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この池はずいぶんと人里離れた山奥深くにあるために、地元の人でも容易に行ける所ではなく、本当にこの池を見たことがある人は地元城屋の村でも多くはないという。 さらに戦後の都市化の流れのなかで村人ですら山へ行くことが少なくなってきたようで、若い世代になればなるほどほぼ全員がそんな池は知らないと言われる。 若い世代というのか私のような定年間近の世代がすでにそうで、子供の頃に連れっていってもらった記憶があるが50年も昔の事、その正確な場所はよくわからん、といった情けない話になる。 では山の地理に明るい年寄りに案内してもらおうと言えば、彼らには険しい山へ分け入れるほどの体力はもうないのである。 それでは詳しい年寄りにだいたいの場所を聞いて、とりかくそのあたりへ行って探してみようという話になった。 坂根氏は地べたから3回この地へ足を運び、ヘリコプターで空からも2回近づいている。その分厚い記録を「ホームページにちょっと書いといて」と、託されたので、ここにちょっと紹介してみようと思う。(文中の写真はすべて坂根正喜氏のもの)(ご当人が写っているものは堀田信行氏のものだそうである。) 「揚松明神事の伝説」 「城屋の揚松明」
平成18年3月7日、前段階として池の手前にあるという「滝」の探索から始まった。 「滝」と呼ばれているだけで、名はない。「幻の滝」とも呼ばれる。奥城屋日浦谷の池ヶ谷という所である。 これは『舞鶴市民新聞』(060314)のトップ記事。 5メートルの「幻の滝」写真に収める 城屋の山中、大蛇退治伝説の舞台近く 夏の夜の奇祭「揚松明」ゆかりの 夏の夜の奇祭で知られる「揚松明」が行われる城屋で、祭りに結びついたとされる大蛇退治の伝説の舞台の「蛇ケ池」近くの山中に、約五メートルの高さの滝があることが分かり、探索した地元の人が写真撮影をした。城屋でもごく一部の人しか見たことがなく、「幻の滝」とされてきた。 滝を見たことがある地元の堀田信行さんの案内で、七日、坂根正喜さんらが綾部との市境近くの蛇ケ池と滝の探索に出かけた。車で府道物部西舞鶴線の奥城屋の突き当たりまで行き、そこから徒歩で人が入らない山道を木を払いながら進み、池ケ池と呼ばれる場所に到着。 さらに奥の蛇ケ池を目指し歩くと、「ゴウゴウ」と流れ落ちる水音が聞こえてきた。歩き始めて約二時間かけて目的の滝を見つけた。市内の滝では真倉の不動の滝が知られるが、「それよりも高いかもしれない」という。坂根さんがカメラで撮影した。 城屋に伝わる伝説では、弘治二年(一五五六)、女布に住む一色家の家臣森脇宗坡の娘が、隣村の志賀郷(綾部市)に嫁いでいたが、登尾峠を越えて里帰りの途中、蛇ケ池に棲む大蛇に襲われ命を落とした。その大蛇の頭部が城屋の雨引神社に祀られ、神社の祭礼として毎年八月十四日に揚松明が奉納されている。 〉 この滝の地は丹後・丹波国境にすぐ近い山の中、高度はたぶん250メートルである。 国土地理院の地図「梅迫」の登尾峠頂上の東側500メートルに390メートル峰があるが、その山頂のちょうど北側である。 雨引神社の社前を流れる 「二ノ谷」「一ノ谷」と進み「池ヶ谷」へ着く。 それがこの滝のある谷である。本谷から脇にそれて池ヶ谷へ200メートルばかり入るとこの滝がある。 登尾峠は谷を行かずに尾根筋を行くのだが、その道から見ると城屋の方から登り左手(東側)の谷中にある。 上の写真は城屋側から見た国境の山々の空撮である。高野川の源流の深い谷を登り、道無き道を倒れた木を無数に超え、くぐり、川を4度渡り、1時間ばかり歩いたり転げたりすると池ヶ谷の入り口につく。 上の写真よりさらに近づき、池ケ谷をとらえる。 どちらかといえば小さな谷である。ドンおくより二つ手前の谷になる。 季節遅れの黄砂のひどい日に飛んだそうで、どうももうひとつ写真がシャンとしない、どう修正してもよくならないが、その砂のためか、あるいは私のウデの悪さのためである。
