民間人の引揚の様相 |
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民間人の引揚の様相 -3-↑『引揚港・舞鶴の記録』より 舞鶴引揚者の手記-2-ふるさと舞鶴へ引揚げて モーニング・コート海を渡る 引揚証明書の交付 銀行員としてお手伝い 満洲白眉 どなたか読んで下さる人があればいいのにと思っています。(引揚者の手記) 引揚四〇周年として引揚者の手記を募集したところ、全国から多くの寄稿を得たという。『私の海外引き揚げ』(昭和60・引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い実行委員会編)より 原典にはフルで記載されていますが、ここでは住所・氏名は…にしています。 ふるさと舞鶴へ引揚げて 京都府舞鶴市… 霜尾… ◎西舞鶴の港湾に入って 葫蘆島(当時満洲国錦州省)を出港した米国船リバティ(旧四平省在住。約一、○○○名乗船、同行数隻)は、約三昼夜航行して西舞鶴の港湾に入った。すぐに上陸と思いの外、検疫等のため約三昼夜停泊したままであった。多分、大君と匂崎の中間海上であったと思う。左右に山の迫った海岸、船の正面は西舞鶴ふ頭、その先は妻の生家、松陰の街並が見える。しかし、故郷に帰った実感はまだ沸いてこない。終戦一ヶ月程前より消息絶えて満一年、元気で今帰ったことを一刻も早く親元へ知らせたい、いらだちを抱いた。 停舶中の船中で、素人芸能大会が催された。京都へ帰る姐さん連中による、祇園小唄と手おどりが出た。そこで私も、舞鶴出身は自分達のみと思ったので、飛入りで舞鶴小唄や、宮津節を披露したあと「皆さんようこそ舞鶴へ、私のお供をして頂いて…」といってしまった。大笑いになっていた。 ◎上陸第一歩と「DDT」攻撃 検疫も無事済んでいよいよ上陸である。現在、小樽航路のフェリー発着ふ頭へ第一歩を踏んだ。直ちに附近の軍用建物(現舞鶴倉庫?)に入れられ、頭から全員DDTの白粉を浴せられ、荷物を広げたまま、一時戸外へ出された。しばらくして、合図と共に荷を片附けに倉庫へ戻った。まだ白煙の立ちこもった倉庫内、既に要領のよい若者が、荷物をもって出て行くのに出くわしたが、見覚えのない男だった。少しおくれて戻って来た中年婦人は「あれがない、何が足らん」とさわいでいたが、どうにもならなかった。 荷物を無くした婦人には気の毒でならなかったが、たとえ間違って仕舞い込んだにせよ、引揚者同志で、どさくさまぎれに人の物まで失敬する者の行動は、終戦のすさんだ世相の一端ではなかったか? ◎西舞鶴の上安寮にて 国鉄西舞鶴駅からふ頭と上安寮へは引込線で連らなっていて、特別列車で上安寮へ入った。 上安寮は現在の自動車学校の手前、市営住宅地にあった軍の徴用工員宿舎で、当時空家になっていて、木造二階建てのバラック風のガランとした殺風景な所であった。ここへ収容されて、一般邦人の引揚手続き、中には軍人、軍属に関係のある人が多くいたため、復員事務がなされた。又、ここで二日間を要した。この寮に入って間もなく、私に面会者があるとの放送を受け、玄関に出て見ると、私の妻の兄弟、姉妹等七、八人。まだ何も連絡をしていないのに、どうして分ったかとびっくりする反面、さすがに肉親の顔を見てうれしく涙が出た。そして、今この寮に入った数千人に及ぶ引揚者の内、私達(妻と長女二才)三人のみが面会を受けていると思うと、舞鶴に生れてよかったと、つくづくうれしくなっていた。 この時、夫々持って来てくれたニギリ飯が、約百個程もあったろう?、私は早速多勢の前でこれを広げた。すると周囲にいた大人も子供も、顔見知りのない者達も飛んで来て「ヤー銀メシや!!」と歓声を挙げた。そしてやにわに口に入れていた。私も妻もこのニギリ飯にありつくことは出来なかったが、少しも悔いてはいなかった。むしろ食べた以上にうれしかったし、差入れて呉れた肉親の厚意に対しても決して恥じないであろう。いかに食糧に飢えていたか、内地の白い飯はあこがれであったであろう。殺伐な引揚げの道中、祖国日本の舞鶴に着いて、日本人の本性を表現した一面ともいえよう。 ◎引揚げの友よ、さようなら いよいよ解散の時が来た。ようやく内地に辿りついたが、帰る先は東北や、北海道、沖縄の人もいた。又、九州や四国の人が多く、関西は少なかったが、全国に散らばる引揚げ者、未だ数日かからねば郷里へ帰りつけない。又、故郷といっても東京や広島、長崎等は戦災で家があるやら、身寄りがいるやら、心配な人達が多かった。 内地(日本)は初めてという満洲二世も多くいた。停泊中、海岸線を見て「日本は狭いなあ、山ばかり。道はどこにあるの」と問うた人のことを想い出す。疎開地四平街を出てから二十日近く経っていた。私は重いリック、妻は子供を背負って寮を出た。そして汽車に乗り込む同 胞を見送りながら歩いた。 私は三十才になったばかり、私の青春!!これでおさらばだ。何となくせいせいしたものと、これからのこと、一から出直しの人生、これまで考える暇のなかった身の振り方など、複雑な感情が去来し初めたま、生家へ向っていた。 昭和二十一年七月二十七日太陽の直射を浴びながら…。 モーニング・コート海を渡る 大阪市… 川崎… その日、奉天鉄西にある奉天曹達会社の社宅に住んで居る全員に「明日、内地への引き揚げを開始する」と引揚事務局から緊急の通達があった。寝耳に水の様な緊急通達に、私達は嬉しさよりさきに唖然としていた。内地への引き揚げは一年ほどさきになる筈であったからであ る。というのは、北満で災難に合った開拓団の人達を、優先的に引き揚げさせるためであった。それゆえ、私達は一年間位いは売り食いして、頑張る用意が整った矢先の通達だった。 そのころ、国府軍と八路軍が新京で衝突、戦火を交えて激戦中のために、北満からの引き揚げ列車が新京の手前で立往生してしまった。コロ島では米軍がリバテイ型の引揚船で、避難民の到着を首を長くして待っていたが、誰も姿を見せない。米軍は腹を立てて「誰でもいいから引揚船に乗せろ!!」と奉天の事務局に命令して来たのであった。私達は、家財道具など明日の出発では処分する時間もなく、あわただしく引き揚げの荷造をする始末だった。引揚者の荷物には規制があった。着替えの衣服は春と冬の二着と、必要限度の日用品と乾パンに水筒くらいで、賣沢品は勿論禁止されていた。独身の私は、簡単な荷造を終へている処へ、まだ復員して来ない課長の奥さんが、新しいモーニングを持って入って来て、「主人の形見として日本に持ち帰りたいが、何か方法は無いか」と淋しく笑う。私の着替えの衣服として持ち帰れば簡単であるが、モーニングでは着替えとして認めない筈である。思案しているうちに私は、これだ!!と考えついた。 「そのモーニング、私が着て帰りませう」着て帰る服装には規制が無い事に気が付いたのである。 翌朝、私はモーニングを着て登山帽を被り、リュックサックを背負い、水筒をぶら下げて外に出た。私の姿を見て奥さんは吹き出したがすぐ真顔になって「すみません」と小さく言うと頭を下げた。集合場所に着くと、すでに集まっている人達は、モーニング姿の私に視線を集中した。チンドン屋になった気持で、私は開き直って列に入った。出発前になると、国府軍の将校が全員を前にして、流暢な日本語で「我が国の敵は日本の軍閥で、皆さんには罪は無いので、このまま日本に帰ってもらう。その旨を日本の人達に伝へて下さい」そんな意味の演説をした。その将校は帰り際に私のモーニング姿をジロリと一瞥していたがそのまま立ち去った。 コロ島に着くと、想像以上に大きなリバテイ型の引揚船が侍っていた。日本の上陸港は舞鶴だ。船に乗り込んだ私は、早速モーニングを脱いで奥さんに渡すと、胸に抱く様に受取った。その顔は微笑を浮べていたが目には涙が滲んでいる様であった。 引揚証明書の交付 京都府舞鶴市… 浜川… 舞鶴引揚援護局に就職したのは一九四六年(昭和二十一年)六月である。その日は雨上がりの蒸し暑い日で、葫蘆島から一般邦人の引揚船が舞鶴に入港した日であった。そのころの援護局の庁舎は、西舞鶴倉谷の旧海軍工廠第二造兵部の庁舎であった。その五月に旧平海兵団から移ってきたと、言っていたと思う。