丹後の伝説
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その八

丹後の伝説:8集

 雄島着け、灰娘、朝鮮の始祖王、他

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阿良須神社(舞鶴市小倉) アリラン 閼智(新羅金氏の始祖) 鶯姫 大雲橋の娥(大江町有路) 雄島着け(舞鶴市冠島) 雄島参り(高浜町塩土区・事代区) 枯木延命地蔵(綾部市西坂町) 赫居世(新羅始祖王) 五伽耶 蔵王権現(舞鶴市上佐波賀) 朱蒙(高句麗始祖王) 首露王(駕洛始祖王) 高倉神社(綾部市高倉町) 高倉神社のヒヤソ踊り 内宮境内社図
灰娘・灰坊・へわの婿入り 播磨国賀毛郡三重里
仏南寺(綾部市里町) 三重国三重郡三重郷



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枯木延命地蔵尊(綾部市西坂町枯木峠)

現地の案内に、

枯木延命地蔵尊由来

昔歩いて京都へ上り下りする京街道として往来のはげしい枯木峠でありました此の峠に何時頃建て祭られたかわかりませんが此の地蔵枯木延命地蔵(枯木峠)尊が祭られ往来する善男善女が崇拝し色々の思ひ事を願かけとして御蔭をいただいた人が沢山あり有名な地蔵尊として崇敬が厚かったと聞いて居ります。今より百四五十年前道端に地蔵尊等は全部祭られぬ時代があったので其の当時庄屋が森永忠右ェ門さんで墓地へ持って行けばよいとの事で自分の墓へ移転されたそうです。其後昭和八、九年頃当地田仲吉藏氏と妻こま両名が老人で昔の言ひ伝へを話すので有志の者が亦元の屋敷(現在の場所)へ祭り戻し堂は森永家より建立され他の樹木は信仰有志が寄付されて今日になって居ります。
近頃交通も激しく事故も多いので此の延命地蔵尊を崇拝して交通事故の起こらぬやうに御守護いただいて下さい。
よく地蔵尊の御姿を御覧下さい
何とも申せぬ品のよい地蔵尊です。

昭和四十八年十二月

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大雲橋の娥(大江町有路)

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(しるべ・イラストも)


大雲橋の蛾

       加佐郡大江町南有路

 いまもとうとうと流れる由良川。一度、大雨に見舞われれば荒れ狂う暴れん坊だが、飲み水に、そして田畑をうるおしアユを育てるいわば流域住民の生命線。それだけに恵みをめぐっての争いは昔から絶えることがなかった。
 この由良川−福知山盆地を過ぎて大江町に入ると川幅も百メートル余りで まるでヘビが身をくねらせるように丹後海めざして北へ北へ−。大江町の中心部、河守から少し行くと有路。ここにコンクリートの橋がある。大雲橋だ。
 このあたりの由良川は、北側(左岸)は広い河原や浅瀬。所どころに深い淵もあって川べりで洗たくなども出来る便利な川。だが、南側の右岸は険しいガケばかり。
「ほじゃから、昔は南の人は北の人にたのんで遠慮しながら左岸で洗たくしたり、蚕の道具などを洗ったもんじゃ」と地元の古老が語るのは、川のナワ張りをめぐるいさかい。
「勝手に人の洗たく場を使った、そんなことはない、ゆうてな。生活がかかっとるからお互いに一生懸命や」。それでも最初のうちは小さなもめごとですんでいた。
 いさかいが続くにつれて、お互いに積もり積もった不満が爆発した。「おまけに、双方の殿さまが、このチャンスに領地を広げようとたくらんだから大変……」。とうとう殿さま同士のいさかいにエスカレートした。いくさの準備が進められたが、戦いとなると死者が出たり、畑を踏み荒らされたりしてお互いに困る。「そこで両方の殿様が話し合って、武器を持たんと、素手で戦争をやることになったわけや」−。大雲橋の娥
 その夜、南の村の城では侍たちが集まって相談していた。「なにがなんでもこのいくさは勝たんとあかん」「これ以上、北のもんに遠慮して川を使うのはまっぴらや」と、南の人たちは川の近くの土の中に棒きれや石ころを埋めておいた。
「あくる朝、北の兵が川をわたって攻めてきた。南はみるみる攻めこまれて、もうあかんというときに、住民はかくしていた武器を掘りおこして戦ったんじや。またたく間に盛り返して北の兵を追っぱらってしもうた」
 おさまらんのは北の人たち。「けど、ケガした人が少し出たくらいのことやから、すぐ仲なおりして、元のように両方で仲良く川を使ったんじゃ」
 しかし、それ以後、毎年夏になると大雲橋のへんに無数の蛾が集まってきて、北と南に分かれていくさをする。「このときにちょうちん持って橋を渡るとどういうわけか必ず火が消えるんじや。そして次の朝になると橋の上はガの死がいがいっぱいあってね……」
 死んだガをよく見ると、橋の南側に落ちているガのシリには剣があり、北のはそれがないという。「恨みは残っとったんやな。昔はむけた、話ははげたか(昔話で根も葉もないことだろうが)……」
       (カット=嶋内博君=大江町有路校)


〔しるべ〕 大雲橋は国道175号線の舞鶴と福知山のほぼ中間、河守から東へ約三キロ。由良川の自然美とアユが売り物。古来いくさが多く、南有路矢津はそれからついた地名ともいわれる。福知山から北へ約二十キロ、バス四十分。名物「鬼まんじゅう」はジャンボサイズで味もよい。

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播磨国賀毛郡三重里
(兵庫県加西市北条町)

『播磨国風土記』に、

賀毛郡三重の里。土は中の中。三重と云ふ所以は、昔、一女在りき。タカムナを抜きて布以て裹み食らへば、三重に居てえ起立たざりき。故れ、三重と曰ふ。


『日本の地名』(谷川健一・1997・岩波新書)は、

、「播磨国風土記」の賀毛郡「三重の里」の条に次のような記述がある。
   三重といふ所以は、昔、ひとりの女ありき。竹冠に均(たかむな)を抜きて、布もてつつみ食ふに、三重に居て起立つこと能はざりき。故、三重といふ。
 これはヤマトタケルの足が「三重の勾の如く」になったとあるのと同じである。竹の子を食べたから、というのは、もちろん付会の説であるが、何か土地の毒にあてられたらしいことが推測される。三重の里は兵庫県の北条町北条のあたりとされている。さらに、「三重の里」ととなりあわせに「品遅部の村」の記述があり、
  品遅部等が遠祖前玉、此の地を賜はりき。故、品遅部の村と号く。
と説明されている。このことから、さきの三重の里の記事に何か品遅部が関係しているのではないかという疑いがもたれる。そこでもう一度、品遅部に関係あるホムツワケ伝承にかえってみる。…

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三重国三重郡三重郷
  (三重県四日市市水沢)

『大日本地名辞書』に、


(三重国三重郡三重郷)
葦田(アシミタ)
和名抄、三重郡葦田郷、訓安之美多。○今水沢(スヰサハ)村及小山田村なるべし、内部川の上游に在り、古事記伝に「安之美多は倭建命三重にて、足を傷みなやませ玉ふに因めるならん」と曰へり、然れども姓氏録「大和未定雑姓、葦田首、天麻比止津乃命之後也」とありて鈴鹿郡に天一神あり、葦田氏の住みける地ならんとも思はる。

足見田(アシミタ)神社
今水沢村に在り、八古明神と曰ふ、 〔神祇志料〕或は云ふ此神は倭建命を祭ると、〔古事記伝〕延喜式、三重郡に列す。
補【足見田神社】○神祇志料 今蘆田郷水沢村にあり、八古明神といふ、凡そ毎年八月十四日祭を行ふ(神名帳考証・菰野藩調帳・式内社検録)
 按、拝殿額に正一位葦見田大明神とあり、地祖帳に葦見田あり、又あせみ川の涯の田を葦見川と字するもの証とすべし

水沢(スヰサハ)
此村の西嶺字入道(ニフダウ)岳に黄玉石煙水晶電気石を産出す、又字中谷に、花崗岩中より、黄鉄鉱と交り、辰砂現出す、土沙中に往々水銀の滴り居ることあり。…
補【水沢】三重郡○地学雑誌 水沢村入道山に黄玉石・電気石を産す、此山中(字中谷)に花崗岩中に黄鉄鉱と交り辰砂現出す、砂中に水銀の滴ることあり。

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仏南寺(綾部市里町)

寺前の案内板に、

仏南寺

 臨済宗妙心寺派で阿日山仏南寺という。寺伝によれば往時真言宗に属し七堂伽藍の浄刹であったが、室町末期に荒廃し、万治年間に再興され、後に火災に遭い、元禄年間に再築されたという。仏南寺(綾部市里町)
 六国史の『三代実録』の貞観五年(八六三年)六月三日の条に『以丹波国何鹿郡仏南寺為真言院『即付国司検校』と国によって真言院とされ、国司の監督をうけた官寺と記されていて、丹波丹後では特色ある古寺である。
市指定文化財 虚空蔵菩薩像は貞観の様式を示す一〇世紀ごろの作、大日如来坐像は金剛界大日の智挙印を結び平安末期の作、ともに草創の由緒を推察されるすぐれた仏像である。…


『綾部市史』に、

仏南寺

『三代実録』貞観五年(八六三)六月三日の条に、
  以丹波国何鹿郡仏南寺真言院 即付国司検校
とあり、里町の仏南寺は国によって真言院とされ、国司の監督をうけるようになった。こうした宮寺は財政的な援助を受けるかわりに、護国法会などを行うことが義務づけられたものである。このように地方寺院が宮寺とされるのはまれなことである。
 いま仏南寺には、貞観時代の様式をもち、一○世紀ごろの作といわれる木造の虚空蔵菩薩立像と、平安後期の作といわれる木造の大日如来坐像が安置されている。この仏南寺と綾中廃寺とはどういう関係にあったのか、いまのところ何ら証すべき資料はないが、いずれも何鹿郡に唯一の大寺として同じ系譜にあったものではなかろうか。
 七〜九世紀に寺院が造立されるためには、かならず大檀那がなければならない。綾中廃寺の造立者については、郡司クラスの豪族が考えられるが、人名については全く手がかりはない。平安時代の初期に豪族らしい人名が出てくるのは、後に記す刑部首夏継と弟宮子、および秦貞雄である。刑部首夏継は従七位下の官位をもらっており、天田郡大領の丹波直広麻呂の官位が従六位下であるから、それと比して夏継は何鹿郡大領もしくは少領の郡司であったのではなかろうか。また秦貞雄は山城に本拠をもつ秦氏の一族と思われ、そうなれば大きな経済力をもち仏教信仰もあつかったはずだから、造寺の檀那であったかもしれない。この刑部氏か秦氏が仏南寺の大檀那であったことが考えられる。

日本の古代文化のほとんどが仏教にかかわる文化であるように、古い郷土の文化も仏教文化が中心である。そうして造寺造仏など文化的な営みのにない手は、在地で経済力のある豪族であり、郡司や荘官などの人たちであった。農民たちは、そうした文化的な営みを支える基盤にはなったけれども、その信仰や文化の恵みにあずかることなく、原始時代から育ててきた民間習俗や信仰をもちつづけて、貧しい生活をしていたものと思われる。
 何鹿郡における仏教文化の源流は、綾中廃寺にみられるように、白鳳奈良時代、すなわち西歴七○○年ころにさかのぼることができる。また君尾山光明寺の開創が七世紀とする寺伝も、これを傍証するものといえよう。
 古代の寺院とそこにまつられる仏像について、文化財の立場から述べてみよう。

