丹後の地名

国分(こくぶん)
宮津市国分


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京都府宮津市国分

京都府与謝郡府中村国分


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郷土資料館
国分寺址

国分の概要


国分寺跡の礎石から天橋立をのぞむ



市の北部で、天橋立の西側、南は阿蘇海に臨む、中央を南流する大橋川が注ぐ。丹後国分寺跡や府立丹後郷土資料館などがあり、成相寺西谷登道の口になる。西は与謝野町男山。地名の由来は古代丹後国分寺があったことによる。
国分村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長検地郷村帳に「府中郷之内」として「国分寺村」とみえる。慶長7年(1602)の府中郷検地帳では「こくふ」また「こくふん」と記す。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
国分は、明治22年〜現在の大字名。はじめ府中村、昭和29年からは宮津市の大字。同45年府立丹後郷士資料館開設。

《国分の人口・世帯数》304・180

《主な社寺など》
丹後国分寺跡。
現地の案内板に、国分寺跡の案内板
史跡 丹彼国分寺跡

天平13年(741)3月、聖武天皇は詔して天下諸国に僧寺、尼寺を造らせ、それぞれ金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とされた。これが全国一斉に行なわれたかどうか疑わしいか、おそらく地方諸国の経済制度の整備と併行して、逐次建立されたものであろう。
 この一帯は「丹後国分寺跡」として、昭和5年10月史跡に指定され、昭和38年買上げ整地して保存されることとなった。指定地内には、中門の礎石2個、金堂の礎石34個、塔の礎石16個か現存しているが、創建当時のものではない。創建年代は明らかでないが、出土しだ古瓦からみて、奈良時代末頃であろう。その後幾度かの興亡を経て、建武元年(1334年)に金堂が再興され、また室町の禅僧雪舟筆「天橋立図」に描かれた伽藍は、天文11年(1543年)兵火焼失前を偲ばせる。現存の礎石群はこの絵の配置と一致している。未調査のため創建時の寺域や伽藍配置は明かでない。
昭和48年3月 京都府教育委員会

約1万2、000uの地内には、金堂・塔・門などの礎石が残る。現国分寺国史跡は丹後国分寺跡の北にあたる。古代の国分寺は行基の開基で、本尊金銅薬師は聖武天皇の作といい、寺宝に建武再建縁起・行道面・鬼の仮面などがある。鬼石は国分寺に泊まった2鬼が帰るときに投げたという石で手の跡がある。


真言宗護国山国分寺
今の国分寺




護国山國分寺
 府中村字国分にあり、本尊薬師如来行基菩薩の開基にて中興開山宣基上人といふ。聖武天皇の朝天平年中諸国に國分寺を置く蓋し當寺は其一なり、本尊胎内金銅佛は光明皇后の御作なりと言傳へ開基六百餘年の後、盗難に罹り京都にて打壊かんとせしとき其槌音丹後に帰りたしといふに似たりとて驚いて中止せし由官庁の耳に入り遂に盗賊捕はれ本尊は當寺に帰りしと、此事後醍醐天皇の叡聞に達し宣基上人に勅して伽藍を再興せしめ給ふとしふ、その建武再建勅使参向に関する古文書今尚ほ存し當時の状勢を窺ふべき屈竟の資料なり、寺宝として鬼の仮面二個あり、天和年中洪水の爲めに諸堂損傷し寺後の山鼻に移したるが今の国分寺なり、旧国分寺金堂、塔、山門礎石等あるも社寺趾の条に譲る。
(『与謝郡誌』)

護国山 国分寺        在與謝郡府中国分村
真言宗古義派 成相寺末
  本尊金銅薬師如来  開山行基菩薩
寺記曰。人皇四十五代聖武天皇天平十三年建立ニシテ而行基菩薩之草創也云々。
天橋記曰、凡毎州国分寺を置るゝ事天平九年なり、相傳ふ当寺本尊を盗人奪ひ去て他国に往き鎚を以て砕かんとす、其鎚の音丹後国分に帰らんと聞ゆ、盗人驚て返し奉るとなり今に鎚の痕あり。嘉歴年中宣基上人再興す上人は東寺の亮明なりと云、供養法事の図あり、勅使など有りけるよし傳へ侍る、今田間に古の伽藍柱礎の跡残れり。

