丹後の地名 若狭版

若狭

納田終(のたおい)
福井県大飯郡おおい町名田庄納田終


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福井県大飯郡おおい町名田庄納田終

福井県遠敷郡名田庄村納田終

福井県遠敷郡奥名田村納田終


納田終の概要




《納田終の概要》
名田庄の一番奥で、堀越峠の登り口になる。南川上流部沿いに東西6㎞に延びる山村地域。ほとんど山(98%)だが、面積とすれば村全体の5分の1を占める広大な地域。南川と並行して国道162号が通り、東から仁井、南、白屋、小和田、棚橋、老左近、小松の小集落からなる。中央部の棚橋、流星館が大和交通バス名田庄線の終点。
今の国道162号の小浜に通じる街道は未発達で、陸路は主には若狭高浜から当村に入り、堀越峠を通る道(高浜・周山街道)で、これで丹波・京都と結ばれ、西方尼来峠越で上林・綾部方面と交通があった。前者は京都と若狭を連絡する古道で、物資交流にとどまらず、京都文化を若狭にもたらす道として大きな役割を果した。花の都の文化の玄関口のような所。
中世には名田荘のうちで「上村」と呼ばれた。地名の由来は、名田荘の終わるところから名田終と呼び、それが転訛したものかという(稚狭考)。信友も「若狭国志」の注で「納田終ハ名田終ナリ」としている。
納田終は、戦国期に見える地名で、若狭国遠敷郡名田荘のうち。納田給とも見える。永正10年3月3日室町幕府奉行人連署下知状写に「若狭国遠敷郡名田庄上村納田給」とあるのが初見。元亀3年10月17日増福寺本尊等入目注文には「上村納田終増福寺」と見え、天正年間には「名田庄之内上村之事〈号納田給〉」とあり、さらに慶長5年11月10日賀茂神社棟札に「納田給村諸檀那」と見えているように、戦国期には上村を指して「納田給」とも称したことが知られる。当村は近世に入ってからも中世荘園の遺制を根強くとどめることとなり、太閤検地以降も「年寄衆」と「ひらの百しやう衆」に分かれた土地管理形態が依然として存続したことが知られる。
当地は中世京都の乱を逃れ永正年間から慶長5年まで90年間この地に住んだ陰陽道の有力家系安倍家の3代にわたる遺跡がある。安倍家は安倍晴明を始祖とし、その15世の裔安倍有宣が永正10年納田終を知行分として与えられたことから、その子有春がこの地に住むようになり、有脩・久脩の3代がこの地に居住し、泰山府君を祀り、天文博士として土御門を称した。
納田終村は、江戸期~明治22年の名。小浜藩領。東西6kmにおよぶ狭くて長い山村で、広大な山林に生業を求めていた。村落を構成する小字は、「若狭郡県志」では南村・仁井・白屋・小和田・種橋・小向・中野・追迫・小松・於伊羅・都々羅野とある。また「雲浜鑑」では小字を南・新井・白矢・小和田・棚橋・小向・上ケ谷・老左近・野鹿・老良・片又とし、家数109。寺院は真言宗玉泉坊・曹洞宗禅定寺・同宗檀渓寺、神社は賀茂大明神・牛頭天王・泰山府君・御霊の4社を記す。加茂大明神は「若狭郡県志」では矢坡前加茂明神社と記され、明治41年以降は前記3社を合祀して加茂神社となった。小字小松は平家落人の隠れ住んだ所といわれ、小松重盛(平重盛)の伝説を伝え、また野鹿谷には江戸末期の木地師たちの住居跡も残っている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年奥名田村の大字となる。
納田終は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北1町、戸数109、人口は男274・女292、学校1。若狭高浜と京都を結ぶ周山道は古くから開けた街道であったが、物資の輸送が可能になったのは昭和26年の堀越峠開発工事完成以後で、それ以前は林産木材は南川を利用しての筏による搬出、木炭は荷車や荷馬車によって久坂まで運び、川船で小浜へ運ばれた。


《納田終の人口・世帯数》 121・53


《納田終の主な社寺など》

頭巾山
南西端にある頭巾山は村内最高峰で信仰の山、頂上付近の野鹿谷のシャクナゲ自生地は県天然記念物。中腹の野鹿の滝(30m)は紅葉がみごとで村天然記念物という。


加茂神社



マヤのピラミッド、チチェンイツァ遺跡の石段を思い起こすような石段。このあたりの神社社殿の配置の基本形になっているものか、みなこのパターンになっている。
貞和4年(1348)当地の豪族谷川氏が別雷神を勧請建立したといい、のち分社を建立、上ノ宮・下ノ宮とよんだ。加茂社講中土地目録に「月の十八日に上下宮へ御神事ハ、正月は上御宮大の名・小向名、また二月は小向・内谷、三月はたなはし・おこと、四月はこち谷□□、四五月ハねりかい・とり井、六月仁井・大井・ほぎ、此ふんかくねんに神事あり」とみえる。慶長五年の棟札が伝わり、これによれば別当は玉泉坊が勤めていたようである。京都の賀茂神社の競馬と同じ意味を持つといわれる柴起り神事や、人身御供の遺風を残した身御供まつりなどが例祭として伝わるという。
案内板がある。
加茂神社  (別称/矢波前(やはまえ)加茂神社)
御祭神/加茂別雷神
合祀/善積(よしつみ)川上大神(土御門(つちみかど)家十二祖神御霊)
   天社宮泰山府君(たいさんふくん)大神(中国泰山の神 陰陽道の主神で寿命を司る)
   貴船闇?(きふねくらおかみ)神(谷の龍神として雨を司る神)
境内社/愛宕社(火産靈神)・荒神社(奥津日子神・奥津比売神)・稲荷社(豊受大神)
摂 社/広峰神社(牛頭天王・摂社/吉備真備公)・天神社(薬師堂南西)
   秋葉社(秋葉大明神・具土神)゜伊勢大廟遥拝所
 『稚狭考』によれば、納田終には「加茂大明神」「御霊明神」「泰山府君」「吉澄河上大明神」の四神が祀られていたが、明治41年(1908)、他の社とともに加茂神社に合祀された。
 「谷川家文書」によると、貞和5年(1349)に谷川左衛門平貞がこの白矢に、朝廷から崇敬されていた賀茂別雷神社(上賀茂神社/京都市)の主祭神加茂別雷大神を奉祀したとされる。また、谷川清六が宝徳2年(1450)に御霊川上神社を建立、「上の宮」と称したといわれる。御霊明神は「清明御霊社」「御霊川上明神」とされ、「清明」は安倍晴明に関係する神社とされる。「泰山府君」は、永正年間(1504~21)にこの地に隠棲した安倍有宣(1433~1514)が屋敷地の一角に「天社泰山府君社」を建立したことに始まる。
これらの祭神は陰陽道と深い関わりを持つことから、土御門家の影響を受けたものと思われる。
 春と秋の例祭に行われる「芝走り」や「オロオロ祭」は、他の地域ではみられない当社独特の行事である。
おおい町教育委員会
おおい町文化財保護委員会
土御門史跡保存会


『名田庄村誌』
加茂神社
 所在地 納田終字馬場
 創 建 養老二年(七一八)
 祭 神 別雷神
 稚狭考によれば、納田終には元来、加茂大明神(祭二月二日)・御霊明神(祭九月九口)・泰山府翦・吉澄河上大明神の四神が祀られていたとされる。明治四十一年以来、これらはすべて加茂社に合祀されるに至った。根本の加茂社は大体養老二年勧請されたといわれるが、谷川家系譜によれば、谷川家初代の谷川左衛門平貞が、貞和五年(一三四九)にこの神社を建立し、五代清六の時、宝徳二年(一四五○)御霊川上神社を建立し、上ノ宮と称したという。慶長五年の加茂社の棟札によれば、谷川は上谷川新左衛門尉と下谷川次郎右衛門尉の二軒に分れていたらしい。上谷川は上ノ宮の、下谷川は下ノ宮の加茂社の神官であったらしい。御霊明神については、谷川家記録によれば、清明御霊社とか御霊川上明神とされる。清明はもちろん晴明で安倍晴明関係の神社とされていたらしい。したがって御霊明神と吉澄河上大明神は一体的なものとして祀られていたらしい。
 ところで京都市上京区鞍馬口の御霊口町にある霊符神社は、安倍晴明により創始された霊符すなわち「おふだ」の信仰で、道教系の北斗星信仰に立脚しているとされる(那波利貞「道教の日本国への流伝につきて」東方宗教二号)。霊符信仰の霊に目をつけて、睛明への信仰となり、あたかも二神であるかの如くなったらしい。若狭郡県志にも、吉澄川上明神社の祭に、或は御霊宮と称す。産土神で九月五日神事の能楽あり。神階記に、遠敷郡正五位善積河上明神とみえるとしている。元来は北斗星信仰に基礎をもつ霊符神であった。泰山府君社は元来永正年間安倍有宣が屋敷地の一角に建てた「天社泰山府君社」であったことは、歴史編でふれた。慶長年間、泰重の帰洛とともに、谷川家が奉祀することになったことは、嘉永七年(一八五四)の谷川左近の次の願書により明らかである(谷川左近氏藏)。
(略)
 泰山府君社を天社ともいったために、この神社の祭神を天之御中主神とする伝承を生じているが、泰山府君はいうまでもなく、中国の泰山を神とするもので、道教系の神である。以上の他納田終一帯にあったらしい広峰牛頭天王などの諸神を合祀していることは、加茂社所蔵の棟札により明らかである。
 なお加茂神社は、若狭郡県志によれば。矢坡前加茂明神社とされ、中名田の田村にある矢坡前加茂明神社と同体の神と伝えられるという。中名田の坂上理右衛門氏文書(遠敷郡誌所載)によれば、この神社の宮座構成を伝えているが、これは田村の加茂社のものと思われる。


『遠敷郡誌』
加茂神社 指定村社にして奥名田村納田終字馬場に在り、舊時加茂明神又は賀茂大明神と稱せり、養老二年の建立と傳ふれども祭神不詳なり、善積河上神社祭神不詳は明治四十二年字上ノ宮より合併す神階記に正五位とあり、元産神にして御霊と稱せり、また又吉澄河上明神社吉澄川明神とも稱せり、天社祭神天御中主命は同年字知梯より合併す、元泰山府君と稱せり、從三位安倍有修卿の御知行處にありしを天正五年歸京に際し該社を谷川彌次郎へ御委托になりしと傳ふ。

