丹後の地名 若狭版

若狭

石山(いしやま)
福井県大飯郡おおい町石山


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福井県大飯郡おおい町石山

福井県大飯郡大飯町石山

福井県大飯郡佐分利村石山


石山の概要




《石山の概要》
県道1号(小浜綾部線・佐分利街道)と県道16号(坂本高浜線・周山街道・鯖街道)の十字路、今は「佐分利大橋交差点」にある。兼業農家中心の農業地域。旧佐分利村の中心部になる。
天正16年2月6日浅野長吉(長政)の家臣小笠原与十郎が浅野宗政の指示を受けて「石山村之内山茶」を浄土寺に寄進している。
石山村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
石山は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北3町余、戸数29、人口は男69・女84、学校1。


《石山の人口・世帯数》 137・53


《石山の主な社寺など》

古墳
地内に古墳4基が確認されている。


曹洞宗金剛山西方寺

『大飯町誌』
金剛山西方寺
宗派 曹洞宗(海元寺末)
本尊 阿弥陀如来
所在地 石山字藤の(一五の二八の一)
主な建物 本堂、庫裡、開山堂、山門、小屋東司
境内地その他 境内一、三六五平方㍍、山林六、五五五平方㍍、宅地一、二七二平方㍍、原野七九〇平方㍍
住職(兼務)原田雪渓
檀徒数 五七戸
創建年代 不詳、転禅は応永十八年(一四一一)、慶長元年(一五九六)再建して曹洞宗となる。
開基 武藤団(法池開基)
開山 海元二世、大用永順大和尚 法地開山、大活一乗大和尚


西方寺
 寺院については、さきに集落の歴史上からも触れたが、現在の宗派に転ずる間の事情やその後については述べていないから、それをここで補っておく。
 西方寺は字藤の木に所在、曹洞宗永平寺派父子・海元寺末、本尊阿弥陀如来、建物は本堂と庫裡、昔は真言又は天台宗ともいわれ転禅は応永十八年(一四一一)瑞明和尚代。再建は慶長元年(一五九六)父子・海元寺二世大用永順和尚で、この時から海元寺の末寺となった。明治三年(一八七〇)に大活一乗和尚が瀲元寺の管轄を離れてこれを中興し、武藤団を法地開山開基として再出発したのである(なお『若州管内社寺由緒記』には、「禅宗京相国寺末西方寺、中興開山周山浦薫知識禅師と申候。開基開山相知れ申さず候、本尊阿弥陀、恵心の御作と申伝候。延宝三年(一六七五)九月西方寺住持運微」とあるから、相国寺派であった時代もあるらしい)。


『大飯郡誌』
西方寺 曹洞宗永平寺派 石山字藤ノ木に在り 寺地四百五十三坪 境外所有地九反四畝二十二歩 檀徒百八十人 本尊無量壽如来 堂宇〔〕庫裡〔〕 由緒〔明細帳〕往古真言宗應永十八年瑞明和尚中興轉禪


真宗大谷派金光山浄土寺

西方寺や通り堂の少し奥、西側。本尊は阿弥陀如来。創建年代は不詳。文永2年の若狭国惣田数帳写に記される「新城寺二反」が現浄土寺にあたるとする説があるが不詳。天正16年2月16日付の浄土寺宛小笠原与十郎寄進状に「石山村之内山茶之儀者、傅右二申聞候ヘハ、浄土寺へ一円二令寄進之旨、則拙者二心得可申上之通候条、択々如此二候、其心得可被成候」とある。「若州管内社寺由緒記」は「昔は時宗にて御座候処教道と申坊主本願寺に致二帰参一夫より六代相伝仕候」と記す。
『大飯町誌』
金光山浄土寺
宗派 真宗(大谷派)
本尊 阿弥陀如来
所在地 石山字杉谷(一三の八)
主な建物 本堂、庫裡、本堂は明治十三年(一八八〇)再建
境内地その他 境内一、一九〇平方㍍、所有地二九、九四〇平方㍍
住職 杉谷隆教
檀徒数 四五戸
創建年代 文明九年(一四七七)再興
開基 慶道法眼
開山 一説釈法慶応永十八年(一四一一)中興真宗となる
寺宝 小笠原与十郎寄進状ほか数通
   浅野長政制状、古写経(応永十三年)


