丹後の地名  資料編


平(たいら)
京都府舞鶴市平


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平の地誌


《平の概要》


平は東舞鶴湾の北方、大浦半島の南部。平湾に面する。多禰山の南麓に位置する。
三浜峠を越えると三浜・小橋。
東部を河辺川が西流して平湾に注ぐ。戦後この地はあまにも有名な海外引揚げの地になった。舞鶴は知らなくとも「岸壁の母」で歌われ、「平の桟橋」は誰もが知っている。旧ソ連や中国などから66万人余が、13年間、ここへ帰ってきた。
 川口左岸の宮崎山には引揚記念公園、麓に引揚記念館があり貴重な資料が展示されている。当時の引揚桟橋も復元されている。
昭和16年舞鶴海兵団設置のため、地続きの中田とともに買上げとなり、第2次大戦後は引揚援護局が置かれた。現在は木材加工団地として合板企業が集中し、平貯木場がある。

《人口》286。《世帯数》88。

《主な社寺》
八幡神社・愛宕神社・厳嶋神社・若宮神社。
桂林寺末曹洞宗洪松山長雲寺
『加佐郡誌』
 〈 供松山長雲寺、曹洞宗、元和元年道元和尚開山、西大浦村  〉 

氏神は正八幡(現八幡神社)、当社は中田・多禰寺・赤野各村の氏神でもあった。

坪ノ内地区には縄文時代から中世にわたる集落跡があり、土器類が出土。
昭和54年地内の坪ノ内で圃場整備実施中に縄文時代から中世に至る集落跡と土器類が出土した。


《交通》
府道21号線。




 平八幡神社の祭礼行事


平・八幡神社(舞鶴市平)
平八幡神社は平・中田・多禰寺・赤野各村の氏神である。祭日は11月3日で、舞鶴の多くの神社もこの日が祭日になっていて重なり訪れる機会はへり、舞鶴各地それぞれの個性の郷土色と歴史豊かな祭礼行事見物がしにくい。せっかく何ヶ月かかけて練習重ねた「神宝」の紹介もあまりなされていない、せっかくの宝の持ち腐れ、「千年の歴史と文化」を誇る地にしてこうしたことである。無形文化財は誰かが紹介公開しないと目にふれることがない、舞鶴市は特におさぼりの様子で神社の紹介文すらまともにないので舞鶴市民でも祭礼を見た人は多くはあるまい。ゼニがないのでもないようで、黒字決算なのだが、やる気がまったくないし第一何をなすべきかがわかっていないようである、たまに写しているのを見かけることもあるが、公開していない。
この日は特異日でだいたいよく晴れる、今年は危ぶまれたがよい天候となった。もともとはこの日ではなかったと思われるが旧の祭日は不明、丹哥府志は8月15日としているが、この日を祭礼にした神社も当時は多く、これが本来の祭日かは不明。

多禰寺集落は人口減少のため不参加のようだが、これらの集落のもともとの発祥地はここではなかろうか。3集落の奉納団はその道路の先の方で合流集合して、平、赤野、中田に順に囃しながら行列してきて宮入りした(宮入と奉納は赤野と中田が隔年順が逆になるそう)。13時30分くらいである。

平八幡神社の由緒。
境内の案内板に、

 〈 村社 八幡神社
由来
当社ハ往古丹後ノ名神斎宮明神を勧請シ主祭神ヲ天照大神トシ、後地主荒神麿子皇子ヲ相殿ニ合祀シ更ニ中世ニ入リテ武神八幡神社大神ヲ相殿ニ祭祀シ祭神三柱ノ御鎮座ナリ
昭和十五年十一月 謹記  〉 