鬼面二ツ  外ニ 上人面一 毘沙門面一
古記曰、当寺に一角の鬼の面二あり、常は秘して猥りに開かず、是を出す時は究めて風雨俄に起るなり、夏日旱天には郷民此面を仰ぎ雨乞を爲すに大雨必ず降るなり、毎年疋月十三日於二寺内一開帳す。相傳へて云ふ宣基上人の時嘉暦三年十二月二日何国ともなく老人夫婦来りて上人に仕ふ、老夫は山野に出て耕作薪水を供す老婦は内に在て食饌を供す夫婦昼夜奉事する事数月也、上人怪みて毎々其来所を問へども更に語らず。一日土人他に行かんとして留守を夫婦に属し、明日ならでは帰るまじとて出行しに、其夜夫婦の者上人の留守を安じて互に酒を酌て覚へず酔臥す、上人は思の外に用事を早く仕舞て他に一宿す可き所を其夜に直に帰り、方丈に入て見れば夫婦酔臥してあり、灯の影に見れば其顔色異形の相を顕らはす人間の顔にあらず、上人大に驚き怪むし雖彼等が日頃の労事を思て是を咎めず、翌朝に至て夫婦の者上人夜中に帰来て、酔臥の貌を見し事を恥けるにや、二人共に啼泣して暇を乞ひ永く去らん事を願ふ、上人懇に止むれども留らず、其夜顕わせし二人の異相を手自ら彫刻して上人に奉り、二人共に辞し去て行方を知らず、時に嘉暦四年正月廿三日なりとぞ、今の什物の面即ち之れなり。

鬼石 堂寺の近辺にあり、右の両鬼立去る時に擲し石なりと俗に云傳ふ、鬼の手痕とてくぼみあり。
(『宮津府志』)

毘沙門天面 一面 字国分 国分寺
 木造彩色 長三二・五センチ
 平安時代(十二世紀)  宮津市指定文化財
 仏教の法会の際には、仏の世界の諸菩薩、諸天に扮し、礼拝供養のために、堂塔や仏像のまわりを歩き巡る儀式である行道(ぎょうどう)が行われることがあった。そのために用いられるのが行道面である。
 この面は、忿怒形で、天冠上に火炎状の文様の中に宝珠を表しており、毘沙門天と考えられ、十二天面の一部であったかと考えられる。建武元年(一三三四)の丹後国分寺再興を記録した『再興縁起』に行道の記録があり、これがその際にも用いられたことが推定される。
 ヒノキの一材から彫り出され、比較的面奥の浅い形制をとっている。仏像と同様の表現をとるが、忿怒の表情は誇張を抑え、静かな威厳を保っている。また内部のモデリングに微妙な抑揚をもち、頬の膨らんだ表現には力強さがある。天冠台や髪際の彫り口は精緻で、全体に的確な彫技を示し、優れた作域を示している。
 この面は、裏面に「金光明寺・修正□□」の墨書があり、これが追記であることから、ある時期から年初の除災法会である修正会(しゅじょうえ)で用いられたことが知られる。法隆寺西円堂の修二会(しゅにえ)では、三鬼が暴れているところに、毘沙門天が登場してこれらを追い払うという追儺(ついな)の例があり、これもそのような用い方をされたものであろう。

