雨降りばかりでウットウシイ日々ばかり、しかし珍しくこの日は晴れ間が見えた、与謝海には豪華客船「飛鳥U」も浮かんでいる。何か良きこと起きる風が吹きそめそうな日になった。
その期待通りの研究会となった。丹後賛歌の輝くパレードで、丹後人はもとよりとして、全国から集まった古代史ファンの心と脳味噌を熱く酔わせるに十分すぎた。
よく準備してくれてありがとう、だけれども当方となると、丹後にいても丹後を知らんな、ちょっとむつかしい、そうした思いにもさせられた今回の会の簡単な案内です。残念にも行けなかったという方は、ぜひとも動画もアップしてますので、少し感じてみて下さい。
 天橋立アカデミック通信2018

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研究会の様子
 

講演1:塚口義信先生
(堺女子短期大学名誉学長・名誉教授)

 演題  「丹後の三大古墳とヤマト政権」





講演2:三浦 到先生
(元京丹後市立丹後古代の里資料館長)

 演題  「弥生時代の丹後」







講演3:伴とし子先生
(古代丹波歴史研究所所長)

 演題  「伝承の力〜勇者たちの古代史・大丹波王国〜」







茶話会
講演の後、講師の先生方を囲み、茶話会がもたれたそう。


歴史散歩(9.23)

全国的にも有名所ばかりの「歴史散歩」。ガイド役は三浦到先生ほか。

丹後古代の里資料館
(丹後町宮)
竹野神社や神明山古墳のすぐそばにある。丹後の「宝物」が展示されている市立の郷土資料館。

赤坂今井弥生墳墓の被葬者、この像の性別だが、ワタシは今まで区別がつかなかった、うまく作ってある性がわからない、文句の言いようもない、と感心していたもののだが、説明によれば、女性とか。被葬者は女王様である。この多量のガラス玉からそう判断したものか。


竹野神社(丹後町宮)と神明山古墳
開化記に、
此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。…
とある、その竹野比売の神社と見られている。わずかの記事にも当時の旦波国一帯、ヤマト国の政治状況がいろいろと読み取れそうである。
その竹野比売が年老いて帰ってきて天照大神を祀った神社とも伝えられている、当社は真西を向いていて、太陽は関係ないのかも、の感じもするが、隣に神明山古墳があって、やはり太陽か…
摂社の斎宮(拝殿背後向かって右に屋根が見える建物)に日子坐王も祀られていて、伴さん風に言えばクサカベ系、浦島太郎さん系の神社であろうか。
拝殿前での記念写真


この時のシャンとした(ストロボなしなのであまりシャンとしませんが)記念写真は、
ここ↓からダウンロードできます(右クリックでダウンロード)。それをプリンターでプリントして下さい、プリントサイズは2L版までに。
 
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昼食 はしうど荘

「間人の歴史のお話し」は柏原さん。


斎大明神(久美浜町市場)

久美浜町市場に鎮座ある「斎宮」。熊野郡誌、田辺府志や宮津府志にも記事があり、私もこちらへ来た時には探してみたが、さっぱりわからなかった、もうなくなったものか、くらいに考えていたが、さにあらず現存する。説明されているのは野村さん。
ちなみに、「熊野郡誌」は、
 〈 齊明神社 無格社 川上村大字市場小字前田鎮座
祭神=天照皇大神、斎姫命。
由緒=用明天皇の御宇麻呂子親王鬼退治の時、橘氏重といへる人を召連れらる。後故あって市場の里に来り住す。其の後尾上に竹野宮の白羽の箭立つ、後斎姫に奉るといふ。  〉 

「田辺府志」
 〈 斎大明神
齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。  〉 


「宮津府志」
 〈 斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル 以上神社啓蒙
…田辺府志曰、麿子親王当国の凶賊を平治し、天照太神の宝殿を造営勧請し伊勢の斎女に相准し熊野郡の中より士姓を撰び少女を斎女に奉る、側に別宮あり是麿子親王の社也。  〉 


と見える。裏山の中腹に氏神の産霊七神社があり、そこには「考徳天皇皇子表米王末裔日下部氏住居跡」という石碑がある。その日下部氏と竹野神社由縁の神社だという。
日下部氏は麻呂子や表米の子孫ではなく日子坐王の末裔で、その系列子孫は今はもう当地にはおられないという。