当社参道右手に十王堂がある、写真を撮ってくるのを忘れた、フツーのお堂である。
十王堂(地王堂・地蔵堂)
(室町時代・土御門家在住頃よりと推察される)
 閻魔大王と冥府十王。並び、倶生神・闇黒童子などを祀る。(各神像の製作年代は不詳)閻魔大王は、仏教の天部の神であり、サンスクリット語で「ヤーマ」といい、古代インドの神話に出てくる神。同じ神話の妹神「ヤミー」とは双子ともいう。古代中国の道教思想の影響を受け、十王信仰の中心となり、死後の世界の審判官と言われるようになった。
 死の世界には、秦広王をはじめ十人の王がいて、死後七日ごとにそれぞれの王の前で裁判を受けるという。閻魔大王は五番目の王で、五・七日忌(三十五日忌)の審判官となって地獄極楽の決着を判定されるという。普通は脇侍として泰山府君(太山府君)を安置してあることが多い。
 また七日目、七日目ごとの逮夜(厄)法要に、お布施をして祈るところから「地獄の沙汰も金次第」と言われるようになったともいう。閻魔大王は、地蔵菩薩の化身だとして平安時代の始め頃から貴族の間で地蔵信仰が盛んになり、次第に農民の間にも普及し「十王堂」がたてられるようになった。
 土御門家の陰陽道信仰の中でも、安倍晴明公と泰山府君・不動明王・えんま大王との関係は特に重要な位置を占めており、この地を陰陽道の本拠地とした宗家土御門家としては、加茂社の守護としてまた南西の坤の方角に閻魔大王を杷ることは当然のことであったと考えられる。 土御門史蹟保存会


『名田庄村誌』
十王堂(納田終)
 加茂神社の鳥居の脇にある。極彩色の十王像を安置。十王とは、六欲天と四禅天の王で冥府十王像といい、死者の罪業を判定する裁判官のようなもの。堂中に地蔵菩薩も安置。平安時代末期頃から浄土往生信仰により、十王や地蔵菩薩への崇敬が高まった。因みに十王とは、
奏広王・初江王・宋天王・五官王・閻羅王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王である。元來道教と仏教との習合による神
王で、陰陽道でも信仰されたので、恐らく安倍家の陰陽道に伴い導入された信仰に基づくものと思う。



曹洞宗禅定寺
廃寺となったものか、地図の場所(白屋の天社宮・泰山府君社宮の付近)へ行ってもない。サラチになっている広い場所がそれかも…
『名田庄村誌』
禅定寺
宗 派 曹洞宗
所在地 納田終第二十九号知柿一番地
 当山は、元亀年問(一五七〇~一五七三)妙徳寺六世怡山和尚の建立といわれる。
 木尊は、木造千手観世音菩薩坐像、金箔塗り、像高四十センチ、製作年代はつまびらかでない。その他大般若十六善神両像は、絹本着色、縦八十九センチ、横四十六センチの江戸時代の作。釈迦涅槃図は紙本で縦百二十八センチ、横五十七センチのものである。


『遠敷郡誌』
禪定寺 右同寺(妙徳寺)末同本尊(観世音)にして同村納田終字知柿に在り、建立年紀開山前(寶徳二年妙徳寺第五世怡山和尚)に同じ。


曹洞宗檀渓寺

『名田庄村誌』
檀溪寺
宗 派 曹洞宗
所在地 納田終第六十号の三
 宝徳二年(一四五〇)現在の小浜市青井の妙徳寺三世茂林の建立といわれる。
 本尊は、木造千手観世音菩薩立像、金箔塗で像高六十五センチ、。製作年代は不明である。
 本尊の脇仏として、不動明王木像(四十センチ)があるが、鎌倉時代の一木ぼりと思われる。光背より考えて、当山における、一番古いものではなかろうか。
 釈迦涅槃図は、紙本彩色縦二百四十五センチ、横二百四十一センチの大きさで、宝暦十二年二月十五日(一七六三)の裏書を見る。他に、弥陀三尊二十五菩薩の来迎図があるが、江戸時代のものと、推定される。


『遠敷郡誌』
檀溪寺 曹洞宗妙徳寺来にして本尊は観世音なり、奥名田村納田終字寺ノ谷に在り、寶徳二年妙徳寺第五世怡山和尚建立す。


薬師堂


堀越峠を越えた京都府和知町下粟野の寿命山明隆寺観音堂や瑞穂町質実の産子堂と似た建物。当建物は何度かの再建後のもののようでまだ新しいようだが、同じ役割があったものと推測できる。伝説によれば安倍貞任の守り本尊であるという。
案内板がある。
薬師堂の由来
 ここより西の方角に片又谷という奥深い谷がある。時は文治(一一八五年~)の頃、八幡太郎義家との戦いに敗れた武士、安倍貞任の末孫安倍別当石王丸が、丹波路を山づたいに逃れてきて、その谷に隠れ住んでいた。
 ある夜、彼は夢を見る。まぶしい光の中から「私は安倍家代々を護ってきた薬師如来瑠璃体である。南方の高い滝頭に居るが誰も知らない。お前が直々に来てくれるのを待っている」というお告げがあった。
 翌朝、南方の滝(現在の野鹿の滝)に行くと、夢のとおり滝頭に「三つの玉」が瑠璃色の光を放っていた。石王丸は、それを持ち帰りささやかな寺堂を建て、増福寺と名付けて丁重に祀った。
 ところが弘安二年(一二八一年)、不審な出火により寺堂、仏像共に焼けてしまう。日光、月光、智光の三宝と呼ばれた瑠璃の玉三体は、燃え上がる火炎を逃れて東へ飛び、白矢地籍の加茂神社の森の老い杉に止まった。夜になると炎のような光を放ち、瑠璃の三体とは知らぬ当地の村人は。これを恐れていた。
 ある夜のこと、村人の中の一人が、夢の中で薬師如来ご本尊と対面し「我こそは増福寺の薬師如来である。恐れることは無用として、この地に安坐するよう迎えてほしい」とのお告げを受けたという。間もなく村人の話し合いがまとまり、白矢奥の谷を「堂の奥」と名付け、その谷口(現在の位置)に薬師堂が建立されることとなった。
 その後も二度の火災にあったが、そのたびに三宝は加茂の森の老い杉に逃れ輝いたという。    『名田庄のむかしばなし』より
福井県指定文化財
薬師堂
管理者 納田終区
指定日 平成十四年四月二十三日
規 模 正面五間(十・八メートル)側面四間(八・五メートル)
構 造 入母屋造 茅葺
時 代 江戸時代初期
 現在堂内は壁もなく吹き抜けになっているが、外回りの柱には、板
壁であったことを示す縦長の溝跡や建具の鴨居や敷居の跡、窓がつい
ていたことを示す中敷居の跡などが残る。現存する御堂は永禄元年
(一五五八年)の焼失後、元和三年(一六一七年)再建のものと考えられる。
 平成二十一年、二十二年に保存修理を実施。
 薬師堂の奥、約一〇〇メートルのところに、福井県指定史跡である
 「土御門家墓所」がある。
    文化財付近でのたき火やタバコはやめましよう
                  おおい町教育委員会
                  おおい町文化財保護委員会
                  若 狭 消 防 組 合


『名田庄村誌』
薬師堂(納田終)
遠敷郡一帯には、薬師信仰が顕著である。田村・多田の両薬師はことに近世に至るまで近郷より群集して信仰された。納田終の薬師信仰もそれら一連のものと思う。由緒については、谷川左近家に「薬師如来之由来」と称するものを伝えている。
 この縁起による由緒を簡単に記しておこう。文治三年(一一八七)三月七日の夜、増福寺の僧石王丸が、霊夢の告げで、「我は昔、安倍貞任の守り本尊で、南方の高い滝の上に居るが知る人はない。汝のために来た」ときいた。奇異の思がして夢から覚めた石王丸は、野鹿谷に赴いた。高さ十数丈の大滝かあり滝の池に尊体が厳然として現われていた。石王丸はこの尊体を抱いて温泉の出ていた湯の森に持ち帰り、後方の玄武の地に選び尊体を安置し、氏神の奥の院として祀り、桂又山増福寺と号し、俗に温泉寺ともいった。
 これが薬師如来の尊像で、かつて安倍貞任の守り本尊であったとされる。石王丸は安倍氏の末孫でこの地に来ていたといわれる。石王丸なる人物と安倍氏との関係は不明であるが、縁起が書かれた根拠には何かあったのであろう。
 安倍貞任は頼時の子で康平五年(一〇六二)厨川柵で戦死した。このとき一族の中には血路を開いて逃げた者も多く、後世、安倍氏の子孫と称する家柄が全国に多い。
 若狭地方でも小浜市志積の安倍武雄家も奥州安倍氏の一族と伝えられる。鎌倉時代から江戸末期の古文書類を百点程所蔵している。
 小浜市羽賀の重要文化財羽賀寺本堂の再建も、奥州安倍氏の一族、安倍康季が文安四年寄進したもので、現在羽賀寺に安倍康季が着用したという鎧が所蔵されている。安倍貞任の一族がこの若狭の山中へ逃げ込み、安倍氏の菩提を弔うため増福寺を建立したのでなかろうか。安倍一族の中には僧侶となったものが多く、境講師官照をはじめ良照・良増等がいる。いずれにせよこの寺が文治初年の鎌倉時代に創建されたことは大体間違いなかろう。
 ところが、約百年程過ぎた弘安三年(一二八〇)、火災に罹り堂宇が全焼したが、焼け残りの灰の中から瑠璃の光が輝いていた。その中から僧が心光(日光菩薩)・知光(薬師如来)・通光(月光菩薩)の三珠をえた。ところがその年の七月七日の夜加茂大明神の森の杉の枝に光明を放ち、下の御手洗の水の底に映っていた。温泉寺の僧が梯子をかけ杉の枝から三宝をえた。これより温泉寺を玉泉坊といった。しかも明神の森三上に堂宇を建て尊像を安置し、三玉は尊躰の胸中に作り込んだと書かれている。この堂宇すなわち玉泉坊は現在の谷川万造氏宅の位置であったという。永禄年間(一五五八一一五六九)、再び堂宇が焼失し尊体も焼失してしまったので、のち堂宇を堂森の奥仏谷につくった。三玉はこの際も再び杉の木に飛び無事であった。元亀三年(一五七二)、尊像を、京の仏師に新しく造らせたが、このとき京の仏師へ支払った金子の勘定書が谷川家文書中にある。
    元亀三年壬申二月十二日京へ上申
   上村納田終増福寺
 一、御本尊并日光月光十二神立作申候次第事
 一、弐貫五百文御本尊仕候
 一、壱貫弐百文にて日光月光仕候
 一、参貫六百文にて十二神仕候
 一、五百文御ゆわいニ仏師法印ニ渡申候。い上合七貫八百文
 一、参貫参百文二月十四日ニ仏師渡申候
 一、百文三月十六日ニ仏師渡申候
 一、壱貫文三月十三日ニ仏師ニ渡申候
 一、壱貰文卯月五日ニ仏師ニ渡申候
 一、五百文五月十二日仏師ニ渡申候
 一、弐百文七月九日仏師ニ渡申候
 一、百文七月十二日仏師渡申候
 一、六百六十八文八月九日仏師渡申候
 一、弐百文八月廿一日仏師渡申候
 一、百六十文八月廿四日仏師渡申候
 一、五百七十文十月十一日ニ仏師渡申候
   い上合七貫八百文
 元亀三年壬申十月十七日上□
  京への人夫足牛人廿一度 四十七歳たひ.


