丹後の地名

西国三十三箇所観音霊場第二十九番札所

青葉山松尾寺(まつおでら)
舞鶴市松尾


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京都府舞鶴市松尾・松尾寺

京都府加佐郡志楽村松尾・松尾寺


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松尾寺の概要


《青葉山松尾寺の概要》


松尾寺は青葉山の南側中腹に位置する。西国33ヵ所霊場の29番札所として全国的によく知られている。舞鶴あたりではマツノウデラとかマツノウサンとも呼ばれる。
二十九番札所・青葉山松尾寺


 松尾寺は慶雲〜和銅年間の創建で、関山は威光と伝える。山号青葉山、真言宗醍醐派。本尊馬頭観世音菩薩。33ヵ所ではここが唯一の馬頭観世音菩薩が本尊。怖い恐ろしい憤怒の形相の秘仏(マア可愛いい笑っていらっしゃ、と見る人もあるが−)。77年に一度のご開帳時にしか見ることはできない。こんな案内がたてられている


−秘仏本尊馬頭観音が開扉−
今年平成20年がちょうどその年に当たり10月1日より1年間公開されている、ぜひ見ておこう。
彼こそが玖賀耳御笠だと私は考えたりもするが、それはどうかわからない。伝説によればここの観音は古木より作られたという。お隣の多禰寺七仏薬師と同じで世界樹の信仰や森と水の信仰とも繋がる。馬は何を運んだものであろうか。


↑真ん中に居られるのだが見えるかな−。見えないだろうな。


↓松尾寺の秘仏を勝手に写したりするのは本当はよろしくないのだろうが、本堂の外から写すのだし、御開帳の年でもあるし、あまり秘密にしていても77年ぶりともなる御開帳の意味もなくなるかも知れないし−、とまあ勝手な理屈をつけてお許しを願う。
菊の花
↓厨子までは遠く、しかも中は暗いのでアップは無理かと思っていたのだが、何とか写っている。(この1年間だけここに置かせてもらいます。秘仏が閉められるときこれらの写真も削除します。)
(アレ!と思ったのだが、口が開いた阿形の仏像である。秘仏とされるわりには、この仏像の写真はよく見られ、西国巡礼めぐりの案内書や当サイト以外のweb上でもけっこう掲載されているが、それらはすべて口を閉じた吽形で、頭の上の馬頭もよく見えないもの。ああした画像は今は宝物殿に展示されているもので、この本物のご本尊とは異なるのではなかろうか。いかにも見てきたように書かれている案内書もあるが、それらはこの本物ではないと思われる。こちらの本物の方がずっていいと私は思ったのであった。宝物殿に展示されている仏像は「木造漆箔 本尊馬頭観世音像 御前立」と呼ばれる江戸初期の像である。ご本尊も金属製ではないので、1300年の間の何代目かのご本尊でなかろうかと思われる。)
この一年はそんなまたとはない機会ですので、ぜひお参りを!ご開帳は平成21年10月23日までです。
菊の花
ご開帳が終わりました。次は2085年です。どうかそれまでお元気で、その折りにはぜひお詣り下さい。

松尾寺は開創1.300年でもあり、文化財収納庫(宝物殿)も新築され、国宝・絹本着色普賢延命像などあちこちの博物館などに分散していたのが、100年ぶりに里帰りして展示されている。これは11月3日まで一般公開されている(800円)(たぶん春にもまた公開されよう)。高浜町からの道路も拡幅されてよくなった、などといろいろお目出度続きでご同慶のいたり。
(バスで来られる場合はこの新道を高浜から入られた方がいいかも)

さて、
松尾寺山門
唐僧・威光上人が、唐の馬耳山に似た青葉山の稜線をみて馬頭観音を感得し開山したともいわれるし、また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、一浮木で助かった。その木が馬頭観音であったので、為光がわが国の馬頭観音の総本地と称される本尊を造像したとも伝わる。
威光上人は普通はイコウと読んでいるが、イカリとも読めそうだし、為光もタメミツとも読めるが、恐らくイカリと読むのではなかろうか、両者ともたぶんイカリではなかろうか。表記の漢字こそ違うが奈良県吉野郡川上村の井光(いかり)と同じ過去を持つものであろうか、井光は碇とも書いたようである。松尾寺本堂下石段
松尾寺はイカリ(威光・為光)さんが、鉱山、水銀と海に関係したイカリの人々の寺として誕生したものではなかろうか。唐からの渡来僧となっているが、中国の唐ではなく加羅国(加耶国。このころなら新羅)かも知れない。あるいは真言宗の教義と関係するのかも知れない。

脱線すれば、柳田国男の「神樹編」に、
 〈 紀州で有名な紀三井寺では、爲光上人大般若書写の功成らんとするとき龍女化現の奇異があった。其時の約により毎年七月九日の夜、本堂の艮五町ばかり千手谷の松間に龍燈が現はれたと云ふ(続風土記十五)。  〉 

威光山は志楽の田中にもある。「阿良須神社誌」に、
 〈 …魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月栗(しわすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも月光とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち幽契によりて、魚井の大神(豊受大神)が降臨し賜えるなり。この時、天火明命出でて大神を田中の威光山に迎え、天道姫命をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜いき。  〉 
鈴鹿神社の裏山の姿の美しい山である。


