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丹波の

旧・南岡村(みなみおか)
京都府福知山市


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京都府福知山市

京都府天田郡福知山町天田

京都府天田郡曽我井村天田



旧・南岡村の概要


《旧・南岡村の概要》


古代は宗部郷(そがべ)の地。中世から近世初期へは曽我井(そがい)と呼ばれていた。
南岡村は、江戸期~明治144年の村。曽我井木村の枝郷で、北は足軽屋敷地に、東と南は堀村に、西は笹尾村・室村に接していた。福知山藩領。正保年中に木村(本村)と南岡村に分村したという。
福知山城から陸自駐屯地へ続く、今は朝暉岡丘陵(古くは横山)と呼ばれる岡の上に位置する。地質的には中位段丘と呼ばれ10万年くらい前に由良川などの堆積や浸食作用で今の形になったものという。高い所なので水がなく畑地が多く、木村分の水田などを耕作して経営の補完をしており、これを木村渡りと称していた。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同14年天田村の一部となる。


朝暉(あさひ)神社
朝暉神社
今は福知山城天守の隣に鎮座する。文政7年(1824)に藩主朽木氏がその元祖と仰いだ稙綱(福知山朽木氏初代稙昌の父)を、城南の南岡の地に社を建てて祀ったという。明治14年(1881)本丸跡旧天主閣の位置に移祀された。案内板がある。朝暉神社の案内板
朝暉神社の由来
祭神 豊盤命(藩祖朽木稙綱公)
福知山城主朽木氏は近江源氏近江国守護佐々木信綱之孫義綱を始祖とし代々同国朽木谷に住す。
朽木氏第十三代元綱の第三子稙綱、徳川三代将軍に側近して若年寄に列し幕閣及び幕藩の制度の確立に功績抜群なり累進して常陸土浦三万石の城主となる。
寛文九年稙綱の子稙昌土浦に換えて丹波福知山三万二千石の地を賜りてより連綿十三代二百年の長さにわたり当地方を領地し福知山繁栄の基礎を築く。
稙昌入城の後父稙綱を藩祖と仰ぎその尊霊祭祀怠りなく降りて文政七年第十一代綱條城南の小丘を開平して一社を建て藩祖の尊霊を奉遷して朝暉神社と号す。けだし君民和楽して祭礼を執行し当時漸く頽廃せる土民の風俗を刷新し文化の向上を意図せるなり年々祭典盛大にして春秋町民より奉献せる能楽は三丹の名物たり。明治廃藩に際し第十三代爲綱自ら朝暉神社を撤収し堀村寓居に移せねを明治十四年に至り旧城下の町民旧主に乞いて朝暉神社を旧城天守台趾に再建し市街地の鎮守となす。星霜百余年にして今次天守閣の再建あり稍移座すると雖も神霊之を嘉し旧城下の繁栄市民の福祉に冥助を垂れ給うこと聊も旧に変ることなし。昭和六十一年十月吉辰 朝暉会 根元惟明誌 足立隆?



横山城(八幡山城)
福知山城
西から↑北から↓
福知山城
今の福知山城↑のある岡(横山・八幡山)には、それ以前から城があった。それは横山城、あるいは八幡山城と呼ばれている。今は堀の一宮神社境内本殿の向かって右側に移されている八幡神社が当地にあったので、こう呼ばれている。
塩見大膳の横山城の以前からすでに城があったようで、『丹波志』によれば、荒木山城守義村(行重)が当地に掻上げの城を築いていたという。掻上というのは空堀を掘ってその土を盛り上げて土塁を築いただけという石垣などのない城のこと、大雲城に籠もる、ともあるから、あるいは当城は大雲城と呼んでいたのかも知れない、荒木神社の一族かと思われるが資料不足で正確にはわからない。
荒木氏は篠山八上城の波多野氏の家臣で、貞治年中(1362~68)の山名氏の叛逆の時にこれに随った、山名氏は本意を言わず討死した、とある。
其後は細川頼元、其子満元 子勝元 子高国と当国は領されたという。
その後、中世後期、当地方に勢力をもっていた塩見氏(横山氏)の居城があり横山城と呼ばれ、荒河、和久、猪崎、川口などの支城を四方に従えていたという。
建武中興の頃、小笠原某、我が郡を領せしが、其裔頼勝に至りて、横山大膳と称し、夫の八幡祠傍に、塁壁を築けり。これ即ち福知山城の濫觴なり。頼勝五子あり、長子頼氏は父を継ぎ、他は、荒河、二男長頼猪崎、三男利勝山田、四男長利川口、五男利明の四所に配置して、各支塁を構へしめたり。時に永正五年なりき。

永禄中、頼氏は、堀村稚児段隠居し城を其子塩見大膳信膳に譲る。頼勝以来、氏を、或いは横山と称し、或いは塩見と称しき。今福知山付近なる、横山、塩見の二氏は、多く此末裔なり。
(『天田郡志資料』)

福知山には塩見さんは多い、横山さんもあるが、多くはこの氏の末裔といわれる。
その後、天正7年(1579)八月、明智光秀に攻められ落城。光秀は城代として藤木権兵衛・明智秀満を置いた。
天正10年本能寺の変で、わずかな間だが光秀は新城と新城下のプランを立て「福知山」への改名も行ったとされる。

近世の福知山城については別途取り上げる。
丹波・福知山城
福知山城


天守閣のある一角には、天田郡の満蒙開拓団の帰還団員たちが建てた「拓魂碑」↑がある。ある資料によれば、天田郡の開拓民戸長は86名、内死亡28名、不明6名、帰還52名であった。さらに悲惨なのはその家族で帰還できたのは74名、死亡117名、残留16名、不明18名だったという。
満州天田郷・第二天田郷開拓団



工兵第十大隊
明治30年6月、工兵第10大隊が伏見(京都市伏見区・16師団の根拠地)より堀村屯営へ移駐した。今の成美高校のある所が駐屯地であった。今も当時の門柱↓や、キャンパス内には建物も残っているという。
工兵十大隊跡の門柱
大正14年5月、軍縮により廃止された工兵第十七大隊(岡山)兵営跡に移駐。10大隊兵営跡は長田野演習場の管理となったという。

市役所の裏山、今は勤労青少年ホーム↓のある旧城跡伯耆丸跡に衛戌病院(陸軍病院)が新築された。その他連隊区司令部や憲兵隊なども設置された。演習場の一角には陸軍墓地もある。
伯耆丸趾


陸軍歩兵第二十連隊
今の陸自福知山駐屯地のある所に、かつては歩兵二十連隊があった。アベリカ政府が、カネ出さんぞ、などとユネスコを脅している南京事件にも深くかかわった南京一番乗り部隊で、虐殺をしっかり見ましたデ、ワタシは重機関銃で捕虜を撃ちましたデ、の証言兵士も次々に名乗り出て、一時は大騒ぎにもなった。大概は「そんなことはしとらん、アイツらはウソ言っとるだけや」などと言っているが南京は二十連隊だけがかかわったのではなく、他の部隊からも同様の証言が聞かれる。大事なところでトボケルから大概には信用がない。
太平洋戦争ではフィリピンに派遣され、初戦のバターン要塞攻略戦でほとんど全滅、のちの全軍玉砕の第一号のような悲惨なこととなった。バターンの「死の行進」にも関わり、アメリカに後々まで深く恨まれた、米兵や米看護婦も十と十六だけは容赦しないと言ったという話が『俘虜記』にある。(十、十六は師団名で伏見にあった京都十六師団隷下に二十連隊もあった)。
その後はフィリピンの主のようにしていた、しかし最後はレイテ島カンギポット山で最後の最後の全滅となった。福知山二十連隊の最後を知る者は一人もなく、「今もドラグの海辺に、ダガミの山岳地帯に無数の遺骨が野ざらしになっておる」(『福知山聯隊史』)という。
「やむにやまれず開いた防衛のための戦争」「不拡大方針の戦争」とは本当は何かを教えてくれる部隊である。アホほども若者を殺しておいてまともな反省が聞かれない。消耗品と見ているのか、エラそうに言いたければ、彼らや犠牲者を全員生き返らせてからにしろ。
陸自駐屯地衛門
二十連隊の碑
陸自の門衛の右隣に『歩兵第二十聯隊之趾』の石碑が建つ。15トンもある巨名石である。二十聯隊だけでも17555名の犠牲が出たという。
碑文
歩兵第二十聯隊は明治十七年大阪城内に創設され翌十八年編成を終わり七月二十一日軍旗を親授された。
明治二十七年八月日清戦争がぼつ発し翌二十八年四月に出征、海城営口付近に進出、翌年一月にがい旋し明治三十一年八月大阪からこの地に移駐した。
明治三十七年二月日露戦争が起り同年五月に出征、岫巌、析木城、遼陽、沙河、三磈石山、奉天などの各地において奮戦、特に遼陽会戦には玉皇廟の堅塁を攻撃し、連隊長以下半数の死傷者を出したにもかかわらずこれを突破し全軍に先立ち遼陽城を占領して感状を授与され同三十九年一月にがい旋した。
明治四十年から二年間柳樹屯鉄嶺などまた昭和四年から二年間遼陽柳樹屯にどに駐とんして南満州の警備にあたり、満州事変には昭和九年から十一年まで新京吉林間島泰安鎮及び洮南附近の討伐と警備に従事した。
昭和十二年七月志那事変が始まり同年九月に出征、子牙河、京漢線の戦闘あるいは無錫、南京の攻略、徐州会戦?山、開封の戦闘、漢口攻略更に裏東会戦などに参加して勇戦、殊に裏東会戦にはよく健脚聯隊の伝統を発揮し適中深く追撃して大適中深く補そくし感状を授与され同十四年九月にがい旋した。
ついで昭和十六年十二月大東亜戦争の詔勅が下りフィリピン攻略の第一陣としてルソン島に上陸し破竹の勢でマニラを攻略、続くバターン半島の攻撃には第一代ニ大隊は海上機動により敵陣地の側深く上陸して奮戦力闘したが優勢な敵の包囲攻撃を受け大隊長以下壮烈な戦死を遂げた。一方聯隊本部並びに第三大隊は陸正面から猛烈な攻撃を敢行したがこれもまた成功せずほとんどが全滅、ただ聯隊本部のみ軍旗を三分してようやく脱出、その後聯隊の再建を図り同十八年十二月レイテ島に転進し防備にあたった。
昭和十九年十月十八日フィリピン奪還を企図する敵軍は優勢な艦隊及び航空機を伴いレイテ島に総反撃の火ぶたを切り、その矢面に立った聯隊は視力回復尽してよく奮戦激闘その大半は散華し、残る将兵は更に奥地深く立てこもり抗戦を続けたが糧食弾薬も尽き遂に同年十一月十二日連隊長以下全員自決し果てた。
かくして六十年の歴史をもち武勲と勇名を天下にとどろかせたこの聯隊も遂にレイテ島に軍旗ととも玉砕したのである。
なお昭和十二年志那事変以後戦局の進展に伴いこの聯隊を母隊として遂次編成された歩兵第百二十聯隊などの幾多の部隊はアジアの各地に転戦し偉勲をたてた。
戦没勇士の遺族及びここに在営して軍務に励んだ戦友またこの聯隊に特に関係の深かった人々など有志相寄り、陸上自衛隊福知山駐とん部隊の協力のもとにこの譽れ高い聯隊趾を史跡として保存するとともに、平和の礎となられた今は亡き戦没勇士への手向けとしてこの碑を建てる。昭和四十一年九月二十三日 歩兵第二十聯隊記念碑建設委員会


