丹後の伝説:4集 |
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丹後の金工地名、志楽郷、五十日真黒人、舞鶴鉱山、他 このページの索引 牛尾神社(香山神社摂社) 切山古墳と石棺(舞鶴市境谷) 朱塗りの棺 志楽郷・四楽郷(新座郡志木郷)(武蔵国新羅郡新羅郷) 香山神社(高浜町下車持) 川守山五十河寺(大宮町新宮) 古代丹後の伝承地名(丹後の水銀地名の考察) 小学校の統廃合問題 新羅の地名 建振熊宿祢(海部氏の祖) 西舞鶴平野の形成 野尻銅山(大飯町野尻) 東舞鶴平野の過去を作図 日守長者伝説 丹後の礫床古墳木津町で発見 丹後の湯の地名 奉安塚古墳(福知山市報恩寺) 舞鶴鉱山(舞鶴市別所) 三重長者五十日真黒人 由良川河口部の過去 |
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『郷土と美術91号』(1988.1)に、 金工史の視点から
古代丹後の伝承地名を歩く 小牧進三 はじめに 冒頭からまづことわりたいことがふたつある。その一は、これからのべる古代の赤色朱″に対する理解と認識で、それは、松田寿男氏の名著『丹生の研究』の一書と邂逅するまで正直いって先に対する私の認識は、存外淡白であった。 しかし私は、かねてから丹後の傳承や、牛を殺して漢神を祭ることの禁止は、延暦十年九月十六日の官符でも令せられた(三代格)。養老の厩庫律逸文にも「故(ことさら)に官私の馬牛を殺す者は、徒(ず)一年」(『政事要略』巻七〇)とある。しかし紀、皇極天皇元年(六四二)七月二十五日条に村々の祝部が牛馬を殺して社の神を祭ったとあり、『日本霊異記』中巻第五に聖武天皇朝、摂津国東成郡の富豪が毎年牛一頭を殺して漢神を祭った話がある。実際には牛を殺して中国または朝鮮から伝えられた神を祭る風習は存したと思われる。古地名について試みに角度をかえ、金工史の視点から照射してみたい考えが、ふつふつとしていた。その理由は、伝わる文献があまりにも希薄であって、限られた文献上の取扱いだけでは、不透明な部分があまりに多すぎると考え、地名や傳説にも割目してみたかった。 松田寿男氏の『丹生の研究』を知るに及んだのは、その矢先きのできごとであってこの書から記・紀・風土記などが語る金属・説話傳承の抽出方法とその解明方法について基本的指針を与えられた。 このいきさつによって本文で松田寿男氏学究の成果と氏の卓越した見解をいかんなく投入。これをベースに丹後の古傳承や、古地名にだぶらせ、解明の糸口とした。 その二は、現在各所に傳本する『丹後風土記』加佐郡残欠都合四十八種本は、村岡良弼・井上通泰氏らによって、『偽撰説』が主張され、これが通説となって今日に継承されている。 ところが学識経験いたってとぼしい私には、この丹後風土記が、奈良朝初期の和銅の官命(七一三)にもとづく官撰書(公文書)であるのか、ーーまた平安朝(九二五)の督促にしたがった延長年間に成った風土記であるのか、これを見極め、分別するだけの力量はない。 しかし、一言ここで私の見解をのべると、この風土記が、官撰書であっても海部直家の私撰文書であっても、それはそれで一向に私はかまわない。 この事がかえって海部直家(あまべあたえ)に連なる人物が採録した文書であった方が都合が良い。 その理由は、『国宝系図』に見えるとおり海部直家が、原初から歴代相傳の始祖と仰ぐ彦天火明命″にかゝわるいろいろな古傳と、その事蹟が滔々と述べられ、披歴されているからである。検討を加える上でまたとない恰好の文書、丹後風土記であるからである。 しかし、この風土記は、国語、国文学の素養だけではまず解けない。いつの日であったか海部穀定氏が、ふと語ったことがある。 そこで、松田寿男氏が『丹生の研究』で展開した金工の視点を、丹後風土記解明への手がかりとした。 結果、ほぼ解明の糸口をえたのではないかと思う。この記で、『丹後風土記』加佐郡残欠、蟻道と血原・爾保ケ崎の三地名の由来偉承を取りあげ、これを究明しよう。 古代の朱・丹 古代丹波・丹後の国名由来となったふしがある丹≠フ源流ルーツを求めると、まずわが国三世紀代の国情を知る上で最重要文献とされる中国の史書『魏志倭人傳』にその源流がある。 この倭人傳には、かつて日本列島にあったヤマタイ国≠フ風俗・習慣・産物、および「魏国」との外交の一端が記され、わが国三世紀代の国情を知る上で、倭人傳が最重要史書であることは、今日の一般常識となっている。 