松尾寺は丹後なのか若狭なのか所属が争われた過去もある、若狭松尾寺と呼ばれたともいい、最近でも「若狭 松尾寺」で検索をかけてくる人も見られ、境内では若狭弁がよく聞かれる。そんなちょうど両国の国境に位置していて、お寺のすぐ近くに国境があるという。松尾寺の歴史には若狭というのか北陸の文化もかなり強く見られる。
松尾寺本堂

↓初夏の29番札所・青葉山松尾寺の本堂前。お詣りの人々もチラホラと見受けられた。77年に1度のご本尊のご開帳で、その秘仏・馬頭観音のすぐ前まで行かせて貰えます。ぜひお詣りされたらどうでしょう。


松尾寺の中世は、寺伝によれば鳥羽法皇・美福門院の崇敬厚く、時の惟尊上人に勅して伽藍および一五宇の坊舎を再建せしめたといい、封戸・田地を付したという。
 前天台座主行尊の三十三所巡礼手中記(寺門伝記補録)に一六番松尾寺が許され、久安6年(1150)の長谷僧正の参詣次第(塵添がい・嚢鈔)に二八番としてみえるなど、すでに平安末期には観音霊場の一として知られていたという。以降、観音信仰の高まりのなかで、第二八番成相寺(宮津市)とともに丹後の観音霊場として衆庶の信仰を集めた。中世末から近世初期にかけての様相は寺蔵の松尾寺参詣曼荼羅によってうかがわれる。これには本堂を中心とした七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、中世庶民信仰と風俗を物語るものとして貴重といわれる。
本堂内(仏舞は写真の一番右手で行われる)
中世末期の連歌師紹巴が永禄12年(1569)閏5月京都を出発し7月に帰洛した天橋立遊覧の旅行記「天橋立紀行」6月20日頃の条に、「うかびたる雲を見より厳き、阿弥陀の国を願ひ行なへ、松尾をおがみて、志楽の地中と云所より航せんとおもへるに」と記されるそうである。
織田信長の兵火によって一山ことごとく灰燼に帰したというが、近世は田辺歴代城主の外護を受け、天正9年(1581)細川藤孝により本堂が改築、慶長7年(1602)京極高知により修復された。その後寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の両度の火災で本堂などを焼失し、享保15年(1730)牧野英成により大修復されたと伝えている。
大銀杏の樹(松尾寺境内)
「日本九峰修行日記」によれば、文化11年(1814)8月17日に青葉山を訪れた修験者・野田泉光院は「雨天。市場宿出立、朝辰の上刻。青葉山と云ふに赴く、市場より二里、麓より十三丁登る、廿九番西国巡礼札所納経。本堂未申向、六間に十間、仁王門あり、本坊真言宗、当山派修験寺数多し、田辺の袈裟頭支配にあらず、因て松尾年番中とあり」と記しているという。
舞鶴では唯一の国宝になる普賢延命像一幅(藤原時代、絹本着色、縦139センチ、横67センチ)や、重要文化財の孔雀明王像一幅(鎌倉時代、絹本着色、縦140センチ、横67七センチ)、法華蔓茶羅図一幅(鎌倉時代、絹本著色、縦78センチ、横68センチ)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、快慶作、寄木漆箔、像高85センチ)など多数の仏像文化財を藏する。
舞鶴市指定文化財に終南山里荼羅、松尾寺伽藍落慶式古図(松尾寺参詣曼荼羅)一幅、地蔵菩薩坐像がある。
松尾寺
松尾寺では現在も毎年卯月8日(現5月8日)には仏舞(ほとけまい)(国重要無形民俗文化財)が行われる。当日は近郷からの参詣でごったがえす、正午ごろに舞われる。卯月八日は何か特殊な日のようで、ここでは花祭りの一環としてこの時期に奉納される、大日・阿弥陀・釈迦の各如来の三面をつけた6人の檀家が越天楽にあわせて優雅に舞う。当日民間では天道花と称し、屋敷内にフジ、シキビ、ツツジ、シキダラ、フウキンの花束を長い竹棒に結びつけて立てる行事がある。仏舞の起源は不詳であるが、「楽舞の菩薩」といわれるものを基本とした緩慢な旋律の舞楽で、奈良時代の宮廷舞楽が遠心的に広がり民間芸能として松尾寺に定着したものとも推定されている。という。
仏舞

仏舞:写真撮影は苦労する。中から写すのが正解かも。
(写真はどこから写してもうまく写りません。本堂内、右手の上座あたりからがベストかも知れませんが、そこは昨夜からの泊まり込みの参詣者がすでにおられるはずなので、それも難しい。あとは誤魔化すより方法がないようで…)

青葉山妙理大権現が祀られている卯月八日は釈迦の誕生会などとは本来は関係がないようで、お寺の行事ではなく本来は青葉神社の祭ではなかったかと私は推測している。青葉神社はこのお寺の西隣にある六社神社かも知れないし、あるいは本殿と心霊閣を結ぶ渡り廊下(登仙橋)に「青葉山妙理大権現」が祀られ、その先には祠があり祀られているというのか青葉山頂にあったと思われるその社(青葉山奥院)の遥拝所と思われるが、明治以前は神仏混淆の状態であったと思われ、神社の祭事も寺院の祭事も混同したのではないかと思われる。本堂前の石段

