民間人の引揚の様相



民間人の引揚の様相 -2-


舞鶴引揚者の手記-1-

体験談:
引揚げの思い出
舞鶴港へ引揚げ者
大いなる母の懐舞鶴港
中国残留孤児を思う
ある引揚げ風景
舞鶴へ
思い出す紅白のお餅
父と妹二人を亡くして帰国



↑平の引揚桟橋(復元)。ここへ帰ってきた。


 どなたか読んで下さる人があればいいのにと思っています。(引揚者の手記)
引揚四〇周年として引揚者の手記を募集したところ、全国から多くの寄稿を得たという。『私の海外引き揚げ』(昭和60・引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い実行委員会編)より
原典にはフルで記載されていますが、ここでは住所・氏名は…にしています。

◎引揚げの思い出
京都市…
小山…
 昭和二十一年七月、中風で寝たきりの主人の父(七十五才ぐらいだったと思ふ)と兄夫婦の三人一組と、私たち夫婦と子供二人、主人の母(八十四才だったと思ふ)の五人一組で引揚げる事になり、中風の父は、兄と主人がタンカにのせて、私は一歳半の男の子を前にくゝりつけ、六才の女の子と母の手を引いて、おむつと食糧が少し入ったリュックサックを背負い、近所の人とならんで駅に行くのです。
 その姿を想像して下さい。どんな苦労も出来ると思う。その時は涙もでなかったが、今思いだし書いていると涙が出てとまらない……。みんなかわいそうで、ごはんたいたまゝで、家を釘づけにして出た時のことが何時までも忘れられない。鞍山駅で兄たちと別れた。病人づれは客車で、私らは貨車で、その中へ多ぜいの人間が、われ先にと乗り込む、年より、子供、荷物、ふと気付くと主人の姿が見えない、青くなったのを忘れる事はない。何日かかゝってコロ島についた。
 雨もふり、トイレもない。貨車が止った時に下におりて、人が見ていようが見ていまいが、かまっていられない。私は子供に乳のましていたから生理なくてよかったが、生理になった人はどんなに困った事だろう。満人の機関手にみんなで金をやり、貨車を出してもらい、八路軍の兵隊も貨車にお金取りにのり込み金とられたり…。命からがらコロ島につき、満鉄の社宅に入れてもらう。
 畳もぼろぼろ、足ものばしてねられない。大人も子供も足をちぢめてねた。
 着のみきのまゝ、船にのるまで食物をどんなにしていたのか、米買ってたいてたべていたのか、生きるのに夢中であまり覚えがない。いよてよ、アメリカのリバティ貨物船にみんなわれ先に乗り込み場所の取り合い。寝たぎりの父はアメリカ軍が病院へつれて行って殺した、船の上から毛布に包んで海へすてたそうである。私らの船でも死んだ人は皆海にすてられた。仕様のない時代でした。
 母も動けなくなり、おむつに大小便をとり、甲板に上って洗濯するのです。大きなホースで海水が甲板に引いてあり、食器を洗ふ人、洗濯する人、そんな中でくさい大便を海へすて、母と子供二人分のおむつの洗濯する。おむつをとられて悲しい思いもしました。
 いよいよ舞鶴につき喜んでいたらコレラが出てなん日かおりられなくなり、甲板に男も女もおしりを出してうしろ向きになり肛門のけんさです。はづかしいもなにもない人間ぎりぎりの状態……。その時私三十一才でした。いよいよ上陸、又、子供を前にくゝりつけ、女の子の手引いて、母は主人が背負い、桟橋渡って、収容所で頭から消毒され、一人千円お金交替してもらい、それぞれの国へかへるのです。お金持ってない人に千円あづけて交替してもらい、五百円づゝにしてどこの人か知らない…。
四十年も前の事、男も女も苦しく悲しい時代だったが、昨日の事の様にあざやかに思い出す。なつかしく胸つまり、涙一ぱい出て。あゝあれから四十年夢のやう。

現在の南上安あたり
↑国鉄の駅や引揚寮のあったあたり。現在は自動車学校や府営団地になっている。(舞鶴市南上安)


