丹後の地名

美浜原発
波よけ地蔵の警告

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      このページの索引

 
丹生は断層地名、美浜原発は特別にヤバイ場所にある。
美浜原発は隆起する場所にある。
津波伝説が集中する美浜湾
寛文の近江・若狭地震
危険な若狭湾でも、その極めっつけの地
人身事故の美浜原発
参考

  このほかの当サイトの原発関連ページ
もんじゅ(高速増殖炉)
大飯原発
高浜プルトニウム原発
高浜原発
40mの津波を伝える波せき地蔵(真名井神社)
逃げ道がない!30キロ圏
久美浜原発
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 美浜原発

左から1、2号機、少し離れて3号機。
手前の海は「丹生の浦」という。おカミと関電学者センセ、マスコミもろもろの原発は安全という宣伝が行き渡って、毒饅頭でないかとはツユ疑うこともなかったような牧歌的景色である。若狭原発最初の、全国的にも最初の加圧水型原子炉をすぐそこにのぞむ、今から見れば超楽観的でありえないような村風景である。
美浜原発(美浜町丹生)
『扶桑略記』によれば、延喜19(919)年、渤海使が若狭国の「丹生浦」に漂着したと見えて、一行105人は越前敦賀の松原駅へ送られたとある。当時は若狭湾有数の国際港であったようである。ヤバイ原発で有名になってしまったが、たいへんに景観美しい浜である。

 「今やすけりゃいい」、そうした遠い未来まで見通した安全確認なしのアホかいな脳と誇大宣伝だけで実際は実際は低品質ムラ社会+低品質政財界+低品質諸々どもが生み出した超低品質原発、しかしその安いというのもウソだし、安全性は神々のご加護あってたまたま大事故には到らなかったというだけであったが、3.11が完璧にそのとんでもない超危険性を実証してしまった。いまだ16万人が保障もほとんど受けられないなか避難としていて、リターンできる日の見通しは立たない。低品質連中の信頼が戻る日も見通しが立たない。口だけで誠実な仕事をせず、儲かればいいとしか考えていない、という完璧に伝統的日本的文化とは反したこれら連中が行き着いた、どうにもならない結論なのであるが、汚染水を毎日300トンとかを海に垂れ流し続けていて、これも収束の見通しが立たない。毎日毎日増え続ける莫大な水量に東電ではいよいよ手に負えなくなり、国が前面にでる、のだそうである。
(日本の大バクチがはずれた日→
だましてゴメンナサイ、カッコだけに謝られる方も謝る方も地獄。政府も政治屋も財界も学者センセもマスコミもその他もろもろの推進派も謝るのが当たり前だろうが、なぜか東電だけになっている。こんな日があったことなど、その東電さんは、いや政府も、国民はもとより、同じ原発が立地するその自治体首長や議員や住民までもが、三歩もあるけば、スコーンと忘れてしまう。毒饅頭を食わされ続けたために、身も心も脳味噌もみんな腐ってしまったのだろうか→
地震津波の予知はできず津波の高さなどはわからなかった、福島の大事故を起こしても東電には責任はないなどと逃げる、そして一方では将来起こるであろう地震津波には原発の安全は確保できてござるという。聞くのもアホらしいリクツをこねる。福島事故解決の見通しも立たぬままに、もう柏崎刈羽原発を動かすハラをしっかり決めている。)


 底が抜けたプルトニウム原発の廃炉など誰もこれまでやったことがない超難題、今後何百年かかるかもわからない、たぶん何万年先でもできまい、あそこへ人類が滅亡する日まで置いておく以外には手がないかも知れない、そうなる可能性も高いはずだ、それを見越して海側と山側と原発の地下に強固で何があっても何万年でも壊れない超強固な遮蔽壁を地下の深くまで建設する以外には手がなかろう、ICBMの地下サイロ以上のものが求められよう、仮に国が前面に出たとしても、これまでの国の姿勢やそのお仕事の実績を見れば、こうした本格的な仕事は期待できまい。口ばっかりで汚染水すら何ともできない、しようともしない実力、「日本の原子力技術はアメリカ以上です」とよくもぬかしてくれたものである。相手はプルトニウム原発であり、これを最終的に廃炉できる見通しなどは簡単には立つワケがない。専用港
 福島原発には山側から1日約1000トンの地下水流入があり、このうち約400トンが建屋に流入して、これがくみ上げられて地上のタンクに保存されている。残りの約600トンはどこへ行ったか不明だが山へは行くまい、一部は原発地下の放射能汚染源に触れて海に放出されている状況だろうという(300トンというのこの分らしい)。ドラム缶は200リットル、600トンはドラム缶換算で、3000本である。毎日毎日これだけの汚染水が出ていて、これが外海に流れ出ていない、ブロックされコントロール下にあると、どういう目出度き頭があれば言えるのだろう。ヘッサラでウソをこく。
大ウソがぬけぬけと言え、ぬけぬけとマンザイができ、最低のモラルさえもない人間かでもない限りは政治屋にはなれないようである。
汚染されているのは原発専用湾内だけで外洋には出ていない。あれくらいの湾内などすぐに一杯になりあふれ出ていそうなことくらいは、サルの脳味噌があればわかる。湾は砂と泥と石で外洋と隔てられているだけで、いくらでも隙間がある。2年半もそうした状態が続いているのだから、海洋汚染は陸上よりもはるかに深刻である。どれくらい死の灰が太平洋を汚染したかのシミレーションがある。→汚染地図
すでにこれだけも汚染していて、さらにヌケヌケと全世界を前に大ウソをいう。
地上の汚染水タンクは間もなく一杯になろうし、広い範囲にばらまかれたの多量の汚染物も持っていく所がないそうである。それならばぜひ東京へ持って行こう、キミたちの電気で出たものだから、キミたちが処理するのがスジ、全部東京へ持って行こう。放射能汚染物や廃棄物の永久保管所は東京にぜひ作ろう。都合のいい物はオモテナシ、都合悪ければ地方に押しつける。
おもてなし、などは言葉にするものではない、愛するなどと同じで言葉にしたら、もうそれで終わる、心の中においておくもので行為で示すより方法が本来はないものであろう、あるいははたでみていた第三者が使う言葉であろう、日本文化ではそうなのである、二世か三世か知らないが日本を理解していないのか、仕方ないとしても、それを純粋な日本人があっちでもこっちでもすぐマネをする、軽薄日本人の見本だぞ。
オスプレーも米軍基地も、東京よ、すべて引き取れ!
ドクズどもにそこまでは言っても仕方もなかろう、しかしせめてオリンピック用の電気は自分の所で作れ。


原爆
 仮にタダで電力を生み出すものであっても、爆発し、その後も深刻な被害が長時間にわたるものなら、人間の社会では何も意味はなく、使い道はない、さっさと世の中から消えてもらうより道はない。
それが出来ないなら、やはり日本社会の根本の何かが狂っていると判断しないわけにはいかない。人の安全よりも、目の前のモウケが優先される社会だ、そうなっているということで、これを変えるより道がない。
死の灰という観点からだけなら原発よりは原爆の方がずっとずっとましである。はるかに死の灰の量は少ないし、空中爆発なら火玉から生じた上昇気流に吹き上げられて直下の地上へは多くは降らないと思われるからである。(それでも多少は降るし、それにより今尚原爆症で苦しむ被爆者もまた多い)
100万キロワット原発が1日稼働すれば広島原爆3発分の死の灰ができる。それらは持って行く所がなく、原発内に貯まっていて、現在原子炉に入っている分だけでなく、過去に作られた死の灰も所内に蓄えられたままである。広島原爆に換算すれば、何万発分にもなる。だからひとつ間違えれば原発は地上爆発専用の超スーパー原爆である。