卯月八日の松尾寺参りに訪れると、すれ違う人々の群れ中に亡き故人の顔が見つかるといわれている。故人に遭われたい方は訪れられるとよろしいかも。本堂へ登る石段あたりがあの世とこの世の境目のようで、この辺りで故人に遭えるといわれている。

奥院は、青葉山権現とも呼ばれるが、富士、浅間、白山、熊野権現を合せ祀る、松尾寺の奥院で、山頂に祀られる、今のお寺の西側に鎮座する六所神社でもあろうかとも思われるが、泰澄が妙理大権現を祀ったとも伝わる。それは養老年間のことで、そうした越の文化が松尾寺の最初であったかも知れない。白山神社は丹後にもけっこうあるので、注目してよいかも知れない。

松尾寺境内の大銀杏の樹は府指定文化財。1119年に鳥羽天皇がお手植えしたもの、また大師堂横の杉は細川忠興のお手植えと伝わる。
本堂裏の「千歳の松」は、開山した威光上人が馬頭観音を感得した旧跡といわれる。
松尾寺本堂、手前は手水所
松尾寺本堂は二重屋根の特異な形状をした宝形造り、珍しいものだそうである。九世戸の文珠堂もこのカッコウだがあちらは一層、こちらは二層ありこちらの方がいいような感じがある、橋の欄干の擬宝珠のような物がついている。小さな祠のような建物にはよく見かけるが、本堂というのはないかも知れない。恐らく小さな祠から発展したのがこの本堂なのだろう。松尾寺本堂は本当は檜皮葺だそうだが、今はご覧のように銅板が被せてある。建物は総檜造りだそうである。本堂の屋根に注意
モスクのドームの流れを汲むかも知れない。その影響のロシア寺院の先端もこんなネギ帽子だったと思う。
遙か西方の香りが微かに漂うような境内、あるいはここはシルクロードの東のはてかも。だから仏像や宗教もそのあたりまでよく勉強しないと本当は理解ができないと思うのはであるが、国内だけでも手がまわらないのに、そこまでは当面はできそうにもない。
本堂正面にある「手水所」の屋根は古い絵図にはないので新しいのかも知れないがこれも宝形造り、右手の「一切経藏」は古いと思われるが、その屋根も宝形造りになっている。松屋寺は本来は山頂の青葉権現を遙拝する施設ではなかったのかと私は推測する。


《三軒茶屋》

松尾寺山門の下にお茶店がある。左手はお寺である。時代の末端というのか、先端というのか、私はコンビニなんぞよりこんなのが好きである。

松尾寺の門前集落は「松尾」というのだが、ここも限界集落。16戸あって27人が住む。65歳以上の人口に占める割合66%という。明日の日本、というか明日の地方である。


《松尾寺への交通》猫クン一匹が駅長をしている松尾寺駅

国道27号線、吉坂トンネルの手前から松尾寺まで府道が通る。道は狭い、猿もいるが上には大きな駐車場がある。年中無休、拝観料なし。午後5時くらいまでなら朱印がもらえる。

鉄道で来られる場合は、最寄りの「松尾寺駅」(急行は止まらない)で下車されると、その先は交通手段がありません。徒歩で参拝するのなら別として、お寺さんはたいていそうであるように、たいへんな山道です、健脚でも1時間ばかりかかります。
「東舞鶴駅」下車で先はタクシー利用が便利。簡単なお参りなら約1時間もあれば往復できます。料金は往復で6.500円〜7.000円(中型車)くらいと−。
周辺の金剛院多禰寺引揚記念館など秋に廻られるとよろしいかも−。



↓車で来られたなら、あるいは駅から歩くつもりならば、この道を登って下さい。国道27号線から分かれる所だけ注意して下さい。あとは一本道。上には駐車場がある。以前は、私の子供の頃はまだこの車道はなかった、駅から歩いて登った。もっともっと急な坂道であった。なぜか途中で切れてしまいましたが、あと少しです。
この道路はよく崩れて通行止めになります。今は東側の高浜町今寺からも西側の舞鶴杉山からも車でお詣りできる。マイクロなどの大きめ車両は今寺経由がよい。




77年目の松尾寺秘仏本尊の御開帳記念法要(10月1日)は、舞鶴の外からもたくさんの方々が見えられると予測されていたので、構内見回りに余念のないこの駅長ネコくんも、お寺や地元の人々はじめ関係者の皆さんは大変に頑張っておられた様子だし、麓から4キロも離れた場所に大駐車場も用意して、バスでピストン輸送をする手当も整っていたのであったが、天候に恵まれたにもかかわらず少し(というかだいぶに)予想したよりも人出がなかったようである。御開帳の日の午後:松尾寺宝物殿前

今日は境内は超満員になって人ひと一杯で大変なことになるんやと聞かされていたが、こんなもんは彼岸よりまだ少ないやないかい、どこが77年ぶりのありがたい御開帳や−、と露天商のおっさんはぼやきまくる。