このような当社由緒を記した掛軸が伝わっている。詳しく読みたい方は、こちらからダウンロードできます。


参考までの蛇足
日下(くさか)氏は、河内国河内郡日下郷(今の大阪府東大阪市日下町のあたり)が本貫地のよう、生駒山脈の西麓だが、記紀などに日下江、草香津、日下の蓼津、草香江、孔舎衛坂とも書かれ、当時は大阪湾(河内潟)がこのあたりまで侵入、淀川や大和川もこのあたりへ流れ込んでいたという。神武がここから上陸しようとして失敗した地である。日子坐王はあるいはここに坐した王なのかも知れない。
あるいはひょっとすると当地すなわち須田にいた王だったかも知れない、日子坐(彦坐)はヒコマスとも読まれていて、それならマスの彦で、日葉酢と対になった、マスのヒコヒメであったかも、それなら伴さんがよろこびそうなハナシかも…
日下部は大日下王の名代ではなく、雄略天皇の皇后となった若日下部王(大日下王の妹)のために設定された名代部とする見解が有力という。
なぜクサカを「日下」と書くのか。「日下」はヒノシタと読むのでなく、ヒノモトと読むそうで、日本のことである、日本の国号はあるいはここに発祥したのかも知れない。「飛ぶ鳥のアスカ」で、飛鳥と書いてアスカと読むように、「ヒノモトのクサカ」と呼ばれていたのではなかろうかとも言われる。そうしたことで日下と書いてクサカと読むのかも…
従って太陽信仰、天照信仰の地でもあろうかと思われるのだが、今も記録にもそうしたことは何も見当たらない。
クサカはアスカのような意味かと思われるが、クサはたぶんヨサやカサと同じ語源かも知れない。


『宮津市史』
 〈 日下部をめぐって
表6の8の水江浦嶋子は「丹後国風土記」逸文に日下部首の祖と記されている。『日本書紀』顕宗即位前紀には市辺押磐皇子の子である弘計(ヲケ、のちの顕宗天皇)、億計(オケ、のちの仁賢天皇)の二王は、市辺押磐皇子謀殺の難を「丹波国余社郡」(与謝郡)に逃げ、与謝の地からさらに播磨の明石方面に逃亡し、そこで身分を明らかにしたこととなっている(三○)。この中で二王を与謝に導いたのが市辺押磐皇子の侍臣、日下部連使主とその子、吾田彦となっているように日下部は与謝の地と深くかかわっている。ただ水江浦嶋子の後裔は日下部首であり、弘計・億計二王を与謝に導いたのは日下部連とカバネは異なっている。しかし、両者は『新撰姓氏録』によると、同じ祖先伝承を伝えているのである。すなわち「新撰姓氏録」河内国皇別に「日下部連 彦坐命子狭穂彦命之後也。」同書和泉国皇別に「日下部首 日下部宿禰同祖。彦坐命之後也。」とあって、ともに丹波・丹後の伝承上重要な存在である丹波道主王の父に位置づけられている彦坐王を祖先とする伝承を伝えているのである。よって表6の与謝郡に関係する日下部は8のみであるが、日下部と与謝は密接にかかわっているといえよう。さらに、『日本書紀』の雄略紀には大草部吉士の賜姓など日下部の関連伝承が多いという指摘(上田正昭「史料編第一巻解説」)もあり、これらのことを背景に先の伝承の理解の糸口にすることもできる。また日下部は名代・子代のひとつであることから、与謝と倭王権のかかわりも想定できるのである。
なお、与謝郡に属した宮津市難波野の麓神社と同須津の須津彦神社はともにヲケ、オケ二王が難をのがれた場所であったと地元で伝えられている。  〉 



和久傳の森(久美浜町谷)の「安野光雅館」見学



「和久傳の森」はけっこう賑わっている。セイタカアワダチソウとかに侵入されていない日本古来の自然が残る「森の中」です。「森」といっても禿げ山に一から植林してまだ十数年の若い森、あと百年もすれば立派な木々が生い茂るそこそこの森になっていくことだろう。今生きているワレラ、走り回っているあの子らも含めて、そのワレラがみんな死んでしまってからのことであろう。自然の時の流れに較べれば、人生は一瞬の短いもの、元気なうちにぜひ訪れてみて下さい。





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 古代丹波歴史研究所第4回研究会
2018.9.22  みやづ歴史の館