浄土寺
 字杉谷に所在、山号金光山、本尊阿弥陀如来、真宗本願寺派小浜妙光寺末、建物本堂庫裡、転宗については諸説がある。『大飯郡誌』は応永十八年釈法慶中興転真宗とし、『本郷湊』は応永十八年慶道法眼(山名和泉守時氏の三男出家)廃寺を興して真宗としたとし、『若州管内社寺由緒記』は、「西一向宗、本尊阿弥陀、太子の御作、昔は時宗にて御座候処教道と申す坊主本願寺に帰参いたしそれより六代相伝仕り候。右教道は小浜明光寺了宗と中す坊主の弟にて御座候故今に明光寺末に御座候」と、明光寺との関係を明らかにしている。「浄土寺過去帳」によると、小笠原与十郎の父は円明院覚道智誓で天正九年(一五八一)七月十七日、亡母は智光院顕彰妙誓で天正十七年十一月二十五日亡とある。


『大飯郡誌』
浄土寺 真宗本願寺派 石山字杉谷に在り 寺知三百六坪寺外所有地三町一畝二十七歩 檀徒百五十五人 堂宇〔〕庫裡〔〕由緒〔明細帳〕往古真言宗應永十八年釋法慶中興轉真宗。
?〔若狭郡縣志〕 三十三所觀音二十一番正觀音佐分利石山寺准丹波同穴太寺。
?〔太田文文永二年〕(不輸田の内) 新城寺二反 佐分郷。
〔寺藏古文書〕 一、小笠原與十郎寄進状 
一、同 人令状-以上 其村之山手米之儀合一石二斗四升之内一斗者淨土宗へ爲月忌米令寄進之條名之可有其心得候仍如件 天正二十年九月十三日 小笠原與十郎定次 華押 いしやま伊勢木、たん、總中。
一、浅野長政制状 
一、古寫經 
(或云文明九年の頃小濱妙光寺第四世慶道廢寺を興せしものにて、爾来同寺末なりしが、安永の頃本寺と紛爭、同二年二月二十九日大谷派に轉せりと)。



通り堂

丹後の船木にも「通り堂」があり、今は道縁に立っている。当地の通り堂も今は西方寺の脇の道縁に移されている。たぶん左の「止マレ」の道が旧佐分利街道で、左右に通る手前の道が旧鯖街道(周山道)であろう。
『大飯町誌』
集落の中央に「通り堂」という地蔵を祀ったお堂がある。この堂は周山道をまたいで建っていた。通行人も車馬も必ずこのお堂の中を通らねばならなかった。道中の安全を祈願し、旅ごしらえを改めて坂路へかかるのが通例となっていた。あるいは石山城時代に何らかの役目を果たしていた施設であったかもしれない。草葺入母屋造りのお堂であったが、今はトタンぶきになり位置も替えられている。


石山城

鯖街道(県道16号・坂本高浜線)と県道1号(佐分利街道・小浜綾部線)が交わる「佐分利大橋」交差点。1号線側のログハウス風の「石山・佐畑バス待合所」に案内板がある。その奥に見える釣鐘の山が石山城跡である。当城の攻撃方に明智十兵衛光秀が登城するので全国的人気高まるかも…の城である。少し詳しく触れてみよう。
その案内板↑には、
石山城跡(右側の山頂)
 石山城(亀山城ともいう)は武藤氏の居城であり、佐分利谷の石山を本貫としてこの谷を支配していた。
 武藤氏の出自については定かではないが『若狭国志』によれば、元丹後の国士で若狭守護武田氏が丹後を併領した時に属したとされ、若狭入部は永正年中(1504~1521)以降とみられている。武藤氏は代々「上野介」を襲名し『信長公記』にも「上野介」の存在を示している。また「佐分利殿」とも呼ばれていたとされる。
 最後の城主上野介友益は極めて好戦的な武将であり、天文7年(1538)、武田氏の家督争いに乗じ、加斗庄の稲葉館(小浜市上加斗)を攻め国人伊崎民部丞堯為を帰属、周辺に城郭を築き一族に守らせた。その後も本郷氏所領への侵攻、高浜の逸見氏との合戦などを繰り返した。
 織田信長による越前朝倉氏侵攻時、反信長体制を整えるも元亀元年
(1570)、明智光秀・丹羽長秀が佐分利谷に侵攻、武藤氏は降伏し、石山城は破壊された。その後、天正8年(1580)には一族の武藤友賢・友慶父子が本郷氏に攻められ没落、以降、武藤氏は歴史上に登場することはなかった。
 石山城跡がある山頂は海抜190.6mあり、佐分利谷全域を見渡せ、北西は福谷峠を越えて高浜へ、南は名田庄へ抜ける幹道の交差する交通の要所でもある。山頂に主郭を配に主郭から6方向に延びる尾根があり、各尾根は堀切・竪堀で区切られ、尾根上には小郭群が点在する。
 舞鶴若狭自動車道建設により石山城跡の北側部分が削られることとなったため発掘調査が実施された。調査では礎石建物跡や屋敷跡、青磁碗や白磁皿などが出土し、漆塗りの鎧の一部も出土した。町内有数の規模を誇る山城の一つである。
                  おおい町教育委員会
                  おおい町文化財保護委員会