追儺面  三面  字国分  国分寺
 木造彩色 長 三五・八五 二九・八 二三・五センチ
 室町時代(十五世紀) 宮津市指定文化財
 当寺の修正会に用いられていたと考えられる面で、男、女の鬼面と宣基上人と伝える面とからなる。鬼面二面は、一角を含んで一材(材不明)から厚手に彫出され、白で下地を作ったのち、彩色を施していたものとみられ、父鬼に一部朱色が残っている。太い鋸歯形の眉(先端欠失)や、中央に穿孔のある球形に表された目、大きな鼻の作り出す相貌には誇張が目立っているが、下唇を噛んだり、口をへしめたりした表情には諧謔味も感じられる。口の両脇に穿孔があり、可動式の牙が取り付けられていたかとも考えられるが、類例が知られずその意味は不明である。
全体に彫技に優れ、鼻から口にかけての滑らかな彫り口にはみるべきものがある。
 伝宣基上人面も一材から彫り出されるが、こちらは幾分薄手である。この面も伝承にかかわらず、鬼神系の面とみられ、細まった顎や開けた口の作り出す表情には、一種の不気味さがある。鬼面と一具の制作ではないであろうが、これも追儺面と考えられる。これらの制作時期は、同類の作品との比較から室町時代かと考えられるが、全体の整った形態には古風なところがあり、国分寺復興の南北朝期にさかのぼる可能性を保留しておきたい。
寺蔵の『国分寺略縁起』の紙背の『当寺之霊宝鬼面之起』は、嘉暦三年(一三二八)十二月に宣基上人のもとに仏道修行に訪れた二人の男(実は鬼)が、その本形を現すことを請う上人に対し、残して行ったものと伝えている。
その伝説はともかく、法隆寺西円堂には、毘沙門天が三鬼を追う追儺の例があり、これらは中世に南都との関係が深かった国分寺の追儺の行事を示す遺品として貴重であろう。
(『宮津市史』)

丹後郷土資料館。


《交通》
国道178号線

《産業》



国分の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎国分村(中野の次)
【精進社】(未考)
【護国山国分寺】(真言宗)
護国山国分寺は行基菩薩の開基なり、中興開山を宜基上人といふ、天平年中毎州国分寺を置く蓋護国山は其一なり。本尊金銅薬師は聖武皇帝の御作なり、丈六薬師の腹内に安置奉れり、其丈六薬師の御面像は光明皇后の御作なりと伝ふ、是より凡六百余年の後其金銅薬師を盗むものあり、携へて山城の国に至る、後に其もの数々の怪異の事に逢ふ、よって之を路傍に捨つ、於是山城の国司内大臣正二位藤原朝臣公賢霊夢に感じ其尊像を拾ひ得たり、よって之を丹後国司藤原朝臣忠助に送り来る、丹後国司藤原朝臣忠助之をただすに其霊夢とて符合せり、故を以て其尊像再び国分寺に置かる、後醍醐天皇是事を聞き玉ひ乃ち宜基上人に勅して伽藍を再建せしむ。嘉暦二年戊辰五月八日経始の式左の如。
供養大願主 国司内大臣正二位藤原朝臣公賢
勅使     正五位下行内匠頭藤原朝臣光達
税部旦那  正六位下行権介 藤原朝臣忠助
導師           沙門宜基
咒願師          沙門妙円
衆僧六十七人其他工匠等審に其名を題す、今これを略す、建武元年落成の式亦初の如し。
蔵宝
一、鬼形の仮面 二(出図)
寺記曰。嘉暦三年十二月二月一老夫老婆を携へ偶然として寺に来り投宿を乞ふ、元より何の人なるを知らず蓋廻国の者と見へたり、宜基上人其老て寒気に向ひ猶搓行するを憐み懇に之を留る、遂に寺に留る凡四五十日其人となり皆質朴にしてよく寺の助となる、以是寺檀共に是を喜びぬ。一日上人留守を老夫に托して他に出たり、是夜は為に帰らじと約せしが、思の外早く用を済し、いまだ夜半にならざる前寺に帰る。老人夫婦は既に熟睡して会て上人の帰るを知らず、其顔色蓋人間にあらず各一角あり、上人之を見て怪むといへども敢て其熟睡を覚さず、ひそかに室に入りしが翌朝に至て二人のもの別を告げ将に去らんとす。上人強て之を留れど肯せず、其夜現せし二人の異相を自から刻み上人に捧げて去る。今ある所の鬼形の仮面是なり。毎年正月十三日は鬼面開帳の日なり、常には人に示さず、之を出せば必ず雨降るよって請雨に是を用ゆ極めて験ありといふ。
【鬼石】(海辺)
鬼石といふは石の状鬼に似たりといふにあらず、鬼の持ちたる石といふ所以なり、蓋国分寺に留りし二鬼寺より帰り去る時此石を持てなげたりとて、其手の跡今に存すと語り伝ふ。
 【付録】(地主荒神、八大荒神)