: 現在の科学力では地震や津波は予知はできない、どれくらいのものがいつやってくる、と確実に答えられるだけの知的能力をわれらはまだ持たない。地震学は未来予測的中率「万に一つ」もないかそれ以下の「学問」である。将来予測ができない「学問」などとは仮にも学問と呼べる水準ではない、そんなものが学問ならだれでも大学者であろう。
残りの99.99%以上は政治判断である、しかも超頼りなく責任も負わない蛸政治屋や蟹官僚どもなどの烏賊様判断である、これで安全といって稼働させてきたわけである。原発を安全に稼働するといっても、数千年とか数万年とかそれ以上のサイクルの自然現象が相手では人間は博打打ちでしかない。丁と出るか半と出るか、それはわからない。いや半やでど、大枚を張ったりして大損になったりする。そうした能力しか現在の人類は持たない。原発はこの観点からもムリである、特に日本のような地震・津波・噴火の地球上まれに見るプレートの複雑で活発な境界線上に国土がある国にはそうである。地震学という自然科学の基礎学問が確立できていない以上は原発の安全保証などは、学問的科学的にはできない話で烏賊様師の大ウソ保証以外にはない。
烏賊様は烏賊様でしかなく当然にもいつかはその烏賊様予測が外れる。そうなればその被害額は天文学的な数値にのぼってしまう。一国が崩壊しても支払えない金額に達してしまう。コマーシャル・ベースではどうにもなるようにものではない、ゼニ儲けの対象になる発電法ではないのである。
もし安全だというなら全機再稼働させればよい、そして東京大阪など電力を必要とする大都市のド真ん中にどんどんどんどんと原発を作るがよかろう。いやそれは困る、交付金をはずむから地方に作らせてくれなとど言うならやめるより道はない。危険だというなら全機廃炉である。東京に作れないものは地方でも作れない、簡単なリクツである。大都市に住むものの安全よりも田舎に住む者の安全を軽視してよい理由はない、田舎に原発を作るというなら大都市の真ん中にこそ原発を作れ、その方が送電ロスがなくはるかに経済効率がよい、ムダに捨てる石油も少なくなり、電力料金は安くなる、田舎の老朽不安全な炉はすべて廃炉にして、新しい安全な原発を建設しろ、利権屋と強欲経済界と命より銭が好きというビンボー人とアホウどもが喜ぶかも知れない。この原発は危険で、あの原発は安全だなどと言えるだけの力を我らは持たない。地下構造が不明で、今後どんな天変地異が発生するかをわれらは知らない以上は原発の危険度ランクもたいした意味がない、新しいから安全とも言えない、そこに大地震大津波や何が起こるか知れないからである。半端なことは命とりにしかならない、1機が爆発しただけでも日本は終わるからである。
何事も最悪を想定して事に慎重に対処するのが利口な信頼するに値する政治家のなすべき態度である。それに比べてただのイカレた暴走政治屋どもの政治判断で原発稼働などさせてはなるまい。

 美浜原発はこれまでに大きな事故を引き起こしてきた、加圧水型としては最も老朽原発群であるが、福一に比べると美浜はよほどに安全なのであろうか、再稼働を目指して、政府、政権党、関電さんはじめ、福井県、美浜町、その他もろもろどもが、ユメよもう一度と、うごめいている。しかしいずれも最終責任を負ってくれたりはしないだろうことは福一が証明している。モウケが大きい仕事はリスクも大きいのがフツー、長くやっていれば必ず大損になる、の一般経済定理(私の定理だが)の証明例。バクチなどしたことがなくとも、パチンコくらいなら体験があるだろう、長い目でみれば儲かることはない、バクチとはそうしたものである。捨てるゼニのある人が捨てるつもりでやるものである。今こそ手を引く潮時、原発なしで電力は足りている、原発なければ電力料金が高くなるは連中の目先だけを見た連中の聞き飽きた大ウソ宣伝である、原発再稼働で電気料金は下がるのでなく上がる、尻ぬぐいために税金も上がる、これが正解なことはことは福一事故を見ればサルですらよくわかろう、一体福一関連の被害総額は幾らになるのだ、被害の全体像がいまだわからないのだから計算もできないが、ゼニに換算できない問題も多いが、ゼニだけでいうなら62兆円とか、279兆円とかとも言われている、これは計算もできない大問題は無視してのものだろう。比較的田舎にあって死の灰は海に多くが飛んだからこれくらいだが、大都市近くの若狭の場合はこれでも済むまい。原発を続けて今以上に死の灰やましてやプルトニウムを貯め続ければ、もっともっともっと高くなって、金銭に換算しようもない天文学的被害も予測される、サル程度の頭脳のある者なら原発ゼロに反対はしない、今でしょう、全機廃炉は今をおいていつがあるでしょう。

 そうしたことを特に言おうとするのでもないが、ここの丹生は丹後とは無縁な場所ではない、ここの丹生と伊根町の蒲入とは関係がある。
「津波伝承論ノート」(金田久璋)『季刊東北学』(2011.11)に、
「丹生千軒」は山津波で村が立ち行かなくなり丹後の蒲入に分村したとされ、戦前までは村付き合いがあったといい、盆踊りが酷似しているともいう。以前、古老からの採話では山津波とされていたが、先日長老の古川信治氏(大正十四年生) に確かめたところ、鶏肉を使って出漁したところその祟りで津波に襲われ、八百戸もあった村が丹後へ分村したと述べており、伝承にいささか齟齬がみられる。




丹生は断層地名、美浜原発は特別にヤバイ場所にある。

 
 美浜原発がある丹生は、文字通りに、丹の産地を示した地名で、ここには式内社の丹生神社が鎮座する。
ところで、国内で、朱の産地としてよく知られる場所は、中央構造線断層帯上に集まっている。『古代の鉄と神々』(真弓常忠)は、
現に中央構造線に沿って丹生の地名や丹生神社が多く、水銀鉱山も多い。

『丹生の研究』(松田寿男)は、
伊勢の丹生から西に、数々の丹生をつらねて豊後の丹生まで、地質学での中央構造線は、まさしく”丹生通り”を形成しているではないか。

或る鉱床学者が「西南日本における水銀鉱床の分布が、ほぼ中央構造線に沿っていることも興味あることである」(滝本清氏「鉱床学」P、358)と刮目したように、西南日本を横に二分する中央構造線が、水銀鉱床の分布と、また丹生の分布とも符合しているのは、まことにみごとといわねばならない。

仁保は地名として周防・安芸・備前と近江とに見出される。別に周防には仁保谷(山口県都濃郡鹿野町)がある。なかでも周防から備前にかけて所在する3つの仁保は、瀬戸内海の北岸にほとんど一直線を描き、この海の南岸を東西に走る中央構造線(メディアン=ライン)と平行し、その線上に多くの朱産地を散布するという、まことに注目すべき在り方をもっている。


より大きな地図で 中央構造線マップ を表示

こうした場所に丹生がある、断層そのものを示す地名ではないが、ある断層線ははどうやらまた丹が生まれる場所でもあるように思われる。丹生関係地名の地下には断層が秘められている、私も丹後で朱を調べていると、この地下には断層がないか、何やらそのように感じたことは何度もあった。断層があれば丹生があるというわけではないが、丹生があれば近くに大断層がありそうだ、これは私の経験則となっている。そうした頼りない話では、と思われるだろうが、過去を知るより未来を知る方法がない。過去は人間が書いた書として残されていることもあろうし、断層などとして自然の中に残されていることもあろう。

 中央構造線上の原発は、四国電力の伊方原発(3機、3号機はブルトニウム)のみである。全長千キロにも及ぶ巨大断層の真上、ガンときたら制御棒を挿入する余裕もない位置にある。伊方原発と構造線
炉は古く耐震設計になってない、そこへプルトニウムである。米軍ヘリが伊方原発から800メートルの所へ墜落した事故もあった、もし多量の弾薬などを積んでいたら…、若狭原発もマッサオな伊方原発である。
右図は『プルトニウム発電の恐怖』より。同書によれば、この断層は千数百年の周期で動き、今は活動期で、今すぐに動いても不思議ではない、マグニチュードは8超、断層から10キロ以内は揺れはほとんどかわらない、という。この断層は地表図ではこのように離れて見えるが、斜め下に原発の下へ潜り込み続いていて、だから断層の直上に原発がある。なお同書によれば、最新の計算機で計算しなおすと1・2号機は473ガルに耐えられるそうである、最初は200ガルだったものだそうである。若狭湾の津波の想定高さは原発の前で急に低くなるし、伊方では何もしていないのに急に耐震ガルが上がるようである。さすがに最新のスーパーコンピューター、百メートルの津波が来ても、マグニチュード百の地震が来ても、これらの原発には屁でもないことのようである。何も対策しなくても最新のコンピューターに計算しなおさせさえすれば、安全で〜すの解答がでるようにプログラムが組れているようである。データーは腐るほどもあり、それらの中から都合のいいものだけを選び、都合の良いプログラムで計算すれば、どんな答えでも出てくるのがコンピューターである。全体としてのその信頼性は3.11が実証している。科学にもコンピューターにも立場というもの、政治があり、それによって必ずしも正しいことを言うものではなく、人々の安全を保障するものではない。地震は必ずそのうちに起きる、それを止めることはできないし、かなりあいまいに確率的な予知しかできないし、何百年何千年何万年に一度だけしかデーターは取れずそうした過去のデーター皆無の場合は確率論的予知すらできないケースも多い。
われらはこうした過去データーを大切にしなければ、未来を知ることなどはまったくできない。