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白屋(白矢・しらや)集落は10軒の小さな集落↑で南向き山腹斜面にある。
ここに安倍家が都から逃れてきていたため、見所が満載のたいへんな集落となっている。写真の位置は薬師堂下の駐車場だが、集落の中の道は狭くて駐車スペースはない。国道を挟んで向かいに駐車場があるので、そこに車を駐めて、集落の中は歩かれるといいと思う。マップや案内柱もあるが、ハゲて読めないかも、あとはカンで歩かれよ。


土御門(安倍)家三代の墓所
薬師堂の少し奥にある。


刻まれた文字が読める、鉄の棒とか、この墓はそう古いものではなさそう。
『名田庄村誌Ⅱ』
嘉永6年(1853)8月になんらかの理由で再建されている。県の調査により往事より多少位置のずれも考えられる。

横に案内板がある。
土御門家(安倍)御廟誌
従二位 安倍有宣卿  永正十一甲戌年二月十三日薨
    第三十一代         享年八十二才
            陰陽頭・陰陽博士・宣旨
            天文博士・密奏・若狭守
従二位 安倍有春卿  永禄十二己巳年六月十九日薨
    第三十二代         享年六十九才
            陰陽頭・修理大夫・治部卿・中務大輔
            左馬助・丹波権助・若狭守
従三位 安倍有脩卿  天正五丁丑年正月一日薨
    第三十三代        享年五十一才
            治部大輔・陰陽頭・暦学博士・天文博士
            漏刻博士・密奏・宣旨・左京大夫・刑部卿・若狭守

〇安部有宣卿は、大祖第八代孝元天皇第一皇子、四道将軍大彦命の後胤従一位左大臣倉橋麿の三十一世にて、永享五年癸丑(一四三三)九月二十六日誕生され、聡明叡知にして天地の運道に精通、王道を輔け万民の惑いを解き給う。応永年間以来彗星現れること屡、地大いに震い天変地異あるを予言し勘文を奉ること少なからず。応仁の乱後、京師は反乱の巷と化し公卿、百官の面々は挙げて諸国に避け給う、安倍家はすでに天平八丙子年(七三六)十二月十三日「若狭名田荘を泰山府君祭料知行事」の御倫旨を賜り以って土御門家知行との御勅宣も賜る。有宣卿も前代に続き若狭守に任ぜられ、若狭下向の勅あれど、なお京師に留まり天文観測に従事し給い、長享二戊中年(一四八八)従二位に叙せられる。退隠後は、この地に下向し陰陽道信仰と我が国の天文暦学造暦の本拠とし、さらに都との交流を深め、山深き未開の地に英明の灯火をもって名田荘文化の夜明けをもたらし給う。名田荘改化の開祖とも言える。永正十一甲戌年(一五一四)二月十三日八十二歳にて薨去。
〇安倍有春卿は、有宣卿の男にして文亀元辛酉年(一五〇一)三月五日この地にて生誕し給う。父君有宣卿の遺志を継承し都との交流を通じ王朝文化の粋を浸透せしめ給う。大永二壬午年(一五二二)二十二才にて中務大輔に任ぜられ、大永五乙酉年(一五二五)二十五歳にして従四位陰陽頭に任ぜられ、朝廷に出仕され朝廷の特殊祭儀の斎行、天文観測、占星、暦学等をもって陰陽道の発展に寄与され、帝の信任も厚く天文三甲午年(一五四三)三十四歳にして修理大夫をも兼ね給う。天文十一壬寅年(一五四二)その子有脩、弱冠十六歳にて陰陽頭に任ぜられるや、翌天文十二癸卯年(一五四三)四十二歳で治部卿に任ぜられ、頻繁と都と荘園を往来し給う。天文二十一壬子年(一五五二)十月、従二位に叙せられる。永禄元戊午年(一五五八)十二月一日名田荘納田終は大火となり、安倍家の庇護下にあった薬師堂は焼失する。永禄九年十一月頃より都との上下向も頻繁となり朝廷に参勤し給う。永禄十二己巳年(一五六九)六月十九日京に於て惜しくも六十九歳にて薨ぜらる。
○安倍有脩卿は、陰陽頭有春の男にして、大永七丁亥年(一五二七)十月二十六日生誕し給う。天文六丁酉年弱冠十一歳で泊部大輔ご任官、天文十辛丑年(一五四一)従五位に叙せられ、天文十一壬寅年(一五四二)閏三月十六歳にして陰陽頭に任ぜられ給う。元より生寛仁で敏捷にして、陰陽の技を幼童の間に継ぎ、神祖と同じ官位累遷、天文十八己酉年(一五四九)従四位に陸叙され給う。弘治四戊午年(一五五八)加茂家途絶え、忽然我朝の暦道廃滅に帰すること天聴に達し、畏くも正親町天皇の詔を承り直ちに上洛し給い、天文暦道の両博士に任じられ、次いで漏刻博士をも兼じられる。また刑部卿にも任ぜられ朝廷の叡信厚く、亦、天下の鬥人下風に師入する者歴然として日々倍増、爾後安倍家は連綿として相継ぎ、帝の勅により土御門家を称することを許され、天文暦道の両道を司る司天家の家名をも賜る。元亀四辛未(一五七一)従三位に叙せられ、朝廷の信任もさる事乍ら右大臣織田信長公も厚い信任を寄せ給う。天正五丁丑年(一五七七)
正月一日、五十巳歳にして薨ぜられる。後、久脩卿は父君有脩卿の遺命に従い亡骸をこの地に鎮め給う。

元和年度に入り有脩卿の男三十四代久脩卿は、勅命を受けて上洛され山城国旧葛野京梅小路の里に邸宅と荘厳なる社殿を建立されここに泰山府君を奉斉し、朝廷より「天社宮」の宮号宣明ありもって天社土御門神道を再興し給う、また歴朝御崇敬浅からず畏くも歴代天皇御即位後にかかさずご祈願祭を社前にて行わしめ給う。また邸内に天文台を設け貞享暦局を置き本朝最後の太陰暦たる天保暦までの編纂に務め給う。然し幾星霜を経て今ここに遊歩路「美毋呂の路」が開かれ、祖々の御霊の御守護をもち関わる万民の安からんことを祈願する。
     平成九丁丑年 月吉祥             土御門史跡保存会記す


土御門家居館跡・天壇・天社宮・泰山府君社・葛の葉稲荷社・天社土御門神道本庁

「土御門総社」の鳥居がある、ここから参道を入った所が土御門(安倍)家の居館跡で、その跡地らしい平らな区画が何面かあり、その関係のものがいろいろ残されている。

左にホコラが2つあるが、何か不明、その先の石垣の台が天壇、右の赤いホコラは葛の葉稲荷。北斗星信仰というが北向きの社は見当たらない。
案内板がある。
天社宮・泰山府君社跡
日本一社(室町時代~明治41年まで奉祀)
 中国・泰山の守護神「泰山府君尊神」を祀った社跡。歴代中国の皇帝がこの神を信仰した。遣店留学生として唐に学んだ安倍仲麿が、吉備真備に託して安倍家の守り神として日本に伝えたもの。
 奈良朝・平安朝頃から、朝廷や上流貴族たちの信仰が厚く、一般庶民の信仰は許されなかった。宮中と安倍家だけに祀られていたが、正中の変・応仁の乱により京の都は兵火に見舞われ、公家たちはそれぞれ難を逃れ、安倍家も勅許の御倫旨を得て、すでに安倍家の荘園であった。この地に居城を構え泰山府君を奉祀し、伊勢神宮の諸祭儀・朝廷と国家の安穏・五穀豊穣等を訴願した。
 後に一般にもこの神の信仰が許され、長寿の神として崇められた。『源平盛衰記』に桜町中納言が泰山府君に桜の花の延命を祈願した話もあり金剛流の能「泰山府君」でも伝承されている。
『博物誌』に「泰山の神は人の生命の長短を司る」と記されており、歴代天皇や将軍が新しく即位や、宣下に必ず「泰山府君祭」(天冑地府祭)を行った。また、泰山府君は閻魔大王の化身とも、脇侍ともされている。今は、加茂神社と上御門殿に祀られている。
また加茂神社の鳥居前には閻魔大王など十王を祀った十王堂(地王堂・地蔵堂)もある。
 千早振る現人神のかみたれば 花の齢はのびにけるかな(源平盛衰記)

土御門家居城跡
 安倍(土御門)家が、この名田庄と関わりを持ち始めるのは、土御門文書によると正和6年(1 3 1 7)12月13日に花園天皇より「泰山府君祭料地」として安倍有弘に御綸旨を賜った事により始まる。慶長年間までこの地に在居する。
土御門史蹟保存会


葛の葉稲荷神社
ご祭神 葛の葉姫大明神
 葛の葉姫大明神とは、安倍晴明公の母君とされ、和泉の国信田の森にご本宮は鎮座されている。
 この白矢の土御門館跡に祀られているのは、土御門家が在住されていた頃ここに祀られていた社で、京都へ移住のとき、京都唐橋の新邸内に社を建立し奉祀されていたもの。
 その後、都が束京へ遷都された明治の始め、土御門家も束京へ移住することとなり、京都の邸内から東京青山の新邸内に移されていた。
 やがて、太平洋戦争で東京大空襲にあい、ご本殿は焼失したが、その御霊を再びこの地にお祀りするようになった。不思議なことに此のあたりに昔、白狐が住んでいたという言い伝えがある。
   「恋しくば たずねきてみよ 和泉なる
       信田の森の   うらみ葛の葉」
 この歌に知られるように、信田の森の葛の葉物語は、人と狐の細やかな愛の物語としていつまでも語りつがれている。昔々、村上天皇の頃(9 5 5年頃)のお話です。
土御門史蹟保存会

『名田庄村誌』
安倍家の屋敷跡ならびに泰山府君社跡
 安倍家の住居跡について若狭郡県志には「土御門家宅跡、在下中郡納田終村、伝言、安倍有春至其子有脩孫久脩二世領斯処、而構宅時々来遊焉、有春与新保村之城主粟屋右京亮元隆交、其宅畔建小祠、祭泰山府君、既納暦書于祠中、其祠之傍栽桜樹、今所有之者是也、有春、晴明十六世之裔、而為天文博士土御門為称号」と記している。土御門家宅跡の位置は、白矢部落の右手山麓にある。宝徳二年(一五三〇)妙待寺五世台山の開基といわれる禅定寺のあるところに当る。白矢の藤田安治郎氏の語られるところによると、その左側に物置の建物があるが、これは常願寺という寺院であった。この常願寺はもと南川をへだてた向いの湯の山の山麓に建てられていた。昔ここには温泉が湧き、玉泉坊という薬師堂もあった。その後温泉がかれてしまったので、禅定寺の左側に移された。その年代は江戸時代の頃であろうか。それがまた禅定寺に合併になり現在に至っているようである。
 この禅定寺の右側一帯の山麓小台地は今、萱野・竹薮となり。杉の植林も一部に行なわれているが、明治の頃には田地として耕作されていたとのことである。この一帯の山麓台地が安倍家の住居跡である。この屋敷跡上手には約二十五メートル位、その下坂約六メートル位に石垣が積まれ、二段式の屋敷となり、その下手に石段の登り道が造られている。四百数十年も昔のことで、建物の構造等知る由もないが、眺望や日当りもよく。支配者の住居として好適の場所である。
 この屋敷跡の右手奥はさらに一段高く石垣で区切られており、そこに泰山府君社が建てられていた。現在この石垣の前に大岩があり、その上に地の神が祀られ、五穀をつかさどるといわれる稲荷社がさらにその奥に祀られている。さらに右奥隅に大石を根っ子が包んでいる樫の大木がある。その下は滝の姿にまねて石が高く積まれており、以前には樋で水を引き、人工滝として不動尊が祀られていたとのことである。
 泰山府君社は明治四十一年までここにあり、加茂神社に合祀されることになった。藤田安治郎氏の話によれぱ、社の建物は口坂木の神社の建物として売却されたとのことである。この地も将来は植林され、山林化してその跡形が消え去るのではなかろうか、許されるならば、泰山府君社を復元し、屋敷跡の保存につとめ、この史実を伝えてほしいと思う。