 仏南寺  里町

平安時代のはじめ、貞観五年(八三六)に仏南寺が真言院となったことは前に述べた。官撰の史書に地方寺院の名が出てくることは珍しく、それだけに仏南寺の重要性がしめされている。仏南寺には次の仏像がまつられている。

市指定文化財
            平安時代
 虚空蔵菩薩立像 一躯 木造(一木造)
   像高一六六センチメートル
  この像は貞観彫刻といわれる。平安初期の特徴が、広い顔やいかり肩、下半身の重々しい表現などにあらわれているが、貞観盛期の仏像にくらべると、表現がおだやかになっており、一○世紀の作と考えられている。

市指定文化財
                 平安時代
大日如来坐像 一躯 木造(寄木造)
   像高一一七センチメートル
 金剛界大日で智挙印を結んでいる。彫法は平安時代の優雅な手法によっているが、やや豊満な感じがとぽしく、平安末期の作と考えられている。
 これら文書や仏像からして、九世紀には、壮厳なよそおいをもった大きな伽藍の仏南寺が建っていたことが想像される。

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雄島着け

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)

雄島着け

          舞鶴市冠島

 舞鶴の北二十八キロ。若狭湾に浮かぶ冠島。イサキ、スルメイカなど魚の宝庫。別名雄島。その所有権をめぐるこんな話が残っている。
 江戸時代、田辺藩(舞鶴)と宮津藩の間で、領有権争いが起こった。両藩とも「自分の領地だ」といって譲らない。そこで、競艇で決着をつけることになり、両藩はそれぞれこぎ手を選出した。そして同時刻に両地を発船、どちらが早く着くか.早く着いた方が近距離なので領地−ということになった。雄島着け
 ヨーイ、ドン。さすが選りすぐられた若者だけあって、すばらしい快走ぶり。決勝点の雄島近くになっても差はほとんどつかない。宮津チームは陸岸近くなると、着船の定法どおり櫓を旋回、首尾を向けかえ艫(とも)から磯に着けようとした。しかし、田辺チームは何を思ったか、舳(へ)先の方からそのまま船も砕けよとばかり磯にのし上げた。田辺チームの勝利。しかし、これ以降、舳先から着岸する定法はずれのやり方を雄島着けと呼ぶようになったという。
 雄島の所有権を歴史的に見ると、鎌倉時代からは舞鶴・大浦半島にあった真言宗の名利、永源山徳雲寺の寺領。建久三年徳雲寺が焼失、再建資金を集めるため、近在の漁村である三浜、小橋、野原地区に借金の担保に出されてからは三地区の共有地となったと記録されている。いまも雄島周辺の漁業権は三地区にあり、その名残をとどめている。
 海上七里−。雄鳥は舞鶴、丹後半島 伊根からほぼ等距離にある.島内には「老人嶋神社」があり、航海、安全豊漁の守護神として漁民の信仰は厚い。毎年六月一、五日には、三地区のほか吉原地区の漁民たちが、七月五日には伊根町の漁民たちが雄鳥へ船で参る「雄島参り」の行事が行われる。また、雄島周辺は漁民たちにとっては、このうえない好漁場。このため、このような伝承がうまれたのだろう。
 いまでは船を舳先から着岸するのはごく普通。もはや定法はずれではない。しかし、この話はいまも「非常のときには、定法破りのやり方が功を奏する」という教訓として伝えられている。
   (カット=浜田勇二君=舞鶴市野原校)

〔しるべ〕冠島は舞鶴の北、若狭湾上の無人島。東西四百十三メートル、南北千三百十六メートル。面積約二十二万平方メートル。オオミズナギドリ(府鳥)の繁殖地として国の天然記念物に指定されている。

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雄島参り(高浜町塩土区・事代区)

『若狭の漁師、四季の魚ぐらし』(1997・貝井春治郎)に、

(雄島参り)


 若狭湾に浮かぶ冠島のことを漁師たちは、雄鳥(おしま)さんと呼んでおりましてな、海の神さんへの深い信仰の対象となっております。高浜の漁師にとっては、海の雄島さん、山の青葉山が、海と山それぞれへの信仰につながっておるということでしょう。六月の第一週から十日ごろまでの一日、高浜の塩土(しおど)区と事代(ことしろ)区の漁師たちは、何艘もの船を仕立てて雄島さん参りをします。平成八年の雄島さん参りは六月八日におこなわれました。
 冠島は、行政上の地籍としては京都府舞鶴市に含まれておりまして、島周囲の地先の共同漁業権も舞鶴市の福井県寄りの野原、小橋、三浜の三つの漁業協同組合の共有となっております。地籍や漁業権の所有はいろいろな伝承があるようですが、この雄島さん参りは、若狭湾でも西側の高浜、和田、音海半島の漁師、そして京都府の舞鶴、宮津、伊根の漁師たちが、それぞれに漁村というムラ単位に、日もそれぞれ別々になるように続けてきました。
 高浜では、塩土と事代の二つの地区が一緒になって漁協がつくられております。現在では一緒になっておりますが、昔は別々で、お参りの日も別々でありました。区の漁師も大勢参加して、六十人が長さ一三メートルはある木造のハガセ船三艘に二十人ずつ乗り分けて、漕ぎ手の若い衆たちが太鼓や笛の鳴りものもはでに、島までどの船が速く着くか競いおうたもんです。塩土区の場合は、東之丁、中之丁、西之丁と三組に別れます。三艘とももちろん手漕ぎですから、ふだんから鍛えた腕っぷしを競いおうて、そりゃ威勢のいいもんでした。勝利船の漕ぎ手となったものたちには、その年の大漁が約束されたもんです。
 現在の雄島さん参りは昔のような威勢こそありませんが、この日は年寄りも若いもんも心を一つにしてお参りをします。塩土と事代それぞれに三隻の漁船、島へわたるさいに乗り込む一隻のマルキブネを曳航して七隻に五十人ぐらいが乗り込みます。
 雄島参りの総指揮は、組合長の鯛取勇会長の役です。漁業協同組合の組合長というよりも、こういうときの立場は、塩土区と事代区をあわせた漁業会の会長さんと昔はいうておりましたが、両区の漁師集団の代表が総指揮をとるということになります。町の衆には、このへんのことが少々わかりづらいでしょうな。漁村という昔からの村のなかに、みんなで出資して漁師がとってきた魚を買ったり売ったり、漁業の仕事の手助けをするための会社のような組織がありましたが、これが後に漁業協同組合といわれるもので、それとは別に祭りや講の行事など村ぐるみのいろいろな行事をとりしきるさいに漁師を束ねる集まりがありまして、それを昔は漁業会というておりましたのやな。そういうことがあるもんで、昔の癖が抜けんでな、わたしは、いまでも鯛取組合長のことを「会長さん」と呼んでおります。
 朝六時に、会長さんが「いこかぁー」とひと声をかけますと、みんなで「いこー」と威勢のいい声で返します。それを二度繰り返して、さあ出港です。船が出ると、すぐに鷹島(たかしま)の弁天さんと城山の蛭子さんの方向にむかって、それぞれに全員が遥拝いたします。次に、港の中を時計回りと反対の左回りに三回ぐるっと回って、それから港を出て一路冠島に向かいます。競漕はしませんが、わたしが乗った船は、この日に間にあわせるために数日前に進水したばかりの「大芳丸」ですから、そりゃ速いのなんの、白波をたてて猛スピードで走る。船主の大黒芳信君はまだ三十代ですが、高浜でもリーダー格の若手漁師やもんで、昔のように一番で島に着いてやれというつもりもあったようです。
 三十分走ると、島が近づいてきます。この日は南からのヘタの風が強く、白波が立っていて、いつも上陸する丸石の磯側からは近づけないので、裏手に回りこんで岸に並行して三隻横につなげて停泊し、マルキブネとロープ伝いに乗り移ることになりました。雄島へは、このマルキで上陸することになっております。老人嶋大明神と白地に朱書した幟と赤布に墨書した幟とをそれぞれにかかげながら、海岸伝いに回り込んで老人嶋神社に幟を奉納し、拝殿にお供えを献じてお参りをいたします。漁師そろっての参拝のかたちはこれですみますが、冠島には、老人鳴神社に並んで船玉神社があって、ここにもお参りします。
 また、石の鳥居から五〇メートルはど離れたところに瀬の宮神社というエビスさんをお祭りした蛭子神社があります。高浜の漁師は、この神社をウバコシ神社と呼んでおります。姥越神社と書きますが、このエビスさんは耳が遠いといわれていて、参拝して大漁祈願をするときも、まず石でごつごつと音をたてて神さんに気づいてもろうてから、大きな声を出してお参りするのが習わしになっております。ほかの地区ではこのようなことはしませんで、高浜の塩土と事代の漁師だけに伝わっていることなのだそうです。ここのまわりには、オオミズナギドリが巣にしている穴が地面のそこかしこに掘られているので、卵を踏まないように注意が必要です。
 帰りには、みんなでマルキのハシケのところに集まって、その場でお酒をいただきながら直会(なおらい)をします。それから各船に戻って一時間ほど停泊しての直会が続きますんやな。それが終わると、帰りも、行きのときと同じように三回旋回してから戻ります。高浜の港に着くと、こんどはマルキに代表の役員さんらが五人ほど乗り込んで、海から城山の蛭子神社に渡って参拝し、幟を奉納して、ようやく雄鳥さん参りの行事は終了します。
 午後からは、集会所に塩土と事代の漁師全員が集まる総会となって、お参りの報告会と、また直会です。まあ、この日は一日よくお酒をごちそうになりますんや。この雄島さん参りがすむと、高浜も夏の漁へと切り替わっていきます。

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高倉神社(綾部市高倉町)

『京都新聞』(96.3.12)に、


*ふるさとの社寺を歩く〈44〉*
高倉神社(綾部市高倉町)*腹痛除け祭典催す*

 一葉の香類が、歴史を変えることがある。一人の皇子がはなった令旨が、中世に隆盛を極めた平家一門を滅亡へと導く。平家討伐の旗を揚げた、歴史上もっとも有名な皇子の一人・高倉宮以仁王(もちひとおう、一一五一−八〇)が、高倉神社の祭神である。高倉神社(綾部市高倉町)
 一一八〇年、以仁王は鵺(ぬえ)退治で有名な源頼政(一一〇四−八〇)とはかり、平家討伐の令旨を全国に送った。しかし事件が発覚。奈良に落ちる途中、宇治で平家方の追っ手の矢を受け、南山城光明山寺付近で討ち死にしたとされる。
 現在、山城町には以仁王を祭る高倉神社と陵墓があり、日本史上での以仁王落命の場所は、山城町ということになっている。
 しかし、綾部市こそ以仁王落命の地とする伝説が同市に残っている。山城町で亡くなったはずの以仁王が十二人の頼政の家臣に守られ、ひそかに丹波に逃げ落ちたという。腹部の矢傷が悪化し、この地で息を引き取った宮の霊を慰めるため、同地の高倉神社は祭られたという。
 記録はほとんど残っておらず、裏付けは難しい。だが、以仁王にまつわる、ほほ笑ましい習俗が同社に伝えられている。
 同社では、腹部の傷で命を落とした以仁王を「腹痛の神様」と祭り、土用の丑(うし)大祭で腹痛除(よ)けの祭典を催す。深夜丑の刻(午前一時から三時)に同社に参り、宮の手に模した五葉のササを敷地内で採取し、腹痛の時にササで腹をさすると痛みが消えるという。同夜は、腹痛除けの「腹わたモチ」も売られ、「氏子をはじめ、遠くは福井、兵庫県から約千人が訪れる」(四方律夫宮司)。
 たわいもないと言えばそれまでだが、以仁王に限らず全国各地に記録のない伝承や習俗が伝わり、人々の信仰が存在する。そんな習俗や人々が、歴史を血の通ったものとし、面白くしている。



