丹後の地名プラス

そら知らなんだ

福知山聯隊の最後④
インパール作戦と15師団
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -64-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


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真倉と十倉
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九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
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麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
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丹後国郷名帳
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由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
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伊吹①
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息長①
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大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
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福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
村の年齢集団-小中学校
村の年齢集団-青年団
舞鶴の古墳①
舞鶴の古墳②
日本海側の古墳
蛭子山古墳
網野銚子山古墳
神明山古墳







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

 万余の犠牲を出した泰緬鉄道

自分から仕掛けて他国に厖大な犠牲を強いておいて、自分側の被害ばかりを言う人ばかりのように見えるのだが、どこかのマチあたりの話だが、オイオイ大丈夫か、戦史の基本も理解できていないのでないのか、それよりも人として市民としての基本ができていないのでないのか、と思われ、ワタシとしては、それには何とも気が引けて仕方ない。
戦争には相手国、国々が必ずある、さらに周辺の国々があり、そうした世界の一角で、自国の問題解決のために戦争を起こした国であった。ワレラとそのお仲間が引き起こした今次の大戦は、人類史上最悪のもので、死者の数は5000万~8500万とも言われる。そのとんでもない大きな責任はスッコーンと忘れ、あるいは知らずに、あるいは隠して、何かスパラシイことでもやったかのように勘違いしたりするのは論外としても、自分側の犠牲しか言わないというのはどうしたことであろうか。ワガ国の犠牲はワレラ自らが招いた結果であった。
ワタシの恩師たちは被侵略国の大きな犠牲を語った人達であった、その舎弟としては、自分の被害ばかりを言うような手前勝手な話はできない。
「何か賓客に招かれたとでも思っているんですかね、メシがまずいとか、私らは侵略に行ったんです、殺しに行ったんです。本当に何一つとしていいことはしなかった、慚愧に堪えませんよ。自分が何をしに行ったものかも知らないですかね。罪もない人々を殺害し、捕虜も殺したでないですか、何人殺したんですか。今度は逆の立場になって、殺されても文句のいいようもないでしょ、殺されんだけでもマシでしょ」
いまだに耳元に残る。

ではどうすればいいのか、と問われても、何とも答えようがないが、宮津戦争展は、こんな風に展示していた。←
ゼ大統領も見た、かも知れないものである。
こんな心を持って、取り上げるべきではなかろうか、と思う。