私も車で行ったのだが、さて今日はどこまで登れるものか、駐車場は一杯だろうし、道路も一杯だろうし、ともかく行けるとこまで行くより手がない、あとはその時次第、歩くより手がなかろうと考えていたのだが、すれ違う車は一台もない、一番上の駐車場までスイスイと行けて、そこは空のガラガラである。ウッソー。これなら普通の日と同じではないか。さらに「今日はご開帳の祝いですので駐車料金はいりません。77年目の仏像を見てやって下さい」と。ウッソー。本当にみなさん愛想がいいのである。77年ぶりを心から喜んでいる様子に見えたのだが、タダにしてもらって喜ぶべき悲しむべきか。カメラには人混みの様子を入れたかったのだが、閑散としていて、どうにもどこにも向けようもなかったのであった。表参道も人気なし…

今日は多かろうからやめとこと、皆が敬遠し合ったのであろうか。こんなことってたまにあるものである。
あまり混み合ってはいませんので、日曜日などぜひお参り下さい。






松尾寺の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食)  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 松尾村
青葉山松尾寺 遍明院と号す。
本寺醍醐三宝院 真言。
開基一条院正暦年中、元禄十丁丑年まで七百十一年、元正皇帝養老元年始めて西国三十三番の内二十九番の札所中絶其後一条院の御宇、若州神野浦叟太夫先祖為光と云う漁夫観音の奇瑞を得て松尾山え登り草庵を結び為真と法名して観音を念ずる。
その後、後鳥院御時文治年中にすなわち勅諚あり惟尊上人七堂伽藍に御建立。
本尊馬頭観音。、堂五間四面、鎮守天照皇太神宮、弁才天、鐘楼 二王門。
六所権現社同村の氏神なり、寺僧五軒境内の外、修験山伏、実相坊、池の坊、桜本坊、北の坊、円蔵坊、奥院青葉山大権現、加賀国白山権現勧請す。
  縁起有増
人皇四十四代元正皇帝之御宇初李し西国巡礼の札所なり、同六十六代帝一条院正暦年中若州大飯郡神野浦高野浦とも有、叟太夫先祖為光と云漁夫あり、元来公家の落ぶれ成が身命を送りかね北海へ 出て釣を垂渡世する。為光毎日普門品三十三遍ずつ不怠して唱え有時つりに出しに俄に大風に吹流され海中に七日たたよひき、きかいが嶋へ着夢乃心地に老僧来ていふやう汝此浮木に乗べしとあり、為光夢覚サメて我をたすけ給ふと、ありがたく思ひ彼大木にのると、ひとしく本国神野浦しつみのはまに着にけり、為光こころに思ふ様いか成因縁にかくはたすけ給ふぞ不思議なりとよろこび家ワガやにかへり人々に語る。是希代なる事ぞとて親族とも彼浜へ行てみれ共浮木はなし、ふしぎ成とて尋ぬれば山に馬の足跡あり、したひみれは南山へ白馬と成て行給ふ、きいのおもいをなして猶跡より慕行ば萱カヤ野の中に彼浮木有、為光思ふ様正しく馬頭くわんおんにておはすらん有難しとて礼拝し其後出家と成、為真(光真ともあり)と改名し鹿のふしと成しに三間四面の草庵を結び居住する。
ふしぎや何国ともなく仏師来り、彼木にて一夜に馬頭之尊像を作り立、仏師は行方しれされば、為真坊よに有がたく思ひ則安置して香花を備へ朝暮読経懈怠なく一生送りし成。今の本堂の地是なり、為真子孫叟太夫七百年以来松尾観音開帳閉帳に立合事此因縁なり。
又人皇八十二代後鳥羽院御宇惟尊上人は都にかくれなき名僧成しが、有時上人え告たまわく是より北にあたりて馬頭観音あり、尋行て伽藍を建立すべしとて夢は覚たり、此上人為真坊化身なり、夢想に任尋行ば丹後国二十九番の札所青葉山松尾寺是ぞと思て建立の事、奏聞ありければ帝より過分の工料を下し給り七堂がらん造立あり、其上奥院青葉山並に寺門に到まで五十一坊立給ふ、三百年已前炎上して伽藍のこらず焼失す。
若州丹州両国として七間四面に建立す。又人皇百十二代本院女帝之御時、寛永七丙午年午之同之刻炎焼、其時とうしんの観世音焼給ふ、とうしんといふ事は自御作のほとけをいふ、其後年久しく無住にて寺領米は田辺の領主へ預り給ひ三間四面のかり堂立置なり。
本尊寺領米の内、領主よりこれを下され京都よの本尊新仏作り安置す。
其後鹿原山宝生坊入寺ありて遍明院と号す是寺院号之始なり。
二王再興釣鐘等、慶安二己丑年成就せり、其後仏舞の道具を求に今四月八日興行するなり、又人皇百十三代にあたり京極飛騨守殿加佐郡城主之時建立のためにとて家中町在奉加の事之を免ぜられ、其上被地領米相くわへ、上中知行高に応し借し預けさせ給ひて、年数経る所に御息伊勢守殿但州豊岡へ御所替に付寛文八年申年金子四百二十四両松尾寺へ渡し給ふゆへ、越前の国より数多の材木を調、延宝四丙辰年建立する。
此堂又享保元申年三月三日に炎焼、本尊二王ともに此時は恙なし之に依り国々貴賎巡礼に奉加帳相渡し遠国より年々奉加寄金を集め助情によって、京都大工飯田河内棟梁して享保十五庚戌年中堂建立成就せり、此外開帳閉帳之時寺法の事これを略す。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》門前の三軒茶屋
 〈   定免十ヲ二分
  松尾村 高九拾石七斗
     内弐拾弐石七斗五合 万定引
     拾弐石御用捨高
   真言宗
   遍明院青葉山松尾寺 本寺上醍醐 三宝院門跡
    寺領弐拾壱石九升 境内山林竹木免許
  寺僧云縁起雖在之若州ヨリ認来不委大永四甲申年
鏡尊坊乗六十四才記置タル書面之由写之左之通