下の角に「天社土御門神道本庁」がある。


地の神信仰

《交通》
尼来峠
『名田庄村誌Ⅱ』
尼来峠
尼来(あまぎ)峠は、納田終尼来谷から丹波上林谷の古和木とを結ぶ街道の山頂をいう。この周辺片又谷から佐分利谷川上へ越える峠道もあり、この峠にも石地蔵が一体祀られて今も残る。
 「若狭郡県史」などの古書には甘木峠とも書かれていて、納田終白屋から峠まで二里三〇町の道程であった(上杉喜寿「峠のルーツ」)。
 地名の由来は、昔小浜の八百比丘尼が奥上林、故屋岡の内尼公という寺へ通ったことによる。と「名田庄のむかしばなし」に紹介されているが、登記名義では「甘木」となっている。
 峠の向こう古和木から分岐して川上ヘ下りるもう一つの峠がやはり尼公峠と名づけられているので、そうした尼僧にまつわる話があったのかもしれない。
 南川の源流に位置するこの渓谷沿いにもかつては点々と家々があった。昭和二十八年の災古以来、人は去っていったが、もっと太古からこの地の原生林は木地師たちの材料に恰好であり、木地師たちが住み着いていたことは「前村誌」にも詳しいので省くが、こうした人々の交流が、この峠を開拓するもととなったのだろう。
 伝説の昔は知るよしもないが「南は丹波山、西は上林山」と名田庄の四至(四方の境界)を示す仁平二年(一一五二)当時の名田庄名主、盛信人道あての文書がある所を見ると、一〇〇〇年以前の昔からこの峠を通じての交流があったのだろうと想像される。
 今も山麓の所々に残る台地は、畑や屋敷跡であろう。木地師たちは去ったが、その後に住み着いた人々にとっても、また峠の向こう古和木の村人にとっても若狭へ人る重要街道の一つだったのだろう。
 峠近くに残る古道は幅二メートルあまりあって、峠には自然石を屋根に使った祠の中に今も一体の石地職が残る。峠に立つと、「やっと峠へ着いた」と無事を祈り、汗をぬぐった昔の人々が彷彿と浮かぶ。
 昔のことは知らぬが、明治から人正へかけて、この峠を越え上林の製糸工場へ「糸ひき」に行った製糸女にさんの話は「前村誌」にも紹介されているが、日露戦争に出征するこの地の若者も、またこの峠を越え福知山の連隊へ人っている。
 全員が無事に帰還出来たわけではない。無言の帰郷者もまたあったのだろう。訪れる人のいない廃家の跡に墓石だけが残る。厳しい製品検査に泣いたという女工たちも哀れだが、忘れられつつある兵士たちの死はもっと哀れである。
 この峠には歴史に残る争いも、人物も残ってはいないが、どの峠も、越える旅人には他郷へ向かう切ない重みを背負っていたことに間違いはない。峠の向こう上林側の古道は、今は失せて見えないが、今もこうした昔を偲んで訪れる人たちがいる。そうした中の一人は次のような言葉を峠に掲げていてくれる。
    尼来峠
   〝この峠は丹波の奥上林と若狭国納田終をつなぎ、古くは花形的中心をなす重要な峠であった。女工哀史の野友峠も有名であるが、この峠も綾部の郡是製糸へ向って若狭の女工さんが越えた。(一部略)連綿と人々が往来したこの峠も時代の変遷でこのように荒廃をした。雑草の中に取り残された童顔の地蔵さんを見るとやり切れない思いがする。〟        小畑 登
 本誌を読まれた方は、一度訪れてほしい。

道木谷峠
『名田庄村誌Ⅱ』
道木谷峠
 この道木谷峠は、本村では「道木谷越え」とも呼ばれていて、峠には坂、越え、峠など幾つもの名で呼ばれているのがおもしろい。「越え」はゆるやかな峠を意味するものと思うが、この峠は、廃村となった納田終谷口から北へ入る道木谷に沿うて佐分利谷久保へ越える峠道である。
 この峠も坂本へ入る石山峠同様、高浜、丹波へ至る高浜街道の一つであり、呼び方を変えれば丹波街道の一つである。
 この峠へ至る道は、なだらかで峠も低く、佐分利側からもすぐ登れる所からこの山林へ入り込んでいた佐分利谷の村人と、嘉永年間に争論があったと「前村誌」で述べられている。
 大飯町本郷の旧家、村松喜太夫家文書「庄官日用建祖控」にも「納田終炭年次願之事」(「郷土誌大飯」)との記述がある所を見るとこの峠越えに、三森・久保など佐分利谷の人々が炭焼きに入っていたことが窺える。
 下流の野尻には、若狭で唯一の銅山があった。銅鉱石の精練には膨大な木炭を要した。宝暦九年より小浜藩による直轄経営による採掘が始まると、その量は倍増した。そのため名田庄の各地からも入ったが、この「年次願」もそのための伐採期限の延長願いだったと見える。
 この精練に納田終より木炭が出荷されたことは他の文書にも見えるが、運搬にはほとんどがこの峠を利用したものだろう。
 また「若狭考」には「元来、他国には炭を出す事官禁ありしに(中略)納田終村には享保二十年の洪水に田地廃失して産業なり難く、他国に離散せんとするに付、炭焼きて他国に出す事免許あり、佐振銅山(野尻の事)ありし時までは銅山に売られたり、他国へ炭許されし時は秋田城下に銭を鋳給し元文の頃、村田の某納田終より買いとり秋田に遣らしなり、云々」との記述があるが、この享保二十年の洪水は、昭和二十八年の災害と同じく名田庄谷の被害がもっとも大きかったといわれている。
 農地を流失した納田終の人々の産業振興のため、藩も木炭の他国への出荷を認めたのであろう。道木谷周辺は広大な山林で、今のような運送手段のない当時は名田庄谷へ下るより、佐分利谷へ下る方が便利であった。これらの木炭もこの峠を越えたのだろう。
 もっと昔、木地師たちの昔から製品の販路、高浜本郷からの魚介、塩の道としての歴史、頭巾山権現社への信仰の歴史もあったが、こうした産業の道としての歴史も、この峠道は秘めている。
 廃村となった谷口集落はかつてそうした人々の宿場的な役目も負っていて賑わっていたという。
 そうした地理的に佐分利谷へ近かったこと、山林との関わりの歴史があったことなどによりこの広大な山林は三森・福谷などの豪農へ売却されている(今は半分ほどであろうか大飯町有林に転売されているが)、今は焼失し、地形も一変した下流に大きい水車を動力とする製材所があったが、その製材品もこの山腹を縫って索道により佐分利谷へ運ばれていた。かつてはこのようにこの
地域、山林の産物ともにこの峠道は佐分利谷との関わりが多かった。


横尾峠
『名田庄村誌Ⅱ』
横尾峠
 この峠は納田終中野から美山町福居谷の山森とを結んでいる。中野集落の背後、和佐谷から登るこの道は本来頭巾山へ参拝する登山道、信仰の道でもあった。
 美山町山森からの道もやはりそうした信仰の道であって、両方の道が落合った尾根が峠である。そこからは一本の道となって頭巾山へ登る。信仰の道である事は今も山森の人々によってこの道は利用されている。山頂の十二社権現は山森・納田終・古和木の人々で祭祀されている。
 今名田庄側では野鹿谷を利用するか、かつてはこの道が本道であった。峠から少し登るとかっては広大な萱原があった。
 「北桑山郡誌」には中野峠とも記されているが、頭巾山からこの峠へ至る尾根を横尾根と呼ぶ所から横尾峠と呼ぶのであろう。(金久昌業・北山の峠)による。峠には自然石の祠の中に二体の子安地蔵尊が祀られている。座した膝には二体共乳児を抱いていて愛らしい。他にない子安地蔵を祀ったいわれはどこにあるのだろうか。頭巾山は昔女人禁制であった。このあたりに理由があるのかと思う。