少しだけ、泰緬(たいめん)鉄道を見ておこう。枕木一本、人一人、と呼ばれるほどの犠牲を出した工事であった、という。
『母と子でみる スーチーさんのいる国』
泰緬鉄道とビルマ人労務者
 少し歴史的な経過をたどってみるとしよう。
 日本軍によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃から、太平洋戦争の火ぶたが切られたのは。一九四一年一二月八日だった。が、実はそれより早く、日本軍はマレー半島のコタバルに、ほとんど同時にタイの南部海岸にも奇襲上陸し、戦火を開いている。
 タイ軍との交戦は、短時間で終わった。日本の軍事的圧力に屈したタイは、不本意な日タイ同盟条約を結ぶが、これで東南アジア侵略の重要なステップを得た日本は、勢いを駆って翌四二年二月シンガポールを占領、八万人からのイギリス軍を捕虜にし、三月にはビルマのラングーンに、日の丸の旗をひるがえした。五月には第二の都市マンダレーに攻め入っている。
 ビルマのイギリス軍は、なだれを打って、インド国境へと敗走した。
 すでにこの頃、大本営はインド進攻作戦のために、タイとビルマを結ぶ泰緬連接鉄道建設準備を南方軍司令部に指示した。もしこの鉄道建設が早期に実現すれば、北はハノイを振り出しにして南のサイゴンに至るベトナムと、ラオス・カンボジアを含めた仏印(インドシナ)ならびにマレー半島からタイヘ、さらにビルマまで、日本軍は思うがままの輸送体制を敷くことができる。
 そして、それは急務だった。緒戦ではなばなしい戦果を上げたものの、半年もしないうちにミッドウェー海戦でつまずいた日本は、早くも迫われる身になっていた。制海権、制空権の雲行きは怪しく、ビルマ戦線への兵員と軍需品の輸送は、陸路にたよるしかなかったのである。
 こうして、測量開始から着工まで、息せききってすべり出しか泰緬鉄道は、タイ側の起点をバンコクの西方八〇キロのノンプラドーグとし、ビルマ側はインド洋を望むタンビュザヤで、約四一五キロ。東海道線の束京から大垣にも相当する距離離だった。
 しかし、タイとビルマの国境を越えるには、人跡未踏の熱帯林を切り開き、クウェー川沿いの断崖絶壁に道をつけなければならない。これぞという機械力もなく、しかも一年余という.工期では、あまりにも無謀無責任な大計画だった。あとは突撃精神と人海戦術しかない、と総動員されたのがイギリス兵を主とする連合国軍捕虜約六万五〇〇〇人と、東南アジア地域の労務者だった。アルヒル桟道橋(難工事で多くの犠牲者を生んだ)
 労務者のなかでも、もっとも多かったのがビルマ人で、約一八万人。ほかに地元のタイ、マレー、インドネシア人などで、その数は実に三〇万人とも三五万人ともいわれている。
 これに連合国軍捕虜も加えて、延べ四〇万人からの男たちが、日本軍の銃剣つき監視のもと、灼熱の大陽を浴びて蟻のように作業するさまは、まるでエジプトのピラミッド造りを連想させる。
 一九四二年七月に着工した泰緬鉄道は、大本営の工期短縮命令にともない、超突貫工事となった。急け急げで翌年一〇月に完成したが、ただごとではない猛署に苛酷な重労働、食糧や医薬品不足で、飢えと病に死者が続出し、枕木の数ほどの犠牲者を出したことで、「死の鉄路」と呼ばれている。
 戦後十数年が過ぎて、この泰緬鉄道のメークロン橋にヒントを得た映画「戦場にかける橋」が登場した。デヴィット・リーン監督でウィリアム・ホールデン主演たったが、アカデでー賞を総なめにし、その主題曲「クワイ河マーチ」とともに、一世を風靡したものだった。
 かなり昔の作品だが、こんにち見ても、戦争映画の傑作のうちに入ろう。しかし、この映画には、アジア人労務者たちは登場しない。いまにして思えば、それが惜しまれる。泰緬鉄道で連合軍捕虜がひどい目に遭ったのはたしかだが、さらに大きな犠牲を強いられたのは「ロームシャ」と呼ばれた人たちだったからである。
クワイ河マーチ
(263) Movie Theme Song from The BRIDGE ON THE RIVER KWAI Kwai Movie - Colonel Bogey March - YouTube
動画の墓地は連合国軍共同墓地で、建設工事でなくなった連合国軍兵士たちの墓である。6982人あるという、戦後すぐに、連合国軍を恐れた日本軍がいそいで整備したものといわれている。ビルマ人たちの墓はどこにあるのか、ないのである。現在に至るもないという。アジアなどはどうでもよいのワレラの本心が見える。今でもそうである、当時が想像できるというものである。(ビルマには墓を作る慣習はないそうで、墓の代わりになる何かくらいは作るべきかも)
 日本軍の虐待すさまじく
 当時、労務者たちの朝の整列は六時だった。たとえ一分でも、一人でも遅れることは許されなかったという。
「どんな埋由にせよ、一人でも労務者が朝の集合に遅れると、監督の日本人は分隊長、班長にビンタを見舞い、軍靴で蹴とばし、立ったりすわったりの運動をやらせる。それから当の労務者には大きな石を頭上に支えもたせ、長時問立たせる。この罰をうけた労務者は、そのうちカタカタ震えだし、ドサッと倒れる。それでも終わらない。二度三度とやらされるのである。 時には、もっと残酷なしごきも行われた。遅れた労務者にロンジーの裾をからげさせ、足を開かせる。拡げた股の下で竹に火をつける。生きたまま火刑をうけるわけだ。労務者がどれほど苦しみ、のだうちまわることか……」
 ロンジーとは、一種の腰巻きスカートで、ビルマでは男女ともに着用するが、日本軍によるしごきを『死の鉄路』(田辺寿夫訳)にそう記録したのは、泰緬鉄道建設に従事したビルマ人労務者リンヨン・ティッルウインである。
 当時二五歳。日本軍の宣伝にまんまと乗せられて、自分から志願してまで「汗の兵隊」の一員となったのだった。賃金はもちろん食物に衣類は十分に支給され、日本に行くこともできるという結構ずくめの条件だったが、実態はとんでもないことだった。
 著者たちの労働は、泰緬鉄道の路盤構築作業である。ジャングルを切り開き、道をふさぐ岩盤を爆破して断崖に橋をかけるなどから、やがて枕木とレール敷設となっていったが、「日本人は労務者の健康にはまったく中尉を払わ」なかったから、ごく小さな傷口からも熱帯性潰瘍になる者や、コレラ、マラリヤ、赤痢患者が続出したという。少しでも規則に反した者には、日本兵による虐待は徹底したものだった。
 「まず後手に縛り、さらに両手首を別の縄でくくる。同じように両足首も縛る。こうしてから体を木に縛りつける。身にシャツやパソー、ドンゴロスをつけていれば一つ残らずはぎとる。こうして素っ裸にした労務者を罪が重いと判断すると、三日から七日間も食物を与えずさらし者にしておく。縛られたままの労務者は空腹で飢えるばかりではない。蚊、虻、赤蟻などに咬まれ血を吸いとられるという苦しみをなめさせられるのだ。もちろん大小便は立ったままたれ流しだった。三日も縛られたままたった労務者は、いましめを解かれても歩けない……」
 ティッルウインによれば、泰緬鉄道工事のために、日本がビルマ全国各地から徴集した「汗の兵隊」こと労務者数は一七万七〇〇〇人。このうち行方不明と死者数は、もっとも多いので八万人、最低でも三万人だということである。

よく整備された捕虜墓地とくらべ、労務者のそれはあまりにも対照的で荒れはてていた。労務者たちは死ぬとすぐその場所に埋められたり、クウェー川に投げ込まれたり、コレラで死んだ者たちは丸太状に積まれて焼かれたりで、時には線路下に土代わりで埋められたという。