街道が交差する要所を見渡す山頂(海抜190m)に主郭があった。それより北東に延びる稜線上に階段状の遺構が残る。主郭は下辺の短いくの字型となっており、くびれ部が最も高く櫓台の部分は石垣積み。単純な連郭を形成するが土塁をめぐらす一郭には建物跡と推定される礎石群も残る。先端部は二方に分かれる枝峰となるがそれぞれに堀切・竪堀をつくり北方稜線にも小郭がみられる。また主郭中央から東に延びて下降する枝峰には3条の壮大な堀切りがありその先にも小郭をつくる。この場所は名田庄村から大飯町へ山越えして抜ける道に面しており、その防備として設置されたと考えられる。主郭からは佐分利谷全域が見渡せる。「若狭郡県志」に「石山村之城武藤止野介所拠也、而領佐分利郷十七箇之民村故土人称佐分利殿」、武藤氏の居城とする。
 武藤氏は享禄4年(1531)12月13日付武藤元家施行状にみえるのをはじめとし、元家は若狭守護武田元光の奉行人としてその名がみえている。武藤上野介友益は、織田信長の反対勢力として武田彦五郎信方、越前朝倉氏とくみして若狭で活発に動いた。元亀元年(1570)7月10日付の信長朱印状に「若狭之国端ニ武藤与申者企悪逆之間可致成敗之旨、為上意被仰出之間、去四月廿日出馬候、武藤種々相詫候条召出、要害已下令破却、任御下知之事」とあり、また「彼武藤一向不背之処、従越前加筋労候遺恨繁多ニ候間、直ニ越前敦(賀)郡ニ至て発向候、手筒山、金前両城を蹈相支候し、不移時刻先手筒山攻上、即乗入数百人討捕、落居候」と記している。武藤氏は信長の若狭・越前進攻の口実にされた。
元亀年中若狭の旧守護被官人らは織田信長に与力したが、武藤氏は同調せず若狭では数少ない反信長勢力として存在していた。武田支族の彦五郎信方と手を結び信長方の城を攻めている。かなり反発したものか「毛利家文書」に「若狭之国端ニ武藤与申者、企悪逆之間、可成敗之旨」との信長書状が残る。元亀元年5月、信長は丹羽長秀・明智光秀に命じ石山城を攻めて、武藤氏毋を人質にして城を破壊し同月6日京都へ引き上げている。
 「信長公記」に天正9年(1581)4月のこととして「武藤上野跡粟屋右京亮跡三千石、武田孫八郎へ遣さる」とあり、天正12年頃丹羽長秀の入部によって城は破却されたと考えられている。
 武藤氏は元は丹後の出だという、丹後善王寺の平岡城が武藤氏、またタケフジと読んで、久美浜の竹藤城も武藤氏である。
『大飯町誌』(図も)
石山城
武藤上野介の居城は石山城(一名亀城)であった。城址は石山集落の後背をなす山頂で海抜一八七㍍、小字横谷口、道の上、意足の三小字が集まっている頂点にあり、広さはおよそ五~六㌃である(『佐分利村小誌』による)。礎石や石垣などの石は、まだ幾らかは残されている。頂上からやや下った所に空堀の跡らしいものも認められる。この城は度々実戦の洗礼を受けているだけに、そうした工作も施されていたのであろう。
 高浜町馬居寺中嶋家の対石山城の戦記には「彼の城の要害を見るに、山道つづらおりにしてしかも道細く巌石を並べたれば、攻寄るべき方もなかりしに、中嶋つくづくおもう程『此要害かくあればとて、徒らに日を過さば加勢重り、軍難儀に及ばん事、案の内なり。いざさらば謀を以って責めとらん』とて、明くれば三日の夜ふけに奥の巌に二百余騎の人数を伏せおき、『夜明けなば峰より攻下るべし粟屋は尾より攻上る体に貝を吹き、太鼓をうち、閧をつくり遣りて城兵をおびき出すべし』と申含め、然々の設けをぞなしたりける。城中にはこれぞのぞむ処なり。下り撃ちに討ち取れと、峰に伏兵有りとはゆめにも知らずや有りけん。城の後へおり、下り合いける。思いもよらず峰より大勢閧を発して攻め下り、所々に火をかけたれば、城兵力及ばず散々に落行きける。」と述べている。
 表現上の誇張もあろうが、つづらおりの道、岩石を並べなど現在伝えるところと近い。平常の居館は山麓のあたりに設けられ、事あるときにこの城に立てこもったのであろう。山頂は、川上方面から万願寺方面にわたる佐分郷の大部分を一望に収め得る格好の地点である。



《交通》
石山坂

改修進む今の石山坂峠の麓(県道16・坂本高浜線・高浜街道・鯖街道)