堀越峠
『名田庄村誌Ⅱ』
堀越峠
 この峠道は幾つかに分かれる丹波街道の中では国道一六二号線が走っているため、本村の西の関門として知られている。
 しかしかつての古道は、現在の路線の位置ではない。
 この峠にまつわる話は「前村誌」「名田庄のむかしばなし」などに紹介されているので重複を避けるが、戦前、小浜からこの峠を経て山陰線殿田(現、日吉)駅へ結ぶ鉄道が計画されていた。
 この話は「前村誌」にも紹介されているが、昭和十二年の日華事変勃発により延期され、戦後遂に廃線に追い込まれた。そのころ、ポールを立て、紅白の旗を振り「紅、白、拝見」と測量機をのぞいて杭を打たせていた風景を覚えている人も、今はあまりいない。その代替えでもあったのか、そのころから道路建設の話が進んでいた。
 本村を通り京都へ向かう路線には五波峠とこの堀越の二案があったが、当時の奥名田村長森口正徳は地元の人々の協力を得て、草を刈り、山道を整備するなどをしたのが調査員の心証をよくしたものか、後の歓迎会で「堀越峠開削万才」と乾杯の音頭を発したため、その場の雰囲気はたちまち堀越峠へ傾いたのだった。(渋谷軍太郎談)しかし路線は決定したものの工事が着工されたのは戦後のことだった。
 そうした裏話はともかく、この峠の歴史も千数百年を越えるであろう。納田終の地を泰山府君社の祭祀料地として土御門氏が領有したのは天平八年(七三六)のことだった(暦会館藤田)というからこの峠は、はるか以前から知られていたものだろう。
 上御門氏はその後室町政権末期には京の戦乱を逃れてこの地へ三代にわたって居住、京の文化、宗教、風俗、言語など、この村に大きい影響を与えているが、この峠がその仲介をなしていたことに間違いはない。また棚野坂と共に行商の道として道木谷峠を経て佐分利、高浜へと結ばれてもいた。
 徳川治政へ入ると小浜藩ではそうした行商人に身分証明として藩名入りの「印札」を発行していたが、それを携行した商人たちは三〇〇名余もあったという。
 〝夏山や通いなれたる若狭人〟安永五年、丹後からこの峠を越え京へ入った与謝蕪村はこの句を読んだという。標高五〇〇メートル余もあるこの峠を越えるのに通い馴れた若狭行商人の足は早く、後を着くのに蕪村は大変苦労したのだろう。
 この峠を紹介する多くの書物に「慶応四年正月過ぎ、京よりこの峠を若狭小浜藩主酒井忠氏以下藩兵四五〇名餘が納田終ヘ下りて来た。また「前村誌」にもそうした記録や古老の話があった」との記述があるが、この話は各地にあって、本村では堂本、小倉などにも「知井坂を逃げ帰ったのじゃ……」との話も残っていて話は混乱、また史実と異なる部分もあるので「小浜市史」(酒井文書による)や、伝え聞いた昔話をもとにそのころの歴史をふり返って見る。
 若狭酒井藩は徳川譜代の重臣として初代忠勝が大老に任ぜられて以来歴代老中、寺社奉行、京都所司代などの要職に就いていた。
 特に十二代藩主忠義は天保四年から嘉永万年までと、安政五年から文久三年までの二度にわたって幕末動乱の京祁所司代を勤めたが、大老井伊直弼と組んだ安政の大獄では元藩士だった梅田雲浜を捕らえたり、和宮降嫁問題などでも活躍するが、直弼が倒れ、攘夷派が勢力を得ると職を免ぜられ高浜に隠属した。
 その後を十三代忠氏が継ぐ。彼も幕府の信任は厚く、慶応四年正月三日、将軍慶喜に招ばれて大阪へ向かうが、伏見で将軍上京の先導者会津・桑名の藩兵と、それを阻止する薩摩・長州の藩兵との争乱に巻き込まれた。世にいう「鳥羽・伏見の戦い」である。
 必死で戦う諸藩兵たちを後に、将軍慶喜は朝敵となることを恐れて大阪城から変装して脱出、軍艦で江戸へ逃げ帰った。
 残されて一夜にして朝敵となった小浜・会津・桑名の藩士たちこそ哀れだった。藩主、藩士の規律も秩序もなく、「銘々勝手次第」と大和、近江、或は丹波路へと思い思いに逃走。しかも藩主忠氏が行方不明との報に、小浜城下は騒然となった(「小浜市史」)。「日吉町昔ばなし」(「殿村秘話」)によると、京へ入れなかった小浜藩士たちは丹波路へ入り、八木から日吉を経て殿村へ入り海老坂越えに現、美山町へ入ったが、殿村へ入った一行は飢えと疲労に士気も失せ、小柄・印籠などを米に替え、一夜の宿を乞うた。
 そのうえ藁を所望、村人の好寄の目の中、自ら草鞋を作って峠を越えたという(「日吉町昔ばなし」)。
 少し長くなるがそのころの若狭の昔を知る意味でもう少し後を追う。多くの藩士たちとはぐれた藩主忠氏は丹波福住で官軍に出合い、謝罪状を出して若狭へ帰ったが、それはずっと後だった。
 痔疾を患っていた忠氏は歩行も乗馬も困難であった。しかも名田庄へ向かわず和知・山家を経て舞鶴から本郷へ入った(「小浜市史」)。
 本郷での宿は近在での豪農、渡辺源右工門宅であった。中村の今川フサ女はそのころ、本郷の某家へ奉公に行っていたが、ある日の夕方仕事から帰ると、友人が誘いに來て、「若狭の殿は京で戦争に負け、逃げて戻らんしたそうな。どんな人か見に行って來うかいな」との話について行くと、殿さんは源右工門宅の座敷に汚れた手拭いで頬かむりをして俯むいておらんした。
 縁側から大勢覗き見するのに制止する人もいなかった。「負けると殿さんも値打ちのないものじゃと思ったわ。」
 フサ女は、昭和十五年、九一歳の高齢で亡くなったが、戊辰戦争の裏話をこのように語っていた。
 変革の時代に遭遇した当事者の道を選ぶ苦悩は今も同じである。友の肩を借り、槍を杖に丹波街道を落ちのびて行った「紫雲城」(田中徳三作)小浜藩士たちはこうして三々五々、堀越、知井坂などを越え本村に入って来たのであって、忠氏以下四五○名余が整然と帰る。-とてもそんな状態ではなかったという。
 風の音にも怯える逃避行からこの峠へ立って若狭の山々を見た時の感慨はどんなものであったであろうかと往時が偲ばれる。
 帰国した忠氏は謹慎、代わって隠居していた忠義が名も忠禄と変え、再び藩主に就き北陸鎮撫使の先鋒隊となって越後、会津などへ向かうこととなるが、本村からもこの鳥羽伏見へ軍夫として従軍した人がいて「あの辺りの田んぼは深田が多く、進むも退くも深田に足を取られ難儀をした。稲株の上を歩いて逃げたもんじゃった」と苦戦の様子を語ったという昔話も残っている。
 こうした敗軍の退路として本村の多くの峠が使われたので、あちこちに昔話が残るのであろう。峠の維新史というべきものであろう。
 「鞍馬天狗」「宗方姉妹」など京を題材にした作品の多かった作家大仏次郎は作品「天皇の世紀」取材のため小浜を訪れ、小浜藩兵逃走経路取材であったのか車でこの峠を京へ抜けたが、完成間もないかつての道路はカーブも多く辺幅も狭かったので、非常な難所で恐かったと書いている。
 初期の峠は、美山町福居谷の熊壁へ下りていた。(「峠のルーツ」)といわれているが、昭和二十六年完成の旧国道の峠を越えた右手の杉林の中に一・五メートル幅の古道が残っていて、その道を越え鶴ケ岡へ行ったと今も語る人が納田終にいる。何時かルートが変更されたのだろう。この峠も他の峠同様、牛馬の往来もあったのだろう。道幅が広い。
 堀越の名はかつて国境警備の堀切りがあって、そこを越えたことに出来するという(「峠のルーツ」)。
 初期の国道はカーブも多く事故もあって改修が望まれていたが、昭和四十三年、改修工事に着工、路線は途中から左へ変り一三九四メートルの隧道とともに完成したのが四十九年十月のことであった。
 文字どおり掘り進み、掘り越した道路となったが熊壁へ越えた昔を偲ぶ人も古道を歩く人も今はいない。
 かつての峠に石地蔵が祀られていたのかは不明であるが、峠の丹波側を少し行った道端に新しい石地蔵が一体立つ。
 昭和四十年の夏、未舗装の道路で前車の上げる土煙に惑い、若い男女の来る車が道を誤り、谷底へ転落死するという痛ましい事故があり、その男女を悼んで親たちが建立したものだという。
 車はなかったが、昔の人もやはり峠越えを危険と思い、大方の峠には石地蔵尊が建ち、安穏を祈っている。


《産業》
木地師

《姓氏・人物》
阿倍家3代
 安倍家30代有宣は、応仁の乱の戦火を避け当地に来住、曾孫の久脩が慶長5年(1600)上京するまで約90年間居住した。屋敷跡は村内の白屋にあり、有宣以下三代の墓所もある。安倍氏は屋敷の傍らに泰山府君の祠を設け祈祷を行っていたと伝える。安倍家退去後、地元の泰山府君信仰を中心的に担った谷川家には、応永年間以降の祈祷書泰山府君都状が蔵される。なお泰山府君社はその後も谷川家によって祀られていたが、安政2年(1855)谷川家の尽力により新造されている。この時納められた棟札の写によれば名田庄の村村のほか、佐分利(さぶり)谷の諸村、丹州隣郷の村々も造営に協力しており、信仰の広がりがうかがわれる。同社は明治41年加茂神社に合祀された。
『名田庄村誌』
陰陽思想そのものは、易の思想と伴い、日本へは主として新羅経由で伝えられた。陰陽寮の名の初見は、新羅系文化を吸収していた天武天皇の四年正月条の日本書紀の記述においてである。古代以来安倍家は賀茂家とともに陰陽術の双翼であった。賀茂家の占道に対し、安倍家は天文を能くしていた。晴明はことに識神というものを使役して、超人的能力をもっていたことが諸書にうかがえる(斎藤励著「王朝時代の陰陽道」)。今昔物語十九、代師太山府君祭都状僧語第二十四にも、その神秘的な能力を伝えている。識神というのは、式神とも書き「精神電気交通の理に基づく一種の方術」(同上書)とされる。いわゆる狐つかいの類であるといわれる。
 安倍家と名田庄との関係の始期については、不明である。しかし南北朝期にまで遡るらしい。安借家に伝わる名田庄関係の綸旨のうち、最も早くは、名田庄を泰山府君祭料として施入したという建武元年(一三三四)十月十三日のものらしい(藤田義男著天社土御門神道沿革概史)。あるいは建武新政の前途を祈って、納田終の地辺りが施入されたのであろう。ついで観応二年(一三五一)七月二十八日には、上村について覚善妨の事により出されたというが、恐らく押妨を退けようとしたのであろう。
文和二年(一二五三)十一月十五日には、上村の長日泰山府君祭料としての知行を安堵している。同四年五月十五日付で平次郎なる者が濫妨したのでこれを退けようとし、さらに同五年九月二十ー日には、名田庄泰山府君祭料を給わったとしている。
 以上は、藤田氏の著によったが、東京大学史料編纂所所蔵の土御門文書影写本に収められたところは、やや異なる。史料編に収めたので参照されたい。建武元年綸旨なるものはなく、法性寺禅定が施入したという。ついで観応二年(一三五一)道覚以下の輩が山門領と号し上村を押妨したのを斥けようとしたというが、押妨者の名が前掲藤田氏所引とは異なっている。史料の正確さの確認は、今後の課題であろう。いずれにしても、南北朝期以来、上村が安倍家領となったのはほぼ事実であろう。
 名田庄上村が安倍家領となったらしい建武の頃は、安倍系図によれば、正平十二年(一三五七)従三位に叙せられ、しかも安倍家として最初の若狭守とされる長親の時代らしい。あるいはその一代前の有弘時代かも知れない。しかし長親を若狭守とする伝承によれば、長親の時、上村が安倍家の領有に帰したことを伝えているものと思う。なお同系図によれば、長親の次の泰世の時、上村に居住のことについて綸旨をもらったとされる(藤田義男著安借家若狭納田終在城考)。泰世は安倍家二十六代である。二十八代有世・二十九代有盛はともに若狭守、三十代有季は若狭助(介)となったと系図にみえるが、これは名田庄上村の領有の存統を伝えたもの程度に解すべきであろう。
 安借家三十代有宣は、従二位天文博士に至ったが、京都の戦火をさけて来若し、名田庄に居住するに至ったとされる。ところで有宣名田庄入りをするための基礎は、建武新政の頃以来、着々と築かれつつあったことはいりまでもなかろう。谷川左近氏文書によれば、『貞和四年〔貴船賀茂〕社建立、宝徳二年御霊川上明神建立、并ニ元祖十二名之旧霊地主神祭り、所々小祠建立、明徳三年足利氏泰山尊神祭、永正十一年広峯牛頭天王社末社共ニ建立」とされる。貞和四年(一三一四八)には、陰陽道と親縁関係にある京都の加茂社や貴船社を勧請したといわれる。この頃は、安倍家として最初に名田庄を領有したらしい長親の時代であり、うなずける。
明徳三年(一三九二)足利氏が泰山尊神祭を行なったというのは、征夷大将軍義満の時代に当る。この年義満が出した泰山府君都状の写しを谷川家文書として伝えている。宝徳二年(一四五一)御霊川上明神を建立したというのは、有宣の一代前の有季の頃のことらしい。この社は善積川上神社といわれ、古くは上村の棚橋に鎮座していたが、明治年間加茂社に合祀されるに至った。この社とともに、草わけ的な十二名の旧霊地主神を祀る小祠を所々に建立したといわれる。村の人たちは、川上神社を「上の社」とか「御霊社」といっていたので(藤田著前掲書)、各家々で祭られた地主神の総社的な位置を占めていたのであろう。
 有宜が名田庄入りをした確実な年代は不明であるが、父祖以来の地盤の上に立脚していたことは、否定できない。谷川家文書によれば、かれは屋敷のほとりに泰山府君の祠を設け、祈祷を行なっていたとされる。
 なお同文書によれば、新保村の粟屋右京亮元隆と有宜が親交があったこともみえる。永正十年(一五一三)三月、対馬守平朝臣・美濃守藤原朝臣連署の禁制が、有宜知行分上村納田給にあて出されている。谷川家文書によれば、三通作り、加茂社・泰山社・京都土御門家に各一通を納めたといわれる。現在加茂神社に所蔵のこの禁制をかかけておこう。
  禁制 土御門二位有宜知行分若州遠敷郡名田庄上村納田給
   一、軍勢甲乙人乱入狼藉事〔付相二懸非分課役一事〕
   一、伐二取竹木一事〔付刈田狼籍事〕
 右条々堅被二制止一訖、若有二違犯輩一者、可レ被レ処二厳科一之由、所レ被二仰下一也、
 仍下知如件
     永正十年三月三日
                 対馬守平朝臣(花押)                     美濃守藤原朝臣(花押)
 禁制の差出人の平朝臣・藤原朝臣の身許は不詳である。戦国動乱の世の中において、土豪らによる押妨や非分な課役の賦課から、安倍家領を守ろうとしていたことがわかる。文中、納田給とみえるが、名田(納田)庄のうち、上村を安倍家領として給与したという意味で、納田給とされたのではなかろうか。近世以降、名田庄のとどのつまりという地形的条件を勘案して今日のように納田終とされたか、字形の類似により、いつしか納田終とされるに至ったのではなかろうか。若狭国志に対する伴信友の書き入れによれば、「信友按、納田終ハ名田終ナリ。納ノ字音ナウニテ、ノニハアラス。サテ名義ハ名田テウ地ノ終ノ意ナルベシ。谷田部ヨリコノ村マテヲ名田庄卜云フ。オモフベシ」とし、前者の説をとっている。
 なお名田庄内における上村の領有について、ふれておこう。初期の名田庄領主の盛信入道より、伊与内侍に相伝した仁安三年(一一六八)の譲状には、上村もみえる。建治二年(一二七七)の藤原実忠より、同実盛あての譲状にもみえ、さらに建治三年(一二七七)の実忠の再度の譲状によれば、実盛に譲与した上村他六カ村のうち、上村・三重仮名は、実盛知行ののちは、嫡子の禅師丸に譲るという。建治三年の実忠譲状以後、上村は大徳寺文書には全く所見がない。ということは、恐らくこののち約六十年後、建武年間頃以降、安倍家領となったためと思われる。
 有宜をついた有春は、安倍家系図によれば若狭より上洛したとされる。かれは文亀元年(一五○一)上村で出生したとされる。永禄十二年(一五六九)京都で死去し、遺言により遺骨は、現在の墓地に葬られたといわれる。有春のあとは、同じく上村で生れた有脩によりつがれた。かれも陰陽道の権威として終始した。天正五年(一五七七)死去ののちは、久脩が継承することとなった。かれは戦国動乱の世にあって、陰陽道の護持につためたが、慶長五年(一六〇〇)、出仕の仰せをうけ上村より上洛するに至ったとされる。入洛後、かれは陰陽道の再編成に尽力した。

