまったものだ、と評判した」と、後年、ある座談会で語っている。 東郷が汽車で佐世保へつくというので、森山慶三郎少佐は、少将梨羽時起、それに三笠の艦長伊地知彦次郎大佐のたった三人で迎えに行った。 「本来なら艦隊の兵員が整列し、軍楽隊の吹奏入りで迎えるべきところかもしれないが、じつにさびしい出迎えであった。このときはじめて私は東郷さんを見たのだが」と、森山はいう。 小柄な爺さんというだけの感じで、とても大艦隊の総大将という威容はない。 「停車場の前が埋立地になっていて、地面がでこぼこし、水溜りもある。東郷さんはその埋立地をヨボヨボ下をむいて歩くのだから、いよいよこの人はだめだとおもった」 しかし東郷が艦隊に着任してしばらくするとその人格的威力が水兵のはしばしにまで浸みとおって、なにやらふしぎな人だとおもうようになった、と森山は語っている。 〉 下の絵↓とかテレビや映画では東郷さんはカッコよろしいが、それらあくまでもデフォルメどぎつい理想の英雄像であり、はっきり言えばウソである。わずかに残されている当時の映像動画などみてみれば真実の東郷はもっともっとジイさんぽい、威厳も何もない、そこらのジイさんである。猫背ぎみでヨボヨボの、オイオイジイさん大丈夫か、杖がいるのでないか、貸そうかといいたくなる感じが強い。強そうなのはゼンゼンたいしたことなく、意外にもこうした人物がヤルもんだということはあるが、ホンマにこの人がバルチック艦隊を全滅させたのか、マグレの勝利でないかと、まことに失礼ながら信じがたい気になってくる。あくまでも外見上のハナシ、内面のジイさんはそこらにクサルほども見られが、あんなものではなかった。 バルチック艦隊のロ提督は皇帝のお気に入りで、宮廷の世渡りがうまく、宴会でカッコよく強そうなことばかりを言っていた口先だけのつまらぬ人物、捕虜になってからは「メシがまずい、ウマイ物をくわせろ」とばかり言っていたという。どこの国でも事の重大さが理解もできないドつまらぬ者が言うことは同じである。あとはアツイサムイと言うだけであろう。 ↓1905(明治38)年5月27日午後2時4分の旗艦「三笠」の艦上。前方にいるロシア艦を見据えるのは東郷平八郎司令長官。長官から左へ加藤友三郎参謀長、安保清種砲術長、伊知地彦次郎艦長。その左で双眼鏡を眼に当てているのは今村信次郎少尉、中腰になって艦の位置を調べるのは布目満造航海長、階段を上ってくるのは飯田久恒参謀、海図を見ているのは枝原百合一少尉。中央後方で測距儀を窺うのは長谷川清少尉、長官の右で戦況を写すのは秋山真之参謀、右端で伝声管についているのは玉木信助少尉候補生。左上方に四色の彩旗「皇国の興廃此一戦に在り各員一層奮励努力せよ」を表すZ信号旗が掲げられている。2時4分、左舷転舵の命令が下る寸前の緊張した場面である(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)。 東城鉦太郎画。関東大震災で焼失した。三笠保存会に現存のものは再描されたものという。 トォォォォリカァァァジィィィ一杯。東郷は右手を大きくあげて左へ半円を描く、世界海戦史上超有名な「トーゴー・ターン」敵前大回頭の直前の様子のよう。 左16点遂次回頭が始まる(16点回頭は180度回頭のこと。遂次というのは先の艦が回頭した位置まで進んでそこで回頭すること)。 ↓Z旗が上がったのは午後1時55分。上下はこれでいいのかわからないが、この旗旒信号の意味は、 皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ。 たぶん秋山文学だと思われる。何か大芝居がかっているが、この場合は面白い。その後の海戦ではこんなものはないと思う。これは各員に伝声管を通じて伝えられた。 ↑この絵では連合艦隊はこちらへ向けて進んでいる。バルチック艦隊は右側手前にいて向こうへ向けて進んでいる。彼我の距離7000メートル、ほどなく5000メートル台、敵の射程内での敵前大回頭がはじまる。回頭中はこちらからは撃てない、撃てないことはないが撃っても当たるわけがない。一方敵からはこんなにありがたいことはない、距離がわかっていて同じ位置へ次々と艦がやってくるのだから、ただドンドン撃てばいい。こんなところで二直角に廻すか、世界海戦戦術の常識を打ち破っていた。回頭が早過ぎれば背後から撃たれるかっこうになるし、遅いと追撃戦となり、逃してしまう確率が高まる。 東郷は海戦40年の生涯がある、当時世界一の実戦経験者であった。肉を切らせて骨を切る。勝負のカンが冴える。艦橋に立てば今とるべき最も重要な戦術がにおいでわかるのだろう。 砲の命中率を上げるため、日本艦隊はいつも風上にいる。風上有利で、「風上を取る」は戦況を牛耳ることとなる。この絵のZ旗と煙の方向はおかしい。あるいはこの時点ではまだ風下にいたのかも… ↓日本海海戦05年5月27日午後2時10分ごろ、遠来のバルチック艦隊の攻撃を受けながら敵前回頭し、砲撃を開始した連合艦隊。左より先頭の「三笠」「敷島」「富士」「朝日」「春日」「日進」と続いている。とくに旗艦の「三笠」は集中攻撃を受けた(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)。