 よそのことは置くとして、若狭湾湾岸にも丹生が集中することが知られている。美浜原発、もんじゅ高速増殖炉、敦賀原発と問題の原発が集中する立石(敦賀)半島、若狭と越前の境目あたり、若狭湾の東側は特に丹生が集中している。
地名から考えれば、「ここには断層があります、このあたりは危険な所ですよ」と警告しているように見える。こうした場所で原発を稼働させたり、多量の死の灰を蓄蔵するなどは、厳に避けねばならない。
美浜原発が立地する所は美浜町丹生、ここには式内社・丹生神社がある、
丹生神社(三方郡丹生)
今年9月16日の台風18号の大雨による山崩れのようだが、メチャクチャになっていた。爆風にでもなぎ倒されたかのように檜が何本も道をふさいでいる。ずいぶん古い写真はあるのだが、この神社のものだったかどうか怪しいので確認に行ってみたが、ヤバくて近寄れず確認はできない↓。
地震津波だけでなく、こうした危険もある、丹後にも多い花崗岩が風化した砂の山だから、大雨が降ればこうしたことになるのだろう、しかしこうした山に丹があるのだろうか。見た目ではまったく不明で、資料を科学分析する以外には確かめようがない。ここにあるのなら丹後にも大ありであろうか。
丹生神社?
『丹生の研究』は
立石半島の突端部はここで数字の7字形を呈して海をだきこむ。この小湾に南面する漁村が丹生である。最近はここに原子力発電所が建設されるそうであるが、部落の変貌もさることながら、さぞかしあの美観が失われることであろうと、心痛に堪えない。私がここを調査したのは昭和34年7月28日であったが,このころはまだ全くの僻地で世人の関心から遠ざけられていたから、往来も容易ではなかった。幸にも私は郷土の人永江秀雄氏の配慮で美浜町町長の後援をうけ、また現地でも多数の人たちの協力をうけて完全に調査を終ることができた。採集した試料は水銀含有0.0019%から0.0066%を示して、丹生の名を実証してくれたが、ここに所在した丹生神社は、浦の東側の山添いに"賀茂大明神"(社額による)として残っていた。昭和12年にこの神社から提出された"村社加列願"に「福井県三方郡山東村大字丹生字北宮脇第三十三号第八番地式内無格社丹生神社」とあるから、この社が本来ニウヅヒメ祭祀に起り、後代に丹生・加茂明神と変じ、現在加茂神社として通っていることが判明するであろう。
博士も心を痛められたようだが、公園は、ここは若狭湾国定公園だが、たとえどんな公園であっても非軍事化、非核化すべきであろう。勉強足りず、私は知らないのだが、世界自然公園規範とかあって、そう努力すべきとかの勧告がないのだろうか。自然公園内とその周辺は、美しい神の恩寵に特別に敬意を払い、核施設などは一切作ってはならないとか人間としてはあるべきであろう。地球がそこに住む生物なども含めて神の恩寵なのだが、地球全体をそうすべきであろうが、まずそれに先だって、そうしていこうではないか。

 東は、敦賀湾を挟んで越前国丹生郡。
「もっと古いころのこの郡の範囲は、いっそう広く、今の丹生郡だけに止まらずに、今立・南条の両郡をも、また武生・鯖江の両市域をも含んでいた。それが,弘仁14年(823年)に東部をさいて今立郡を起し、その後に、南部を分離して南条郡を独立させたのである」と『丹生の研究』は記している。

越前海岸の東の山々が丹生山地(最高峰・六所山698m)で、その山脚は海に迫り、発達する2〜3段の海岸段丘面が僅かに耕地として利用される。海岸段丘があることは何度か隆起があったことを物語る。
この山脈は南へ続いていて、美浜原発のある敦賀(立石)半島の脊梁山脈、さらに福井県と滋賀県を分ける三十三間山の山地、ここの頂上付近は準平原状というから隆起した山地であるが、さらに琵琶湖西岸の比良山地へと続いた大きな山脈である。この長い山脈は東西から押されて今も隆起中のようである。若狭湾は全体としては沈降だが、詳しく見れば波打っていて、隆起も沈降もある、複雑な所であるよう。

 西側は遠敷郡で、小丹生郡の意味である。今は大飯郡があり、大飯原発と高浜原発があるが、その大飯郡は天長2年(825)に遠敷郡から分かれたもので、丹後境まで小丹生郡であった。大飯原発も高浜原発も若狭の原発はすべて丹生原発である。



美浜原発は隆起する場所にある。


 寛文地震では、このあたりの海岸一帯が隆起した記録がある。
当サイトの「波せき地蔵」でも書いたが、もう一度書けば、
寛文二年(1662)五月一日の大地震M7.5は「寛文近江・若狭地震」と呼ばれている。若狭の日向断層から花折断層が動いたといわれる。三方五湖は東側が3メートル以上も持ち上がり、菅湖から久々子湖へ流れていた水路が今の宇波西神社の前にあったのだが、それが隆起で閉ざされ、海への出口を失って湖の水位が上昇し湖岸集落は水没し始めた、そこで切り開かれたのが浦見川であった。琵琶湖西岸も壊滅的被害を受けたという。
『新京都五億年の旅』は、
寛文の地震
寛文二年五月(一六六二年六月十六日)、琵琶湖の西あたりを中心とする激しい地震がありました。京都でも千戸の家が倒れ、二百人以上の死者がでたとのことです。このとき、安曇川の谷では地震とともに空が暗くなったと思う間もなく、東の山から大きな石や土がくずれ落ちてきました。谷にあった町居と梅の木の村は埋められてしまい、三百人以上の村で生き残ったのはわずか三十七人でした。
 東の山からくずれ落ちた土石流は村を埋めただけでなく、安曇川を埋め、対岸の段丘の上まで達し、安曇川はせきとめられて、湖ができました。
 川をせきとめた土砂はその後くずれ、たまっていた水によって下流の村にも災害をひきおこしました。段丘の上の土砂崩壊層は今も残っており、オンノノ平とよばれる丘になっています。
 梅の木の普済禅寺には、この山くずれでなくなった人たちの霊をとむらう石塔が立っています。建てられたのは百年近くたった宝暦八年(一七五八)とあります。生き残った人たちが村を復興するのに、それほどの年数が必要だったのでしょうか。
 この地震の被害は琵琶湖の西岸でとくにひどかったので、震源は花折断層に平行した比良山系の東側の断層ではないかと考えられています。山の大崩壊は花折断層のずれでおこったのではなく、地震の振動によって急斜面の風化した地層がゆり動かされたものでしょう。また季節からいうと、それにつけ加えて雨の影響もあったのかもしれません。
 比良、比叡、東山とつづく山々が上昇し、京都盆地が沈降する運動は何十万年も前から今もまだ続いているのですから、花折断層もまたいつ動くとも限りません。
この地震では若狭では全体的には津波よりも、地面が隆起したようである。三方五湖あたりから美浜原発のある丹生あたりまで、美浜湾は20キロ以上にわたって、150〜250メートルばかり汀線が沖へ引いて、浜は干上がったと伝わる。浦見川を開いた行方久兵衛の縁者家であろうか、そこの文書に、
「三方郡の内、丹生浦より早瀬まで五〜六里ばかりの間、大海の磯辺が八十間、早瀬浦は沖へ百三十間干上がり、」。こうした数字はまず正確と見ていいのではなかろうか。
ネット上の調査資料などを読んでも、敦賀半島の西側から北側にかけて海底にはいくつも断層があるが、すべて東側隆起断層(E隆起)であるし、白木−丹生断層も東側隆起断層である。だからこの半島は隆起すると見ておく必要がありそう。海岸も隆起するし、山はもっと隆起する。隆起量は寛文地震クラスなら3〜5メートルと見ておくべきであろうか。