倭人傳はこの丹について 倭人の国は、気候、温暖にして、倭人は、朱丹(しゅたん)≠身体に塗る風習があるとのべ、ついでまたその山に丹ありとそのころわが国ですでに丹が産出していたことを告げている。ついで倭国の王が、正始四年(二四三)使者八人に託して、生口・ヤマト錦・帛布などとともに国産の「丹」が中国の魏の国に献上された。 この国産の丹などの献上によって、そのみかえりとして魏の国から、今日考古ファソ最大の興味でもある銅鏡百枚のほか「真殊・鉛丹、各五十斤」が、わが国に贈られてきたとのべている。 この眞珠は、従来、これはパールであるといわれていたが、その後『朱の考古学』の著者である市毛勲氏から、この眞珠とは、パールをいうのでなく、中国産の上質の「眞朱(辰砂)」の意味であるという見解が示され、この眞朱説が次第に支持されつつある。 つぎに考古的見地から古代の丹をみつめると、まず北九州の弥生中期から後期にかゝるカメ棺墓から多量の丹が検出され、福岡県下前原町の平原の弥生の方形周溝墓からも多量の丹が出土。また岡山県下楯築の弥生の墳丘墓からは実に三十キログラムをはるかに超える丹が検出されている。 このことから、そのころ、ヤマタイ国が、日本列島の大和、北九州、そのいずれの地にあったかは別として、ヒミコの三世紀代、わが国内でしきりと「丹」の使用が活発化し、その需要が増大していたかがわかる。 中国大陸の丹の知識 それでは、ヒミコの時代中国大陸では、いったい丹(辰砂)の利用についてどれだけの応用知識があったのであろうか。松田寿男氏の『丹生の研究』をみると、そこには中国古代の丹の応用のさまざまな、興味ぶかい技法を傳えていることがわかる。 その一、工人が漆を下にして、丹を上にするは則ち可なり、丹を下にして漆を上にする不可なり。とのべている。(『淮南子』巻十六「説山訓」)これはまず漆を下塗りに使用し、ついで丹を上塗りに用いることは良いが、その反対の塗装方法は効力がないという塗装の工法手順を要領よくのべている。 その二、丹砂を焼けば、水銀を成す。(『博物証』)ここでいう『博物証』とは、三世紀末に張輩という人の撰によりできた書物であるが、この書からすでに古代中国人は、朱砂を焼いて、水銀を得る製錬工法を熟知していたことがわかる。それほ、まさしくわが国のヒミコの時代のことである。 ただしこの場合、焼くというのは朱砂を燃焼させることではない。朱砂を密閉した土釜に入れ、この釜の上部から別に設けた水槽容器内にパイプを通じた上、釜の底部を炭火で加熱することによって気化した朱砂が水槽容器内に沈澱し水銀を造る製錬方法をのべていることがわかる。 その三、竈(かまど)を祠れば物をいたす。物を致して、丹砂は代して黄金となるべし。『史記』巻二十八「封禅書」。この史記・封禅書がのべている工法ほ、今日的表現でいうと金と水銀とのアマルガムによる渡金方法をいうのである。 いまかりにこのアマルガム工法によるわが国の代表的な塗金の用例を挙げると、「たとえ黄金があるからといっても、もし水銀がなければ、則ち仏身はできなかった。」という記事が東大寺造立供養記にあるとおり奈良大仏(十六米)の鋳造にたずさわったさい用いた銅・錬金(ぬりかね)・水銀・炭の使用量をみると 熟銅 七十三萬九千五百六十斤 錬金 一寓 四百四十六両 水銀 五萬八千六百二十両 炭 一萬六千六百五十六斛 を要している。 なかでも、とりわけ水銀の使用量の膨大さに割目し、水銀の重要性があらためて認識される。大仏塗金の方法は、水銀五に対し、錬金一の割合で、アマルガムをつくり、これを鋳造仏身の表面に順次塗りつける。このあと炭火の加熱利用で水銀を蒸発させる。すると純金が、製銅仏体の肌に喰い込むように張りつき塗金が完了する。 鬼の研究家、若尾五雄氏がつねにいう、加熱によって水銀をふきとばし、金を張りつける「脱丹」工法で、ダンダン国名もこの脱丹に由来するともいう一説がある。 丹後の場合でいうと、つい先年久美浜町の湯舟坂二号墳から出土した金銅装の黄金の太刀をはじめとし、六世紀後半以降、かなりの出土をみる金環・馬具などこの塗金方法によっている。 このような、すばらしい塗金方法を、古代中国人は、わが国の弥生時代すでに知っていたとなるとその文明の高さにあらためて敬服する。この塗金方法が、わが国で使用されだしたのは、出土物の古墳文化からみて五世紀以降のことであるとされる。