斎宮というのは竹野神社(丹後三宮)のこと、開化妃の竹野比売やその父とされる丹波大県主油碁理の神社、古代では丹後丹波一の大社で初期大和政権と連合して全日本をリードした。麿子皇子というのは聖徳太子の弟とされているが、そうではなく竹野神社本宗家の祭神と私は考えている。
平も中世以降は八幡神社となっているが、本当はこの竹野神社であって、丹波大県主の勢力下にあったものと思われる。多禰寺などの七仏薬師信仰というのも本当は丹波大県主の勢力圏を言っていると思われる。生業は金属生産であったろう。
油碁理というのは、金属の溶けたものを湯と今でもそう呼ぶが、そのことである、コリは肩コリのコリで凝り固まるの意味、油碁理は金属の塊のことである。竹野神社は精錬された金属そのものを祀っていたのではなかろうか。タイラとかダイラ、タイというのは平らな所という意味よりもタタラに関係した地名と考えられる。また大浦や内浦の広域地名があるが、いずれもタイラとかダイラとも読めて、本来の意味はこのタイラと同じと思われる。大浦半島の全域が竹野神社の勢力圏、丹後王国の鉄の生産基地であったのではなかろうか。こうした面白い歴史は先学の誰も何も解明していないが、この神社はそうしたことを語りかけてくれるようで私はそう考えている。そうした古いスゴイ由緒がありすぎるたいへんな神社でなかろうか。
祭礼行事は平2年に府の無形民俗文化財となっている。

平八幡神社
境内は広い。奉納団は飾り付けた太鼓屋台のほかにも酒やゴッツォをゴッソリと持ち込んで太鼓を打ち合う。
↓こんな屋台もある。おでん、イカ焼き、やきそば、プロも顔負けしそうな屋台もあるのはここだけかも…
ゴッツオ屋台


三番叟の奉納
本殿の真ん前に舞堂がある。赤野によって奉納される「三番叟」は、能の「翁」に準じたものだそうで、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈るという。だいたい14:00くらいからである。
三番叟の奉納

「一番叟」は、少年が面箱を捧げて舞台を1回りし、扇子に持ち替え「露払の舞」を素面で舞う。



「二番叟」は、少年が翁の面を被り、扇子をもって舞う。


「三番叟」は「前踏み」・「問答」・「後踏み」から構成される。
「前踏み」では扇を手に「揉みの段」を舞う。


一番叟と舞手が替わった三番叟との「問答」があり、一番叟から鈴を受け取り、鈴と扇による「鈴の段」を舞う「後踏み」。少々長い。



「神楽」が中田集落によって奉納される。
ここの獅子は噛まない、が、恐い顔、大きな口を開けてガーと近づくと、かぶりつきから身を乗り出していた子たちも思わず逃げ出す。
神楽

神楽
ここの太鼓屋台は耕耘機に引かれている。
獅子舞は二人立ちで、胴衣を被るのは「頭」だけ、「尻持」は胴衣の外に出ている。
「鈴と御幣の舞」「太刀の舞」など祓いの神楽曲


「カニホリ」、「寝獅子」、「乱花」、「親爺追い」の獅子舞曲だそう。



 「振物」が平集落によって奉納される。
2人1組で棒、槍、太刀、薙刀を持って切り込みを演じる「組太刀型」。少々「練り込み」があってそのあと「露払」、「大薙刀」、「柿ぼり」、「小薙刀」、「間抜」、「小太刀」、「大太刀」の順に奉納される。
「露払」は幼児。青年の介添えつき。


赤と黒のシャグマ(頭の被り物)を被った「大薙刀」。


「柿ぼり」「小薙刀」は女の子が演じているよう。この子たちだったかな、このカメラのをのぞき込んでいたのは。うまく写ってますか、うまく写ってなかったら、気に入らなかったら、ゴメンナサイ、カメラは上等ですが、腕はヘタクソですので…


これ以降は「かぶりつき」の見物は危険、少し下げられる。「間抜」以降は化粧まわしの「前ダレ」を着ける。ヤリ(ホコか)とヤリ、小太刀、大太刀がはげしく斬り合う。



「振物」が終了すると、「笹持ち」が登場し、笹竹を大きく振られり、天井に吊されていた「くす玉」(一斗罐)が割れる。
お菓子などの景品が見物の子供達の頭の上に降ってくる。奉納の終了。 16:40ごろである。




