「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスター(舞鶴引揚記念館藏)→
「昭和13(1938)1月、拓務省(植民地の統治などを行った官庁)が募集要項を決定し、満15〜18歳の青少年を対象に募集をおこなった。満州の農地開拓と防衛が主な任務であった。」のキャプションがある。
見たこともないポスターだが、当時はいたる所で見られたという。
「行け少年は大陸へ」「大陸は呼ぶ」とか「大陸の花嫁」などの満州移民の募集ポスターの一つである。
「昭和十四、五年ごろから、小学校を卒業した少年たちが、先生はじめ、大ぜいの人々にむりに勧められて、満州開拓のために、そしてわが国をまもるという名のもとに満洲へわたっていきました。大江町の各小学校では、毎年二、三人(一校当り)の割当てがあったのです。」という。続けて『大江町風土記2』は、
〈
ことばのでなかった校長先生
そのころ(昭和十六年ごろ)は高等小学校を終る子供の中から毎年一人か二人、青少年義勇軍に送りだしたものです。
そのとき送ったのはたしか二人だったと思います。小学校の校庭に、役場の人、村の人々、小学校の子供がみんなならんで送別式をしました。二人は、まだ小さいからだに、学生服を着て正面に立っていました。今日、お父さんにも
お母さんにも、友だちにも別れ、やがて遠い満洲に行って農業をやることになるのです。二人はおくばをかみしめていますが、ひざのあたりはブルブルふるえているようです。村長さんの送別のことばも、なみだまじりですみました。次は校長先生の番です。
「君たちは名誉ある義男軍として本日出発することになりました。これはこの学校の名誉でもあります。お父さんやお母さんも……」
ここまで言って校長先生のことばは、ハタとつまってしまったのです。そして両眼からなみだがあふれています。つづけて言おうとされるのですが、どうしてもことばにならないのです。二人の目からもなみだがこぼれ落ちます。みんなのほおにもなみだがつたいます。しばらくすすりなきの声だけがしていましたが、やがて校長先生は泣きじゃくりながら、
「からだをだい…だいじに…してください」とだけ言ってさがられました。二人はそれでもなみだをぬぐって「元気で行って参ります。」と言って式がすみ、みんなで停留所までおくったのです。私にはこの式のようすを忘れることができません。
このときの二人は、どちらも戦死して帰ってはきませんでした。
〉
←『少年たちの満州』(新井恵美子)より
なにもこんなこまい子を満州みたいなところにやらんかってよさそうなものだ、と周囲は不憫がった。という。
三八式歩兵銃は銃剣を付けると160センチあり、この子の身長以上になる。(重さは4キロ弱)。反動が小さいとか命中率が高いとか作られた当時(明治三八年)では名銃であったが、それは40年も昔のハナシ、メデタイ国の老朽原発のようなもの、敵国はすでに自動小銃の連射式に進化していて、一発一発撃つ式のこの銃の「職人芸」思想では、時代遅れで実戦にはハナシにもならないタケヤリであった。
死ぬことは分かり切ったことだったので、校長先生は泣いたのだろう、最後は箱爆弾を背負い戦死したのであろうか。
舞鶴の学校の記録にはほとんど残されたものがないようである。役場にもなく、公的な記録はまず見られない。
当時義務教育であった高等小学校(尋常高等小学校、昭16から国民学校高等科)2年を卒業するのは、今の中3の年代であった、上から割り当てで来る強制に近い(ビンボー人の子弟にだけ割り当てられる)ものだから、舞鶴の各小学校でも当然あったはず。
昭和15年末までに、舞鶴から15名、東舞鶴から16名、加佐から22名と公式記録に見える、それ以降は不明。関係資料は敗戦直後にすべて焼却されたと思われるが、それを展示すべく使命を負った当館ともあろうものならば、そうした基本をしっかりと調べて展示してもらいたい。何人がムリやりの動員を受け、何人がどこでとうして死んだか。ウズベキもよいが足元をやれ。
全国的に見れば右表のよう→
(これにもモレがあるようで、実際はもう少し多いようである。貧しい農家の二、三男が十町歩の土地がもらえると言われ、半ばはダマシと強制で、学校当たり2、3名とかの割当で行われたという。役場や教委が知らないわけはないが、資料はない。8割近くは農家の子弟だが、それだけではなく空襲で親を失った孤児なども加わったと言われる。特に悲惨なのは最期の方で今の中3、高1で満州をさまよった、最前線に配置されていて軍服に似ているし、訓練も受け武装もしていたため正規兵と間違われて撃たれた)
←「青少年義勇軍の訓練所・入植地図」
(『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎)より)
ソ連軍は北と東西の三方から来る、その備えのつもりであろうか。開拓などは実はどうでもよいことであったと分かる。ナチスドイツを打ち破った世界一のソ連陸軍である。仮に関東軍がいたとしても勝てまい、ましてこうした子供や開拓民ではどうなる相手でもなかった。
満州は日本が武力で建てた日本の傀儡国家である、そうした不正をどこの国もが黙って見ている国際社会であるはずもなかった。武力て押さえるしかないのだが、その武力がこの程度、活火山の上にあるようなもので、爆発するその時に一気に崩壊することは避けられない。
こうした危険な場所に子供を送るなどは虐待で今なら逮捕ものだが、当時のスンバラシイ国にはそうした考えはなかった。心ある村長さんや校長さんは涙でイヤイヤ送り出した。バカの人でなしは本気になってバンザイバンザイと送り出した。当市の場合ははたしてどうであったのであろう、記録はないが、その後継者を見ればだいたいは見当がつくかも…
←「昌図特別訓練所の正門」(『満蒙開拓青少年義勇軍』より)
↓下に引くくらいが小学校百年誌の述べるすべてである、多くの百年誌にも見られない、これを書かずにナニが百年誌か、であるが、過去を振り返ってみようとかの気持ちが多少でもあれば上等なのが日本の現実である(百年誌を編纂している学校は全国でも舞鶴くらいしかない)。
ロクな記録もなくスコーンと忘れて、そんなことアリマシタンデスカエとトボケルが、全国の各小学校へ割当で来ているので、どこでも実際にあった歴史であった。学校も役場も市民もムリに進めてバンザイバンザイと両手挙げて送り出したのである。そして資料焼却してスッコーンである、勝手が過ぎよう。
こうした記憶が残る場所では決して役場や学校関係者などはバンザイはするなよ、ナニも教えてもらっていなく、ベンキョーもせずに呆けているのかも知れないが、キミたちはその後継者である、何も軍部や国家や大資本だけが戦争を進めたのではない、役場も学校もまた一生懸命に進めた、一部市民もまたワルノリして進めた、ワシは戦後生まれで関係ないでは、また同じ失敗を繰り返す。役場は見ただけでも過去を呼び起こす、その職員がバンザイなどすれば大変な不快感を与えるものになる。キミの最愛の者が死んでバンザイされたらどう思う、サルでもしないだろう。うしろで頭を垂れて静かにしているのがいい。
義勇軍の数は全国で86530名(あるいは91903名、この方がより正しいよう、書類が散逸していて正確にはわからない)、3年間の訓練を終えると軍の基地よりまだ先の入植地に開拓民兼最前線のさらに先の最最前線兵士として送り込まれた、彼らのうち亡くなった者は24000名と推計されている。
まだ保護対象の少年を最も危険な戦場の最前線へ送る、こうした児童虐待は世界史上にも例がなく、悪名高いナチですらさすがにしなかったものであった。
(似たものに唯一「少年十字軍」があるが、これは国家が企てたものでなく、パレスチナへ行けば神の恩寵が得られると信じた少年少女が集団宗教心理に駆られたクルセーダで年齢は義勇軍よりもさらに低かった、子供のおかげまいりのようなものか、途中で心くじけ故郷に帰ったものも多かったというが、最後までかんばった者は悲惨であったという。現実と架空のデッチ上げが区別できないスンバラシイ幼稚性、どこかの国の指導者と臣民にも似たような運命に終わった。その人数は義勇軍の半数くらいだったと言われる)
海軍もこれをマネしたのか、「海軍特別年少兵」があった。この名の映画もあるそうだが、手元に満足な資料がないのだが、義勇軍と同じ年齢で、学校割当で来たという。戦場経験談を話す人の年齢が当時20才にも達していないので、この人ホンマに兵隊だったのか、と話全体を疑う人も出るようなことだが、20才に達していない帝国海軍水兵もホンマにあった。
従来からあった海軍少年兵よりさらに2才も若く しかも特例に基ずいたものであったため特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称されたという。昭和16年に海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した。その数は17年の一期生3200名をはじめ 二期生4000名 3、4期生各5000名 20年まで約1万7200百名におよび、横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されたという。昭和の白虎隊とも呼ばれたという、まずは海兵団に入るが、短縮卒業ですぐに前線に送られたようである。幼いだけに犠牲者も多く、5千余名が、南溟に或は北辺の海に短い生命を散らしたといわれる。
これだって割当だからのイヤイヤ組もあり、それで死んでいるのだから、ナチもしないような歴史を知らぬ一部が言うのはともかくも、海軍の町とか言って市全体でバンザイはなかろう。
内地も「根こそぎ動員」に近いもので、兵隊でなくとも兵隊のようなもの、学徒動員などで舞鶴工廠へ来て若くして亡くなった人もある。そうしたことをまったく忘れたかのようなことで、いや赤れんがは戦争とは関係がありません、近代化遺産です、とか言っても、それは無知かゴマカシの類であろう。
それに繋がる危険性がありそうなことは小さくとも火遊びをしてはなるまい、風向き変わり、人々の心が変わり、大きく燃え広がればもう消せない、もう止められない、もう戻すことはできない、小さいことから大破滅が来る。これくらいのことにうるさいヤツだと言われるだろうが、小さいうちに消さねばなるまい、小さいと甘く見てはなるまい。そう信じる者が勝手にやるにはどうしょうもないが、税金で運営されている公共の機関のトップが先頭切って始めたものであるが、そうしたことはもちろんだめであるし、後から応援してもなるまいし、まして前面に出るなどは決してあってはならないことであろう。舞鶴市民の全体がメデタイと思われてしまう。
『倉梯校百年誌』は、
〈
大塚 戦争がはげしくなるころには少年が戦争に参加しましたなあ。満蒙開拓義勇軍に行った野村徳男君はこの町内です。
竹林九 少年航空兵に行った奥本美好君が休暇で帰って学校へ話に来られましたなあ。 「軍神」となられた馬場さんは中舞鶴の谷さんとはじめて特攻隊でなくなられたんです。
〉
『志楽校百年誌』は、
〈
子はお国の宝
明治から昭和の敗戦までは、産児制限など思いもよらぬことで、このため五人ぐらいの子持ちは普通で七人や八人あっても決して恥しいことではなく、幼い弟妹を連れ子守りを兼ねての通学も、とがめられるようなことはありませんでした。
国力の増強は、学校教育の普及と人的資源の確保にありとする国の基本方針は、子沢山なるが故の貧困家庭をつくる結果となり、満蒙に新天地を求めざるを得ない一因をなした訳ですが、戦争を遂行するためには更に人的資源が必要となり、やがて国防婦人会が、ザルを腹にまいて「産めよ殖やせよ」と踊ったり、子沢山の家庭を誇るなど異常な事態へと発展して行きました。
〉
『与保呂校百年誌』は、
〈
男女児童が木炭搬出
土に親しむ教育で生産的価値を十二分に発揮している与保呂国民学校では田中校長以下全員汗をかいて皇国のため働いている。十一月十五日午後一時半から五時までかかって、高等科で組織している勤労報国隊の手によって奉仕されたのである。可憐な女生徒も四貫俵二俵を安々と背負って山を下る様子は誠に時局下臨戦態勢を如実に示している。担当の先生もびっくりしている。かくて汗によって得た貴い収入は、隊員の申し合せで満州開拓地に少年義勇軍として赴いている同校出身の先輩に正月のお年玉をおくろうと決めている。山奥に堆積された世の中に役にたたなかったこれらの遊休木炭が木炭増産の助けともなり尊い汗の体験ともなるのである。
右は昭和十六年の新聞紙上にのっている本校の一面である。十三年に国家総動員法ができ、国民生活の統制を強化し、軍需生産のため職廃業を強い徴用をしていた。農家は老人と子供だけで耕すようになった。これは小学校にも戦争の波は打ち寄せていたのである。
〉
ワタシは学校で義勇軍とか満州開拓団とか何も教えられた記憶はない、今の学校もだいたいそうではなかろうか、近くの中学校の歴史教科書では、写真のキャプションとして「19歳以下の少年からなる満蒙開拓義勇軍」と一回だけ出てくるが本文にはない。都合の悪いことは教えない、日本の公教育の一番の欠陥かと思われる。悪い事こそ教えなければなるまい、エエコトなどはあるかも知れないが、それは実はどうでもよいことで、子の前では失敗した話をすべきで、自慢話などすれば子はアホになるだけであろう。失敗こそが最良の教科書になる、失敗こそが最善の遺産になる。
侵略を受けた国では中学校くらいから教えるという、日本の教育界などのエライさんどもの勝手な言い分からは多少は偏向しているかも知れないが、アンさんらのように知らぬ顔して高給だけは持って帰る、泥棒も顔負け者よりは、教えようと努力しているだけずっとマシである。
そうしたことで「満蒙開拓青少年義勇軍」もまたまた始めて知るという人も多かろうから、多少復元してみたいと思う。
←当館の展示コーナー。
ひいき目にみてもよくて中学校教科書程度のものか、全体的には及ばないか、の程度か。
当館は舞鶴市が展示するもので、市ということで内容は一般人には信用され疑われず無警戒であろう、まして修学旅行で来て下さいと宣伝するなら、せめて中学教科書程度の正確さと中立性を厳格に守った知識サービスであっていただきたい、舞鶴人の一部の偏見をそのまま展示すればその資格を失う、慎重であってもらいたい。
(ワタシのミタテではそうした子弟教育上の一応の基準からすら右ヘ逸脱していないか、教科書を片手に置きながら展示しているの感じはないので、もしや本当に修学旅行で訪れようと計画されるなら、市と言っても赤れんが赤れんがと言って平気で右ぶれする市であり、原発でも頼りないのは報道などでご承知かと思う。時の権力に、一部の意見に大きくぶれる市だと知ってもらって当館も事前に一応は下調べをしてもらって教育上の配慮をよく検討されてからにさせた方がよいかも。)
この写真は始めて見るが、あどけない明るい表情が並ぶが、これはしかしごく一面であった。
マスコミ向けの宣伝用ヤラセのような写真で、ここから彼らの本当の生活や立場、心を見抜くことはしにくいように思われる。
当時の宣伝雑誌(当館藏)↑
昭和11年に「満洲農業移民百万戸移住計画」が立案された。向こう20年間で百万戸、人数で500万人を日本から満州へ移住させ、満州の1割の人口を日本人で占めようというもので、ゼニ投資や軍派遣だけでなく、民間人や農民も送り、人を送り出して満州国の人口比で1割程度は日本人としようとする本当に植民地とする計画であった。本気で満州を理想の国にしたいと考えた人がどれだけあるかが問題で、関東軍のような危機がくれば一番先にバイナラするような者が来ても迷惑だけで、それも考えず単に資本や人だけを送り出したとしても満州はよくはならない勝手な机上の計画だと思われるが、ともかくも計画も出来、予算もついて、送り出し機関も設立されたが、ここで早くも大障害が発生した。