(市毛勲) 丹 つぎに丹・辰砂・朱砂・鉛丹・ベンガラについてその概略をのべると、辰砂(しんしゃ)というのは、鉱床学問上の名前であって、ひと言でいうと赤色を呈している硫黄と水銀の化合物、硫化水銀のことである。漢字では、丹(に)・丹(たん)砂・朱砂(しゅさ)・眞朱(ましゅ)・銀砂(ぎんしゃ)・眞赭(まほそ)などさまざまな文字をあてているが、一般にいう鉄系のべンガラではない。この眞赭を読んだ歌が『萬葉集』巻十六にのっている。 ほとけ造る まそほ足らずば 水溜る 池田のあそが 鼻のへを掘れ 何処にぞ まそほ掘る岡 こもたたみ 平群が あそが鼻のへを掘れ この水銀朱は、昭和六十一年十月、福知山市の広峰十五号墳から、景初四年五月丙午日以下三十五文字の紀年銘をもつ盤竜鏡が出土し古代タンバが全国注視の脚光を浴びた。この盤竜鏡に付着している一部の赤色が、水銀朱「丹」である。また出土した土坑の底部土肌を赤々と染めていたのが水銀朱である。 ところで、この丹後においても、加悦町蛭子山古墳、丹後町産土山古墳など死者の埋葬にさいし遺体や棺内に施朱されているが、なぜそうした死者に施朱するのか、 赤は血液の色である。生命は血液の消失によって終る。人々は血液を敬い、いっぽうでほ恐れた。それは赤への敬いであり、恐れでもあった。赤は人々に新しい活力を与え蘇生させることが信じられていた。病人や、死者の体表に赤色を塗るのは、赤の呪術による。今日でも南アメリカのインディアンやオーストラリアの原住民の間でほ、病人や死者に赤の呪術を施している。赤には死者を蘇生させる呪力がある。赤の呪力は生であり、死とは対決する。死者の埋葬にさいし赤を死体に施し、朱詰にしてしまうのは、赤の呪力が死者の悪霊を封じ込めると信じていたからである。これが施朱の風習の起源である。 市毛勲氏が述べる見解には耳をかたむけるが、この説ばかりに私はとらわれない。 生命の起源である赤色は、人血ばかりではない。あまねく生命をはぐくむ赤色に灼熱する原色の太陽がある。日々年々この太陽は夕陽とともに死(没)し、あしたに蘇生、復活する。永遠に生と死の対決を繰り返しながらなお衰えず日々生命の輝きを増す太陽に古代の人々は生命の根源をみた。 よって人々は血液の消失によって終るかよわい人間の生命に対し永遠に偉大な生命を太陽にみた。そして赤色への敬いと畏怖が始まった。そしていつまでも太陽の子でありたいと希求し、人々は永遠の生命を太陽の赤色にみいだし、施朱する風習がはじまった。 その生命を防禦しながら一方で侵入する悪霊をさえぎる役目を果たしているのが朱であって朱にはそうした二重の働きがある。 ベンガラ 古代には二系統の赤色があって水銀系の赤色に対し、もう一種鉄系の赤色「ベンガラ」がある。これは天然に産出する赤鉄鉱を粉砕して作られるが、色合いは、赤色というより、やゝ黒ずんでおり、赤紫系統に近い。化学用語でいうと酸化第二鉄のことである。 みた目には、さほど灼きつくほどの赤色ではない。 昭和六十一年六月のこと、中郡大宮町谷内の大谷古墳から、五世紀前半代の女性人骨一体分が出土世評の注目を浴びた。この組合せ式石槨(五枚)内部に分厚く塗られていた赤色の顔料が、この鉄系のべンガラである。 鉛丹(えんたん) 鉛丹は、光明丹、赤鉛、丹などとよばれ、鉛の酸化物で天然には産出しない。倭人傳に「眞朱、鉛丹、各五十斤」という記録があるところから三世紀代の日本で鉛丹が知られていたことはまちがいない。しかしこの鉛丹は天然の産物でなく施朱の風習や、埋葬に使用されだした可能性はまずない。 正倉院御物のなかに鉛丹一二八包が保存され、わが国で鉛丹が使用されだしたのは、法隆寺の金堂壁画や、萬葉歌からみて奈良時代のはじめごろからであったとされる。 天然の朱砂 松田寿男氏の『古代の朱』をみると天然から産出する水銀朱は、ガス状態となって地殻から吹きあがり、それが岩石の割れ日などから地表に浸透。大地の土壌成分に含まれる硫黄と自然融合する科学作用をおこし一見して鮮血のしたたりを思わせる赤色を呈するといわれる。 そうした働きによって天然水銀が地表を染めたり、また粘土脈や、石英脈、ないしは金銀・銅などを含む母岩の割れ日などに岩石状になって見出される。 そのうち赤色の鮮明なものを採って、古代人は土器、土偶に塗りつけ紋称としたり墳墓に使用していたとのべている。 松田寿男氏は、足掛け二十年間にわたって日本列島をかけめぐり各地の朱砂産地を探し求め都合三百六十五地点でこれを検出し、古代日本で使用された朱砂は少なくとも現地自給を建前としていたといい切っている。 