↑現在の第二埠頭。(かつての引揚岸壁。当時はここまでは伸びていなかったかも知れないが…) これは引揚船ではなく、観光クルーズ船だが、出迎えのために、ここまで入るのにどれほどうるさいか。テロ対策だとかいうことで、港を管理する役人どもは、近づく人間の全員がテロリストと本気で決めてかかっている、こんなバカどもに疑われる方としては本気で頭に来る。こいつらの方がよほどにテロだ。バカが時のバカ権力を傘にきくさって、何をするににしてもええかげんにさらせといいたい、市民病院を潰した者が市民の生命安全を守るためテロ対策を、と寝言をいうようなもので聞くのもアホくさい。港に不完全なフェンスを一部に張っただけの権力のはしくれが一般市民の安全を守ったりできるか。 国家も軍隊も守れなかったし守ろうともしなかった。市民の生命安全を守ったのはただ国境を超え、国籍を超えた市民たちの力だけであった。そうした教訓をしっかりと見ていこうかと思う。 民間人の引揚の様相↑昭和20年当時の西舞鶴港。ずっと海へ伸びているのが第二埠頭。『引揚港・舞鶴の記録』より 敗戦直後のド最初は、「平」はまだなくて、昭和21年7月までは西舞鶴港へと引揚げてきた。吉田沖の検疫苗地で船上検疫を済ませて2埠頭へ上陸した。市史には、 舞鶴へ入港の第一船は、南朝鮮方面で飛行場建設に従事していた陸軍の復員将兵二、一○○人を乗せた雲仙丸で、昭和二十年十月七日午前七時西港へ入港、埠頭で出迎えの婦人会員らから温かい湯茶の接待を受け、中部第七一部隊の係官から食費、食糧などを支給されて小憩の後、その場で解散、それぞれ懐かしい故郷へ帰っていった。この年は計六隻が入港したが、引揚者はいずれも朝鮮からであった。当時は引揚援護機構がまだ整備されていなかったため、一般邦人は舞鶴西警察署、陸軍軍人は中部第七一部隊が受入れ業務を行った。また帰国者は上陸後二四時間以内に帰郷させねばならなかったのと、援護金や物資の給付規定も明白でなく、郷里までの旅費とわずかな食糧または食費のみで、軍人は中部第七一部隊で給食を受けたが、邦人は埠頭で婦人会員らの炊出しを受けるというあわただしさで、国内全体がまだ敗戦の混乱状態にある中での引揚げであった。 翌二十一年に入ると、引揚げはようやく軌道に乗り、年間五五隻が入港したが、この年、出迎えの市民たちのもっとも注目を集めたのは、六月から七月にかけての葫蘆島よりの引揚げであった。この人たちの多くは、永年現地で築き上げた社会的基盤も財産も失い、乗船地で支給された衣服以外は、ふろしき包み一つを持った程度の着のみ着のままの姿であった。なお、葫蘆島からの引揚げの大部分は博多、佐世保、仙崎へ入港し、舞鶴へはこの年入港の四四隻、約一一万四、○○○人だけであった。 |
関連サイト内も超強力にサーチ。 ↑丹後田辺に過ぎたるものの一つかも知れないが、西舞鶴駅。引揚当時と較べるとずいぶん立派になった。松がここに昔からあるが、当時を偲ぶものは、もうこれくらいしかない。 ↓最近こんな案内が建てられた。 (*`Д´*) ボーッと生きてんじゃねえよ! これから10年が過ぎた、ある日のこと。 カンバンが倒れている。 立て直してくれた人があった。 写真をとって「大坂の戦争展」に出すのだそう。大坂と奈良の人だった。 倒れているのは、舞鶴人のココロかも… あと10年もすぎれば、何も残らないかも… もともとはここには国鉄の何か施設がたくさんあった、いまはそれらがすべて取り壊されて駐車場になっている。大型家電量販店を!のボーッと生きてる役人市民多数の町のことだから、避難設備でなく、そうした物を立てれば、この松も切られてしまうことだろう。 「引揚船のリスト」 「民間人の引揚-1-」(このページ) 「民間人の引揚-2-」 「民間人の引揚-3-」 -------- 「舞鶴引揚記念館-1-:設立の趣旨」 「舞鶴引揚記念館-2-:シベリア抑留」 「舞鶴引揚記念館-3-:満蒙開拓義勇軍」 丹後の地名トップ |