滝の上流に蛇ヶ池はあるという、だから池ヶ谷と呼ばれるのだが、滝から先の池ヶ谷は川に沿って歩いて登れそうにもない障害物だらけの谷である。 作戦を変えて右手の尾根筋を行く。もちろん道はない。尾根筋を一気に丹後丹波国境の尾根まで登り、そこから逆に池ヶ谷に下る。 左写真はその池ヶ谷の谷筋を空撮したもの。 幻の滝は画面の下になりここでは見えない。 どなたが書かれたのかこの時の紀行文があるので引かせていただく。 〈 蛇ヶ池紀行 (文中敬称略) 2006年4月17日、田圃の作業が本格的に始まる前に、何とか一度「蛇ケ池」を尋ねてみたいと急遽話が決まり、堀田信行の道案内で、坂根正喜、片倉利彦の三人で「蛇ヶ池」跡を尋ねる事になった。堀田信行は子供の頃と、昨年夏と二度に亘って「蛇ヶ池」跡を訪れているが、ここが「蛇ヶ池」跡に間違いないとは云い切れない、とやや不安も無いではなかったが、坂根正喜の運転する車で十二時に石燈龍(口城屋の雨引神社参道にある)を出発する事になった。 日浦(奥城屋から南へ向けて入る谷。日浦石と呼ばれる名石が出る)の山道に入ると、枯れ木や石が車の底に大きな音を発てて次々とあたる。 「第二駒ノ爪橋」「奥ノ院」入り口、「第一駒ノ爪橋」を過ぎ車は山道をどんどん進む。昭和三十二年に出来た堰堤の少し手前の邪魔にならない所に車を止め、三月七日にも「池ケ谷」の瀧を訪れているので装備は万全、本谷へ入り四回川を横切らないといけないので、長靴は山を訪ねるのに離せない。 造林公社の造った山道を一路川上へと向かった。道は土と小石が混じった、専門的には呼び名も解らないがどんどん進む、綺麗な流れと山葵の群生を見ながら、崩れ掛けて細くなり人が通るのがやっとの所や、木が既に腐り極めて危険な所や、川を渡る時は流れても良いから、付近の木で「丸木橋」でも掛ければと文句を云いながら、「二ノ谷」「一ノ谷」と進み、やっと「池ケ谷」の所まで辿り着き一息入れる。ここまで車を降りてから丁度一時間、この上に名も無い「瀧」と、更に上流には未だ見た事も無い「蛇ケ池」跡が在るはず。 これからは「池ケ谷」を川に沿って這い登らず、右側の杉の植林の中の葛折を途中まで登り、山の尾根に出て、尾根を更に上へと登。冬枯れの木の間から「蛇ケ池」跡の杉の天辺が見え隠れする。左下にはテラス状の平な広い所が見える。そのテラス状の少し上から道の無いところを左へととっていく。 冬枯れでほんの一部しか緑の新芽が出ていない、ブッシュを掻き分け山肌を横切りながら、下へと降りて行く。見え隠れしていた杉の木立がだんだん大きくなっていく。冬枯れの木の間から見ると、杉の向こうに水溜りか雪の残りのような白い物が見える。次第に杉に近づき杉の大きさに驚き、杉の向こうに見えた白い塊は、何と水溜りである事が確認できた。… 〉
「幻の滝」とこの大杉=「蛇ヶ池の巨木」と呼ばれる杉の木が目印となっている。その下手に白く光るのが伝説の蛇ヶ池である。 大杉は胸高の周囲385センチ、高さは人との比較から約40メートルであるという。 樹齢にして300年くらいだろうかと思う。さて先の紀行文をもう少し引かせていただくと。 〈 …「蛇ケ池」跡では午後2時30分、付近の邪魔になる木を切ったり、杉の木に巻きついた太い蔓を切り、沢山の写真をカメラに収めた「蛇ケ池」跡からは水は流れておらず、「蛇ケ池」過ぎてから染み出した水が集まり、谷川の清流となり、その下の「瀧」を流れ落ち、本谷の流れと合流している。 「蛇ケ池」跡は、標高凡そ320mの高い所にあり、生えている杉はとにかく大きい、持っていた紐で胸高の杉の周囲を測り、メジャーの持ち合わせが無かったので、持ち帰ってから計ると、385pもあり、計算上は直系122pもある事になる。高さは現場で目測し凡そ40m、付近には杉の木は全く見当たらない。 明治15年7月に書かれた「高野村村誌」の城屋の山の項に拠ると、「‥…東西三拾間(54、6m)南北弐拾五間(43m)ノ池アリ昔時大蛇潜伏シテ行人ヲ害スル屡々ナリ弘治頃本郡中筋ノ郷士森脇宗坡ノ女丹波国滋賀郷士ニ嫁スルモノアリ談女偶マ丹波ヨリ女布村ニ来タルノ途談池ノ辺リヲ過ク大蛇忽チ来テ其女ヲ呑ム宗坡之ヲ聞テ大ヒニ怒リ走リ来テ其蛇ヲ打チ之ヲ三断シテ三ヶ所ニ埋ム則チ頭部ヲ本村雨引社ノ側ラニ中部ヲ野村寺村中ノ森ノ社ニ下部ヲ高野由里村尾ノ森ノ社二埋ムト云夫ヨリ談池ハ草芭茂生シ正中ニ一ノ杉樹ヲ植ユ……」とあり、池は以前からその機能を果さず、草が生い茂り、池の中央に一本の杉の木が植えられていたとある。 杉の大木には適当な紐が見つからず、持ち合わせに麻の紐を、注連縄代わりに巻き、「蛇ケ池」跡を後にし、「瀧」の方へ降りて行った。