丹後の地名 若狭版

若狭

脇袋(わきぶくろ)
福井県三方上中郡若狭町脇袋


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福井県三方上中郡若狭町脇袋

福井県遠敷郡上中町脇袋

福井県遠敷郡瓜生村脇袋

脇袋の概要




《脇袋の概要》

国道27号から国道303号が分岐須禰三叉路の東側、膳部山の西麓に位置する。
脇袋は、鎌倉期から見える地名。弘長元年(1261)から太良荘の末武名を藤原氏女と争った中原氏女の夫は脇袋範継と称しているから、地名はこれ以前に成立していたものと思われる。この範継子孫の頼国・国広は建武元年(1334)に太良荘地頭代官に任じられたが、太良荘から往復5里の脇袋まで毎日のように近夫と称する人夫役を課すなどしたため、太良荘の農民たちは同年8月に代官脇袋の数々の非法をあげて罷免を荘園領主で地頭でもあった東寺に要求している。同3年7月に足利尊氏方の斯波時家が脇袋などを焼いて、小浜に入部した。
近世の脇袋村は、江戸期~明治22年の村名。小浜藩領。瓜生庄に属す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年瓜生村の大字となる。
近代の脇袋は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町、戸数63、人口は男172 ・ 女165、学校1。

《脇袋の人口・世帯数》 193・73


《脇袋の主な社寺など》

脇袋古墳群
立派な古墳が集中するので「王家の谷」と呼ばれている、ここには前方後円墳4基(中塚、上ノ塚、西塚、糠塚)と円墳3基(荒塚、光塚、上下ノ森)とからなる。古来「七つ塚」と呼ばれてきたが、荒塚、光塚の円墳は消滅している。上下ノ森は脇袋丸山塚古墳と呼ばれている帆立貝式円墳である。

案内板に掲げられているこの写真↑はいつ写したものかわからないが、今も道は変わらず、建物もだいたい同じである。
荒塚、光塚は消滅。上下(じょうげ)ノ森は写真から外れるが右手の山裾にある。荒塚も写真から外れるが左手の山の裾、光塚は中塚と上ノ塚の間あたりの左手の民家があるあたりにあったという。
案内板がある。ちょっと古いがそのまま引くと、
脇袋古墳群
わが上中町は、若狹のほぼ中央に位置し、古代より日本海と畿内を結ぶ文通・文化の要衝として、また北陸と山陰に通ずる分岐点として、極めて重要な場所でありました。
脇袋古墳群は、その中心にあり、古い記録によれば七つの塚が所在したと伝えられています。また、この背後の「
膳部山(ぜんぶやま)」の名にもその歴史の名残をとどめるように、若狭の国造『膳臣(かしわでのおみ)』一族をまつる墳墓と考えられてきました。ここは、まさに王家の谷でありました。
さらに、上中町には国指定史跡の上・下船塚古墳をはじめ、近年調査された向山古墳群などの前方後円墳や円墳などの遺跡が多く、また近くには古代の「屯倉」を思わせる「三宅」の地もあり、この土地の歴史の重みを感じさせます。
 西塚古墳(昭和一○年一二月二四日 国史跡に指定)
全長約七四円m、後円部径三九m、前方部幅四七m、高さは前方部が後円部よりやや低くなると推定される南面する前方後円墳であり、葺石・埴輪・盾形周濠を備えています。しかし、現在では。大正五年の鉄道敷設に伴う墳丘からの採土工事により、後円部と前方部の一部を残すのみとなりました。主軸にほぼ直交する石室は竪穴式石室といわれましたが、実際は横穴式石室とみられます。この石室からは左記のような多くの出土品が発見されました。五世紀後葉に造られたこの古墳の被葬者は、日本書紀の記載と出土品の符合から、膳臣斑鳩その人ではないかともされています。
【主要出土遺物】(現在は、宮内庁に保管されています)
須恵器 中国製神人画像鏡 仿製四獣鏡 武器(鉄剣 鉄鉾 鉄鏃) 武具(小札鋲留眉庇付冑 小札鋲留衝角付冑 頸甲 横矧板鋲留短甲) 馬具(鉄地金銅張鏡板 同辻金具 同剣菱形杏葉) 農工具(鉄斧) 装身具(金銅製帯金具 銅鈴 銀鈴 金製垂飾付耳飾 佩砥 玉類)
 (じょう)ノ塚古墳(昭和一〇年一二月二四日 国史跡に指定)
全長約九〇m、後円部径五一m・高さ九m、前方部幅四八m・高さ七mを測り、北面する、若狭地方最大の前方後円墳です。現在も原形をよくとどめており、かつての周濠の存在も確認できます。葺石については不明ですが、埴輪の存在が確認されています。五世紀代に造られた古墳です。
 中塚古墳(昭和一〇年一二月二四四 国史跡に指定)
全長約六〇m、高さは六mほどあったといわれています。この古墳も西塚古墳と同じで何面する前方後円墳であり、他の二古墳と同様、盾形の周濠がめぐり、埴輪の存在も確認されています。五世紀代に造られた古墳です。
以上三基の前方後円墳のほか、円墳と思われる糠塚古墳、墳形未詳で埴輪と葺石を備えた上下の森古墳などが所在します。
平成四年一一月 上中町教育委員会