翌12年7月7日の盧溝橋事件発生。日中の全面戦争が始まった。すぐに消せばよいのに、拡大に拡大、勝手になだれ込んで一番乗り競争をして戦線はどんどん広がって、どうにもならなくなって行った。先の満州事変は関東軍だけ、プラス一部独断越境した朝鮮駐屯軍くらいの現地軍だけで、簡単に全土を一応は制圧できたが、中国本土は甘くない。点と線を押さえれば満州は制圧できたか、本土は点と線だけでは制圧できない、面を押さえなければならなかった。敵は面の中へ消えてしまい、あるとき突如として目の前に表れた。日本本土の何倍をある中国本土を面まで制圧する、できるリクツはない。
点と線の防衛は万里の長城を守れないリクツと同じである、攻撃側は何も長城のすべてを破壊しなくてよい、弱い所を1点で突破すればよい、しかし守る方はどこで突破されるかわからないから長城のすべてを守らなければならない。勝負は見えている。日本軍の制圧した鉄道や道路だって、どこか1点の橋でも爆破すれば、全線がアウトである、ゲリラ戦法には正規軍は勝ちようがない。ナニだとクソどもがと正規軍が駆けつけた時にはもうとっくにゲリラはどうしようもなく広い面の中に消している。附近の村々をゲリラと同じと見てすべて殺す奪う焼くのヤケクソクチャクチャ戦争をするが、虐殺を繰り返せば繰り返すほどにゲリラはいよいよ強くなっていく。相手側に正義があり、軍事的にも何をやっても勝ち目が見えなくなってきた。もともとが勝てたりする道理はなかった。国家予算に占める軍事費の割合は7割ごえ、多くは増税と国債でまかなわれた。
満州事変とはくらべようもない員数と兵器・弾薬を投入しなければならなくった。陸軍は16個師団を投入、動かせない関東軍10個師団を除いて手持ちの師団をすべて投入した動員限界を超える大変な話であった。福知山20聯隊(京都16師団)も青島派遣軍(北志那派遣軍)に加わり9月に出動、河北省大沽に上陸し天津から同省中部で子牙河作戦を展開する、戦車航空機を集中投入したが、待避作戦で決定的な打撃を与えられない。引き続いて上海戦線に転用されて上海戦、無錫戦、南京戦へ、それから河北戡定戦、徐州戦、武漢攻略戦、京山攻撃、安陸作戦、襄東会戦、限りなくいつ終わるともなく、勝っているのか負けているのかもわからない、攻めても攻めても敵はすでに待避していて、入城すれば町は日の丸を掲げているたが、それは表面だけのよう、無限に兵力のない日本軍はいつまでも駐屯もできずやがては次の戦地へ移動あるいは基地へ引き上げねばならず、そうればすぐに中国軍が戻ってきて元通りになる、勝っても勝っても、いくらやってもダメ、前途に対してはただ徒労感と悲観論が蔓延した、道義なき勝利なき出口なき、これは勝てそうにもないぞ、これは自衛ではないぞの疑念を生じさせるに十分な泥沼戦争が続いた。海軍も第2・第3艦隊を投入し、主力の新鋭航空兵力も投入し渡洋無差別爆撃を行った、南京へ行け行けと言っていたのも海軍であった。生産力を大幅に上回る大動員であり、国内では金属の供出が行われ、戦争物資生産のために民需は切り詰められて生活必需品の配給がはじまった、真珠湾以前から物資不足はもう生活必需品にまで及んでいた。
『昭和陸軍全史』より↑
『福知山聯隊史』より↑
戦車ならまだよいが、歩いて歩いて20聯隊はアメリカ大陸に勝とうということである。「行けど進めど麦また麦の」日本本土の何十倍もある広大な中国ではそれくらいの戦力ではまったく足りない上に、その損耗も激しく、予備役後備役を大量招集し「特設師団」を編成して中国送り込まざるを得なくなるが、実際はそれでも足りない。経済力何十倍のアメリカと戦争するバカと同じで、アメリカとほぼ同じ広さの国土(日本の25倍)と人口(日本の5倍くらいか)を持つ中国相手に本気で戦争をいよいよ始めたのである、勝てるかどうかの見当もつかぬ大バカばかりが必敗の戦争を始めたとしか言いようもない。よほどに中国人はバカで日本人は優秀と思い上がって気が狂ってでもいない限りは思いも浮かばない発想であった。
「中国では日本は勝っていた」というのはウソであろう、勝てるかどうかは地図を見ればサルでもわかる。「これは勝てないな」と思ったという兵士の感想がホントを見抜いていたと思われる。
←中国はアメリカと同じ広さがある。いくら兵隊がいても足りるわけがない。
予備役後備役は現役退役後のもので後には15年とか服するというもの、安全な後方で治安維持や警備に当たる程度の警察に毛がはえた程度の戦力しかないが、満州移民にピタリの年齢の男子がこうしたことで次々に兵役に取られてしまった。中国派遣軍の現役率は10%ばかりで、90%はこうしたピッタリ年代で、それがゴッソリと持って行かれた。歩兵についてみれば2/3から3/4は予後備で現役は各師団200名ばかりであったという。
これでは移民計画達成はムリと考え、年齢の低い層に目を向けた。先食いだ青田刈りだ。今でたとえれば、国債地方債大量発行のようなものか、原発再稼働のようなものか、将来世代の犠牲の上に一部の現政治勢力や経済勢力の勢力維持のために予算をばらまいて選挙戦で勝とうとするような無責任な話であった。国民もそれを何とも思わないどころか渾身粉骨してそれに従ってきたのだから、もう国は内から亡びているようなものであった、あとはいつどうした形をとって、その予約された滅亡が現実化されるかだけのものであった。ある程度はそれを予測していた人もあっただろうが、もう止めることはできなかった。
昭和13年に「青少年義勇軍募集要項」を作成し、ただちに募集を始めた。モラル低いですねーのマスゴミどもは「白虎隊」とか讃えて歌まで公募し大宣伝ヨシイョしたおかげか、たいした手立てなくとも応募が多かった。定員は5000名であったが、応募は9950名にもなり、急遽定員枠を広げて7700名とした。年端もいかぬ子は判断ができないため、こうしたことでもドっと誘導されてしまう、特にマスゴミさんは慎重な配慮が求められる。
しかしその後はゴミが大宣伝するようなユメものでもない、の先輩たちからの口づての現実認識が強まったためと思われ、大きく減少する。
昭和14は目標3万人に対して応募数は1万余。15年度は1万2千に引き下げだが、9千余にとどまった。応募数が減少すると当局は困り果てた。
応募には父兄の承諾は絶対条件ではあったが、原則自由応募だが、それだけでは予定数が確保できなくなった。何として挽回するか。そこから都道府県ごとに応募人数割当、さらに各学校も割り当てられ、半ば強制になった、きわめて不公平な「徴兵制」と同じようなものになった。だいたいの目安は作られていたが昭和16年ころからはそうなったという。このころからの公文書が舞鶴にはないが、これ以前は本人の意志だが、この頃から役場や学校が前面に出て半ば強制で説得・勧誘に動いたのである。水上勉氏も当時は府の募集担当だったそうで、周山あたりを勧誘に歩き10名ばかりの「応募」があったという。各都道府県への割当数が決められ、さらに市町村へ割当、さらに各学校への割当数が決められた
、だいたい1小学校あたり最低2、3名ほどになった。それに応じて各校の担当教師が卒業生に「応募」するように働きかけた
。義勇軍送出において母学の果たした役割は大きかった。もし母校が拒めばここまでは被害は大きくならなかった。イヤイヤに送り出された少年達は深くセンセを恨んだ。あの手この手で上から勧誘をすすめさせたが、熱意がないと言うのか、アレはクビだなどと言われながらも、それにはあまり乗らなかった県や教師もあって、ヤリスギた、アホが足らなかった、人殺しと同じだったの痛恨の反省から戦後の教職員組合の「教え子を再び戦場に送らない」のスローガンが生まれた。
「1千万も2千万もかけて一生懸命に子を育てて、やっと大きくなったらハイおおきにと企業に全部取られて、何をしていることやらね…」とか言った声を舞鶴あたりの親からも聞くことがある、現代版の企業義勇軍のようなものか、過去のハナシではなく今も義勇軍は姿を変えて残っていそうである。教師はじめ社会や親など、時代の流れに当然であるかのように流されないしっかりした視点を持ち続ける重要性は今も何も変わりがなさそうである、はたして当時よりは進歩があるだろうか。
役場職員はどう反省したか知らないが、どこかの役場の一部職員はそんなことがアリマシタンデスカエ、忘れましたエ、と赤れんがへ赤れんがへ、どんどとんどん来てねーである、どのツラさげてそうしたことが出来るのであろう。過去はもう忘れたのか、エエカゲンなあきれたクソですと自己宣伝するのと同じであろう。
『凍土の青春−開拓義勇少年の手記』
〈
美山では、当時小学校を卒業すると、園部の中学校をへて師範学校にいくか、高等小学校を出て府立の農林学校へ入学するのが、勉学に進むコースであった。ところが当時あの戦争を聖戦として、少年達の心に強烈にたたきこんだ教育は、志をいだく若者達を、空へ、海へ、大陸へとかりたてていった。学校では、教育熱心な教師から、熱っぽく「開拓青少年義勇軍」に参加するように動員がかけられ、連日勧誘がおこなわれた。この道こそが「御国の為」、「人の為」の最高の道であり栄誉であると、連日説かれた。十四、五歳の少年生徒には、まだ戦争の性格や他国へ出ていく意味を吟味し判断する能力もなく、純粋な心は動かされた。
開拓青少年義勇軍に参加することを決意し、家に帰って母に話したとき、母親は、大粒の涙を板の間に流して反対した。父が早く病死し、女手ひとつで懸命に三人の子供を育て、やっと長男が高等小学校を卒業できると思った瞬間、外国へ、しかも戦雲危うい「満州」へ行くというのである。行かせる人も行く者も無謀であった。翌日、母は学校の担任教師に断りにいったが、あの戦争を聖戦とする教育に感化されていた先生に、逆に説得説教される始末であった。あの戦時下では、恐ろしいことに、それが教師の常識になってしまっていた。こうして、同級生三四名のなかから、長男坊が二人と、三男坊が一人義勇軍に動員されていったのであった。
〉
美山というのは北桑田郡美山町、今は南丹市美山町、大野ダムの奥の方である。著者は美山町平屋の出身。1945年2月に内原訓練所に入所したというから、最も最後の組と思われる。情勢緊迫の折、訓練期間を縮めて勃利訓練所に入所したのは5月13日。5月8日ドイツ降伏だから、まもなくソ連軍が入ってくるという時期であった。満14才であったという、今の中3である。その3ヶ月後、8月9日未明ソ連軍が侵攻してくる。
〈
本部には、従来訓練部長、教育部長などの所管体制があったが、全生徒の責任を負うべき訓練本部長は、すでに開戦を察し、早ばやと飛行機で夫人ともども、ハルピソ経由で日本に帰ってしまったという噂が広がった。生徒と下級幹部の不安は、つのるばかりであった。
〉
そして逃避行
〈
勃利から林口へ向かうわれわれの逃避行は、凄惨をきわめた。隊列をなして歩くため、しかも当時は、みな「国防色」の服装なので、上空から見ればかっこうの標的になった。轟音とともに低空飛行するソ連機の機銃掃射や機関砲弾に倒れ、ざくろのような傷口から血を吹く人。爆音に驚き、弾にあたり、荒れ狂い跳びまわる馬と牛。泥沼にのめりこんだトラックや荷馬車にすがり泣く子供。乳飲み子を背に縛り、手には幼児を引きたて、目をつりあげ血相を変えて逃げまわる婦人。高梁畑には砲弾で五臓六腑をえぐられて唸る老婆。水を求めて「水、水!」と叫びながら水筒を手に、うろたえ走るオカッパの少女。われわれ義勇隊員の隊列が通っていくと、河に転落した荷馬車の下から救出を求め叫ぶ泥んこの開拓団の農婦の肺腑をえぐる声。しかし義勇隊員としても先頭部隊についていくのが精いっぱいだった。落伍する生徒も続出した。倒壊した土塀のかげで、涙ながらに中国人農夫に幼児を預ける母親、避難民の群れの阿鼻叫喚は凄絶をきわめた。弾は無差別にとんでくる。
戦争孤児は、このようななかで中国人に托されていった。一寸さきの生命も危ない戦乱地獄に、切羽つまって胸の裂ける思いをしながら、死なせるよりは生きていてほしいとひたすら願い、身をひきちぎられる悲しさに躰を震わせながら、わが身をわけた子を異国の他人に預けざるなえなかった母親を、誰れが責められようか。
そして、これら戦争孤児を預り、拾い、育ててくれた人びとの多くは、自分の暮らしも楽でない、貧しく無名の中国農民や市民であった。
〉
舞鶴市民も見ず知らずの他国の難民の子を何万人と引き取り立派に育てた、とか言うのならば、ジマンげに、今頃になってふくのもよいかも知れない、それでも何も自慢しない中国農民にド恥ずかしいが、茶とかふかしイモをふるまったというくらいでジマンすると、オマエらも人ならば、それくらいのことはせえや、何も自慢するような話でもあるまい、タイソゲに恩着けがましく、テメエらがしたわけでもあるまいし、侵略を受けヒドイ目に会わされた国の人間でさえ、その敵国の人にこれだけのことをしてくれているではないか、自分の同胞なら当たり前だろが、何がジマンだホコリだ、本当にジマンしホコリとしてよい国々の人達の行為には一言もふれず感謝の言葉もない、テメエのケチくさい行為だけにふれる、アホか、舞鶴人とはまともな者なのか、マコトに何も知らないうえにつまらぬクズ根性ですよと自分の口から言っているのと同じでないか、となろうから気をつけられるとよいかも…。
日本が負けたことを知り、ソ連軍に降伏し、北満の東京城収容所に入れらた。
〈
訓練生だけの生活となると、三年生による下級生のリソチと衣類や食物の奪いあげが、連日公然とおこなわれた。
〉
苦しい時に助けたりはしない、助ける見本を身を以て示すべき立場にある者が、先頭切ってその反対を示す。それは何も「三年生」だけではあるまい。キミもワタチも、自らの欠点に目を閉じる「優秀日本人」と自画自賛するバカもまた同類かも…
やがて訓練生は釈放となり、朝鮮の清津めざして歩く、一歩一歩が必死であった。
〈
夜になると、倒壊した建物跡や駅跡に野宿した。日一日と寒さは厳しくなった。幸い、秋の収穫を終えた中国人、朝鮮族の部落につくと、飢えと寒さで餓鬼のように衰えた青少年をみて、親切に家に泊め、食事をあたえてくれる人びとがあった。ほんとうに地獄で仏にあった思いだった。可憐な少年と見て、その家にとどまるように、すすめてくれる中国人や朝鮮族の人もいた。当時、朝鮮族の若い人はみんな日本語を話せた。柳川、奥山君ら数名の一年生が途中で残留することになった。
〉
浮島丸の時は「舞鶴人は朝鮮人を助けてやった」などと思い、自分が助けたわけでもないくせにワシはエライモンだと思っているバカもいるようだが、それは思い違いであろう、そんなことは当たり前のことである。多くの同胞、子弟が助けてもらっていたのだから。
ところがまたソ連軍につかまり、延吉の収容所に入れられた。11月のはじめの頃という。
〈
勃利訓練所を出発するとき、一八〇名いた京都の同期生も、延吉についたときはわずか三〇名くらいに減っていた。
〉
ドイツの降伏は5月8日であった。彼らが勃利訓練所に入所した時には、もうすでに情勢は大きく動いていた。大本営は対ソ戦と対米戦に備えるため、満州のほとんどは放棄する決定をしていた。防衛線を京図線まで下げる、関東軍も下げはじめていた。もとより訓練生や一般開拓団のことなどは考慮のハシにも入ってはいない、彼らには何も知らせずに、すでにこの作戦に基づいて動き始めていた。
〈
開拓青少年義勇隊のうち、前記の訓練所のなかで、勃利の僕達一年生の京都中隊と東寧訓練生が、もっとも悲惨な最期を逐げたのである。