 松原製塩遺跡
美浜町松原に奈良期の松原製塩遺跡がある、海より200メートル内陸にあり、海抜7メートル半ばかりの砂丘上にある。砂丘と書かれているが、ここは西側の早瀬あたりから東へ突き出た砂嘴ではなかろうか。今の松原集落もその砂嘴上にあるようである。今の国道27号あたりまでは海でこの砂嘴があるため耳川の川口部は広く潟湖になっていたような地形と思われる。その砂嘴の東側先端に今は「浄化センター」があり、その西隣に「ゆうあい広場」があって、その北側に「松原製塩遺跡」がある。
地図を作ってみると、
獅子塚古墳時代は、このあたりまで海であったのではなかろうか。獅子塚は海辺に海を意識して作られたのではなかろうか。8メートル海面をあげて作図したもの↓
今より8メートル海面を上昇
その後は堆積などで埋まっていったと思われる。
松原遺跡の時代は、これくらいか。5メートル海面を上げて作図。↓
松原海岸5メートル海面を上昇させた
製塩遺跡なら汀のすぐ近くで海抜0あたりにあるのが普通だろうが、今は海から離れた高い場所にある、これはおかしい。
↑こうした状態であったところに隆起が起こり、今の地形となったものと思われる。

若狭国での被害・地変と震災対応」は、
美浜湾岸についてみると、久久子から松原に至る久々子湖東方の海岸には2列の砂丘が平行し、陸側の砂丘で7世紀の製塩遺構が発見されている(網谷、1995)。このことは古代において陸側の砂丘が海岸に面していたことを示す。この松原製塩遺跡より海側の砂丘間低地の標高は約2m、陸側の砂丘よりも内陸の沖積段丘の標高が約4mであることから、当地が古代以降3m程度隆起したと考えれば矛盾なく説明できる。

↑「ゆうあい広場」の体育館。この裏側(海側)に回ると↓
松原製塩遺跡
松原製塩遺跡↑↓
松原製塩遺跡
海はどこに?先に砂丘の盛り上がりがあって、その先が海である。
松原遺跡より海の方向
その砂丘に登ってみる↓かまぼこ屋根の下に松原製塩遺跡がある。海↓
製塩遺跡が稼働していた頃は、この砂丘はなく、かまぼこの下まで海であったと思われる。
寛文砂丘上より
海側の砂丘上から東側をのぞむ↓
松原の海側の砂丘
↑海側のこの砂丘は寛文隆起以降にできたものと思われる。それ以前は海であったと思われる。

 美浜原発の向かいに丹生小学校があるが、ここの校庭にも製塩遺跡がある、そのほかにもあるようだがどうも詳細な報告が見当たらないのだが、原発真ん前の地も何メートルかは隆起したと思われる。この先の「もんじゅ」がある白木も製塩遺跡があり、汀から離れた場所にあるという。
 早瀬にも製塩遺跡がある。『わかさ美浜町誌』は、
早瀬遺跡は早瀬区の後背地の海抜5.0メートル〜6.5メートルの海岸段丘面、海抜十三.〇メートルの山裾開墾地に立地している。
場所によって多少の違いがありそうだが、だいたいこの数値の隆起はあったのではなかろうか。
次はいつかは不明だが、そのときは3メートルはまず確実、だから5メートルくらいは隆起するかも、100メートル汀が引くと見ておかねばなるまい、それだけ陸地が隆起するということは海水面が今より5メートル下がるということで、それでも冷却海水が取り込めるのかという問題である。原電へはいる専用橋の下あたりはもっとも水深が浅く、5メートルはない。
原発は水がないとメルトダウンとなる。
美浜原発







津波伝説が集中する美浜湾


 美浜湾と呼んでいるのは、立石(敦賀)半島と常神半島の間に湾入している海をそう呼んだのだが、美浜というのは昭和29年の合併地名だから、そう由緒はない。古来の何か呼び名があってもよさそうなものといろいろ読んでみると、「丹生の浦」とも呼ぶようであるが、丹生浦は小さな意味での原発の湾を呼び、それが有名だから、混乱してあまりふさわくしない。もっと古くは「渟田の門」(ぬたのと)と呼んだと仲哀紀に見えるが、神功皇后の時代であるし、ホントにこの海であったかは確証はない。そうしたことで取り敢えず「美浜湾」と呼んでおこう。
地元の金田久璋氏の優れた論稿がすでに発表されていて、別にたいした知識もないよそ者がつまらぬ蛇足を加えることもなかろうが、ただ氏の資料は手に入りにくいかも知れないので、すこし紹介してみようかと思う。
この湾f津波伝説が集中している。しかも超巨大津波である。
伝説の周辺地図
ウエブ上に公開されていた地図に多少手を加えた↑
渟田の戸のヌタ(ノタ)は、このあたりでは津波のことという、丹後でもノタは大波をいう。

 まず有名な「波よけ地蔵
波よけ地蔵(佐田)

波よけ地蔵(佐田)

敦賀半島の付け根部分を東西に国道27号線が走るが、バイパスができる以前はこの道を走っていた。頂上が若狭と越前の国境で、そこにこの地蔵がある。
『越前若狭の伝説』(杉原丈夫編・昭45年2月発行)に、
波よけ地蔵   (佐田)
若越国境の関峠に石の地蔵があり、これを波よけ地蔵という。むかし大津波があったとき、打ち寄せた津波はここで止まったという。(永江秀雄)


野坂−集福寺断層
この街道が野坂断層で、道路や鉄道の南側を走るという。
この先に集福寺断層があって野坂・集福寺断層帯と呼ばれる。
野坂断層帯は、若狭湾の海底にも長く横たわり陸上に続いて美浜町を経て敦賀市に至り、長さは約31km、北西−南東方向に延びてた左横ずれかつ北東側が相対的に隆起する逆断層。集福寺断層は、敦賀市から滋賀県西浅井町に至る断層で、長さは約10kmで、北西−南東方向に延びて、左横ずれを主体とする断層という。


 「のたくぼ・のた平」 同書はまた、
のた平 (佐田)
佐田の東南にある乗鞍(のりくら)岳(六五〇メートル)の中腹には、のたくぽ・のた平(だいら)という所がある。のたとは波のことである。そこには津波で逃げた人々が使用した粉ひき用の石うすがあるという。(永江秀雄)

関峠の南側の、国境線上の山脈と思われるが650メートルの乗鞍岳がどの山かわからない、「のた平」の位置もわからない。敦賀市の南の滋賀県との境に乗鞍岳があるが、これは865メートルもあるし、これではないと思われる。この伝承には別伝として、「太田山西谷山上の菅引き場なる処にノタクボの地名あり」また「太田の大稲谷に海原か船原と云う所あり、浜真砂多数ありと」ともあるそうである。

 「坂尻の大津波」 同書はまた、

大津波 (坂尻)
古代の坂尻は数百戸の部落であったが、大津波のために海中に没して跡方もなくなった。この大津波のとき坂尻の天王山(約一八〇メートル)へ逃げた者は腰まで水につかり、山上(やまがみ)の御嶽(おんたけ)山(約五二〇メートル)へ逃げた者は水に足がつかったという。(永江秀雄)

坂尻(福井県三方郡美浜町)

坂尻集落
「坂尻千軒・横浜千軒」の伝説。
坂尻千軒は、天王山麓下の写真の所ある集落であるが、そこの字横浜にかつて大きな漁村があったが津波で壊滅したという。、

 「かれこ」 同書はまた、
かれこ (久々子)
もとの西郷村に「かれこ」という地名がある。むかし大津波のときに、かれいが木の枝にさささって干せていたので「かれこ」というのである。しかし今それは松原か金山か所在が不明である。(永江秀雄)
西郷村は、日向浦・早瀬浦と笹田・久々子・松原・大薮・金山・郷市の6か村および気山村の一部が合併した、明治22年の村。

 有名な「クルビ村」 『西田村誌』に、
クルビ村
 小川の裏の山を越した日本海岸を血の浦といひ、そこには以前クルビといふ村があつたが、或晩村人が出漁中に大津波がおしよせて神社と寺と民家一軒だけを残して全滅したが、その一軒家は後に早瀬へ移住し、今は再転して大阪にゐるといふ。クルビ村がなくなつた時、日向は海をもらひ、早瀬は山をもらひ、小川は御本尊の延命地藏菩薩をもらつて海藏院へ祀つたといはれてゐる。現在血の浦には早瀬から開拓團が入植して十戸余りになり、目下小川から電氣をひく計画をしてゐる。