◎舞鶴港へ引揚げ者
大阪市…
森下…
 あゝ「まいづる」!私達は四十年前、日本の美しい港舞鶴へやっと着いた。その時の感激は今でも忘れられない強い印象として残っています。昭和二十一年七月二十三日、満洲からやっとの思いで到着したのです。私が二十六才、長女二年十一ケ月、長男生後六ケ月でした。
 上陸と同時に広場でズラーと並んで、DDTを頭から体に真白になる程掛けられ、援護寮に入り、先ず行く先を決めるのに地図を見た。東京生れの私は、親類・縁者の地名を見てどこに帰ろかと迷った。どこも赤く塗られ、焼けているのです。主人は大阪北区の出身、ここも赤く塗ってあったが、天満の天神様の一かくが焼け残っているのでほっとした。大阪に一応帰る事にして、夜半、荷物といっても、ブリキで作った水筒と、下着二、三枚を縄で縛り送ってもらい、朝方、舞鶴駅に、長男を背に長女の手を引いて駅まで行く途中、歩行者の服装が随分美しく見えた。
 大阪に着いたら駅近辺がすっかり焼け、かなり遠くまで見通せた。どうして天満に帰ろか、又、迷ったが、腕章をした学生さんが大変親切に、梅田の海外引揚援護寮に連れて行ってくれました。すぐ近くに闇市が出来ていて、ただただ私は戸惑うばかりでした。やっとの思いでシイタケの入った豚まんの様なの買って、子供と食べた時美味かった。終戦十ケ月余で帰って来たのですが、その間まともな物が口に入ってなかったのです。
 二十一年六月三十日午前〇時、国府軍兵士に宿舎の鍵を渡し、三哩、約四・八キロの道を背にリュックを、胸に子供、右手に長女、左手に赤ちゃんのおむつ等持って歩きました。家を出る時、子供に厚手の冬物を着せて、自分も夏物、冬物と三枚重著して出ましたら、途中、陽が射して来て、暑くなり、一枚脱ぎ、二枚脱いで、子供も私も玉ねぎの皮をむく様にして捨てながら歩きました。三千人の団体でしたが、子供がおくれ、おくれ勝ちでした。
 駅に着くと、女検閲官がいた。四平街第一引揚げで、わりに皆さん荷物が多く、取上げられるのも多かった。検査がおわり、さて貨車にのる時が又、大変、二メートル位の高さのところへ子供一人を背に、一人をわきにかかえてやっと無蓋車に乗ったのです。コトコトと奉天キンセイ駅まで十日位かかったと思います。収容所までの坂道を長女がついて行くのにのろくて困りました。一週間位収容所にいて、やっとコロ畠に着き、リパテー81号にのったのです。その時、日本の船員さんの顔見て「あゝ、やっと日本に帰れる!」船員さんがやさしく子供を抱いて乗せて下さいました。
 海は油を流した様なおだやかさ。でも玄海灘はうねりが凄く、又、仁川沖は濃霧で、汽笛をボーボー、船どうしが鳴し、もし衝突したら船底では逃られないと、甲板に上った。二人の子供を膝の上にのせていたが、抱いている子供の顔が霧で見えない位でした。三週間かかり、舞鶴港へ着いた時は皆が一斉に立上がり、思わず万才をさけびました。その翌年四月に主人がシベリヤから帰って来たのです。第一大拓丸で同じ場所です。
 あれから四十年、長男はもう三十九才、長女がいたら四十二才、でも残念ながら長女は三十七年二月流感で亡くなりました。二人の子供は大阪に着いた二日目から熱を出し、長女は色々病気をしましたが、十八才まで何んとか大きくしたのですが、昨年二十三回忌を済ましました。やっぱり戦争犠牲者と思っています。現在は長男と内地に帰って出来た次男、主人、私と四人が健康に暮しています。主人も私も、十年程前開腹手術する程の大病をしましたが、ただいまは毎日、毎日を大切に、感謝して、まだまだ現役でガンバッて居ります。
 舞鶴港は大変思い出深いところ、一度二人で行ってみたい、懐しいところです。美しい「まいづる」今でもハッキリ目に写ります。