記録によると、東寧訓練所では、ソ連軍の進攻のまえに、その家族と入院中の病弱生五六名が、手足まといになるとの理由で、陸軍第七一七部隊長駒井少佐の命令で、青酸加里を飲まされ、手榴弾を爆発させられ、強制的に自決させられたという。
僕達の京都中隊は、一〇〇名が死亡した。
これは、僕が一九五八年に帰国してから、京都府庁援護課で調査し、さらに同期生との連絡をつけて調べ、戦後一七年目(昭和三十七年)に、やっと、はじめて、亡き同期生の慰霊祭を京都でおこなうことによって、判明したのである。
しかも、京都第五中隊一〇〇名の最期は、餓死、凍死、病死にくわえ、日本人による加害致死もあり、東寧訓練生とどうよう、きわめて悲惨、残酷であった。
日本敗戦時の一九四五年八月、在「満州」日本人は、約一五〇万名であったといわれている。その内訳は、関東軍七〇万名、開拓関係者三二万名、「満鉄」等一般邦人五〇万名といわれている。
この一五〇万名のうち関東軍関係は別として、一九四五年から一九四九年までの死亡者一七万四、〇〇〇名。在「溝」日本人のうち開拓関係者の数は一四%であるが、その死亡率は四五%と高い。そのうちでも、僕達京都中隊は、僕が引率の貢任を負わされ、逃避行をつづけた一八〇名のうち一〇〇名が死亡したのである。闘拓関係者のなかでも、最年少であったこと、軍隊でも居留民でもなく、とつじょ放棄される状態に落とし入れられたため、高率の犠牲者を余儀なくされたのであった。
しかしまた一方では、青少年義勇隊であったからといっても、すべてが戦争現場にまきこまれたのではなかった。
僕達京都中隊が、一九四五年十月、東京城の俘虜収容所に入れられたとき、驚くべき事実を見せつけられ、知ったのであった。
牡丹江市の南、東京城の北に、寧安閑拓義勇隊訓練所があった。敗戦当時、数百名がいたといわれる。この訓練所生徒も東京城収容所に入れられていたが、かれらは、健康な者が多く血色もよく、着ている衣服もよい物であった。隊の組織も比較的よくまとまっていた。聞くと、寧安訓練所は八月九日、所長の英断によって、関東軍との戦闘行動の関連を一切避け、あくまでも、民間の開拓青少年訓練所であり学校であるとして、訓練所内から一歩も移動せず、戦局の終結を待って平静になってから、ソ連軍当局の管理下にはいったのであった。
これとくらべ、僕達の所属していた勃利訓練所は、ソ連軍が宝清街道を南下する要路近くにあり、奥地にあって情報がわからなかったこともあるが、訓練所本部の無責任さと関東軍第五軍指導部の決定が、京都中隊をはじめとする勃利訓練生の犠牲を大きくしたのであった。
勃利開拓義勇隊訓練所の中心である訓練本部長は、ソ連軍の八月九日進攻を事前に察知し、われ先にと、全訓練生を放置して、飛行機で、日本に逃げ帰ってしまった。訓練所の責任は、元海軍の老将軍所長にまかされ、しかも、関東軍の決定にしたがい、いたずらに玉砕を決意し、軍との同一行動にむけて、訓練所員を移動させるという判断の誤りがあった。いざというときの、トップの正しい判断と中堅幹部の責任を負う行動が、いかに大切であるかを、死の教訓は教えている。
さらに、僕達の悲劇を深めたのは、幹部責任者が臨時召集で軍にとられ、そのうえシベリアへ連行されて行き、まったくの放置状態下で、自分達で生き抜かねばならなかったことにある。
もちろん、この悲劇の根源は、中国人民の土地を奪い 「満蒙開拓」の美名のもとに実行された、当時の政府の国策と施行にある。この中国人民を一五年間も苦しめ、日本の青少年を死に至らしめた国策と施行が、もっともその責任を問われなければならないことは、いうまでもない。
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筆者の歴史観はスゴくプロ級。尋常高等小学校の当時の歴史教育しか受けていない人とはとても思えない、日本は神国で天皇陛下は現人神であらせられる…の教育の学力だけでは、いかに戦争の苦しみを生きてきても、その体験だけでもこうした史観にはたどりつけない。のちに上海で大学教育を受けられたようである。
展示するならば、その国策の責任を問うものであるべきだが、当館にそうした能力も意図もなさそうである。日本の大学ではダメならば上海か外国で教育を受けなおされては…、何のための展示したものであろうか、ハンパだと言えよう。中国、韓国、朝鮮、ロシアの大学の歴史学科留学制度をもうけられるよう市として検討されてはどうか、もちろん語学力もいるし、それはカンコーでも必要なことではあるし、そこまでやると舞鶴も優れた若者が全国から集まりまともな学力のある、日本でもソンケーされうる町となっていこうが、今のお子様だましのようなレベルは早く卒業したいものである。筆者は1930年生まれ、それでこの史観に達している、その子か孫の世代が当館の展示者なのだが、完全にその史観は逆転してしまっている、マンガだ、情けないを通り越している、親や祖父たちから戦争体験を聞いたことはないのか、親や祖父が泣くぞ。よく思い起こしながら展示しろ。オヤもソフたちもこんな程度の者ばかりだったのか、違うだろ、本当に子のことを思うオヤやソフがバカを教えるわけはない。ワタシは誰の子であり孫であるか、どのようにしてワタシは今を生きているのかをよ〜く点検されてみてはいかがか。
敗戦後にGHQにより教職追放を受けた者は全国で5367名であったという、こんなクソを教職につけておくから戦争になったのだとされた者で、占領軍が行ったもの、日本人自身が行ったものではない。教育界での戦犯追放である。その後の中共の成立、朝鮮戦争などを受けてそのアメリカも当初の民主化方針から反動化していき、以後はどんどんその数は縮小されていき最後は300余名だけとなってしまった。よっぽどのワルだけしか責任を問われなかったし、日本人自身が行ったものでもないあなたまかせであった。自分らの手では戦争責任の追及はしないというオ子チャマ日本社会へ彼らは次々と大手を振って復活してきた、今の教育界はそうした者どもの後継者がウヨウヨ、そんな教育界もウヨウヨと多く、従って彼らにとって「都合の悪い」過去などが教えられたりは決してしない。市民の声が大きいくないと、これくらいのことにうるさいなどと言っておれば、またぞろ過去へと戻って行くことであろう、キミの子がまた中国へ、あるいは中東へとか送られることになろう。
戦後舞鶴の出発点へ戻って、もう一度よく現在舞鶴を見直してみようではないか。
『大江町誌』は、
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満蒙開拓青少年義勇軍
八紘一宇、東亜新秩序建設をうたい文句に、政府は、満州(現中華人民共和国東北地区)の植民地化にのりだし、昭和七年満州に新政府を作り、満州国の独立宣言を行った。同時に満州に開拓団を送りこんで大陸政策の足がかりとした。昭和十三年から満蒙開拓青少年義勇軍を募集した。茨城県常陸台地(現内原町)に内原訓練所を設置し、義勇軍に応募した少年たちを短期間訓練した後、大陸の各地に駐屯させ開墾・鉄道警備などにあたらせた。
しかし、義勇軍の募集は思うようには捗らず、町村役場が行う募集だけでは間にあわなかった。学校に対しても協力要請があり、募集のための教育や義勇軍の編成打合せ会が招集されるようになった。「教員ニ満蒙開拓ノ認識ヲ高メ、青少年義勇軍養成ノ目的ヲ以テ……」校長や訓導を内原訓練所に体験入所させ募集促進に協力させた。
開拓義勇軍として教え子を大陸へ送り出した教員の手記がある。
有路校で満蒙開拓青少年義勇軍に平野勇太郎君を送り、次の年奈良井勉君を送り出すことになりました。勉君は体が弱かったし、軽いぜん息の持病がありました。校長から義勇軍に参加することを聞かされて、果たしてその訓練に耐えられるか心配でしたが、反対することはできませんでした。
(『あしあと』有路校百年史)
昭和十三年以降、「学校沿革史」に記載されている満蒙開拓青少年義勇軍応募者は一八名であるが、記載もれを含めると参加総数は二十数名を数えたであろう。この開拓の戦士たちは、そのほとんどが大陸で病没したり戦死したので、真相を詳らかにすることは困難であるが、一帰還者の手記を要約する。
義勇軍の制度
・満州事変後、一獲千金を夢見て渡満する者が続出した。が、大陸に根をおろして開妬に従事する移民は振わなかっ た。そこで若い青少年義勇軍の募集となったのである。
・対象者は、小学校高等科終了の一四歳から一八歳までの青少年で、昭和十三年から同二十年迄に全国から約八万人が送り込まれた。
・内原訓練所で約二か月の基礎訓練を施し、更に現地で三年訓練をする。
・現地訓練終了後、既定の計画に従って集団移民として入植させた。
・義勇軍は移民の中核として重視され、ソ連国境地帯と軍事拠点に配置された。
・軍の第二線予備軍として、北辺の鎮護と食糧増産のための「動くトーチカ」と呼ばれた。…(神社孝夫手記)
現地についた義勇軍の若者たちは手記のような訓練生活を終え、各地に配属になったが、戦局の悪化と共に満州防衛の防人としての任務を負わされ、はなばなしい武勲こそ伝えられていないが、大陸の広野に若い生命を散らせた。数少ない帰国者も、長い年月にわたる苦難の放浪生活の末、九死に一生を得て故国の土を踏んだ。
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『伊根町誌』は、
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満蒙開拓青少年義勇軍
饒河(ぎょうが)大和村少年隊
昭和九年(一九三四)、当時満州国顧問の東宮鉄夫大尉(昭和十二年十一月戦死)と、日本国民高等学校長加藤完治たちが、青少年を満州に送り、大陸の新天地で農業を通して心身を鍛錬して、成長してからは満蒙開拓の中堅人物とすることを目的として設立した。饒河大和村は東部ソ満国境の北方に位し、ウスリー江を隔ててソ連と相対し、鉄道の便もなく、僅かに解氷中に舟運によっていたが、全くの国境独立地帯で、阿片の栽培と密貿易が行われ、国境町を中心に一二キロメートルを隔てて、三方を山で囲まれた僻遠の地であった。昭和九年大和村の建設が着手されると、同年秋に茨城県友部の日本国民高等学校少年部の生徒五名と、大谷光瑞経営の関東州所在周水子少年訓練所より八名の生徒が、指導者に引率されて、初めてこの地に入り、翌十年春、友部より一二名、在満者五名がこれに加わり、その後若干の出入りがあり、昭和十二年(一九三七)七月、さらに内地より六四名の青少年が参加して八四名を数えた。青少年隊の年齢は一五歳から二一歳までの尋常小学校を修了した少年であった。大和村の規模は約四○○○町歩(約四○○○ヘクタール)を用地として買収して開墾し、一五○坪(約四五○平方メートル)の共同宿舎が建設され、守備隊、県公署等があり、電話を敷設していた。
嫩江(のんこう)開拓訓練所
昭和十二年(一九三七)夏、青少年義勇軍の創始を見越し、先遣隊として長野、山形、宮城の三県を中心に三○○名を募集し、新潟、愛知、埼玉の青少年が加わり、内地訓練を経て渡満した。黒龍江省嫩江県伊拉哈(いらは)嫩江開拓訓練所が創立されて、訓練用地として満州拓植公社により、二万町歩(二万ヘクタール)
余が買収されていた。この地は交通の便がよく、小村落が散在し、一帯は未墾の小丘陵地帯であった。伊拉哈地区は満州事変後馬占山軍が略奪した地域であったが、治安が回復し理想的開拓地となっていた。
満蒙開拓青少年義勇軍の募集
昭和八年(一九三三)満州国が建国されてから、青少年義勇軍の先駆として、饒河大和村と嫩江開拓訓練所が設置されたが、昭和十三年(一九三八)二月、拓務省と、満州移住協会、大日本聯合青年団の連名で満蒙開拓義勇軍が募集され、翌十四年からは拓務省のみの名にて募集された。伊根町内から応募し、渡満したのは、昭和十三年度六名(筒川村三名、朝妻村三名)、昭和十四年度五名(本庄村二名、朝妻村二名、筒川村一名)であった。その後、昭和十六年(一九四一)十二月八日、太平洋戦争が勃発後は応募する者が少なくなり、昭和十七年(一九四二)には各町村に一名〜三名程度の割当てをなしたが応募する者が少なく、与謝管内では、与謝地方事務所長の名で三二名の割当てをなし、町村役場、小学校長などに要請し、一三名の応募を見ている状況であった。
昭和十四年度募集要綱の要旨(抜粋)
(一)応募資格
1 年齢−数へ年十六歳(早生まれは十五歳)から十九歳(但し十二月二日以降生まれた者に限り二十二歳でも差支へなし)までの者。
2 経歴−学歴は尋常小学校を修了した者で、職歴は問わない。
3 健康状態−身体が強壮で現地において共同生活ならびに農耕に従事し得ること。
4 その他−父兄の承諾があること。先駆者として満州に骨を埋める決心を有している者。
(二)応募手続
一年を通じて行われ、希望者は居住地の市区町村長、小学校長又は青年学校長、青年団長その他関係団長に申し出て、その推薦を経て書類を市町村を経由して道府県に提出する。
(三)銓衡(選考)
人物考査と身体検査
(四)内地訓練所
茨城県東茨城郡下中妻村内原
約二ヶ月間満蒙開拓者として必要な心構えと、協同精神を養い、現地訓練所入所の準備をする。
(五)現地訓練所
(1)基本訓練所−渡満後一ヶ年間、満州の気候、風土、衣食住等に親しみ、満州国の一般事情に通じるよう予備的訓練をなす。
訓練所名 所在地 最寄駅名
鉄驪(てつれい) 濱江省鉄驪県鉄驪 鉄山包(糸+安神線)
勃利 三江省勃利県勃利 勃利(図佳線)
嫩江 龍江省嫩江県伊拉哈 八洲(寧墨線)
対店 濱江省海倫(はいろん)県対店 海倫(浜北線)
(2)特別訓練所−基本訓練所に代用され、農産加工、鍛工、蹄鉄工、建築、建具、トラクター、トラック、グライダー等の特別訓練を実施するために設けられ、一面坡、哈爾浜、昌図等に設置。
(3)実務訓練所−四種類
(イ)甲種実務訓練所−二ヶ年の訓練の後、集団開拓地としてそのまま定着するもので十三ヶ所ある。
(ロ)乙種実務訓練所−九ヶ所にあり、二ヶ年間農耕その他の実務訓練をなし、終ると適当な開拓地に定着する。
(ハ)丙種実務訓練所−基本訓練所を修了した者の中で、専門的技能をもつものや、天分のあるものに対して特殊技能を訓練する所で、将来義勇軍の指導員を養成した。
(ニ)鉄道自警村訓練所−鉄道の沿線に配置され、訓練と同時に鉄道の安全を期する使命をもち、南満州鉄道株式会社が政府の委託をうけて経営していた。訓練所は二十ヶ所に設置。
(六)現地訓練終了者の将来
1 現地訓練を終了した者は、原則として満州農業集団移民に編入され、建国農民として一戸当り十町歩の耕地をあたえられて、自作農として独立する。(十ヘクタール)
(七)費用−必要な費用は一切本人の負担としないが、五円以内の小遣銭を持参する方がよいと指導されている。
(八)問合せ
1 市区役所又は町村役場、学校、青年団
2 道府県学務部、道府県聯合青年団
3 拓務省拓務局、東亜第二課又は海外移住相談所
4 満州移住協会
5 大日本聯合青年団
6 満州拓植公社東京支社
伊根町出身の満蒙開拓青少年義勇軍参加者
第二期(昭和一三・五・一一入所、昭和一三・七・一九渡満)
筒川村野村 〇〇〇〇
同 菅野 〇〇〇〇
第三期(昭和一三・七・一五入所、昭和一三・九・二八渡満)
筒川村野村 〇〇〇〇
第四期
朝妻村畑谷 〇〇〇〇
同 井室 〇〇〇〇
同 大原 〇〇〇〇
第五期(昭和一三・一一・一五入所、昭和一四・三・七渡満)
朝妻村妻村大原 〇〇〇〇
第七期(昭和一四・三・一八入所、昭和一四・六・一五渡満)
本庄村野室 〇〇〇〇
第八期(昭和一四・六・四入所、昭和一四・九・二○渡満)