高浜から口坂本まで20分くらいである。

《産業》


《姓氏・人物》


石山の主な歴史記録


『大飯郡誌』
武藤氏の登場
『佐分利村小誌』は武藤氏について、「一色氏ニ代ハリ永享ノ末年ニ武田信賢若狭ノ守護トナリ、一色氏ノ残党ヲ所在ニ討滅平定シ、更ラニ地頭又ハ税所公文ノ如キ者ヲ駐在セシメタルヲ聞カズ、室町幕府ノ政令漸ク衰へ、天下諸国ノ兵革謐ラザル末葉ノ期ニ及ンデ、武田氏ハ一族又ハ重臣ヲシテ各所ニ城ヲ築キ変ニ供ヘシメタリ。吾ガ佐分郷ニ武藤上野介友益来リ石山山上ニ城ヲ築キ十七ケ村ヲ統轄領有シ従臣ハ城下附近ノ地ニ住セシメ武威ヲ張ル。里民ハ城主ヲ指シテ佐分利殿卜称ス……」としてある。
 しかも『若狭国志』の注を引いて、武藤氏は元丹後の国士で武田氏が丹後を併領した時これに属したことを認め、また同書に「伝へ言フ五郎一色守邦……石山ノ城主武藤友益ガ為ニ滅サル……」とあることを承認し、「武田家の被官トシテ拠守シタルハ必然ナリ。」としている。なおいま一つの問題として、嘉吉元年から武藤氏滅亡の天正四年ごろまでは一三六年の期間があるにもかかわらず、上野介の名前が一貫して用いられている件がある。
 武藤氏は代々上野介を襲名したので、幾世代続いたか確かでないが、『若州本郷高田城縁起』には、友益の三代前に時由が見え、また『守護代記』には武藤景久が見えるので、これらを考え合わせて、少なくとも三~四代続いたものと考えるべきであろう。
石山城
武藤上野介の居城は石山城(一名亀城)であった。城址は石山集落の後背をなす山頂で海抜一八七㍍、小字横谷口、道の上、意足の三小字が集まっている頂点にあり、広さはおよそ五~六㌃である(『佐分利村小誌』による)。礎石や石垣などの石は、まだ幾らかは残されている。頂上からやや下った所に空堀の跡らしいものも認められる。この城は度々実戦の洗礼を受けているだけに、そうした工作も施されていたのであろう。
 高浜町馬居寺中嶋家の対石山城の戦記には「彼の城の要害を見るに、山道つづらおりにしてしかも道細く巌石を並べたれば、攻寄るべき方もなかりしに、中嶋つくづくおもう程『此要害かくあればとて、徒らに日を過さば加勢重り、軍難儀に及ばん事、案の内なり。いざさらば謀を以って責めとらん』とて、明くれば三日の夜ふけに奥の巌に二百余騎の人数を伏せおき、『夜明けなば峰より攻下るべし粟屋は尾より攻上る体に貝を吹き、太鼓をうち、閧をつくり遣りて城兵をおびき出すべし』と申含め、然々の設けをぞなしたりける。城中にはこれぞのぞむ処なり。下り撃ちに討ち取れと、峰に伏兵有りとはゆめにも知らずや有りけん。城の後へおり、下り合いける。思いもよらず峰より大勢閧を発して攻め下り、所々に火をかけたれば、城兵力及ばず散々に落行きける。」と述べている。
 表現上の誇張もあろうが、つづらおりの道、岩石を並べなど現在伝えるところと近い。平常の居館は山麓のあたりに設けられ、事あるときにこの城に立てこもったのであろう。山頂は、川上方面から万願寺方面にわたる佐分郷の大部分を一望に収め得る格好の地点である。
武藤氏と粟屋氏の一戦
馬居寺の白石城主粟屋紋右エ門太夫とその同居人中嶋猶衛祐が、石山城主武藤上野介を討伐したという異説が、「中嶋家の由来書」に載っている。真否のほどは分からないが一つの話題として取り上げておきたい。
 「……佐分利にありし武藤上野介、永禄元年(一五五八)二月に病死し、団五郎左エ門城主となると聞えければ、能き虚なりとて、同年五月二日に粟屋、中嶋、熊谷、大嶋の人数僅か七百余騎を以て佐分利へ押寄せ川筋より陣をとる。敵方にも篭城の用意して見えけるが、且つ古城の要害をたのみて固く、守り加勢を乞ふの手段なかりしときこゆ……。(中略・前記戦記と同じ)
 粟屋、中嶋兵を勇めて乗り廻し、あたるを幸に切って落しける。その内に此の城の大将と見えて七、八騎相連れ見えければ、中嶋は矢をつがひ討留めんずるぞと相待つ所に、敵も中嶋なりと思ひたるにや、駒の足を静に立て、人数を丸く備へて、山の手に付て折を窺ふとぞ見えければ、中嶋是を見て和歌の下句を作って、武藤の心情を知らんと、兵一人に命じて武藤の陣所におくる。
    石山崩れて落ちてぞゆける
  武藤もさるものにて有りければ取りあえず