若狭の首長墓(王墓)はこの順に作られたと見られている。(「若狭町歴史博物館常設展示図録」より)。従来は城山古墳が最も古く4世紀とか言われていたが、今は5世紀中頃と言われる。


中塚古墳

脇袋古墳群中の1基。国史跡。最も奥側(山側、高い位置)に立地する。全長72m、後円部径45m、,高さ約6m、前方部幅60m。5世紀末頃。盾形の周濠、葺石、円筒埴輪。埋葬施設や副葬品は不明。下側の道から後円部を写す、後の山が膳部山、右手に前方部が続く。(「…図録」より)→
色のついた点あたりより写す。が、周囲に民家があり、写せる場所はない。ちょっとした山か丘に雑木が生えとるナくらいにしか見えない。






上ノ塚(じょうのづか)古墳



中塚古墳の少し下側、水田の中にあり、全体がよくわかるし、原形もよく保存されている。5世紀初頭の前方後円墳。国史跡。扇状地上に立地し、3段築成の墳丘はほとんどすべて盛土による。全長100m、後円部径64m、前方部幅60m、後円部高9m、前方部高7m。若狭最大最古の前方後円墳である。葺石、埴輪を備える。昭和63年、周辺水田の圃場整備に伴い、前方部前方の周濠調査が実施され、周濠幅約10mと古墳基底が現水田面下約1.5mに埋没していることを確認した。埋葬施設および副葬品その他の遺物について知られていない。


西塚古墳


円墳のように見えるが、それは後円部で、前方部はごく一部のみ残り、石柱が立てられている。

55世紀後葉の前方後円墳。国史跡。脇袋集落の下側、耕地(麦畑?)のなか、扇状地末端に位置する。大正5年、国鉄小浜線敷設工事の採土で石室の一部が露出。同年と同7年に石室内部を上田三平が調査した。その後昭和45年、圃場整備に伴い斎藤優が墳丘の一部と周壕の調査を行った。墳丘は西側(下側)くびれ部に造り出しをもつ。全長74m、後円部径39m、前方部幅47m。2段築成で盾形の周壕。葺石・埴輪をもつ。埋葬施設は墳丘主軸に直交する石室で、横口式石室であろうと見られている。長さ約5.4m・幅約1.3m・高さ約1.5m。石室内面は赤色顔料を塗布する。副葬品は中国製神人画像鏡1、仿製四獣鏡1、金製垂飾付耳飾1対、勾玉1、管玉約50、金銅製餃具・同鈴付鍔板8枚以上、銀製鈴3、鉄製武器多数、武具(眉庇付冑・小札鋲留衝角付冑1・頸甲1・肩甲・横矧板鋲留短甲1)、馬具(鉄地金銅張鏡板1・同辻金具2・同剣菱形杏葉2)、鉄斧2、砥石2など。発掘例の少ない若狭の5世紀代の古墳を考える上できわめて重要な基準資料。大陸製の舶載品を多数保持する当墳は、若狭国造の祖とされる膳氏の動向を反映するものであろうという。
金製垂飾付耳飾(向山古墳出土。長11.1㎝)これとほぼ同じもの→
豪華な副葬品。キンキラキンのこうしたものは日本のものではない、騎馬民族である、膳氏は渡来氏なのであろう、やがて九州に拠点を置いて、こちらへも広がってきたものであろうが、片足はまだ向こうに置いていたのでなかろうか。十善の森古墳の金銅製の冠とかこうした金製耳飾りは百済系、加耶系のもので、だいたい同じ頃に彼の地の古墳から出土する。馬具や玉の何種類かもアチラ製でなかろうか。膳氏の半島との繋がりを物語るように思われる。

『中日新聞』(20210206)
人物・馬形埴輪、若狭の西塚古墳から出土 20年度調査、北陸最古級
 若狭町歴史文化課は、町内上中地域の脇袋古墳群にある古墳時代中期の国指定史跡「西塚古墳」で発掘調査を進めている。二〇二〇年度の調査では、北陸地方で最古級とされる五世紀後半の人物埴輪(はにわ)片と馬形埴輪片が出土された。歴史文化課の近藤匠学芸員は「大和と若狭地方の関わりの深さが、埴輪の観点からも示された」と話す。


糠塚古墳

西塚古墳の隣、畑の中にある。これまで円墳と見られてきたが、これも前方後円墳であった。写真で言えば左側、山側に前方部があった。平成21年の発掘調査で、前方部の墳裾が検出され、前方後円墳と確認された。全長50~60m、後円部径約30m、前方部の幅がかなり広がっている。周濠、葺石 埴輪。5世紀末ころの築造と推定されている。当墳主軸の方向は当地のほかの古墳とは90度異なる。