筒川村菅野 〇〇〇〇
第九期(昭和一四・八・二五入所、昭和一四・一○・二五渡満)
本庄村蒲入 〇〇〇〇
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( 町誌は実名ですが、ここでは伏せておきます、ワタシのオヤジによれば、「食い詰め者」の偏見が当時はあったそうで、今もそうかも知れず、万一迷惑がかからぬようにとの考えるからです。満州に流れ込んだ本当の日本人「食い詰め者」はこうした農民ではなく彼ら以前から軍政下満州へ大陸無頼浪人、「満州ゴロ」と呼ばれたのように一攫千金を目指しムチャクチャ無法非道ゴロツキを呼ぶものであり、諸外国から苦情不平が寄せられ国内ですら反対する者が多かった、バックで軍部が操っていたと言われる者どものことであるが、関東軍の満州へ行くだと、どうせワルサしに行くんだろうと、その超ワルモノのイメージが彼ら農民にも乗せられたものと思われる。)
こうした年度以降にも送り出していると推測されるが、どこともにこの初期の時期後については公記録が失われているようである(たぶん上からの指示で焼却したものか)。
内原訓練所
応募して「銓衡」に合格すれば内原訓練所に入所となる。ここで3ヶ月の訓練を受けた。銓衡というのは試験のことで、学科試験はない、「人物考査と身体検査」によって行われた。百姓に学問はイランの江戸期の支配者観そのままであるが、人が人なのはナニガシかの学問あってのことだろう、当訓練所では不用であったが、しかし学業優秀な子が多かったという。
↑内原訓練所 満蒙開拓青少年義勇軍に採用された若者は、茨城県下中妻村(現内原町)の内原訓練所に入所して2カ月間の特訓を受けた。同訓練所は38年3月、農本主義者の加藤完治が開設。40ヘクタールの敷地にモンゴル住宅風の建物362棟が建ち、訓練生はここで寝起きして基礎訓練に汗を流した。入所者は閉鎖された敗戦までに8万6530人(『朝日クロニクル20世紀』より)
「日輪宿舎」と呼ばれた特異な宿舎が300棟ばかり松林の中に建てられていた。軍隊式に組織されて5大隊およそ1万人が暮らした。○○中隊と呼ばれた中隊長の名で呼ばれた300名の単位が基本で、だいたいは郷土単位で編成されたという。太陽をかたどったもので、天照大御神のご子孫の皇室をいただく国民としてはこのうえもなくありがたいもの、とか言っていたが、実は1万人分の宿舎を急遽作れなかったので、こんなバラックを建てたというだけのものである。蒙古のパオを真似たといわれ、建設費はタダに近いものであった。こうした連中がありがたそうに言う場合は実態は屁みたいなことであるが多いが、これもその典型か。
←日輪宿舎の内部(『満蒙開拓青少年義勇軍』より)
「日輪宿舎」スタンダードは上から見れば円形で、1個小隊60人用、内部は中央に土間があり、壁側にはずらりと2段にして60の寝床が隙間なく並ぶというもの、長テーブルと60個のイスがあったという。キャンブの大テントのようなと言うのか、詰め込み式にわとり小屋と言うか、その程度もので、個人のプライバシーなどは何もない。ビンボー農家の二、三男などはにわとりと同類と見ていたのであろうか、人間とは見ていないようである。
制服は私服は許されず、写真にあるように陸軍兵に似たものが支給された。
写真ではうまそうに喰っているが(ヤラセか)、食糧は不満が多かったという。ビンボー人の子でも喉を通らぬほど超マズイものであることが多かった、にわとりもブタも喰わぬようなものであり、またその量も少なかった。
当訓練所独特の主食の「大根飯」がときには出たという、大根を1センチ角くらいに刻み、それを7分とあと米3分を加えたものだそうだが、これは喰えなかったという。これを復元して喰わせると、戦争大好きも一発で治るとか…
自給自足であり、訓練生が作り、自分たちが調理したもので、外からの持ち込みは一切許されなかった。空腹に絶えられず、畑で作物を収穫すれば、それに即その場でかじりついたという、盗み食いせざるを得ないものであったという。今なら虐待だがそれはあらゆる面で常態化していた。当館の展示↓
(「満州の小学校で耕作実習を受けている少年たち」のキャプションがある。高等科2年になると各学校2名くらいの割当で行われた「拓務訓練」か、彼らは義勇軍応募者になった、これはまだまだ地獄の門の入口前の前であった。
やがては仲間同士でけんかが絶えず「檻の中の野犬がかみ合うような」状態になっていく。学校や訓練所ではきれいごとばかりが教えられた、今も同じかも…、五族協和の満洲では現地人も義勇軍を大歓迎していると教えられた、しかし現地人集落の内側をのぞけば「反日抗日」のスローガンが大きく書かれていた…)
上の写真↑では可愛らしいまだほんの子供だが、こうした子ばかりであったのではない、もう少し年上の者もいた。
←「義勇隊員の年齢・学歴・家の職業」(『満蒙開拓青少年義勇軍』より)
表の年齢は数え年だから、今の満年齢に換算するにはだいたい2年差し引くとよい。高等科卒業と同時組と、卒業後数年は家業手伝いをしていたが、将来が見えないなかで応募したというものであろうか。青年学校というのは中学校(今の高校)へ進学しなかった者が学んだ当時の職業訓練専門校(主に農業を教えた)のようなものであった。
『青少年の移民』という書を小浜市加斗村鯉川から、昭和15年義勇軍に応募された方が発行されている、本人は進学したいがその学費は用意出来ない、軍需工場へ行くのもイヤだ、それで義勇軍ということになったそうで、
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日課の合図は太鼓とラッパで、朝六時に太鼓と起床ラッパが鳴りわたる。六時三十分の点呼ラッパで中隊の礼拝台前に各小隊ごとに集合して点呼。中隊長が礼拝台に上り教育勅語を奉読し、続いて中隊長先導で義勇軍綱領を斉唱、礼拝を行ったあと日本体操(やまとはだらき)、駈足などがあって七時四十分朝食。九時から十一時三十分までが午前の課業で、学科、教練、作業など。十二時太鼓を合図に昼食。一時三十分から五時まで午後の課業で武道、開墾作業など。六時夕食。六時三十分から八時までが自由時間で入浴、洗濯、繕いもの、手紙を書くなど。しかし毎夜のように中隊広場への集合号令があって詩吟の練習、号令調整、軍歌演習などが行われた。八時三十分太鼓を合図に夜の点呼。九時に消灯ラッパが鳴って就寝となった。ところが夜の消灯から朝の起床までの間三十分交代の不寝番があって、舎内の火気、警備、寝相の悪い者に寝具かけなどのほか、警備司令部から銃と帯剣で身をかため各中隊の宿舎をくまなくめぐる巡察が、「巡察」と抑えた声で訪れると、「第二十五中隊第〇小隊異常ありません」と応対した。
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所長の加藤寛治は、世界の根本にして最も尊いものは天皇、その天皇の先祖が天照大御神で、穀物神だから大地を耕し農業を営む行為こそが一番大事なもので、天皇に尽くす道だと考えていた。何か滑稽なと言うか幼稚なというのか、ばかばかしくて大の大人が何か評価しようもないが、勝手な信仰に基づいて10万近い少年をソ満国境に送り込んだのかと驚かざるを得ない。
彼の全信仰を凝縮したものが「やまとばたらき」と呼ばれた体操で、上の写真はその最中のようである。また「礼拝」も独特で、二拝、二柏手、一拝をしたあと、腹の底から声を出して、天晴れ−、あなおもしろ−、あなたのし−、あな明(さや)け−、おけ−、と唱和して、天皇陛下弥栄(すめらみこと・いやさか)を三唱した。普通はバンザイと叫ぶところで、当館もそうだが、義勇軍は、いやさか−、いやさか−、い−や−さ−か−、となった。
こうした訓練や狂育をすると、疑うことのないまじめなヤツからおかしくなっていきそうである。そうでなくともこれではいかに最初の志高くとも病気にかかる者や「内地屯墾病」と呼ばれたホームシックにかかる者や脱走する者もあった。昭和13年度の統計ではそうして1割くらい消えて渡満できなかったという。
内地で耐えられないなら満州で耐えられるわけはなく、やめるが正解だろう。性格が合わなかったというだけの事だろう、別に恥とかいうものではないが、バンザイバンザイと村挙げて盛大に送り出された以上は村には帰れなかったという。ほかの道を探すがいいかと思う。
3ヶ月の内地訓練が終了すると、渡満壮行会が行われた、内原訓練所内の弥栄広場や多いときには明治神宮外苑競技場(後に出陣学徒壮行会が行われた。今のオリンピックのメーン会場)であった。その後皇居前で天皇陛下弥栄三唱して、送り出し元締めの拓務省前をラッパ隊先頭に行進し、夕方東京駅に着いた。
↑「鍬の戦士」発つ (昭14)6月7日、満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会が、東京・明治神宮外苑競技場で開かれた。2500人の若者は「鍬(くわ)の戦士」と呼ばれ、カーキ色の制服・戦闘帽にリュックサックを背負い、農作業に使う鍬の柄を担いで行進した。写真は翌8日、宮城遥拝をした後、東京駅前で家族との記念写真におさまる「戦士」たち。彼らは満州でさらに3年間の訓練を受けソ満国境に近い義勇隊開拓団に入植した(『朝日クロニクル20世紀』より)
現地訓練所
翌日は伊勢神宮に参拝し一泊、それから敦賀へ向い、敦賀・清津間を結ぶ定期船に乗船した。新潟あるいは門司というコースもあった。
満州に着いて驚いたのは、自然の厳しいことであった、-30度にもなり、大地も凍り付き、鶴嘴を力一杯振り下ろしても、カッと跳ね返した、1ミリも食い込まない、鉄板だった、手袋脱いで指を外気に触れさせると見る見るローソク色になり、強烈な痛みがあった、痛みのあるうちに温めれば元に戻るが、もう少しそのままにして痛くなくなってしまえば、もう元へは決して戻せず、指は切断しなければならなかった。日本では考えられない自然であった。
そこで暮らす満人農民たちは汚く臭かった、日本の貧乏農民の比ではなかった。キッタネーな、どちらも日本にいては想像もできない驚きの土地であった。
さらにさらに驚いたのは彼らの現地訓練所のひどさであった。
『母と子で見る中国残留日本人孤児』より「現地の満蒙開拓青少年義勇軍」とある↓。「軍」ではない、満州での正式名称は「隊」であった。写真に残されているような所はベストな状態の所だけである。
満州には現地訓練所は94あった(昭16)、そのどこかに配属された。
初めからこうした宿舎があった訓練所もあったが、何もない所も多かった。先に入った先輩達が作っていてくれればあったが、初めての一期隊の場合では宿舎作りから始めなければならなかった。資材もなかったが、そうしたことを言っておれない、とにかく急いで-30度の冬に耐えられる建物を作らねば全員凍死であった。
故郷の風通しのよすぎる木造ではない、まず木がない、オンドルを備えた土レンガ積みの家屋であった。レンガは土胚子(トーピーズ)というもので、土に羊草(ヤンソウ)を刻んで練り込み足で踏み、型から出して夏の強烈な日光でよく乾燥させたもの、ホフマン炉とかで火を使った焼いたものではない。故郷の木の家でなく土の家に驚いたという。
乾燥不十分で水分が多いと、冬に凍り、さらに火を焚くとレンガが壊れてしまい、オンドルも壁も煙突もみな崩れてしまうことがあった。
不慣れな宿舎づくりがまあ何とかできた者はよかった、できなかったものは莚囲いの宿舎で過ごさねばならなかった。想像するのも地獄だが、凍死したり凍傷で手足を失った者もあったという。
農作業などは忙しく衣服は激しく傷んだが、誰も繕ってくれる者はない、自分らで不器用にやるしかなかった。さらに風呂がない所が大半で、半年風呂に入ったことがない状態、ノミシラミが大量に発生し、肌には疥癬ができて治らなかった。
満州農民はキッタネーナ、クセーナと言っていたが、気づけば自分らも同じ状態であった。その現地社会とは何の交流もない日本人だけの社会であったし、どこからいつ狙撃されるかも知れなかった、表面は友好的だが、何と言ってもかれらの土地を奪ったものだけに絶対安全安心はなかった。
さらにひどいのは食糧。まず水が悪い、絶対にナマ水を飲むなといわれて言われているように、呑めば風土病のアメーバ赤痢に罹る。主食は高粱(コーリャン)飯、いかに貧乏育ちでも喰いかねたと言われるもので、しかも一膳きりの盛り切りであった。どうな代物であったかワタシはわからないが、「義勇隊数え歌」の戯れ歌がある。
八つとせ 山国育ちのおれたちも 食いかねる
義勇隊の高粱飯 食いかねる 食いかねる
副食もシュンの野菜とかいったバラエティーに富むことはなく、カボチャが獲れればそれがなくなるまでカボチャばかり、魚は干鱈だけ。
そんなものでもあればいい方で冬期になり何も獲れなくなれば「太平洋汁」であった。何も入っていないただ塩水であった。春先は鳥目になる者があった。
腹がへるので、隊食料庫からこっそりカッパラったり、「野草の食べられそうなものを取って食べたり、近くの満人部落で甘い物を買ったりした」という。
軍隊の食生活は訓練所よりははるかによく、タバコや甘味料などもあり、基地建設などで軍隊へ派遣されたりすると大変にうれしかったという。ニクジャガだ、海軍カレーだ、あれがたらふく食わせてもらえるぞということである。のちには補給無視軍隊で餓死した兵がおおかったが、この当時はまだよかった。
義勇軍などと持ち上げただけで実際は軍よりもはるかに劣る待遇でしかなかった。ニクジャガだ、海軍カレーあほくさい、そんなものはエリートの話で、勝っている時ですら彼らは決して食えなかったのであった。
いろいろ階層のあった軍国日本であり、一部のエリートが食っていたものがすべてだと、アホげたことを考えて名物とかにするのはどこかのマチのメデたきみなさまくらいのものであろうか、本当にオメデトウ。
「屯墾病」。
もう帰りたい、の気持ちであるが、出なかったら不思議なくらいである。そうは思えど帰れないのでヤケクソになってくる。
一部では銃で自殺とか、逃亡とかした、あるいはチチキトクなどの電報を受けて帰国して二度と戻らなかった。今の自衛隊でもしょっちゅうのことだそうで、「何べん駅で張り込みしたかいなぁ」などと元隊員は言う、「見ればだいたいわかるので、連れ戻すんです」という。軍隊なら逃亡罪で強制的に連れ戻されると思うが、自衛隊や義勇隊は法的にはどうなっているのか知らないが自主的な参加、普通の企業と同じと考えられていたなら、本人の意に反して強制的に連れ戻すことはできなかったのではなかろうか。
こうしたおとなしい自己攻撃型もあるし、他者攻撃型もあった。自閉型で収まっているうちに根本的な対策を建てないと自衛隊にももしかしたら発生し得るということで、見ておこう。国家に向かって不満を爆発させる、といった自分より強いものは攻撃しない、自分より弱い立場のものをまず攻撃するのが特徴である。少しでも早く入所した者が先輩で、後輩に対しては絶対的権力が振るえた、それはシベリア抑留時代にまで引き継がれたという。
京都の義勇軍もひどかったという。
〈
数年次にわたって送出された青少年義勇軍中もっとも悲惨だったのは、渡満して二、三ヵ月めに敗戦を迎えた昭和二十年次の中隊だが、そのひとつである京都部隊中村中隊の記録『義勇魂』を見ると、そのことがよくわかる。十四、五歳の少年たちばかりの中村中隊にたいして、十九、二十歳の青年が多い先輩中隊は、「大広間でなく、別棟の個室」に住み、「ソ連軍より配給された食糧をほしいままに動かし、自分たちはたらふく食い」、後輩には「高粱のお粥と少量の岩塩」しか与えず、しかも猛烈なリンチを加えたのであった。