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民間人の引揚の様相 -1-初期の引揚は西舞鶴港であった。これらの人々は朝鮮、中国、満洲から引き揚げてきた。市史は、 引揚船が西港へ入港していたごく初期の昭和二十年十月からしばらくの間は、上陸地第二埠頭へ町内会の婦人会員らが出迎えて、温かい湯茶と、その場での炊出しでもてなしたほか、市厚生課の職員が出向いて引揚者の相談に応じていた。また、引揚者はその日のうちに帰郷することになっていたので、指定列車が出発する西舞鶴の駅前および西地区の目抜き通りに接待所を設けて、やはり婦人会員らが湯茶の接待をし、見送りもしていた。特に二十一年六月から七月にかけては、連日、満州にいた人たちが葫蘆島から二、○○○人ないし三、○○○人ずつ、延べ二万四、○○○人も引き揚げてきたので、この人たちの一時収容所になる市内上安寮は関係機関が協力して万全の態勢を整えた。 このころは、第二埠頭へ上陸すると、ここから海舞鶴線で西舞鶴駅を経て字上安に仮設の停車場で下車、上安寮へ入り、二四時間以内に手続きを済ませて帰郷していたので、西舞鶴駅前には三月から一○か所に合計三、○○○人収容のテント張りの収容所を設けていたが、五月からは約五○○坪の木造待合所を建てた。また、この人たちは、着のみ着のままの婦女子が多かったので、市では衣料品を一般家庭から募って支給した。 民間の引揚については「舞鶴引揚記念館」には展示がない。展示がまったくないわけでもないが、ないに等しい超貧弱なものである。西舞鶴港へ引き揚げてきたというような話はまったくなかったのではないか。 入場料300円も取るくせに案内パンフはA4を三つ折りにした超安物しかくれない。しかも中味は何もなくバカがつくったインチキのような「腑抜け」た代物で、300円タダ取りである。 入場無料の所の方がもっといい魂の入ったパンフをくれる。舞鶴はもっともっと厳しい事を言う者がいないと本当にダメになるだろう。こんなクソ文句を書いても何の得にもならないが、そんな思いで書くわけである。 ↓『引揚港・舞鶴の記録』より 博多で行われた「博多港引揚資料展」(平18)のパンフより引かせてもらうと、(写真、キャプションも) … 序章 −海外での生活− 日本は明治期以降、日清戦争(一八九四〜九五年)、日露戦争(一九〇四〜〇五年)、第一次世界大戦(一九一四〜一八年)、シベリア出兵(一九一八〜二二年)によって、台湾領有(一八九五年)、韓国併合(一九一〇年)を行い、中国大陸にも進出したため、多くの日本人が旅立ちました。 中国の民族運動による強い抵抗にも関わらず一九三二年三月、日本の傀儡政権、「満洲国」が建国されました。同年八月、日本政府と「満洲国」は「二〇カ年百万戸送出計画」を国策として、一九三七年から十年間に日本人農家百万戸、五百万人の入植を構想し、「満洲」では満洲拓殖(公社)、拓殖委員会など、日本では「兵農両全運動」をおこして、開拓青年隊、義勇奉公隊などを結成し、進出を行ったのです。 その後、第二次世界大戦(一九四一〜四五年)へと戦争が続き、中国大陸から南方、さらには太平洋へと戦況が拡大していきました。 日本を目指して −海外からの出発− 中国からの引揚 終戦直前の昭和二〇(一九四五)年夏、「満洲」・関東州には、開拓団はじめ、政府関係、鉄道・鉱山会社など、約一五五万の一般邦人が在留、駐在していたといわれています。 中国軍管理地域(華北・華中・華南)や、台湾では、中国側の理解によって、比較的順調に、日本人は引揚を行うことができました。 一方、ソ連軍管理地域の「満洲」(中国東北部)では、翌二一(一九四六)年四月に、ソ連軍が撤退するまで、措置が行われていませんでした。「満洲」への開拓団入植の総人員数は約二七万人にのぼりましたが、働き手である、壮年男子(一七〜四五歳)の多くは、昭和二〇年六月以降、戦争拡大を目的とした「根こそぎ動員」により、約五万人が召集され、ソ連国境警備にあたったのです。これらの人々は、終戦直前の八月九日ソ連軍参戦により、多くが戦死か、抑留されるに至ったのです。 そのため「満洲」からの引揚は、老幼婦女子だけの逃避行となり多大な危険が伴いました。 朝鮮半島からの引揚 博多港への引揚でも第一の出発港となった、半島の南玄関・釜山は、李朝時代(一三九二〜一八九七)には日本人の居住も認められ、日朝交易の中心地として繁栄した町でもありました。 明治時代以降、日本が軍事力を背景にして、大陸への進出政策を行ったため、明治四三(一九一〇)年、「日韓併合ニ関スル条約」を調印、一切の統治権が日本へ譲与され、首都・京城(現ソウル)に朝鮮総督府がおかれました。 併合時、朝鮮半島には約一七万人の日本人が移住していましたが、終戦前年の昭和一九年には日本軍軍属約三四万(朝鮮半島北部に一二万七千人、南部に二三万人)、在留日本人は約七一万人もいました。 