滅びたクルビ村(福井県三方郡三方町)
レインボーラインからクルビ村があったという「血の浦」方面↑。小石浜が3箇所見られるが、どこがクルビ村なのかはわからない。たぶんの話だが、一番先の浜でなかろうか。ほかの古文書からもこの村がかつて実在したことは確認されているし村跡の遺跡もある。「久留見千軒」とも呼ばれるという。

 ウソー、ナンボ伝説やというたかて、オーバーな、など思われるかも知れない、たまたま永江秀雄氏のような熱心な郷土史家がいて、さらに先行した熱心な郷土史家が本業のかたわら地域の伝承を聞き取っていたという、たまたまの奇跡が二代にわたったという超幸運によって、この地の伝承が今にまで伝わり、それをまた杉原氏が見逃さなかったという奇跡があったということであって、こうしたことでもない限りはめったなことではフツーには信じられないような洪水伝説は残らないのであろう。
多少はオーバーにデフォルメされて、多少は曖昧で神秘的に語られる、そうしたことは伝承世界の文学的芸術的表現方法なので避けられない、小説みたいなことがあるはずがない、猫がしゃべるか、漱石はイカレてるぜ、などとアホを言うようなもので、学術論文ではないのだから、額面通りに受け止める必要はなく、むかし大きな津波があった、ということだけを受け止めればいいと思われる。「むかし」と言っても絶対年代は不明、「大きな」と言っても何メートルかは不明、それを明らかにするのが科学的とかの現代人の務めではないか、それができないからといってウソだとか決めつけてはなるまい。
しかし大きな断層は数千年に1度くらいしか動かず、そうした古い時代の確かな記録はない、せいぜいここ五百年分しかないので、現代人にもお手上げの状況である。現代人的常識的な予測しかできず、「想定外」の大地震が突如発生する。
関電さんは古今の文献を調査されて、津波はないと言い続けて来られたが、実は都合の悪いものは調べてはいなかった、あるいは調べてはいたのだがとぼけていたのではなかろうか。ちょっと図書館で調べればすぐわかるものである。彼らの調査は実はアテにならないということを証明したようなことである。

天正の若狭津波は、さらに兼見卿記やフロイス書簡も知られている。伝説よりはこちらはより信用できるかも知れない。

オーバーかも知れないが、次を見て頂ければ、こうしたことも本当にあるかもと、思われてくるのである。





寛文の近江・若狭地震


三方−花折断層
 『地震の日本史』(寒川旭)によれば、
寛文近江・若狭地震
 琵琶湖の西には比良山地が南北に連なる。山地の西側を真っすぐに延びる花折断層は、古くから活動を繰り返しており、断層に沿う岩盤は幅広く破砕されている。この脆い岩石を浸食しながら北流する安曇川は、途中谷を越えて東に向きを変え、琵琶湖へ流れ込んでいる。
 梅雨の最中の一六六二年六月一六日(寛文二年五月一日)。この日も雨が降り続いていた。年前一一時すぎ(午上刻)、地鳴りとともに地面が激しく揺れ始めた。その直後、安曇川上流の葛川谷では、東側の山腹が抜け落ちて斜面を流れ下った(町居崩れ)。土砂に埋まったのは町居村と榎村、人口約三〇〇人の町居村で生き残ったのは三七人、榎村では三〇〇人余りが命を失った (著者不詳〔林鵞峯か〕『玉露叢』)。「仮名草子」の作者浅井了意は、生き埋めになってから二、三日は土の中から男女の泣き声がかすかに聞こえ、掘り出すこともできず人々は涙を流したが、四、五日後には泣き声も途絶えたと『かなめいし』に記している。
 安曇川中流の朽木谷では、元領主の朽木宜綱が隠居してから立斎と名乗っていた。八一歳の彼は、地震で潰れた家の梁に打たれて命を失い、家来の七、八人も一緒に圧死した(『慶安元禄間記』)。付近の潰家からは火が出て、辺り一面が焼失した(『殿中日記』)。
 この寛文近江・若狭地震によって琵琶湖の西岸一帯が壊滅的な被害を蒙った。大溝(現・高島市)では、高島藩分部伊賀守の家臣の家が五軒を残して皆倒れ、三〇〇軒ほどあった町屋の一〇軒が残った。そして、領内の民屋は一〇二〇軒ほどが倒れ、男女二〇人と馬五頭が死んだ。大津では小野総左右衛門の屋敷と町屋の多くが破損し、公儀の米倉が残らず倒れた膳所城では天守と矢倉以外はすべて倒れた〔『玉露叢』)。東岸の井伊玄蕃頭の領分の佐和山(現・彦根市)では、城が歪んで石垣が五〇〇〜六〇〇間崩れ、一〇〇〇軒余りの家が潰れ、死者が三〇人余りだった。京都でも二条城の番衆の小屋が皆崩れ、一〇〇〇軒余りの町屋が崩れた(『殿中日記』)。
 葛川谷や途中谷を通る花折断層について、地質調査所の吉岡俊和(環・産経研)らが一九九六年にトレンチ調査を行ない、およそ四〇〇年前に活動したことを明らかにした。この断層が一六六二年の地震を引き起こしたのである。花折断層の南部が最後に活動したのは弥生時代前後なので(第一葦参照)、近江・若狭地震で花折断層の北〜中部が活動したことになる。…
京都新聞』(13.3.5)
寛文地震の古地図発見 成安造形大研が新資料
 成安造形大近江学研究所は5日、1662(寛文2)年に京滋に大被害をもたらした「寛文近江・若狭地震」を記した新資料の古地図を発見した、と発表した。大津市葛川を襲った「町居崩れ」と呼ばれる大規模な土砂崩れでは、「7日目に2人を掘り出した」と奇跡の生還を記し、被災直後の生々しい状況を伝えている。  「江州之図」と題した縦約240センチ、横約150センチの古地図。琵琶湖を中心に近江国全体の街道や湖岸の村落を描く。同大学職員の松井善和さん(61)が昨春、古書店で購入し、同研究所が調査していた。  地図の朽木谷の部分には「榎村(現葛川梅ノ木町)に約50軒あり、山が崩れ1人も助からなかった。山へ行った2人だけ生き残った。浜の商人2人は7日目に掘り出し助かった」と記されていた。  町居崩れは、葛川の2村を飲み込み数百人の死者が出たとされ、仮名草子「かなめいし」など多くの文献に記録されているが、生存者の記述は新事実とみられる。  同研究所は、発生月の書き方や地図中に記された領主の官職の時期などを分析し、地図は船奉行として水運を取り仕切った芦浦観音寺(草津市)が、地震と同じ年に作成したと判断した。  加藤賢治研究員(45)は「これほど臨場感のある書き方は珍しく、被害の大きさをあらためて裏付けた。地域の防災意識向上につながれば」と話す。成果は、3月末発刊の同研究所紀要に掲載する。 <寛文近江・若狭地震>寛文2年5月1日発生。琵琶湖西岸を中心に被害が大きく、現在の高島市や大津市などで壊滅的な家屋倒壊を引き起こし、膳所城も大きな被害を受けた。京都でも千軒余りの町家が崩れたとされる。花折断層などの活動によるとみられる。


 三方断層が先に動き、すぐに花折断層が動いたといわれる。
若狭側ではどうであったろうか。三方五湖の東側が3メートルばかり隆起したという。美浜湾の湾奥から東側かも隆起した。↓

三方断層は国道27号線の線である。これより山側(東側)が隆起する断層とされるが、西側(浜側)の近い所1キロばかりも引っ張られてか隆起する。それ以遠の西側は沈降のようである。7万年の年縞で知られる水月湖は、その期間に50メートルばかり沈降し続けていた。水月湖が沈下しつづけるということは美浜原発の地は隆起しつづけるということになろうか、将来は50メートルの山になるかも知れない。
隆起がもっともよくわかるのは、菅湖から久々子湖に流れていた気山川が隆起して干上がり、菅湖、水月湖、三方湖の排水ができなくなった。これらの湖では水位が上昇し、湖岸の浦々は水没した。
気山川の隆起した部分を掘り下げれればよかったのだか、簡単そうに見えるが、ここは下が超固い岩盤でそれもかなわず、掘られたのが今の浦見川(久々子湖−水月湖)の運河であった。
川中神社(美浜町気山)
元の気山川があったところに川中神社がある。気山川の真ん中あたりに位置していて、このあたりが一番隆起量が多いようである。