今の陸自が二十連隊の後裔というわけではなく、関係はないが、しかし一歩誤れば、過去を繰り返しかねない。これくらい、チョットくらいは、などといって少しずつタガをゆるめてうちに過去に戻ってしまう、かも知れない。陸自内でもニガイ過去をしっかり学びたいものである。

「剣をとるものはみな剣にてほろぶ、剣は鞘におさめなさい」、世界三位を誇った大陸軍ですら万余の郷土の若者の犠牲と共に完全に滅びた、深く心に刻もう。何も強そうなのが強いわけでも正義であるわけでも知恵があるわけでもない、意外に弱そうなところに本当の強さがあるもの。一見の強者は弱そうな者の前に「剣にて亡ぶ」風の前のチリの運命にある。歴史の教えるとおりである。
再び剣を取る、ダメよダメダメ、これは標準語。丹後弁ではアキャーセン、アキャセンだぁゃ。間人弁では米軍基地ども、イランチ(ャ)、イランイラン。尾張弁はどう言うのだろう。舞鶴弁なら、また剣を取るって、アホかオマエは、アカンアカンアカン、と言う。
また剣をとるアベリカさんよ、ユネスコをボロクソに言うなよ、舞鶴の引揚資料も何も価値ないもののような言い方ではないか、ロシアや中国や韓国などから取り下げろ日本と同じだカネ出さんと言われるゾ。手前のほうが始めた戦争であったのに、その被害は大宣伝するが、加害はゼッタイ認めない、先の大戦で日本は被害国だったのか、おかしいではないかい、頼りない歴史認識ではそこをつかれるぞ。舞鶴市さんもよ~くよ~く勉強してかからないと、どこかの国が始めた何千万の犠牲者が出た戦争であっただけに、アベノリスク政府が政府だけに、距離を置いていないと決して甘くはないぞ。基本は市民の活動や視点に軸足を置いて行政や政治関係が前面には決して出ないのものにしていくべきものであろう。行政は遺品や記録の収集保管展示貸出等だけに徹する、市民活動の応援に全力をカゲで徹する、それが世界に認められるための道であろうか。
(その後当然にもと言うか、やはり懸念したハナシになってきたようである、政治利用する意図は何もないとは言っても、それはそうかも知れないが実際には舞鶴を訪れたロシア人親善観光団を舞鶴市は引揚館へは案内していなかった、公平な展示でないことを自らは認めている記念館で、ある程度の「政治利用」「プロパカンダ」(条約を破って攻めて来たソ連が悪い、シベリア抑留したソ連が悪い、、ロクなパンを与えなかったソ連が悪い等々)があると言われても言いわけしにくかろう。今さらとぼけてみてもどうしようもなかろう。これらは自らは最初に逃げ帰ったクソ軍部の幹部連中の卑怯史観で、一般兵士の史観でもないが、そうした安っぽい偏向した考えから抜け出てはいない情けない、真実が実際には隠されている館である、市民がずっとそう言っているとおりである。市としてはこの機会に猛勉強してせめて展示内容をしっかり見直せ、ロシア人観光客にも見て貰っております、とはせめて言える館にしていくべきであろう。日本人だけの目で見た記念館ではアカン。まして市当局の頼りない目だけではゼッタイにアカンアカンアカン。
改装したというので行ってみたが、ヒドイ。前よりもさらにヒドイ。デパートなど商業施設の展示と同じただ多数の目を引かんがためだけ精神のドギツイだけのディスプレー。ここには歴史哲学も平和理念もまともなものは何もない。イカレ思い上がった観光課あたりの勝手な主導か、市職員にはもうまともな史家はいなようである、情けないばかりの滅び行く地方自治のみごとな精神の空洞だけが展示されていた。市民無視で、権力と金持ちのご機嫌を取るだけのもの、そうした彼らの理念や知識や力量ではもう自立回復する見込みは立たない、カンコーカンコーと言うのは終了の町、それしかもう何も見当たらない町がすがる最後のワラである、これにすがったら終わりだということがよくわかる。市民の活力に頼るしかこうした方面でも活路はない、市が勝手に進めればますますの空洞化は避けられまい。キミたちの手では「地方創生」などはあり得ない、自己証明したようである)

護国神社(一宮神社境内)
鎮国神社↑。元々は二十連隊の守護神で、戦死すればここに祀られる靖国神社のようなもの、兵舎内にあったが、連合国占領軍に部隊内に神を祀るなどあいならんと言われ、今は堀の一宮神社境内に移されている。

二十連隊のような現役のバリバリの作戦部隊ばかりでなく、予備役・後備役のゆうに30才を越える妻子持ちの男子も招集されて、当地で編成され訓練もそこそこに戦地へ続々と送られた。これは悲惨が次世代にまで及ぶ、たくさんあるが、一部を紹介すれば、