『京都の伝説・丹波を歩く』に、(伝承探訪も)

高倉神社のヒヤソ踊り   伝承地 綾部市高倉町

 高倉神社さんは昔から腹痛の神さんで、その祭りは、社が建立された養和元年(一一八一)九月九日にちなんでこの日が祭りだったが、新暦になって十月九日に変わり、今では十月十日ということになっている。高倉神社の祭りに「ヒヤソ踊り」という田楽が奉納される。ひとつ、そのヒヤソ踊りについて話してみよう。
 今は昔、およそ八百年も前のこと。「平家にあらざれぱ人にあらず」とまで言われた、平家の栄えた世の中だった。おごる平家を快く思わぬ者は全国のいたるところで怒り、その怒りを総まとめにしたのが後白河法皇の第二皇子といわれる以仁王だった。
 以仁王は源頼政と手を結び、「世直しじゃ」 と称して治承四年(一一八○)五月、全国に平家追討の令旨を下し、勤王の兵を挙げた。けれども武運つたなく、頼みの頼政は宇治の平等院で戦場の露と消え、以仁王は命からがら山城の国へ落ちのびていった。そこで一計を案じ、「光明山にて以仁王は流れ矢に当たり、一命を落とした」ということにして、大槻光頼、渡辺俊久らに守られて、当時頼政の領地であった丹波の国へ入り、この地の頼政の第六子、杉山政国が城、有岡にたどりついたという。ヒヤソ踊りの案内板(高倉神社境内)
城に入る前、吉美郷里村での村人たちの以仁王の歓迎ぶりはたいへんなもので、田植えの真っ最中であったにもかかわらず、村人総出で田楽を踊ってみせたそうだ。あまりの歓迎ぶりに気を良くした以仁王は、自らも鼓を取って、「イヤソウ、イヤソウ」と、はやしたてたという。「イヤソウ」という意味は、いくさや長旅の疲れを取るための言葉だ。つまり「疲れを癒そう」という意味で、後々これがなまって「ヒヤソウ」となり、今の「ヒヤソ踊り」になったという。
 ここを安住の地とした以仁王だったが、しばらくして、いくさのときに受けた傷が悪化し、心の疲れも手伝ってか、あっけなく他界したということだ。息を引き取る前に、以仁王は吉美郷の村人たちの歓迎に礼を言い、「後世、腹痛の悩みは万民に代わってこの以仁王が救わん」と、言い残したという。
 その翌年、吉美郷高峰多谷が森(奥谷の森)に神社が建てられ、以仁王が祭られたということだ。その後、今日のように高倉神社と称されるようになったということだが、以仁王はもともと京は三条高倉に住まいしておられ、高倉宮と呼ばれていたということからだそうな。
    「あやべ昔話抄」

【伝承探訪】

 治承四年(一一八○)五月、後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王は、源頼政と謀って平氏討伐に踏み切った。いわゆる「平氏追討の令旨」が下されたのである。しかし頼政は宇治平等院で自害、以仁王も山城国光明山寺で落命した。『平家物語』によれば、敵の矢一つ飛び来たり、「宮の左の御側腹に立ちければ、御馬より落ちさせ給いて、御首取られきせ給ひけり」とある。腹を射られて落命したのだ。
 ところが、このとき以仁王は死んではいない、死んだのは身代りの藤原俊秀だ、と綾部では言い伝えている。丹波国はその頃源頼政の領地で、吉美郷(いまの吉美地区)は頼政の第六子杉山政国が有岡城を築いていた。以仁王はこの政国に導かれて綾部に落ちのびたというのだ。
 しばしの安らぎを得た以仁王も、横腹に受けた矢傷が悪化して急死した。死後その霊を祀ったのが高倉神社である。その遺体は里町の本宮に葬られ、掘り起こさんとする者があれば、どこともなく白羽の矢が飛んできて射殺されるなど、その祟りが言い伝えられている。また以仁王に従って落ちのびてきた家臣十二人は、それぞれ郡内に土着したという。いま高倉神社の境内には、十二臣を祀る十二士神社が以仁王を守るように建立されている。十二士神社(高倉神社境内)
 以仁王が落命した光明山寺に程近い山城町にも高倉神社がある。以仁王の死後、「後人是ヲ哀ミテ、其地二塚ヲ築神ニ崇ル」(『山州名跡志』 と伝え、隣りには墓も築かれている。しかしその真偽のほどは明らかではない。いずれにしても非業の死を遂げた以仁王の霊は、その縁ある地で祀り鎮められねばならなかったのだ。
 都から逃れてきた以仁王一行を慰めた田楽踊り、一名「ヒヤソ踊り」は市の文化財に指定され、現在も古式にのっとって行なわれている。

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『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(しるべ・イラストも)

ヒヤソ踊り

         綾部市高倉町

 綾部市高倉町の高倉神社の秋祭りには「ヒヤソ踊り」と呼ばれる田楽が奉納される。笛や太鼓に鼓が加わり、祭りの呼び物のひとつになっている.この「ヒヤソ踊り」と高倉神社の由来を−−。ヒヤソ踊り
 いまからおよそ八百年前、世は「平家にあらざれば人にあらず」という平氏の天下だった。平清盛を筆頭にその一門は、ことごとく高位高官に就いていた。これを快く思わないものは、打倒平氏のチャンスをねらっていた。ここに登場するのが、高倉神社にまつられている以仁王。後白河法皇の第二皇子で、この以仁王が、源頼政と謀って平氏討伐に踏み切った。治承四年(一一八○)五月のこと。以仁王は諸国の源氏に「平氏追討の令旨(りょうじ)」を下した。しかし、武運つたなく、源頼政は宇治平等院で自害。以仁王も山城国・光明山で一命をおとした、と歴史の本には記述されている。しかし、このとき死んだのは以仁王ではなく、身代わりの藤原俊秀だ、と綾部ではいい伝えられている。
 丹波国は、そのころ頼政の領地で、吉美郷(いまの吉美地区)は頼政の第六子杉山政国が有岡に城を築いていた。以仁王は、政国の先導でここに落ちのびた、というのだ。それによると、以仁王の一行は六月九日、いまの白瀬橋のあたりで由良川を渡り、吉美郷里村(いまの里町)へ入った。村人は田植えの最中だったが、これを聞いて一行を迎え、歓迎のもてなしに田楽を踊ってみせた。このとき、以仁王も自ら鼓を取って「いやそう、いやそう」と、はやしたてた。「いやそう」とは、戦いや、敗走の旅の疲れをいやそう−という意味で、これがなまって「ヒヤソ踊り」になった、という。
 ここに安住の地を見いだした以仁王だったが、しばらくして戦いで受けた矢傷が悪化して、急死した。息を引き取る前に、「われ後世腹痛の悩みを万民に代わって救わん」といい残したという。それから、二、三カ月後、相次いで、伊豆に源頼朝、信濃に木曾義仲が以仁王の令旨を受けて、平氏追討に立ち上がった。翌年、清盛が死に、平家が壇の浦に滅んだのは、五年後のことだ。
 養和元年(一一八一)九月九日、吉美郷の高峯多谷ヶ森に神社が建てられ、以仁王がまつられた。これが現在の高倉神社で、地名もこれにちなんで高倉と改められた。以仁王は三条高倉に住んでいたので、高倉宮と呼ばれていたという。
 毎年、建立の日に例祭が行われたが新暦になって十月九日になり、いまは体育の日の十月十日に行われ、ヒヤソ踊りも披露。また以仁王の最後の言葉から、腹痛の神として信仰を集めている。
    (カット=四方麻美さん=綾部市吉美校)

〔しるべ〕以仁王の遺体は里町の本官(一説には青野町の大塚)に葬られ、ここを掘り起こそうとする者があると、どこからともなく白羽の矢が飛んできて射殺されるなどと、たたりがいい伝えられている。以仁王にしたがった武士十二人は綾部各地に居住、十二士として、いまでは百五十世帯にも増え、十二士講をつくって高倉神社に対する信仰は厚い。昭和四十年には十二士神社を境内に建立している。

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灰娘・灰坊

『丹後伊根の民話』に、

灰娘  

 お父さんが蛇に呑まれとった蛙を助けたんです。そのうちの娘さんが道に迷うたいうんか、山の奥の方に行ったところが、もう日は暮れて、ひこりひこりと灯が山の中に見えとって、灯が見えるので、あそこへないと行って、泊めてもらおう思って、そこを頼って行ったところが、そこの中には雨蛙が背中あぶりしとって、ああ、こりやぁ雨蛙が背中あぶりしとるわ思ったけど、まあ訪ねてみよう思って、そこへ入って、
 「一夜の宿を貸いてもらわれんか」
いうて訪ねたところが、そこの雨蛙が言うのには、
「ああ、泊まっておくれえ。わしはあんたのお父さんに助けられた蛙だ」
いうて言うたらしいんですわ。
 ほれからまあ、そんなことかいうことで泊めてもろうて、
「どこかに宿があったら、わしはもう女中でもしたいんだ」
いう話をしたところが、
「こっから下ぁ降りると、きっと旅館があるはずだで、そこへ行ってみい」
いうことで、ほえからあくる日の朝は、そこへ訪ねて行ったところが、ちょうどおさんどんに、風呂焚きにおってくれえ言われて、その宿屋に風呂焚きにおったんだそうですなあ。ほしたところが、みんなきれえにしてお上女中はおいでるだけど、その娘さんは自分の着てきたきれえな着物は、かますの中へつっ込んどいて、悪い悪い着物を着て、顔はすすだらけになって、毎日一生懸命に風呂焚きをしとったそうですなあ。
 ほしたところが、ある日のこと、その村に狂言があって、
「きょうはみんな狂言見ぃ行くだ」
いうて、そこの若い息子さんも出られるんだいうことで、おおわらわで、もうみんな連れきれえにこしらえて、女中さんらがみな出掛けられたんですわ。
 ほいたところが、そのあとで、そろそろと自分もかますの中から着物を出して、風呂ぃ入って、きれえにこしらえて、狂言を見い行ったところが、ちょうどそこの若あ息子さんがきれえにこしらえて、花道へ出られると二だったらしいですなあ。
 ほうしたところが、ちらっと両方から目が止まりようて、ほしてその日はすんだだけど、狂言から帰ってきたところが、もうその晩から床につかれて、その若い息子さんはもうちょっともよう起きならんようになってしまって、みんなで、
「困った、困った」いうて、あっちの医者さん、こっちの医者さんに診てもらっても、それがなかなか治らんで、ほれから、こんなことしとってもしょうがないし、まあ八卦見(はっけみ)に見てもらおうかいうことになって、八卦見に見てもらったところが、
「これはもう、このうちにおる女中の中に誰か、この若い息子の目に止まったもんがおるけんだで、ほいで、それをわからすには、庭にうぐいすが梅の枝に止まるはずだで、そのうぐいすの止まった枝をば、この息子の枕元まで持ってきて、それがたたんとった人が、ここの若奥さんになるはずだ。その人が好きな人ださかい、それを、そうして試みてくれえ」いう八卦の言葉でした。
「ほんならそうしよう」
いうことで、上女中から上女中から、きれえに、きれえにこしらえては枝折りに行くだけど、どうもみな逃げてしまあて、ちょっともうぐいすが止まってくれん。
 ほれから、もう残ったのは灰坊一人になってしまって、大勢のもんが、
「なんぽうなんでも、あの灰坊じゃあなかろうが。どういうこったろう」
いうて、みんないろいろうわさしとったところが、
「まあ、やっぱりお前も行ってくれんか。そうしてみてくれんか」
いうたところが、灰坊は、
「とてもとても、わしはそんなことは及びません」
いうて辞退しとったらしいだけど、
「いや、そうだない。やっぱりお前一人よりないで行ってみてくれえ」いうことでした。
 灰坊が風呂を入って化粧したところが、どこにあった着物を着てきたか知らんが、きれえな、きれえな着物を着て、とても立派な娘さんになったそうですわ。そうてまあ、庭におりてうぐいすの止まった枝をぺしんと折るところが、ちょっともうぐいすは逃げなんだいうことですなあ。それを若い息子さんの枕元へ持って行ってしてもちょっとも逃げん。
「ああ、これはやっぱり灰坊だった」
いうことになって、そこのうちの若奥さんになったいうこってす。
 ほいでまあ、これもお父さんが蛙を助けたので、蛙が恩返ししたいう話ですなあ。
    (本庄宇治の杉本よしさんに聞く)
灰坊=かまどの火焚きや灰の片付けなど一番下の仕事をする人。一般的には男のことをいうが、この場合は女