脇袋丸山塚古墳(上下ノ森)
上の写真でいえば、背後の山が谷下の方へ伸びて、その先端の山腹にある。
私は行ったことはない。次の記事参照
若狭町・脇袋丸山塚古墳 朝鮮半島と同じ埋葬法の遺構と鰭付円筒埴輪が出土 - 歴歩 (goo.ne.jp)
2017年09月09日 | Weblog
 花園大(京都市)考古学研究室は8日、若狭町瓜生の脇袋丸山塚(わきぶくろまるやまづか)古墳(全長50mの(帆立貝式)古墳前方後円墳、五世紀半ばの築造)の発掘調査で、朝鮮半島で行われていた同様の埋葬方式の遺構と、中部地方以東では初めて鰭(ひれ)付円筒埴輪の破片が出土したと発表した。
 今回、前方部のほぼ中央で、木製の棺を囲んでいたとみられる川原石が埋め込まれた粘土で囲われた遺構が見つかった。地表面を掘って岩盤の空間に棺を納め、埋め戻した後、盛り土をした遺構と考えられ、当時の朝鮮半島で行われていた埋葬法と同じという。周辺の地中から鏃片3点も出土した。
 鰭付円筒埴輪は、関西地方などで出土しているが、同時期の七観山古墳(堺市)から出土した鰭付円筒埴輪と似ており、畿内との関わりが推察できる。囲形(かこいがた)埴輪の破片も見つかったがいずれも北陸地方では初の出土という。
若狭地方が大陸と畿内を結ぶ地だったことをうかがわせ、被葬者は畿内との関わりのあった人物とみられるとしている。
 現地説明会が10日午前10時と午後1時半に開かれる。[中日新聞、朝日新聞]


その後の首長墓系列
脇袋では、この後は王墓は築かれず、立地は東側(北川の下流側)に移り、十善の森古墳(天徳寺)、上船塚古墳(日笠)、白鬚神社古墳(小浜市平野)、下船塚古墳(日笠)と前方後円墳が築かれていく。
その後は太興寺廃寺となるものか。


勝手神社

法順寺の奥に鎮座。奈良県吉野の勝手社を勧請したものであろうか。安産の神とか子守の神とかの信仰があるのでなかろうか、元々は鉄、水銀の鉱山産鉄神であるかも…
『遠敷郡誌』
勝手神社 村社にして同村脇袋字小谷にあり、祭神受鬘命と稱す、字堂谷の白山社字小谷の山祗神社は共に明治四十四年合併され祭神不詳なり。

『上中町郷土誌』
勝手神社 脇袋
脇袋字小谷にあり。祭神受鬘命と称す。堂谷の白山社字小谷の山祇神社は共に明治四十四年合併され祭神不詳。
社寺由緒記
脇袋村氏神 白山権現 御神休十一面観音聖徳太子御作と申伝候外由緒不レ知候
勝手大明神小社 由緒不レ知
  脇袋村庄屋 次兵衛



浄土真宗大谷派霊松山法順寺

少し高い所に観音堂や宝物庫があり、国重文の木造十一面観音菩薩立像を蔵する。
『遠敷郡誌』
法順寺 眞宗大谷派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村脇袋字堂谷に在り、往古眞言宗にて靈松山正法寺と號す、永正七年開基、了圓本願寺實如に歸依し真宗に轉じ今の寺號に改む、分派の際教如に歸して大谷派となる、境内佛堂に観音堂あり、十一面観世音を祀る、眞言宗たりし時の本尊なり。

『上中町郷土誌』
法順寺 真宗 脇袋
真宗大谷派にして本尊は阿弥陀如来なり同村脇袋字堂谷に在り往古眞言宗にて霊松山正法寺と号す。永正七年開基了円本願寺実如に帰依し真宗に転じ今の寺号に改む。分派の際教如に帰して大谷派となる境内仏堂に観音堂有り十一面観世音を祀る真言宗たりし時の本尊なり。
(社寺由緒記)
東本願寺末法順寺古えは真言宗霊松山正法寺と申候山寺領も有レ之候得共大閣様被二召上一正法寺及二大破一に住持も無レ之候処天正年中当寺七代以前の沙門了円と申坊主帰依仕則本寺より寺号改二治順寺一被レ申候由
 延宝三年 脇袋村庄屋  次兵衛


「若狭町の文化財」(写真も)
【木造 十一面観世音菩薩立像】【国指定】
檜材の寄木造り、内刳り、彫眼手法で、白毫は水晶を嵌入、頭上に十一面の化仏を戴き、左手に未敷蓮華瓶を持ち右手を垂下する、均整のとれたまことに美しい立像である。翻波式衣文表現など古様に倣う面もあるが、目鼻立ちも美しく小ぶりで温和な相貌と均整のとれた体躯、それを包む衣文の装飾それぞれがよく調和し、平安後期の都風菩薩像の典型と目され一二世紀頃の造像と推定されている。

(像高105㎝)