歩兵第百二十聯隊
三桁の聯隊で特設聯隊と呼ばれる、需要爆発で急造された部隊で、二十聯隊のような常設聯隊よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設の3分の1でしかない、名ばかりの兵隊だったといわれる。ソ連やアメリカに備えてバリバリ部隊は無傷で残しておきたかったためにこうした聯隊が大量に作られ中国へ送られた。
年寄りのロクな兵器がない弱兵だから本来は「後方支援とか戦闘地ではない安全な場所の警備や輸送」とかを担うはずの警察に毛が生えた程度の治安用部隊なのだが、それははじめから口先だけのハナシの大ウソで、実際は第一線の常設バリバリ作戦部隊と同じように使われて、主に中国各地を転戦して湖南省で武装解除を受けた。
そこの碑文は、
嵐歩兵第百二十聯隊之碑
歩兵第百二十聯隊は昭和十三年五月福知山に於て編成、中支戦線に出陣、武漢を攻略の後、安慶周辺の作戦警備に任し、十七年長駆淅贛に戦ひ、健脚勇猛の名を挙ぐ、常徳を攻略、翌十九年長沙より衡陽、宝慶、シ江に転戦、曠野を馳せ峻嶮を攀ぢ、苛烈なる苦闘の末、二十年八月十五日の終戦を迎ふ、此の間遠き異境の荒野に、銃火に斃れる、瘴癘に死ししたる戦友、実に四千有余柱の多きを数ふ、聯隊は終戦に当り、大命を遵奉して一糸乱れず、八月二十三日軍旗を奉焼く、二十一年夏祖国に復員、その苦難の歴史を終へたり、爾来四十年懐旧の情切々としてやまず、生存者有志一同浄財を募りこの神域に一碑を建立して、永く後世に遺烈を伝へんとす  昭和六十年四月吉辰  嵐歩兵第百二十聯隊生存者有志
この部隊はまだしも幸運の女神に導かれてよい戦線ヘ派遣されたと思われる、立派な碑が残せるだけの復員兵がいたことになる(一宮神社に碑がある)。もっともっと悲惨な運命をだとった部隊もまた多く、草を喰い、石を投げて闘ったすえに全員が死んでしまったため詳しい記録もなく碑もない、たぶん骨もいまだ拾ってもらってはいない。よほど幸運でもない限りは、どの部隊に招集されどこへ派遣されたとしても、生きて帰ってくるのが不思議なような激戦地へ送られていった。
一般に公にされている聯隊史などは、最も信用度が低いものとされているものだが、自分の都合のよい所だけ書いてスンパラシイと叫んでも自国民にすらそっぽを向かれる。一般に現役兵ほどには軍紀は保てない、犯罪率が高くなる、要するに程度が悪くなる。モトモトが中国人などは人とも思っていないうえに、メシもなく、戦友が殺され、自分の明日のこともわからない、いつ帰国できるのかもわからない、どんどんヤケクソになってくる。
淅贛作戦に加わった丹波多可郡の人が手記を残している、それを『草の根のファシズム』が引いている。この百二十聯隊だと思われるが迫撃砲部隊であったという。
彼の所属する中隊は五月七日、杭州に着いた。この日、之江学校文理学院(大学)図書館に宿営したが、書庫に入った古兵は「空巣泥棒の様に、写真帳を乱暴にめくり、良いのをバリバリ盗んでい」った。これを見た彼は「金籍一瞬毒爪にかゝって紙屑。国の恥」と憤慨している。以後、彼の日記には、徴発の記述が続く。一三日には余杭付近の部落で「釜も野菜も徴発し、住民は使役、余、前畑で沢山豌豆ちぎる」とある。
一六日、戦闘が始まり、命令によりいきなり第二中隊は鳳鳳山の中国軍に対し、嘔吐性・クシャミ性の毒ガス弾である「あか弾」の急襲射撃を行った*。以後、何回もあか弾は使用されるが、一時性の毒ガスであったためか、これについて、彼が良心の痛みを感じている様子は日記からはうかがえない。
 * 淅?作戦では、日本軍による積極的な毒ガス戦が展開された。とくに六月三日からの衢州会戦では第一三軍司令部は隷下の第一五師団・第二二師団・第三二師団・第一一六師団にたいし、毒ガスの使用を「奨励」し、その結果、とりわけ第二二師団が「最も有利に使用」した(第一三軍司令部「せ号(淅贛)作戦経過概要」)。大西の日記によれば、彼の配属された一一六師団はこの作戦の最初から使用していることが判る。
一七日、豚やエンドウを取って中食した。この日「道沿いの家屋を毀し、不必要な乱暴をなす者おおし」とある。彼は「無茶だ」といってとめようとしたが、戦友から阻止されてしまった。
一八日、新登に入城した。この日の朝食の模様は「菜っ葉、砂糖の徴発に出るもの、待ち受けてゼンザイをつくるもの、兵隊はマメだ、兵こそ強し。我が分隊は更に高級……即成のボタ餅を頬っぺの限り頼ばって共に走る」と記されている。二〇日には、燃えさかる市街を見ながら行軍した。
  火事騒ぎだったが、他部隊では米徴発もお忘れなし。街の住民甚だ多数が、可なり離れた小山に集まり、茫然とし且つ火を恨んで泣きわめく、心のたゝりが恐しかったと何処かの兵の話。とったもの、又棄てた米を、わが分隊が再徴発、灰砂まじりじゃないかいナ。兎も角、鞍に括り付けた。……民家の藁屋根に火を放つ法など話しつゝ丘を廻り亭で小憩……
この日、大隊段列の兵士が住民や牛を徴発したが、家族が泣き叫ぶのを見た彼は「哀れと言う辞で尽くされず」気になって仕方がなかった。途中、腹と頭を剣で刺され、土手下に捨てられて血まみれになって苦しんでいる苦力(徴発された住民のこと)を見た。「わけは知らぬがむごい、むごい」と思った。
二一日、明日の米がないので、全員で徴発にで、大量里のサツマイモを取ってきた。二二日の激戦で中隊は蓮塘部落に対し、あか弾の急射を浴びせた。二三日には白仏寺東南方高地付近で使用した。二四日、鶏・キュウリ・ナス・筍を取った。二五日、健徳に入城した。既に憲兵隊が物資を押収していたが、「私は米少量、米の粉、菓子を見付け大いに嬉し」とある。二九日は雨となったので、住民を徴発して苦力にし、米を担がせた。裕福な部落に入り、各分隊とも上等の反物と靴を取って苦力の衣替えをさせた。また、駄牛の胴・首に大幅の反物を巻き「赤布の尻がえ、青の首巻き、花模様の大布団を負わせ、嫁入りの荷行列か妙見宮の大祭の様」にして、中隊一同を爆笑させた。六月一日には大きな店で菓子・砂糖・菓子粉を大量に徴発した。
衢州会戦が始まった六月一二日からは残虐な記述が多くなる。この日「池を襲う雷雨のような弾着」の中で、終日、榴弾を運んだ。中隊で五名の重傷者がでる激戦の後で、家屋の天井に隠れていた便衣風の男二人が引きずりだされた。この二名は命乞いをするが、帯剣や木で殴られたうえ、斬首された。四日、衢州県城付近で中国軍の正確な砲撃をうけたが、これは中国人の密告のせいかもしれない、という声が高くなった。日記には「全部支那人は殺せの声高し。多数を池へ投込む」とある。五日、衢州県城攻撃では、中隊にあか弾使用命令(中隊使用標準、榴弾三〇発・あか弾三〇発)が出され、他の諸砲とともに行う一斉砲撃と同時に、飛行機による城内爆撃が行われた。その猛烈な攻撃は「壮大なる漆黒煙高く長く天心に沖す。強烈なる葬火なり」と記されている。この日、彼は、トーチカに隠れていた中国軍の少年兵が頭に十字鍬を振り下ろされ、田に蹴落とされるのを見た。また、「帰途婆死〔老婆の死〕を見る。兵のいたずら卑劣残忍なり」とある。l
七日の徴発では米・鶏のほか子供と娘を捕まえた(途中で帰した)。九日にはつぎのような記述がある。
  徴発に金品をあさる者がある、つまり金盗り。徴発の精神は作戦遂行上止むを得ざるものに限る、且最小限に止むべきだ。儲けたり持ち帰るなどすべきでない。又根拠なく興味から支那人を殺傷すべきでない。だのにこゝ数日、激しい情況下と言い乍ら、余りにも野獣的暴れ行為多く、義憤遣る方なし。
 いかに激しい徴発と暴行が行われたかが、大西の義憤とともにピリピリと伝わってくるようである。一一日には徴発にでた者が「大戦果」を挙げて帰り、皆集まって徴発物を分け合った。彼は「私は徴発に出たくはないし、主食以外の分け前にも預り度くない」と思った。
まだまだ記述は続いているが、これが百二十聯隊の一面であった。「徴発」というのは大本営語で、辞書には「ムリに人から物を取り立てること」、はっきり言えば強盗するということである。殺人強盗をこのようにあたかも正当な行為のように行ったということになる。
『草の根のファイズム』は、
日本は、日中戦争で宣戦布告をせず、また、「陸戦の法規慣例に関する条約」(一九〇七年)や「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」(一九二九年)なども適用しようとせず、必要な俘虜(捕虜)収容所官制すらつくらなかった。このため、戦意をなくしたり、投降した中国軍兵士を殺害する方針が、上から明示的にあるいはそれとなく指示される場合が極めて多かった。前線の兵士たちは、俘虜収容所がないため、投降した兵士の処置に困惑して、上からの命令に従って処刑する場合が非常に多かった。また、抗命は許されなかった。従って、戦意をなくした中国軍兵士や捕虜が殺害される原因をつくったのは、このような方針を決定した日本の最高戦争指導部にあり、また最大の責任もそこにある、というべきである。そして、第二の責任は、そのような命令や指示を出した現地の日本軍の各レベルの指導部にある。また、銃後の国民は、戦争の真の原因を知る手がかりを奪われており、主権を持っていなかったという制約があったとはいえ、この戦争を「聖戦」と信じて歓呼の声をあげて、戦線に兵士を送り出していった副次的な責任がないとはいえないだろう。国際法をよく知らない前線の兵士が、戦意をなくしたり投降した中国軍兵士を、敵がい心にかられて、あるいは興味本意に、殺害する場合は少なくなかったが、興味本意の殺害は論外としても、このような責任問題を考える際に、右のような背景を考慮にいれることは、是非とも必要なことである。捕虜に関する情報収集・記録作成を任務とする俘虜情報局ができるのは、対米英蘭開戦以後の四一年一二月二七日になってからであり、主として欧米人を対象とする「俘虜取扱に関する規定」ができるのは、四二年三月のことである。
終戦近くになると「中国人の捕虜収容所」などと一部の手記がでてくるが、当初には見られない、本当に「処置に困って」撃ち殺したのではなかろうか。中国ばかりでなくシンガポールなどでも相当大規模な徴発が行われたという、ワタシのオヤジも「敵のトラックを徴発したろと思て、トラックのドアを開けたら、顔が半分吹き飛んだイギリス人がゴロっと出てきてな、びっくりしたで」などと語っていた。これは敵軍のものだから戦利品かも知れないが、民間から見たこともないうまいものが一杯ある宝の山なので歓喜して徴発する、これは強盗と同じである。