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『丹後伊根の昔話』に、(イラストも)

灰坊           立石・増 井 よ し

 昔ある所に まあ田舎に住んでおる、優しい優しい娘さんがあったんです。その娘がまあ、どうかして、こんな所にばっかりおってもどもならんし、何処か奉公でもして、町の方でも行って、暮しがしてみてゃあいうような気持で。ほんでまあ、お母さんやお父さんには、「ちいと間、塩踏い出るで、まあ、ちいと間暇をくれんか」いうて、ほいてまあ言うんだそうですわ。ほんで親も、「お前がそういう気持なら、出そうか」言うてなあ貴方、へて、まあ行かせるんですわ。ほところが、親のある子だもんだで、いろいろと着物もあれとこれというようにしてまあ、着物も持たして、風呂敷に包んで、ほしてまあ、行かすんですわな。
 ほしたら、一人行くんだで、何処へどう行ったら良えだ分らんけ、まあ道ぐりゃあは知っとったもんだか、まあとにかく一人行ったんです。ほって、まあ峠へさしかかって、子供のことだでまあ、日が暮れたんも分らずに、一生懸命歩いてまあ行ったんです。ほっともう、日は暮れるし、こら困ったこったなあ。こつからどうしたら良かろうなあ思って、ほてまあ、すたすたと歩いて行くところが、草屋のむさ苦しーい、小屋が一軒あって、その小屋に誰かこう、人がおるのか煙が立つなあ思って、ほしてそこへ、ちょっとまあ寄って。ほいてしたら、お婆さんが一人おって、「お婆さん、お婆さん。吾は、この先の町場の方へ、行きてゃあ思って来たんだけえど、日が暮れて、とても行かれんように思うが、どうだろう。行かれる時間があるだろうか」言うてまあ、そのお婆さんに問うところがな、お婆さんは、「あ−あ、そら、貴方が一人で行くには、ちょっと時間が無ゃあし無理だで、今夜は家に泊まんなれ」言うてな。ほてまあ、そのお婆さんは親切に言うてくれるもんだで、「そうか。ほんならお婆さん、すまんけど一夜さ宿貸しとくれえな」言うて、へてまあその家い、入って、ほてまあ泊めてもらったんです。ところがまあ、そのお婆さんは親切にな、いろいろと、「あの、町いうてもどこの町い行くんだか知らんけども、この先には、大けな峠もあって、その峠には、追いはぎやなあ、へえから、追いはぎのほかに何だ、も一つ、恐ゃあもんがおるで。ほえで、一人では、夜さりはどむならんで、まあ今夜は家に泊まって、婆やがまた、その先の方までなっと送ったげるさぎゃあ。今夜は家に泊まんなれ」言てまあ、「汚な気な蒲団でも、洗濯はしちゃるで、汚ゃあこた無ゃあだで」言うて、ほいてまあ泊めてもらったんですわ。ほったところが、まあ、泊まって夜が明けて、ぼつぼつ明なったら、その婆やが起こすんですって。「おう、もうはや起ぎてなあ、早う行かんと、また晩げになると、どむならんけども、お前は、そんな椅麗な着物を着ておんなるけど、この先には追いはぎがおって、そんな、お前みてゃあな可愛気な子供が、綺麗な着物着て通ったりすりゃ、 どんな目に会う分らへん。その着物も皆取られてしまうんだで、婆やが、普段着だけえど、この着物を貸したげるさきゃあ、これを着て、ほてもうこれは、あのうことだ、肌身離さず何時も着とんなれ。そうししゃあしゃあ、その恐ゃあもんにも、引っ掛からへん」言うてな。ほしてまあ親切にその着物を出してくれてな、朝間。へて、「あんたは、可愛い顔しとるけども、そんな綺麗な顔しとっては、その、危ゃあさきゃあ、ほいで、へわをつけてな、婆やの竃なへわを顔につけて、へて、その、『名前は、どういう名前だ』言われても、『吾は灰坊です』。灰坊いう名に付けてな、自分も灰坊だ灰坊だ思って、へてまあ、そうやって行け」言うて、教えてくれるんです。ほんでまあ、「その汚ゃあ着物を着て、へて、そんな綺麗な風呂敷は、ちゃんと下の方へしまっときなれ。婆やが汚ゃあ風呂敷を出したげるさぎゃあ、大けな風呂敷で、ぐっとこう背中に負うて、へて行け」言うてな、まあ風呂敷も出してくれるんですわな。ほでまあ、「気の毒ななあ。おおきに、おおきに」言うて、その、風呂敷も出してもらって、へて自分の持物を風呂敷い入れてな、ほてまあ、その峠を越すんですわ。
 ほうとまあ、ほんまに、誰も出てけえへんし、恐ゃあもんにも会わなんだ思って。へてまあ、どこの町か知らんけども、先の方い行って、町の方い行ったんですわ。ほいてまあ、どこの家へ問おうか、ここの家へ行こうか思って、うろうろしもってするところが、まあ一軒大けな家がありましてなあ。まあここへなっと世話になろうかなあと思って、へてまあ、その家へ入ぇって、ほいて頼んだんですん。ほしたら、「ああそうか。お前は女中奉公に入ぇって、なんでも、どんなことでもしてくれるか」言うてな、問うもんだで、その家のが。「どんなことでもさしてもりゃあますさきやあで、置いてくれ」言うてな、頼むんですわな。ほすと、「まあほんならあのうことだ、足洗って、まあとにかく、ご主人に会うて、ほて話せえ」言うて。ほてまあ、そこの家のおかみさんになあ、「どんなことでも、さしてもらうさぎゃあ」言うて頼んだんですわ。「へたら、まあほんなら、下女中で、ご飯炊きでも何でもだん無ゃあ、してくれるか」言うもんだでな、「どんなこっても、さしてもりゃあます」言うて。へてまあ、ご飯炊きに、雇うてもらってな。ほいてまあ、毎日一生懸命で、「こうせえ」言いなりゃ「へえ」、「ああせえ」言いなりや「へえ」言うて、言いなるとおりに働ゃあておったんですわな。ほんからまあ、へだけえども、お母さんに言われたように、「その、晩げ仕事が全部すんだら、自分が、しょうと思うことを、お針でも一針も、しょう思や、針と糸とも入れとくし」言うてな、ほいてその、親が持たしとるんですわ。ほいでまあ、綻みてゃあな物は、自分が縫って、へてまあ、毎日仕事を一生懸命でしとったんです。ほてまあ一年経ち二年経ちするとなあ、その家の、まあ何きゃあ分って、ょう間に合うようになってな。これなら、この子は、結構おさんどんで間に合ういうことで、ほいてまあ、毎日暮ゃあとったんですわ。ほいたら、その家にまあ、男の子さんが一人あってな。その、大きな家ですさぎゃあで、ほいで、夜番の、夜さりの火の警戒いうものはな、せんならんで、ほで、主人が回ったり、ほから息子さんが回ったり、ずう−と、部屋中をば、回っちゃあ歩いたそうですわ。ほと何かの拍子に、その灰坊の部屋には、何時も灯がついとるんですわなあ。これまあ、この子は、確か灰坊の部屋だが、何しとるんだろう思って、戸の隙間から、そ−と見たら、綺麗な着物を着てなあ、へて貴方、お針もしたり、へから横には、どんな本読んどんだ、そんな本まで分らんけども、本も広げて見たりしとるんを、ちらっとその息子さんが見たんですわな。ほいたらもう、昼とはすってん変ってな、立派にしとるで。
 へて、その子さんが、ぶらりとまあ、気分が悪てなあ。へて、あっちのお医者、こっちのお医者いうて、お医者にいろいろとかかるんですけど、なかなか良え芽が見えんのですんだなあ。ほえからまあ、困ったことだまあ、何年か経ったがなあ思って、親も心配しい、皆心配しとるけど、どうも、良え芽が見えんし。へたら、親類のお婆さんだか知りまへんけどなあ、「まあ、こういうぷらり病は、易者にみてもらったらどうだろう」言う話が出ましてなあ、「そうか。ほんなら、易者に見てもらおうか」言うて、ほてまあ、易者に見てもらったところが、「これは医者では治らんで。医者や薬やなんぼしても治らんで。ほんで、一つの、なにがあるさきゃあ、それしてみなったらどうだろう」いうて言うもんだで、「どんな良えことがあるんだ。まあ聞かしてくれ」言うてするところが、その易者が言うにはな、「ちょうど、これのは幸ぇ、大けなお庭で、大けな梅の木があってな。
 ほてまあ、春んなると花が咲くし、まあ大きな梅の木だそうですな.ーほいで、大勢女中もおるんだで、ほいで、女中に、あのうことだ、綺麗にお風呂い入れて、ちゃんとして、ほってその、梅の木に、鶯が春んなると来るで、ほで、梅の木をこう手折って、鶯の止まったなありをその、手折って、へて、その悪い息子さんの前へ、ちゃんと据えて、それで鶯が立たんとおるようなんだったら、嫁にもらえ」。いうてなあ、言うんだそうですわ。「困った話だなあ。そんな、生きった鶯が、ほんなもん、手折って、枝に止まっとるはずが無ゃあし、困ったこったなあ」言うけえど、ほでも易者の言うこったはきゃやあ、「まあ、とにかくしてみようか」言うことになってな。ほいてまあ、ある日に、ちゃんと朝間からお風呂を焚ゃあて、へてまあ、風呂い入れて、上女中からずうーとまあ、そうしてな。
へて、鶯の来るんを考えとって、へてまあ、折るんですわ。ほて、折ろうするとは、鶯がぱぁーと立ってしまう。ほんなもう、「全部すんで、もう女中さんいう女中さんは皆済んだのに、あかなんだ」言てな、「やっぱり、あかんのだなあ」言うて、皆言うとったんですわ。ほしたら、まあ、一人の女中がな、「も一人あるでえ。灰坊いう名にして、自分も住み込んどるもんだで、で、灰坊も、あれも女子の子だはきゃあ、ほいで、あの子にもさしてみたらどうだろう」言うてしたらな。灰坊
人は、「そんな者あかへんで。皆上女中さんでもあかんのにな、あんな灰坊やなんきゃあ、あかへん」言うて、皆が寄せんのだそうですわ。ほいたら、そこのおかみさんがな、お前達はそんなこと言うけえど、どれが、上手にする分らんで、へでまあ、あの子も風呂い入れて、ほいて、着物がなかったら家からでも出してやるさきゃあ、とにかくさしちゃってくれ」言ってなあ、おかみざんが言うんですわな。ほっところが、その、まあ女中さんも、「それもそうだなあ。あれも女子の子だなあ」言うて、ほてまあ灰坊に、「お前もお風呂い入って、ほてまあ、そういうように、人がしなるようにせえ」いうて言んですんだ。ほと、その灰坊が、「吾みてゃあな者は、とってもとても、そんなこと及びも沙汰も無ゃあで、恥かくようなもんだで、堪えてくれ」言んですん。「ほんなこと言うても、それがまた、どういう拍子でなあ、上手にできる分らんで。とにかくしてみい」言うて。ほてまあ、お風呂へ入れて、顔が綺麗になってなあ貴方、風呂い行くと。へえからまあ、「着物もほんなら、誰の貸そか、かれの貸そか」言うてしたら、「いいや。おかし気なんでもなあ、私が持っとりますさきゃあ、私の着物着ます」言うて、へてまあ、自分の着物、良え着物を出ゃあてな、へてまあ着て。へて、そおーと、なかなか落着いた子で、そーと木の上へ上がって、ちょうど、その鶯が止まっとるのを、そうーと、こうしてまあ、折ったんだそうですわ。逃げんだってな、それが。へからまあ、その子は一生懸命になって、汗ぶるぶるきゃあて、そうーと降りてな。へてそれをまあ、ほんなら、その病人さんの、枕元へ持って行けいうことになっとんだはぎゃあで、まあ、あこみゃあけえなあ。降りるな降りたけど、もうとてもあこみゃあけえなあ思いもって、へて汗かきもって、座敷まで行ったらな。へたら、枕元まで行く間、その、鶯は立たんと、ちゃんと止まっとったんで、ほいてまあ、それを持って行ったところが、もう皆が手叩ゃあて喜んでなあ、「ほう、この子はほんまに、よう落着いた。まあ、風呂い入ったらこの綺麗な顔」言うて、皆に褒められる程綺麗な子でしてなあ。へからまあ、おかみさんも、こんな灰坊でもなあ、やっぱりその、落着いて、どことなしに様子の良え子だと思ったが、やっぱりその、これの嫁にせえいう、何だそうですわな。ーほで、それが、もしもそういう、鶯が止まって、そこまで持って行かれたら、その子を嫁にとれいう、易者の、何でしたでなあ。ーほで、この子は侭んなら、嫁に貰ういうことに、まあ話がついただそうですわ。その、嫁さんになるいうことになったんですわな。ほして、皆で、ほんなら、この子に、いうことが決まったもんだでな。ほいで、その子もまあ承知して、親の所へもそういうてやりして、へて、その家のお嫁さんにしてもらったんだ。
 へて、その婆やだ言うのが、「若ぇ時に、自分の家におる時に、蟇蛙が酷い目に会うて、蛇に呑みかけられとるところを、その娘がなあ、いろいろとして、へて、蛇を逃がして、へて、その蟇蛙を助けちゃった。その蟇蛙がお婆さんに化けて、へて、その山の中で暮しとった」言うてな、そういう話でした。それでまあ、いちごぶらりだ。