名田庄における泰山府君信仰の展開
 陰陽道の最有力家系の一つであった安倍家が、おそらく南北朝時代頃より、名田庄上村を領有し、戦国動乱以降、本宗家の人たちが、ほとんどここに居住するに至った結果、必然的に文化的な大きな影響力をこの山村に及ぼすこととなった。信仰上においても、加茂・貴船等陰陽道に関係深い諸社が、早くからこの地に勧請され奉祀されていた。加茂社においては、今日なお、大膳大食祭・御殿祭・御飯踏・芝走・御神楽(祓)山口講等数々の奇祭が行なわれているが、これらはふつうの神社神道ではみられない、陰陽道独特の儀式行事であるといわれる(藤田氏著前掲書)。
 しかも陰陽道関係の信仰として、とりわけ注目すべきは、泰山府君信仰である。さきにもふれたように、上村に来往するに至った有宣は、屋敷の一角に小祠を建て泰山府君を祭り、祠中に暦書を収めたといわれる。この信仰については、下学集によれば、泰山府君そのものは、本地は地蔵菩薩であり、天に在っては輔星といい、地においでは泰山府君といわれるとされる。倭訓栞によれば、閻羅王は地獄において天子の如く主宰者であったのに対し、府君は書記の如き補佐官であったともいわれる。
元来は中国山東省の泰山の神で、ここに死者の魂が来住するとして、信仰するものである。道教系の信仰であったのが仏教とも習合され、閻魔大王の一族とか、分身とされ、人間の生前から行為の善悪邪正を記述する記録官とされた。陰陽家のとくに祭るところであり、生命をのばす延命神乃至は長寿神として祀られてきた。
 泰山府君祭は、日本においては平安中期以後、陰陽師の祭るものとして重要視されており、祭る際の祭文は、泰山府君都状といった。これには本人の姓名年齢と供物の目録とを注し、泰山府君の冥道諸神に対し、禍を除き福を求める一種の願文のようなものである。すでに早く永承五年(一〇五〇)には後冷泉天皇、永久二年(一一一四)には藤原為隆の都状が出されており、ともに朝野群載巻第十五陰陽道条に収められている。
今昔物語巻十九には、安倍晴明がある僧の病気平癒を祈るさい、弟子の僧が身代りとしてその名を都状に記すことを快諾したが、師と弟子ともに祭の効験により、命が助かったことがみえる。この祭は、おそらく平安中期以降行なわれることとなったらしい(斎藤励著王朝時代の陰陽道)。
谷川左近家にも、中世の都状数通を所蔵しているので、そのすべてを史料編にかかげておこう。
 陰陽家としでの安倍家が、泰山府君祭に行事の大きな比重をおいていたことは、否定できない。同時に安倍家が代々本領としていた天文道の権威としての史料をも、谷川家文書に伝えている。天文道といっても、もちろん陰陽道のなかのそれであり、日月星辰等の天体の運行をもって人間の運命を顕示するものとした。大宝令の制度においても、天文博士が天文気色を観候し、異変があれば密封して陰陽頭とともに奏聞することとなっていた。異変というのは、具体的には、日食・月食・蔵星・辰星・流星・紫雲・五色雲・天降異物等をいう(斎藤著前掲書)。上村で生れたとされる安倍久脩の勘文が、谷川家文書中にのこされているので、次にかかげておくことにしたい。

   今月十八日□□大出転変陥北且後皈然赤□□
  天地瑞祥志云、地出レ光如二火照一、国亡兵火起百□流亡之応也、必見二流血積
  骨一也
  尓雅曰、流星大而疾曰二奔星一、霊帝中平二年五月有二流星一、如レ火長十余丈、
  孝武丈元六年十月有二奔星一、東南占曰、楚地有二兵軍□百姓流散一
  天地瑞祥志曰、飛星所レ下多二死亡飢荒氏人疾疫一
  伏惟去三月以来此大飛行之?希代儀也、天道之市聊不レ可二軽忽一、早致二祈於
  神祇一宜レ除二兵火之災流亡之患一者也、謹以所レ勘如レ件
    天正十一年四月廿七日    正五位下安倍朝臣久脩

 天地瑞祥志等の文献を徴証とし、天道の異変は、いささかも軽忽にしえないので、早く神祇に祈祷して、兵火の災難や人民流亡の患を除くべきであるとしている。天変地異-祈赫-天下泰平という、天文系陰陽師としての安倍家の面目を伝える史料と目しえよう。
 ところで有宜以下の安倍家の本宗に連らなる数人の人たちが、納田終に居住していたのは、戦国時代の京洛の戦火をさけて、比較的平穏な、しかも京都に近い山間部のこの地を求めてきたことに因由していたことは、いうまでもない。古代以来の京都の王朝文化が、戦国動乱期において、音をたてて崩壊していった例にもれず、安倍家の荷担した陰陽道も、名田庄の一角の小天地に、局限を止むなくされていた。しかし陰陽道そのものの過去の歴史は、決して、名田庄の一角で終熄してしまうべく、皮相的なものでなかったことも否定できない。近世の開幕とともに、安倍家は再び京都へ帰り、全国的な規模での陰陽道の再編成を企図するに至った。しかも宗教的にいわば白紙状態にあらだ名田庄の一角に、安倍家の陰陽道が、中世以来、大きな影響を与えていることは、容易に想像されるが、これらの点については、さらに近世のところで詳細に検討することにしたい。



道の駅・暦会館・流星館など

コロナウィルスで閉館中だった…。うらみコロナウィルス。人間が自然破壊してきた報いだから、うらむなら自分自身ということになるか。

納田終の主な歴史記録


『名田庄村誌』
納田終
 歴史編でふれたように、納田終は、陰陽家の安倍家の所領としで中世以米その管掌下におかれていた。応仁の乱により、安倍家は所領地のここに移り、永正年間から慶長年間まで約九十年間居住した。その尾敷跡や墓地がある。さらに、小松重盛や大野判官等平家残党隠住の伝説もあり、古式豊かな、厳粛な風俗習慣の中で、しかも、独得の文化を築きながら数百年の長い歴史を秘めている。檀溪寺などの古社寺も多かった。なお中世までは納田給と称していたことが史料からみて明らかである。納田終といわれるのは、江戸時代以降である。
 村の西南端で京都府との県境に位置するために、地理的条件にもより、こうした歴史を刻んだものと考えられる。古くから京都との交流が多く、特に若狭湾と都を結ぶ交易ルートとして重要な位置を占めていた。生活・文化・言語・習慣に至るまで、一つ山越えた京都府と似通うものが、今でも非常に多い。
 小浜街道が発違しない明治の初期頃は、行政区画を度外視した他国との交流が多かった。東西に六キロ、狭く長い部落で、往時は人口も多く、広大な山林に生業を求めていた。
 近時は戸数・人口共に減少の一途をたどり、文字通り過疎現象を呈している。数百年来の生業製炭業も斜陽化減少し、一層深刻である。区の中央に棚橋があり、国鉄バス終着駅(京都線乗継駅)をはじめ、納田終小学校・同児童館(保育所)ならびに農協支所等をあつめ、機能的中心地である。
 大正二年の戸数は百五戸、人口は五百七十七人、昭和四十二年の戸数は九十三戸、人口は三百六十五人である。当区内に次の地籍を有する。