「蛇ケ池」跡から流れだした沢は、ブッシュが生え込みとても人が通れる様な状態ではない。仕方なく左側の急な斜面を注意しながら、下へ下へと降りていった。 今日の瀧は、三月七日に始めて目にした時と変わり無く、ごうごうと流れていた。 注意しながら本谷に辿り着き、同じ所で再び休憩し、気を取り直して歩き始めたのが4時丁度。 デケエ杉だな。おおデケエ、デケエ。千年くらいはたってないかな。たってないな。来た値うちがあったな。おおあったあった。と見上げる。 ちょっと木の周囲の藪を払って写真に写るようにしようでないか、これじゃ写らんぞ。蛇ヶ池などはどうでもいいようなことである。 この時点での蛇ヶ池の水のたまっている大きさは、13メートル×5メートルだったという。 場所を変えて見ると右下写真のように藪に覆われて、どこに池があるのかわからぬようになっている。これでは大蛇の寝床になりそうにもないが、昔はもっと大きかったようである。明治15年の『高野村村誌』は54×43メートルあったとして、この大杉は池の中に生えていたという。 立地条件から考えていつも涸れることのない水を満々とたたえているという池ではないと思われる。 条件が悪いと、せっかくここへ足を運んでも池は消えているかも知れないと思う。今回はたぶん大変にラッキーだったのではなかろうか。 平成4年の『火祭りの里・城屋』の口絵には、伝説の「槍立石」・「駒の爪石」はあるが、かんじんの「蛇ヶ池」の写真はない。 この大杉だけが載せられている。うっかり写し忘れたというよりは、このときは「蛇ヶ池」は消えていたのでなかったかと想像するのである。 訪れた者は少ないという伝説の滝の奥にあるという幻の、さらにもう一度、現れたり消えたりする、二重の意味で幻の池なのである。 これらここに掲載された蛇ヶ池の写真はきわめて貴重なものと思われる。写真が公表されたの史上はじめてではないかと思われる。池に覆い被さる藪や蔦も切り払ってもらうともっとよかったと思う。機械化した大部隊を動員しないとできそうにもないが… 山を降りて詳しい年寄りたちに確認すると、これは蛇ヶ池にまちがいがなかった。ただこの付近に石の祠を祀ったといわれており、その祠の確認ができていない。どこかこの辺りに埋もれているものと思われる。 伝説では「大蛇退治」となっており、大蛇は悪いヤツでとうとう退治されてしまうのである。 しかし本来のというのか古来のというのか、古代以前の神話はそういったはずはなく、この地の偉い神様であったろう。それは現在でも雨引神社を 今に伝わる伝説は新しい時代のものと考えざるをえない、 その蛇神様、蛇であり伝説では宗坡の娘として登場している、大蛇に呑まれてしまうが、呑まれるということは本来は同じものだということである。この池の蛇は女神様でもあったと思われる、与保呂や布敷の伝説の「池姫」であろうか、その蛇であり女神の神様はこの池に居られたのである。 ここは神の池であり、姿は大蛇ではなく古来は龍であったと思われる。龍神はまた雷神であり、鉄の神でありまた雨乞いの神でもあった。雨引神社として水分神を祀るのはそのためである。 龍はタツである。タツは竹であり、高である。下流一帯を指す「高野」の地名の語源になったかも知れない大事な神様でありその池である。 この池の西側に「平らになった所」があるというが、そこが祭祀の場・雨引神社の故地なのかも知れない。大切に後世に伝えたいものである。 引用の「蛇ヶ池紀行」は片倉利彦氏のものである。『舞鶴市民新聞』(060523)に寄稿されているものと同じである。 こうした類の大蛇退治伝説の伝わる地は一般に古代の金属生産と関係がある土地と言われている。たぶんこの城屋の地、高野川の源流、日浦谷も例外ではなかろうと思われる。 ヒウラという地名も気になる。日裏だから日当たりの悪い所だろうとも言われるが、各地の日浦の地名を見る限りでは逆で日の当たる側にこのヒウラ地名がある。 近くの女布に鎮座する式内社・日原神社の日原も同じ意味と思われるが、また大江町の元伊勢内宮の有名なピラミッドが「ひうら嶽」である。この山は多くの別名があり、岩戸山とも日室山(ひむろやま)とも城山(じょうやま)とも呼ばれる。この山に山城があったことは知られていない。