うるさく取り上げるのは、何もビルマだけではないからである。どこでもこうしたことであった。ムチャクチャである、アジア解放とか八紘一宇とか神国とかは、大ウソである。書いていくのもヘドが出そうである。ナチも顔負けの超ファシズム国、これがワレラの日本の実像であった。
自国の被害ばかり言うのは、アジア人などどうでもよいということではないのか。ワレラが被害を加えたから、その返り血を浴びた、投げたブーメランが返ってきて、己が頭を直撃した。行為の善悪に応じた、その報いであった。己が悪行を忘れて他国によって加えられた大被害のように勘違いしている。それなら低国以下かも知れない。
『福知山聯隊史』
第九聯隊の生存陸軍中尉が或る日私のばに来て、低い声で知らされたことは、
  「レイテ島の収容所は第一から七までのストッケードでなり、第七は朝鮮、台湾の国籍者ばかりで、全般の指揮をしておる本部の大統領(仮稱)が、どうやら第二〇聯隊の者で山本軍曹と皆呼んでおる…と。
 先日も武装解除された第一師団(玉兵団)がセブ島から威風堂々とこの収容所入りをした。この部隊の先頭を前進する岡林参謀長に対しても、本部要員は別に敬礼をしなかった。その事が頭にきた大佐参謀は大喝一声、「コラッ、この参謀肩章が見えんか。オ前達は戦陣訓を忘れたのか。」と、どなった。
 山本大統領がアゴで一寸合図するや、数名の部下が、やにはに参謀長を逆まにつるしあげ、満水のドラム罐に頭から突きこんだ。アットいう間の出来事で、他の参謀は驚いて低姿勢で平あやまり、やっと参謀長を救出した等々。
敗戦の責任も大きな犠牲の責任もナ~ンもない、腹くらいは切れよ。捕虜になったら、死ねよ、生きて虜囚の辱を受けずの戦陣訓も忘れたのか、この低国陸軍参謀長とかは。
しかし思い起こせば、こんな者とワレラはだいたい同列ではないのか。ワレラもまた、この程度の人間ではないのか。
低国はアジア人などは人とも思ってはいなかった。
それなら低国は自国の日本人は人と思っていたのであろうか。そんなワケはないのである。

インパール作戦


インパール作戦は、低国の数多い失敗大作戦の中でも、飛び抜けて愚劣な作戦であったと見られる。無謀な作戦、史上最悪の作戦と言われることもある。アホの見本のようなものであったが、他国の領土に軍事侵入し、やがては相手国に負けたというもので、今次の戦争の基本的な構図であった、何もどこかの国が条約を破って、平和な日本へ攻めてきたとかいったものではない。
昭和19年3月に始り、7月初旬まで継続された。イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した。イギリスの植民地インドを独立させて、イギリスの勢力を一掃するという政治的な目的に加え、ビルマ防衛のための攻撃防御や援蔣ルートの遮断を戦略目的としていた。という。

『防人の詩』
第十五軍司令宮牟田口中将が発言した。彼は「本来、この作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。糧秣は敵に求めるものとする。各師団長とも、その覚悟で戦闘せねばならぬ」と述べ、さらに言葉をついで「敵と遭遇すれば、銃口を空に向けて三発射て。それで敵は投降してくる」と言い放ったのであった。
正気とも思えぬ敵情認識と、冗談でしょうの超楽観的見通しのもとに始めた、メデタキ者どもの作戦であった。インパールどころかインドも取るという、もしそんなことならこれほど楽な話はなかろうが、実際はそうはいかない、海軍はミッドウエーで機動部隊を失い、マキン・タラワも玉砕ている。スターリングラード戦でドイツは撤退している。低国が楽観的見通しの立てられる戦場はどこにもなかった。これほど事前に批判と反対が寄せられた作戦もなかったといが、それは当然であろう。移る時勢に背を向けて、低国はどこへ行く。大丈夫か、キョーダイ。何とインパールへ行くのか。
しかし何も牟田口中将閣下だけではない、今でもこのようなメチャクチャ閣下やその取り巻き連中や、戦争の責任者や恨むべき憎むべき相手をいまだに取り違えている御仁は日本のあちこちに、意外にも結構おられる。過去の歴史ではない。明日また繰り返しかねないワレラの国である。

『防人の詩』
第十五師団の場合、当初の師団編成期においては基幹歩兵三個連隊のうち、第六十連隊は名古屋、第五十一連隊は京都、第六十七連隊は東京と、およそ地縁関係を無視した三地区からの分散編成となっていた。このことは、単一師団の編成連隊は「ともに郷土を同じくする将士によって編組される」という師団編成の性格から著しく遊離した異例の編成をみせていた。このため、その後において第十五師団に派遣される補充兵たちは同一地区出身者によることが望ましい、との方針から集中的に京都師団管轄下の将兵が選抜され、師団名の呼称改変時には隷下各部隊とも事実上の京都師団管轄下--すなわち、京都、滋賀、三重福井、奈良各府県の出身将兵によって占められる編成となっていた。
補充兵とは、現役兵の欠員を補充し、また戦時の要員に充当するために、必要に応じて召集するもので、年齢的には高くなり、たいていは妻子があり職業のあるパパ兵である。精兵とか呼んではいるが、それは体力的に無理な、所帯持ちのオッサンを中心とした装備も劣るセカンドチームで後方警備軍である。第一線部隊ではないが、一線部隊がないと、こうした部隊も第一線に投入される。この層が招集されると、残された銃後の社会の機能は疲弊をみる。

男の子は大きくなったら、みんな兵隊さんになるんだよ、お国から呼び出しがあればただちに、お国のために何度も何度でも。日本は強いから勝つ、そう教えられたが、その先は教えられなかった。