そして私たちの遠い祖先が、最初に利用した金属は、まず第一に縄文期の土器・土偶にみる朱、ついで弥生期の鉄・銅併用利用の時代であったにちがいないと述懐されている。 大和の血原・豊後の血田地名 日ごろなじみのうすい古代の赤色・朱の認識と理解を得るため、序章が長文にわたったが、これからあくまで朱砂という金工の視点から丹後の古地名の謎に迫るため、まず大和の血原地名をみつめたい。 大和の血原 さきの天然朱砂が、かつて日本列島の大地の一隅に流出していたことをほうふつさせる一文が『古事記』にある。 歴史上、わが国初代の天皇であるとされる神武天皇が、和歌山県の熊野からヤタガラスに導かれ吉野の山深く分け入った。そして宇陀郡の宇陀にさしかかったとき兄ウカシと弟ウカシの兄弟の物語りのなかに血原地名が登場する。 天皇の吉野入りを察知した吉野の首長・兄ウカシは、この際天皇の謀殺を因って押機(おしき)という殺害用の施設を設けた。ところが兄の謀略を知った弟ウカシは兄を裏切り天皇にこれを密告。結果謀略は見事に敗退し、兄ウカシは自ら仕掛けた押機にかかって悶死した。さらにこの屍体を斬りさいたとき流れだした血が、踝(くるぶし)がつかるほどであったのでいつまでもその赤色が消えなかった。そこでその場所を「宇陀の血原」と言った。(「神武記」) この物語りは、宇陀・血原の地名由来をのべるため神武だとか、殺害用の押機であるとか語りの説話を述作したまでにすぎないと松田寿男氏はのべている。 同氏によるとこの血原は、現・奈良県下の田野町のウカシ(宇賀志)に比定されるという。この地方にはふるくから多くの朱砂鉱山が点在し、隣接する丹生谷には、朱砂含有の露頭した母岩が確認されている。かつてそのように眞赤に野を染める露頭母岩や、流出した朱砂の堆積があって、その水銀の赤さが、ウカシの血のしたたりにたとえられ、血原地名が生まれたと考証している。この血原地名の由来に対する見解に対し、かつて大和水銀の銀山所長であった井上純一所長も、水銀鉱床の傾斜度などを考慮に入れ、そうした水銀の自然堆積の状況派生もおこりうるとした立場で、松田説に賛同これを支持している。 越前(福井)の血浦 神功皇后の皇太子である応神天皇が、その随臣、武内宿禰をしたがえ越前の敦賀にあった仮宮に滞在されていたときの物語りである。今日の越前国一の宮、気比神宮の神、気比の大神から、夢のお告げによってイルカを貰われた。 ところがイルカを海辺に放置していたところ、ついに腐ってイルカの血が流れだしたので、その海辺の地名を「血浦」といった。 松田寿男氏は、この場合、露頭部から削り崩された朱砂が、河川によって運ばれ海辺に流れ込み、河口部に朱砂がたまった。その赤い光景が、人目に灼きつき、イルカの血の赤さにたとえられ、いい傳えられたと言っている。 この敦賀市の東部地域である、高野・舞崎・大蔵の三地点から朱砂の採取資料によって、この地一帯は古代朱砂の主産地であったと同氏によって考証されている。 豊後大分県の血田 つぎは景行天皇が、大分県大野郡の土蜘蛛を征討されたときの話である。天皇は、土グモ退治にあたってまず大野郡に自生する椿の木を筏って槌を作りこれを兵器とし岩窟の中の土グモを退治した。 このとき殺された土グモの血があたり一面に流れだして踝がつかるはどであったので「血田」といった。(『豊後国風土記』) この血田も水銀の主産地で、大野郡大野川筋には、朱砂採掘にたずさわっていた丹生村がある。 一帯は、朱砂鉱石地帯で、この血田も水銀にもとづく地名であると松田寿男氏は主張している。 大江町の蟻道と血原 さてそこで、松田寿男氏が主張される天然水銀とかかわる金工の視点で福知山市の北郊・加佐郡大江町の蟻道と血原地名を見つめてみたい。 『丹後風土記』によると、今日の大江町有路と千原の地名由来についておよそ次のとおりのべている。 その昔、日子坐王が、丹波国の青葉山(丹後と若狭を境いする)にいたクガ耳の御笠を征討したとき、匹女(ひきめ)という土クモの女酋を追討し、この蟻道の里の「血原」に追い詰め、これを殺害したところだと傳えている。今日の大江町有路(ありじ)と千原(せんばら)である。 一方『古事記』をみると、この書では、日子坐王を丹波国につかわしてクガ耳の御笠を殺させたとのべている。 この場合、古事記が丹波のクガ耳の御笠を殺したと漠然とのべるのに対し、風土記ではクガ耳の御笠は土グモでこの女酋である匹女を血原(大江町)で殺したと語るところから、ここはふるくから土クモ傳承がいい傳えられていたものと思われる。 