大いなる母の懐“舞鶴港“
神戸市…
中田…
 七月卅日付けの朝刊に、舞鶴引き揚げ者の見出しが目に止まりました。夏が参りますと思い出します。幾十年前の引き揚げ当時のことでございます。私に取りまして「舞鶴港」それは大いなる母の懐のように思えてなりません。物心が着いたころ、当時五才位でした。
 何かあわただしい日々、寺に生まれ、早起きな父、六人兄妹の長女として、これまた早起きの好きな私は、父の後よりつきまとい、本堂の掃除、供花、庭の手入れと朝は大変だった事を思ひ出します。父は徳島県で十二人兄妹の七男として百姓家に生まれ、苦学して帝大中華人民科に学びました関係上、満州に派遣され、希望に燃え、青春を渡満に掛けたと聞かされました。四平街という町で、康徳寺と申す寺でした。
 当時、赤土で木は一本も生えていない中国の山、「パラシャメン」に四国八十八ヶ所も築きあげ、父の全盛時だったと思います。又、きびしい気候で、春の蒙古風、冬の厳寒など想像以上のきびしさがあります。又、周囲には中華人民、韓国人民と隣り合せに住んでおり、印象に残っていますのは、韓国のお葬式に「泣き人」と言って夜通し泣き、式が終るまで泣く人がいて、それはもの悲しい光景です。中華の方は人なつこく、いつも、にこにこして大変子供好きで、よく子供を下さいと訪れたものだと聞かされました。このような平穏な時にも、ラジオ放送の後の父母の様子はただならぬものが受け止められたものでした。
 それから間もなく敗戦を迎え、内地への引き揚げ問題に明け暮れ、結局、何もかも捨て、引き揚げなくてはならないと通達が入りました。来る日も来る日も引き揚げの準備です。着類、食糧、お金、全て制限に従って準備に入らなくてはなりません。まず帯をほどき、大きなリュックにして着類数点を一人ずつつめ、食料は米をいって保存食とし、お金は一人千円と定められたのです。又寺にはたくさんの骨箱を預っていましたので、少しづつ取り出し、最少限持って帰るようにとのことで、座敷は骨の山です。父は一人、一人、丁寧に拾いあげ、家族の方達に手渡していました。
 いよいよ七月の初め、引き揚げ当日が来ました。表道路に隣保の方達が長い列を作っていました。それぞれリュックを背負い、神妙な顔で並んでいました。母などあわて、家に入り、湯呑み茶碗の整理をして、もう二度と帰れないのにと、笑われていたことが昨日のように思い出されます。
 それから乗り物は貨物列車、徒歩、暗い段々畑をころびながら歩き、はっきり記憶は有りませんが、辿り着いたのがコロ島と聞かされました。そこより引き揚げ船は「興安丸」でした。目指すは内地の舞鶴港、乗船して皆安堵の色が浮かんで参りました。しかし乗船して幾日、毎日青い空と大海原、私は何十日、何ヶ月にも長く感じましたが、それほどかゝっていなかったとのことです。それでも二週間あまりと聞きました。途中食糧事情も悪く、病に倒れた方もおられました。その方達は水葬とか聞き胸がつまりました。
 そんなある日、ぽっかりと島が見えたり、かくれたりしながら内地に着いたのです。家が、灯が、自転車がゆっくり走っているさまは、今も思い出し、あの時の嬉しさ、興奮は忘れる事が出来ません。舞鶴!この文字は、永久に私の脳裏に焼きついて消え去ることはないでしょう。内地への第一歩、今日有りますのも受け止めて下さった舞鶴港の皆様のおかげです。当時お世話下さった方へ感謝しつゝ筆をおきます。ほんとうにありがとうございました。



中国残留孤児を思う
大阪府…
松本…
 なつかしいといえばいいのか、想い出というのか、舞鶴と聞いただけで、三十八年たった今でも目頭があっくなる。思へば昭和二十二年二月、雪深い舞鶴に、大連からの引き揚げ者としての第一歩をふみました。
 父母弟妹そして従姉妹の十人家族、父は大連の引き揚者収容所で風邪をひき、そのまま無理をして船に乗ったため、四十度近い高熱にうなされ、一人歩るく事も出来ず、私達の肩をかり、やっとの思いで上陸しました。母は末の弟がやっと一才になったばかり、栄養失調で、やせて小さい身体を背中に負い、両手に持てるだけのオムツを下げて、ただそれだけで精一杯でした。私が十四才で長女、弟妹達はまだ小さく必死の思いでした。
 小さなリュックサックと、手作りのカバンを肩に、私は一番大きいのだからみんなの面倒をみなければと、一生懸命頑張りました。船が港に着いた時、沢山の方々が「お帰りなさい。長い間御苦労様でした」とおっしゃって、むかへて下さいました。あゝ、やっと日本に帰って来られた。これで父も元気になるとしみじみ思い、母の方を見ると大粒の涙がほほをつたって居りました。これから先、沢山の家族を連れて、そして病気の父の事を思い、子供達には今までと違う習慣や言葉、故郷の鹿児島にはどんな生活が待っているのか。そうぞうもつきませんでした。母の涙は、色々といりまじった複雑な涙だったのでしょう。
 あれから三十八年、今は父も母も、そして従姉妹も亡くなり、あの時の私達六人弟妹はそれぞれの家庭を持ち、あのころの親達の年齢をいつしか過ぎました。あの時の父母の苦労、今になれば良くわかります。大変だったあの時の苦しみ、今の私達にたえられるだろうか、頭の下がる思いです。あの時、舞鶴の収容所でお別れした近所の方々も今はどうして居られるか。雪の収容所を手をふりながら、右へ左へと、又の再会を約束して涙ながらにお別れしました。その後長い年月には、何回となく引越をし、又生活のため私達は大阪に働きに出たりしている内に、名簿もいつしかなくなりました。それでも小さい時の想い出だけは脳裏から消え去る事なく、なつかしい方々の顔を想い出します。
 テレビで中国残留孤児のお話を聞く度に、人事とは思へず涙して居ります。私達姉弟そろって帰って来られた事を、今は亡き父母に感謝し、一人でも沢山の方々が肉親にめぐり連へます様にとお祈りするばかりです。今の日本は平和です。二度とあの様な苦しみは受けたく有りません。子供や孫達が、いつまでも戦争の無い平和な世の中で暮らせる様、祈りつゝペンをおきます。