16師団、20聯隊は最強トップチーム、一軍部隊だが、彼らのみが戦地へ送られたのではない、15師団はいわばセカンドチーム、二軍の部隊だが、そうした部隊もいくつも編成され戦場へ送られた、いつくかのものを見てみよう。
「祭」の秘匿名をもっているのが15師団で、インパール作戦の中央を担当した。この頃は特に京都、その周辺出身の兵士が多かった師団、という。

アラカン山脈を越えて、その西麓のインド・インパール、コヒマを取るという。アラカン山脈はヒマラヤ山脈の支山脈で、標高2000メートルの険しい尾根が南北に連なり、横断する路はない。重火機、弾薬の輸送はできない、それどころか糧秣の補給すらできない。
それでも馬や牛、象や羊の背に物資をくくりつけて、未踏の山々をいくつもいくつもいくつも、百もの山を越え、谷を越え、川を越えていく。日本の梅雨と同じ時期、世界一の降雨量という豪雨期も始まった。
牛だけでも2万頭も徴発したという、徴発というのは付近の村々から集めてくるもので、代金などは払う気はないし貨幣経済ではない村々である。兵は3週間分の食糧を携帯し鉄砲と手榴弾だけを持った。補給はないが、インパールには敵の物資が腐るほども山積みだから、それを取って喰え、その武器で戦え、であった。ああああ、アホくさい、アホくさすぎる…

相手側(英印軍)は、日本兵にアラカンを越えさせて兵站を延びきらせ、疲れ切り飢え切って攻めてくる日本兵を陣地直前まで火砲の照準点まで引き寄せて、一気に殲滅する作戦である。英印軍は兵員数で日本軍を上回り、火力や空軍力は圧倒的優勢。1時間に2500発もの砲弾を浴びせられる。日本軍は分解して馬の背に積める日清戦争時代の三一式山砲、考えられないような旧式砲で資料も見当たらないが、駐退機はなくたぶん青銅製でなかろうか。弾でもあればまだましだが、それも10発もあれば上等。この作戦を象徴するような超時代遅れの話だが実情のようである。

道なき道は馬も鹿も通れない、人間が大砲かついで行く。兵役は人生でも最大の労苦であった、命の保障もない。

日本軍はけなげにもインパールを指呼に望む所までは行っているのだが、それは行けるのである、3発撃ったら逃げるのは、相手の作戦である。
来い、来い、もっと来い、もっと来い、陣地の前まで来い、兵器の照準が合わせてある所まで来い、である。
アホが足らいで、それ以上行けば、自滅しに行くようなものである。
こんな作戦で7万人の犠牲を生んだ。英印軍側は2、3万という。

『福知山聯隊史』は、福知山管区の兵隊が多かった部隊として記している。

歩兵第五一聯隊第一大隊
 一、編成並び軍旗拝受
 「不拡大方針」のもとにはじめられた支那事変も、戦線は益々拡大し、南京攻畧は却って戦局拡大となり、更に兵力の増強を必要とするに到った。
 ここに於て先に軍縮により廃止された第十五師団に、昭和十三年四月再編成の下命があり、歩兵第五十一聯隊は京都師管区、歩兵第六十聯隊は名古屋師管区、歩兵第六十七聯隊は東京師管区に於て夫々編成された。これらの聯隊は、何れも現役並びに若き第一補充兵を以て構成せる精鋭部隊であった。この三ヶ聯隊を歩兵団司令官(後、第十五歩兵団長と改称)が統轄指揮した。
 歩兵第五十ー聯隊は、昭和十二年四月十九日編成に着手し、同月二十七日編成を完結した。
 聯隊本部、通信隊、歩兵砲中隊は伏見の歩兵第九聯隊の補充隊、第一大隊は福知山、第二大隊は津市久居、第三大隊は奈良の各歩兵聯隊補充隊に於て夫々編成せられ、第十五師団の戦闘序列に入り、各補充隊長の指揮下に練成に努めた。
 同年七月十四日、初代聯隊長池田廉二大佐は宮中に於て車旗を拝受し、七月十五日伏見の聯隊本部に帰着、同月十八日各編成地にあった各大隊及び直轄部隊を滋賀縣饗庭野演習場に集合せしめ、二十日軍旗奉迎式を行った。…
 七、ビルマ作戦の大損害
 作戦参加総兵力約三十万人の内十八万余の人々が華と散ったと云われるビルマ作戦における第五十一聯隊の戦死者は約一、六〇〇人に及び、第一大隊の戦死者も四八五人に及んだ。わが郷土の勇士が悪戦苦斗し、血涙を呑んで異郷に華と散ったのである。

 歩兵第六十七聯隊  (浜松)
 当聯隊は昭和十三年浜松で編成され、主として関東地方の兵で充足されたが、その后、福知山出身兵が多数参加したので、元第七中隊長四方源一郎氏(綾部市)の手記を基として、本史に掲載した。
 当聯隊は、中支南京附近の警備に当り、昭和十四年十二月一日、現役兵要員として福知山聯隊区より五〇〇名、奈良聯隊区より七〇○名、奈良三八聯隊に入隊し、同時に福知山、奈良両聯隊から、下士官約三〇名が転属した。約二十日間の訓練の後、十二月二十四日現地南京に向い、十二月二十七日、現地に到着(聯隊本部は支那軍官学校跡)初年兵教育を受けた。
 昭和十五年補充兵として、福知山、奈良両聯隊より約一〇〇名入隊、昭和十六年、十七年の両年共、滋賀縣より現役兵が入隊し、現地教育を受けた。
 南京附近警備中は、歩五十一、歩六〇と共に第十五師団隷下にあり、浙?作戦、郎渓、?陽作戦、春期皖南作戦、宣城作戦、三河作戦、清郷工作等に参戦した。
 昭和十八年八月上海発南方ビルマに向い、九月西貢上陸、タイ国「チェンマイ」-ビルマ「ドンズー」道構築等に参加。
 昭和十九年三月から翌年一月迄、インパール作戦、二月イラワジ河畔、メークテイラ附近の会戦、昭和二十年五月- 七月、ドンズー附近の会戦、八月十五日泰国バンポンにて終戦を迎え、俘虜生活並に泰国-ビルマ鉄道警備に当り、昭和二十一年六月十五日復員した。