膳部山城


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
膳臣氏
平城宮跡出土木簡に、
「□〔遠ヵ〕敷郡 丹生里人夫膳臣 御調塩三斗 九月十日」とある。膳臣氏は豊前豊後、信濃、、房総、和泉などにも居るが、若狭の当氏は丹生や塩と関係がありそうである。
食事を古くは柏の葉に盛ったのであろうか、供饌の事を掌る氏とされる。大事の食糧供給部隊を率いていたという。阿倍氏の磐鹿六雁(いわかむつかり)命より出づという。安倍氏は九州の安倍氏で、「(あえ)」から出た名と思え、饗は宴会というが、同じような役割を持っていたのであろう。
孝元記に「比古伊那許志別命、此は膳臣の祖」。比古伊那許志別は六雁命の父。また孝元紀に「大彦命、是れ阿倍臣、膳臣…々、凡そ七族の始祖也」。大彦命は六雁命の祖父。
景行紀五十三年に「天皇云々、伊勢に幸し、転じて東海に入り給ふ。冬十月、上総国に至り、海路より淡の水門を渡り給ふ。是の時、覚賀鳥の声を聞き、其の鳥の形を見んと欲し給ふ。尋ねて海中に出で、仍りて白蛤を得。是に於いて膳臣の遠祖、名は磐鹿六雁、蒲を以つて手繦となし、白蛤を膾につくりて之を進む。故に六鴈臣の功をほめて、膳大伴部を賜ふ」。
膳臣後裔の高橋氏文に詳しいが、「掛けまくも長き卷向日代宮(景行天皇の宮)御宇、大足彦忍代別天皇(景行)…。伊勢に行辛し、轉じて東に入り給ふ。冬十月、上總國安房の浮島宮に到り給ふ。爾の時、六獦命駕に従って仕へ奉る矣。天皇・葛餝の野に行幸して、御獦せしめ給ふ矣。大后八坂媛は借宮に御座し坐す。磐鹿六獦命、亦留り侍る。此の時、大后・磐鹿六獦命に詔して宣く、此の浦・異鳥の音を聞く、其れ駕我久久と鳴く、共の形を見んと欲すと。即ち磐鹿六獦命。船に乗りで鳥の許に到る。鳥、鶩きて他の浦に飛ぶ。猶ほ追ひ行くと雖も、遂に捕ふるを得ざりき。是に於いて磐鹿六獦命・詛ひて曰く、汝鳥、其の音を戀ひて、貌を見んと欲ふに他の浦に飛び遷りて、其の形を見せず。今より以後、陸に登るを得じ、若し大地の下に居らば必ず死なん。海の中を以つて住處と爲せと。還る時、舳に頗ふて魚多く追ひ来る。即ち磐鹿六獦命、角弭の弓を以つて、游魚の中に當つ、即ち弭に着きて出で忽ち數隻を獲たり。乃ち名けて頑魚と曰ふ、此れ今の諺堅魚と曰ふ。船潮涸に遇ひて渚の上に居ぬ、堀り出さむと爲るに、八尺白蛤一貝を得たり。磐鹿六獦命。件の二種の物を捧げて、大后に献る。郎ち大后、譽め給ひ、悦び給ひて詔すらく、甚だ味、清く造りて御食に供へんと欲ふ。爾の時、磐鹿六獦命申さく、六獦、料理して將に供へ奉らむと白して無邪志國造の上祖・大多毛比、知々夫國造の上祖・天上腹天下腹人等を喚びに遣はして、膾と爲し、及び煮焼き雑造り盛りて、云々。乗輿、御獦より還御入り坐す時、供へ奉る。此の時勅し給はく、誰か造りて進むる所の物ぞと問ひ給ふ。爾の時、大后奏さく、此は、磐鹿六獦命が献る所の物也と。即ち歡び給ひ、譽め賜ひて勅し給はく、此は磐鹿六獦命独が心には非じ矣。斯れ天に坐す髪の行ひ賜へる物也。
大倭國は、行ふ事を以つて、名に負ふ國なり。磐鹿六獦命は朕が王子等に阿禮、子孫の八十連屬に、遠く長く天皇が天津御食を齋ひ忌み取り持ちて仕へ奉れと負ひ賜ひて、則ち若湯坐連等の始祖、物部意富賣布連の佩ける大刀を脱ぎ置かしめて副へ賜ひき。又此の行事は大伴立て雙べて、應に仕へ奉るべき物と在れと勅して、日竪日横、陰面背面の諸國人を割き移りて、大伴部と號けて、磐鹿六獦命に賜ひき。又諸の氏人、東方諸國造十二氏の枕子を各々一人づゝ進めしめ、平次比例給ひて依さし賜ひき、云々。此の時、上總國安房大神を御食都神と坐せ奉りて、若湯坐連等の祖意富賣布連の子豊日連をして火をおこらしめ、此を忌火として、いはひゆままへて御食を供ふ云々。纏向朝廷歳次癸亥より始めて貴き詔勅うけ給はり、膳臣の姓を賜はりて、天都御食を伊波比由麻波理て供へ奉り来、云々。子孫等をば、長世の膳職の長とも、上總國の長とも、淡國の長とも定めて、餘氏は萬介太麻波で乎佐女太麻はむ。若し膳臣等の継ぎ在らざらんには、朕が王子等をして、他氏の人等を相交へては、亂らしめじ。和加佐の國は六雁命に、永く子孫等が、遠世の國家と爲よと定めて授け賜ひてき。此の事は世々にし過り違へじ」