平の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 法松山長雲寺は桂林末寺曹洞禅なり。
正八幡宮。平、赤野、中田、多祢寺村之産宮。
愛宕権現社有。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 正八幡…。長雲寺、供松山、桂林寺末。  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎平村(平村は海浜にあり、西は四の浦佐波賀村、東は朝来谷大波村に隣る)
【正八幡宮】(祭八月十五日)
【愛宕権現】
【法松山長雲寺】(曹洞宗)
 【付録】(天王、稲荷、荒神、若宮、弁財天、薬師堂、大日堂、辻堂)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 祭神 誉田別尊
由緒 不詳
境内神社 
     斎神社(祭神不詳)
     日森神社(祭神不詳)  〉 

《舞鶴ふるさとのやしろ》 
 〈 舞鶴市史各説篇「京都府宗教法人名簿に登記されている市内の神社」によると、全市百七十神社のうち八幡神社は十八社で、一割を越え、このうち七社が大浦地区にある。そのうちでも、平安時代の神像三体(市指定文化財)をまつり、古い歴史を秘めているのが、平の八幡神社である。
 平の集落の西端、舞鶴湾に南面した同神社は平のほか中田、多祢寺、赤野の総氏神である。安政五年(一八五八)平の全村に近い六三軒とともに神社も全焼したが、神像三体は無事だったのも当時の人々の敬神の深さを物語っている。
 神像は三体とも一木造で、男女神一対は平安後期の優品、もう一体のやや小さい女神像は表面に鉈彫のあとがある素朴な作品。村の人たちが、家の床に間にかかげる氏神の掛け軸には、中央に「八幡大神」向って左に「日森大神」右に「斎大神」と書かれている。「日森大神」とは多禰寺創建の伝説がある麻呂子親王で、「斎大神」は天照大神とされており、多祢寺の本尊薬師如来信仰と、八幡大菩薩信仰との結びつきを示している。八幡大菩薩は水軍の守護神としてあがめられたが、この神社の存在は、平入江が重要な水軍の基地だったことと深い関係がありそうだ。  〉 

《舞鶴の文化財》(写真も)平の八幡神社の神像
 〈 《彫刻》市指定文化財
木造男神坐像
木造女神坐像
附・女神坐像
三躯
指定年 月 日 昭和59年5月30日
形状および寸法 一木造
像高男神坐像42.0cm
像高女神坐像38.0cm
像高附・女神坐像34.0cm
制作年代 平安時代(藤原)
所有者・管理者 八幡神社(字平)

 平八幡神社の神殿に安置される神像で、多くの八幡社と同様、男神一、女神二の三座から成っている。
 神殿には中央の厨子に男神像、向って左の厨子に女神像、右の厨子に女神像(附)を祀っている。
 男神像の頭部の彫りは入念で、大きな冠を載せ豊頬童顔であり、体形は細身で束帯をつけ、両手は袖に入れ正笏の形をとる。躰部は神像彫刻の例により簡潔で、面部は重厚で生彩に富み、白土が塗ってあったと思われるが、あらかた剥落している。相好の彫り口や躰躯の均衡には、確かな技術が感じられる。
 女神像は、男神像と一具をなすらしく、胡粉地彩色が施されていたが、今は、ほとんど剥落している。頭部はやや彫りが深く、顔立ちは端正で成年女性の相を表している。
 髪は垂髪で左右にふり分け、両肩に垂らす。躰部は左前の襲で、衣文もない和装の簡素な彫刻であるが、男神像とともに本市における平安後期の神像の優品である。
 もう一躯の女神像は、作風が極めて素朴で、上記の女神像と同じような像容を示しているが、当初より彩色は施さなかったようで、表面に鉈彫のあとをとどめている。  〉 