復員後に仕立てた背広を着て、午前八時過ぎに一階にあった業務部援護課のあたりで待っていると、元陸軍少佐(後でわかった)の援護課長が出勤してきて、私を室内に呼び入れ、「森寮知っているか、そちらへ行ってくれ」と威厳のある言い方であった。どうすることも出来なくて、片隅でかしこまっていると、業務部長の秘書の若い女性が連絡に来た。よくしゃべる人で、おかげでその場を救われた。しばらくしで迎えの人と一緒にトラックで十五分、森寮に 着いた。ここが私の最初の勤務場所で、引揚証明書と初めて出会ったのもここであった。 市内森にあった森寮は、引揚者のうち家族の誰かが国立舞鶴病院へ入院したために残っている人達、帰郷先の決まらない人達、といったような何らかの理由で直ちに帰郷できない人達が、一時滞在するための施設で、旧海軍の勤務員宿舎が使用され、木造二階建の建物三棟と付属建物からなり、一見して収容所のたたずまいであった。そこには寮長以下十二人(女性四人)ぐらいの勤務員がいた。私は旧海軍工廠の技師であった五十過ぎの人と第一寮の受け持ちになった。階下は事務室、食堂、倉庫等で、私達の八畳ほどの控空は二階にあった。この控室をはさんで、二十畳ぐらいの和室が廊下に面して六室あったように思う。多いときには、この二階だけで二十数人も滞在していた。食事のこと、帰郷準備、慰問の受け入れ等、この人達の世話が私の仕事であった。この年の夏は非常に暑かった。その上、食糧事情は一段と悪化し、遅配、欠配が始まった時期で、滞在者の食事も極めて少量で気の毒であった。 七月であったと思うが、高松宮殿下が視察においでになり、皆んな玄関に並んで気楽にお迎えした。森寮に滞在する人は、二、三日の人もあったし、又、一か月ぐらいに及ぶ人達もあった。私は出来るだけその人達と接した。敗戦による混乱の中での移動の苦労話、引揚船での水葬の話など強く打たれるものがあった。帰郷後の生活についてもいろいろと話をした。夏が過ぎると森寮も暇になった。その年の十二月初めに、シベリヤからの引き揚げが始まり、二隻続いてナホトカから入港した。旧軍人、軍属がほとんどであったことは、まもなく復員者が二人森寮にまわってきたのでわかった。その人達から石炭ストーブにあたりながら抑留中のことなどよく聞いた。一人は沖縄の出身だったと思う。一週間ほど経ってこの人達は帰っていった。ナホトカからの引揚は、私の兄がシベリヤにいる関係もあって特に強い関心があった。 援護局庁舎はナホトカからの引き揚げが一時休止され、大連からの引き揚げがあった一九四七年二月に本格的な引き揚げに備え、倉谷から東舞鶴の旧平海兵団地区に移った。その際、私は森寮から援護課引揚証明書交付係へ配置がえになった。大連からの引揚船が二月に何隻入港したか覚えていないが、二月中、折りからの寒さにもかかわらず、常時、援護局はざわざわしていたように思う。以後、私は一九五○年四月に退職し舞鶴市役所に就職するまで、引揚証明書交付係に勤めていた。四十年近くを経て、民族の大移動とも言われた海外同胞の引揚業務の一端に携わってきた私自身、その内容については記憶も薄れてきた。終戦になり、あかあかと灯火をつけ、思う存分窓を開くことが出来たあの感激をしも、忘れかけられてきているように思う今日、引き揚げという世界史の中の出来ごとについても、一般には忘れかけられてきているのではないかとも思う。 一九四七年四月にシベリヤからの引き揚げが再開された。引揚証明書交付係は四七年の春に新築された別棟に移った。郵便局、税関、国鉄の案内所、帰郷旅費支給所などとの同居であった。窓口は寮の側にあり、どの寮からもわかりやすい便利な場所に位置していた。引揚証明書は引揚者にとって最も大事な書類であった。タテ十五、六センチ、ヨコニ十数センチぐらいの大きさで、世帯単位に発行した。引揚船が入港すると、船中で記入された外地引揚調査票を受け取ることからこの仕事は始まった。まずこの調査票と引揚証明書とに同一証明番号を打ち、調査票によって証明書に氏名、帰郷先等を記入し、引揚乗船名、上陸月日等を押し、証明書の左半分を占めている帰郷後の物資受給票を、世帯人数に応じて調整して証明書を作成した。 