    谷水は中ばの嶋にせかれつつ
と上の句を置きける。古へ八幡大郎殿の衣川の戦ひに、和歌の下の句を読みて、貞任をこころみ給ひしも此の如くなれば、古実ありとて此者に命を助けぬ。且は亦後瀬の城に切入る時もあらば、武藤恩を思ひて味方せん便りのひとつにも成るべき事もあるべしとて、備を引上げて武藤を難なく通しけり。城中『中嶋古実を知る仁将なり』と其の頃沙汰しけるとぞ。武藤が危き命を遁れしも、和歌の徳とかやを多くふみ有りし武士と見えて其名かくれなかりしとなり……」
 この戦記は武藤氏亡命説につながるもので、丹羽明智軍へ降服したという説及び逸見氏に討滅されたという説とは矛盾するが、上野介病死団五郎左衛門相続という一件は、上野介数代同名の秘庫を開く鍵ともなるもので容易に捨て去るわけにも行かない。また、石山城要害に関する一資料でもある。
 武藤氏については、『若狭国志』本文に、「按に太平記に云う丹後国の住人武藤右京進政清北畠顕家の首を獲たりと。蝸角集記する所の文明六年武藤某丹後国峰山城に戦死すと。蓋し武藤氏は元丹後の国士にして武田信賢丹後国を併領するの時之れに属し本国の士と為りて此に来住するならん。」とあるように、丹後から佐分利へ移り、石山城主となったものと考えられる。
 逸見駿河守、内藤筑前守、山県下野守土屋六郎左衛門尉、粟屋勝久などとともに武田家の首脳陣に加わっていたものである。その所領は、入部以来佐分利一七カ村を全部掌握し石高五、一〇六石と伝えている。
 武藤氏の一翼として互いに助け合っていたものに加斗荘の武藤彦左衛門友賢・友慶父子があった。家老としては、川上主水、武藤金吾、大谷丹後守などが史書に挙げられ、伝承では、石山の武藤団、伊勢木の両家がそれであったという。また団又兵衛(武藤団と同人)、団又左衛門(薗部)、仲平太夫(安井)、柿本五郎左衛門(久保の五兵衛)が四天王であったといわれている。また胴欲川原につらなる話の主人公は仲と坊の二人である。
高浜城主逸見氏との戦い
高浜城主逸見駿河守昌経と武藤上野介とは、共に守護武田氏の重臣である。にもかかわらず、とかく両者の間には戦闘の歴史が伝えられている。
 逸見貞長・昌長の時代はむしろ相携えて丹後の兵を討っているのに、永正十二年(一五一五)六月に逸見河内守が丹後の延永源六の援軍を得て、守護武田元信と戦った後、武藤、逸見両者の反目が追い追い厳しくなったようである。
 永禄元年(一五五八)五月二日、逸見氏は軍を発して佐分利に進み上野介を攻めている。ただし、その詳細は不明である。永禄十一年(一五六八)十一月には武藤、逸見の両軍は笠原で遭遇戦を展開したが、この時は勝敗を決することなく終わった。なお年月不詳の戦としては、武藤上野介の軍が三松の大谷山の砦から下って高浜城を急襲しようとしたことがあった。この時高浜の漁師らの民兵が早くこれを知って、畑の浜辺で死を決して防戦したので、武藤の軍兵は志を達することができず敗退して石山へ帰ったという。
 武藤氏と本郷氏については、既に本郷氏の項で触れておいたからここでは多くを繰り返さない。ただ両者の境界の一線が平坦地を主としており、武藤方は地勢上常に本郷の情勢を俯瞰する位置にあったから、本郷方はいつも攻められる立場にあった。記録の面からいっても、本郷氏が石山城を攻めた形跡は一度も見られない。しかし、両者の間には結局一大決戦は行われず、本郷氏が加斗の武藤彦左衛門を攻めたのは石山城陥落後であった。その意味で戦略的には本郷氏の方が巧妙であったといえるかもしれない。
武藤氏の最期
武藤上野介の最期は、逸見氏に滅ぼされたというのが一般に行われてきた説である。しかしまた一方には、家臣の諌言を入れて、ひそかに逃れ出て京都の白川に隠棲したという説も伝わっている。また、永禄元年二月病死というのもある。そしてその後継者は団五郎左衛門尉で武藤を名乗っている。官名は明らかでないが相変わらず上野介を名乗っていたのではあるまいか。団五郎左衛門の相続した上野介が京都へ亡命したとすれば、病死と亡命とは両立するわけである。また丹羽に降参したのも五郎左衛門時代の上野介ということになる。
 以上、武藤上野介の最期は混沌としており、いずれが真の姿を伝えているのか、現時点では断定できない。)