インパール作戦は、日本軍が自滅しに行ったようなことになった。
5月中頃には、弓(33師団)師団長と祭(15師団)師団長の罷免、更迭、解任している。当初の計画のようには進まなかったのである。別に師団長が悪いわけではない、最初の作戦がまったくメチャクチャ、なっていないのである。
現地軍の牟田口中将の15軍司令部、ビルマ方面軍、南方軍、大本営がワル過ぎたのである。5月末に烈(31師団)が独断撤退を始めた。7月12日、作戦中止となった。相手は日の没することがない大英帝国である、大海軍国ではあるが、陸軍も強い、衰えたといえ、三発撃ったら逃げた、などはあり得ない、もし本当に逃げたのなら、何かワナかも、それとも知らず自ら火の中へ飛び込む夏の虫となってしまった。
日本軍は全線に渡って悲惨な状態に陥った。撤退するのも簡単な話ではなかった。その撤退路は白骨街道と呼ばれた。

兵隊の行先は墓場が相場であった。侵略兵の末路、
日本兵の末路は特に哀れである。敵に殺され、味方からは食糧も送られず、飢えて死んだ、そしてスッコーンと忘れられて、そんなことがあったんですかい、骨もほったらかし、彼らは戦友からも祖国からも殺された…
骨を拾いに行った人もあるが、ビルマは仏教国であるが、墓は作らないそうで、遺骨収集といってもかみ合いにくいうえに、中央政府と対立する地域もあって、ビルマ軍兵士が護衛についたりもするという、慰霊碑は現地にはないのでなかろうか…

写真は「日本ミャンマー未来会議」より→

『防人の詩』
部隊は緩慢な動きのなかにも一路、チンドウィン河の渡河点を目指して、その行動を停止することはゆるされなかった。このルンションからフミネに至る撤退路を、だれ言うともなく『白骨街道』と呼んでいた。事実、我々の撤退する山道横には、ついに最後の力も尽きたのか、兵士たちの屍が点々と転がっていた。死体の数は日を追うように目立ってきた。南国での屍体の腐蝕分解ははやく、豪雨にうたれ続ける死体は一週間ほどで完全な白骨に化していた。この白骨の群れは頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、下腿部の両脚は白い骨片にゆるゆるの脚絆をまきつけたまま横だわっていた。屍臭は山道に満ち、それは途切れようともしなかった。その白骨の街道を青竹にすがった幽霊のごとき兵士の群れが一列の縦隊をなして後退していた。昼とはいえ、なお薄暗い密林内のこの光景は、同じ隊列にいる我々自身に、思わず鳥肌のたつ恐怖を感じさせた」
「泥濘の山道は、行程を進めるほどひどくなってきた。このかゆ状の泥道のなかに半裸の兵隊が埋められていた。よくみると、彼は、まだ生きていた。次の瞬間、私は思わず目をそむけた。だが、かすかに動いている肉塊は、この兵士の体内になお、一条の生命の炎が燃え続けていることを示していた。瞬間、自分は軍医であることを自覚した。眼前の傷病患者を、その場に放置することはゆるされなかった。どろどろの赤土に全身を埋められていた兵士は、直ちに病院衛生隊の手でだき起こされ、私は、この兵士を後送すべく下命した。部隊の進むにっれて、同じような兵士が次々とみつかった。その都度、我々は彼らを泥濘の路底からだき起こし、後送の列に加えた。かくて担送の任務から解き放たれた部隊は、再び、路傍に倒れたままの病患兵士を収容することで疲労の倍加する担送の撤退行をみるに至ったのだった。そして、このような傷病の兵士を担架に乗せ、あるいは自らの肩を貸しながらよろよろと後退を続ける部隊の前には、さらに白骨の死体が増えていった。だれもが、極度の空腹と疲労のなかで、もはや死者たちを顧みる余裕は失っていた。だが、これらの白骨化しか兵士の故郷には、彼らの武運を祈る家族がおり、彼らの帰りを待ちわびる肉親がいる……と思ったとき、私に、この声もなく異郷の密林に朽ち果てようとする兵士たちを丁重に葬むってやらねばならないと決心した。