歩兵第百三十五聯隊
この部隊はサイパンに派遣され、「譽一一九三四部隊」と称され3000将兵が全員が玉砕、あるいは餓死、あるいは自決した。第一大隊はテニアンに転用となり、運命は同じであった。全員玉砕関係資料焼却しているため詳しくはわからない。ないはずの機密文書「百三十五連隊陣中日誌」がアメリカより返還されているが、これでも部隊の最後は不明である。
『昭和十九年夏 サイパン・テニアンに全滅した歩兵第百三十五連隊の想い出』
昭和十四年、第十六師団は中国から凱旋し、夫々の駐屯地に帰還しました。京都府福知山市には歩兵第二十連隊が駐屯していましたが、昭和十六年の春、対ソ作戦対処のため満州国北部の神武屯に永久駐屯の内命を受け準備中、七月になり突然中止となりました。国策の変更により南方作戦の準備を命ぜられ、そのあとに、歩兵第百三十五連隊が編成されることになりました。編成完結は昭和十六年十月五日で、連隊本部と一個大隊を基幹としたものであり歩兵団司令部は豊橋にあり、福知山、鯖江、豊橋の三個連隊で第六十三独立歩兵団が編成されました。連隊は、親部隊である歩兵第二十連隊の質実剛健の気風を受継ぎ、福知山市民等の敬愛と協力・支援を受け、訓練と団結の強化に努めました。

二年足らずを福知山市で過ごした後、第四十三師団の編成に伴い昭和十八年六月未、福知山からの編成要員は市民の見送りをうけ、軍旗を奉じて名古屋市に移り、完全編成の連隊になりました。新連隊長のもと名古屋駐屯地での訓練、生活は約十ケ月間で短いものでありました。
時局柄、覚悟はしていたものの昭和十九年同月七日、第四十三師団に動員が下令され師団は当時、国土防衛の第一線であった中部太平洋マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島の守備を命せられたのであります。この動員編成には、福知山以来の歩兵連隊に砲兵、工兵、輜重各連隊からも部隊が編合せられ孤島を守備するにふさわしい強力な戦闘団を編成したものと思われました。五月初句、連隊長以下四千四十五名は勇躍任地に赴いたのであります。
サイパン島上陸後一ケ月も経たない、防禦準備もできていない状況のなか、米軍は予想に反して来襲し、島を包囲して鉄火の雨を降らせ、六月十五日にはサイパン島次いでテニアン島に上陸しわが軍は勇戦奮闘の末サイパン島は七月七日、テニアン島は八日三日遂に玉砕して果てました。この戦闘では、はじめて民間人が軍と行動を共にし、多数の人が戦死しました。何とも言えない悲しいことであります。

特に空軍の戦略基地として価値高い島々で、当島はB29の基地となり、テニアンには原爆投下部隊が置かれた。


歩兵第五一聯隊第一大隊
五一聯隊は一六師団の元で編成された部隊で、第一大隊は当地の編成であった。中国からインパール戦に転用された「嵐」部隊である。インパール作戦は全体としては敗戦が決定的になった昭和19年に始まり、だいたい半年で作戦は頓挫した、その間に総勢30万の兵が派遣され、18万が戦死(餓死病死)した、帝国陸軍の補給無視の無謀極まる作戦の例としてよく知られ、戦友の骨をしゃぶったといわれる。盧溝橋事件当時は現地指令官だった者の作戦計画で、その責任を問われることもなく復活しまた失敗を繰り返したと言われる、過去に学ばないどこかの驕り高ぶるスバラシイデスネの自画自賛国てはこうしたことはしょっちゅう繰り返される。過去の話ではなく今もまったく同じである。ある新聞の投稿欄に舞鶴の老婦人のものが載った、この部隊におられた方かと思うが、ビルマで昭和20年1月に戦死された、母が再婚したため、長い間、戦死された実の父のことは知らなかった、2歳の時に、その父は出征した。と。

沖縄戦では第62師団の第13、14、15大隊が京都の部隊、福知山編成はなかったようである。沖縄戦についてはこの辺りではあまり聞かない。本籍地で招集するので、当地あたりに現住所があっても、本籍地の部隊に招集されて沖縄へ向かった人もあったかも知れない。62師団もほとんど全滅であった。
同師団は京都と敦賀の部隊で、私のオヤジは小浜市に本籍があった、年齢から考えれば、何もなければこの第*大隊に招集され、敵戦車に体当たりして玉砕していたものと思われるが、トラック運転の当時では高度技術者であり、舞鎮に勤めていたため招集されなかったものかと思われる。
戸籍制度の本籍はこうしたことに使われる、差別だとかそうしたことに悪用されるド恥ずかしい制度である。今はどこでも本籍地を置ける、皇居にもおける、二千人ばかりがここに本籍を置いているとか、本籍は明治国家の殺人用の狂気のメモである、有用性はなく意味もなく21世紀国家にふさわしい制度でもない、現時点てすらもう形骸となっている、徴兵制などが復活しないうちに廃止するのがよいだろう。