そこで前二書の傳承にもとづいて話をすすめるが、まずその前に蟻道の「蟻」と「土蜘蛛」の「クモ」についてその実像に迫りたい。 この土クモは、肥前・豊後・常陸の国々などの風土記をはじめ、『日本書紀』にもしばしば姿をみせ、また忽然と姿をかき消す正体不明の地上の虫でもある。 まず『常陸国風土記』から土クモをうかがうと、土クモは、常に岩穴に住み、人気を感知すると忽ち窟(いわや)に身をひそめ、人気が去ると外に出て遊ぶ、梟のようでもあり、また狼のような性格をもつと表現され、まるで異民族の民として把握され、その取扱いを受けている。 この土クモについて風土記世界と鉄王神話に精通している吉野裕氏の見解をきく。 「当時の製鉄は、砂鉄を掘ったり、製鉄炉を掘ったり、ときには製鉄期間中、洞穴のなかで三晩でも、一週間でもあるいは数ヶ月も熔鉱炉のそばを離れることなく暮らさなければならなかった。その意味で彼らは穴と縁の深いものであり、いわば弥生文化の代表選手でありながら、一時的な穴居族でもありえたのである。そしてこうしたところから野の佐伯・山の佐伯などの土クモ傳説がでてくるのであって、一般人からみると、彼らが異民族の出自のせいもあって、一種異様な穴居族として語り傳えられる可能性はあった。」とのべている。 この吉野氏の尖鋭な金工史眼は、肥後和男氏の『風土記抄』や、河野辰男氏の『常陸国風土記の史的概観』などにみる土クモ解釈より合理性に富み、その洞察力とそのけい眼には敬意を表したい。 吉野氏が言わんとされる土クモとは、洞穴の中でふるく製鉄にたずさわっていた民ではなかったかという見解であるが、乏しい酸素と通風の限られた洞穴内で果たして産鉄が可能であろうか。産鉄作業は、強い火力と強風の煽りを生命とする。したがって吉野裕氏の洞穴内の産鉄説はここでは直ちに賛同できない。 そこで私は視点をかえて伊勢園の水銀坑に日を向ける。 この伊勢水銀は、飛鳥・藤原京の時代から『続日本記』文武天皇二年(六九八)記(九月)に記されるとおりふるくから水銀の主産地としてその名が知られている。 この伊勢の丹生の地に点在する中世の朱砂採掘坑道をみると、径六〇〜七〇セソチ大の大人、一人がやっと腹ばいでもぐり込める程度のヨコ穴坑で鉱脈を追うため、約二メートル毎に坑道は曲折し、坑道入口はまるで蟻穴にみえるという。(『日本民俗文化体系』さまざまな王権) また有名な四国の若杉山遺跡の古代・中世の水銀鉱山の坑道も同様蟻穴にみえると市毛勲氏はのべている。ここで私的見解に立つと、史上にあらわれる、土蜘蛛とか蟻とか虫とか彼らがそう呼ばれた理由は、あくまで彼らの動作を表現したものであって決して異民族的な呼称ではなかった。 小さな坑道から地表に朱砂を搬出するため坑道を出入し働く坑夫(鉱夫)の姿が、あたかも、地をはう蟻が餌を求めて蟻穴を出入りする姿にあまりにも酷似していたため、征服者からみて彼らは蟻にたとえられ「蟻」と呼ばれたにきっとちがいない。 それとまた、タテ穴坑で、一日中両手を動かし働く坑夫の姿を高所からみおろすと、まるで巣の中央でえものを食するクモの仕種となんら変わることなく、その動作がクモに酷似していたため彼ら朱砂採掘をはじめ産鉄・産銅の坑夫を、土クモとよばれ語り傳えられたとみたい。 いずれにしても彼らは土穴・岩穴と縁が深い民であった。 常陸風土記で、人の気配を感知すると岩穴に姿を忽ち消すという記載は、土クモが、坑道内に身をひそめることを表現し、人気が去ると外にでて遊ぶというのは、本来の坑夫の本業にとりかかることを表現していると解釈するとなんら矛盾は感じない。 古代社会にあって、より良好の鉄資源を喚ぎ求めて、山野を跂渉する鉱山夫の姿が、あたかも犬の習性と行動とにあまりにも酷似していたため、かつて彼ら製鉄の民が「犬」とよばれたのと同様(『古代の鉄と神々』)、古代社会にあって彼ら坑夫は蟻といわれ、土クモとよばれて語り傳えられたと私は考えている。 これらの「蟻」とかかわる大江町の蟻道(有路)の地名由来について丹後風土記は、つぎのようにのべている。 「大昔のこと、丹波国(丹後)に降臨したといわれる海部直の祖神・天火明命が、食物に飢え、空腹のまま蟻道にやってきた。そして蟻道の蟻に案内されて、ようやく穴巣国へとたどりついた。 そしてアメノホアカリの命の食物の求めに応じた穴巣園の神は、大いに喜び、種々の食物をそなえこれをもてなした。そこでアメノホアカリの命は穴巣国の神(国の神)を大いに賞賛し、こののち、蟻道彦大食待命(ありじひこおおけもちのみこと)と名乗る称号を与えた。