隣の丹後でももちろんこの時の地震があった。その後も天候も不順だったのか飢饉が発生し、寛文6年(1666)には、寛文謀議とか久美浜では庄屋が集まり一揆の相談したとか、加悦谷では百姓が不穏であったという。

 『越前若狭の伝説』
干潟(ひがた)観音 (気山)
寛文二年(一六六二)五月一日関西地方に大地震があり、その影響で三方湖が傾斜し、北東部の土地が上がり、南西部が下がった。そのため湖のほとりで百ヘクタールばかりの田が干上がった。村の人は、地震の後に大波が来るかと思い山の上に逃げた。しかし波は来ず、湖水は満ちることなく、ひがた(干潟)となった。
その夜山の上から国広山と光島(湖岳)の間の湖水の西を見渡すと、湖上に光るものがある。気山村の長(おさ)熊谷氏が行って見るに、如意輪観音の像が水中にて光を放ち、南を向いて立っていた。取り上げてみると、その像は金銅で、長さ二十四センチほどある。驚いてこれを郡奉行の松本貞保にさし出した。貞保はこれを国主酒井忠勝に献じた。
さて地震により川筋の土地が上がったため、湖の水が流れなくなり、水位が上がって、塩越坂・田井・鳥浜・田名などの諸村は洪水になり、田地三干余石が荒廃した。そこで藩では、従来の川筋を捨て、新たに浦見川を掘り抜いた。大工事であったにもかかわらず、犠牲者はひとりも出なかった。これは岩くずれが、いつも人の寝静まった夜にだけ起きたからである。また巨岩があり、人の力を加えずして自然の岸壁となって、工事を助けた。おかげで四村は水害をのがれたのみでなく、逆に干上った百余ヘクタールも水利を得て耕地になった。
あれこれ考えるに、これはすべて観音様のおかげであるというので、慧日山の頂をならして一堂を建て、干潟(ひがた)の観世音とあがめ奉った。(干潟観音由緒)

宝泉寺
宇波西神社の隣に宝泉院がある↑、若狭観音霊場・北陸観音霊場の何番とかで、いまここに干潟観音も祀られているという。

 浦見川
浦見川
浦見川。↑東側は久々子湖、畑地になっている所はかつては海抜マイナス何メートルかの湖底にあったが、そこまで隆起した。
浦見坂という峠になっていたようだが、その山地を掘り下げた浦見川は水月湖に続いている↓
浦見川
工事は半ばで大きな岩石が現れ、遅々としてはかどらなかったので、越前および京都白川から石工を呼び寄せるなどして寛文4年5月に完成した。
要した人夫は22万5,300余人、費用は1,659両であった。浦見坂の切通しの長さは144m、川幅7.2m、川の長さは324m、これにより、三方湖などの水位が下がり新たに90余町の田地が開け、生倉村と成出村ができた。



危険な若狭湾でも、その極めっつけの地

若狭湾の東側はよく調査されていて、多くの文献がWeb上にも公開されている。丹後側とはえらい違いである。どこのWebだったのかわからなくなってしまったが、ここにあるのはそうしたWeb上の地図ばかりである。
 まず陸上の断層。だいたい次のようなことだという。
近畿トライアングル
「近畿トライアングル」と呼ばれているが、その三角形の頂点に位置しているといわれる。
東を敦賀湾−伊勢湾構造線に、西を日向・三方−花折−有馬・高槻−六甲・野島の活断層線、南を中央構造線などの活断層に囲まれた、三角形をしたミニプレートだという考え方である。
東西方向と南から押されていて、たいていの断層は、横ずれと隆起をおこす逆断層である。
六甲・野島は動いたが、この地は断層だられで全体としては「いつ起きても不思議でない」といわれながら、いつからか大きな地震が起きていない。起きれば内陸直下型になるので、こうしたところで発生する巨大地震は超激烈である。
敦賀湾−伊勢湾構造線で起きたと考えられている地震は、1586年の天正地震(養老−桑名−四日市線)、1909年の姉川地震 M 6.8、1945年 三河地震 M 6.8などが知られている。三方−花折断層は、寛文2年の近江・若狭地震がある。この地震の三方のあたりの被害についてはどこかで書いたが、近江側はどうであっただろう。
ところが「近畿トライアングル」だけでなく、その東側も、負けないくらいに断層だらけなのである。ここにも何かあるのでは、と気になって調べてみると、私などガッコで習わなかったGPS観測などで得られた新しい知見のようであるが、…
新潟−神戸構造線(歪集中帯)
土色の部分を新潟−神戸構造線、あるいは新潟−神戸歪集中帯と呼ぶ。

新潟−神戸構造線大津波の来る場所に福島原発、この土色の大構造線上に、No.1発電量を誇る柏崎刈羽原発、それら若狭原発群、高速増殖炉「もんじゅ」、国内No.1、No.2、No.3の巨大で、問題の原発をすべて並べている。
たまりまへんで、最もヤバイ地をわざわざ選んで原発を建てているのであろうか。この国は頭がおかしいのではなかろうか。気違いではないのかと真剣に疑ってみる必要がありそうである。
日本列島の東側では太平洋プレートが年間約10cmの速さで西進し、東日本の下に潜り込む。日本列島はこの力を受けて、少しずつ西へと移動している。
ところが、新潟から神戸へ至る帯状の地域(土色の帯)を境にその移動が急に鈍る。
特に帯の一番北西側の線から西側はまず動かない、あるいは逆方向に動くようである。
だから、ここがユーラシアプレートと北米プレートの境目で、従来考えられていた、糸魚川−静岡構造線ではなく、この線、新潟−神戸構造線こそがその衝突線だとも言われる。
また、そうではなく、何か地殻に特徴があって、ここが圧力を吸収しやすいのだろう、とか考えられている。
しかしいずれにしても、この地帯は、大地が移動しない代わりに地殻が変形し歪んでエネルギーを蓄え続けてきたことを意味していて、大地はやがて歪みに耐えきれなくなり、地震という破壊現象を引き起こす、と予測される。
どの構造線もすべて、美浜原発を直撃する。

 陸上の断層も巨大だが、若狭湾でも、このあたりこそ津波の巣といった場所である。しかも美浜原発の周辺こそその巣の中心である。丹生の地名はあるべくしてあったようである。
主に海底断層図
この図の沖にもまだいくらもあるのだが、さすがに地震列島、津波列島。若狭湾も断層湾と呼んだ方がいいようなヒビワレだらけである、しかも逆断層、動けば津波は避けようもない。
ああ、もうどないしたらええんや、断層だらけ。調子に乗って考えもなく、えらいとこに原発作ってしもた。
と深く反省するような連中ではない。
福一も直下の活断層でやられたのではない、遠く離れた海底の地震津波でやられた、福一からは何百キロもはなれている。直下の断層が活断層か活断層でないかなどといっている場合ではない。もっともっと広く大きく危機を認識しなければならない。福一と三陸海底の地震震源までの距離は、若狭原発群と南海トラフの距離である。少なくともこの範囲までは安全確認しなければならない。それもせずに、安全です、再稼働です、危険殺しの関電と規制当局の姿勢、しかしだれも信用する者はない。自然に勝てるわけなかろう、アホか。と。





 人身事故の美浜原発

格納容器内
 安全だ、安全だと言い続けたいるわけであるが、別に地震や津波がなくても事故はある。人間は間違いだらけであるし、そうした人間が作った機械である以上はどんなときにも確実に事故を防いでくれるとは限らない。人間が紙の上で点検しても、コンピューターで点検しても必ずどこかに見落としができる。90%くらいは防げても、残り10%の安全は不確かである。原発事故は必然的に発生する。