『丹後の宮津』
国分寺址(指定史蹟)
 妙立寺からでて足をさらに岩滝の方へむけると、やがて小松部落があり、目的地の国分寺址はその先の国分部落である。ところでこの小松部落は、丹後が平家の所領当時、その支配所を置いたところと伝え、小松姓を名のるここの人々は、小松内大臣重盛の流れだといっているが、それはともかくとして、ここの「天神社」が重盛によって祭られたといい、あるいはかっての「鳳凰山安国寺」遺跡、また「如意山宝林寺」址もあるといった、数々の遺跡をもつ部落である。が、とにかく足を国分部落へむけて目的の「国分寺址」をみると、畑と草むらに往古の礎石が正しくならび、その礎石の上に講堂や金堂の建ちならぶ、そのありし日の国分寺を想うとき、一千二百年の歴史が走馬灯のように目にうかんでくるのである。かりに建武再建の事実があったとしても、今日すでに現存せぬ堂塔の興廃は、むしろこの造された礎石によって清算され、天平の護国山国分寺が、そのかがやくいらかを、景勝「あまのはしだて」に相対して、そびえたたせる姿を想像するに少しも困難でない。またそれなればこそ、国家もこの遣址を昭和五年十月史蹟と指定したのであった。ではそれで、この遣址をこのままにしておいてよいものかどうか、地方人のふかい反省と、整備への努力を期待せざるをえない。なおここには現在も同名の真言宗・国分寺があるが、天平の国分寺をうけついだとはいっても、ほとんど資料もなく、わずかに二三を保存して、往古をしのぶばかりである。



国分の小字名


国分
光明寺 カナヱズ 西山 石塚 石塚上 岡田 ハカノヲテ 尾谷口 小峠 シル谷 シル谷通ノ下 大口谷 白石 枝谷 ヲテブロ 不路ケ谷 不呂ケ谷 笹田 奥古まがり 口古まがり 宮ケ成 長谷 寿げ原 かなけ田 ホウジ 矢蔵谷口 清水谷 矢蔵谷 フロヤ フロヤ谷口 五反田 畔田 ボコ 穴田 ボコ谷口 堤谷 角田 長田浜 長田 大橋 横田 渡辺 立田 清水 河原 中セジ 宮ケ谷口 古茂谷口 はかの段 向土石 天王山 松原 鬼石 西大門 下河原 石堂 ヒガン田 ひがん田浜 川尻 深田 登へ 本堂屋敷 どへの上 寺大門東 寺大門 寺ノ下 長老防 三谷口 三谷 惣田 亀ケ□ 狼谷 大成 峠 滝ノ水 片山 谷ノ奥 久保田 下地 ぶつ 下タ河 せり田 井尻 縄手下 東大門 フロヤ鼻 西フロヤ 河原 国分谷口 大畑ケ 寿ケ原 椿原 土石 墓ノ段下 大伊根 中どへ 屋敷後 屋敷東 下国分 下国分丸畑 屋敷ノ奥 屋敷ノ上 荒神西 下タ地 薮ノ中 どへ 大町切 かせわ畑 奥三谷 亀ケ首 鳥ケ谷 峠尻 上地 辻 屋敷ノ前 家ノ下 分ケ畑ケ 道淵 ボコ谷 尾谷 イツパイ水 シル谷奥 足中田 小峠後 長畑 笹田谷 鎌谷ロ カマ谷 鎌谷 高づ久 コマガリ 不呂ケ谷口 三所田 志よじや 長谷口 多ケ原 こ茂谷 ハカノ段 地王薮 ドヱ 鬼池 はかの前 はかの前 寺ノ後 三谷奥 満名ケ谷 杉山ノ下 半ケ谷 峠尾 中尾谷 宮ケ谷尾 国分谷奥 荒神 滝水 尾谷 一盃水 ジル谷小谷 さゝ田 こまがり 東屋西




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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