このいきさつからこの地を蟻道といいここには蟻巣の官という祠があるが、今にいたって「阿良須」というのほ、この蟻巣(ありす)から阿良須(あらす)に変化したものであるという傳承を記している。 この場合、地名がさきか、傳承がさきかということであるが、蟻道の地名があったからこそ物語りが設定されたとみなければならない。 そしてさらにこの物語りを解明する重要ポイントは、空腹であったアメノホアカリの命が蟻道の蟻の案内で穴巣国へとたどりつき、この国の土着の神から種々の食物でもてなされたというくだりの部分である。 このポイントの一つ蟻道の「蟻」とは、採掘労働者、坑夫そのものの動作を表現することはさきに解いた。 のこるポイントは、アメノホアカリである。このホアカリの実感さえキャッチできると、この物語りの内面が自然と見え語りも、一挙に氷解する。 『古事記』『日本書紀』はこの天火明の出生についてわずかの違いがあるが、神吾田津姫(カムアタカアシツヒメ)別名コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)が生んだ子であるという。 大山祇(大山津見)の子であるコノハナサクヤヒメが、たった一夜の宿りで孕んだため、天神の子ではないと疑いがかかり、身の潔白を明かしたとき火中から生まれたのが、天火明命である。つまり、その疑いを晴らすためコノハナサクヤヒメ、みずから無戸室(うつむろ)(八尋殿)を造って中に入り、土塗りで室をかため火を放った。するとこの無戸室の火の穂の中から順次生まれでた神が、ホスセリ(火須勢理)、ヒコホホデミ(彦火火出見)、アメノホアカリ(天火明)の三神の神々だと傳えている。 このアメノホアカリの命の火中出生の物語りは、あくまで人間相互間の語りでなく、ふるく産鉄民らが語ってきた語りを人間の話に擬せ記したものであることに割目しなければ語りの謎が見えてこない。この物語りについて、早くから『風土記世界と鉄王神話』に明るく、鋭い洞察力をもつ吉野裕氏の解釈がある。 この無戸室(うつむろ)は、製鉄段階(タタラ)でいう炉つまり熔解炉≠フことを表現し、一夜にして孕んで生んだという一夜の意味は、製鉄師の慣用語で三日三月のことを一夜と言い、昼夜を徹し製鉄作業に従事し、三昼夜かかって製鉄し終えたことが表現されていると吉野氏は述べている。 したがって、アメノホアカリの命の本質的具体像は、製鉄段階から生まれた産鉄神であることが知れ、間接的にいうと「日神」信仰の神である。 そこで、この産鉄神のアメノホアカリが、空腹のまま蟻道で、蟻(坑夫)に案内され、穴巣国にたどりついた風土記の語りは、この蟻道の地にすでに先住していた坑夫(鉱夫)に案内され、いくつか開かれている坑道現場に着いたことを表現し、その現場が穴巣国であったとみたい。 したがって種々の食物でもてなした食物も、日頃人間が食する五穀を言っているのでなく、鉄をはじめ、豊富でさまざまな鉱物資源が探査されたことを食物にたとえている。空腹の産鉄神アメノホアカリにとって、空腹を満たすなによりの好物は、その鉱物資源にあったことはいうまでもなかろう。 このいきさつで、蟻道の地名も、いくつかひらかれていた坑道があるためその地名が生じた。蟻は、有、の漢字も用いるが各地で鉱山とかかわる。 鬼研究の第一人者、若尾五雄氏も『金属・鬼・人柱・その他』のなかで、全国有数の丹生の産地で名高い和歌山県鉄天野の丹生神社の別称を蟻通神社といい奈良県の鉄神、穴師の兵主神も、かつては蟻通明神といったらしいと述べ、「蟻」と鉱山のかかわりに着目している。 この若尾五雄氏によると、現地で蟻通神社と読みくだすと言っているが、この通は「みち」であって、蟻通も大江町蟻道も同じ坑道のことで、穴師だから当然そこに蟻(坑夫)がいる訳で、この蟻は、かなりふるい坑夫仲間の慣用語で、為政者からみた呼称であった。 したがって蟻通神社も丹後の蟻巣神社も、鉱物資源のより良い産出と坑夫、坑道の安全を祈り願う神であったと理解するとなにも不合理を感じない。 蟻道は、『大江町誌』によると、現在上有路、下有路とに分かれているが、この地内に、天火明命の母神、コノハナサクヤヒメを祭る祠が四社集中し、とりわけ平安朝の古社、四神を祭神とする阿良神社が祀られていると述べている。 