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こうした想い出の書は自分らのスンバラシイ美しい青春を書くのが目的で何も暗部を告発したり歴史を公平に書き残すという主旨はないが、それでもよほどに腹に据えかねたり、義憤に乗って筆がすべり隠しておきたい陰湿な否定面がポロっとわずかに実態が記されることになる。
『義勇魂』に、
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リンチ殺人
義勇隊訓練所での軍国主義、ファシズムの先輩後輩の関係は、敗戦し逃走する過程でも、ソ連軍の捕虜収容所でも延吉の監獄収容所でも、そのまま生きていた。満蒙開拓青少年義勇隊での私刑は関東軍さえ驚くほど残酷であった。
スコップで顔を殴る「エンピビンタ」、ペンチで指の爪を潰す「挟み」等は、日常茶飯に行なわれた。これは少年義勇隊の出身者の多くが貧農の家庭に生まれ育った農村出であること、都市の出身者でもそれに近い層の出身であり、これがもつ封建性とコンプレックスとが、極度に歪められた軍国主義となって隊内に跋扈していたものと考える。
十二月のはじめ、僕は、三年次の先輩によばれた。九州宮崎県の中隊(当時十三中隊)といって、その凶暴性は、勃利訓練所では有名だった。行ってみると、はばをきかしている中隊のなかでも、とりわけ代数的な連中により構成された臨時の本部があり、彼等は、大広間でなく、別棟の個室を事務所兼寝間にしていた。ソ連軍より配給された食糧をほしいままに動かし、自分たちはたらふく喰い、そのうえあとできいた話によると食糧を収容者にたべさせず、横流しして売り、自分たちは衣服やタバコを買っていたという。
三年次の一人が、僕に飯盒を差し出し、黒焦げになってこびりついたのを洗ってこいという。後輩が先輩の食器を洗わされるのは、当時あたり前のことであった。手の切れるような寒い日だった。水を使って、寒風の吹きつける屋外で飯盒を洗うことは、手がこごえ、身体はふるえ、言いようのない辛さだった。零下十数度はあったと思う。それでもなんとか流し洗い、きれいにして、持っていった。ところが三年次は、こんな洗いかたではだめだ、中も外もピカピカ光るまで洗えという。中だけでなく、黒くやけた外側も白く光らせろという。手の凍える寒風の中で、並大抵では山来ることではない。そこで僕は、屋内の井戸水の処で洗うことにし、砂を塗りつけてこすっていた。しばらくすると、在留日本人の大人が来て、義勇隊員は、この屋内に入ってはいけないという。仕方がないので、なんとか飯盒を洗い光らせて、先輩と称する三年次のところへ持っていった。すると突然、「貴様勝手に屋内に入りやがって!」という声とともにビンタをとられた。最初、何がなんだかわからなかったが、彼等が口ばしりながら殴って来ることをきいていると、屋内の左手には、個室が並んでおり、この棟は、家族もちの在留日本人が住んでいる、少年義勇隊が入ってきてから物がなくなるので、義勇隊員はこの棟の屋内には入ってはならないということになっている。ところが中田は、無断で屋内に入って飯盒を洗っていた、けしからん、というわけだ。本部前での私刑はそれほどたいしたことはなかった、在留日本人の世話人とやらの大人の見ている前で、三年次からピンタを三つ四つとられた。本部事務所の中からは、歌声がきこえていた。義勇隊員のボスどもは、初年次、二年次の紅顔美少年の中から、歌のうまいのをつれてきて、それをきいてたのしんでいた。当時、三年次の真原は、その別棟の在留日本人の娘に熱をあげてうまくやっているという噂もあった。
日が暮れた。又辛い夜がやってきた。延吉地方の冬の夜は長い。給食をしているというかっこうをつくるための、言い訳だけの夕食、空缶の底に少しばかりの高粱とトーモロコシの混合粥のようなものをもらって、寒い工場跡の大広間にうずくまっていると、三年次の真原が大声で全員に呼びかけた。これから大切なことを注意するのでよく開けという。真原は、今日の昼間、京都中隊の初年次の中田と大沼は、禁止されている家族もちの棟に勝手に入った、よってこれから制裁を加える、というようなことをがなりたてたあと、まず全員の見ている前で、帯革ビンタが加えられた。帯革ビンタとは、軍隊用の皮革のバンドで、顔を殴ることをいう。十回殴ってやるから自分で数えろという。
かぞえなければ何十回殴られるかわからない。僕は歯を喰いしぼって十回かぞえた。「目から火が出る」ということを本当にはじめて体験した。つづいてペンチで指をつめるリンチである。爪の中が変色するまでペンチで挟まれた。大沼君は、すでに大声を出して、悲鳴をあげていた。僕は歯を喰いしぼって耐えた。僕は悲鳴をあげないから「なまいきだ」といって、その次は、島田という大男が柔道のなげとばしをやるといって、背負いなげにかけようとした。島田は当時四年次といわれ、九州出身の十九か二十歳になる大柄のボスだった。とにかく勃利訓練所で柔道が一番強いといれれる猛者で、全訓練生の上に君臨していた。島田、真原といえば、勃剥訓練生の中の最高の「はばきき」であり、凶悪青年ボスであり、軍国主義・ファシズムと九州型封建性野蛮性をもった両巨頭で、皆からおそれられていた。僕は投げとはされれば大怪我すると思い、島田の足にくらいついて離れなかった。島田は、思うように投げとばせないとみると、「生意気だ」とロ走りながら無茶苦茶に殴りかかってきた。勃利訓練生を牛耳る悪漢島田、真原の直接のリンチを加えられ、そのほか何人かの三年次も殴り蹴りかけてきた。十八、九歳の育年で、毎日たらふく喰って遊んでいる奴と、毎日高粱のお粥と少量の岩塩でかろうじて命をつないでいる十五歳の初年次とでは、抵抗するすべもない。最後に編上靴ビンタをさんざんやられた。それでも、意識だけは失わなかった。頭から足まで、満身の創痍で腫れぶくれ出血した。顔は変形し、自分でも自分の肉体の一部分でないようであった。
痛みと憎しみとくやしさで一晩中眠れなかった。酷使されたうえ私刑を加えられ、半殺しにされるとは。当時十五歳だった僕の胸には、憎しみと悲しみがこみあげてきた。そしてここにおれば「殺没される」と思った。餓死者、凍死者、病死者に加えて、この無法真空地帯では殴り殺される。むらむらとひとつの考えがうかんだ。「収容所監獄を破って出よう」 と。
夜があけた、思いつめた道はひとつしかない、しかし失敗すれば、それこそ最後、殺される。最も信頼出来る仲間を作ることだ。朝のうちに、井口君にこひそかに話した。「俺は脱走する、ここにおればいずれ死ぬ、収容所を破って逃げるか死ぬかだ。」「俺達には他の手段はない。」脱走してどこへ行くかが問題だった。俺は考えた、「中国人か朝鮮人の農家に行こう」、「俺等日本の百姓の子だ、中国人でも朝鮮人でも同じ百姓だ、きっと理解してかばってくれる」。井口君は同じ北桑田郡出身だった。昼間、明かるいあいだに、どこから脱出するか探してまわった。正門、裏門ともに見張りがいる。周囲は五米もある煉瓦の厚い塀でとりかこまれ、有刺鉄娘がはりめぐらしてある。日本の支配者によって不当に捕をられた中国人、朝鮮人の多くの人たちが、かつて脱獄を企てたことであろう。四方の角に望楼がある。東北角の望楼に上ってみた。周囲の窓は太い鉄棒が横にはめ込まれており、その間が十五センチほどしかない。ところが一箇所だけ鉄棒が上向台に曲げられて巾がいくらか寛くなっている。「しめた」と思った。かつて、不当に囚人として収監されていた人達が、脱出をはかって曲げたものであろう。(歴史はかくも皮肉なものである。日本帝国主義に侵略され、不当に捕えられ、投獄されていた人によって作られた脱出口から日本人の僕等二人が、中国人、朝鮮人の人たちに助けを求めて、日本の軍国主義・ファシストの支配からの脱出を遂げたのだから。)
収容所脱出
夜になり深夜三時、人々皆眠りに入っている時刻、井口君を呼び起こし、小便に立つふりをして外に出た。忍び足で東北角の望楼に上った。昼間用意しておいた縄を鉄棒の枠にしばりつけ、それにつたって滑り降りる方法をとった。先に僕が出た。身を横にしてぎりぎり一ばいで抜け出した。大人であったり、青少年でも異常に痩せていなかったら抜け出せなかっただろう。縄が短かくて、途中から身体ごと滑り落ちた。幸いに怪我はなかった。暗い真夜中、東西南北皆目わからない。とにかく途中まで忍び足で這うように走った。河原に出た。一目散に走った。しかし途中で又あまり走るとかえって怪しまれると思って歩きだした。河は一面厚い氷がはり、あちこちに雪の吹き溜まりがある。河を渡り切った時、強い風が氷の上の雪を吹きつけてきた。はじめて涙がとめどもなく溢れてきた。凍死と私刑の地獄からの脱出に成功した。しかしこれから何処へ行くのか、仲間たちと離れたことは、日本に帰ることからも遠く離れたという感じが強くなった。これから一人で未知の世界に言葉も何もわからないのに、長い長い生と死のすれすれの旅路をあゆまねばならない。遠い故郷の母の顔、姉の顔、弟の顔がまぶたに浮かんでは消え、消えては浮かんだ。黒く凍って死んでいった友の惨状が、雪の中に埋めた変型した異常に苦しく悲しい顔、顔、顔が、僕の頭上に重くせつなく浮かんでは乱れた。「生きぬくんだ」、「どんなことがあっても生きて帰り、このことをみんなに告発するんだ」と、未明の冷えきった風雪の中を、こみあげる涙をのみこみながら、ほのかに薄く明かるさを帯びた方向にむかって、ひと足ひと足すすんだ。布とゴムのあいだがすり切れ破れた地下足袋にポロぎれをまきつけた足をひきずっ無我夢中で歩いた。
(延吉監獄収容所で同時にリンチを受けた大沼八珠男君は、その後どうなったのか。延吉監獄で悲しく死んでいったらしい。)
〉
『凍土の青春』にある文章と同じである。両書は同じ京都義勇軍の書である。「軍隊は暴力装置」とこれは学問用語で、「自衛隊は暴力装置」と国会で発言し、後に撤回していた政治家がいたが、別に取り消すことはなかったとワタシは思う。軍隊も警察も物理的法的強制力を持った公的機関で、こうしたものを国家の「暴力装置」と呼ぶのである、暴力団とか呼ぶのとは意味が違う、「自衛隊は暴力団」と言ったのなら取り消すべきだが、「暴力装置」と言ったのなら学問的にはまったく正解である。学問的正解が国会議論で通らないというのはこれはまことに危険な事態である、その危険状況の政治的空気の勢いで憲法まで変えてしまおう、これはもっともっとヤバイことである。高度な学問とかいうほどではないと思うが、そうした一般教養レベルの勉強すらしていない中学生レベルの国会議員や政治屋ばかりだということであろうか。幸にも戦後何十年もそうした暴力装置の実態をワレラは直接には体験することなく過ごしてきた、それでその実態は忘れられ、実態認識が中学生レベルに堕ちてしまっている危険がある。
暴力装置の暴力は合法なものだけではない、「誤って」暴力を発動することが多い。侵略者など外へ向けて暴力を発動するのではなく、内へ向けて発動することも多い。義勇軍は軍隊ではないが、それを模していて、その否定面も模してしまっていたようである。いかに学問が正しいか証言してしている。暴力装置は憲法で厳しく縛るのが当然の大人のチエであろう、そうでなければ本当に暴力団に堕ちてしまおう。
一番弱い者は中国現地の農民なので、まずはここから盗む、ハラのタシにもなって一挙両得である、作物や家畜や燃料などを盗むなどはアタリマエ、商店があればそこからカッパライをした。想い出記に、ハラがへるので野原で野草を取ったとか、中国商人から菓子を買ったとか書かれるのは本当に申し立て通りかはかなり疑わねばならない。現地人に対してコロシも含む暴行や婦女暴行もひんぱんであったとうわさされる。そうしたことが「気がすさむと落ちるところまで落ちてしまうような面があった」として、
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年ごろで、やくざっぽいのがかっこうよい。それに治安状況もという条件があったから、彼らは、いつとはなしに護身用ともなく、威嚇用ともなく、短刀や木刀、さらには鎖なども持って、それらを持っていることによる示威行動にでるようになった。
一方、小づかい銭が無くなれば官給品、私物品の区別なくいま必要としないと思えば原住民集落へ無断外出して売りさばき、その金で禁止されている酒、たばこを買う。
短刀、木刀を持って無頼漢化した彼らは、これから王道楽土を建設する使命のあることをひととき忘れて、さながら治外法権でもあるかのごとくふるまったあげく、無断外出先で原住民に傷を負わせてしまい、地道に築いている親善をぶちこわすことも一再ならずであった。
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と加斗村の方も書かれている(『青少年の移民』。この書は公平に見ようと勤められている)。
さらに『満蒙開拓青少年義勇軍』によれば、
〈
名前を明記することは避けるけれども、ある旧義勇隊員がわたしに証言してくれたところによると、義勇軍のある部分は、盗んだ酒のいきおいを借りて中国人部落へおしかげ、女性と見れば手あたりしだいに姦したという。彼らは、若い娘であろうと有夫の婦人であろうと見さかいなく毒牙にかけ、ときにはわざとその家族の眼前で事をおこなった。そしてその女性の父母や夫はといえば、そのように悪虐をつくした義勇隊員に向かって、地面に両手をつき、「謝々、謝々」という以外を許されなかった−−ともいうのである。
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満州警察の出番だが、植民地警察であって、どこかの植民地国の警察のようなもの、彼らが守るのは米兵みたいなことで、治外法権だ「軍属は逮捕されない」特権をちらつかせる義勇隊を捕らえるまことの勇気はだいたいは持ち合わせなかった。日本の憲兵にも具合が悪った、ソンケーする憲兵さんがなされていることを見てマネたんです、まさかワルかったのですか、と逆襲されそうであった、憲兵も答えねばならなくなる、いやワシらも上がやっていることをマネだだけだ。ワルサしているのは知ってはいたがそれを非難できる資格のある日本人が一人でもいたであろうか、彼らは野放し状態であった。当時の日本人がやっている典型として代表するものとしてかれらはそうしたのであった。
中国農民は義勇隊を小盗児義勇隊と呼んでいた、盗人義勇隊といった意味であった。盗人日本人のその子弟らしく盗人義勇隊と名誉な名で呼ばれていた。子供といっても何も大人と大差はないのである、彼らを改めさせたければ、まずは大人から改めることが求められる。大本営は五族協和の王道楽土、現地農民から見ればアウシュビッツ国家であった。
こんなことを書いて彼らを侵略の先兵としておとしめてやろうとか言うのではない、ワタシはほとんどの少年は母集団のコピー、日本人大人をマネたものと考えていて、子供は日本人社会の全体の一部であって、全体集団と何も関係がない別個の集団であるはずがない、彼らには同情的であって彼らは送り出した者ども、現地でやり方を教えた者などの深刻な被害者だとは考えてはいるし、境遇不満のはけ口としてこうした悪事に走ったのだとは考えてはいる、本当に悪いのはワレラであると考える。正義の味方ぶったり中国人の味方をして書くのではない、それをワレラの罪として、年端もいかぬ子がこうしたことをすれば親の罪はまぬがれない、その親として書くのである。子のフリみて我がフリなおせ、成人年齢を引き下げたり、厳罰で臨んでも解決は遠い、すぐに次の事件が発生し今度はキミがその被害者になるかも知れない、まずは自らの反省がなければならない、社会の改めがなければならない、なぜなら、そのコピーであって大人がそうであるよう、ほぼ大差なく成長するからである。コピー原紙がダメなのに、そこからコピーされたものがそのオリジナルよりも悪くなることすらあれ、よくなることはない、のコピー機の原理である。