「へわ」は灰のこと

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『京都の昔話』に、

へわの婿入り    (丹後・成願寺)
 むかし、あるところに、成願寺でたとえましたら酒屋のような大家がありまして、ところがその大家の奥さんがふとした病気がもとで亡うなって、それこそもう大家のことですで、あと添えもらわなどもならんだし、まあ子供さんもあるだけど、しょうがない、あとどりもらいました。ところがまあ、このお母さんにも子供さんがでけて、まあお母さんがだんだんとわが子にあと(遺産)やりたいいう欲が出まして、ほいで、先の息子さんも、もうさあなあ、はたちくらいに大きくなっておんなった。
 ほいでまあその家の男衆を呼んで、
「なんとお前に、今日はおりいって頼みがある」言うて。ーーするところが、それは先のお母さんのときからおる男でしてなあーせからまあ、
「お前におりいって頼みがあるだが、聞いてくれるか」
「ええ奥さん、なんだか知りませんけど、聞かしてもらいますわ。わしの力ででけることならなんでも聞かせてもらいましょう」いうて男衆が言うたら、
「お前にこういうことが頼みたいだが、先の息子をここから出やてしまって、わしの子にこれのあとを継がせたやで、お前の工夫をしてもろうて、この息子をなんとかして殺いてもらいたい」いうことですわ。ほうして、どうして殺すだ。まあそれも二人連れの相談ですわな、奥さんと。
「そうなら、そんに殺すいうたって、そんな切れ物で殺すなんて殺せんしなあ、わしがちょっと思いつきましたが、なぎの日に、まあこの坊っちゃんを舟に乗せて出て、そしてまあ坊っちやんがええかげん沖へ出たころに、うしろからちょっと押して、海にはめて殺えてくる」言うて、まあそういう相談がでけたわけですわ。
「お前はまあええ思案した。そういうようにしてくれ」いうことで、それからまあ、なぎのええお天気の日に、
「坊っちゃん、今日は海遊びにいってきましょうか」
「そりゃええこっちや。まあ連れていってもらおう」。
 ほいてまあ、海へ遊びにいくんですわな。それからまあ、だいぶ沖へ出たころに、「そうはいうても、先妻の奥さんに対してもすまんし、この坊っちゃんを今この海へどんぶりはめたではなあ、いかにも先の妻さんにもすまんし、そんなむごいことはできん」と思いましてな、そこで打ち明けるですわな。
「坊っちゃん、実はなあ、こういうことであんたを殺すところだけど、よう聞いておくれえな。先の奥さんの恩があるし、そんな坊っちゃんを海にはめて殺すだなんていう、だいそれたことはわしはとてもでけんので、ほいで、これから坊っちゃん、遠い伊根のほうまで行って、そいて上陸して、あんたはなんとかして、村に乞食なとしておってくれ」いうことですわな。ほいたらまあ、坊っちゃんが、
「ああ、そういうことか。そりやあお母さんが自分の子にあとをやりたいのはあたりまえのこった。そうならわしは、まあなんなりとして、どこへなりとたどり着いておる」
「まあ坊っちゃんぬすまんけど、そうしてくれ」言うて、その坊っちゃんに言い渡して、「またいつの日にか迎えにくる日もあるかもわからへんさかい、まあ楽しみして、この村にあがってなあ、どこへなりとたどり着いてくれ」言うて、せえからまあ、その坊っちゃんをそこへ上げてえて、自分はまた元の村へいぬるですわなあ。
「ああ、奥さんなあ、今日はええなぎで、天気もええだし、坊っちゃんをうしろからどんぶりはめてもどってきた。もう坊っちゃんはわしが命あんばい見とどけてきた。殺いてきた」
「あ、そうかそうか、お前はでかいたことしてくれた」言うてまあ、おるんですわな。
 そうするところが、坊っちゃんは、何するいうたって、まあ乞食するいうたって、乞食する術わからしまへんしなあ。そうかというて、昼になりやあひもじいしなあ、晩になりやあ寝るところがなやし、まあしゃあない、二、三軒まわって、歩いとりました。そうしたところが酒屋のようなかまえの分限者の家の女衆が出てきて、「あんたは、まだ若けやのに、なにしておんなる。こんなところにうろうろして」言うたら、
「わしはこういうつごうで、この土地に上がって、なんか仕事があったら仕事にありつきたやと思っておるだけど、なんぞええ仕事はこの辺になやだろうか」言うたら、ほいたら、「まあ風呂焚きだ」いうことで、風呂焚きにやとわれておると、昔は木を焚くし、そこらじゅうすすけてなあ、へわ(灰)だらけの顔になりましょうが。へえでみんなが、
「お前はへわいう名にしてやる」言うて。
「まあ、へわでもなんでもかまやせんさかい、置いておくんなれ」。
 まあ、へえで置いてもらって、毎日風呂焚きをしとったですわな。そうしたところが、その大けな家の片隅のほうの部屋のあたりに、常には灯が見えんのに、その部屋にいま灯が見えるですな.そのへわさんが毎晩げしまったら風呂にはいって着物を着替えてーおしまいの湯ですわな.ーへわさんはなにしろ太家の坊っちゃんださかい、こうして書物を読んだりしますわな。なんにもむだなことはせん。そうしておるところが、その家のお嬢さんが、
「常に灯はとぼらんところに灯がとぼるな、まあどういうこったろうな」思って、へえからおしっこに行ったついでに、節穴からのぞいてみるところが、なんとええ男ではないですかな。やっぱしええところの坊っちゃんだで、そなわりもあるし、ちゃんとして書物読んどるなるのを見とると、
「ああ、こりゃあまあ」て、ほろりとしてしまってなあ、どうもそれからは恋い病いになってしまって。へえからまあ、
「どうもこのごろは娘の様子がおかしい。どこか悪いのでなゃあだろうか」言うて、親衆が心配しとんなる。女中に、
「お前、心当たりがないか」問うても、
「そんなことは心当たりがなゃあ」言うし、お医者さんにみてもろうたところが、お医者は、「からだはどっこも別に悪なゃあ」いうて言いなるだし、ほんならこんだ拝み屋に拝んでもろうたところが、これも、
「どっこも悪にゃあけども、こりゃあ心の病気だ」。
「そうなら、心の病気ということならどういう病気だろうな」思って、まあ考えて、親衆が「ひょっとしたら娘ももう年ごろだし、これのでっち番頭にちょっと思い当たるのがあるだろうかなあ、まあ、いっぺんそいつをみんなに言ってみてだな、お嬢さんのとこへ行ってみてどれが気に入るだやら、いっぺんそういうことをしてみよう」思って、、一番頭から二番頭、三番頭、でっちに至るまで、
「今日は家の娘がちょっとここの部屋におるで、ちょっと病気見舞いにいってやってほしい」いうことになって。せえたら、ひょっとするとお嬢さんにわしが気に入るで、行ってこうかしらんだ、まあ、みな野心を持つでずわな。ほんださかい、一張羅の着物を着て、一番頭がちょいちょいちょいちょい、
「へへへー」言うて行って、ふすまをひょっと開けて、
「お嬢さん、ごめんください。近ごろお嬢さんの気分がすぐれませんそうですが、いかがでございましょう」言うて行くんですわな。それからお母さんはその隣の部屋からそっとその様子を見とりますわな。ところがお嬢さんはひょっと見るなり、
「どっこも悪ない、どうもない」言うて、けんもほろろだな。
「あれまあ、これぁ失格だあ」。
 つぎにまた二番頭が、
「今度はわしが気に入るだろうな」思ってからにまたそこの部屋に行って、同じあいさつをするちゅうと、
「どうもない、どっこも悪ない」言うて、またこれもけんもほろろで。こんだひょっとしたら三番目の番頭さんが気に入るかしらんだ思っとると、そうすると、これもまたお嬢さんがことわるですな。
 ほいで、もうとにかく番頭さんは全部あかん。へえたら女中が言うことには、
「おかみざん、へわも男ですで、へわも行ってもらいましなれな」言うたら、
「へわなんたら、あんなもんがどうなるじゃいな」
「いいや、あのへわも男だで」。
 ほいてまあ、女中が、
「へわやお前もここへ来て、ちゃっと風呂にはいってきれいにして、着物を着替えて、そいてお嬢さんの見舞いにいけ」て、ごうじゃげに言うて命令するですわな。ほいでへわは、「へえ」言うて、へえからまあ、昼風呂にはいってきれいにして、ほいてまあ、その家の衣装を借れて、さあっさあっさっといかにも礼儀正しいかっこうで行きますわな、分限者の息子さんだで、からだに備わりがついて。へえからまあ、さあっと戸を開けて、お嬢さんにちょっとあいさつして。するところが、お嬢さんが、
「へへへへへぇ」言うて、まあ、ええ声で笑うでずわな。お母さんがびっくりしとりました。
それからまあ、お母さんがひょっと見るところが、まあ、「へわや」 「へわや」言うとるそのへわさんの顔が、さあ、あのもんだ、ええ男であって、なかなか落ち着いた人物ですわな。かっこうの悪い、へわの仕事しとるときの顔ばっかし見とるんださかい、お母さんもびっくりしてなあ、「なんとなあ」と感心して。へからまあ、なにかこの男には由緒があるだろうなあ思って、ほいでひとたび尋ねたんですな。ほいたら、
「実はこうこうこういうことで、この土地へあがって、お宅にお世話になりました」いうてあいさつし、
「まあ風呂焚きもさしてもらいまして、ここに勤めさしてもろうて、ほんとうにわたしは命拾いをしました」言うて、あんばいげに言うて。
 するところが、娘がもう気に入ってしまってするもんで、しやってもその人を迎えんなんことになって、まあ、どなたもこなたも「へわどん」「へわどん」言うとったですけど、それこそ今度は娘さんの若旦那になって、一躍若旦那になって、「へわ」どころの騒ぎじゃにゃあ。
ほれからまあ、そういうことになったら、それ相当の仲人さんを頼んでなあ、もらい受けることになって、どちらもええ旦那衆のお家じゃもんださかい、ごつい荷物ができましてなあ、そうして、婿養子もらわれましてな。                (語り手・沢田ヒロ)