 1号機は197011.28に稼働を始めた、しかしそれから1年半後にもう事故が起きた。蒸気発生器の1次系統のパイプに穴があいて、死の灰が2次系統にまで漏れ出した。後の5名がなくなった事故も同じようなことだが、パイプが減肉して穴があくという現象が早くも発生し始めた。曲がっていたり、弁などがあるとそこで流体に変化がおきてパイプを内側から削る。1本だけのパイプに発生する現象ではなく、パイプというバイブは全部がヤバイという深刻な想定外の大問題となった。蒸気発生器は8000本くらいの細いパイプがあるが、その2000本がヤバイということでそれらをすべて栓をすることとなった。沸騰水型にはない、加圧水型のみの蒸気発生器は車で言えばラジエターのようなものになり、一次と二次の熱交換機、一次の冷却水が逆U字の細いパイプ(一般に直径20o、管の厚さは1oくらい)に下から入ってくる、二次はその外に下から入って蒸気になる。これの検査や修理に確実なものがない。二次で放射能を検出した、それならどこかに穴があるの決まっている、という式の方法が最も確実という、たいへんに優れた技術しかない。蒸気発生器
死の灰が流れるバイブに蓋をするなどは大変な仕事で多くの作業員が被曝をしたことであろう。
蒸気発生器は一次水が流れるため格納容器内に2つあるが、原子炉と一体で全体を取り替えることができない、やってやれないこともないのかも知れないが、本体の原子炉よりも大きく、炉を取り替える以上の大変なことである、格納容器をぶっ壊し大きな穴をあけて取り替えたって、問題が解決するかはわからない。
そうした栓詰め工事をして1号機は出力を落として稼働したのだが、すぐにまた同じ事故が発生した。この炉でプルサーマルの実験を行う予定だったというが、できなくなった。
1号機だけてなく、加圧水型はどの炉でも起こる危険性である。とてもではないが、採算がとれるような炉ではなくなっている。
こうした所に穴があると加圧水型では緊急時に冷却水が炉に入らないという、もともと1次系では水蒸気はないのだが、ここに水蒸気ができ、その圧で水を入れられなくなってしまい、事故の場合に炉心溶解が避けられなくなりそうの問題が生じるそうである。

燃料棒が曲がったり変形したり、傷ができたり中には破損して死の灰が漏れてでいたとするという問題が1、2号機とも定期点検で見つかっている。
燃料棒満載の原子炉
内部告発で知られたのだが、燃料棒の破損はもっと激しかったのではないかの問題。1973年はじめ1号機で大規模な燃料棒破損事故があったが、それを関電と三菱は一部幹部社員だけを使って秘密裏に処理したという。関電などはしらを切り通した、国はシブシブ認めたが、時効だとして何らの処罰もしなかった。破損した燃料アッセンからペレットが飛散し炉内に飛び散っていたのを密かに回収したという。
車で言えばラジエターに新車のうちに何千と小さな穴ができて冷却水漏れが起きて、シリンダーの内部で破損が起きて破損した部品がシリンダーの中に落ちる、これはどう見てもどこかの超低開発国で製造された超欠陥車であるが、地震津波がなくとも、原発技術の根本的な所で超低開発技術を含んでいるといった大きな問題があることがわかってきたのであった。
これらの写真は美浜原発PR館のものだが、そうした事故については何も触れた展示はない。5名が亡くなった事故については展示があるが、あれは隠せないし二次系であった、隠せて一次系事故といった超都合の悪い展示はしないようである、そんなものは見るバカはいない、捨てられたヤシのようなもののなかに埋もれた真実を求めざるをえない私のような者、そのほかにはダ〜レもいなかった。
こうした一応はいかにも科学的技術的で正直そうなを装った展示館の展示運営については、やはりよく考えて「きびしい外部の眼」を取り入れる仕組みを組み込んで予めおかないと、ムラ内部者だけにまかせてしまうと、カニはおのが甲羅に合わせて穴を掘るもので、こうしたものも政治利用されてウソばかりを展示することになりかねない、都合の悪いことは故意に展示しない、一文無しの皆さんの(失礼)から取り上げた電気料金に含まれていた莫大なゼニをかけて作ったものであるのに全体としてはウソばかりで何も世の発展の役には立たない、カニどものための穴を作られたのでは無駄遣いである。舞鶴市の引揚記念館なども同様の問題を持っていて、このシステム作りは難しい。

もし内部告発者がいなかったら、もし「企業秘密」なるものを厳守して、国民全体の安全をその下に考える者どもばかりだったら、そうしたことの方がはるかに多いと思われる、何とかいう元CIA職員のような人物が日本にはいない、こうした情報は出てくることがなかった、本当の所がわからなかったのである。秘密保護法というのはこうしたことで極めて危険である。政府の「企業秘密」なるものを暴露すれば犯罪になる、関電でこうした事故があったことは政府は知ってましたが隠してました、などと公務員が内部告発すれば有罪にする、こうしたアホがあっていいだろうか。アメリカが傍受してつかんでいてもそれは処罰の対象ではないのだろうか。
尖閣での巡視船の画像がネットに流失した、テレビでも何度も放映していたからご存知かと思うが、あれを危機に感じたわけである、その職員は起訴猶予となったそうだが、クソどもにはあんなものでも都合が悪く、どうしても有罪にしたい、米帝大統領以上に異常感覚であるが、そうした秘密にしたいものが40万件もあるという、それだけも市民の目から隠すそうである、国民的常識でみて秘密でも何でもないものまでもこの際ついでに、企業と政府はどんな小さな事故でも隠してそうして安全ですと言おうとするわけである。そして法律をつくり都合悪い事故はいよいよ全部隠して、ますます原発は安全です、政府のやることは安全ですという、手前どもに不都合なことは「国家秘密」とかに指定して隠す、それを合法的に大々的にやろうとするものである。市民社会とは相容れない国家主義・全体主義・軍国主義・秘密主義の法をつくろうとしている。これはつぶそう。主権者に何が秘密だ、つまらぬ情報だけを腐るほども流してシャブシャフにして、大事な情報はすべて秘密にする、クソどもがナニサマのつもりだ、主権者を馬鹿にしてるのか。

2号機ではECCSが誤作動して炉を止めるという事故も発生している。

事故なんか起こすわけないでしょ、と言って、ハナが笑っていたが、2003.8.9に、3号機で2次系のパイプが破断して5名が死亡、6名が重傷を負う事故が発生した。稼働中の原発での死亡事故は初めてである。悪の権化のように言われている東電ですらもこれまで死亡事故はない、関電の安全姿勢が根本から問われることになった。ブラック企業でも社員を殺したりはすまい、関電はブラック企業にも劣るのでないか。
自分の所の作業員の命も守れない会社が本当に社外の人々の命が守れるのかの大きな大きな疑問符がついてしまった。ひとの命など気にしているようではゼニ儲けなどできるわけありまへんで、ひとの命や美しい自然や遠い将来の子孫達のくらしなどを思ってみたりするようでは1銭も儲けられませんで、2000万人殺したのもゼニのためでなかったですかいな、ワシらは1億人殺しても儲けますでな、こんなうまい話がめったなことでありますかいな。これが資本主義のゼニ至上主義精神だが、これを縛るのが国家のはたすべき役割のはずだが、それが先頭にたって旗をふる。バンクはカネさえ儲かればよいクソでしかなく、こうした企業なら暴力団であろうが原発であろうが大喜びでカネを貸す。
メニュー表示は違っていて当たり前の状況、無添加と書いてあっても実際は添加物が入っていた。もうまともに企業とか財界とか国家と呼べるようなものではなくなってしまった。ブラック財界、ブラック国家である。いやいやクソである。中国をぼろくそに言ってきたが、日本もそうであった。日本をとりもどす。何か意味があるスローガンなのだろうか。馬鹿馬鹿しい、いよいよクソである。
日本電力会社の最初の原発であり、関電やその他もろもろの利権に群がる者どもの原発に対する基本姿勢が透け見える原発であり、原発の持つどうしようもない危険性がしっかりと見えた原発である。




        

新神話なるか。
原発は安全安心と言えば、原発ほど危険なものがあるかと図星を言われ、原発は安いといえば、原発ほど高い電気があるかと図星をさされ、とうとう原発は環境に良いと言うように代えたようである。原発ほど環境に悪いものがほかにあるのか、ムラを笑ってやって下さい。
ムラよ、次は原発は健康と美容によい、と宣伝すればいいだろう。