自分の子がこうしたことをしていれば親はどう思うだろうか、子はカナンで親のワルイとこばっかりマネしてな、ドキとして心臓がとまりそうになんべんあったか、まさかウソでしょう、イヤうちの子に限ってそんなことはしますまいで。当館のオヤとしての成熟度はどの程度であろう。
これでは何とかせねばなるまい、与保呂校のように母校の後輩から慰問の手紙や品物を送ったりもするようにもなった。先輩の心がかなり重度にすさんできている証拠のような話である。宿舎は何も文化的なものがなかった、教養や人間性をやしなうものも何もなかった、現地小学生を招いて演芸会を催したり、どこかの米軍基地のようなことだが、こうした侵略者がやることは同じで、人間味に接せられる多少は娯楽的な機会もつくるようにはしたようである。
元々が他国に軍隊を長期に渡って派遣しているということ自体が悪い、地域社会と切り離された自分らだけの自己満足集団ではおかしくならぬ方がおかしい、早く引き上げて現地人に任せるのが当然だが、それをクソリクツを捏ねてやらない所が問題である、国へ帰れ、オマエらもかなんだろうし、ワシらはオマエらの百倍もかなん、来るなら鉄砲持たずに平和な一般市民として来てくれ、それなら大歓迎する。安全保障とか言って植民地国家が他国軍を国内に受け入れるという所が本来悪いのである。どこが安全保障か、見ればわかろう。ごく一部のクソが安全ということにすぎない。
しかし彼らが心底求めているものはそうしたものてもなかった。境遇改善も文化対策もハナクソだった。そこで考えて「女子奉仕隊」というものを送りこむことにした。女性の力を借りましょう、今の「女性活躍社会」みたいな発想、女性参政権にも大反対してきた者どもが何を勝手なことを言うかであるが、奉仕隊の女性達が各訓練所を訪問し農事手伝いや衣類補修などをして10日ばかり滞在することにした。焼け石に水のような、火に油そそぐようなものでハンパだと、次に「寮母制度」を思いついた。正式には満蒙開拓青少年義勇軍女子指導員というものをこしらえて、訓練所に送り込むことにした。これはすぐに帰ってしまうものでなく、長く一緒に住もうというものだが、公募して総計で176名だったから、これもハンパすぎた。10万近く義勇隊隊員はいるのに、200名ほどで何ができよう、500人につき1人では、一人ひとりの名すらも覚えられまい。仮に彼らの「屯墾病」の正体が単に女性的なものの不足であったとしても、この数ではどうすることもできまい。ましてや「屯墾病」はそうしたものの不足が主原因でもなかった。「病原菌」は義勇軍そのものの中にあったとしか言いようもなく、この制度自体が根本から問われるものであった。
先行した饒河少年隊や伊拉哈少年隊は成功と当時は大宣伝されたが、その実は失敗であろうか、短期間部分的なら成功と宣伝するもあるいは可能かも知れないが、かんじんの土着がむつかしい。ソ満国境の自然も厳しい中で精神教育をたたきこまれた日本の青少年だけで、ロクな農具もなく、本当は土地もなく「開拓」を行うなどは初めからムリな話であったとしか言いようがない。「開拓」の美名のもとに行われた、命と引き替えの一種の特攻作戦、土地強盗団作戦と言えようか。
そもそも満州を植民地にするということ自体が問われることであったし、それがウマく行かないから、あの手この手の打開策の一つとして打ち出された青少年義勇軍であり、はじめからウマくいったりする計画ではなかった。その全般的破綻の一つ表れということになろうか。
現地訓練所の開設は昭13であったが、翌14月8月までに発生した訓練所内の事件は、火災21、銃器による撃ち合い12、そこまでは至らない不穏行為12、自殺およびその未遂6、無断出所177、不良退所処分137であったという。敗戦で処理されてしまったのか、その後のデーターはない。もみ消しも多かろうから、その全期間の事件実数は気も遠くなるようなものに登っていたと思われる。
昌図事件
義勇軍最大の不祥事といわれた事件で「屯墾病」のと言うか、義勇隊の行き着いた所に発生した驚きの事件であった。昭和14年5月に発生しているから、現地訓練所のごく初期に発生したもの、所内にいた二つの中隊(300名くらい)同士で鉄砲まで持ち出して仲間討ちをし、死者3、負傷者5が出た、というものであった。
動機はアホみたいなことで、所内で行われた運動会での採点がルール通りでなくそれでワシの中隊が勝った、負けたという話であった。もしそんなことなら別にどうでもよいことと思うがそれなのに鉄砲で撃ち合う所まで行ってしまった、何か別に主因がありそうな事件であった。関東軍は報道禁止令を出し日本国内には伝えられなかった。
昌図という所は奉天(瀋陽)の北方にあたる、もともと張作霖の奉天政権のあった一帯で撫順炭鉱や柳条湖というのもこのあたりである。昌図には張学良の駐屯していた赤れんが作りの広大に兵営があり、その半分に満州国軍が、半分に義勇軍が入っていた。昌図訓練所は普通の訓練所ではなく、「特別訓練所」というものであった、ここは訓練所ではなく待機所であった、次々と義勇軍を送り出されたが、現地での訓練所の建設はそれに追いつけなかった、-30度の土地に宿舎もなしでは送ることもできず、現地訓練所ができるまでここで取り敢えず待機する所である。前年に到着した中隊と本年度に到着した中隊との間に発生した事件であったから、少なくとも1年もここで「待機」させられていたようである。想定外のそうした遅れの発生で急造されたものだから、訓練する畑はなく、宿舎設備もヒドイものでしかなかった、隊員たちの不満うずまいたが、そのはけ口の現地人にはここではさすがに手を出せない、誰も見てない僻地ではなく彼らの元軍都である、従って弱い所と言っても、後輩しかなかった。先輩中隊から後輩中隊へチョッカイだしたのだが、今回の後輩中隊はしっかりしていて、どっちが先輩中隊かわからないようなことであった、そうした風潮があると聞いてはいたが、よくないことだ改めるべきだ、として、暴先輩膺懲だこっから先制攻撃をかけて先輩づらしてちっとも先輩ではないクソどもをヨーク懲らしめてやろう鉄砲持って来い、となっていった。そうした情報は得ていたにもかかわらず、所長などのトラブル対応も事なかれの処置でしかなく、ナメられきっていて消すことができず、とうとう大爆発してしまった。
日本社会の諸問題諸矛盾をここに凝縮したような事件であった、どこの訓練所でも発生しそうな、現在の日本社会にも多くありそうな問題であった。
加藤寛治は名演説をした「ワタシが悪かった、急造の制度のため不備が多々あり、こうした事件を惹起してしまった。この子らに罪はない、もし罰せられるならまずワタシを罰してからにしてほしい。日本が中国へ発展するためには義勇軍制度を止めるわけにはいかない、どうか寛大な処置をお願いしたい。」
リクツは合っている、義勇軍を推し進めている日本指導者こそが罰せられるべき事件であった。アンサンらのマネしただけです、であった。彼らの刑は執行猶予となった。
沙蘭鎮事件。正確にわからないが、義勇隊員の話によれば、現地民を傷つけたことにより3人の隊員が所管の警察に逮捕された。中隊全体で警察を包囲し釈放を迫った、警察も銃で対決してたき、という。
義勇隊開拓団
現地訓練所で3年間の訓練が終了すれば、いよいよ入植である、昭和16年から第一次入植が始まり、この年は71コ団が入植した(義勇隊開拓団と呼んだ、20年まで全体では251コ団になった)
昭和13年に送り出された義勇軍は21999名であったが、3年後の昭和16年に実際に入植(移行)した者は17172名で途中で5千名弱が消えてしまっている。20%もが脱落し卒業までいかなかったということで、公費を投入した普通の学校なら大問題になるであろう。これを見ただけでもいかに問題多い失敗の制度であったかがわかる。
その入植地は満州全土にまんべんなくというものでなく、ソ満国境に、特に東部に集中入植というものであった。河ひとつ渡れば(冬期は氷結し戦車でも走れて陸続きと同じ)ソ連領、小高い丘に登ればソ連の町の明かりが見える所であり、自由に国境が越えられた数年前の残存かシベリア生まれの現地人も多くロシア文化があちこちに見られた。訓練所がそもそもそうした所にあったし、入植地はそれに近い所であった。
ウスリー河に沿った400キロにわたる国境線であったが、ここにいた関東軍は1個中隊(500名余)だけであった。開拓団はそのタラズを埋める役目があった。
ほぼ平地続きであったので、ソ連が来るとしたら主力はここからだと想定されていた方面であった(事実そうなった)。天田郷開拓団もこの方面だが、老人女子供の家族持ち開拓団ではどれほどの戦力にもなるまい、手足まといくらいか、義勇軍こそ軍隊と匹敵するほどの第一線級の戦力になるはず、と考えたのであろうか。
加斗村の方が入植されたのも饒河であった、饒河少年隊がいたところで、その残存組が「大和村」を作っていた。虎頭要塞の北方軍用道路で120キロの国境の辺鄙な土地、中央の力は及ばず禁制のアヘンの名産地であったとか、
「片手に鍬、片手に銃」(小銃、拳銃、迫撃砲くらい、機関銃はあったりなかったり)を持って、現地人の拓いた土地と村へ、その彼らは奥地へ追っ払ったうえ入植したという。
現地人の耕地を取り上げるのはいさぎよしとせず、自分たちで実際に開墾した団もあったというが、それは例外中の例外の話であって、ほとんどの団は既耕地を取り上げた土地であった。1ヶ月以内に立ち退け、タダ同然のカネで、であった。原野をイチから開墾すれば10年も20年もかけなければ肥沃な農地にはならなかった、既耕地ならその努力は必要なかった、翌年から豊かな収穫が得られた、そうした土地が甲斐性にすぎるて広大に用意されていた(隊員たちにはその事情は告げられてはいない)。スンバラシイが過ぎたが、その反撃は何も予測はしていなかった。そして言う「匪賊に襲われて大変な目に逢われたんですよ」だとか、それは史実の裏面でしかあるまい、表面、本当に大変な目に逢われたのは誰であったか、の説明もよくすべきであろう。
開拓団にはいろいろな補助金が支出されていたが、それは5年で打ち切りであった。それ以後は自力でやっていかなくてはならなかった(一般の開拓団も同じ)。これができなければ全体が失敗となるが、それまでに敗戦となった。
最初は集団で耕作する、どこかの国の集団農場みたいな、どこの集団でも同じような話で、集団が大きくなればなるほど能率が低下する、共同作業となれば勤労意欲が落ちて、なぜか病人や帰省者が増えて、物は粗末され、生産物の品質が落ちた。大きいことはよいことだではなかった、これは個人経営に切り替えれば一挙に解決できるのだが、個人では資本が不足しすぎた、一人ではこの自然、この広大な土地はどうにもならない。
それならば兵役をすませた団員は全員結婚させよう、1+1で2倍以上にはなる。家庭をもてば、依然としての深刻な中国農民への悪逆も自然に消えよう。
大陸の花嫁
図書館にあった。隣の福井県の人で、福井の義勇隊に嫁がれたという。→
「まえがき」で書かれている。
〈
私は自分の父親を知らない。母は不倫をしたのか、強姦されたのか、私を産んだ。今の世であったなら、胎児のうちに摘み取られていたであろう私の命。
母は、私を連れ子して貧しい家に嫁いだ。私はその家で、母からも虐待を受けた。私は、人の愛を求め、人を恋した。それも許されはしなかった。
私は、「大陸の花嫁」になることを決意した。戦時中の国策に従い、満州開拓の一人になったのである。当時、私の「大陸の花嫁」の目から見たものは、日本人の横暴さと「メイファズ(仕方がない)」で諦める中国人のおおらかさであった。
それは、日本国敗戦で逆転した。阿鼻叫喚の満州から生きて帰ってきた私は、八十歳の今、まだ生かされている。命のある間に、自分の満州体験と、満州に取り残された「中国残留日本人孤児」「残留婦人」のことなど、後世に伝えておくことが、私の使命のように思われた。
〉
この書もそうなのだが、引揚者の書はこのように各所で「日本人の横暴」に触れる、またたいていの体験者はまず最初でこうした話をする、日本人もひどかったですよ、と相手のことも理解できる人も多いのだが、当館とて聞かなかったこともなかろうが、それには知らぬ顔をしている。自分たちの落ち度にあえて触れて公平に見ようとした人の言うことは信用しようと思うが、これがない人が言う場合は苦労もしたこともないエエカゲンな勝手な者と見て信用はしない方がよいとワタシは考えている。当館やその案内人も語られるとよいであろう、話全体が信用されるかどうかがかかっている大切な所である、甘くはない、ワタシのように見る人も多かろう、アホが知ったげに何か言うとるぞ、くらいに思われるのは心外であろう。
こうした気の毒な身の上の女性が多かったようである、義勇軍もそうした身の上が多かったが、その伴侶になった者もまたそうであった。自主的に渡満を選んだ、というより選ばざるを得ない境遇であった、お互いはふるさとでもいわれなき後ろ指をさされた棄民であった。自主的にすきこのんで慰安婦を選んだわけはないのと同じである、選ばざるを得なかったのである、彼女らは軍から強制されたのではない、営業だったとか、自分で選んだのだと、いまだに本質的ではない問題を言う人も日本には多いが、それが誤りであることは義勇隊やその花嫁と同じであった、彼女らはその道を好まないが選ばざるを得なかった、そうした貧しい境遇に陥ったのは何ユエ誰ユエどこの国ユエかがまず問われなければならないのであって、ナニか自主的判断であったかに見えるのはほんの表面しか見てないからでしかない。日本がソンするために植民地としてあげたのか、戦後補償で何億ドルとか支払ったのはなぜか、トクさせてあげたのにさらに無償の保障をしたのか、日本が朝鮮の富を吸い上げたから彼らは貧しくなり、好まぬ「営業」もしなければならない身となった、それを忘れて軍の強制はない、民間のやったことだと言っても説得力はない。
開拓団や義勇軍、大陸の花嫁などは、侵略の片棒を自主的に担いだヤツではない、担がされざるを得なかった者たちであった。
送り出され者だけでも義勇軍は10万近くもいたので、花嫁もその数が必要であった。現地人にも娘はいたであろうが、それは考えなかった。蔑んでいて通婚などは頭にない、これが「五族協和の理想国」なるものの実態であった。
縁故などの関係で渡満した花嫁もあったが、それだけでは足りない。
国内と満州に「女子拓務訓練所」「開拓女熟」という花嫁学校を作る、正確に何箇所あって、何人が送り出されたのかはデーターがない、1〜6ヶ月の訓練を受けて嫁ぐことになる、だいたい書類で誰と誰がよさそうだと組み合わせ、義勇軍が一時帰国して見合いとなる、だいたいこれで決まったという。贅沢の言える立場ではないとお互いが思っていたのであろうか。
若い女性の姿が見えるようになれば、どこだろうとゴロリと雰囲気が変わる、もちろん開拓団でもそうであった。地獄に現れた仏のようなものか。
子供が生まれるころには、軍営みたいであった殺風景な風景が、農村らしくなってきた、隊員たちの心にあいたカラッポが埋められていき、次第に生産も増えて現地民に対しての暴虐は少なくなっていった。
しかしその至福の期間は長くは続かない運命であった。天地がひっくり返りまた元の中国に戻る20年8月が迫っていた。
ファンゴライ(天地がひっくり返る)