『美山町誌』
(…戦死者の圧倒的多数は戦争末期の昭和十九年と二十年に集中しており、二年間で二八三名にのぼる。戦死した場所の記録をみると、ニューギニアやフィリピンのルソン島やレイテ島、死の行進で有名なバターン、インパール作戦のビルマや沖縄など、激戦地がならぶ。
 町役場にある戦没者リストをみると昭和十九年以降の戦死者には予備役や教育召集から、そのまま転属になった人や臨時召集の人も多い。美山の未来ある若者が突然引っ張られ、ろくな訓練も武器も与えられないまま、食糧とぼしい状況で命を落としていったのだろうか。
 昭和十九年、二十年には内地の徴用や供出の指示をみても、もう無茶苦茶で、国民を導いていく、しっかりした方針や方向性が見えない。誰も責任を持たない泥沼のような状況で練られる戦略で、こんなにも若者たらが犠牲になったのかと思うと胸がいたむ。
 戦争はまた生きて帰ったものにも、言い知れぬ傷をおわせた。宮島の平井雅男さんは焼き尺くし、殺しつくし、奪いつくすとして中国側から三光作戦と名づけられた作戦に従事している。
戦後三〇年たってまとめられた「平和の礎」という宮島の戦没者をしのぶ冊子に手記を載せているので一部抜粋して紹介したい。平井青年は北支独立混成第四旅団で、部隊は関西出身者でしめられていた。昭和十五年八月八路軍の大攻撃をうけてその失地回復と治安維持のために補充された軍に入れられていた。
  「それは徹底した報復行動となって尽滅作戦と言わわた。(中略)日本軍はゲリラの拠点になるからと云う理由で片っぱしから放火焼尽」部落民は見つけ次第老幼婦女子みな殺しであり物資は徴発されたのである。私の初年兵の一年はまったく思い出すのもおぞましい。陰惨な日々であった。作戦においても内務においてもである。後日復員してから夜半、度々うなされ苦しむ事になる、約十年ぐらい続いたであろうか、そのくせ従軍中には、そのような悪夢は見たことがない。その原因内容はすべて初年兵時代に見聞し経験した事実からきている。尽滅作戦に就いては発表するに忍びがたい。二十歳の無垢な青年にとって静視し得ない。又命令といえ実行し得ないものであった。勇敢な強兵を練成する軍の方針にはおよそ不向きであった私は弱兵のレッテルをはられて中隊から追い出される日か来た。昭和十七年三月分陽の独混十六旅団に転出、配転された。ここで私の運命は大きく変わる。なぜなら、私のいた独混第四旅団は後日沖縄に転進、悪戦苦闘の末、玉砕して果てるからだ。私の初年兵時代の仲間は殆ど戦死している。」
 平井青年は戦後中国山西省において引き上げ業務にあたる、自身は昭和二十一年に帰国したが、中国の国共内戦において、在山西日本軍は敵であった八路軍とともに山西独立義勇軍として戦い、二十四年春の総攻撃の際に約一〇〇〇名の日本兵が戦死していると書いている。
    「あれから早三十数年、あの戦争はいったい何であったろう。戦争はむなしく悲惨で二度とくりかえしてはならないとつくづく思うのである」(『平和の礎』美山軍恩連盟宮島分会編より)
 内久保の畠中徳三氏はインパール作戦に従軍し戦死した弟、幸太郎の足跡を丹念にたどり、『私の昭和史』の中にまとめている。
    「弟は『ずい分ご無沙汰しました何ケ月ぶりですかね。お母さんや皆々心配してられるのは十分承知して居りますが今日になりましたお察しください。兄さんよりの便りではおばあさんが体がよくない由、其の後いかがですか。一日も早く全快してください。南の空よりお祈りしてます。さて先日、井爪保君に出会いました。あまりにも突然だったので面食らいました。大そう元気でしたから留守宅へよろしく伝えてください。祭りも済んで取り入れに多忙なことでせう。昨年位の作はありましたか。もうすぐお霜月ですね。昭和十八年十二月二十四日着』を最後の手紙でインパール作戦に参加した。昭和十九年から二十年ビルマは十六万以上の戦没者を数える悲惨な戦場であった。補給も食糧もない山中で次々にマラリヤ、赤痢、脚気、栄養失調で倒れていく。弟も高熱を犯して軍務についていたらしいが、ついに倒れて卜ンハの第二野戦病院に収容され、昭和十九年八月二十一日家族の写真をお守りのようにしていたが、遂には高熱のため意識不明になったであろうが、郷土部隊でない悲しさ、心許した戦友もなく最期を誰に看取ってもらったか、おそらくいつの間にか亡くなっていたというような状態で死んで行ったものと思う。野戦病院とい
うと聞こえはよいが、当時の犠牲者の数を考えると、建物の中に収容されるなどとは夢にも思えず、テントも何もない野原にただ横たわっているだけのことで薬品も医療機材も補給せられず、雨が降れば水浸し、ただ死を待つだけの場所にしか過ぎない。この頃路上には白骨、死骸、断末魔、又は病気の者などが次々と連続し、この後も敗退する道筋は白骨街道と言われる位の犠牲者がでた。幸太郎の死亡広報は二十年四月二十六日にあり、(中略)死亡告知書は二十二年四月で到着、遺骨は無く遺品として家から送った慰問袋の宛名を書いた布切れが入っていた。父の筆跡の布を大事に一年以上もポケッ卜に入れていたものと思うと一層哀れに感じる。」
と書いている。徳三氏自身もシベリア抑留の経験をもつ。
 正規の兵の他に「満蒙開拓青少年義勇隊」として一一名が美山町から海を渡った。少年義勇隊は昭和十二年「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が出て、昭和十三年に最初の募集が出された。以来、終戦まで、高等小学校と中学校から集めらわた八万六、五三〇名が満州へ送られた。少年達は集団生活をしながら開墾にあたった。野添の中田慶直氏(当時一四)は、崩壊寸前の満州国におくりこまれた最後の京都隊に所属した。満州に着くなりソ連参戦で責任者がすべて召集されて、命令系統も指揮者もないまま自力での敗退を命じられる。一四、一五の少年が死と向き合いながら、逃避行の中、同郷の友を葬り引き上げていくその悲惨な体験を『凍土の青春』という本にまとめている。
 東秀一氏の自分史『百姓記』では野添から出征し帰らなかった人たちへ次のような追慕の文を載せている。
    「隣の鹿之助さん。私は兄ちゃんと呼んでいたが、男前で優しい兄ちゃんであった。産業組合から深見隧道の府の工事事務所につとめられていた。結婚の前年には住居を新築されるなど甲斐性者でもあった。雨上がりの休みの日には魚つりによくつれて行ってもらった。兵隊としてはかなりの年輩であったからもう赤紙は来ないだろうと言われていたのだが、十八年の九月、前々年の一月に生まれた一粒種を残して壮途に立たれた。(中略)「鹿之助さえおったら」とことあるごとにこぼしておられたオタツおばさんの気持ちを思うと熱いものがこみあげてくる。昭和二十年六月二十七日ミャンマー(ビルマ)、トングーンモウイ街道七重後哩地点で戦死。
   東光一さん、桶職人として修業からの休暇の折に好きな魚とりによく川に入っておられた。褌一丁で引っ掛け(鮎取りの方法)を一生懸命の余り、後から大事な物が見え隠れしていたのを子供心に覚えている。昭和十九年二月六日、中部太平洋クェゼリン島で戦死。
  磯部忠之助さん、酒屋の忠ちゃんと呼んでいたが、立命の大学生だった頃、よく可愛がってもらった。出征前に蔵からスキーを出してきて、「坊主、留守中はこれを使え」と言って立派なスキーを貸して下さった。笑顔の優しい人であった。(中略)忠ちゃんは、昭和十九年七月十八日マリアナ群島サイパン島で戦死。
 口中吉太郎氏、吉ちゃんは頭のよく切れる剽軽な人だった。大工でさと姉の一つ上で深見隧道の仕事をしておられた頃よく家へ来られていた。(中略)昭和十九年十月二十五日フィリピン海域で戦死。
 口中政七さん、政ちゃんはスミ姉と東光一さん同様に同級生で、級会の写真に粋なマフラーをつけて一寸横向きに写っている姿が懐かしい。吉太郎さんの弟さんで家にもよく遊びに来られていた。昭和二十年一月四日台湾方面の海域で戦死。
 中田豊次郎さん、長兵衛の豊さん、室町の問屋で奉公されていて年季明けの頃に兄、慶太郎の発病で家計の支えと、病人の看護のために帰郷を余儀なくされて馴れない山林労働を喜治郎兄さんに連れられて間もない昭和十八年、臨時召集に依って応召、北島マンダカガソ山麓において腹部窄透性貫通銃創を受けて壮烈な戦死と聞く。
 中田清吉氏、清吉ちゃん、みんなはそう呼んでいた。私より二つ年上で背は小さい方だったか目のぱっちりとした人たった。努力家で一生懸命に勉強されていた姿が目に浮かぶ。学校卒業と同時に海軍養成所に入り、東汽船会社所属の柳栄丸の乗組員と同時に軍属の身分をもって、南方方面にて軍需物資輸送中に魚雷をうけて船と共に十六歳の命はフィリピン島付近の海底に消えたという。
  (中略)前途有望の上、その家にとって欠くことの出来ない人を失った両親、親族の方々のことを思うと胸が痛い。戦争は破壊と死と涙が残るだけであり、二度とこうしたことの起こらないことを念じて止まない。」
)

《交通》


《産業》


《姓氏》


旧・南岡村の主な歴史記録


『丹波志』
福智山城起元
福智或作地作知又作智挙用之タリ 茂正私按 元明帝和銅年中風土記ヲ作テ同六年高宮和也奉之 後散亡於乱世今六国之記残レリ 茂正丹波志当集録此残冊駿河国風土記ヲ見ルニ 曰富士山ノ文字 先代国史等ニ出文字ヲ載九種有 於其中福智ノ文字ヲ得 然ニ当城ハ天正年中明智光秀改縄築城ト云リ 信長公ヨリ光秀ニ丹波国ヲ賜ハリ江州坂本并丹州亀山ヲ居城ニス 平呑一国勢強大ニシテ国中ノ侍ヲ随ヘテ後独立ノ志有 依之福智ノ文字ヲ以為地名歟 今風土記ニ従テ此文字ヲ以ス
横山 往古宗部ノ地ナリ 横山又八幡山ト云
和名類従抄曰宗部郷也 今モ当所并木村南岡村堀村等ヲ云 古ハ一郷ト見タリ 城地トセシ 書ニテ有粉乱難用 日本諸城興廃禄ヲ見テ並考ニ天文ヲ初メ
荒木山城守義村 或行重トス 按ニ行重ハ大雲城ニ籠ルトアリ 掻上ノ築城住居ス
荒木義村ハ按丹陰記是亦元来波多野家ノ臣也 貞治年中山名叛逆ノ時随之 山名不達本意討死ス 其後細川右京大夫頼元ニ賜ノ当国 其子満元 子勝元 子高国 後入道常恒ト云於尾崎討死 迄官領ス
則八幡社ノ脇ナリ其後塩見大膳ト云人再築シテ居之 改姓シテ横山大膳ト云 此横山氏ハ元江州佐々木ノ末葉ト聞ク而今其家系ヲ見レハ信州源氏小笠原ノ後胤タリ元ヨリ横山本姓ナリ小笠原長康 一説ニ小笠原長康此国ニ来リ夫ヨリ宗部ニ住スト云リ 肥前国 松岳山住人ナリ ヨリ来住ス 其子信氏 小笠原肥前守ト云一説横山ニ住スト云リ 信氏十代ノ孫 主水正頼後改塩見大膳ト頼勝子頼氏又改横山大膳ト横山城ヲ築住 永禄年中隠居号功雲 堀村児ノ段ニ移ル永禄十四年卒ス在墓
頼氏子信房横山大膳ト云代々在此地テ氷上ノ波多野ニ仕フ 波多野家ヲ信長破和殺之依之横山信房織田信長ニ不随於是明智光秀ニ賜丹波国 光秀ハ江州坂本城主 則討入当国ヲ責之 当城没落ス 傍四人有 宗部伝記ニハ土師猪崎荒河等ノ支城ニ在此時明退 又大膳ニ男子二人在乳母共ニ立退七歳ノ男子ハ何鹿郡長砂ニ預ケ置長ク土民トナレリ 一人ハ二歳ニテ乳母抱之至大坂成長ノ後加賀利家ニ仕フ今大和守ト云家是ナリ此家ヨリ東部ノ簱下ニ出テ仕横山内記モ同
明智勢強鬼ケ城ニ籠波多野ノ旧臣等ヲ責討貳百人ヲ討取即下知シテ横山城ニハ属将四王天但馬守同又兵衛ヲ居置為加勢藤田権八御牧勘兵衛加治石見守ニ都合八百余人残シ奥丹波ノ為驚固 一説宗部伝記ニハ藤木権兵衛ヲ為城代ト見エタリ 然ルニ天正十年六月光秀叛逆シテ織田信長父子ヲ奉弑其後豊臣秀吉領国トナリ移当城于時天正十二申年也同年秀勝ヲ濃州大垣ノ城主トシテ移之