『防人の詩』
「祭」兵団第一野戦病院
 「自分は部隊に着いて、まず、予想よりも多すぎる患者のいることについて、その間の事情を聞いた。それによると、インパール進攻作戦の開始以来、この日まで、途中で倒れた戦傷兵士、および戦病兵は特別な場合をのぞいて『前送せよ』との命令を受け、野戦病院に患者を連れて前進していたとのことだった。通常であれば、前線での戦傷兵や戦病兵は衛生隊から野戦病院へ移され、さらに後方の兵站病院に後送され、手当てを受けるのにもかかわらず、このとき耳にした軍の方針は『インパールを占領すれば、そこに敵の衛生資材も十分にある。だから、傷病兵は前送せよ』とのことで、部隊は患者のほとんどを連れて前進していた、とのことであった。しかし、前線においては激しい銃砲声のたびごとに、連日のように多数の負傷者が運び込まれ、インパールの陥落どころか、戦傷兵士ばかりが増え続けていたのだった。そして、いまひとつの驚きは野戦病院の施設であった。通常、だれしも『病院』と聞けば、古ぼけた民家か、原地人の聚落の一部をそれに当てているものと思っていたが、自分が着任したときのミッションの野戦病院とは、ただ、そこに病院の名前かあるだけで、その実態たるや密林の樹枝下、その地肌が野戦病院であった。要するに、なにもない大密林の一区城を野戦病院と呼んでいたのだった。到達して間なしに「将校宿舎です」と案内されたところも、それらしき宿舎の姿などどこにもなく、ただの潅木林の低地にしか過ぎなかった。要するに上空からの敵機の銃爆撃に遮蔽してある、というだけのことだった。このような『病院』であっただけに、患者たちはあちこちの地面に、三々五々と勝手にうずくまり、個人用天幕を持っている者はそれをつけ、なにも持っていない患者は、ただ地肌の上に体を横たえたきりの状態で、密林内のどのあたりまで患者たちが散らばっているのか、調べようもない……いうなれば収容人員不明の状態になっていたのだった。こんな状態の患者に対して衛生資材も欠乏したまま、包帯交換も満足にしてやれない、患者用の食事も十分にしてやれない、それどころか、診療にまわる軍医の自分自身が一ヵ月余のアラカン山脈の難路越えで軍衣はぼろぼろになり、風呂など入ったこともない体にはしらみの列が走り、それでも、わずかな医薬品を手にしては密林の樹下に寝ころんだままの患者の間を見回りはじめたのだった」
「このようにして着任早々、患者たちを見回わりはじめるや、あちこちの草むらで地肌の上に寝ころんだままの患者たちのうち、なお、元気のある者は『軍医殿ツ』と自分を呼びとめるので包帯交換もできだが、マラリアの高熱やアミーバ赤痢の悪化のため体力を消耗し尽くしている患者たちは声を立てることさえもできなかった。このため、よほど注意しながら密林内を見回わらなければ重患の兵士ほど診察もれというのか、気付かずに行き過ぎることが少なくなかった。こんな状態を前にした自分に、軍医としての激しい憤りが突き上げてきた。あまりにもひどいではないかツ。いや、ひどすぎるではないかツ。それは、やり場のない憤りであった。この自分の憤りに油をそそいだのが、同じ野戦病院の上級軍医たちの身の処し方であった。部隊長をはじめ病院幹部であるべき軍医たちが、自分の着任と入れ違いのかたちで、病気を理由に次々と後方に退がって行くのをみたのだった。何百名ともつかみようのない患者たちをそのままにして、これらの軍医は当番兵を連れて、この生地獄のような野戦病院から消えて行ったのだった。このため、見習士官である自分の上には三人か四人の軍医の姿しか見当らなかった」