ある引揚げ風景
兵庫県…
谷村…
 引揚者達が、リバティ船トーマス・ハッピー号へ乗りこんできたのは、昭和二十一年八月二十三日の午后六時過ぎであった。
 葫蘆島は丁度、潮が満ちていた時なので、船体はぐっと高くなり、タラップは切り立った梯子のように急であった。そこを、引揚者達は一人ずつ、船員に荷物を持ってもらったり、手を引いてもらったりして乗船していった。
 「御苦労さまでした」、「お帰りなさい」船員たちは口々に引揚者の労苦をねぎらっている。
 私は、タラップを上っている引揚者達の顔色と様子に注意をはらっていた。遠くからは一様に褐色に見えていた彼等の服装はまちまちであった。男はすすけた背広か、赤く焼けた国民服が多く、女は褐色のモンペ姿が目立つ。なかには、ほとんど黒いといってよい程のワイシャツを着た男もいたが、不思議なことに軍服の者は一人も見当らない。若い女の多くは、男のように毛を分けたり、坊主頭にしていた。そして、彼等の一様に黒く焼けた顔には、濃い疲労の色がみなぎっていた。私は、敗戦のもたらしたそれらの姿に限りない悲哀を感じた。
 むくみのきた青い顔の中年男が、肩で大きく息を切りながら、船員にかかえられるようにしてタラップを上ってきた。私は、その男を医務室へ連れて行くように船員に命じたが、男は人々の列より引きはなされて、自分一人だけ違った所へ連れて行かれるのを恐れてか、ただ夢中で船員の手を振りほどこうともがいた。
「心配しなくてもよいのだ。君は体が悪いから治療してやるのだ」余りもがくので船員は怒ったように言薬を少し荒げた。
「自分は何でもないのであります。これ、この通り歩けるのであります」男は軍隊口調でいって、二、三度強く足踏みをしてみせた。が、そのあとで大きくよろめいた。
「ほんとうに大丈夫なのですよ。船から降ろそうというのではありません。船の医務室で治療をするのです。この船に乗ってしまえば、日本の国に帰ったのと同じですよ」私はみかねて優しく声をかけた。それでも男は、しばらく抵抗してみせたが、やがて断念したものか、船員の腕にくずれるようにすがって引揚者の列から離れた。
 男はひどい脚気で心臓もかなり弱っていた。よくここまで皆と一緒にやって来られたと不思議に思える程である。私は、男にビタミンと強心剤とを注射し、直ちに静養室に休ませた。
 静養室といっても、甲板の隅に建てられた十畳ばかりの木造の小屋で、船艙を三段に仕切った一般の引揚者の所と違って、風通しと日当りがよい。もう一つ違うのは、病人には特別に毛布が二、三枚あてがわれることだけである。
 こうして十三人の重病人がえらび出されて、静養室に入れられた。
 三千人に近い引揚者が全部乗船し終った時は、もう十時に近かった。大きい火の玉のような満洲の太陽は、今しがたやっと西の山に沈み、空は美しく夕焼けていた。
(同人誌「文学地帯・引揚船」より)