『福知山市史』
横山氏と塩見氏
地元に伝わる横山・塩見両系図によると、その出自は清和天皇から出て「源氏小笠原」とあるから、新羅三郎義光の子(武田)義清から出た「信濃源氏小笠原」よりわかれた「阿波小笠原」と同流となり、「阿波小笠原」から出た三好長慶と同族ということになる。『塩見系図』によると「源太信氏」が戦功により尊氏から天田郡を賜って以来、八代「頼勝」に至って塩見と称し、その子「頼氏」(横山)、弟「利勝」(塩見)に分かれたことになっている。しかし、これを裏付ける史料は皆無である。ただ丹波の守護職が山名から細川頼元に替った明徳から応永(一三九一~一三九四)にかけて守護代として、阿波小笠原の出自と思われる「小笠原成明」があり、その当時の小守護として「小笠原四郎次郎」(船井郡)・「小笠原修理亮」(多紀郡)・「小笠原正元」(多紀郡)、郡奉行には小笠原の一族と思われる「一宮掃部助」(多紀郡)などの記録がある。前述した政元の項で述べた二十四歳の政元を軟禁状態にして抗争した文明十二年(一四八○)の 「一宮宮内大輔」、その同族で内藤元貞と手を握ってこの一宮宮内大輔父子を殺したという「一宮賢長」なども、上述小笠原の流れと思われる。しかし何れにしても船井郡・多紀郡方面である。
次にこの「一宮騒動」からおよそ三十年程後の永正六年(一五○九)の「今林荘」(船井郡園部町)の記事に、「十二月十六日、本所分が石田弾正に押領されたので幕府に訴え、幕府はこの荘園を理由なく買得した塩見某に返却させた」とある。「今林荘」は当時、三条西実隆領となっていた。この「塩見某」もまた船井郡である。
前に詳細に触れた『康富記』にも、天田郡奉行堀孫二郎、土豪らしい吉良七郎などが記されているのみで、横山・塩見はみあたらない。また同じく前にふれたように『松尾大社文書〔社蔵文書〕・〔東家文書〕』にも、横山・塩見の名前は皆無である。雀部荘内での詳細な記録、文安五年(一四四八)の「雀部荘御料米御菜銭等引付」、明応五年(一四九六)の「雀部荘土田帳案」、永正四年(一五○七)の「御料米御菜銭等納引付」などにも、有力地下人として片岡・前田・安富・内田・西垣・堀などが散見するのみである。横山・塩見の名前はみあたらない。
そして突如として、すでに述べた高国晩年の『塩見家文書』十通(一五二一~一五三一)に出会うのである。以上の経過からみて横山・塩見氏の天田郡移住の上限は、文亀~永正年間(一五○一~一五○八)頃ではなかろうか。その急激な勃興は、守護-守護代の強力なバック・アップがあったにちがいないと思われる。とすると、「位田の乱」の首謀者として何鹿・天田一帯の荻野一族が、守護・守護代勢力に徹底的に弾圧された後に、十三年ぶり(明応二年〔一四九三〕)に守護代に返り咲いた内藤氏の後押しで、天田郡に入ったのではなかろうか。
文亀・永正年間より永禄年間までのおよそ数十年は、「佐々木旧記」(慶安二年己丑〔一六四九〕の奥書がある)の伝承「初代塩見石見守、二代塩見大膳、三代横山大膳(この「佐々木旧記」は横山・塩見氏の活躍した時代から八十年余り後の慶安二年の記録であるから、矛盾もあり、名前その他に不審な点も多い)」の三代にほぼ匹敵する。そしてこの三代を『塩見系図』に関連させると、「塩見之祖也」と注記のある「頼勝」-頼氏-信房(横山)と、「頼勝」-利勝-家利(塩見)の年代にあたろうか。しかしこの単純な類推も、比較的信憑性のある『塩見家文書』の中の宛名に書かれている人名と、『塩見系図』とは矛盾撞着点があり、不審な点も多い。他に筈巻の「塩見氏」は、大中臣氏(金山)の流れの伝承を持ち、中村の「塩見株」の由緒書には、播磨の赤松満祐の末高という伝えがあるなど、多様で不審な点が多い。
また横山氏と塩見氏との関係も、『丹波志』の編集された寛政六年(一七九四)頃の伝承として、「横山塩見大膳嫡子二代、大膳ハ妾ノ子也」とか、横山香雲(系図でいう頼氏)の母方が塩見とか、横山は塩見の聟とか、書きとめているが、これもまた不明な点が多い。また『塩見系図』によると頼勝は長子の頼氏を横山城に、次子の長員を奈賀山氏と名のらせ奈賀山城(荒河中山城)に、三子の利勝を猪崎城に、四子の長利をのらせ和久城に、五子の利明を牧氏と名のらせ牧城にそれぞれ配したという伝承は、この地方の当時の土豪たち、前にのべた「天田郡馬廻衆」をある程度網羅しているように思える。
永禄八年(一五六五)八月の赤井・内藤合戦以後の横山・塩見氏の動静についても、不分明な点が多い。『寛永諸家系図伝』には、 永禄十三年(一五七○)三月、信長から赤井忠家あての丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿)の安堵の朱印状を伝えている。また、『松尾大社文書』に、
   態以折紙令申候、仍西岡松尾社領雀部庄事近年御押領由候、
   彼社儀御朱印頂戴候、我等別而無如在事候、以御馳走如先
   社納頼入候、猶蜂須賀(小六正勝)可申入候間不能懇筆候、
    八月五日
                    羽柴筑前守(花押)
           赤井五郎殿  参
            御宿所
とある。書状は、信長の被官の秀吉らしく「頼入候」と丁寧な言葉づかいではあるが、押領している松尾社領丹波雀部荘をもと通りに返して、前々通り年貢が入るようにして欲しいという内容である。この秀吉書状は天正元年(一五七三)のものであるが、天正五年(一五七七)の九月二十日付の、赤井忠家の発給した「諸公事、臨時課役免除」の安堵状が、夜久野町の『妙竜寺文書』として残されている。
これらから推定して、永禄八年以後天田郡全域はほぼ赤井氏の傘下に入ったものと思われるが、「佐々木旧記」の語るように、この時点で横山・塩見氏は滅んだのであろうか。「是に依りて牧村蔵人(天田郡の土豪の一人であろうか)其の身は黒井在番して有りて」と綴る一方で、「佐々木旧記」は「三代目横山大膳天田郡一郡を討随へて赤井悪右衛門に討平さる」と伝えている。
塩見氏・横山氏の最後の動静は伝承以外に確証に乏しいが、上述『塩見系図』にある塩見大膳頼勝の四子で、和久氏を名乗ったと伝えられる和久左衛門大夫長利については、市内御霊神社に良質の文書が残されている。 『福知山市史 史料編一』にある『御霊神社
文書』の「明智光秀書状」である。
  和久左衛門大夫城破却之儀、去年申付之
  処、号寺家被残置、任雅意之条、昨日加
  成敗候、近年逆意之催不可有其隠候、就
  其彼一類并被官人其在所へ逃入之由之条、急度搦捕之可出候、下ゝ於隠置者、
  雖至後年問付次第、当在所可加成敗候、別而念を入尋出可有成敗候、猶上林紀
  伊守申候、恐ゝ謹言、
                 日向守
                   光秀(花押)
   六月廿一日
     出野左衛門助殿
     片 山 兵 内殿
          進之候
   尚以和久左息并上介肥前入道取逃候、其山中ヨリ外、別ニ可行方無之候、随分念を入、可被
   尋出候、以上、
大意は、「和久左衛門大夫の謀反の様子がはっきりしてきたので昨日処罰をした。ついては彼の一族や被官人たちがそちらの村々へ逃げかくれたようだから、見つけ次第取り押えてつぎ出すように。もしかりにかくまうようなことがあったら、わかり次第その村にきっと処罰を加えるであろう。」という厳しいものであり、追伸として具体的に、和久左衛門大夫の息子と肥前入道の遁走を知らせている。宛名人の「片山兵内」は、第二章の第一節で触れた和知の国人片山氏の末流で、「出野左衛門助」はその片山氏の支族であろう。和久城(茶臼山)に拠った和久左衛門大夫長利が、何鹿郡(綾部市)に攻め入って甲ヶ峯の山家城を手中にしたのは、永禄年間といわれる。『綾部市史 上巻』は、山家城の和久氏がその被官白波瀬肥前守と協力して内藤備前守宗勝を討ちとった戦に、いわゆる「和藤合戦」を伝えているが、すでに触れたように内藤宗勝の死は永禄八年(一五六五)の和久郷の戦いであり、和久氏の山家進出はそれ以後であろう。そして「天田郡馬廻衆」から離れて赤井、内藤合戦に戦功を立てた和久城主の和久氏が、赤井氏の何鹿郡侵入にともなって山家に移住したと推定するのがより妥当ではなかろうか。