脇袋古墳群の被葬者と見られる膳臣一族は「大彦命」(四道将軍の一人)から始まるという。阿倍氏の祖とされる大彦命の孫である磐鹿六雁命の後裔で食膳関係を司り、一族は若狭国造若桜部臣となった。磐鹿六雁命は、景行天皇の東国巡幸に隨行し、上総国において堅魚や白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられ、また膳臣の姓を賜ったという。
大彦命・武渟川別命父子の遠征経路は、大彦命は伊賀、近江、若狭、越前、加賀、越後を経て会津に至る路を進み、武渟川別命は伊賀、伊勢、尾張、駿河、房総、那須を経て会津に至る路を進んでいて、その順路に安倍氏や膳氏の一族が分布している。埼玉稲荷山鉄剣のオホヒコは、この大彦命のことであろうという。
阿倍一族は本宗家が絶えたあとは、平安中期以降、安倍晴明を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門・倉橋の二家が堂上公家に列し陰陽道・暦道を支配した。一時名田庄に逃れているが、こうした古くからの領地であったものかも知れない。
膳氏は、大王家の食膳を司る側近中の側近であったというが、雄略朝のころから半島もで軍事・外交面で活躍する。膳臣斑鳩(いかるが)は、吉備臣小梨・難波吉士赤目子らとともに、新羅を助けて高句麗と戦い、これを破ったという。また欽明朝の初年、膳臣巴提便(はすひ)は使命を帯びて百済に渡り、愛児を食った虎を退治して勇名を挙げた。半島に片足を置いていた氏族と思われ、古くは多氏や息長氏と繋がる巨大渡来氏族に属する一族であろう。
膳臣氏は、古墳が造られる4世紀末ごろから若狭の大規模な製塩を指導したとみられ、この頃から土器製塩盛んになってくる。この時代に若狭にも拠点を置いたと見られる。