引揚証明書には、証明番号、乗船名、各種印など多数押す作業があったが、これは実に手間がかかる、肩のこる仕事であった。この作業は、引揚者が上陸して係員の誘導で桟橋(二か所あった)から二、三百メートルのところにある税関検査所(屋内練兵場)まで行き、持ち帰り携行品をそこに置いて、大浴場で入浴、DDT消毒を受けて入寮する一連の業務が終わるころまでの数時間の間に、二千枚あるいは三千枚作成しなければならなかった。係員は六人又は七人(女性二、三人)で、限られた時間での作業は極めてハードであった。引揚船の入港は早朝が多かったが、午後の入港、上陸の際は特にそうであった。証明書の交付は窓口で引揚げの団ごとの代表者に受領証をとって渡した。問題のあるときは寮に出向いて渡すこともあった。 ナホトカからの引揚げは四七、四八年ともに年末から翌年五、六月ごろまで休止されたように思う。いつ再開されるのか……その都度問題になったことを覚えている。 引揚業務は、何事もなく平穏ばかりではなかった。特に一九四九年のことであったと記憶しているが、京都駅での帰郷列車から全員下車事件などは、当時大きく報道されたと思うし、又、引揚者リンチ事件、敵前上陸と称し鉢巻をしての上陸、この一方では日の丸部隊と呼称しての上陸さわぎがあったり、引揚業務を拒否して上陸延期があったことなどが思い出されてくる。それぞれに事情はあるにしても、引揚証明書は交付しなければならないので、上陸拒否などがあると、どういうふうに接して渡したらよいか、ずい分気をもんだこともあった。 一千人をこえる引揚援護局職員は引揚業務に熱情をもって没入していた。四七年二月から五○年四月までの間に、私が引揚証明書の作成に携わった数は何万枚かわからないが、とに角多くの引揚者の方々と、一枚の小さな紙片を通してかかわってきたということは事実である。よわい耳順に達し、ふり返ってみると、海外同胞の引揚業務に携わってきたことは、私の歴史の中で忘れることの出来ない事柄である。 銀行員としてお手伝い 京都府舞鶴市… 佐藤… この度、海外引揚げ四十周年記念行事が行われる事となり、引揚基地舞鶴にとって何よりも意義深く思います。と同時に、銀行員として直接引揚事務遂行に携って来た私共にとりまして、往時を思い感無量の思いでございます。 当時、安田銀行舞鶴支店は日本銀行の舞鶴代理店をしておりました関係で、敗戦と共に始まりました海外同胞の引揚げという、史上に例を見ない国家の大事業完遂に向けて、特別班を編成の上、引揚船入港の都度、厚生省舞鶴援護局あるいは上安寮へと出張致しました。 その行員も、地方の小支店のみでは賄いきれず、入港時には京阪神の支店からも数十名程度が特別出張の形で応援に来て、昭和二十二年には新規採用者も大幅に増員され、受け入れ態勢の万全を期しました。 実務的には外貨の引揚げと、円の交換業務を主とし、兵に三百円、下士官に五百円、将校に千円、並びに一般民間人に千円の一時金支給等(二十二年当時、旧制中学卒男子初任給二四○円、同女子二○○円)。援護局側からの前渡金支払い等の要請による支払いなど、援護局、税関、銀行の三者が連繋をとりながら、進駐軍当局の監視の下で進められました。又、勤務時間も、入港船の都合で今では考えられない事ながら、女子行員も深夜に及ぶ事も珍らしくなく、不服をいう者すらありませんでした。 外貨は満銀券(満洲)、朝鮮銀行券、儲備券(北支方面)、ルーブル券(ロシア)等あり、はじめて見るそれらの紙幣は、虎ノ子であったのであろうか、表面がすり切れ、種類も判別出来かねる状態のものもあり、引揚者の御苦労の一面を垣間見る思いでした。 目のあたりにする引揚者は、地区によってその差が大きく、初めのころの民間人は、カバン程度の荷物もありましたが、後になる程悲惨で、暮れなずむ舞鶴湾の夕焼を背にして、裸のまゝの幼児を片手で抱き、ドンゴロスの袋に首、手の個所に穴をあけ、たゞそれだけを纏い、異臭を漂わせて帰られた一団もありましたが、これが精一ッぱいの衣類だったのかと思うと、溢れくる涙を禁じ得ませんでした。 