昭和二〇年八月一五日の終戦によって、朝鮮半島は、日本の植民地支配から解放されましたが、終戦前の同九日ソ連軍は、朝鮮半島北部に進攻を開始しました。その結果、北緯三八度線は封鎖され、以北はソ連軍、以南はアメリカ軍管理地域となりました。こうして一般の人々の南下が禁止されたため、「満洲」や朝鮮半島北部からの引揚は、困難をきわめたのです。 … ←「乗船する朝鮮半島北部からの引揚者」 (昭和21年夏、三宅一美氏撮影) 釜山港、桟橋の光景。北緯38度線を越えてきた人々の引揚は、「満洲」地域と並んで最も困難を伴った。写真中、はだしで歩く少年が見える。 ←博多埠頭に着いた「満洲」からの引揚者 (昭和21年6月、米国公文書館資料) ←釜山港で乗船を待つ人々 (昭和21年夏、三宅一美氏撮影) ←博多港についてホッとした家族 (昭和20年10月、米国公文書館資料) 胸に下げる白い包みは遺骨を入れた袋と思われる。 引揚港同士の交流会のようなものが舞鶴で開催されて、その時にもらったものであるが、これは福岡市の保健福祉局が作ったパンフ、入場無料だけれども、こんな中味のあるものを作ったようである。 38度線は、福岡市も書いているようなことであったという。 この時、私の恩師はここにおられた。どちら側が封鎖したのかよくわからないのであるが、恩師の話によれば、そんなに一度に南下してきても対応できない、こちらも多くて手一杯だ、南下せずに、北は北で引き揚げろと、マッカーサー側だったと言われた。 38度線の北側は関東軍の管轄、南側は日本本土軍が管轄していたので、日本を占領したアメリカ軍とソ連軍はこの線を堺にしていた、元々はそうした軍事面での境界線であった。しかしお互いに「国境」は封鎖されていて、勝手に日本人民間人が動くことはできなかったが、初期の頃は38度線は密かにではあるが、同じ朝鮮国内のこと、北朝鮮国や韓国ができる以前のことであって割合に簡単に越えられたようである。戦勝国とはいえソ連もナチにより大打撃を受けていて日本民間人の引揚といっても鉄道も食糧もムリ、アメリカに要求するがこの国もできない、当時アメリカにできなかったらどの国にもできないのである、民間人の群れは歩いて38度線を南へ越えていったという。 その人数が膨大になりアメリカも手を焼いた、そんなに来られても食糧もテントも医療もない、それで恩師が言われたことが実際に行われたようで、米軍側からきびしく封鎖してくれと依頼があり、途中からはきびしくなったという。 在外邦人保護はなによりも日本国政府が本来はやらねばならないことだが、例によって何の役にも立たないクズ連中、在外邦人保護のために軍事力強化などと言うだけで、実際は自分が最初に逃げるような連中である、いまもってどこが悪いとかよその国の悪口ばかりを言っているが、よその国政府はよその国の国民を保護するためにあるのであって、日本国民を保護するためにあるのではない、よほどに余裕ある人道的国家でもなければ期待できるはずもない。そうした幸運はそうあるはずもないのである、そんなこともわからない連中である。行ったらヤバイですよ、保護できませんよ、と言って送り出したのではない、半分だまし半分強制で送り出した人々ではないか、それが死ぬ目にあっているのに、いやアメリカがいやソ連がというだけで何もしない、何よりも一番悪いのは日本政府である、負けたらどうなるか、負けたらどうすべきか何も事前には想定していなかった。もっとも必要としたときに自国民すらも守ろうとしなかった政府であった、そして八紘一宇だとかアジア解放の正義の戦争だったとか、書くのもアホくさくなってくる。 ナチですらすべての海軍水上艦艇を出して事前に全員を脱出させたというが、その足元にも及ばない。その腐りきった情けないDNAは今にもしっかりと引き継がれているから、だいたいは想像できる。せめて北朝鮮のどこかの港に手持ちの全船舶を集結させろよ、ここで何日でも待つから全員をここへ連れてきてくれ、全員を連れて帰る、と。そうしたことは何もしないで、よその国の悪口ばかり、聞いていても腹立たしく情けなくなる。 今は日本国内も大変である、食う物さえ事欠いている、そこへ何百万人もが引き揚げてきたら、大変なことになる、引き揚げるな、現地でやってくれ、の腹があるわけで、一日も早く引き揚げさせようとはしていない、「温かく迎える」の態度がまったくなかったことがこの時期の動き全体のベースにあるのである。