 参考



『角川日本地名大辞典』(1989年)
嶺南の原発と福井臨工
嶺南の開発策としてより重要であったのは原子力発電所の誘致であった。京阪神の大需要地に近いこと、地盤が強く冷却用海水の取得容易なこと、付近に人口密集地がないことなどから若狭湾に突出する岬の先端が適地とされた。陸の孤島の不便を嘆いてきた住民は県の周旋で電力会社の条件を容れ、設置を応諾したが、期待した雇用機会は技術のない住民には無縁であり、道路の開通は青壮年を流出させた。父祖伝来の土地を売って得た金は一時的であり、電源三法による恩恵も常に潜在する危険に比べれば余りにも小さい。立地推進当初は絶対安全であったはずが、「不測」の事故を重ねている現実をみれば、あってはならぬことながら、大事故がないとは言い切れない。放射能洩れが原因で若狭湾の魚介が売れず、観光客が激減して、住民の生活をおびやかした事件もまだ記憶されていよう。原子力発電所が現地住民にもたらした功罪は改めて論ずるまでもない。新型転換炉「ふげん」、高速増殖炉「もんじゅ」の建設は危険を増幅する以外のなにものでもない。


『丹生の研究』
 
若狭には、遠敷(おにう)という異常な訓みとむずかしい問題をかかえている地名(郡名および郷名)がある。これを後章にまわすとしても、なおこの国には問題が多い。「倭名抄」によれば、遠敷郡の郷名のうちに"丹生"と"丹布"、とがあって、どちらも訓は"尓布"である。また「延喜式」神名帳には、三方郡19座の1に、および遠敷郡16座の1に、おのおの丹生神社が載せられているほかに、三方郡に仁布神社が報告されている。
 まず、三方郡の丹生神社が丹生浦にあったことから明かにしていこう。この地名は「倭名抄」に掲げられていないが、往古は日本海の要津であった。例えば「扶桑略記」巻24,延喜19年(919年)11月21日の条に、渤海国からの使者到来に関してその名が見出される。文意をとれば、渤海国の客徒はまず丹生浦に来航して浮居し、着岸せず、牒状を政府に送る。それには一行の人数や来訪の理由が述べてはあるものの、京都では仔細がわからない。そこで同月25日に右大臣忠平は、彼らを若狭に着岸させずに、越前に回航させ、そこから入京させるべきだと奏し、そのとおりに運んだのである。当時は敦賀の松原館がこの方面から来着した外客に宛てられていたので、それに従わせたわけであるが、とにかく丹生浦が敦賀の副港的立場をもち、同時に若狭有数の海口であったことが考慮できるであろう。この港町は、敦賀湾と若狭湾とを分ける立石半島の突端部にあり、三方郡美浜町(もとは山東村)丹生といわれる。国鉄の美浜駅から東に5km進み、半島の付根にある佐田を起点にして、ここから半島の西岸を13kmも北行したところである。立石半島の突端部はここで数字の7字形を呈して海をだきこむ。この小湾に南面する漁村が丹生である。最近はここに原子力発電所が建設されるそうであるが、部落の変貌もさることながら、さぞかしあの美観が失われることであろうと、心痛に堪えない。私がここを調査したのは昭和34年7月28日であったが,このころはまだ全くの僻地で世人の関心から遠ざけられていたから、往来も容易ではなかった。幸にも私は郷土の人永江秀雄氏の配慮で美浜町町長の後援をうけ、また現地でも多数の人たちの協力をうけて完全に調査を終ることができた。採集した試料は水銀含有0.0019%から0.0066%を示して、丹生の名を実証してくれたが、ここに所在した丹生神社は、浦の東側の山添いに"賀茂大明神"(社額による)として残っていた。昭和12年にこの神社から提出された"村社加列願"に「福井県三方郡山東村大字丹生字北宮脇第三十三号第八番地式内無格社丹生神社」とあるから、この社が本来ニウヅヒメ祭祁に起り、後代に丹生・加茂明神と変じ、現在加茂神社として通っていることが判明するであろう。
これに関連して注意しておきたいのは、丹生への往還路を握っている佐田部落に織田神社があり、その末社の一つに丹生神社が見出されることである。この社が護持されていた神岳寺の由来について写本(草創神岳寺根源由来略記)に「弘仁年間空海来りて改宗、真言宗となし芳春寺と改称し、仁和元年折田の南北に両宮を建立し丹生賀茂明神を勧請して同年五月十一日始めて行幸あり」とあるように、この丹生神社は真言宗に常套的に見られた丹生・高野明神の変形と認めるべきであろう。
それよりも、もっと関心を惹くのは、この佐田の織田神社が式内社であり、佐田から立石半島の西岸をゆく丹生往還のみちに沿って山と海とに挟まれた猫額状の土地を見出しては息づいている部落が4つあるが、そのどれにも式内社が鎮まっている事実にほかならない。すなわち佐田の北の菅浜に須可麻神社、竹波に高那弥神社、そして丹生に丹生神社という次第である。この事実は、この半島西岸が日本海沿岸航海にとってどれほど重要であり、そのためにいろいろな氏族がひしめいていた名残にほかiならない。したがってその先端に位した丹生浦の立場は、おのずから明白であろう。「日本書紀」巻8、仲哀天皇2年の条に「皇后は角鹿(敦賀)より発し行きて、淳田の門に到り、船上にて食す、時に海鯛魚(たい)多く船傍に来る、皇后は酒を以て海鯛魚にそそぐに,海鯛魚は即ち酔て浮きぬ、云々」(原漢文)とある。井上通泰氏(「上代歴史地理新考一北陸道」PP、411〜412)は、伴信友(「若狭国官社私考」)がこの話のなかの淳田門(ぬたのと)について、これを三方郡丹生浦の琴引が崎と同郡常神岬との間の管絃の渡(古名・のたのと)に宛てたのに賛意を表し、この一節を「若狭風土記」の佚文と認めている。注目すべきであろう。現在丹生の恵誓寺に蔵せられている寛永年間(?)の口上書(写本)に、この浦を叙述して「東西北の三方は源山そびへ、南は開て入海、東西北に)川ながれ、麓は町屋作り五百八拾軒斗、塩釜六拾三軒、寺拾一ヶ寺、西町・鍛冶町・中町、一方は並木あり、……」とあるのを見ても、江戸初期の描写ながら、往時の繁栄が偲ばれよう。






参考文献

こうした書を読まれればどうでしょう。さいわいにけっこうたくさんありますが、少しだけを。本ページでもところとごろ引かせてもらいました。
ゲンデンの隣にある軍事基地の町・舞鶴ではこのような書籍を集めたコーナーは図書館にも本屋さんにもない。借りる人も買う人もないのだろう。死神の高笑いが聞こえてくるような町。
簡単に手に入れたければ、ひょっとするとアマゾンさんくらいかも…

(1)『チェルノブイリ報告』(広河隆一・岩波新書)
(2)『内部被曝』(矢ヶ崎克馬・岩波ブックレット)
(3)『原発のコスト』(大島堅一・岩波新書)
(4)『悪性リンパ腫多発地帯の恐怖』(明石昇二郎・宝島社)
(5)『原発事故を問う』(七沢潔・岩波新書)
(6)『プルトニウムの恐怖』(高木仁三郎・岩波新書)
(7)『朽ちていった命』(NHK・新潮文庫)
(8)『原発を終わられる』(石橋克彦・岩波新書)
(9)『六カ所再処理工場』(小出祐章他・集英社新書)
(10)『原発はなぜ危険か』(田中三彦・岩波新書)
(11)『原発労働記』(堀江邦夫・講談社文庫)
(12)『プルトニウム発電の恐怖』(小林圭二他・創史社)
(13)『原発のウソ』(小出裕章・扶桑社新書)
(14)『3.11複合被災』(外岡秀俊・岩波新書)
(15)『低線量・内部被曝の危険性−その医学的根拠−』(医療問題研究会編・耕文社)
(16)『内部被曝』(肥田舜太郎・扶桑社新書)
(17)『広島の消えた日』(肥田舜太郎・影書房)
(18)『広島・長崎でなにが起こったのか』(飯島宗一・岩波ブックレット)
(19)『原子力発電』(武谷三男・岩波新書)
(20)「津波伝承論ノート」(金田久璋)『季刊東北学』(2011.11)














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丹生は断層地名、美浜原発は特別にヤバイ場所にある
美浜原発は隆起する場所にある
津波伝説が集中する美浜湾
寛文の近江・若狭地震
危険な若狭湾でも、その極めっつけの地
人身事故の美浜原発
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