納田終の伝説


『名田庄村誌』
小松重盛の塚
 納田終小字小松に小塚があり、古くから土地の人はこれを、小松重盛の塚であると伝承している。
 平家の残党、小松重盛なる武士が現在の小松部落に落武者としてのがれ住み、かつこの地ではてたという。現在この辺には小松弥右エ門家のみであるが、数十年前まではこの所に小松重右衛門という家があって、その家が没落して家財道具を売却した。それを実際に見た古老の話によれば、大きな長持にぎっしりと詰めた武具類、他の行李には系図を含む重要文書等、遠来の古物商の手に渡ったという。
 これについて関心を持つひとびとが、しばしば調べたが、資料不足で判明していない。岩佐房治郎氏によれば、跡地として南川沿い小松家向いに通称、重盛(森)といわれる森があり、そこに祠堂が現存する。また小松氏宅地内にも重盛を祀る小祠があるとされる。
 ところで小松殿というのは、いうまでもなく平重盛である。かれが父清盛の後白河法皇に対する横暴を諌めたという平家物語の話は、有名である。かれは治承三年(一一七九)七月二十九日四十二歳で死去した。死の四ヵ月前、熊野社に参詣しており、五月二十五日には、出家した。翌六月二十一日には、後白河法皇は、病篤いかれを、小松第の病床に見舞うべく、訪れている。したがって、かれが納田終まで落ちのび、ここで死んだという伝説は信じられない。
 しかし伝説がある以上、平氏系の人で若狭に緑のありそうな人を探してみたい。
 応保元年(一一六一)から文治元年(一一八五)までの頃に、平氏の一族で、若狭守となった人物には、尊卑分脈によれば経盛・経俊・経光らがある。経盛は重盛の叔父、経俊・経光は従兄弟の間柄である。この二人は若狭守であるからこの地を訪れたこともあったかも知れない。とくにこの地はその頃平家の知行国であった。平家の亡んだのは文治元年(一一八五)のことであるが、山深い名田庄は平家落人の逃れ場所として選ばれたことが推察される。名田庄は平家の落人の部落であるとのひとびとのいい伝えもある。そこで重盛に関係があるという何者かが小松部落に住みついていて、そこで死んで塚がたてられたのではなかろうか。
 納田終野鹿谷の枝谷に仏谷があり、その林道から約七百メートル位いの山中の地点に、何者かの古墓と思われるものが何基かある。仏谷の名はここから出たらしい。世をさけ里には住みつかないで山中に住み、山人生活をしばし送った平家の落人の墓跡ではなかろうか。なお別の角度から轆轆師系統の人物ではなかったかとも考えられる。この点については、のちに木地師関係のことを述べたところでふれるので参照されたい。

大野判官
 鎌倉時代の初期といわれるのみで、年代不詳であるが、大野判官と称する平家の残党が落ちのがれてこの地にきて、現在の納田終の小向井に住みついたといわれている。
 その子孫と称する家も長く続いており、判官なる武者の墓は近くの山麓にあったが、明治二十九年の水害で流失乃至は埋没したということである(五輪の塔もろともに)。
 岩佐房治郎氏によれば、なお、その末裔といわれる家族・住家とも大正の初期まで現存していたといわれる。
 大野判官代を尊卑分脈によって見ると、清和天皇系源氏の源頼清がある。号を大野判官代といい、八条院の判官代である。大野庄以下数ヵ所の荘園領主であったものか。承久の乱に「為二京方一被レ討、尾張国大野庄以下数ヶ所本領、収二公之一了」とされる。
 その頃は名田庄では、藤原実忠の領主時代である。大野判宮代が敗れてここに逃れ住んだことも考えられるし、その関係の武士がのがれ住んだとしても不思議ではない。
 史実に徴すれば、頼清の子頼重は大野太郎と称し、承久の乱に京軍に属して誅せられ、尾張大野以下数領を没収されたといわれる。この乱によって父子ともに討たれたものと思う。しかし討たれたと見せてあるいは、京都に近いこの地に逃がれてきたか。あるいは、頼重の弟頼時もあり、その子に頼連・信時(大野又二郎)がある。それらのうちいずれかの人物がここに逃がれ住んだのかも知れない。
 伝承には平家の残党とあるので、平家の落武者のうちの何者かもわからない。末裔は大正末期に何処かへ去ったといわれるので、あるいは木地師に関係ある人物かも知れない。

政所暗殺事件(納田終)
 安借家定住以前に安借家領地を支配する代官政所の役人が、今の小和田の向い倉木字の居館に住み、その権を行使していたが、その人年貢の取立てがことのほかきびしく、地元の者たちは、ひどく恨んでいた。そのため、当時湯の山にあった常願寺にその頃の庄屋格の人でつくっていた年寄組十四名が集り、議をこらし、暗殺をくわだてたが、用心深い政所は、平生は誰とも合わないため、なかなかそれをはたすことができなかった。
 ところがこの人は源助とは常に懇意にしていたので、源助のいうことなら聞くというところに目をつけて、一策を計り、ある夜大下家へ風呂入りにきたのをかぎつけ、源助が大下家へ赴き誘い出した。政所は何事かと出てきたところを、待ちふせていた連中が猪突きの槍をもって四方から突き殺したという。
 これを聞いた谷川左近は、その妻子も危いと考え、政所宅へ急を知らせ、その妻を説得した。夜のうちに立ち退かせることにし、堀越坂の岩浦まで送って行った時夜が明けたので、そこで谷川左近は別れ、傭人をつけて無事京都へ帰らせたという。ただし一説には、妻を京都へ帰らせては後が面倒と、連中が後を迫い堀越峠で、その妻をも殺したとも伝えられる。
 その後年寄組は、倉本字の田畑を共有し、分田(わけだ)と称し各自に分けて耕作すると共に、倉本山に小祠を建て霊を供養し、毎年一回倉本講を交代で行ない、永く供養をしたという。なおこの年寄組はわさ谷・尼木谷・片割谷に約五百町歩の山林を共有して永く伝えてきたが、世代が大きく変った明治三十二年五月、この山を敦賀の大和田氏へ当時の金二千九百円で売却し、同時に分田の田地一部を売却処分、一部を残して小和田組に託して倉本の祠を祀ることを依頼したという。以上は藤田安治郎氏よりの聞き取りによる。
 右の伝説の事件のあった年代が正しいとすれば、名田庄は徳禅寺領家、蓮華王院本家の時代である。しかも、上村(納田終)はその頃泰山府君社領となっていたものと考えられる。
 安倍有宜の来住は千五、六百年頃と推定されるので、それより約五十年前ということになる。千三百四十年代に晴明より十二代の後裔、泰世が上村に住んだ事が安倍家の系図に見えている。ただし尊卑分脈には出ていない。有宜在住の約五十年前と考えるべきであろう。
 とにかく代官の悪政誅求に対して、名主級の年寄らが団結し、反撥したのを伝えているのであろう。
 この事件関係と思われる江戸時代の文書が、納田終谷川左近家に伝わる。元禄六年四月十五日付の名田庄谷納田終村の分田内平検地帳ならびに同日附の分田河原畑内平検地帳である。前者においては、十五筆の田計一町十三歩、分米計十三石一斗四升三合であり、?屋・三郎左衛門・作兵衛・宮内・次郎左衛門・右馬・惣内・新左衛門・久保・次郎大夫・五郎左衛門・大野・作右衛門・源助・彦左衛門の計十五人が名請人となっている。後者においては、十五筆の畑計一反八畝余、分米計七石一斗五合で、名請人は田の場合と同一の十五人である。名請人のなかには、大野・久保・宮内等、名主層の後裔と思われる名前もみ出せる。この田の支配をめぐり、後年紛争がおこり、宝暦六年(一七五六)惣内らが代表し連署捺印の上代官折井九兵衛らに訴えた文書が、同じく谷川家に伝わる。冒頭の部分にこの田の由來がみえる。次に全文をかかげておこう。政所伝承が、江戸時代以来であったことがわかる。
(略)

『名田庄のむかしばなし』
人身御供と身ずし
 -納田終・加茂神社-
 納田終の加茂神社は、京都上加茂神社の神霊を分かち請けてまつるといわれ、養老二年(七一八)の昔から、納田終百二十戸の氏神として、もろもろの厳粛な掟のもとにまつられてきた。
 むかしこの神から、毎年春二月の頃に白羽の矢が放たれ、その矢は氏子の中で若い娘のいる家の屋根に突きたてられたという。
 この矢をたてられた家では、可愛いい娘を「人身御供」として神殿に供えなければならなかったのである。
 氏子はみな、春になるとそのことをおそれ悲しみつづけたものの、応じなければ村中が大嵐にあうか、疫病が流行するなと悪事災害が必ず村を襲うということで、矢を当てられた家では、嘆き悲しみにたえ難いながら、泣く泣く娘をおりに入れ、寒い夜中に神殿に供えたという。
 娘の安否を気なってねむれぬ夜をすごした家族は、夜明けを待って神殿に近づくと既に娘はどこかへさらわれて姿さえみることはできなかった。
 しかし、こうした悲しい犠牲にいつまでもたえることはできなかった。やがて氏子達は強いねがいを固めることになり、遂に氏子総員が神前に詣で、人身御供にかわるお供えをもって悪事災難をのがれさせてください、と祈った。
 祈願のかいがあって神のお告げがあり、夏の土用(立秋の前の十八日間)の日に清浄な川で魚をとり、これを塩おしにした川魚に米の飯を固めて抱き合わせ、新しい桶に詰めて石の重しをかけた「すし」をつくり、これを人の身にかえる意味で、「身ずし」と称してお供えすることにしたという。
 よろこんだ氏子は、毎年の正月三日、白羽の矢が放たれた頃に先立って、おみくじによってお祭りを司る当番をきめ、身ずしをつくって供えることにして以来、白羽の矢は放たれなくなったという。
 おみくじをひき当てた祭司当番は、魚をとって塩おしに、そしてご飯を炊いてこもに包んで足で踏み固め(ご飯踏みの儀)魚をのせたすしをつくる行事を春、秋の二回、神霊を当番の家に迎えて行い、出来たすしを神殿に供えてお祭りをしたという。
 何時の頃からか、その身ずしを「舌餅」(楕円形状のうまい餅)に代え、祭典の儀式は今も厳粛に受け継がれ、身ずしの名残りとして川魚を供物に添えている。
 ちなみに現在の「白矢」の地名は、白羽の矢が放たれた在所ということで名付けられたと伝えられている。