   人王六十代醍醐天皇御宇延喜元辛酉年   本尊観音影向青葉山権現勧請
 其頃北ノ麓ニ壱人ノ漁夫春日性(ママ)惣太夫為光卜云若州甲野浦ノ人也常ニ観音ヲ信シ日々観音経ヲ読誦ス一日惣太夫強風ニ吹放サレ乗タル舟損ス 然時浮木流レ来ル為光是ニ飛乗命無恙シ ツミノ浜ニ寄此浮木ヲ取上持チ甲野浦ニ帰ル 其道スカラ光有テ昼ノ如シ 翌日置タル所ニ浮木不見怪思ヒ尋ルニ人告テ曰白馬来リ負テ行タリト云 因茲馬ノ爪跡ヲ尋行見ルに当山ニ在リ 仍テ為光爰ニ草庵ヲ結居其後天童降告有故此木ニ観音三体彫刻壱体ハ讃州四渡寺ノ観音 中ハ当山ノ尊像 三ノ切ハ若州青松山中山寺ノ尊像也 中山寺モ当寺ノ別レ也
    境内千百九拾八坪
    人王六十六代一条院御宇正暦年中御草創
    正暦五年ニテ長徳ト改元自是七百四十五年ニ成
   鎮守社 三間ニ二間 雨宝童子
   荒神
   弁財天社
   本堂本尊 馬頭観音 丈三尺二寸北海より出現
    本堂 五間四面 享保十五庚戌年再興
  三十三所順礼二十九番之札所也 二十五年目ニハ開帳有 毎年四月八日会式也 中ニ観音ヲ置 大日弥陀 釈迦 六体ノ仏面ヲ当テ仏舞在リ 皆此寺中山伏勤ム 是ヲ松尾祭ト云習ス
    方丈 七間ニ五間
    庫裏 七間半ニ四間
    摂待堂 四間四方
    鐘楼 九尺四方 焼失後仮立
    二王門 三間ニ二間
    門 二ヶ所
    塔頭 二ヶ所今無之
   弥山鎮守
       白山権現 二間
    六所宮 富士浅間 半ニ 華表一間半境内山
                   内ニ有
       熊野権現 三間
 弥山江寺ヨリ廿八丁有リ 籠堂山王上八九分目ニ在リ火ヲ改精進潔済シテ登山ス 松尾寺ノ奥ノ院也東西弐ヶ所ニ弥陀ヲ安置ス 東若州領中山寺ノ奥ノ院ナリ
   大川大明神 聖ノ森トモ云  二尺五寸四方
    中興 御建立ハ後鳥羽院御宇文治年中惟尊上人再興
   文治五年ニ建久ト改元自是五百五十年二及フ
        (狭)
   焼失再興堂挟ク成ル
   本堂 七間四面 鎮守并拝殿三間
   五重塔婆
   二階鐘楼
   阿弥陀堂 五間
   常行堂
   薬師堂 三間
   地蔵堂 三間
   一切経蔵
   二階中間
   食堂
   浴堂
   寺中院主
   西方寺 不動院
   谷ノ坊 薩賢 阿加井坊
   岩本坊 南ノ坊 賢識
   上ノ坊 池ノ坊 二王坊
   往古坊中五十一ヶ寺 其後二十五坊
 古来ヨリ宝物