脇袋の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
西塚及附近の古墳
遠敷郡瓜生地区脇袋に数個の古墳がある。この地は小浜市の東方約三里、北川の中流に近く鳥羽谷川は北より流れ来り脇袋の西方井根山附近で北川に合しこの附近にやや広き平野がある。脇袋の聚落はこの広き平野に面した東方の山麓にあって、後方には戦国時代に松宮玄蕃允拠った膳部山がある。古墳は聚落の西に接して存し古来黄金千枚朱千坏埋めありとの伝説がある。附近(一)荒塚(二)光塚(三)上下之森(四)中塚(五)上之塚(六)西塚(七)糠塚を七つ塚と称した。然し荒塚は今痕跡を残すのみとなり、光塚は民家の敷地となって消滅し曽て刀剣を発見したという。上下之森は曽て学校敷地となり、その際古鏡刀剣多数を発見したという。
 中塚以下は現存し特に西塚は小浜線鉄道敷設工事の際に発掘せられ著名となった。瓜生地区の北に接する鳥羽地区は地形上鳥羽谷の一区域を形成し東西の山麓には横穴並びに塚形の古墳がある。
(西塚附近の古墳)
一、糠塚
西塚南方約三十間の処にある円塚で高さ周囲の田面より約八尺直径十二間頂上は平坦で畑地を為し、封土の中から祝部土器を発見し、その周囲の田圃からも発見せることがあった。
一、上の塚古墳
西塚の東南約四十間字霜ノ下にある完全な前方後円墳で周囲は水田である。主軸は略々南北に向い長さ約四十五間後円部の径二十八間前方部の幅二十三間、高さは後円部約二十尺前方部十八尺封土は三段を形成し、その形式西塚と等しく後円部は南に前方部は北にある。封土の西南すなわち後円部の一部に民家がある、西塚の南および上之塚の西南地籍は字塚廻りと称し附近の水田は濠阯と推定せらるる部分である。後円部頂上は直径約十五間の正円を呈し全面畑地として蔬菜果樹並びに桑樹を植えている。前方部も同じく葺石埴輪等の有無は明らかでないがこの地方の最大の古墳である。西塚発掘の際注意せられ爾後若狭国造の墳墓と称へられている。
一、中塚古墳
上之塚の東方民家の間に存し周囲は宅地または畑地となっている殊に前方部は削られ、後円部の東傾斜面は山本吉六氏の庭園に利用されている。封土は崩れたるを以って二段または三段の処あり、主軸の長さ二十二間南北に向っていること上之塚に等しい、後円部は北に前方部は南にあり後円部の高さ二十二尺あり、附近に埴輪円筒破片あり、頂上には桑樹を植えている、この古墳は著しく封上を削り居るを以って何時石室を発見するやも知れざる状態である、
西塚古墳及出土品
西塚は瓜生地区大字脇袋字野口にありて民家の西に位する水田中にあり、発掘前には完全なる三段式の前方後円墳で長軸は略々南北に向い、後円部は北に前方部は南にあった。発掘前の長さ約三十七間、後円部の巾約十五間。東部は著しく削られ、西部は水山面より十五尺の高さを有する。葺石はなきも埴輪円筒片少からず。石窒の周囲は特に砂礫を用いて之を包むが如く封土丘には一面の雑草あり。曽て桑樹を植えたることあり。大正五年八月鉄道小浜線敷設工事に際し土砂採取場となり発掘せらるるまで何人も古墳たることを知らざりしという。同年九月後円部の大半を残すに過ぎざる程度に破壊して遂に石室を発見し宮内省御用掛増田千信氏の調査あり。依嘱に基き県にて内部遺物を倹出したものである。石室は後円部の略々中央にあり、その構造は奥壁(東壁)の底部に高さ約四尺巾五尺四寸の大石を立て之と相対せる西壁にもやや大なる立石あり。その他は径七、八寸乃至一尺二、三寸の小石を以って南および北の両壁を作りたる竪穴式石室で上に六個の天井石を横架し、石室の大きさは側壁の崩壊せるため確数を得難きも巾四尺二寸、長さ約十八尺、高さ平均五尺。主軸は略々東西で底部に河原石を敷きつめて床を造り、内面全部に丹朱を塗り、石室の外側は黄白色の粘土にて巻きたるもので当時の技巧を知るに足るのである。著者は県の依頼により大正五年十月十一、十二日の両日すでに切断せる石室の東南隅より土砂並びに石材を除去し徐々に底部に向って調査を進めた。東南部に多量の鉄製品現はれ何れも粘土を混じ分解中々容易ならず、鉄胄の破片、直刀、鉄鏃、入り乱れて存し、奥壁の大石に接して略々完全なる胄出で甲は之に接してあり。鎧の小札の塊状に積み重れるものあり。袋部ある鉾先、剣身、雲珠、杏葉、帯金其等多数泥土に混じて存在し。底部円礫石の間隙には管玉類挾まれあり。次いで古鏡勾玉を発見するに至った。これらの作業中側壁の崩壊のため天井石内部に落下の恐れあり、丸木の支柱を加えて危険を防ぎ石室内の粘土は一々小舟の中にて水洗をなし副葬品を検出するなど極めて丁寧な方法をとった。そのためこの古墳遺物として著名な一対の金製玉八耳飾は実に赤褐色粘土の中から水洗によって検出したものである。
遺物の配列 武具並びに武器は主として東南隅に近き処にあり。胄は二個相並びて東壁(奥壁)に接して仰向に位置し、甲は胴部一個は略々完全にして他に少札多数附近にあり、直刀は交錯し鉾の破片三本と相交りて存じ三個の雲珠あり、奥壁より五尺三寸の西に翡翠の断片を見、遂に敷石の間隔に挾まりたる大形の翡翠勾玉一個を発見した。この附近に金銅製の飾金具破片あり、勾玉の西には碧玉岩製の管玉散在し、銀製または銅製の小鈴七、八個あり、中央に小管玉多数あり附近の土砂に混じて耳飾一対発見せらる。四獣鏡は奥壁より九尺西にあり、直刀三本交錯し附近に杏葉一対あり、漸次西に進むに随い石室内暗黒となりたるを以って、西南壁に方五尺の孔を穿ちここより土砂を除きたるに石室底部なる木板の上に漢式鏡一面発見せられたが、その位置は奥壁より約十五尺の西方にありて略々西壁に近く鏡背を上に向け表面に朱痕附着せり。鏡面に附着せし木板は厚さ約八分、巾三寸、長さ六寸あり、乾燥せし際は僅か厚紙の如くになれり、三角形の砥石また破片となって現わる。大正七年七月保存工事の際四壁に接せる部分より鈴付轡鏡板一個、鉄鏃一塊、直刀破片を採取した。(考古学雑誌第七巻四号に遺物配列図がある)
遺物は極めて種類に富み、比較的狭小なる竪穴式石室に充満せる状態であったが、土器はほとんどなく、側壁の土砂中に混じて居つたかと思われる赭色土器二片と一個の祝部土器破片を見るに過ぎなかった。鉄製品ははなはだ多きも石室内が湿潤であったため腐蝕はなはだしく、やや完全なものは衝角付胄一個あり後頭部は破損して全形を知り難きも深さ五寸五分あり、普通のものと認めらる。この種の胄は本邦の古墳中に屡々見る処で鉄板を以って矧ぎ鋲留を施したものである。丹波雲部村古墳、大和帯解山の古墳、加賀狐山古墳等から出ている種類のものである、雲珠三個は略々同形で直径約二寸三分、一個は四方に方形の耳あり、他の一個は金鍍金を施し頂点に筆軸大のものを箝入している。稜形細身の剣は刃渡り六寸五分、巾六分、切先は完全なるも茎部は折れている。袋部を有する鉾先三木あり、鉄斧頭竪二寸四分、巾二寸八分、厚さ肩部で五分、袋部の長さ一寸三分諸処の古墳から出土するものである。杏葉は薄き鉄板に鍍金を施したもので、巾広き処二寸四分、長さ四寸、直刀は数多く長きものは二尺三寸余あり。木片附着せるも拵は一つも発見せられず。
玉類は勾玉長さ一寸八分。頭部の周囲二寸孔の径六分二厘、この孔より頭部に三条の糸掛跡あり、材料は翡翠にして緑色を帯ぶ。碧玉岩製管玉十余個ありて長さ一寸乃至八分のものである、小管玉四十個以上あり、質脆弱にして折れ易い。
小鈴は銀製のもの径約五分、青銅製のもの径八分にして九個を発見した。銀製六花形金其金銅製長方形の帯金具あり。長方形の輪廓中に蟠龍の模様を造りたるものまた鳳凰の翼を現わしたるもの等あり、純金製ハート形耳飾一対は稀有のものにして長径一寸、短径九分、一方に突出せる尖端出でその上に小形の被覆物あり、反対の丸みある部分に小孔がある。中央に直径一分五厘の透明の玉を嵌入したもので、類品は肥後国江田古墳に発見されているが北陸には之のみである。鈴付轡鏡板は一対あって之も本邦の古墳から出るものである。
漢式鏡は二面あり、大は直径六寸五分五厘、外緑部の厚さ三分弱、巾七分、中間に動物唐草を配し内区に近き緑に鋸歯紋あり。次に櫛歯紋帯、次に孤状の銘帯環状に続りて銘文を鋳出せり。銘に曰く「尚方作竟自有紀辟去不羊宜古市上有東王父西王母令君陽遂多孫子兮」とあり。内区に四葉座乳四を有し十一躯の神人歌舞遊楽の状を現わし馬に乘れるもあり、鈕の高さ五分、鈕座の周囲に菊座に似たるものあり、すなわち神人画像鏡に属し、魏晋時代の作鏡として本邦著名の古墳に多く出土する優品たり。鏡体は一部欠損しその破片は三個に分かれ猶一部欠失あり。小なるものは推定直径四寸九分九個の小破片に分離し、外縁は素紋平緑内区に外向鋸歯紋帯次に複線波状次に内向鋸歯状次に鈕を繞りて四獣形を配す、すなわち四獸形に扁するものにしてボウ製のものと認めらる、また三角形(底辺八分他二辺六分)の砥石は多少破損しているが極めて珍しいものである。
 大正六年五月十八日附宮内省諸陵寮の受領書左の如し。
一、鉄製兜   壱括    一、鉄製鎧残欠   一括
一、直 刀   二本    一、鉄鏃      一束           
一、鎗     二木    一、斧頭      一個
一、鏡(欠失アリ)二本   一、勾玉(欠失アリ) 一個
一、管玉    八個    一、小管玉    四十五個
一、耳鎖飾具  二個    一、鈴(大小)   九個
一、金具残欠(蓋物形)二個 一、金具残欠(鉾先形)二個
一、装飾用金具破片 一括  一、砥(欠損)   一個
一、土器破片    二   一、陶器破片     一
一、朱       壱包
なお五月二十九日付を以って県に宛て次の如き通達があった。
「御管下遠敷郡瓜生村脇袋古墳西塚処分ノ儀ニ付再三伺出ノ処右古墳ハ皇別ナル若狭国造ノ祖ノ墳墓に関係有之モノト認メ候ニ付保存ノ希望ニ候処去年既ニ発掘ノ趣御報告有之右発掘セル部分ハ不得止儀ニ候得共目下残存ノ後円部並ニ前方一部トモ此儘保存致候様致度云々」とあった其故現在は後円部のみ略々円形に取り残されている。