《平校閉校記念誌》
 〈 …次に校下には、平村を中心として中田村、赤野村、多称寺村、佐波賀村と五ケ村の点在する各集落があり、小学校の地域構成として発足したのであります。
 平村は戸数(八十余戸)で五ケ村中最も大きな集落であり、前に波穏やかにして水清く、かもめ群とぶ平湾に面し、裏に多称寺連峰を背負い、青葉おろしもさわやかに、昇る旭日さんさんとして輝き満ちる平和の園であり、後年行政改革により西大浦の村制が施行されるや、学校・役場・郵便局・駐在所等官公署のたち並ぶ行政文化の重要なる中心地であります。中田村はやはり海岸線に添いて平村より東約八丁(一粁)にあり、戸数十八戸の小集落なるも後に小高き山を背負い、周辺に広大なる田地あり、長くのびたる海岸線と共に大波街道に通ずる陸路あり、又新川より大波・平・中田を結ぶ定期船の発着場あり、河辺村・三浜村等へ結ぶ海陸交通の重要なる地でありました。その為宿屋等もあり、常に人の往来も多く大浦交流の最適の地でありました。しかしそうしたのどかな村も、晩年大平洋戦争初期(昭和十七年)勝利に向け、軍拡のため平海兵団の新設されるところとなり、何百年先祖伝来住みなれし土地を追われ、現在地に強制移転をさせられました。平村・中田村を結ぶ海岸線上より北三角線状内に赤野村が存在し、戸数三十余戸にして黒田川の流れより東山ふところに柿安、三浜峠に通ずる道路沿いの山裾に赤野それぞれの集落があり、その二つの集落を合わせ赤野村と呼び、海岸より峠に至るなだらかな斜面に広がる耕地はあらゆる農産物の宝庫であります。
 赤野の集落を抜け、急なる坂道を登りつめるところ多称寺連峰の中腹に戸数僅か九戸の小集落があり、これが多称寺村であります。ここには国宝に匹敵する重要文化財の仁王門を備えた真言宗の名刺多称寺の存在があり、又、四季を通じ眼下に眺むる景色は、遠く近く色とりどりに海あり山ありはるか浜村まで誠に絶景であります。
 最後に残る一村は、平村より海岸線を延々と西へ一里余(四粁)の地に佐波賀村が存在し、戸数五十余戸の集落なれど約一丁(八百米)程距れて二等分したように、それぞれが二十数戸の二つの集落に別れ、平村に近き地を上佐波賀、西へ遠き地を下佐波賀と通称名づけています。前面に青く澄みたる海、波間に点在する島々、朝日夕日にきらめく眺めはすばらしいところであります。又、北に山を南に広々とした海陽光を一日中浴び、気候風土の最良の地であり、人間性豊かに農作物の出来もよく、晩年佐波賀大根(舞鶴特産品)が全国に其の名を知られた発祥の地であります。

…中田・赤野・平を結ぶ道はやや広き程度であり、赤野より三浜・多称寺への道は草木の覆茂る山中細く急な坂道、佐波賀へは海岸線添いなるも道中幾ケ所も山坂あり、細く凸凹甚だしく一人通るのがかろうじてであり、海岸の低地は高潮ともなれば海中に没する状態の道でありました。今も残れる古えの幾多難所の地名に犬戻し・猫戻し・馬こかしと呼び、動物さえも通らなかったと言われるようなうそのようなほんとうの話です。ではこのような陸路海路に交通機関としてどのようなものがあったでしょうか。陸路にては前述の如く唯足で歩くのみであり、海路にありては海辺各地域ほとんどが自家用の木船(ともおち)を所有し、田畑えの農作業生産物の運搬、町その他への往来等唯一の交通機関として重要なる存在でありました。後年新川・大波・中田・平等へ機械船による定期航路が出来、大変交通の便がよくなりました。…  〉 


 〈 思い出の平校    元学校長  小川穣二
 赴任当時の私は当地の事に不案内でした。そこで校下の状況を知る為に、校下廻りを早々にいたしました。平・赤野・中田・佐波賀と小さく良く纏まった地区で、通学にも左程困難は見られないと思いましたが、佐波賀だけは本当に児童の負担の厳しさを感じると共に、御父兄の心配は此の通学路にあると思いました。併し今迄無事故との事で、私は今後絶対に事故を起してはならぬと決心させられたものでした。