  一 金ノカイコ
  一 金ノ松笠  何ノ時代ニカ紛失ス
  一 中将姫織給ふ観音経
  一 神功皇后御宸筆
  一 三条小鍛冶作之劔 当時クリカラニ用
    当時寺僧五ヶ所境内地之外ニ附
   実相坊 桜本坊 北之坊 池之坊
   円蔵坊焼失後無住  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎松尾村(吉阪村より北へ入る)松尾寺仁王門
【六社権現】
六社権現は蔵王権現、白山権現、熊野権現、冨士権現、大川大明神、田口大明神を合せ祭る。
【青葉山松尾寺】(真言宗、塔頭五院、実相坊、池の坊、北の坊、円居坊、梅本坊、寺領廿一石)
青葉山松尾寺は西国順礼第廿九番の札所なり、本尊馬頭観音は海中より上るといふ、正暦年中一条帝の開基なり。後文治年中に至りて後鳥羽院勅して伽藍を重修す、是より以来永く勅願所となりぬ、勅使など久しく絶えたれ共其時に用ゆる椀器今に残る、今の堂宇壮ならざるに非ずといへども古に比すれば十の一分のみ、以前は寺中廿坊もありとて其名記録に残る、寛永年中の火に皆烏有となりたれども古物の今に伝はるもの亦尠からず、左に記す。
蔵宝目録
…略…仏舞の楽器
【仏舞】
松尾寺の会式は毎年四月八日なり、其会式の日に僧徒集りて仏舞といふ舞をまひぬ。其次第始めに警固のもの八九人本堂のの左に座す、次に和尚列を正し本坊より出で、本堂に上り席に就く、次に春日惣太夫といふもの和尚の次に座す、春日惣太夫は若狭中野浦の人なり、是の人の祖先海中より馬頭観音を得たり、すなはち松尾の馬頭観音なり、是以松尾寺の会式は開帳の日其子孫が与るといふ、次に給人客席に就く、次に大日如来、釈迦如来、弥陀如来三像の仮面をかむるもの凡六人(大日二人、弥陀二人、釈迦二人)給人の前に寄る、於是給人楽を奏す、其楽に従ふて仮面を蒙るもの舞を舞ふ、是を仏舞といふ、古風の態いと笑しきものなり。
【庭の雪】卯月八日は御釈迦様の誕生日ともいわれる。何か大事な神む誕生した日と思われるが、それは何神だったかはすでに忘れられている。
庭の雪といふは庭に降りたる雪にあらず、又天にしられぬ雪にもあらず、蓋庭のゆきといふ菓子の名なり天正年中玄旨法印松尾寺の庭に泉石を設けて仮山を作る、其後初雪の日玄旨法印三斎公と同じく此寺に遊ぶ、折節住寺手製なりとて菓子出しければよめる、
よしやこれくわれもすましなくさまん  己れ跡なき庭の白雪  (三斎公)
既にして其菓子を庭の雪と名づけらる、今松尾寺の名産とぞなりぬ。
其菓子の製法
糯米粉五十匁、砂糖五十匁、膠飴(胡桃の大サ)。…略…
【青葉山】(松尾寺の後山)
青葉山はいづこの山にても新樹を歌によみしが名所の青葉にまぎれしにあるなり、是程某山の大徳来りまして一首を乞ひ給ひければ…略…
【弥加宜神社】(延喜式)
弥加宜神社今弥山と称す、青葉山に上に在り、松尾寺より廿八丁登る、俗に青葉山権現といふ。富士、浅間、白山、熊野権現を合せ祭る、松尾寺の奥の院なり、汚穢不浄の者参るべからず。頂に大なる岩あり其岩に瘤の如き小石處々に出る、小石によりて岩に登り数千丈の下を臨む、凛乎として留るべからず、之を上の坊といふ。  〉 

《地名辞書》
 〈 松尾寺。金剛院の北、青葉山の麓に在り、志楽村大字松尾に属す、西国巡礼三十三所の第二十九の霊場とす、一書若狭国と云。
○青葉山は丹若の州界に当り、安山岩より成れる死火山なりと云ふ、その影状特異にしてよく、人の視線を牽く。
○ 嚢抄云、三十三所とは何ぞ(中略)第廿七番成相寺、一 手半于手、丹後国にあり、次松尾寺、等身馬頭観音、同国に在り、網人の建立、七間四面の札堂作と云ふ、是久安六年参詣の次第に由る。…  〉 


《加佐郡誌》
 〈 そのかみは幾世経ぬらんたよりをば 千歳をここに松尾の寺(花山院御詠)。西国二十九番の霊場として著名な真言宗の巨刹である。若狭街道を左に折れて九丁進むと由緒ある滅罪ツミの橋があり、尚阪路を攀づること十町で山門に達する。其の山門の二王大木像は運慶の作といはれている。更に少しく石階を登ると本堂に着くのであるが、本堂大悲殿の本尊は我邦馬頭観音の総本地と称せられた天然の山勢亦馬頭の形をなしているのである。慶雲和銅年間に威光上人が元明天皇の勅を奉じて開基したものであって、例年五月八日に式典があるが、これは近国に聞えた盛祭で俗に仏舞と称する古雅な楽舞の法会が営まれるのである。当山は開基以来恭くも聖願頻りに下って朱印を賜はったこと等もあるのであるが、一時衰頽に傾いていたのを鳥羽天皇の御崇敬によって惟尊上人が伽藍及六十五宇坊舎を再建し、封地四千石を付せられたので、以後法燈の輝き盛となったが領主の信仰も亦極めて深かった為め、現時の本堂大悲殿は天正年中旧領主細川幽斎が再建の後京極家を経て牧野家に至り親成・英成の二領主が大修繕を加へ、其後の度々修理を施して広壮の美を保つに至ったものである。今史料参考として、同寺古文書により開基及由緒を見れば、…  〉 

《舞鶴》(大正12年発行)
 〈 青葉山松尾寺
   そのかみは幾代へぬらんたよりをば
      千歳もこゝに松の尾の寺
 西国二十九番の霊場として有名な眞言宗の巨刹で志楽村字松尾、青築山の中腹にある、麓には由緒のある滅罪橋かあってこゝから阪路を攀づること十町許り山門の左右には雲慶正作の仁王の大木像がある、本堂大悲殿の本尊は本朝に於ける馬頭観世音中の総本地といはれ青葉山の山勢は恰かも馬頭の形をして居る、例年卯月八日に行はれる式典は近国無双の盛祭で俗に「佛舞ひ」と称する一種古雅な音楽舞儀の法式が修せられる。當山は開基以来忝くも聖願をしきりにし朱印を賜はったことなど舊記に明かで各領主の崇敬も極めて深かった、今の本堂大悲殿は天正年中旧領主細川幽斎再建の後京極家を経て牧野家に至り親成公及び英成公が大修繕を加へられたものでその後に於ても絶えず小修繕を施して輪奐の美を保って居る、史科参考として其の筋の鑑査せられた同寺古文書により開基及び由緒を見ると次の通りである、