連合軍の要請を受けヤルタ秘密協定に基づいてソ連参戦。ソ連は8月8日に日本に宣戦布告した、その布告文は駐ソ大使から電報で日本へ送られたが日本には届かなかったという。肝心な所ではこうした意図的かと疑いたくなる「ミス」がよく発生する外務省ではあるが、仮に届いていても手立てはなかった、だだ狼狽するばかり、もう好きなようにしていただく以外にはどうしようもありまへん、の状態であった。翌9日には3方面から国境を越えてきた。
極東軍司令官の総指揮のもとに、第一戦線軍は東満・北鮮(間島省琿春、牡河省綏芬河、東安省虎頭)方面から、第二戦線軍は北部(黒河省孫呉、愛琿)方面から、第三戦線軍(ザバイカル戦線軍)は西部方面から、怒濤となって押し寄せた。こうした方面だけではないが、対日戦に準備されたソ連陸軍は、80個師団、4個機甲師団、6個狙撃旅団、40個機甲旅団、兵員150万超、火砲3万門(迫撃砲含)、戦車・自走砲6千両、航空機3千機というものすごい勢力で、関東軍が見立てたように、かつては自分がソ連へ攻め込むる予定であった、沿海州方面の第二戦線を主力としていた。地形的にはどちら側が見てもこの方面が軍を進めるにはベストであった。
この方面に集中配備されていた義勇軍や開拓団は時ぞ今であった、いざ鎌倉、今こそ鍬を銃に持ち替えていよいよ出撃、ニクキロスケ粉砕する、そのはずであった。
が、であった。しかし開拓団も義勇軍もソ連が来るよりも前から、もうその戦闘力は完全に失っていた。
関東軍は関特演(昭和16.7)の時点で人員70万にもなり、いつでも対ソ戦開戦できる大兵力となり、開戦するつもりで膨大な戦争用物資も集積された、終戦時でもそれは半分ほど残っていて、その量は驚くというよりもあきれたといわれるほどのものであった。ある参謀は朝鮮から1万ばかりの女性をかき集めて北満で「営業」させたともいわれる。
ソ連こそが敵国というのは日本陸軍の伝統的考え方で、アメリカやイギリスは一時敵国であるかも知れないといった程度のことである。今もたいていの日本人はそのようで、70年も前に完全に亡びた陸軍の仮想敵国観念、己が侵略心がひっくり返っただけの妄想のソ連恐怖心を、平和憲法下でも当館は引き継いでいるように思われる。満州に於ける日本の各種権益は日露戦争の尊い犠牲によって購われたもので、満州は日本の不動の領土であって何をしようが日本の勝手、チャンコロどもの満州は優れた日本人の指導あってこそ発展できるとする何ともいいよのないいかした観念、あるいはいかれた観念しかなく、自分がナチスドイツと同類、あるいはそれ以下の中国に対する侵略者である、とは毛頭も考えないものである。このように当時の国民は当時の陸軍や政府等々によって洗脳されていたが、陸軍の町・舞鶴、関東軍の抱いた「鬼念」ゆかりの町・舞鶴が建てた奇妙にねじれひねくれた、時代にそぐわぬ、未来の見えない当館特有の帝国主義的な混乱精神はそれを引き継ぐものであるように見える。
←米軍はユダヤ人収容所などを解放すると、すぐに周辺のドイツ市民を呼んでよく見せたという。後にあれはウソだとか、デッチあげだとか写真はアヤシイどこかほかの所だろうとか言う者が必ず現れるからである。
日本のは場合は現場が他国で日本人市民の目の届かない所で行われたために、こうしたナマの現場を実際に見た者は兵士くらいであったし彼らも共犯者なのでまずは言わない、言えないようである。一般市民は誰も見た者はなく知らないままでいる。
そればかりが理由ではなかろうが、同じことをやってきた日独の間での戦争認識の落差は大きい。またアメリカが戦争を繰り返してやまないのも、戦争現場が自国にはなく、国民が直接に知ることがないためとも言われる。虐殺現場が遠く地球の裏側であるため国民には実体験がなく関係のない遠いハナシとなってしまう。こうした虐殺に自分も関係があると気付かない。まあその国のケツについて自衛権のよる戦争可能などと言いたがるどこかの国などはさらにさらにアホウ国ということになるか。
フクシマから何も学ばなかったように、戦争からも何も学ばず、戦争が始まったその一番の原因と重い責任をしっかりと見ていない、引揚げとはその自らが火を付けた侵略戦争の避けられない帰結の一つであったはずであろうが、それは語られることはない、過去の亡霊の視点に一方的に立つのみで、中国や朝鮮からの視点はまったく欠いている、欠いているということすら気が付いていないノーテンキなもので、植民者の後裔として多少は被植民者にも気を使っているようだと思えるような反省や思いやりはカケラもない。
関特演は演習という名にしたソ連に知られてはならない極秘の開戦準備であり、応召者にも壮行会やバンザイバンザイは一切禁じられた、西部からナチドイツに攻められているこの時こそ千載一遇の大チャンスとみた、日ソ中立条約は2ヶ月前に締結されたばかりだが、そんなモノは一顧だにしてはいなかった(実質有効期限はゼロのようなものであった)。しかし期待していたようには極東ソ連軍はほとんどは西部戦線に移動せずこちらに待機しているし、その沿海州空軍で帝都空襲などされると防空力はなにもないので数回の空襲で灰燼になってしまうし、天皇が陸軍不信でいるし、海軍は陸軍だけで勝手にやれよ、ワシは知らんゾと横向いているし、ナチドイツの進撃も7月中頃には膠着しはじめた、その他諸般の事情から、というのか作戦変更か、それとも条約遵守のためか、対ソ開戦は土壇場でともかく16年度内は見送られ、南方に集中することになった。16年の12月8日未明にはアメリカの拠点真珠湾とイギリスの拠点マレー半島へ行った。何もないシベリアでなく資源豊かなこの方面へ向かった。
関東軍は満州までしか知らないので、シベリア用の-40-50℃防寒具はなかった、当館に展示してあるあの防寒服で、あれは満州使用、仮にこの時にこの服で攻め込んでいたとしても、最初の冬が越せなかっただろうとか言われる。
アメリカイギリスなどと戦争を始めたため、ソ連ヘ行っている場合ではなくなったどころか、初めのうちこそ調子よかったが、やがて敗戦が続くようになり、日本陸軍最強と謳われた無傷の精鋭関東軍から南方へと部隊が引き抜かれ始めた。
それは数だけでもすごいものになり、いかに南方が苦戦しているかがしのばれるが、その強敵アメリカとの戦闘に使う部隊なので最新兵器の精鋭部隊が引き抜かれた。
引き抜かれてしもた、苦しいときは相身互い、などと言ってはいられなかった、兵営をカラにしてはおけなかった、望楼からソ連がこちらを伺っていた、カラになった、などと悟られてはならなかった。カラの兵舎や基地をこれまでのように兵で埋めなければならない。やがては18〜45歳の男子全員に招集令状が届いた、「根こそぎ動員」(20.7)と呼ばれる、どうしても今の位置をはずせない者を除いた在満男子の全員20万人であった。天田郷開拓団のように小学校の校長先生もカタナを腰にさして出征であった。
そうした方よりは義勇軍の方がずっと頼りになり、まずは義勇軍から引き抜かれた、義勇隊開拓団でも全員が引き抜かれるというような所もあった、極秘の招集で誰にも知られぬようにということで、夜中に誰に見送られることもなく出征していったが、そうしたことは秘密にできるはずもなかった。あとに残るのは責任者1人と病人負傷者とか幼児嬰児数人をかかえたヨメさんのみであった。団は戦争どころか農耕もできない状態にすでになっていたうえに、耕地を取っただけでない、現地農民の作物は勝手に取る、家畜も勝手に取ってしまう、反対に団の方へ盗みに来た現地人の子供は袋だたきにして殺してしまった団でもあった、こうしたところはたいていの手記はふれないが、正直に書き残しているものもある、ごくまれな例外を除くとたいていの団とはだいたいはそうしたものであったと思われる、現地人の反応を見ればだいたいの想像がつく、男手がすべて消えたと知り周囲の現地人たちの様子が以前と違いおかしくなってきた。あいつらはまた帰ってくるかも知れん、帰って来ないかも知れん、さてどう出たものかと思案しているようで、まだ襲っては来なかったが、もう以前のように畑へ出ることはできず、土壁に囲まれた村に閉じこもらざるを得なかった、もし襲ってきたら全員自決しましょうとほとんどの団では申し合わせて覚悟を決めた。
ソ連が驚愕の大軍勢で進攻した日、今の中国全陸軍の数と同じくらいの兵員数、日本の陸自の10倍、アメリカ陸軍の3倍、ロシア陸軍の5倍であった。開拓団の戦闘力はゼロどころかマイナスで、現地人の憎悪が目に見えて高まっている中にポツンと孤立していた、これでこのソ連軍に立ち向かえるわけもなかった、連絡網もズタズタ、宣戦布告文すら届かない状態であったから、末端の混乱狼狽ぶりは想像できよう。日本が勝ったのだと思っていた団員も多かったというから、それくらい何も知らされてはいなかった。
満州は不滅の神州であって、それが負けるわけなどはなかった、満州国は日本が侵略して作った傀儡国で、そこの住む日本人は侵略軍の一部であり、そうした不義が続くわけないの認識はカケラもなかった。
無敵関東軍がいるから負けるわけがない、こんなことは一時的な手違いだろう、すぐに追っ払ってくれる、一週間もすれば入植地に戻れると考えていたため、ほとんどがそう考えていたようで、どこでも一週間と見ていたのは不思議に一致する、満州よりは安全で日本であった北朝鮮に避難した者も多かった。敗戦でもう戻れないと知っても三十八度線が封鎖されていて、多くは当地で越冬しなければならなくなり犠牲者が多発した。(鉄道が三十八度線で遮断されたのはだふん8/24だったと『流れる星は生きている』にある、いまもって遮断状態のままのよう)
現地人の様子からとにかくここにいてはヤバイ、一時撤退して、はるか後方にある関東軍駐屯地まで逃げよう、ナニすぐ戻ってこれる、関東軍が負けるわけない、2週間ほどで戻れるだろうと、持てるだけの物を持って急いだのであった。しかし事態はそんなに甘くはなさそうだと皆は感じていた、歩けない子は処分せよ、産婦も多かったが、生まれた子はただちに処分と言い渡されていた。50キロも歩くと当時の粗末な靴の底は抜ける、子供を抱えてとてもそれだけも歩けないとあきらめた人は残留した、早く戻ってくれ、ここで待つと。
開拓団は関東軍の第一線駐屯地よりも100キロも200キロも先に作られていたものが多い、天田郷開拓団はさいわい8キロ先(内側)に関東軍の飛行場があった、ともかくここへ避難したが『生還者の証言』には、
〈
…何度も辷り転んで坊やと全身泥々、ようやく二里(八料) 先の飛行場についた時はやっと雨も止み爆破した滑走路の上でしばらく休憩した。
あちらこちらにドラム缶がころがっている。莫大な費用をかけてようやく完成した大飛行場も一瞬の間に水の泡となってしまったのだ。無念の思いがこみあげる。
〉
関東軍は敵のいる前線へ移動してカラなのではない、敵のいない後方へ移動してすでにカラになっていた。自分らか逃げた後は橋などを破壊までしていた。それでソ連軍の侵攻は多少は遅れたかも知れないが、取り残された開拓団の労苦はさらに大きなものになった。
これが今もって深く恨まれている「関東軍は民間人を見捨てて自分らだけで家族も連れて、ワレラには知らせずに最初に逃げた、しかもテメエらが渡るとその橋まで爆破しやがった」である。
日本国民に今も根強い軍隊に対する不信感、国家に対する不信感はコイツらのド勝手な歴史にもあった、それを何も展示していないのなら、当館にも同じ不信が向けられよう、国家や軍隊が作ったものでなく、市民が建てたものであるにも拘わらず、肝腎の所がない、普通には引揚悲劇発生の第一の原因はここだと言われている、どこを向いているのか、何を展示しようとしているのか、それとも寝ているのか舞鶴市よ。
しかし困っている日本人を置いて逃げたのは何も関東軍や政府だけではない、一般国民もまた困窮の日本人を見てて自分だけで逃げる卑怯非道な者もまた多かった。
畜生が、こんなに困っている人を置き去りにして逃げるなんて、いつもそうだ、畜生め、と若い朝鮮兵は怒り、貴様達は自分だけが逃げりゃいいのか、この子供を負ってやれ、この荷物を全部持ってやらんか、と自分だけが逃げようとする日本人避難民の男達に持たせた、途中で捨てたりしてみろ、とドン銃床が大地をたたいたという、しかしやっぱり日本人男は途中で捨てたという話が『流れる星は生きている』にある。
恥ずかしながらこれが自称優秀民族のまことに自称通りにケッコウな畜生の姿であった。畜生関東軍を生み出した母集団=日本人社会もまた当然にもスンバラシイものであった。
それを引き継いでいるのか、舞鶴市よ、自分らだけがゼニ儲けできればいいのか、一部市民だけがよければいいのか、10万市民の安全安心などはどうでもよいのか。そんな者が作ってもどうせたいしたモノができるわけもないか。
しかし見方を変えれば、カラであった方がよかったかも知れない、日本軍には民間人を保護する精神は口先はともかくも実際には毛頭ないので、ヘンに守備隊などがいてがんばっている基地へ避難したりすると、最後は軍とともに民間人も全員自決となったかも知れないからである。男手が割と残っていてがんばっている開拓団へ避難するのもヤバイ、ここでも軍隊と同じ悲惨な最期が多かった。
国家の軍隊とはそうしたもので、「国家」を守るのであって国民を守るためのものではない。国民の命は第二義以下でしかない「国家」そのものが問われることになる。誰のための国家か、税金は取るがオマエらの命は守らないそんなものより関電様ですがなという、どこかの呆けた市のような、そうした椰子国家烏賊様自治体などはアホくさい、人民を守るのは人民自身でその人民軍だ、人民の勢力で新しい国家や自治体の建設をというリクツが成立して、そうした理念のもとに国や自治体が建てられてもいった。
邦人保護のために自衛隊派遣などの口先にはだまされてはなるまい、邦人保護のためと言って満州のヌシのようにふるまい最強無敵の大関東軍と謳われたものの恥ずべき三文のネウチもない歴史である。
関東軍はいない、しかしいつまた戻ってくるかはわからない、現地人は様子見で決定的な行動には出なかった。そしてとうとう日本敗戦、武装解除と知ると避難民たちを襲い始めた、襲うというのか取られたものを取り返しはじめた。ソ連参戦から敗戦日までに都市まで避難できた団はさいわいであった、できないとヤバイ運命が襲った。
傀儡満州国はベトナムでアメリカがやったことをさらに悪くしたものであった、ここでワレラがおこったことはいまだにその全貌は知り得ないが、だいたいおとなしく人間として成熟していたアジア人でもよほどに腹に据えかねていたに違いない。
この日がやがて来ることを予測して慎重な現地人対処を積み重ねていたほんのわずかの開拓団を除いて、なにがしかの被害を受けなかった開拓団はなかろう、包囲されて全員自決の悲惨な最期となった開拓団も多い、彼らにすれば別に殺す気はなかっただろう、取った物をすべて返してくれということである。
何ということをさらす、と彼らを非難できる立場にはワレラはない。自分の手を見れば現地農民の血と涙だらけではないか、勝手に彼らの土地に大挙して押し入り、彼らは奥地へおいやった、抵抗すれば匪賊として容赦なく殺した、こうしたワレラ自らが蒔いた種を自らかで刈り取った、ひっこんでいた道理がここにきてとうとう貫かれたというだけの話であって、彼らがワルイとを恨むことはできない(全体として話で、真の責任者が彼ら団員だといっているのでないが、現地人にも団の苦境を見かね怨みを押さえて助けの手をさしのべてくれた人もあった、地獄に仏だが、その仏様を秘密保持とかで用がすめば撃ち殺すまでした団も少なからずあった、これくらいに自分勝手な者で、この時点でもまだその悪性は変わることなかった、これで地獄に墜ちないとでも思っているのか、そこまで思い上がっているのか、そこまで狂っているのか、どのように贔屓の引き倒しに見てもどうしようもないドクソもまた多くいて、立場代われば、たちまちに襲われるのも文句のいいようもないとしかいいようがない、襲われたと文句言うなら、初めからそのように振る舞えばよかろう、幸いにもアジアの国々は人間的にワレラよりは成熟している国で以徳報怨の老子的な考えを持ち、特に下っ端人は彼らも被害者であって責任はないの考えで対処してくれたからこれくらいの「被害」で済んだと思わねばならないかも知れない、アメリカだったら死刑だなというようなBC級戦犯なども許してくれている)。