『天田郡志資料』
無格社 朝暉神社  福知山旧城址天主閣址鎮座
 祭神 朽木植侯
朽木侯は寛文年間より明治維新に至るまで約二百余年間の城主たり、始め朽木氏六代出羽守の代に其祖霊を祀り、伝家の宝刀を以て御霊代とされ、城内に奉斎されたが其後十一代綱條侯の代、文政七年十一月十一日城南なる岡(今中庄の倉庫のある所)に奉紀し、立滅な神殿も出来朝暉神社と号せり、明治維新廃藩の際藩主爲綱侯は堀村小字下の地に邸宅を溝へられしにより、本社も其邸内に移された。これが明治六年三月である。爾来、同十年朽木旧藩主が東京へ引き移られた際、暫くは猶下地に在りしが、同十二年九月福知山町有志者より、天主閣址に奉移せんことを乞ひ且つ其維持方法をも立てゝ愈同十四年四月廿三日現今の地に遷座式を挙げられた。そして同年十月堀村なる九畝廿三歩の宅地と、田地三畝六歩こそ朽木家より同社に寄附されたのである。岡に鎮座の時代から春秋の祭日は能楽があり、時々角力など催され、朝暉丘に遷座後も舞台もあったが今は舞台もなく、能楽は勿論ないやうになって、祭日には只旧藩士の方々が集合して参拝されるのみである、まことに寂寥に感ずるが、神霊は如何に思し召さん。


『天田郡志資料』
歩兵第二十聯隊 創正明治三十一年 福知山町字天田
福知山聯隊区司令部  全小字伯耆丸下
(沿革) 明治廿一年五月廿一日大阪区司令部条例の制定に依り、福知山及小浜駐在所を廃し、管区を京都府南桑田、北桑田、船井、何鹿、天田、加佐、与謝、中、竹野、熊野、兵庫県美方、出石、養父、朝来、氷上、多紀、福井県大飯、遠敷、三方の各郡と定めて、第四師管第八旅管に属せらる。而して宮津大隊区司令部を宮津町に監視区長駐割所を但馬豊岡町、丹波園部町及丹後宮津町の三所に設置せらる。かくて明治二十三年五月十八日宮津大隊区を福知山大隊区と改称し仝年六月一日福知山町に移転。字菱崖吉田三右衛門宅の一部を仮事務所に充用す。翌二十四年町会の決議を以て水害避難所として字内記の官有地払下を得て庁舎新築仝年四月八日此所に移る、今の内記二丁目区裁判所前の東側電燈会社支店の地点で約五、六十坪の木造二階建てあった。越えて仝廿七年五月十日氷上郡柏原町に監視区長駐割所増設、同時に宮津駐割所を舞鶴町に移し、舞鶴監視区長駐割所と改称す。
かくて福知山大隊区司令部は明治廿九年四月一日条例改正の結果、福知山聯隊区司令部と改称、同日監視長の駐割所は廃せられた。翌三十年八月七日伯耆丸下新築庁舎に移転即ち現在に至る。翌三十一年四月一日管区改正に依り、城崎、美方両郡は鳥取聯隊区に属し兵庫県加東、多可の二郡を福知山聯隊区に属せらる。明治四十年十月一日又管区改正兵庫県氷上、多紀の二郡を篠山聯隊区に兵庫県加東、多可二郡を神戸聯隊区に福井県三方、遠敵、大飯二郡を敦賀聯隊区に京都府、北桑田、南桑田、船井、三郡を京都聯隊区に属せしめ、兵庫県城崎、美方二郡を烏取聯隊区より当聯隊区に属せられた。大正四年九月十三日陸軍管区表中改正あり、即ち兵庫県城崎、美方両郡は復た鳥取聯隊区に、京都府南桑田、北桑田、船井の三郡を京都聯隊区より兵庫県氷上郡を篠山聯隊区より福井県大飯郡を敦賀聯隊区より当管内に属せらる。大正九年八月九日管区改正せられ朝来、養父、出石の三郡は鳥取聯隊区管内に兵庫県多可郡は当聯隊区管内に編入。仝十四年五月一日当司令部は第十六師団に属し、従来の管区中氷上郡は神戸、多可郡は姫路、大飯郡は敦賀の各聯隊区に転属し、京都聯隊区より、葛野、乙訓の二郡当聯隊区に転属せらる。昭和六年四月一日葛野郡小野郷材、中川村を除く十ヶ町村は京都市へ編入のため京都聯隊区へ転出以て今日に至る。
歴代長官官氏名 …

福知山衛戍病院  小字伯耆丸上
明治三十年六月十九日、工兵第十大隊(旧曾我井村字堀)内に仮説、仝三十一年六月廿五日現在の地に新築病院竣成につき移
転。歴代院長は、…

福知山憲兵分隊  字内記三丁目
(沿革) 福知山憲兵分隊の前身たる憲兵屯所は明治廿九年九月一日の創設。当時大阪第四憲兵隊の管轄にして京都憲兵分隊支部に属せり。而して福知山町に京都憲兵警察区として寺屯所、中屯所の二ケ所を設置せらる。寺屯所は寺町久昌寺の南なるものと福知山警察署跡に、中屯所は広小路御霊神社々務所。但しこれは広小路拡張以前にして御霊神社も現今の上紺屋町通旧広小路西へ入る所なれば「名木御霊榎之址」の石標の辺なり。明治三十一年十一月二十九日第十憲兵隊設置管轄を第十師管の区域とし、福知川憲兵分隊もその下に属す。仝三十六年四月一日、分隊本部及憲兵屯所を廃し、分隊と改称。仝卅七年四月一日、福知山憲兵分隊廃止、福知川町憲兵分遣所と称し、舞鶴憲兵分隊に属す。仝四十年十月十日、第十憲兵隊を、姫路憲兵隊と改称につき舞鶴憲兵分隊下の福知山町分遣所廃止、福知山憲兵分隊を設置せらる。かくて大正十四年五月一日編成改正の結果、当分隊は京都憲兵隊に転属し以て今日に及べり。
歴代長官は、…