舞鶴へ
岡山県…
鈴木…
 きょうも炎天の下を長い行列は進んで行きます。きのうの出航が変更になり、葫蘆島まで引き返して、きょうの再行軍となったのです。中国の六月はとても暑く、黒いシャツ、セルのズボン、からだを覆うほどの荷物、おまけに五才の長男の手を引いて歩く私は、焼かれるような思いです。行列を離れると満人に連れ去られるというので、肋膜の予後の主人も、「なんとしても内地で死にたい」と頑張って歩いています。
 奉天から錦州までの汽車は、病人扱いで有蓋貨車の恩恵を受けましたが、これが薪を積んだ上に坐るのですから、全く臥薪嘗胆の言葉通りの苦しさでした。錦州から葫蘆島までは全員囲いのない無蓋貨車で大変危険でしたが、晴れ晴れとしていました。
 何粁歩いたでしょうか。やっと波止場に着きました。桟橋には大きな貨物船リバティ号が接岸しています。始めて見る船に子供は大喜びで、疲れも忘れてあちこち見て回ります。この船の船室ははるか下の方で、素板が敷いてあります。親子三人が横になれるだけの広さに、毛布を敷いて落ちつきました。これからしばらくの間の我が住居になるのです。隣に寝ていられるのは他家の主人です。でも葫蘆島の宿舎よりはゆとりがあります。葫蘆島では坐る場所だけで、リュックを膝に置いて眠りましたから−。
 船に乗って一番印象に残った素晴らしい物はお粥でした。食器の中のお粥は勿体なくてすぐには食べられませんでした。真白で粘りがあって「ああ、このお粥があったら二男は死ななかったであろうに」と、終戦前に消化不良と栄養失調で亡くなった二男を思い、涙しました。あの時は、どんなに煮てもお米と水が分かれてしまう赤いお米でした。
 船中ではほとんど寝ておりましたが、甲板へ出る時は長い長い階段を上がって行きますので、上がったとたん思わず転んだり、乗物酔を知らない私が突然嘔吐したりしました。子供はとうとう額に大きな瘤をつくりました。霧が深くなり、木浦沖で二日投錨して休みました。みんな気特がおちついて、和やかに演芸会などをして楽しく過しました。
 就航後七日目の七月一日、遂に舞鶴沖に着きました。二日間は沖に碇泊して港を眺めながら待ちました。三日に下船、上安収容所にはいり、検疫、兌換などを終えました。はずかしいような経験もいたしましたが、親子三人そろって、確かに日本の土を踏むことができたのですから何という感謝でしょう。
 今、一本の古びた扇子を出してそのころを偲んでいます。亡き主人が引揚道中の一日、一日を扇子に書き記しております。私自身も、記憶も、扇子と共に古びて参りましたが「舞鶴」は心に深くなつかしく残っております。



思い出す紅白のお餅
鳥取県…
田中…
 旧満洲のコロ島から舞鶴港へ、そして新生の第一歩を踏み出した「舞鶴」は私達一家の第二の故郷です。たくさんの思い出の中から三つ、四つ拾います。
 残っていた日本は美しかった=引揚の貨物船が玄海灘を通る時は、深夜で特に大荒れ、翌朝、船長が「船は転覆限界、もうこれまでと思ったが、皆さん覚悟してとは、どうしても言えなかった」と述懐された程でした。然し、日本海に入ってからは穏やかで、いか釣り舟の灯が波間にチラチラ浮き沈みする真ん中を縫って急いでいました。やがて東の白むころ「見えた!日本だぞー」との叫び。そして見えた瞬間「あ、日本は美しいまゝ残っていた」と思い、何だか叫びました。これが帰国の第一印象でした。

 紅白のお餅=上陸、そして先ず入浴、注射、消毒と終って、日本祖国での初めての食事です。さて食堂に案内され、お膳の上を見た瞬間ハッと胸を突かれました。赤と白のお餅が一つずつご飯の上にのせてありました。涙がどっと出て何も見えない程でした。めったに涙は見せぬ私ですが、今これを書きながらどうしても泣けます。内地も乏しいでしょうに、こうして祝って下さるお心が嬉しかったのと、やっとここまで辿り着いた、もう鬼も蛇もいない、の安心感が重なって出た涙だったのでしょう。何年過ぎても消えない思い出の紅白のお餅です。