ソ連がワルイ、ソ連が来たからワルイとも言えない、ソ連の危機を見て先に自分の方から行く気になっていたからである、ソ連から見ればこんな火事場泥棒根性のブッソウな連中は近くからは追っ払っておきたかろう。欧米的に、ウエは言うまでもないが下っ端と雖もナニガシかの戦争責任は逃れられまい、と考えられると厳しい話になってきた。ウエは立派な者であるはずもなく責任を取ったりはしなかったし自己保身と責任逃れに汲汲とし、どこかの神社に神として合祀されて、死んでも責任を感じていないようである。オマエら口先ではそう言うが、ホンマに反省しとるんか、と外国から言われるのも当然かも知れないし、こんな者がいうエエかげんな話に簡単にダマされる愚か者であることをワレラとしては深く恥じねばなるまい。自分ではイッチョマエと思っていたが、外から見れば義勇軍の12歳の少年と大差なかったのかも知れない。
収容所での死の越冬
関東軍の第一線よりまだ先にあった入植地から、100キロも200キロも歩いて、命からがらに都市周辺へ避難した、普通の開拓団も義勇隊開拓団も同じであった。関東軍に取られた義勇隊や開拓団員については別途見ることとして、ここでは主にその年齢に届かなかった少年隊員や家族の方である。
都市にたどりついた時にはすでにその都市にはソ連軍が入り、ソ連軍の管理下にあった。武装していた団は武装解除を受けて、収容所にまとめられた。
ソ連軍管理なので現地人からの襲撃はひとまずは心配はなくなったが、ここは恐ろしく劣悪なものであった。冬がきびしくならないうちはまだ持ちこたえたが、-30度に下がると収容所こそが最大の死者を出す所になった。開拓団では全体で8万余の死者を出したが収容所での死者が6万と言われる、だいたい3割は収容所での越冬に生き抜けなかった、義勇隊開拓団も似た比率であったと思われる。
収容所というのは元の日本人学校や義勇軍訓練所、工場などが当てられたもので、そうした目的のために建てられたものではないし、すでに略奪されていて、窓も何もかも持ち去られ、ただ屋根だけがかろうじてあるだけといった物であった。もちろん寝具などあるわけではなく、食糧も暖房もなし、薬も医者もなし、全員が着の身着のままで夏服、風呂があるわけではなく、着替えもないので洗濯もできなかった。
ソ連政府の発表によれば、収容所では日本人一人当たり一日につき食糧は何カロリー、内訳は…とか定められた物が支給されていた、そのハズであったが、その通りの量でも少ないのに、途中でロシア人や悪徳日本人に抜かれてしまい、末端まで届くのはごくわずかな物、その1/10もあれば上等というものであったという。震災復興予算が何も関係もない所で使われるようなことであった、末端で支給状況を監視して公表しているということもないため、その状態が続いた。
ワタシのオヤジはトラック野郎で兵站にいたようだが、言うには、トラックに物資何箱か積み込んで運ぶそうだが、箱の中身はなくなっていてもOKだそうで、受け取った何箱かがその個数どおりに中味はどうあれ配達先に届けば任務完了ノープロブレムだそうである、だから中味は途中で全部抜いてもおとがめはない、箱もなくなると問題だそうだが、壊れたようなカッコウでも箱だけが行けばいいというものだった言う。そんなことやで要領のエエモンはトクするが、気の毒やが一線には物資は行かへんのじゃ、と言う。中味が何かは書かれているはずはない、何をどれだけ輸送するかは重大な軍事機密であろう、伝票には木箱何箱としか書かれていない、受け取る側もモトモトがカラかもしれないから員数さえ合っていれば何も文句は言えず、ご苦労様でしたとしか言えない。確かにそのとおりかと思われる。これは山下奉文麾下のシンガポールを落としたマレーの虎日本陸軍の話、オヤジは「軍隊なんかそんなもんじゃ」と言う。「パイナップル罐な、あんなものは特にそうで、木箱を何かがぶつかったような形に壊して、罐を取り出し、喰ってしまう。あまりに喰ったものだから、もうイヤになったか、半分も喰わずに、ポイとジャングルに捨てていく」
食糧は特にそうしたことらしく、「かりに輸送がうまく行ったとして、途中輜重兵、部隊幹部のピンはねによって、最前線に届くのは出荷量の一〇分の一というのが軍隊の相場である」と大岡昇平『レイテ戦記』にある。
酒などは特に特にそうではなかろうか、鉄道輸送なら酒満載の貨車ごとどこかへ消えていまう。10車輛分発送しても前線に届くのは1車輛だけ。
軍機軍機でロクでもないヒミツだらけの軍隊が持つ宿命的な欠陥であろうか、前線でのトンパチしか目にない後方兵站軽視無視の日本軍だけの話なのか、ソ連がどうであったかは知らないが、帳簿上だけに限るならノープロブレムで収容所には公表どおりの食糧その他は届けられていたものとなっていたではなかろうかと思われる。ソ連側資料にも日本人捕虜のための食糧を売り払って、日本人が盗んだと報告した担当上部の徳役人が見られるという。公的地位を悪用して公のものをクスネルことしか考えていない、どこの国でもありそうな話である。
またそうした悪意がなくとも、地震災害などで広範囲の大被害が発生した場合の物資の配布は必要な所まではなかなか届かない。メデタイ総理とかはすでに必要な物資はすべて配布済みですなどと言っているが、実際には必要な物が必要としている所ヘまでは届いてはいない方が多い。そんなところははっきり言えば見捨て続けてきたのだから、現場からは「政府や自治体はアテにならない」「配布が不公平」の声が当然にも聞こえる。何もなくともあてにならないのに、大災害にあてになったりするわけもないのである。届けると言っても道もなく、何が足りないのか不明、何人避難しているのかも不明、その場所も不明で、さらに物資の仕分けをする人もない、よほどに優れた人であってもむつかしい、しかし口先だけのトップやその周辺は役立たずのアホばかり、仮に物資が豊富に用意されていても、それはすみずみまですべてが簡単に届くわけがないのである。こうした事態にならないように予め慎重な対策がなされなければならないのである。負けるはずがない、事故なんかあるはずがない、地震なんかあるはずがないの空念仏を根拠なく信じているようなものどもにその事前対策があるはずはない。そして言う、想定外でした。
日本政府は国内も大混乱で船も用意できないし帰国しても食糧もナンにもないから引き揚げるな、空襲がなかっただけ満州のほうが物資も豊富だ、軍民ともに残留して現地でガンバレ、現地でカツヤクしてくれの冷淡というか、もし何かあればソ連さんが助けてくれるのが当然でしょ、中国さんが何とかするでしょ、キミたちはそこにいて日本権益を守ってくれ、そちらのほうがよいくらいにしか考えてはいない、捨てて逃げた者である、知りまへんですよ、それ以上の保護とかはを考えるハズもなく万に一つにあったとしても船もないのに食糧衣料品薬品などを届けられたり、連れて帰るわけもなかった。現地日本人同士で融通し合っていくより手がないが、日本人同士といってもそれは調子のよい時だけのハナシであって苦しくなれば隣人愛ある社会ではなく、弱き者には冷酷であった。
この時代にでも関東軍はエラそうにしていたの証言が多い。スズメ死んでも踊りやめず、であった。
満洲国国営放送は「今いる場所に留まり、そのまま生活を続けて下さい」と放送していた。在留邦人ならびに武装解除後の軍人はソ連の庇護下にはいり、土着して生活を営むべし、が方針であった。現地人となれと言われても、現地では受け入れてはくれまい、どうすればよいか、死ぬか子供だけは現地人に預けるか、現地人のヨメさんになるかくらいしかなかった。
当初はそうであったが、特に軍人を残すとヤバイ、100万もいるでないか、早く引き揚げさせろと考えていたのはアメリカくらいで、日中ともにそれに従わうしかなく、引き揚げの方針に変わっていった(10月くらいから)。
ソ連軍はこの昭和20年末には完全撤収する予定であり、ただ交代する中国で内戦が激しくなり引き継ぎがおくれていた。特にどうするかの関心はなく、満州の日本権益を手にする、労働力を手に入れることに力を入れていた。
男刈り女刈り。
満洲の鉄道や港湾などの日本権益をすべてソ連が確保する、は対日参戦の見返りでヤルタ会談で秘密に取り決められていた。その労働力として日本人の男たちが刈りだされた。少年だろうが老人だろうが狩り出され労務につけられた。かつて日本軍が中国人たちを狩り出したのと同じだが、日本なら用がすめば秘密保持で全員射殺したり、酷使して万人坑ができたが、そこまではしなかった。シベリア鉄道は広軌(1542ミリ)と満鉄は標準軌(1435ミリ)でレールの幅が違っていた。それでレールをズラしてこの幅を広軌に変えるという作業とソ連が戦利品とした元は日本物資を貨車に積み込む作業であった。後にはこのレールで彼ら自身もシベリアに送られることになったが、それは別途取り上げる。
『シベリア俘虜記』(穂苅甲子男)より↑
女性専用収容所というものはなく、男も女も一緒くたであった、女は丸がリにして顔を汚し男服を着て女であることを隠そうとした、それでも見つかれば引っ張っていき、人目から少し離れれば暴行を加えた、人間ではない、と思えるかも知れないが、かつて日本兵が中国でやったことであり、沖縄や日本で米兵がやったことである、戦争するなどはもう最初から人間ではないので、負けるはずがないとここまで畜生道で来てしまえば、ヤメテクレヤといまさら言ってももう誰にも止めようもなかった。
そうしたものよりもずっと恐ろしいものは寒さと饑餓と病気であった。みなが生きたままで墓場の幽鬼かミイラになっていった、ミイラの体力では幅40センチ深さ30センチの溝が越えられなかった、後向きに滑り込むようにして溝に入り、ムキを変えて這い上がった。
それも12月くらいまてであった、冬が本格的になれば、死者が続出した。死ぬと周囲の者が衣服を奪い自分が来た、鶴嘴も跳ね返す凍土のため埋めることができないしその体力もない、適当な所にはこび置いておくよりなかった。
京都義勇軍の記録『義勇魂』は、第五次京都中村中隊の生きて帰国できた者たちで洛西に建立した「義勇魂」碑の記念誌である。この隊が渡満したのは昭和20年5月6日であった。隊員は200余名で90余名が犠牲となった。舞鶴の人もけっこうおられた。
〈
凍る屍の山
死んだ仲間の衣服は、すぐ年長者のボスに剥ぎ取られ着用された。仲間の屍は監獄内の倉庫に置いた。毎朝友の死体を倉庫に運ぶのが日課になった。朦朧とした精神状態に皆がなっており、悲しみの涙も出ない。今日の友の死は、明日の我が身なのだ。僕は、せめて、倒れゆく友の名前だけでも書きとめておきたいと思ったが、筆記用具もなにもない。
友の屍は、日が経つごとに増え、一人一人並べて安置する場所もなくなってきた。息が断え、痩せ細った友の顔は凍ててどす濃くなると誰だったかわからなくなる。変色し、変形してしまう。安置場所もせまくて置場に困り、死体の上に死体を積み重ねざるをえない。黒く凍った裸体の屍を、材木のように積みあげる。小学校の先生から、少年義勇隊に行くように教えられた時、生まれ故郷の親兄弟と別れる時、小さな胸に不安ながらも希望を抱いて京都をあとにした時、誰がこのような最後をとげると思っただろうか。
倉庫にいっぱいになった死体を、処理する場所もない。手製の橇に乗せ、南山の谷間の塹壕に運んだ。土が凍てついてコンクリートのように固いうえに、日に日に衰弱する体力ではとても穴など掘れるものではない。そこで雪の積もっている塹壕を利用して、雪を払いのけて死体を納め、雪を蔽ってやるのが精一杯であった。これらの作業は、すべて自分たちで行なった。収容しているソ連側も、近くに居留する日本人の大人も、だれもかまってくれない。
扉もない。ただ積み上げられた煉瓦に屋根がのっているだけの、荒れはてた建物だった。黒くポッカリあいた出入口は異様な感じで、雪が白くまばらに吹き込んでいる。倉庫の内を見た私は、あまりの無慙さに呆然とその場に立ちすくんでしまった。大きな鉄の玉や、鉄鎖・鉄枷の散乱しているなかに、義勇隊員の骨と皮だけの、コチコチに凍てていろんな恰好をした、どす黒い丸裸の屍体がうず高く積み上げられている。…これら屍体の、何とおびただしく積み上げられていることか。眼窩あくまで落ちくぼみ、頬骨・顎は突出し、ただ皮ばかりが骨にへばりついている顔、顔、顔……。
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大江町の校長先生が泣いたはずである。この運命が彼には見えていたのだろう。
そのほかの先の見えないクソどもがハンザイ、バンザイ、バンバンザイと送り出した義勇軍の最後の姿であった。クソどもの犠牲となった青少年は2万4千名と推測されている。
『白の残像』(当館の語部たちが発行されたもの)
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柳絮(りゅうじょ)とぶ満州で 江藤 博
満蒙開拓青少年義勇軍…。この言葉を今の若い人の幾人が知っているでしょうか。私は昭和十五年三月、綾部の尋常高等小学校の高等科二年生でまだ十四才の時に志願。私も含め当時志願した青少年たちは、純粋に使命感に燃え、親や兄弟とも別れ、民族協和の旗印のもと大陸建設の大きな夢を抱いていました。しかし、国の政策の意図は、満州辺境の抗日組織を撲滅するとともに、未開地を開発し民族移動の先兵になること、さらに対ソ連の北辺防備に当たる軍事目的にあったようです。当時十四才の少年の私には、その本当の目的は分かりませんでした。
冬には零下三〇度から四〇度にもなる満州では、荒地を開墾し、農作業をし、自分たちの住む家を建築。又、学習や軍事教練にも忙しい毎日でした。あっという間に三年間の訓練が終了。義勇軍は開拓団としてさらに北の大黒河に移動しましたが、私は一旦帰国し、家族とともに天田郷開拓団の一員として満州の南依蘭に行きました。
間もなく私は召集され、関東軍(満州にいた日本軍)に入隊。終戦の時は、朝鮮半島でアメリカ軍に武装解除されました。二十年十二月にふるさとに引揚げましたが、父は中国の八路軍に捕まり行方不明、母と一人の妹は逃げる途中に死亡、また別の妹二人も行方不明になっていました。残ったのは私と弟、妹の三人だけでした。また、満蒙開拓青少年義勇軍も、その後、戦闘や飢餓で十代の若い命がたくさん失われ、さらにシベリヤにもたくさん抑留されたことを戦後になって知りました。
当時を振り返ると戦争に対する憎悪の気持ちが込み上げると同時に、戦争に突き進む時代の雰囲気が出来ると、個人もそれに飲み込まれ、戦争を美化してしまう恐ろしさを痛感します。引揚記念館などを通じ、戦争の悲惨さ、平和の大切さを訴えると共に、なぜ戦争に突き進んでいったのか、その時代の流れもしっかり次ぎの世代に伝えなければいけないと思います。
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