同画伯のもの。 バルチック艦隊は東郷艦隊の向う側下手にいることになる。ウラジオへ逃さないようバルチック艦隊の頭を常におさえる。三笠・敷島・富士・朝日・春日・日進、その後に6隻の巡洋艦隊が続く伝統の単縦陣、瀬戸内水軍に学んだ「長蛇の陣」。 出雲・吾妻・常磐・八雲・浅間・磐手と続くが白糸中学から海まで続く南北の通り名となって残る。 夕張か舞鶴かと、100年後のご立派がすぎる舞鶴市長や議員や官僚どもによって世界的に有名すぎるほどに有名になってしまった「舞鶴市民病院」の正門前の通りが旗艦「出雲」の出雲通り、西へ磐手通り、吾妻通り。ずっと東へ飛びはなれて寺川東沿いに八雲通り。なぜ常磐・浅間の通りがないのか不明。吾妻は舞鶴籍で舞鶴軍港の象徴のような艦であった。 バルチック艦隊は針路に機雷をまかれたと思い隊列が乱れてダンゴになっていた。下の図にもあるが、戦艦隊が2列縦隊になっている、こんなことになれば、戦力は半減してしまう。ラインダンスのように一糸乱れぬ艦隊運動ができるのは当時はイギリス艦隊と日本艦隊のみでロシア艦隊は得意ではなかったという。 先頭の「三笠」としんがりの「日進」は舞鶴籍であるが、この2艦に敵弾は集中した。 しんがり艦は艦隊が16点一斉回頭すれば、こちらが先頭になる艦で、指令官が乗っている重要な艦、敵がねらってくるのは当たり前。先頭艦は旗艦、フラッグシップ、指令長官が乗っている。 テレビでもあるらしいが『坂の上の雲』は、(海戦図も) 〈 六番艦の日進の状況もすさまじかった。 この艦は殿艦だったために、三笠に次ぐほどの砲弾量を浴びた。 開戦三十分後に十二インチ砲弾が飛んできて、前部主砲の砲塔に命中したのである。このため右側の砲身は吹っ飛んで海中に落ち、弾片が四方に散ってその一部は艦橋にいた参謀松井健吉中佐の胴から下をうぼって即死させ、さらに鉄片群は上甲板、中甲板、下甲板を襲い、十七人を死傷させた。 そのあとさらに九インチ砲弾が、すでに廃墟になっている前部主砲の砲塔に落下して大爆発し、その破片は司令塔のなかに飛びこみ、司令官三須宗太郎中将や航海長を負傷させた。さらに当時高野といった山本五十六候補生など約九十名も血みどろになった。この砕かれた前部主砲砲塔はまるで磁気をもっているようにしばしば敵の砲弾をひきよせた。三たび砲弾が襲った。三度日は十二インチ砲弾であった。砲弾は、残っていた左側の砲身をこなごなに砕いた。 また六インチ砲弾が、大檣に命中した。 このとき、日進の大檣にのぼっていて弾着の観測をしていたのが、中島文弥という声の大きい三等兵曹だった。かれは落ちないように体をマストに縛りつけ、上桁に腰をおろして元気のいい声で弾着を報じていたが、このときの命中弾で右脚を付け根から持ち去られ、そのため体中の血がその大きな傷口を筒口にして艦上へ降りそそぐというかっこうになった。中島はマスト上にはりつけになったようなかたちで絶命した。 春日、日進というのは、つらい軍艦であった。 この二隻はわずか七七〇〇トンの装甲巡洋艦であるのに、三笠以下の戦艦の戦隊(第一戦隊)に編入されていた。昨年、旅順沖で機雷のために沈んだ二隻の戦艦(初瀬、八島)の身代わりとして編入されたことはすでにのべた。 戦艦は主砲が大きく、装甲が厚い。この攻撃力と防御力を基礎にして戦艦の戦隊の戦術運動ができあがっているのだが、戦艦からみれば小児のような春日と日進が、大人なみの運動にくっついてゆかねばならないのである。ただその主砲は十インチと八インチ砲ながら仰角が大きく、一万五千メートルという長大な射程をもっていた。さらにこの両艦は副砲を片舷に六門ももっていたために戦艦の代用がつとまると判断されたのである。 〉 「日本海海戦:その時歴史が動いた」 「日露戦争:海戦編」 もっとも敵はもっともっと苦しかったのである。この十倍は苦しかった。 舞鶴も意外とウンのいい町で、ボカスカに撃たれる町なのかもしれないが、それらも知ろうともしないのは舞鶴のスコーン人だけかも。 もうちいと書けや、と言われているようにも感じる、私は何も軍国主義者ではないが、舞鶴にはこれも忘れてはならぬ大事な歴史の一面、あともう少し追加していこうと思っている。 ↑当時のものといえば、こんな物が舞鶴には残されている。「明治27(1894)年日清戦役で威海衛に於いて敵弾を数十箇所受けた水雷艇の砲の外板の一部」と説明にある。余部上の若宮八幡神社境内。威海衛の夜間水雷戦。 あんなとこ二度と行くかと市民にも観光客様にも大変に不人気の「赤レンガ博物館」なるものは、元はこの水雷倉庫であった。 のんき過ぎる官僚どもの皮算用通りに人が来るのかどうかの何の点検もないままにまた10億円をムダにするという。次は取り上げてみようかと考えている。 関連情報「日清戦争時代の軍艦名を冠した通り名」「舞鶴要塞」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 『大海軍を想う』『海の史劇』『坂の上の雲』 その他たくさん |
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