「だが、病院のあるところへ着いてみたが、病舎らしきものはとこにもなかった。ただ、密林のなかに病患兵の集団が体を横たえるようにして、たむろしているだけであった。確か、衛生兵らしい兵隊を見つけて病舎のある方向を聞くと、彼は、自分の所属隊名をたずねたのち『お前は砲兵か、砲兵ならあっちだ』と指をさすので、その方向の密林内に入って行くと、そこに砲兵隊の兵士ばかりが一団となって地表に寝ころんでいた。そして、改めて周囲を見渡した自分は一驚した。それは、病院などというものとはおよそ縁遠い死体の列が密林内の地表の起状に沿ってずらりと並んでいたからであった。そこは病院ではなく、死者の一大集合所にほかならなかった。何十体、いや、何百体とも知れぬ死体が肩を寄せ合うように並んでいた。はじめは病気のため寝ているとばかり思っていた兵隊が、ほとんど息絶えた死体なのだった。自分はこの死体の山のなかに、己れの病躯を横たえながら、やがて、自分の意識も遠のいて行くのを感じた。そして、自分が意識を取り戻したのは、だれかが強く下腹部を蹴りあげたためであった。それは将校であった。自分には巡回診察に来た軍医にみえた。その将校は下腹部を片足で蹴ったあと『これは、もう、だめだなツ』というのが聞きとれた。彼が軍医とするならば、足で蹴るのが診察であり、その際、反応を示さない兵隊は、もはやそれきりであった。自分は軍医らしいその将校の声をかすかに聞きながら、再び意識を失ったのだった」
 そして、大栗軍曹は、三度目の意識の回復をみたとき己れが累々たる屍のなかの一体となっていたことに、改めて気付いたのだった。
 「おれは、まだ、生きていたのか……と思いながら、とにかく、なにか食べるものを探そうとした。だが、体を起こして歩くことはできなかった。ちょうど生後一年目ぐらいの赤ん坊がはいまわるような格好で、周辺の死体から死体の間をはいまわるうちに、遺体のなかの一人から籾をみつけた。周囲には飯盒がいっぱいに散らばっていた。そのなかの一個に籾を入れ、また遺体のかかからマッチを探し出し、付近の枯れ枝を集めて火をつけた。飯盒の底にわずかばかりの粥ができるや、その粥を喉に流し込んだとき、おれは、まだ、生きてるんだツ、という思いが実感としてわきあがってくるのを覚えた。だが、意識不明のまま、何日間も密林内に倒れたままの病躯は、すぐに、起き上がって動くことなどゆるしてくれなかった。このときになって、はじめて気が付いたことに、四囲に人声はまったくなく、野戦病院の軍医も衛生兵もすべて姿を消しており、病院そのものがチンドウィン河を渡河して東岸のビルマ領内に撤退しているように思われた。自分ひとりが、死体の山のなかに取り残されていたのであった。それは、言いようもないさびしい世界であった。いくら四囲を見渡しても、だれ一人、口をきいてくれない死者ばかりであった。静寂の世界に聞く音といえば、わずかに密林の樹枝をゆさぶる風の音だけであった。累々たる死体の山は一語も発せず、ときおり、かさかさと鳴る密林の樹枝の音が、不気味に静まりかえった四囲の沈黙をかすかに震わすのみで、それは夭逝した戦士たちへの鎮魂の弔鐘のごとく感じられた」
「自分は、次第に意識のはっきりとしてくるなかで、もう一度、改めて四囲を見渡した。その自分の両眼に映った光景は、まさにこの世の地獄であった。自分の足もとの死者は頭蓋骨に鉄帽をつけたまま白骨化し、その隣には、骨だけの肩に図嚢をけたたままの白骨体が横たわっていた。うつ伏せたまま死に絶えたもの、座った姿で背だけを折り曲げるようにして息絶えたもの、なぜか、片腕だけを虚空に突き上げ、おそらく、その最期にはなにかを懸命に叫んで死んだとしか思えない異形の白骨体など、それらの姿は、もはや凄絶としか言いようのない数百体の死者の集団が、密林内の山腹一帯から谷間を埋め尽くしていた。
医者も医薬も食糧もなかったという野戦病院の話をよく取り上げるのは、こうした医療不在は何も戦地だけでもなさそうに思えて仕方がないからである。
日本の医師不足」によれば、
「2006年の調査では、日本の人口1000人あたりの医師数は2.0でありますが、OECD平均では3.3であり、上位国では4.9に上ります。日本は約3倍の差をつけられていることになります。1000病床あたりの医師数では、日本は14.9ですがOECD平均で65.6、上位国では109.6となり7倍差ついています。このように、日本では医師の絶対数が他国に比べて少ないのです。」とある。どこぞのマチあたりは、病院が多すぎるとして市民病院ツブシをしたことでも知られる。この時代からおかしくなっていった。
「こうした悲惨な情景は、先行していた他隊の病患兵士だけにみられたわけではなかった。自分たちの隊にも犠牲者が出はじめたのだった。それは、最前線にあった三ヵ月余の間、糧食といえば付近の密林から野草をつんできては、これで露命を長らえていた隊員たちであっただけに、当然のように栄養失調の兵士もみられていた。垣岡博上等兵も栄養失調のため顔面は灰色となり、両足は異常にむくんだ姿を撤退の隊列のなかに置いていた。このとき、隊員の軍靴はもはや破れ、すり切れ、我々は毛布の端を三十センチ角に切り、これを巻き脚絆で両足の足首にぐるぐるにしばりつけ、靴代わり…いや、それは靴などと言うこともできない、とにかく履物代わりにした姿でとぼとぼと歩いていたのだった。このような隊列のなかで、垣岡上等兵が倒れたのは撤退後、何日目だったが、正確には覚えていない。ただ、もはや一歩も歩けなくなった彼が、倒れた路傍で懸命になって呼んでいるのをみた。呼んでいるといっても声は聞こえなかった。栄養失調症も重症になると舌がしびれて発声は不可能となり、ただ、かすかに唇が動いているだけだった。自分が近寄って行くと、垣岡上等兵は最後の気力をふりしぼって声を出した。そのとき、彼は『もしも、お前が京都に帰れたら、これを届けてくれ』といって小さな汚れた紙きれをさしだした」
 その紙きれには彼が京都に残してきた家族の子供の名前が記してあった。そして、裏側には小さな字が不規則に並んでいた。
「おとうちやんは、お前らに会うため、一生懸命、ここまできた。だが、もう歩けん……」
 紙きれの小文字は、そこで止まっていた。この紙きれを手にするや、鳥居上等兵は直ちに隊内の下士官に垣岡上等兵の倒れたことを伝えた。垣岡上等兵が息を引き取ったのは、それから間もなくのことであった。


低国の大本営は、だいたいは負けは五分の一ほどに、勝ちは五倍ほどにして、発表していたという。国民は都合のよいように改竄された架空値に陶酔することに馴らされて、本当の数値を見なくなってしまった、見てもすぐに忘れてしまう。
能う限り本当の数値に向き合いたいと思う…

(参考)低国は過去の日本か、今の日本もベースは低国のままか?
低国とかわることがない。いよいよダメ国となってしまったか。もうチト人間らしく生きられる国にしようではないか
そう見ざるを得ない明日なき末期現象的な動きが気になる昨今であるが、そのいくつかを…

朝日新聞のニュースレターより
日本の最低賃金は韓国以下、豪州の2分の1 専門家「差は開く一方」

「 欧米など海外の先進国と比べ、日本の最低賃金の低さが際立ってきました。20年前は韓国の2倍以上ありましたが、今では逆転されています。何が背景にあるのでしょうか。…」とある。