徳治三年は今から凡そ六百斗前であるがこの書は本堂落慶式の願文であると思はれる
尚ほ国宝としては次の三点がある、
     後陽成天皇宸翰   御内書御譲位云々  一幅
     後水尾天皇宸翰   御歌色紙      一幅
     後桜町天皇宸翰   御歌色紙      一幅
又史料参考品としては
    松尾寺伽藍古図  元水元年鳥羽帝御再建落
             慶式現状を模写せしもの  大幅
    松陀寺 縁起書  徳治三年記紙本      一 巻
    松尾寺 伽藍図  天正年中国主細川幽斎公其臣
             某に命じて模写せしめたもの 三幅

等がある、その他弘法大師、兆殿司、道元膳師、探幽、金岡、智海等の名書、小堀遠州林道春、豊大閤、一休、沢庵、鉄牛等の筆跡細川家の寄附香炉、茶碗、袈裟の如き実に稀世の逸品で特に経典籍等に至ては重要なものが多い。
 この青葉山は死火山で丹後若狭の両国に跨り麓から山嶺まで二十五町伯耆の大山、越中の立山等と相対し北は渺茫たる日本海の展望を恣にすることの出来る雄大な山で北海鎮護の霊山とせられて居る。千歳集に
     常盤なる青葉の山も秋来れば色かはりぬる物にぞありける
とあるのはこの山の秋を詠んだものである。  〉 

《市史編纂だより》(51.12)
 〈 享保期の松尾寺本堂再建
(資料紹介)専門委員 瀬戸美秋
 西国29番の札所松尾寺は、鳥羽上皇の皇后美福門院が帰依し、元永年中(1118-9)再興されてから現在までに7回の火災にあい、再建のたびに本堂の規模も再三変わり、現在は5面4間に復旧している。
 ところで正徳6年(1716)3月3日夜9ツ時(12時)に火災があり、そのとき本堂が焼けている。この再建をめぐる古文書が松尾寺にあり、その一部を拝見させていただいたので紹介したい。
 火災後、直ちに諸国巡礼に本堂再建の勧化帳を回した。そして満4年を経た享保5年10月までに11.500帳の勧化帳を出したが、その応募状況は良好で毎年順調に資金が回収されつつあると記している。
 これより先、享保4年3月には前からの材木、資金を引き継いでいるので、近いうちに普請に取りかかりたいということで、宮大工は特に切者(きれもの)を選ぶ必要があるとして、その選定にかかった。…  〉 

《舞鶴史話》(昭和29年発行)
 〈 青葉山松尾寺(舞鶴市字松尾)

  そのかみは幾世経ぬらんたよりをば
    千歳をここに松尾の寺(花山院)
 西国二十九番の霊場として有名な真言宗の寺であります。慶雲和銅年間に威光上人が元明天皇の勅を奉じて創建したものであります。毎年五月八日が仏典のある日でありましてそのお祭りの日には仏舞の名で知られた古雅な舞楽が行われます。鳥羽天皇の頃には天皇の崇敬によって惟尊(ゆいそん)上人が伽藍及び六十五宇坊舎を再建し、封地四千石を給せられました。現在の本堂太悲殿は天正年中細川藤孝の再建にかゝり、その後牧野親成、同英成二領主の大修繕を加えて今日に至りました。
国宝としては
 後陽成天皇宸翰  御内書御譲に関するもの  一幅
 後水尾天皇宸翰  御歌色紙         一幅
 後桜町天皇宸翰  同上           一幅
 普延尊      金岡筆          一
 孔雀明王     金岡筆          一
等計九点があり、その他にも数々の宝物を蔵しております。
 又境内にある大銀杏の木は元永二年に鳥羽天皇が美福門院とつれだって七堂伽藍再建の落慶式に臨幸され手ずから植えられたものだといわれています。金扇のようなこの小さい銀杏の葉にも往時の歴史がたゝまれています。  〉 