『上中町郷土誌』
脇袋
脇袋に関する口碑伝説を次に記して参考にする。
若狭国殊に北川に沿える地方はよほど古くから開けていた、文献に徴するも大彦命の御孫に当らせ給う磐鹿六雁命、次いで御後裔荒礪命の御治領であったことは疑いない。命御一族の薨じ給うや、北川の流れ清き上流にして後方一帯山地を負い(膳部山)前面に開拓なされし北川筋を海に注げるまで一望に見渡し得る小高き脇袋の地を、御墳墓の地と定め給いしならん。今住する脇袋区民は四百年程前に安賀里方面より移住したもので、それまでは脇袋一帯の山ふところは墳墓の地であったと云うことで、兎も角脇袋の地はよほど良い所と見えて昔から「吉田田の中瓜生関はいやよ同じ住むなら脇袋」という歌さえ残っている。次に膳部山は坂を登りつめた所に四方山に囲まれ、盆地をなした極めて清浄な田地が十町程もあって、今でもその田には肥料として不浄なものは一切用いない、尚その他に「身洗川」御手洗川があって、余座と云う地名も残っている。この余座は荒礪命の余礎に関係あるように云われている。この膳部山は必ず膳臣の祖六雁命に因縁深き山に相違ないことは、伴信友の考証によって推定される。信友翁著「高橋氏文献中に景行天皇の御代磐鹿六雁命が薨去になった時の宣命文がある。この宣命文はどこの神社へ捧げられたものか判明しないが、脇袋区にある勝手神社はもと塚の近傍にあって(その古い境内は今は田になっている)非常に古いお宮であったらしく、二回の火災にあい古文書は今残っていないが、昔は上中八ヵ村のものが参拝した。御祭神は受鬘命で料理に関係ある神様らしいと云われている。其地荒礪命に因あるか「荒塚」があり「アレシガヒ」という田があり、又大甞祭の悠紀田主基田に囚めるにや「イフキ田」と呼ぶ田が一反と、スキ田と呼ばれる田が一町程度あるのが不思議である。最後に「上ノ塚」のことに就いてであるが「西の塚」は発掘物の種類から推して、剣や刀は魔除けに入れられたものであって、女の神様らしく相対して中塚がありその中程に位置して上の塚がある、それで上の塚は男の神様らしく云われている。県から墓標を建てられた時「ジョウノツカ」と云われていたため「上の塚」の漢字を用いたけれども、それまでから上の塚とて上の字を用いられていたのではない、或は謡曲にある「尉(ジョウ)と姥(ウバ)」の場合に有る如く「男」の意味で「男(ショウ)」の塚ではなかろうかとも云われている。尚全国各地にその例がある如く、当地脇袋でも西塚発掘の当時三年の間非常なる悪疫(チフス)が流行して多数の死者を出したのである。其時以後村に古墳保存会が設けられ随時祭典が営まれている。