大企業だけがウハウハでよろしいのか。情けないばかりのデーターではないか。ひどいでないか。
関係の者どもは何十年も何をしているのか。


新聞報道より
舞鶴副市長人事案 市議会、反対多数で不同意 続く異例の「ナンバー2」不在 /京都

舞鶴市議会は市民や納税者のことは、どーでもよいのか。反対して市民に何の利益があるのか。市長が仕事できないではないか。議員なら市民のタメになることをしろや。それが議員のみならず、市民のギムだろうが。
市長にならって議員歳費3割削減、あるいは議員数3割削減以上を強く求む。それをやってから文句を言え。
立候補して当選したというなら、ぜひとも最低賃金で国民のため市民のため世界平和のために懸命に働いてもらおうでないか。知ったげなことを言うのは、それからでよい。『舞鶴市民新聞』(2023/7/11)↓より

「魚は頭から腐る」。腐って悪臭を発する、古代ギリシャ時代からの諺という。社会や組織の腐敗は、その上層や上流から進行することのたとえ、だという。
日本では、鯛は頭から腐る、という。上層というのは社会の寄生部分で、ダニのようにように寄生する社会の血を大量に吸って生きている、自分が働くわけではない。腐って当然の社会に不用な寄生虫である。舞鶴市議会はまともな虫の倍も腐敗虫がいると見える。これまでは何でも賛成していた連中ではないか、今度は何でも反対か。これではマチの明日はなかろ。各紙がいかがなものかと言っても気が付かない程度の愚かな者どもなら、あとは有権者が判断を下すことになる。極度に腐敗し、臭くてタマラン、アンタッチアブルな汚物になりたくなければ、額に汗して働く市民と一緒にいて、そのために働くことである。
ワタシのような年寄り世代が一番恐れるのは、今は元気でもやがては寝た切りとかになって、社会に負担をかけるだけの厄介者になってしまうであろうことである。「そうなったらカナンな、それまでには死にたいな」と皆言う。人が生きるというのはそうしたことで、社会の害になったらアカンのとチャウ。

もう一つ(主要国の平均賃金の推移。引用OECD「Average Wages」)


どうにもこうにも、遅れが目立つ。世界について行けない。
ウハウハのはずの大企業でもついて行けない。
日本企業の最盛期とされた1989年、世界の時価総額ランキングで、日本企業はトップ10に7社、トップ50に32社もランクインしていた。それがいまやトップ10にはゼロ、トップ50にやっとトヨタ1社(49位)が入っているだけ。
「フォーチュン・グローバル500」(FG500)の2022年版では、500位以内にランクインした日本企業は47社。1位の中国136社、2位のアメリカ124社の3分の1弱に過ぎない。
さらにジェンダーギャップ
「世界経済フォーラム(WEF)は6月21日、男女格差の現状を各国のデータをもとに評価した「Global Gender Gap Report」(世界男女格差報告書)の2023年版を発表した。日本のジェンダーギャップ指数は146カ国中125位で、前年(146カ国中116位)から9ランクダウン。順位は2006年の公表開始以来、最低だった。分野別にみると、政治が世界最低クラスの138位で、男女格差が埋まっていないことが改めて示された。」
男女格差だけでなく、政治分野に問題があることはまちがいなかろう。これが日本発展の障害となっている。21世紀にふさわしいものへとどう改めていくかが日本の課題であろう。
額に汗して働く人々こそが尊いのであって、そうした人々こそが国の宝である、本当に大事にすべき人達なのだ、そうした人々のための国であるべきだという、近代人としては当り前の認識が弱い、あるいはない。働かない特権貴族が尊いと考えている前近代的な認識を引きづったまま、現在に至った国が私たちの国である、といえようか。遅れはアタマの遅れなのかも…









 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

埴生の宿 Home Sweet Home  庭の千草 the last rose

映画・ビルマの竪琴

(265) (270)埴生の宿〜仰げば尊し(安井昌二ほか) - YouTube

(268) 埴生の宿/森 麻季 - YouTube
(268) André Rieu - The Last Rose - YouTube

「埴生の宿」は、土や粘土で出来た粗末な家、床も畳もない赤土の家の意味で、自分が生まれ育った故郷の家のことを言ったもの、しかしそれでも「玉の装い」を凝らし「瑠璃の床」を張った御立派な御殿よりも、私にはずっといい、虫や花や星や風と一緒に暮らす「埴生の宿」がいいという歌詞。今はそうした家は見かけなくなったが、古く万葉の昔は、民家はそうしたものであったのであろう。
彼方の赤土(はにふ)小屋(をや)に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹(巻11-2683 作者未詳)がある。こんな感じか→
丹後郷土資料館の展示で、弥生のものと思われるが、、その後も長くこうした建物であったものか。
土間で周囲にはミゾが掘られてはいるが、小雨でも水がへ入ってきたものか。
 戦死した戦友も故郷の自分の家に帰りたいんだよ、それをほかしたまま自分だけ帰っていいのか、一緒に連れて帰えってやろうやないか…
日本人が真っ青になりそうな問いかけであった。それでも戦友か、それでも人間か。
それが天皇の軍隊か。日本の軍隊とはそんなものなのか。日本の政治とはそんなものなのか。頭のイカレた大将だけが、おかしいのか。と問うてくる。

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