当時は我々とても最悪の食糧事情で、就中、出張行員の食糧調達は大変な苦労でした。天台のお寺を借り、銀行派遣の傭員さんの賄いで起居しておりましたが、来る日も来る日も南瓜々々で、作る方も食べる者も、これには大分音を上げ、交替される次回の出張者には、しっかり引継がれておりました。 あれから四十年!!終戦記念日近くになると、よく報道されていたボランティアとしての婦人会員さん達の出迎えの光景を見聞きする度毎に、御苦労を察しながらも、一方、引揚事務の大任が無事果されたその一角に、いままで一度も語られる事のなかった私達金融機関の働きがあったのだ、という事を何時も自負して居りました。 敗戦がもたらした稀有の体験でしたが、様々な教訓も得、又、踏んではならない前者の轍を、厳しく見つめる姿勢をも合せて持ち得ました。今はもう物故者となられました上司の方々や、苦労を共にした同僚にとっても、忘れ得ぬ歴史の日々であり、又、青春の真只中にあった若い行員達にとりましても、誠心、誠意ひたすら尽し得た事に、今尚深く誇りを感じる次第です。 満州白眉 京都府舞鶴市… 倉垣… 戦前までは豆腐を作る大豆は内地産大豆のほかは、満州大豆が主な供給源でした。中でも満州白眉と呼ばれていた胚芽の部分が白くなっている物が、最上級といわれていました。もちろん満州というのは、現在の中国東北部であることは言うまでもありません。 この満州白眉にまつわる思い出が、私に「引き揚げ」という言葉を想い出させるのです。私の父は泉音吉といいます。明治二十四年、京都府与謝郡の伊根町で生れました。当時の若者らしく、小学校四年の課程を卒業すると、軍港時代ではなやかな舞鶴の地で働き、大正十二年に独立して豆腐製造業を始めたのです。 終戦時は、現在地の五条八島に店舗を構えていましたが、ご多聞にもれず、当時は食糧難であり、大豆なんて見たくてもありませんでした。やがて引き揚げが開始され、平海兵団の兵舎が、引揚者の故国日本での上陸第一歩の地になりました。この引揚者の給食業務は引揚援護局が行ない、父の店は援護局より指定を受け、一手に豆腐の納入をする様になりました。しかし、前述の様に、大豆は市中に全く姿を見せませんでした。それで、戦中、海軍の軍需物資として残っていた大豆を、援護局の職員が原料と製品の完全管理の下に、父の店に運び込んできました。その大豆が満州大豆であり、白眉大豆であうたのです。 でも悲しいかな、長期間倉庫に積まれていたので、もう、それは大豆の皮ばかりとなり、虫がつづり、大豆を持つと長々とぶらさがり、水洗いすれば、そのほとんどが水に浮き、流れてしまう始末でした。でも、父は母と共に、夜おそくまで、その虫でつづった大豆を、たんねんに、手でもみ洗いして、一粒でも流さない様に注意深く扱っていました。私は当時、旧制中学の一、二年生でしたが、父母と共に一生懸命大豆を洗ったことを覚えています。 父はその作業をしながら「戦争で外地に行かれ、シベリヤに抑留された人々が、やっと帰国出来て、その第一夜の初めての朝食を、日本本来の食品である豆腐入りの味噌汁で食べてもらう事で、長らくご苦労された引揚者の心を少しでも和やかにし、故郷の味を想い出してもらって、元気に再出発してもらうのだ」と、私に話していました。 今日では、とても使いものにならない古古古大豆を一生懸命洗い、それで豆腐を作っていました。何日か援議局で過された引揚者が、五条桟橋から東舞鶴駅に行進される時は、どんなに忙がしくても、必ず道路に出て皆様を見送り「御苦労様でした」と声を掛けていたのを、今も鮮やかに思い出します。父は、日ごろ日本の豆腐屋の中でも、日本全国のどの様な小さな町の人にでも、引揚業務にかかわった事で、自分の作った豆腐を食べてもらったことを、ほこりにしていました。 この明治の気質を持った父も、すでに永眠しています。 今、私はこの父の気持を心とし、今日も豆腐作りにはげんでいます。 |
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