『大飯町誌』
石山
 佐分利川をさかのぼること八・三キロメートル、右岸に位置する集落で佐畑の対岸にある。東は小車田、西は久保と境するが、この間に突出した山鼻がある。この山頂(一八七㍍)は石山城址で、戦国時代に武藤上野介友益の立てこもった所である。城下町として発展した石山は、また、県道小浜綾部線(旧京街道)と県道高浜周山線との十字路に発達した集落でもあった。
 昔、当町や高浜町から京都へ出るには、この道(高浜周山線)が最も多く利用されたので、自然石山はその恩恵を受けたわけである。明治になってからも、長く高浜・名田庄間の郵便物逓送路(高浜-石山-坂本)に指定されていた。高浜を夜半に出て、石山坂を夜の間に通るのが例になっていたという。
 集落の中央に「通り堂」という地蔵を祀ったお堂がある。この堂は周山道をまたいで建っていた。通行人も車馬も必ずこのお堂の中を通らねばならなかった。道中の安全を祈願し、旅ごしらえを改めて坂路へかかるのが通例となっていた。あるいは石山城時代に何らかの役目を果たしていた施設であったかもしれない。草葺入母屋造りのお堂であったが、今はトタンぶきになり位置も替えられている。
火事のない集落
 石山は火事のない集落といわれている。今から一七〇年ほど前に次郎右衛門という家が一軒だけ焼けたことがあるが、それ以外には一度もないと古老は伝えている。
 集落の人々の心掛けがよいためであることはもちろんだが、毎年盆の二十三、四両日に行うカセの火祭りとその棒仕舞の大祭のおかげだと、人々は信じている。カセの火は昔から茂兵衛と佐右衛門でもらうのが佳例となっている。これが厳しく守られているのを見ても、見えない掟・不文律が民衆を支配していることが分かる。火を恐れ、火を慎む心が幼いうちから心のどこかに培われているのであろう。旧佐分利村では、明治から昭和元年(一九二六)までの五九年間に火事は一七度で、焼失四七戸ぐらいであった。
戸数
 石山の人家は、古来杉谷、中町、田見安にあった。城下当時は武士関係もあって多かったであろうが、藩政時代になって少なくなったのはなぜであろう。従来武藤団家、井関家のような旧家の勢力が大きく、それを維持していくために分家を作らなかったからであろう。
 武藤又五郎著『武藤団沿革誌』によると、団家の分家は石蔵久右衛門(約五〇〇年前分家)、武藤政右衛門(宝暦年間の分家)、岸本長左衛門(年代不明、多年作男であった関係で分家同様)、武藤宇左衛門(約二〇〇年前の分家)で、約五〇〇年間に四家が分かれただけである。また、団の旧石高は五〇石ないし七〇石見当であった。佐畑の石高が七三石であるから、最盛期の団は佐畑村一村に比肩する石高を持っていたのである。分家への分譲は、石蔵家へ約八石、政右衛門へ約六石、宇左衛門へ七石六斗ということである。
各時代の飛石
 この集落の開闢については、古墳四基が確認されているので、その時代まではさかのぼれるが、奈良平安時代を語る手掛かりは何もない。ただ、西方寺・浄土寺が共に真言また天台の廃寺を再興したものという伝承(『大飯郡誌』に「往古真言云々」、『本郷湊』に「浄土寺…山名和泉守時氏の三男薙髪して慶道法眼と称し当地に巡錫し来り、天台宗の廃寺たりしを真言に改転して中興の祖となる。時に応永十八年(一四一一)也……。西方寺…往古は天台宗に属したるを慶長元年(一五九六)海元寺第二世大用永順和尚再建して今の宗派に改む……」)があるだけである。