 幼ない娘はもう立てなくなっていた=出航したコロ島港では、一才三ケ月の三女は、赤い小さい靴を履いてヨチヨチと歩けましたのに、船中では座ってばかりでした。揺れるからと思って抱いてばかりいましたが、さて上陸して、宿舎の部屋で歩かせようとしても全く立ちません。長旅で忘れたものと安心していましたが、それっきり駄目でした。強度の栄養失調でノミや蚊の跡が皆、膿を持って穴が開き、いちゃい、いちゃいといい続けながら、一ケ月後にあの世へ再び帰って行きました。でも皆様のおかげで、故郷日本の土に入れましただけでも幸いです。皆様有難うございました。

 当時の引揚者の異状心理=コロ島港で乗船の際、迎えの船員さんのつぶやきが耳に入りました。「この人達は嬉しそうな顔をしない。南方に行った時はとても喜んでくれたのに」と。舞鶴で宿舎の部屋に案内された時、どの家族も隅っこに集って、借りて来た猫の様、係の方がどうぞ真中へといって回られても駄目でした。内地へ帰ったら畳の上で大の字に寝たい、と言い合っていたのに?敗戦後の長いびくびく、おどおどのじっとがまんの生活は、心で思っても、明るく素直に外に出せない暗い心理状態に変っていたと思われます。お詫びしたいと思い続けて来ました。

 その他=舞鶴の町中で店頭の真赤なスモモの実を見た妻が、子供に買って食べさせたいと思い、今でもその実を見ると思い出すということ、駅頭で見知らぬお婆さんから、メリケン粉焼の様なものをもらって子供に食べさせたことなど、思い出は尽きません。



父と妹二人を亡くして帰国
大阪府…
蒲生…
 昭和十三年、私達は第六次開拓団員として満州へ出発、ついた所は北分省黒馬金+リ、そこは見わたすかぎり緑一色、冬になると雪で白一色、野原には花、きゝよう、おみなえし、ふくじゅう草など色々な花がさく。又、キジ、うさぎ、シカもいた。
 父は一年も先に来て家を建て、大地をたがやし、作物をつくり、私達家族を迎えに来てくれた。そんな、大自然が、大すきだった。でも学校が遠く、毎日通学する事が出来ない。そのため月曜から土曜まで寄宿生活、日曜日が楽しみだった。低学年は泣いた。私は九才だった。
 昭和二十年八月十五日戦争は終った。そのため満人(中国人)が、おそって来る。たゞちに引揚る事になった。大地をたがやし、やっと、安定した生活が出来るようになったやさき、住みなれた九年間、色々な思い出がある。が、何もかも捨て黒馬金+リを出た。日本へすぐ帰れると思っていた私達、そうはいかなかった。
 病気上りの母、父、兄、妹二人、母と妹は馬車に乗り、私達はリュックを背負い歩いた。最初に、「こうのうちん」で一ケ月、「ハルビン」で二ケ月、次に「ぶじゅん」についた。もう十一月、雪もちらほら、防寒服でふるえながら広い講堂へ入った。えいあん学校だった。食べる物は、あわ、こうりゃん、カンパン、これで栄養失調になった。体にはシラミがわき、ハッシンチブスにかかった。毎日、何人かが亡くなる。妹二人も亡くなり、大きな体の父も病気には勝てなかった。母、兄、私と三人になってしまった。
 冬も過ぎ、春も過ぎた。知り合いは皆んな先に帰った。やっと、私達の帰れる日が来た。この船に乗れば内地につくという最後の乗物だった。でも何日乗っても日本は見えない。どっちを向いても海、二十一年七月朝、だれかが、かんぱんで、日本だ、内地が見えるという大きな声に目をさました。みんなかんぱんに出た。だが、日本の港はまだ遠い。かすかに山が見えた。それから三日目についた。
 そこが舞鶴だった。「内地って山ばかりだなあ」大きな山が印象に残っている。内地についたら着るんだと、手も通さずにもって帰ったワンピース一枚をリュックから出し、いつでも下船できるよう着替え準備した。身体検査や手続きがあるため、二日ぶりに日本の土をふんだ。
「引揚げ者の皆様、長い間御苦労様でした」と何度も何度も放送された。日本の人は着物姿、私達はモンペにワンショウをつけ、ちょっとはずかしいなあ、お宿に案内され、一夜をした。ムギ御飯とはいえ、おなか一ぱいごちそうになった。細くなった体をきれいにあらい、その夜はぐっすりやすんだ。あくる日は、わが古里へと立っていった。その時の舞鶴の皆様には、大変御世話になりました。ありがとう御座居ました。
 九年間の思い出、いろんな事がたくさんありました。これは、ほんの一ぶです。母と共に思い出し作文にしています。どなたか読んで下さる人があればいいのにと思っています。


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