あの急斜面では、たぶん城がなかったにもかかわらず城山と呼ぶ。そうすると城屋の地名もあるいはヒウラと関わりのある地名ではなかろうかと推測される。 ヒウラはヒラともなる。琵琶湖西岸の比良山は新羅山だとも言われるから、シラともなる。だからヒウラ・ヒバラはヒラともシロともなる。こうしてだいたい日浦谷と日原神社と城屋の名は繋がり、本来は同一の地名ではないのかと考えられるのである。 日はヒルでフル・アル系だろうから、蛇も意味していると思われる。 この類の伝説は世界的に分布していて、ペルセウス−アンドロメダ型神話と呼ばれている。城屋もエチオピアの絶世の美女、アンドロメダ王女とつながる。裸の美女が岩に鎖で繋がれている絵画を見た記憶が誰しもあると思うのだが、あれがアンドロメダ王女である。はたしてもともとは誰が伝えたものなのか、これははるか海の彼方の世界とつながったロマンあふれる物語である。 「繋がれたアンドロメダを解放するペルセウスの絵画」 「ギリシャ神話 エチオピア王女 アンドロメダ」 そんなエチオピアと何が関係があるかと思われるかも知れない。しかし世界は広いようでも狭いものである。世界中の誰であっても、私とは6人を介せば繋がると言われる。私の知り合いの、その知り合いの、その知り合いの…と中に6人あれば全世界の人と誰でも繋がる、と言われている。そうした仮説があるそうである。数学計算をすればすぐわかるが、誰もが知り合いを45人あると仮定するならば、そうしたことは確かに成り立つことになる。45×45×45×45×45×45=83億。これで世界人口を超えるという計算になる。だからたったの6人を経由すれば、全世界の伝説はどの地にでも伝わるという計算となる。 つながるだけではダメで、その伝説が根付く風土がなければならない。丹後海部氏の後裔氏族ともいわれるが、これはどうも坂根サンが怪しいと昔から疑っているのである。奥城屋が坂根サンの発祥の地というが、兵庫県川西市に 「丹後の伝説9」 伝説は古くは神話であったものであり、本当のこととして信じられていたものである。 それが狭い草深い地域社会を超えて意外にもとんでもないグローバルなものであることに気付かれるであろうか。発生はヨーロッパではなくたぶんあそこらへんではなかろうか。 シンドラー・エレベーターで思い出したのである、「シンドラーのリスト」というスピルバーグ監督の映画でも気になっていたのだが、さて話は私の過去の事になるが、高校の化学の先生だったが、授業の合間に、 「ワシはな、このごろ英語の辞書を読んどるんじゃ、あれも読んでみると面白いものだ。それで一つ勉強になったんだが、英語でシンダーとは何かわかるか。スペルはcinder。誰かわかる者はいるか」 と問う、田舎の進学校でもない高校で、そんなことを知る生徒などがいるはずもないのであるが、しかしそれでも勉強者もいるもので、「確か、石炭殻でないですか」と正解を言った者がいた。「ほう」と先生も驚いて「そうじゃ。よう勉強しとる。がんばっとるな。そうだ石炭殻とか灰、金屎のようなものをいうのだ」と。「シンデレラ姫というおとぎ話があるが、そのシンデレラもこのシンダーから出た言葉なんだ。灰のようにきたない娘という意味なんだ」。へえーと生徒は一同驚いたのであった。シンデレラというヒビキから何かキラキラした美しいものかいなと思っていたのだが、意外にも灰とは…。 (先生はOEDを読んでおられたのであった。シンデレラは英語名で、ドイツ語ではアッションブレーデル(ウムラウトがあって表記できないのでカタカナ。=灰かぶり姫)。シンドラーがドイツ語なのかどうかは私はわからない。シンドラーのリストのシンドラーは実在人物でチェコ人だそうである。シンドラーが灰の意味かどうかも私はまだ知らない。) そして驚きはまだあった。それから何年も過ぎたころ、日本のあちこちの民話にも丹後の民話にも、灰姫とか灰坊というものがあることを知ったときである。これは日本化しているが筋も名前もシンデレラ姫である。孤児の灰まみれの子が後に人もうらやむ立派な人になっていく物語である。いったい誰が!シンデレラの物語はグレム童話よりもっと古くから、すでに日本に伝わっていたのだ。「灰娘・灰坊」 |
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