 鎌倉時代になると、『若狭国惣田数帳』に「極楽寺五反」の除地目録がある。しかも石山に極楽寺の廃寺跡と称する屋敷(現公民館忠魂碑)と墓地が残っているから、極楽寺が存在していたことは確実であろう。あるいは天台とか真言とかいうその中の一力寺はこの寺のことであるかもしれない。若狭国三十三所の二一番で丹波国穴太寺に準じたものという。
 また、字瑞岸寺という所に幅一尺高さ三尺位の石碑があり、金剛般若波羅密経一体同観分第一八の末文「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とあって、「天文二十三年八月十九日」と刻してある。天文二十三年(一五五四)は、後奈良天皇の御宇、足利義輝の治世、武藤上野介が丹州兵と盛んに戦闘を交えていた時である。何を意味する石碑か解しかねるが、これも廃寺跡(真言宗で上野介菩提所という)であろう。さらに熊野神社(伊射奈伎神社に合併)跡がある。この神社の由緒は一切不明であるが、これも中世を下らぬものと思われる。
 武藤上野介の初代が佐分利へ入居したのは嘉吉元年(一四四一)の冬と推定され、以来石山城を根拠として佐分利地区全域を把握してゆるぎなく、高浜・本郷などと対峙していたのである。また、ときには丹波方面へも出動して勇を振るい、元亀元年(一五七〇)五月には織田信長の強将丹羽長秀・明智光秀の連合軍を膝下近くに進攻させたほどである。その居城期間は、逸見氏に滅ぼされる天正四年(一五七六)ごろまでの約一三五年間であった。その家老中今日まで家系の残っているのが、団、伊勢木(井関)の両家であると伝えている。
武藤団
 両家は、武藤上野介滅亡の後も、家名の衰えることがなかった。団家のごときは、石山城の山麓から集落の主要部にかけて、大きな入船形六〇〇坪の屋敷を構え、その周囲に道路をめぐらして、ちょうど領主の館跡をそっくり受け継いだかとも見られるのである。
 今の家屋は、天明年中(一七八一~一七八九)飢饉で職を失った高浜の大工が食いつなぎのために建てさせてもらったものだと言い伝えている。本屋は木造茅葺合掌造りの純和風の庄屋家形式のもので、座敷は縁側より一段高く揚げ間風になっていて、領主や藩の役人達の宿泊や休憩所に当てるのに都合のよいようにできている。今では間取り等に模様替えがなされて昔のままではないが、大黒柱や丸物は十分人目をひく立派なものである。
 明治三十四年(一九〇一)一月、西郷従道、河村純義、源護美の主客をはじめ随行の知事、郡長以下四、五十名が、この邸宅に一泊したことがある。佐分利地区で猪、鹿等の狩猟に当町出身代議士時岡又左衛門が招いたものである。
 なお、団家の分家石蔵久右衛門家に、武藤上野介が使用したという茶釜(テンドリ)が一個伝えられている。
人物
 人物頌徳の碑石に杉谷素教がある。浄土寺の一八代住職として明治・大正・昭和にかけて寺務を担当、傍ら佐分利村役場の事務を処理して地方自治に貢献した(詳細は第八編第一章郷土の人参照)。
キリスト教教会
 佐畑出身の田中松太郎牧師が、かつて石山二〇号一四番地に佐分利キリスト教会を設けて昭和二年(一九二七)五月五日から伝道を始め、日曜学校と私立佐分利託児所を設置したが、昭和十年十一月三十日六四歳で死去。未亡人エツ女史が意志を継いで幼児保育所を経営し四三ヵ年幼児を預かった功により従六位勲五等を贈られた。昭和四十六年一月八三歳で死去した。
忠魂碑
 熊野神社の跡地に忠魂碑がある。大正六年(一九一七)九月起工、川上の妻谷尾から丈余の大自然石を運び、有志の寄附と在郷軍人佐分利村分会会員の労力奉仕によって大正八年三月八日竣工、除幕式と招魂祭を行った。碑文は若狭出身故海軍大将名和又八郎筆である。