引揚が廿八年から再開され、其の都度日ノ丸の小旗を持ち、全校児童が北桟橋、南桟橋へと出迎えに行き、悲惨な情景を目の当りに見て、引揚者の皆さんが再起の日の一日も早からん事を出迎えの一同と共に祈りました。  〉 


 〈 ふるさと学習   元学校長  和気実
 私は戦後四年間シベリヤで抑留生活をし帰国できた喜び、感激の上陸が平桟橋でした。三十有余年後の昭和五十五年四月に、この地、平小学校に就任しました。この思い出の地において教員生活ができたことは誠に有難く感慨無量のものがありました。…
ふるさとから学ぼう、まず身近かなふるさとを見直すことから出発をし、自分から知識を求め、自分たちで考える子を育てようと、「こども風土記」作りをはじめました。夏休みに教職員と児童達で五つの分団に分かれて各地の公民館などで古老の話を聞き、耳と眼でたしかめ、その内容を綴ったことが思い出されます。
 ことばでは聞いていたが、坪の内遺跡の現地に行き、皆んなが集めた土器片。「引き揚げのマチ」今では平桟橋はどこにも姿は見当らないが当時のできごとを偲ぶ話。海兵団建設で中田村の強制移転。浮島丸の沈没で村を上げての救助した体験。多称寺のいわれ。佐波賀大根等々、きびしい自然に負けず生きぬいた祖先たちの生きざまから学び、ふるさと学習発表会もしました。
 教材を進めるために必要な資料をと、なくなりつつある生活用具、農具等、地域の人々に協力を呼びかけ約八十点余を集め、ささやかな社会科資料室を廊下の片隅に設けました。  〉 


 〈 平小学校閉校に想う  昭和二十五年度卒業生 下志万睦彦
 …入学式、校庭の北東の隅に在った「奉安殿」より、校長・教頭先生が奉げ運ばれた天皇皇后両陛下の御写真を祭り、頭を下げて聞く教育勅語の首の痛かったこと。毎朝の朝礼、歩行訓練……モモを高く上げて……空襲警報で平のお宮様の先の防空壕への避難。八月二十四日浮島丸の沈没、おびただしい死体の漂流。
○二年生、多称寺へいも堀り。三年生、初めての学校給食鯨の耀詰の味噌汁、トマトジュースの冷たかったこと○二年生から六年生まで引揚者の出迎え、神原校長作詞の「引揚者を迎える歌」……晴れたみ空に引揚船が、見えた見えたと胸踊り……と小旗を持っての援護局通い。…  〉 


 〈 古き学舎で   昭和三十三年度卒業生  奥本与彰

…その頃、平沖には引揚船がよく入って来ました。朝、白い船を平沖に見つけると小躍りして学校へ急いだものです。その日は全校で平桟橋まで出迎えなのです。意味など解りませんでしたが、力いっぱい小旗を振りながら「お帰えりなさい! ごぐろうさんでした!」と繰り返し、飛びかうヘリコプターや閃光にただならぬ事態を感じ、翌朝の新聞の写真の端に小旗を振る小学生を見つけてなんだか気恥かしぐ感じた記憶があります。…  〉 




平の小字


平 塩屋 中小浦 波入 村内 常成 大谷 久瀬 宮ノ前 森 前田 岡 梅迫 小橋 城ノ腰 堂ケ宇呂 坪ノ内 西後 木坂 堂ノ下 平シ 下田 中溝 堂ケ角 島崎 丁田 平田 ヒノ口 中島 浜田 八反田 小浦 坂浦 坂根 安奥 滝谷 平トコ 大迫 山ノ神 鍋倉 彦ヤケ 赤崎 向イ山 大峠 小峠 長カル 打越 長谷 墓ノ向 馬カセ 村中 訳寺 森本 西ノ奥


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関連項目

東大浦村 河辺中 多禰寺

きつねがり
へこき与平
大きなわらぞうり
八幡神社
平・八幡神社
平の力男






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