丹後版のシンデレラ物語である。ドイツ版というのかグリム童話にも収められている。
「灰かぶり姫のものがたり」
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蔵王権現(舞鶴市上佐波賀)

『舞鶴の民話1』に、宮谷神社(舞鶴市上佐波賀)


蔵王権現   (上佐波賀)

宮谷神社(舞鶴市上佐波賀) 昔、上佐波賀に「蔵王権現」があった。これは田辺藩主・細川忠興公が田辺城の裏鬼門(建物の悪い方向)を祭るために建立した、と伝えられている。
 そのころの田辺藩の支配分布は、北田辺、南田辺、城東の三つに分けられていたが、裏鬼門にあたる上佐波賃に蔵王権現を祭り、大庄屋・斉藤久左エ門を置いて城東(今の東舞鶴、余部全地域)の総まとめ役とした。
 大庄屋は各庄屋を支配し、年貢米は各庄屋が田辺城に運び、帳面は大庄屋がまとめて藩主に差し出した。藩主・細川公も年に一度は蔵王権現に参拝したが、その往き帰えりには大庄家・斉藤久左エ門宅で休憩した。上佐波賀が大正十三年の大火で焼けるまで大庄屋の屋敷が残されていた。その屋敷は座敷が三段になっており、一番上段は藩主が、二段目は側近。大庄屋とその家族は三段目で生活した。
 藩主が休憩のときに使う器や茶道具は、すべて田辺藩の紋が入っており、それらを収納する蔵が別に一棟しつらえてあった。
 蔵王権現のお宮は、今も福来の宮谷神社に受け継がれている。

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阿良須神社(舞鶴市小倉)の神事など

『舞鶴の民話3』に、


天狗とおかめ (小 倉)

  小倉、吉坂、安岡、田中、鹿原の氏神様は小倉の阿良須神社である。こんもりと大木が立ち並ぶ、境内は広く、志楽小にいるとき、子供をつれてここで鬼ごっこ、かくれんぼ、なわとび等遊んだものだ。本殿の裏はなだらかな坂になっている。府の文化財の冊子をみると、この坂はのぼりがまがあった指定地になっている。古老と話しあって掘ろうかと思ったが、指定である以上掘るわけにもならぬ。又境内に大きな腰かけられる石があり、古老の話によると安産石で、よく妊婦が母親とともに座っているのを見かけるという。この宮は金剛院の守神ともいわれ、豊作を感謝する祭りが十月二十九日に行なわれる。その祭りの時は小倉、吉坂、田中、安岡、鹿原の五字がそれぞれの特色を生かした出し物を奉納するのが慣習となっている。ことしは小倉地区が当番で、おはやしの屋台、子供の豊年みこし、総勢百六十人の祭り行列が地区内をねり歩き、正午ごろ神社の境内に到着する。
 森本宮司による神事のあと、杓子舞の奉納が社殿前に作られた舞台で行われる。天狗とおかめの面をつけた男女一人ずつがおはやしに合わせてひょうきんな動きの舞をする。子供たちには理解できないが、おかめが恥じらい、天狗が追う。沢山の見物客が見ているため恥ずかしいことはわかるが、天狗のあらゆる手練によって、おかめもだんだんその気になり、天狗のいいなりになり、天狗の高い鼻がおかめのなかにはいっていく。着物で顔をかくした喜びの顔を見て見物客がヤンヤと手を叩く。又写真のシャッターが切られる。五年に一回のこの舞、私はウフフと笑いながら古老とともに、短時間の練習であそこまで上手になるとは大した役者だなあと話し合った。あの二人の男女は未婚者であるという。このあと、「小倉フル宮太鼓」もあった。それにしてもだんだんむかしの行事が復活し、奉納されることは世の中が平和なためだ。いつまでもこうありたい。

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『舞鶴の民話4』に、

月代田 (志楽の田中)

 泉源寺を過ぎ、右手に東舞鶴高校を見ながら東へいく。生徒たちの楽しそうな話し声に、中学生の頃のことが思い出される。高校生の集団の中を自転車で行く。「教頭先生やな、又取材に行くのか」と声をかけてくれる。「がんばって勉強しとるか」まわりのものが「やってるで、やってるで」とひやかす。なかに自転車を押してくれるのもいる。大学受験の子にしてはほがらかだ。
「ありがとうよ、もう授業が始まるだろう、帰りたまえ」「先生はかたいな−」とひやかすでもほめるでもない声がする。田中に着く。老人が待っていてくれる。
 「先生、待っていたんや、このあいだ書物をひもといたら、柳原の宮の事がでていた。少し難しいので、書き記してきた」と、便せんに達筆でかかれたものをくださった。
 ずっとむかし上古のころだ。魚井の柳原に美しい年がいくつか分からない美女がおいでになった。容貌は少年のようでもある。一宮大神に坐す天女だ。ここに初めて魚井戸を堀り、そこの水が流れて神泉河となる。三日月形の早苗田を定め、稲穂をおまきになる、河の水をひき、田も作られた。天気もよく、水も温もり稲はすくすくとのび、田の稲穂はすべておじぎする様にて、殻実は豊かである。之を民に授け給う。民はその稲をうやうやしくいただき、里長は殻実をもって、白酒黒酒を作り、秋九月、里長は氏人等を率きつれ、この酒を大神に奉った。亦里人たちは三日月形に因みて、田の名を永く月代田と称した。其の形状はその後も変えることなくつづけられた。それが現在の御供田である。田中には次のような苗代田の古歌が残っている。
 千早ぶる種を浸すろ魚井戸に
  五殻始むる田こそ栄えむ  読人知らず
 古代はこのあたり森林がおいしげったのだろう。今そのあたりを深く掘ると、大木の古株が処々に残っていて、ひょっこりでてくるという。

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『舞鶴の民話4』に、

白餅田 (吉 坂)

 田中町をすぎ坂を登ると吉坂だ。北側の山に赤い鳥居が続く。吉坂のおいなりざんだ。自転車を降り社殿の前の池に手をやる。大きな鯉が集まってくる。社務所の方に三毛ネコがいて、ニャーゴよく来たなと歓迎してくれる。冷たい水で頭を冷していると、福村のおじいさんがやってきた。吉坂では一番としよりで物知りである。
 「先生あついのによく来たな」 といいながら物静かに話しはじめた。
 この吉坂は、上古大己貴少彦名命が国土を開発するため、神々みなと相談されたとき崇神帝十年、丹後道主王笠彦笠姫をして一宮大神を鎮めたまいし神社にしてその森を神並森という、崇神帝のとぎ将軍主王が神並の森に一宮大神をお祀りになった。そのとき和稲より、とれたお米を摺り摺りしてお餅をお作りになった。白いおいしそうなお餅や、それをお宮にお供えになったと。それより毎年毎年二千年の久しきより今にいたるまで其の尊称あり。今は南側の奥の森の白髭神社の神田をおつくりになり、今でも稲を植え、お宮さんにおもちをおそなえになった。この神田を村の人たちは白餅田といった。
 「先生たちの志楽荘の研究会にこの話をして残すようにして下さい」 何だかほっとしたような古老、私はうなずき、ノートにメモして「ありがとうございました」とあく手して、もっと話したいような古老に別れをつげ、再び自転車にのって白髭神社の方へ急いだ。

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元伊勢内宮境内社奉斎図(大江町内宮)

こんな図をもらった。ちょっと見にくいかも知れない。本文を見てください。
(内宮境内社図)
内宮境内社奉斎図

丹後の伝説8へトップへ「皇太神社(元伊勢・内宮)」



鶯姫

『定本柳田国男集第二十六巻』(『日本の昔話』)に、

鶯姫

 昔々駿河国に、一人の爺がありました。山で竹を伐って来て色々の器を作り、それを売って渡世にしてゐたので、竹取りの翁と謂ひ、又箕作りの翁とも古い本には書いてあります。この箕作りの翁は或日竹林に入って、鶯の卵が巣の中でたゞ一つ殊に光りかゞやいてゐるのを見つけました。それを大切に家に持って来て置きますと、おのづと殻が割れてその中からまことに小さな美しいお姫様が生れました。鶯の卵から生れた故に鶯姫と名を付けて、自分の子にして育てました。だんだんに大きくなって、後には又とないやうな綺麗なお姫様になり、光り耀く故に又かぐや姫とも呼ばれました。箕作りの翁の伐って来る竹の節の中には、いつでも黄金が一ぱい詰まってゐるやうになって、元は貧乏であった老人が、僅かのうちに大そうな長者になってしまひました。その長者の美しい姫のところへ、聟になりたいと言って色々の人が尋ねて来ましたが、いつも長者の親子からむつかしい問ひをかけられて、それが答へられないので困って帰って行きました。時の天子様はかぐや姫の光りかゞやくやうな美人であることをお聞きになって、狩りの御遊びの序を以て駿河国まで姫を見においでになりました。さうして都に上って御妃になるやうに、お勤めになりましたけれども、思ふ所があってこれをさへ御辞退申し上げました。その年の秋の八月十五夜に、月の光が清らかに、室一ぱいに照り渡ってゐる時、眞白な雲が迎へに来まして、かぐや姫親子は富士の山の上から、天へ上って行ってしまったさうであります。その折にこの一首の歌を添へて、死なぬ薬といふものを天子様にさし上げました。
   今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる
 天子様はこの和歌を御覧になって、大そう悲しみなされたといふことであります。さうして死なぬ薬にも用はないと仰せられて、天に最も近い富士の山の上に持って行って、それを焼いてしまふやうに命ぜられました。それから久しい後まで、富士の煙と請って、常にこの山の頂上が燃えてゐたのは、その薬を焼き棄てた煙が永く残ってゐるのだと言ひ傳ヘてゐたさうであります。