石山の伝説


『越前若狭の伝説』
石山寺 (石山)
 むかし石山の村に五つの寺があった。その中の一つに、地蔵寺というのがあった。この寺は鎮守の森のそばにあって、今は観音堂になっている。このお堂は大正時代のものである。むかし地蔵寺といっていたころ、ひとりのこじき坊主が、この寺に一夜の宿をとった。そしてこの堂にまつってある観音像を、自分の持っていた仏像とすりかえて、立ち去ってしまった。このことを村人は後になって知った。
 このこじき坊主は、すりかえた観音像を持って、近江の琵琶(びわ)湖の近くまできたとき、にわかに背中から観音像が、「石山へ帰りたい、石山へ帰りたい。」といった。
 こじき坊主はびっくして、さっそく付近の村人にたのんで、その所に寺を建てゝもらい、おまつりした。この寺の名を、観音像が帰りたがっている石山の名をとって、石山寺と名づけた。これが近江の石山寺の起源だといわれている。(福井県の伝説)

胴欲河原 (石山)
 本能寺の変があった時、佐分利村石山の城主武藤上野介友益は、明智光秀に味方したため、秀吉に攻められた。友益はけんめいに戦って、なかなか降参しなかった。秀古はもてあまして、水ぜめにしようと考えた。そこで石山城の水の求め場所をふさいでしまった。
はじめは、城中に貯えていた水や雨水を用いていたが、やがて友益は困りはて、策をねった。まず馬を、城の外からよく見えるところへ連れ出し、その背中から白米を流した。遠方から見ていた敵は、あたかも水で馬を洗っているように見えたので、城にはまだ水を求めるところがあると思い、水攻めをやめてしまった。
 しかしこの石山城は小さくて、とても秀吉の軍勢に勝つことはできなかった。ちょうど正月元日の朝、城中ではぞうにを祝っていた。そこえ敵の放った矢が飛んできて、友益か食べようとして手にしたぞうにのわんに的中した。わんはふたつにわれてしまった。友益は、これでついに石山城の運命もつきたと予感し、城を逃げ出すことにした。
 友益は娘ふたりを自分の前によび、いいきかせて、姉は鹿野のある家へ、妹は安井の仲氏へ行って、養ってもらうようにと伝えた。この娘たちの両方のたもとに、黄金をいっぱい入れて、城からそっと出してやった。
 石山城から出てきた、娘は、友益からいわれたとおり、それぞれの家へ行った。妹のたよって行った仲氏は、佐分利村の人で、友益に仕えていた四天王のひとりであった。仲氏は友益の敗北を知り、自分の不利を考えて、どの娘を殺して、その黄金を奪おうとたくらんだ。そこで娘を、佐分利川にかかっている石山橋の河原へつれ出し、殺してしまった。
 この仲氏は、その後子孫が絶えてしまった。それだけでなく、この仲氏の家にはいって住む人までも、子孫が絶えた。今ではこの家もこわれてしまい、屋敷跡が畑になっている。娘の殺された所は、胴欲河原とよばれている。
 鹿野へ行った姉は、妹が殺されたことを知り、鹿野の大きな岩から飛びおりて死んでしまった。次の日から、そこに一匹のへびが住むようになった。その岩は、今も県道のそばにある。
 石山城を逃げた友益は、丹波のある寺に一通の書き物を残して、京都へ行った。それには、次のようなことか書いてあった。
 朝日さす夕日かゞやく、くさらぬ木の根に下にあり、黄金千両銀百ひろ。(銀一ひろとはなわに通した銀)
 この事を聞いた村人は、一生けんめいにその意味を考えた。友益の家来だった人の子孫に城跡のことをたずねた。そして、それが山頂の白なんてんの木の下であることがわかった。しかしその白なんてんは、黄金を堀ろうとして城跡へ行っても見つからず、何の気なしにたゞ山仕事に出かけたおりに、ふと目につく。そのあたりを目標にしてまた行っても、その白なんてんの木は、見つけ出すことはできなかったという。(福井県の伝説)

 霞(かすみ)の城落城のとき、上野介はその息女を家臣の仲と坊のふたりに託して、京都の向川に落ちのびさせた。しかるにふたりは、安川の川原にて息女を殺し、財宝を奪った。よってここを胴欲川原という。このたたりにて両家はまもなく廃絶した。(本郷湊)
参照 稚子岩(大飯町鹿野)

通り堂 (石山)
 石山の村を南北につらぬく県道がある。これは高浜から京都へかよった昔の京街道である。
 むかし石山城主がこの道を通って、初めて城に入ろうとした時、道のまん中に家の建っているのを見ておどろいた。よく見ると、それはお堂であり、中に地蔵尊がまつられていた。城主は、通行のじやまになるといって、大勢の人夫でこの堂を移動させようとした。しかしお堂は、どうしても動かない。
 このとき堂の中から「わしはここを動かぬ。」という地蔵の声がひとこと聞えた。このことがあってから、この堂はそのまゝになっていたが、明治になり、この堂のゆか板をとりはずし、道が堂の中をつらぬいて通るようになり、堂は道をまたいだようになった。そしていつのまにか通り堂(とんどう)という名がついた。
 この堂の組立ては簡単であり、子どもたちが雨の降る日に集ってきて、屋根うらへ登ってゆすると、堂はゆれ動くが、しかしどんな暴風雨がきても強く、傾きもしない。
 また堂の片がわに、東西にはしる道がある。その一番広いところに、大きな石がふたつ地面より三十センチほど露出している。これはもと伊射奈伎神社の鳥居の敷石だったといわれている。これも道路のじゃまになるので、県庁より取りのぞきに来たが、掘りおこすことができず、帰ってしまった。村では、この石を掘りおこすと腹痛になるといっている。いつもは、子どもたちの遊び台になっているが、子どもたちは、決して小便をかけない。(福井県の伝説)

 明治二十七年この道が県道になった時、県の役人がきて、この石を取りのぞくように村人に命じたが、村人はこれに応じなかった。そこで、どうしょうもなく、今はこの石の上へ上砂をもり、石を通路の地下に埋めて、その上を道が通っている。お堂とこの石は、いずれも道路の障害物となりながら。動かすことができない。(山口久三)



石山の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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