堀越峠の送り狼と権左
 -納田終・旧堀越峠-
 むかしの堀越峠は標高六百メートルを越え、狼が出没するという奥深い、そして急峻な坂道であった。だがこの坂道は、日本海と京の都を結ぶ重要な交易路であった。
 つまり、高浜で水揚げされた海産物は、大飯の福谷峠から石山坂を越え、納田終上の宮(今の児童館の位置で当時は「善積川上大明神」をまつるお宮の社があった)で大休みをして堀越峠に向かい、周山を経て京都に向かう道で、若狭三街道の一つ「周山街道」として商人なとの往来が多く、周山の先の栗尾峠には「若狭屋」という茶店がありよくにぎわったという。
 当時、高浜の商人伊藤嘉助は、年に一度、若狭の鯛を宮中に献上するという大役をになっていたが、毎年この行事大役にあたっては、大鯛を背に高浜をたって納田終、上の宮をめざし、ここで必ず鯛を善積川上神社に一夜あずけをして、夜明けを待って堀越峠に向かったという。それは、堀越峠を夜中に通れば必ず狼に襲われ、大切な魚を奪われることをさけるためであった。
 ところが、同じ高浜の魚商常連に「権左」という人がいて、この人は魚を背負ったら休むことなく夜とおし坂を越えて京都に向かったという。この権左も幾度となく峠付近で狼に襲われ魚を奪われて逃げ帰ることをくりかえすうちに、狼は塩のきいた魚ばかりを食べるらしいと気付いたので、それ以後、塩を多量に含ませた「にぎり飯」をつくって持ち、狼が出るとそのにぎり飯を与えたところ、狼は魚を奪お
うとはせず、そのにぎり飯を食べるだけで何もせず、権左が峠を越えるところまで送ってきては引き返していく、そんなくりかえしで権左は、夜中何時でも平気で魚を背に暮れゆく坂道を登って行ったという。村人はこの人を「送り狼の権左さん」と呼び、夜中に峠を越える急用に迫られた時は、いつもこの権左の来るのを待って道連れを乞い、狼との出合いを体験しながらも無事に峠を越えたと伝えられている。


内尼公(うちあまこう)に通う八百比丘尼
 -納田終・尼木峠-
 むかし、高橋権太夫という商人長者がいた。その長者がある年の夏、ひとりで舟をこぎ出し、幾日かかかってとある小さな島についた。その島の王は何年に一度の珍しい客として丁重にもてなしたという。そして別れる時に「人魚の肉」をみやげにくれたのである。
 よろこんだ権太夫は帰りつくなりすぐに十八才になる娘にその肉を食べさせた。それを食べた娘は何年たっても十八才のままで年をとらず百才をもこえて娘のままで長生きをするのである。やがて、数えて百二十才になった時、娘は髪をそって尼になり諸国巡りに旅立った。そして行く先さきで「私は若狭の八百比丘尼なり」と語ったといわれる。
 これが「八百比丘尼」または「八百姫」あるいは「玉椿の尼」とかばれる伝説である。
 長じて八百才になり、とうとう生きているのがいやになり、小浜の空印寺の岩窟に入り、自ら命を絶ったといわれるが、例にもれずこの地にその足跡を止めたのが「尼木峠と八百比丘尼」の伝説である。
 それは、八百比丘尼という若くて美しい尼が、納田終の谷口から山越えで、丹波の何鹿郡奥上林村故屋岡の、内尼公という寺へ度重ねてかよったという。村人が忘れた頃になるとこの山路を通る尼は、何年たっても生れかわりのような若い尼さん、ということで村人の間で評判になるうちに、あれが「八百比丘尼」だと知れわたり納田終、上林の双方から、この山坂道をつなぐ峠を、尼が来る峠と呼び「尼木峠」
と名付けたと伝えられる。
 またその往き来の度毎に、山坂路にさしかかる麓のところで休み場が定まっていて、尼はそこでいつも葛を敷いて休んだが、ある年その葛を置き忘れて帰ったきり姿を見せなくなったという。
 程なくして尼は小浜で亡くなったという噂が入り、その時からその休み場のあたりを「葛野」と名付け、それが地名になったと伝えられている。

『越前若狭の伝説』
安倍家(一) (納田終)
 平安時代の陰陽師(おんようじ)として有名な安倍晴明(あべのせいめい)の子孫は、代々天文と陰陽道をもって朝廷に仕えて来た。名田の庄の上(かみ)村(今の納田終や坂本附近)には安倍家の領地があった。室町時代の後期になると京都に戦乱が続いたので、安倍家は若狭へ疎開して安倍有宣・有春・有修という三代の方が約九十年間にわたり名田庄の納田終に居仕した。今もそのお墓が納田終のその邸跡といわれる所にある。
 安倍有修の子の久脩は、木能寺の変の起る夜のこと、織田信長を本能寺に訪問していた。信長のめいが安倍家へ嫁に来ていたとかいわれ、信長と久脩は縁故関係にあり、信長は大いに喜んで安倍家へ一万石を与えるといった。また、今夜はここに泊まって行くようにとすすめた。しかし、久脩はどうも不吉な感じがしたので、泊まらずに家に帰った。はたせるかな、その夜明け近く本能寺は明智光秀の襲撃を受け信長は死んでしまった。もし久脩が同宿していたら災害を受けたことはいうまでもない。約束の一万石は得られなかったが、一命を全うすることができた。 (永江秀雄)
  註
「若狭郡県志」には土御門(つちみかど)有修墓について「有修が京都へ帰ってからなくなった後、有修の遺言によってその子の久脩が、父の骨をここまで持って来て埋ずめたものである。」と述べている。土御門有脩とは安倍有修のことで、土御門家の本姓が安倍である。(永江秀雄)

安倍家(二)(納田終)
 名田の庄には昔の天文学者として有名な安倍(あべ)家の領地があった。そして、納田終にはその役所である政所(まんどころ)というものが置かれていた。ねんぐ(年貢)の取立てがきびしかったためか、村人はこの政所をとても憎んでいた。南川の向こうの湯の山(むかし温泉がわいた山)に常願寺というお寺があった。そこへ村の年寄組といっておもな家柄の十四人が集まり色々と謀議をこらした。政所はなかなか人に合わないのでその機会をねらっていたところ、ある夜、政所が近くの大下という民家へ風呂をもらいに行った。これを知った年寄組は、集まってこれを待ち伏せた。年寄組の一人で政所とは親しかった源助が政所を呼び出した。出て来た所をみんなで、いのししを突くやりをもって突き殺した。政所は「源助、むごいことをしやるのう。」の一言を残して事切れたという。
 その後、政所の霊は七代たたるといわれ、十四人の年寄組は毎年お講を開いて、政所の供養を続けて来た。今も小和田(こわだ)の山の上には政所をまつる小さなほこらがある。なおこの話は、室町時代の終りに安倍家の方が納田終へ疎開して来たが、それよりも五十年ぐらい前のことであったという。   (永江秀雄)
 源助の姓は藤田という。        (名田庄村の歴史)

身ずし  (納田終)
 加茂神社は納田終百戸の氏神様であり、京都の加茂神社の御分霊であるともいわれる。むかし毎年一同この神社へ人身御供(ひとみごく)をお供えした。村の娘のいる家に白羽の矢が立つと、その娘を神社にお供えしなければならなかった。そうしなければ村中が大荒れにあったために、村人はやむなくこの人身御供の犠牲をつづけて来た。
 しかしこのような残酷なことをいつまでも続けるわけには行かないので、神様にお願いして夏の土用(立秋の前十八日間)の日に取った川魚ですしを作り、これを身ずしといってお供えすることにした。この魚はなるべく清浄な鮮魚を用い、これを塩押しにし、ご飯とまぜておけ(桶)につけ、石の重しをかけて押しておいたものである。
 加茂神社の祭礼は春秋二回、昔は二十一人の宮座(お祭をする仲間)によって行なわれたが、今は氏子全員によって行なわれる。このお祭は神様を民家へお迎えして行なう。お祭の翌朝まだ暗いうちに神社へ神様をお送りする。そのとき、身ずしをおけに入れて背負い、そのほかご飯やもちなどのごちそうと共に、神社へお供えする。 (永井秀雄)

薬師如来 (納田終)
 桂又(かつらまた)谷の湯の森という所は、むかし温泉がわいていた。そこに安都貞任(さだとう)の末孫の安部別当石王丸(いしおうまる)という人が住んでいた。常に薬師如来を信仰していたが、文治三年(一一八七)三月七日の夜の夢に「わたしは貞任の信じていたルリ体である。南の方の高い滝にいるが、だれも知る人がないお前が来てほしい。」とお告げがあった。
 石王丸かその場所へ行くと尊体があったので、寺を建て、桂又山増福寺と号し、温泉の奇特があった。 (名田庄村の歴史)

 その後温泉も出なくなり、寺も無住になったので、薬師如来を納田終の白矢に移し、薬師堂を建てた。もとの場所の片又(かたまた)には今も薬師跡という場所があり、小さい堂が建りている。 (永江秀雄)

尼来峠 (納田終)
 尼来(あまき)峠は、納田終と丹波国奥上林村との境にある。むかし八百比丘尼が納田終からこの峠をこえて、奧上林村の故屋岡の内尼公という所へ来たので、尼来峠という。  (福井県の伝説)



納田終の小字一覧


『名田庄村誌』
石橋 葛籠野 朽木谷 葛蒲野 日向 奥山鼻 片俣谷 薬師口下 片俣 瀬戸谷 湯ノ森 苅屋谷 老屋敷 風呂屋 風呂前 甲良 口片俣 甚田 老羅 老羅口 老羅谷 小島 四百代 孫田 兵庫 谷口前 谷口 嫁ケ谷 道木谷口 浅ヶ谷 道木谷 上ノ谷 上谷向 上大畠 野廉奥 野廉谷 野廉向 梨ケ谷 野廉口 見淵 後野 白岩 後野口 小松上 小松谷 小松 小松前 大井根峠 上朽瀬 大
井根 朽瀬 朽瀬谷 桧ノ口 上老左近 老左近 下老左近 法経 寺ノ谷 篠谷 清水口 下子ノ粉 子ノ粉谷 子ノ粉谷口 坂ノ下 入走 大畑 小谷 小谷前 上カ谷 上カ谷口 荒堀 清水 馬木谷 水口 左近戸沢 左近戸 中野 上中島 下中島 小向 土之宮 大野下 大野 上中飼 中飼上 下中飼 山鼻 上山鼻 内谷 堀越口 上内谷 猿橋 中畑ケ 堀越 東石河谷 石河谷 石河坂ノ下 奥石河 棚橋 棚橋上 谷生 高岸 大岩 木戸 弓木谷 大淵 円堂 円堂上 下骨谷 上骨谷 小和田前 右近谷口 奥右近谷 小和田 井尻下 井尻 井尻上 倉本 湯ノ山下 湯ノ山 湎ノ山上 森沢 東町 川端 馬場 薬師前 知柿 白屋 白屋前 下ノ川 大田 御陰上 御陰 夏路谷 夏路 湯女田 竹ノ本 山神 南ノ上 下小谷 板木 南東 吹キ 吹キ鼻 高畑 古沢 穴淵 穴淵山 仁井ノ上 堂谷 割谷 右近谷山 棚橘谷 小向井山 出溝水口 寺ノ上 椿谷 見淵谷 道木谷山 イエノ谷 片割谷 尼木谷 栗谷 野鹿谷山 後野山 老左近前 中ノ山 ワサ谷 中嶋 石河谷 風穴谷 堀越谷 崩レ谷 門ノ谷 円堂森 竹谷 地蔵山 南山 荒地谷 高畑山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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