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筑前国怡土郡

『筑前国風土記逸文』に、(小学館版の訳による)

怡土の郡[甲類]
   (筑前の国の風土記に曰ふ)

怡土の郡。 昔者、穴戸の豊浦の宮に御宇ひし足仲彦の天皇、球磨と噌唹とを討たむとしたまひて、筑紫に幸しし時、怡土の県主らが祖丘十跡手、天皇の幸を聞き、五百枝の賢木を抜き取り船の舳と艫とに立て、七つ枝に八尺瓊を挂け、中つ枝に白銅の鏡を挂け、下づ枝に十握の劒を挂け、穴門の引嶋に参り迎へて献りき。天皇、勅して問ひたまはく、「あ、誰そ」とのりたまふ。五十跡手、奏して曰はく「高麗の国の意呂山に天ゆ降り来し日桙の苗裔なる五十跡手、是なり」とまをす。天皇、ここに五十跡手を誉めたまひて曰はく、恪かも。伊蘇志と謂ふ」とのたまふ。五十跡手の本つ土を恪勤の国と謂ひ、今怡土の郡と謂ふは訛るなり。

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新羅の始祖王・赫居世

『三国遺事』(一然著・金思火+華訳)に、

(赫居世)
…そこで、高い所に登り、南の方を眺めてみると、楊山のふもとの蘿井ネオルネオルネオルのそばに、不思議な気配がしているのがみえた。あたかも雷光のような光が地面にさしたかと思うと、そこに一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこへ(みんなが)いってみると、一個の紫色の卵〔あるいは青い大きな卵であったともいう〕があり、(白馬は)人びとをみると、 長くいなないてから天にのぼっていってしまった。その卵を割ってみると、(中から)男の子が出てきた。顔だちや姿が端正で美しい。驚きながらも不思議に思って、その男の子を東泉〔東泉寺は詞脳さのさのさの野の北にある〕に(つれていって)沐浴させてやると、体から光彩を放ち、鳥や獣もいっしょに舞い、天地が揺れ動き、日と月とが(ことさらに)清明であったので、よってその子を赫居世バルクヌイバルクヌイバルクヌイと名づけた〔これはおそらく朝鮮語であろう。弗矩内ブルクヌイブルクヌイブルクヌイ王とも書くのであるが、明るく世間を治めるという意味である。解説者がいうには、これは西述聖母が誕生したことをいったもので、中国人が仙桃聖母を誉め称えて、「娠賢肇邦」(賢人を生んで国を始める)という語があるのもこのためである、とのことである。してみると鶏竜がめでたい兆を現わし、閼英アルオルアルオルアルオルを生んだという話も、西述聖母の現身をいったのではなかろうか〕。位号を居瑟カツハンカツハンカツハン甘+おおざと〔あるいは居西干とも書くがこれは彼がはじめて口を開いたときに、自分で閼智居西干アルチカツハンアルチカツハンアルチカツハンがひとたびおこる、といったために、その言葉によってこのようにつけたのである。以後は(これらの語が)王の尊称として使われたものである〕といった。
 そのときの人びとが、争って祝い喜んでいうには、「いま天子が降りてきたのであるから、当然徳のある女君をざがしだして、配偶をきめねばならない」。この日、沙梁セトセトセト里の閼英アルオルアルオルアルオル蛾利英井アリオルアリオルアリオルとも書く〕のそばに、鶏竜が現れて、左の脇より女の児を一人生んだ〔あるいは、竜が現れてやがて死んだので、その腹を割いてから女の児をえたともいわれている〕。容姿がことさら美しかったが、唇だけが鶏の口ばしのようであった。月城の北川につれていって沐浴させると、その口ばしが抜けてとれた。それでその川を撥(抜)川バルネバルネバルネといった。宮殿を南山の西のふもとに建てて〔今の昌林寺〕、二人の聖児を育てた。男の子は卵から生れ、(その)卵の形がひさごひさごひさごのようであった。その地方の人は、瓢を朴といったので、男の子の姓を朴と呼んだ。女の児は、彼女が出てきた井戸の名で名前にした。二聖の年が十三歳になると、五鳳(前漢の宣帝の年号)元年甲子(B・C五七年)に男は王となり、女は后となって、国号を徐羅伐ソラボルソラボルソラボル、または徐伐ソボルソボルソボル〔今一般に「京」の字を徐伐と訓読しているのも、このためである〕といい、あるいは斯羅シラシラシラまたは斯盧シロシロシロともいった。はじめ王(后の誤)が鶏井から生れたために、鶏林国ともいうが、(これは)鶏竜がめでたい兆を現わしたためである。一説には、脱解王のとき、金閼智を得たさい、鶏が林の中で鳴いたから、国号を鶏林に改めたともいう。後世に至って、ついに新羅と国号を確定したのである。
(赫居世が)国を治めること六十一年目に、王は天に昇ったが、その後七日たって、遺体が散って地に落ちた。后もまた亡くなった。国の人が(二人を)いっしょにして葬ろうとすると、大蛇が追ってきて邪魔したので、五体を別々に葬り、(これを)五陵または虫+也(蛇)陵と名づけた。曇厳寺の北陵がそれである。太子の南解王が王位を継いだ。

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五伽耶(韓国洛東江中・下流域)


『三国遺事』(一然著・金思火+華訳)に、

五伽耶

 〔駕洛記の賛によると、紫色のひもひもひも一つ垂れてきて、六個の卵を(天から)降らした。(その中の)五個は各邑にかえり、一つはこの城にあって、首露王となり、残りの五個は各々五伽耶の主となったといわれているが、金官(国)が五つの数に入らないのは当然である。それが『本朝史略』に、金官までその数に入れ、(さらに)昌寧を加えて記録しているのは間違いである〕。

 阿羅〔羅は耶とも書く〕伽耶〔今の威安〕、古寧伽耶〔今の咸寧〕、大伽耶〔今の高霊〕、星山伽耶〔今の京山、あるいは碧珍だともいう〕、小伽耶〔今の固城〕である。『本朝史略』には、太祖の天福五年庚子(九四○年)に、五伽耶の名称を改めたとして、一は金官〔金海府となる〕、二は古寧〔加利県となる〕、三は非火〔今の昌寧とあるが、高霊の誤りであろう〕、残りの二つは阿羅と星山だといっている〔上の注と同じである。星山はあるいは碧珍伽耶ともいう〕。

伽耶というのは古代の朝鮮の国名である。日本では加羅とか任那などとも呼ばれている。洛東江下流域を中心にあった小さな国々である。562年に新羅に併合される。日本とは特に関係の深い国々であって、出身地を安羅とする漢氏と、金海加羅を出身地とする秦氏は、その代表的氏族とみなされた。神話がよく似ているし、この辺りに特にこだわりが見られるところから、天皇氏やその王権をささえた氏族もこの辺りを出身地とするかも知れない、とよく言われる。丹後にも与謝郡加悦町とか、この故国の地名ではなかろうかと考えられるような名を現在にまで伝えている。後に新羅に併合されたため、日本では新羅とあっても實はこの伽耶諸国であることもある。

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金首露(駕洛国の始祖王)

『三国遺事』(一然著・金思火+華訳)に、

(金首露)

駕洛国記

〔文宗(高麗の十一代の王)朝、大康(遼の興宗の年号)年間に、金官の知州事(金海の長官)だった文人が書いたものである。それを抄録してここに載せる〕。


… 後漢の世祖、光武帝の建武十八年壬寅(四二年)三月、契浴けいよくけいよくけいよくの日に、彼らが住んでいた村の北側にある亀旨〔これは峰の名前で、十朋が伏している形に似ていたから、そう呼んでいる〕に、みんなを呼ぶ怪しげな声がした。村の衆二、三百人がそこへ集まって行くと、人の声は聞えるが、姿は見えない。その声は、「ここに人がいるか?」と聞く。九干らが、「われわれがおりまする」というと、また「ここはどこなのか?」と聞く。「亀旨であります」と答えると、声はまたこういった。「皇天が、私にいいつけてここにこさせ、国を新しく建てて、私をここの君主になれといわれたので、いまここに降りてきたのだ。お前たちは、峰の頂上の土を掘りながら、つぎのように歌いなさい。
  亀よ亀よ 頭だせ ださずんぱ やいてたべるぞ亀旨峰(金海市外)
このように歌いながら舞い踊れば、それで大王を迎えて、喜び踊ることになるのだ」。(そこで)九干どもは、いわれたとおりに、みんなが楽しげに歌いながら舞った。しばらくたってから空を仰いでみると、紫色の紐が天から垂れてきて地面についた。紐の端をみると、(そこに)紅いふろしきがあり、その中に、金色の合子(お盆)がつつまれていた。それをひらいてみると、なかに黄金の卵が六個はいっていて、太陽のように円い。みなのものがそれをみて驚ぎながら喜び、百拝した。しばらくしてふたたびそれを包み、かかえて我刀干の家に持ち帰り、榻(とう)(細長い床)のうえに安置してから、みな解散した。十二時を過ぎ、翌日の夜明け方に、大勢のものが集まってきて、お盆を開いてみると、六個の卵が化けて男の子になっていた。顔だちが麗しかった。床に坐らせてからみなが拝賀し、心をこめて敬った。日に日に大きく育ち、十余日たつと、背たけが九尺にもなって、あたかも殷の天乙(湯王)のようであり、顔は竜に似てあたかも漢の高祖のようであり、眉の八彩は唐高(堯)のようであり、目に瞳が二つずつあるのは虞舜のようであった。その月の十五日に即位した。初めて現れたというので諱を首露といった。あるいは首陵ともいい〔首陵は亡くなってからの諡号である〕、国を大駕洛、または伽耶国と称したが、これは六伽耶の一つであり、残りの五人もおのおの帰って行って五伽耶の主となった。…

亀旨峰は現在もそう呼ばれているそうだが(韓国金海市外)、キジムルと読むと日本のクシフル峰と名が同じである。上の写真はその亀旨峰。『図説 韓国の歴史』(1988河出書房新社)より「金海貝塚のある丘(鳳凰台)から金首露王陵・許王妃陵・亀旨峰など駕洛国神話の世界が見渡せる」とキャプションがある。
五伴の緒を従え、真床覆衾に包まれ、久士布流岳に天孫降臨する邇邇芸とよく似ていると言われる。こちらが先方に似ているのだろう。これが日本の天孫降臨神話の本来の姿であろう。


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朱蒙(高句麗の始祖王)