それを当館までがどこぞの宣伝に乗せられて「引揚者は温かく迎えられた」など言うのを聞くと本気で情けなくなる、そう言いたかったら看板を「政府ならびに外務省広報館」とでも掛け替えてからにしたらよかろう。 恩師は、官吏ではないがロシア語ができたためだろうか、そこを何とか越させるため奔走されたわけであった、外交交渉ではラチがあかない、というのかこんな大事な時に外務省などが存在したのかどうかあやしい。恩師は外務大臣からの感状を持っておられたが、このときの活躍に送られたものであった。 北から逃れてくる大量の日本人、38度線北側の難民キャンプも日に日に人々がどんどん増えてくる。北は冬がせまり、喰う物さえ事欠き死者が増え続けた。このうちの1割は死亡すると見て、土が凍らないうちに皆でその墓穴を掘り用意したというが、実際の死亡者はその想定を上回った。 当時北朝鮮には20万もの民間人がいたそうである、この時代の歴史研究はほとんどなく、ナゾ部分ばかりで正確な話は何とも保証しかねるが(明らかにしたくない者が多いのだと思われる)、ほとんどがなんとか38度線を徒歩で越えて帰国したという。その間の寒さと飢えと病気などなどにより3万5千人ばかりが死亡したといわれている。 日本の支配層にとっては明らかにしたくない隠したい歴史なので、正確なデーターは得られないが、恩師はここにこの時ちょうどおられたので、その現地レポを続けよう。 夜陰に乗じて、少しずつ小さなグルーブを組ませ案内人を付けて、38度線というのか、38度線といっても実際には一本の線が引いてあるわけではなく、案外に巾のある複雑な地形の38度線地帯なのであるが、そこを幾グループも南下させ、脱出させ続けた。違法というか命令違反なのだが、そうしないと全員が飢え死に、凍え死ぬ。 全部越えさせてやりたいが、大量に越えれば途中で見つかり、またここへ送り返されてしまう。 38度線地帯の地理に詳しい、現地の朝鮮人たちが窮状を見るに見かねて案内人を引き受けてくれた。何人も引き受けてくれた。日本人に対しては決してよい感情など持っているはずもない朝鮮人たちであった、途中でソ連兵に見つかり、シベリア送りになった若い案内人もあった。そうした過去と命がヤバイ危険を承知で引き受けてくれた。「私が頼んだ若い朝鮮人が捕まりましてシベリアに送られました、どうなったでしょう、心が痛みます」と本当に胸をかきむしられるのであった。 国家も軍隊も救えない時に救ってくれるのは、こうした国境を越え、国籍を越えた市民同士の繋がりであった。 そんなある日、「ワシは×本願寺の僧侶であるが、父系は皇族の誰それとつながりがあり、母系は政府の高官誰それとつながる。同胞の窮状は見かねる。マッカーサーに直訴して何とかさせたい。ここを通してくれ」という人物が現れた。 恩師は人がいいものだから、こんなのに騙された。どうもソ連が追っていた大物スパイでなかったかと思われると言われた。 これを逃がせたということで恩師は何十年の判決を受けて、最後の引揚船で帰られたのであった。 「ワシはそんな大物ではないんですがな。近衛文麿さんの弟さんたちと同じ所におりました。日本に帰れたら私を訪ねて下さい。何かいい職でも紹介しましょう、などといっておられたが、ここで亡くなられました。」。 彼は何かミュージカルかそんなものに取り上げられていたのではなかったかと思うのだが不勉強でこれ以上はよくわからないのだが、弟さんと聞いたと記憶するが、本当は息子さんのことではなかっただろうか。… |
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↓「二十三年十一月下旬からは市内のみならず近隣農村の婦人会も、蒸し甘藷を帰郷列車に運んで接待に努めたが、次はその時の接待表の一部である」という舞鶴市の文書。 私なんぞはこの頃に生まれたのであるが、少し落ち着き始めたころではなかろうか。これらの引揚はナホトカからの主に陸軍関係であった。今ではイノシシもまたいでいくという蒸かせた甘蔗が超ゴッツォだった。あたい万金のイモ。これしかなかった、写していても泣けてくる。〆というのはどうした単位なのか不明。 ソ連地区引揚者婦人会甘蔗接待表
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