年中行事覚書(柳田国男)の「卯月八日」に
 〈 …第二に注意すべきはこの日山に登ると云ふことである。卯月八日を山登りの日とする習慣は至って弘く行はれて居るらしいが、その外にも山に斎かるゝ有名な社にこの日を祭日とする例は多い。近くは武州秩父の三峯神社、上州横室の赤城神社、駿河の愛鷹明神、越中の立山権現、大和では纏向の穴師坐兵主神社、東北では羽後飽海郡の国幣中社大物忌神社、同雄勝郡大津の荒羽波岐神社、北秋田の七座神社森吉神社等、陸中石巻の白山神社、磐城倉石山の水分神社、九州では薩摩串木野の冠獄(西)神社など、何れも旧来卯月八日を以て祭日として居るのである。
 更に第三の点は婦人が登ると云ふことであるが、これも仔細のあらうと思はるゝは、(イ)には、女神を祭る社の四月八日を祭日とすることである。例へば玉依姫を祭ると云ふ下総香取郡の東ノ大神、草奈井比売と云ふ諏訪の蓼宮社、倭迹々日百襲姫を祀ると傳へた讃岐の一ノ宮田村神社、或は倭姫命を祭ったのが始めと云ふ江州土山の田村神社などの類で、この外にも新暦に引直した社が猶多かりさうである。(ロ)には神蛇體なりと云ふ言傳への往々にして存することで、屡々水の辺に於てこの日の祭を行ふことがこれと関連するらしい。伊勢鈴鹿郡の鶏足山は卯月八日の登山を以て聞えたる霊地である。寺では千手観音を本尊にして居るが、而も山上に鏡ヶ池と云ふがあって、傍に善女龍王雨壷の三祠を斎き祈雨の神として仰がれて居た(三国地志二十六)。浮島を以て知られて居る羽前大沼の浮島稲荷神社も古くから例祭は四月八日で、祭神宇迦之御魂と云ふる元は宇賀神即ち弁才天の信仰に始ったものらしい。鍋の祭で評判の江州筑摩神社の如きも、社殿大湖に臨んで竹生島に向ひ、今は主神を大御食津神として居るが、以前は市杵島姫命と傳ヘて居た(木曾路名所図曾)。祭は同じ四月の八日で八人の童女を玉串を以て定め一月の物忌させて神事に仕へしめた。前に挙げた陸中化粧坂の薬師堂に美女を以て池の神の牲とした口碑を博へるのも、その薬師の賽日と云ふ四月八日と関係あることは、同時に報告せられた武蔵弁ノ頭の弁天の申し児なる長者の娘が、池に入って蛇體となつたのも同じ日と云ふ話(郷土研究二巻六九二頁)と見合せてる推測し得られる。更に又野州葛生の峯渡権現に於ても、昔蛇體となったと云ふ長者の妻の供養を、同じくこの日に行ふ例であったと云ひ、四月六日を以て例祭とする近江伊香郡の大音神社にも、やはり弘法大師が池の主を済度したと云ふ、かのせゝらぎ長者の妻虎御前の話(同上四巻三三九頁)と相似たる話を遺して居る。…  〉 

八日は薬師の祭日と信じられていたようにも見られるし、また卯月八日の仏舞いは大日・釈迦・阿弥陀が舞うのであるが、釈迦のぞけば観音や薬師は元にさかのぼればバラモンの同じ神様に行き着く。新井薬師寺(東京都中野区)の本尊は薬師と観音が背中合わせで一体という。どちらが表か裏か、薬師の裏仏が観音なのかも。観音があれば薬師でもあると見なければならなくなる。松尾寺の本尊・馬頭観音は樹との繋がりが説かれるが、そうすればもともとはあるいは薬師ではなかったかとも思われるわけである。少なくとも馬頭観音と薬師如来はかなり等値の関係だろうと見られる。
そうすれば七仏薬師の多禰寺周辺と近い関係ということになり、このお寺は薬師信仰集団であったと思われる玖賀耳御笠が関係するのではなかろう−。



「松尾寺案内」(同寺の発行)
 〈 松尾寺の沿革
 松尾寺が、その中腹に位する青葉山(六九九米)は、福井県から望見すれば、東西に並び立つ双峰が一つに重なり、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されている。
 富士なくば 富士とやいわん 若狭なる
   青葉の山の 雪のあけぼの
    御陽成天皇皇子・八条王子
 この山は死火山で、昔火焔を吹き上げ、噴流は直下の日本海に注いで凄絶な水煙を上げていたものと思われる。この厳しい表情をたゝえた険峻な山は、早くから修験道修行の場となっていた。
 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(七〇八年)と伝えられる。
 爾来、今日まで千二百九十年を経ているが、その間、元永二年(一一一九年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。
 その後、織田氏の兵火によって、一山ことごとく灰塵に帰したが、天正九年(一五八一年)細川幽斉の手によって復興をみ、京極家の修築等を経て、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。
 当寺は、西国第二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。

 住所 京都府舞鶴市松尾(〒六二五)
電話〇七七三−(62)−二九〇〇
FAX〇七七三−(62)−二〇二八

主な文化財
国宝 仏画 普賢延命菩薩像(平安後期)
重文 仏画 孔雀明王像(鎌倉時代)
府指定 無形民俗文化財 仏舞
府指定 文書 松尾寺再興啓白文(鎌倉時代)
府指定 建築 本堂・経蔵・仁王門(江戸時代)
市指定 仏画 松尾寺参詣曼荼羅(室町時代)
市指定 仏像 地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)
市指定 天然記念物銀杏(伝鳥羽天皇御手植)

主な年中行事
一、春、秋彼岸会 無縁経会式
二、五月七、八日舞儀音楽大会式(「仏舞」は八日に奉納)

御詠歌 その他
そのかみは
いく世経ぬらん
便りをば
千歳もこゝに
まつのをのてら

いつしかと 花の木末も青葉山
なべて緑の 色も涼しき
(幽斉)

世の中にあらん限りの 言の葉に
いくぞかえりの 春や松の尾
(忠興)

秋ふかみ 青葉の山も 紅葉せり
なこそ時雨の 染めじと思うに(俊成)
  〉 



関連情報

「志楽つづき」
松尾寺の馬頭観音・中山寺の馬頭観音・馬居寺の馬頭観音
国宝・普賢延命像
重文・阿弥陀如来坐像」(快慶作)




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