『三国遺事』(一然著・金思火+華訳)に、


(朱蒙)
高句麗

  高句麗はすなわち卒本扶余である。あるいは今の和州または成州であるといっているが、みな間違いである。国史の高麗本紀には、始祖の東明聖帝の姓は高氏、諱は朱蒙であるといっている。
 これより先に、北扶余の王、解夫婁が東扶余の地にしりぞいていたが、夫婁が亡くなると、金蛙が位についた。このとき(金蛙が)太伯山の南、優渤水で一人の女に出会った。(素性を)聞くと、「私はもと河伯の娘で、名前は柳花と申しますが、(あるとき)大勢の弟たちと遊んでいると、一人の男がいて、自分は天帝の子、解慕漱だといいながら、私を熊津山のふもとにある鴨緑江のほとりの家に誘いこみ、ひそかに通じてから出て行ったまま再び帰ってきませんでした 〔『壇君記』には、壇君が西河の河伯の娘と親しくなって子を生み、夫婁と名づけた、とあるが、今この記事は、解慕漱が河伯の娘とひそかに通じてから朱蒙を生んだとなっている。『壇君記』には、子を生んで夫婁と名づけたとあるから、夫婁と朱蒙とは異母兄弟なのである〕。父母は、私が仲立ちなしに結婚したことを責めたてて、(ついに)ここへ流されて来たのであります」と答えた。金蛙が不思議に思って、(彼女を)部屋の中に閉じこめておいたところ、日光が(彼女を)照らした。(彼女が)身をさけると、日光がまた追ってきて照らした。それで身ごもり、(やがて)一個の卵を生んだ。大きさが五升ほどもあった。王が捨てて犬や豚にやると、食べようとしない。それで道に捨てると、牛や馬が(それを)避けてとおり、野原に捨てると、鳥や獣が(その卵を)覆ってやるのであった。王が割ろうとしても割れず、(仕方なしに)母に返してやった。母が物で包み、暖いところへ置いたら、(その中から)一人の子供が殻を破って出てきた。骨格と外観が人よりもとびぬけてすぐれていた。年わずか七歳でもはや成長し、凡人とは違って、ひとりで弓を作り、百発(矢を射れば)百中するほどの腕前であった。国の風俗に、よく矢を射るものを朱蒙といったので、それで名前にした。
 金蛙には七人の子がいて、いつも朱蒙と遊んでいたが、(彼らの)技能はとうてい朱蒙にはおよばなかった。長男の帯素が王に、「朱蒙は人間が生んだものでないから、早く始末しなければ、後々の心配の種となりましょう」といった。しかし王はそれを聞きいれようとはせず、(朱蒙に)馬の飼育をやらせた。朱蒙は、駿馬をよく見抜いて、(わざと)えさをへらして痩せ細らせ、駑馬にはよく食わせて太らせた。王は、よく肥えた馬は自分が乗り、痩せ馬は朱蒙に与えた。
 王の大勢の子と臣下たちが、朱蒙を殺そうとたくらむと、朱蒙の母がそれを察して朱蒙に「国の人たちがお前を殺そうとしている。お前の才略では、どこへ行くにしても暮らせないことばないだろう。(だから)速く逃げなさい」といった。そこで朱蒙は、烏伊ら三人と友だちになって、(ともに)淹水(えんすい)〔今のところはっきりしない〕に至り、水に向って「私は、天帝の子であり河伯の孫である。今日逃げて(ここまで来たのだが)、追手がもはやそこまでやってきている。どうしたらいいだろうか」といった。このとき魚と 鼈(すっぽん)が(現れて)橋を作って渡らせた。渡り終ると橋がこわれてしまったので、追手の敵騎は渡れなかった。卒本州〔玄莵郡の地〕に至って都を定めたが、まだ宮室を作るひまがなく、ただ沸流水のほとりに家をたてて、そこに住みつき、国号を高句麗と称し、よって高を氏とした〔本姓は解であるが、いま自分で天帝の子であり、日光を承けて生れた、といっているから、高をもって氏としたのである〕。このとき年が十二歳であった。漢の孝元帝の建昭二年甲申(B・C三七年)に即位して王と称した。高(句)麗の全盛期には、二十一万五百八戸であった。
 『珠琳伝』第二十一巻の記録をみると、むかし寧稟離王(?離国王、〈論衡〉吉験篇)の侍婢が身ごもった。占師が占っていうには、「(身分が)貴くなって、やがて王となりましょう」。王が「私の子でないから殺せ」というと、侍婢が「天から気が下りてきて、それによって身ごもりました」といった。子が生れると、これは不吉だとして豚小屋に捨てた。豚が息をかけてやった。今度は馬小屋に捨てると、馬が乳を飲ませ、死なないようにした。ついに扶余王となった〔これは東明帝が卒本扶余の王となったことをいっている。この卒本扶余もまた北扶余の別都であるから、扶余王といったのである。寧稟難とは夫婁王の異称である〕。

朱蒙は鄒牟・東明とか、都牟王・都慕王とも記される。彼を始祖とする氏族は姓氏録にも数多く見られる。桓武の生母・高野新笠の祖先だと伝える。延暦8年の『続日本紀』の記事に次のようにある。


大枝山陵(京都市西京区大枝沓掛町付近)に埋葬。皇太后の姓はやまとやまとやまと氏、諱は新笠といい、正一位を贈られた乙継の娘である。母は正一位を贈られた大枝朝臣真妹である。后の祖先は、百済の武寧王の子である純陀ジュンダジュンダジュンダ太子から出ている。皇后は容姿も徳もすぐれて麗しく、若いころから評判が高かった。光仁がまだ即位しないときに、めとり妻とした。桓武・草良親王・能登内親王を生んだ。宝亀年中に氏姓を高野朝臣と改めた。今上が即位すると、皇太夫人と尊称され、延暦九年には遡って皇太后の尊称が奉られた。百済の遠祖である都慕つもつもつも王は、河伯かわのかみかわのかみかわのかみの娘が太陽の精に感応して生んだ子という。皇太后はその後裔である。…  (東洋文庫の訳による)

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金閼智(新羅の金氏の始祖)

『三国遺事』(一然著・金思火+華訳)に、

(金閼智)

閼智アルチアルチアルチ 脱解王代

 永平(後漢の明帝の年号)三年庚申〔あるいは中元六年ともいわれているが間違いである。中元は二年しかない〕(六○年)八月四日、瓠公が夜、月城の西里をとおっていると、大きい光が始林〔あるいは鳩林ともいう〕の中からさすのを見た。紫色の雲が空から地面に垂れさがっており、雲の中に黄金のひつひつひつが木の枝に掛っていて、光がそこから発し、また白い鶏が木の下で鳴いていたので、このことを王に申しあげた。王がその林にお出ましになり櫃をあけて見ると、中にひとりの男の児が横になっていたが、すっと起きあがった。あたかも赫居世の故事そっくりなので、その言葉にちなんで名前を閼智アルチアルチアルチとつけた。閼智とは朝鮮語で子供のことである。子供を抱いて宮殿にかえってくると、鳥や獣もいっしょについて来ながら喜んで飛びはねたりした。王が吉日を選んで太子に立てたが、後になって婆婆に譲り王位にばっかなかった。金の櫃から出たというので姓を金氏とした。閼智は熱漢を生み、漢は阿都を生み、都は首留を生み、留は郁部を生み、部は倶道〔あるいは仇刀〕を生み、道は未郷を生み、鄒が王位にのぼった。新羅の金氏は閼智から始まっている。

始林はソホルの表記である。アルチは子供のことという。しかしアルだから日の子のことかも知れない。
兵庫県朝来郡和田山町寺内に式内社の佐伎都比古
阿流知あるちあるちあるち命神社(二座)がある。
都怒我阿羅斯等=天日槍は阿利叱知干岐とも呼ばれる。このアリシトは閼智のことではなかろうか。紀に火の葦北国造阿利斯登が見える。残欠の蟻道彦大食持神が何か似ているように感じるのである。
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アリラン

『朝日新聞』(060404)に、

*アリラン、希望の調べ**脱北ビアニスト「自由」奏でる*
という記事があるが、その解説部分だけをおかりすると、


意味は…由来は…謎めく
 アリランが南北朝鮮で共通なのは、分断前の20世紀前半、日本の植民地統治下で急速に広まったからだ。しかも、メロディーと歌詞が単純で、苦しさや抵抗、家族との別れ、統一への願い、団結の思いを込めやすいからだといわれる。
 90年代に入ると、スポーツ国際大会の南北同時入場で、国歌代わりにアリランが演奏された。南北が統一されれば、アリランが新しい国歌の最有力候補になるのは確実だ。
 それでいてこの歌は謎に包まれている。アリランが何を意味するのかは不明。歌詞に出てくる「アリラン峠」も実在するのか架空のものなのか分からない。南北朝鮮では、アリランという言葉は歌を超えて「民族の魂」のような意味でも使われる。「アリラン祭り」があちこちで開かれ、3月には韓国で「アリラン」という銘柄のたばこも発売された。
 有名な旋律のアリランはソウル周辺部・京畿道(キョンギド)(道は県に相当)の民謡が元になっているといわれるが、韓国内で、源流のさらに先をたどると600年前、北東部の江原道(カンウォンド)の民謡にさかのぼるという説がある。
 その江原道の三陟(サムチョク)市に「アリラン峠」という坂道がある。ぺ・ヨンジュン主演映画「四月の雪」のロケ地から徒歩10分。坂の高低差は20メートルほどだ。
 昔は赤っぽい泥道だった。隣町との間を結ぶ、たった一つの道で、貧しい商人が露店市場へ牛車などで品物を運んで行き来した。
 地元の老人会長、洪寅杓(ホンシンピョ)さん(78)は言った。「峠の由来は知らない。ただ、昔はみんな貧しかった。荷物を背負い、リヤカーを引いて坂を上り下りするのを見るだけでつらかった。アリランとは、その苦労そのものを指すんだ」
 1950年の朝鮮戦争で洪さんは地元の部隊に入った。村内を行進していると、荷物を担いだ子とすれ違った。泣きながらアリランを歌っていた。兵隊たちが思わず立ち止まった。だれもが悲しかった。その思い出がアリランと重なる。
 江原道旌善(チョンソン)郡には、浪曲のような「旌善アリラン」が伝わる。炭鉱の閉鎖で廃校になった小学校を利用した「アリラン学校」校長、秦庸王+宜(チンヨンソン)(43)は屈指のアリラン研究家だ。お年寄りらの肉声をテープ400巻分集め、今年はカザフスタンまで同胞のアリランを収録しにいく計画だ。
 秦さんはある時、気づいた。歌詞は喜怒哀楽さまざまだが、動詞に現在形や未来形が多い。「峠を越すとは言うが、越えたとは歌わない。今の苦しさを耐え、未来への希望を歌う。私たちの生き方そのものなのです」    (市川速水)

 *曲は100種類、歌詞は3千*
「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えていく」という最も有名な歌詞と旋律は「本調アリラン」と呼ばれる。1926年10月、日本支配への民衆の抵抗を暗示した映画「アリラン」がソウルで封切られた。その主題歌に使われ、朝鮮半島全域や日本、中国でヒットした。映画の羅雲奎(ナ・ウンギュ)監督が民謡を編曲し詞をつけたとされるが、テンポも旋律も今と少し違い、歌い継がれるうちに節回しが定着したようだ。
 メロディーも歌詞も少しずつ異なる伝統的なアリランは100以上、歌詞は3千を超すといわれる。昨年、韓国で発売されたCD「アリランの謎」(シンナラ)で解説を書いた音楽プロデューサー、李吉+吉雨(リ・チョルウ)さん(67)は「民謡のようでいて、実は起承転結の明確な、現代の流行歌に近い要素が詰まっている」。

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