この神社の分布からみると、その坑道が、何本あったのか推定はできないが町誌はまたこの地を中心とした鉱物資源は、鉄と銅で、有名な河守鉱山をはじめとし、全国有数の鉱山地帯で、かなりの廃坑(坑道)が認められるとのべ、『大江町誌』は、さきの私説をほぼ裏付け証明立ててくれる。 ところで、風土記がのべる蟻道の所傳は、なんらかの傳承があってそれにもとづき、採録したものと認められる。傳承内容をよく検討を加えた上で、傳書説を展開すべきであろう。 ただし、風土記にみる天火明命傳承は、語りがこの一神に集約され象徴されその印象が鮮烈である。これはある時代、海部直の祖神の神格昂揚のため、採録にあたって自然そう記されたものと理解したい。風土記の語りは、物部(海部)氏の語りであったと私はみる。 神武を初代と仰ぐ天皇家の祖先傳承も、神武、日本武尊、雄略天皇など、けたはずれの壮大な事蹟をのべている。弘法大師傳にしてもまたしかりで、いつの時代でも自家傳承が過大になることは世間の常套手段だ。 ひるがえって大江町の「血原」地名であるが、この地名由来は、大和の血原、越前の血浦などの地名由来と同系の語りの体系に属し、かって大江町の尾藤、尾藤奥から採取した朱砂の堆積地か、自然流出した堆積があると思われる。 そうした朱砂が、温気や、水分を含んで血原の大地を赤色に染めたため、人日を引いて、土クモの女酋、匹女の殺害地となって語り傳えられた。 この血原の地は、市毛勲氏が画いた日本列島内の水銀鉱床帯の範囲に属しており、この地もかって朱砂の産出地であった可能性は充分ありうる。 朱砂の女神ニホツヒメ 『播磨国風土記』をみると、神功皇后が新羅を討ったため外征の途に就こうとされたとき、播磨国をかためた大神の子としてニホツヒメが出現。「丹波(になみ)(浪)をもって証討せよと教示をうけた。 そこで神功皇后は、ニホツヒメの教示のとおり赤土の神通力によって新羅を平伏させ無事帰還することができた。よって神功皇后はニホツヒメを紀伊の管(つつ)川の藤代(ふじしろ)の峯に鎮祭したと傳えている。 この峯は、今日の和歌山県下、富貴村東方の藤代岳だといわれる。このニホツヒメのニホは、朱砂のことであるが、松田寿男氏によるとこの藤代岳のふもと一帯は、大和水銀の鉱床群帯の其只中にあってニホツヒメは、水銀採掘者が守護する女神であったと説いている。 松田寿男氏が主張されるこのニホツヒメが水銀のニホにかかわる説にしたがうと『丹後風土記』にもこの爾保にかかわる地名由来がある。 この爾保(ニホ)は、今日の舞鶴市街をほぼ一望できる五老ケ岳のふもとの最南端。舞鶴湾に望んだ二尾(にお)がこれにあたる。この二尾の「勾ケ崎」から昭和十四年のこと三遠式銅鐸が発見された由緒をもち邇保地名はふるい。丹後風土記によると爾保ケ崎の由緒についてつぎの風変りな傳承をのべている。 昔、日子坐王が、青葉山(舞鶴)にいた土クモを征討したさいニホの地で祭っていた裸のツルギ(剣)が海水(潮)に触れてサビ(銕精)が生じた。 ところが、そのとき双び飛んできたニホ鳥が、そのツルギに突き刺され、ニホ鳥は皆、死んでしまった。そしてニホ鳥が死んでしまった結果、さきほどまでサビていたツルギが忽然とよみがえってサビが消え、もとのツルギの姿に立ちかえった。それで「ニホ」という地名である。 ここでは、きわめて不合理で謎めいたニホ傳承をのべている。この物語りを松田寿男氏をはじめ、鬼の研究家若尾五雄氏らが日ごろ主張する金工史の視点でこれをキャッチするとこの物語りは、(1)サビたツルギ (2)ニホ鳥 (3)サビが消えたツルギ (4)ニホ(爾保)の四者が骨格となって構成されていることがまずわかる。 サビたツルギ 日本神話がいう三種の神器が、鏡、勾玉、ツルギ(剣)の三セットであることは誰でも知っている。なかでもツルギが古代王権をはじめ、地方首長にとってその支配権を代表するシンボルであることも知っている。久美浜町の湯舟坂二号項から出土した黄金のツルギ、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した銘文(百十五文学)のツルギ、そのいずれをとっても支配権のシンボルであったことにかわりない。 その支配権のシンボルであるツルギが、海水に触れサビが生じたという背景は、なにものかの力関係によってニホの地の支配権が侵され一時的に奪取されたことを暗示している。海水にふれサビがでたというのは支配権の喪失を語るための比喰であろう。 ニホ鳥 爾保地名の扉をとくカギはニホ鳥にかかっている。ニホ鳥とは一名カイツブリの海鳥をいいこのニホ鳥を地名のニホにかけた語りであることは誰の日にも明白だ。