『福知山市史』
日清戦争後の軍備大拡張と歩兵第二十連隊の福知山移駐
三国干渉を受けた日、何れは日露開戦の避け難いことを確信していた参謀次長川上操六によって対露軍備大拡張の構想が練り上げられ、明治二十八年十一月の第九議会に軍備拡張案が上程された。その骨子は従来の七箇師団を倍増して十三箇師団とするほか騎兵・砲兵をそれぞれ二箇旅団新設するという雄大なものである。それにもまして海軍には、いわゆる六・六艦隊(戦艦六隻、一等巡洋艦六隻)を基幹とする大艦隊建設の構想があった。この夢のような陸海軍の大拡張が計画年度内の明治三十六年度に完遂されたことは、明治の奇跡と呼ぶはかない。日清戦争当時わずかに二十八隻五万七千トンに過ぎなかった海軍が、今や七十六隻二十五万八千トンに達し、ロシア極東艦隊と互角以上に戦える実力を身につけたのである。このために国民は文字通り苛斂誅求とも呼ぶべき重税に黙々と堪え忍んだのであった。いわば日本国民は飲まず食わずにこの大軍備を作り上げたといえよう。
歩兵第二十連隊福知山移駐
日清戦争に備えて第十五以下第二十四連隊までの十箇連隊が増設された際、歩兵第二十連隊が大阪に誕生したことは既に述べた。
さらに日露戦争必至と読んだ政府及び軍部が、日清戦争の直後から連隊の倍増を強行した結果、それぞれの連隊に在隊する兵士達の出身地域の中心地に、連隊が新設又は移駐されたのは自然の成行きであろう。
連隊の誘致と混乱
明治二十九年七月二十一日付の「日出新聞」の報道によれば、「最初福知山に一師団を置き、同師管に属する一旅団を姫路に設置さるるやの説ありしが、今聞くが如くなれば事実は顛動したるものの如し。即ち姫路に一師団を置き、福知山には同師管に属する旅団司令部を置き、一連隊を設置さるるならむと云えり。蓋し福知山の地は山岳囲繞して土地狭隘、殊更土師川の横断するありて、年々水害もあり、師団設置の地としては不適当なるに依れりと云う」と様々な風説が飛び交ったことを紹介している。何れにせよこの時期、福知山に軍事施設の置かれることは既定の事実であった。
明治二十九年七月十七日、陸軍監督長(後の陸軍省経理局長)野田豁通が福知山を訪れ、十八日兵営新設置を検分し、十九日京都へ戻り、その後西日本の連隊新設地を巡視する予定であったと「日出新聞」が報じている。野田監督長は十八日長田野練兵場を一覧、翌十九日には午前十時から同行の久宗建築部長・本部書記官及び随行の諸員とともに、内桶大隊区司令官・柳島天田郡長の案内で曽我井村の敷地を検分した。
師団設置、鉄道停車場設置の風説が流れたため、福知山周辺の地価が暴騰した。旧城本丸などは坪数わずか千二百坪、当初四百円(坪当三十三銭余)に過ぎなかったが、たちまち八百円になり、近年大阪の某が一万円で買入れたと噂された。付近の土地も坪三円から四、五円に跳ね上った。これは旧城本丸に司令部が置かれ、近辺の地所が買収になるという噂から起ったことで、こんな風では陸軍の予算価格ではとても買収出来ないところから、別に候補地を求め、城南の地に変更されたという。城南の土地も高騰したが、柳島郡長及び吉田・山口等の有力者や同地の有志が団結して尽力した結果、坪七十銭以内で買収することが出来た。右地所は面積四十七町歩余(十四万一千坪)もあり、耕田・畑地・原野を含んでいたが、その内二十七町六反(八万二千八百坪)は地元からの献納地である。献納地と買収地を合せて平均すれば、地価一坪当り三十銭になり、元来の地価と均しい。すなわち同地方の土地騰貴の分を地方が献納する結果になった。「このような経過は陸軍省の勧奨によるものか」という新聞記者の質問に対して、野田は「絶対にそのようなことはあり得ない。その地方に土地献納の余裕があるか、又はその土地の繁栄に合致するか勘案して許可するのであって、一時の情熱にかられて利害を無視するような動きに対しては、むしろ勧諭して思い止まらしめている位である」と答弁した後、巡回中の地方のうち軍隊設置に特に熱心なのは敦賀と福知山であるとつけ加えた。
同監督長は曽我井村検分の後、福知山大隊区司令部に立寄り、午後は同町の倶楽部に同町及び曽我井村の町会議員並びに土地の有力者を召集して一場の講話を行った。「軍隊の設置についての尽力、土地の献納その他様々な御好意は、諸氏の報国の丹心に出ることは言うまでもないが、又一面これによって土地の繁栄を願われるのも当然のことであろう。そこで老婆心ながら二言御忠告申上げたい。軍隊が設置になっても、あらかじめ軍需に応ずる諸般の準備を充分にして置かねは、当然この土地の人々が受けるべき利益を、物慣れた大阪人やその他の地方の巧者に壟断される恐れがある。故に当地の有志は大阪もしくは姫路等の経験豊富な地方について充分調査研究し準備を怠らぬよう特に注意ありたい。これは野田が一個人の資格をもって特に申上げて置く云々」と親切に申述べた。
一方兵営設置の中心地になった曽我井村は大変であった。『明治二十九年度曽我井村事務報告書』によれば、「兵営設置は地方に於ける至大至重の非常事件にして、百般の諸業に隆替の其影響を期せんがため、村民は数万坪の土地を献納し、其設置せられんことを希望したり。一に本村は其中心の姿にて、尤も至要の地位に立てり。而して村民の意志は呆然其方針に迷うの有様にて、加うるに当村に兵営設置の報諸方に伝るや、早くも利害関係を及ぼさざる他府県人の投機者流は、古来末曽有の高価をもって多くの土地の買占めをなし、敷地買収上不当の価格を申立つる等、是等土地新所有者に対する交渉にて、或は大阪或は神戸姫路に数日出張、且又往復文書をなすと雖も、地価の暴騰せるにも拘らず政府においては予定価格の制限も有之、旁耕作地の混入しあれば、貧民等の生業を失わんことを恐れ、往々嫌悪する老抔もあるに、幾分の低価格を以て応ぜしめざるを得ず非常の困難を極め、又一方兵営設置における諸般の計画準備、買収地の測量及取調その他諸官衙に対する交渉等昼夜別なく、五月中旬より八月初旬に至る間は最も事務の多忙を来し、殆んど寝食の暇なきが如し」と悲鳴を上げている。兵営設置のほかに鉄道敷設も平行したため、土地の移動、分割の手続きにも追回されて、村役場は破綻の状況に追込まれた。
加えて、八月下旬古今未曽有の大水害に襲われ、これの救済、復旧に目の回るような日々であった。それでも超人的な吏員の働きでよくこの難局を切抜け、三十年六月には工兵第十大隊、三十一年八月には歩兵第二十連隊、同九月第二十旅団司令部の移駐を成功させ、三十二年七月には大阪・福知山間を結ぶ阪鶴鉄道の営業開始にまで漕ぎつけたのであった。
歩兵第二十連隊歓迎の実況
明治三十一年八月新築なった兵舎に移駐する歩兵第二十連隊の将兵は八月二十七日大阪を発足して、三田・篠山・竹田等に各一泊し、いよいよ三十日午前六時竹田を発し、同日七時五十分福知山の新営舎に到着した。下岡京都府参事官、有吉兵庫県参事官、秦福井県参事官、何れも連隊管区関係府県の知事代理、その他属官、各郡長、天田郡・何鹿郡赤十字会員、天田郡尚武会員、中部高等小学校職員生徒等は塩津峠まで、その他各町村名誉職(町村長)、小学校職員生徒等は沿道に整列して歓迎し、又一般人民は道筋に出迎える者垣根の如くであった。軍隊が営門に入るのを待ち、知事代理・各郡長・各町村名誉職等は営内に赴き、師岡連隊長に向って歓迎の辞を述べ、師岡連隊長は部下一同に代って答辞を述べ、終って一同退散した。当日福知山町は勿論、沿道の村落各戸は何れも国旗・球燈(ほおずき提灯)を吊し、町村界には緑門(アーチ)を設け、軍隊の到着を合図に福知山、曽我井村において祝砲及び煙火の打ち上げあり。天田郡からは清酒十樽、牛教頭を同隊に贈り、その他二十連隊管下からも沢山の贈り物があった。
午後両丹の各郡長は今度赴任した郡出身の下士卒をそれぞれに慰問するところがあった。以上は当日の「日出新聞」の記事そのままであるが、文字通りの熱烈歓迎ぶりが偲ばれる。逞しく鍛えられた凛々しい軍装の吾子兄弟を迎える人々は、いかばかり誇らしく頼もしく心からの歓迎に我を忘れたことであろう。…


『福知山・綾部の歴史』
栄光と悲惨の軌跡
●歩兵第二〇連隊
日清戦争に備えて歩兵連隊が倍増された際、明治二〇年(一八八七)に大阪で誕生した第二〇連隊は大阪第四師団に属した。日清戦争では、最新式装備を誇る近衛師団と第四師団は最後まで内地に温存され、講和会議後、はじめて第四師団は占領地の保障占領に、近衛師団は台湾鎮定に出動するにとどまった。
日清戦争直後から日露の開戦を予測した政府は、陸海軍の大拡張に着手すると共に、連隊の地方分散も進めた。三丹(丹波・丹後・但馬)・若狭の健児たちで構成されていた第二〇連隊の誘致に福知山町が懸命の努力を傾けたのは当然である。その甲斐あって明治三一年八月二七日、徒歩で大阪を出発した将兵は三田、篠山、竹田に各一泊して、九月三日朝、沿道を埋める郷土の人びとの歓呼の声に迎えられ、歩武堂々新築の兵舎に到着した。以来第二〇連隊は、郷土の青年たちの錬成の場となり、青春の思い出、心の故郷であり続けた。
明治三七年二月三日、日露開戦と同時に第一軍は鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸、東西に分かれて遼陽を目指して進撃を開始した。当時二〇連隊の所属する姫路第一〇師団は、両軍の間隙を補強するため中間の大孤山に上陸、所在の敵を蹴散らしつつ同じく遼陽に向った。近代工学の粋を尽くして構築された難攻不落の遼陽城に、ロシア軍は二三万の大軍を結集させ、この地で日本軍を一挙に全滅させようと自信満々と待構えていた。この遼陽城の正面攻撃を担当したのが第二軍と第四軍(第一〇師団、第五師団その他)である。日露両軍合わせて四〇万を超えるこの大会戦は、規模やその苛烈さにおいて世界戦史上有数であり、世界の注目を集めた。百雷一時に落ちるかと思われる砲撃戦下の戦闘は八月二九日に始まり、死傷者が続出し壮烈悲惨言語に絶した。第二〇連隊も連隊長はじめ将校下士次々と倒され、某中隊などは、上等兵が中隊の指揮をとって城内に突入したという。兵力を半分失ないながらも遼陽城に先頭切って突入した第二〇連隊の勇名は広く世界に伝えられ、以後は名誉連隊と呼ばれるようになった。下って昭和六年(一九三一)の満州事変の前後二回四年間、第二〇連隊は満州警備の任に就き、実戦による猛訓練を重ねて精強無比の部隊に仕上げられた。日中戦争では上海上陸以来の苦戦に耐え、またもや南京城中山門一番乗りを果たした。同一四年に一時凱旋、同一六年にフィリピン攻略に参加しマニラを占領したが、参謀部の認識不足による無謀拙劣な作戦の犠牲となり、バターン半島で壊滅した。その後補充によって再生し、フィリピンの警備に当たっていたが、昭和二〇年、またもや補給も援助もないレイテ島で敵の大軍に包囲され、勇戦敢闘の効もなく、ついに軍旗も焼却した上、永遠に姿を消したと伝えられる。
今日福知山市南郊の平和墓地に静かに眠る一万八、六六八柱の郷土の英霊は、歩兵第二〇連隊の栄光と悲惨をいかにかえりみ、この国の将来をいかに案じているのであろうか。(根本惟明)






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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