『新わかさ探訪』
脇袋の前方後円墳  若狭のふれあい第126号掲載(平成13年6月30日発行)
被葬者は若狭国造膳臣? 豪華な副葬品
旧上中町(現若狭町)は、若狭のほぼ中央にあって、古代、極めて重要な場所でした。国道27号線と303号線の合流点に近い脇袋地区には、若狭で最大の前方後円墳「上ノ塚古墳」や「西塚古墳」「中塚古墳」(いずれも1600~1500年前に造られた前方後円墳で国指定史跡)があり、ここは“王家の谷”と呼ぶべき神聖な地たったようです。
 若狭の前方後円墳(現在17基確認、うち9基が旧上中町内に存在)は、5世紀に入ると突然造られはじめ、6世紀ころまで次々と築造されます。そのほとんどは小浜へ流れる北川流域の平野部に分布しており、このあたりが古代若狭の中心地でした。特に旧上中町内の古墳がらは金製の耳飾り(脇袋の西塚古墳と、27号線をはさんで対面の向山1号墳の2力所)や金銅製の冠(天徳寺の十善の森古墳)などが出土しており、埋葬された人物の権勢を推し量ることができます。
 脇袋の3史跡は、原形を極めてよくとどめている上ノ塚古墳(全長約100m)が5世紀前半の築造、西塚古墳(同約74mと推定)と中塚古墳(同約70mと推定)は5世紀後半とみられ、いずれも被葬者は、若狭の王(首長)として君臨した氏族と考えられます。
 西塚古墳の場合、副葬品の発見は偶然によるものでした。大正5年(1916)8月、小浜線の鉄道敷設工事のため、線路の盛土用に西塚古墳の土を削り取ったところ、石室が出現。その中から金製の耳飾りなどが出土して大騒ぎになり、当時の宮内省御用係が調査。横穴式石室の内部は赤色顔料が塗られており、朝鮮半島から持ち込まれたとみられる金製垂飾付き耳飾りのほか、中国製神人画像鏡、勾玉・管玉、鈴、鉄剣、胄など多数の副葬品(現在、宮内庁で保管)が発見されました。
 当時、ヤマト王権による国家統一が進み、服属した各地方の有力首長は、国造に任じられました。日本書紀など古代の史書には、若狭の国造は膳臣であると書かれています。膳氏は、ヤマト王権内で大王家の食膳を担当した氏族です。そしてこの時代、わが国は朝鮮半島へ大軍を送っており、日本書紀は、大陸に派遣された膳氏一族の膳斑鳩らが活躍した話を伝えています。
 こうした古代文献の記述とともに、西塚古墳の副葬品に豪華で畿内的色彩の強いものが多く、朝鮮半島からの渡来品も目立つことから、その被葬者を膳斑鳩だとする説もあります。
 古代史における真実の解明は、正確な文献に乏しく、容易ではありませんが、脇袋の古墳に眠る人々が若狭国造で、膳臣の系譜につながる一族であるとする説には説得力があります。
 脇袋の背後には、膳部山という標高200m余りの山があり、古くは料理人のことを膳部といったことから、この山の名も膳氏とのゆかりを伝えるものと思われます。また、脇袋の南の「三宅」地区は「屯倉」に由来すると考えられる地名です。屯倉は、国造がヤマト王権・大和朝廷に献上した直轄領であり、中央が地方支配を拡大していく際の拠点ともなりました。
 古墳時代に始まる若狭の塩づくりは、ヤマト王権に貢納するためでもあったらしく、その時代がら若狭は、膳氏が国造を務める御食国、すなわち海産物を中心とした食料を大王・天皇に貢進する国として重要な位置を占めていたと考えられています。

脇袋の伝説

『越前若狭の伝説』
脇袋の観音  (脇袋)
むかし脇袋の部落は今の脇袋地籍の東端に当たる杉谷という所にあった。この杉谷の山の頂上にあるけやきの枝に観音様か掛かっておられた。これを見つけた人々が、この観音像をおろして山をひきずって降り、これを道の端にほうり出しておいた。このために、ひのき造りの観音様は今も背中にすり傷がついている。
これを見た瓜生と関の子どもたちが、もったいないがらおまつりしょうと言って村へ持って帰った。ところが夢のお告げがあって観今様は「吉田田の中。瓜生・関はいやだ。まだも住むなら脇袋。」と言われた。水田に囲まれた吉田や距離的に遠い瓜生・関よりも脇袋に住みたいということである。人々は観音様を今の脇袋の地におまつりした。ここは膳部(ぜんぶ)山のふもとにあり、静かで見晴らしがよい。これが現在法順寺観音堂におまつりしている国宝(重要文化財)の十一面観世音菩薩である。いつか脇袋の人々は杉谷がら現在の在所に移住した。今もこの観音様は特に女の人々から深く信仰されている。   (永江秀雄)



脇袋の小字一覧


『上中町郷土誌』
脇袋区の小字名
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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