だがこの場合「ニホ鳥」を容易に切り捨て去る訳にはいかない。 ふるくタタラ師と呼ばれる産鉄民たちは、素材を採り尽くし、また良好な砂鉄の素材が豊富にあっても燃料が不足すると一定の地にとどまることなく他郷への移動を余儀なくされた。木器を造る木地師もまた同様で、その様を「飛ぶ」とよんだ。 松田寿男氏が、ニホとは水銀産出を祈る神で朱砂の代名詞だと述べている以上。すると双び立つニホ鳥とは、一群の朱砂採掘の民(土クモ)がニホ鳥と表現されていることを暗示している。 ニホの地のツルギがサビたという語りも、朱砂採掘の民(ニホ鳥)によってその支配権が一時侵奪されていたことを言いあらわしている。 すると双び飛ぶニホ鳥が、ツルギに突き刺さって死んだという背景は、日子坐の軍事力前にニホ(二尾)の地の朱砂採掘の一群の民がこの地で征討されたことを物語っている。 さらにニホ鳥が死んだためツルギのサビが忽然とかき消えもとの姿にかえったという背景も、ニホの地の首長支配権が復権したことを物語っていると考えるとほぼ物語りは氷解する。 それにしても丹後国風土記の採録者は、一体誰であったか不明であるが、蟻道といいニホといい実に巧妙な語りを設定したものだ。 ところで肝心な問題は、地名のニホだ。このニホは、ニホから二尾へ、さらに二尾から勾ケ崎の「ニヨウ」へと今日まで変化をしている。現在舞鶴市には、この二尾と、女布(ニヨウ)とかけはなれてふたつの地名集落が存在するが、タクシーの困惑する混同地名の一つであるという。 松田寿男氏の研究によると、 1山口市仁保町 2広島県仁保町 3岡山県赤磐郡山陽町 仁保 4兵庫県三原郡南淡町福良の西仁尾 5高知県土佐山田 仁尾 などのニホ、ニヲ地名の各所からそれぞれ、水銀が検出された実証例がある。舞鶴市のニホ、二尾もその例外ではなかろう。 こうしたニホ、ニヲ地名の特異性と風土記の語りをダブらせてみつめると、西舞鶴のニホ(二尾)は、古代水銀の産地であったと察しられその確率は高いといわなければならない。 古代水銀と土蜘蛛 話を土クモ傳説にもどすと、豊後国風土記にみる土クモと古代水銀、大江町血原と水銀とのかかわり、舞鶴市のニホ、二尾と土クモ。いずれにしても土クモ傳説と、古代水銀産出地との関係はその傳承濃度とその確立が高い。このパーセンテイジは丹後と豊後だけではない。 舞鶴市の大浦半島の大丹生で、多年丹生地名を研究されている村田政彦氏の教示によっても、日本の小京都といわれる飛騨高山市。この近傍にも丹生川村があって土クモ傳説が濃厚に残存するという。 ここで国語・国文学のズブの素人の私がでる場ではないが、土蜘蛛の漢字の構成を分解すると、虫・知・朱で表わされており、朱を知っている虫、となり、つまり土蜘蛛とは、朱砂採掘民をもともと表現する言葉であったのだ。こうした理由で土クモと水銀傳説との傳承濃度が当然ながら高いわけである。 伊根町の新井 のちほど伊根町の新井、丹後町の碇高原の「碇」ともかかわるので、まず神武天皇が、吉野の宇陀の山中で尾がある人物とめぐり合った物語りに移る。 神武天皇が、和歌山県の熊野からヤタガラスに先導され、吉野の宇陀にさしかかったときのことである。天皇の行く手に井戸の中から尾が生えている人物があらわれた。でてきた井戸の中が光っており、尾のある人物は、宇陀の首長で名を「井氷魔、いひか」と言い『日本書紀』では「井光(いひかり)」となっており地名は「イカリ」となっている。 この物語りについて松田寿男氏は、つぎのとおり卓越した金工史脈でこれを見事に喝破している。 山中において外界との交渉をたって得る産物に、鉄、金、銀、銅、朱砂など鉱物資源がある。彼らは山中において、それらの採掘を目的とした暮らしのなかで、それを井戸のなかから尾が生えた人物がでてきたとか、岩を押し分けてでてきたとか、そうした表現がとられているが、それは、それで彼らの仕事の動作を形容したものにすぎない。 朱砂採掘のタテ穴坑は、常に水銀粒で眞赤に照りかがやく状態で「井の中が光った」という『古事記』の表現は、まさに適確であると言われる。 ついで、尾のある人とは、採掘にあたって坑内から浸みだす水銀粒から坑夫が身を保全するためつねに、紐をつけた円座ようの敷物を使用作業をしている。そうした作業中の姿のままで地表に現れたため一見し尾がある人と表現されたと述べている。実に核心をついた合理的判断にもとづく松田氏の見解ではないか。 ついで丹後半島の最東端、伊根町の新井地名をのべる。『京都府の地名』(平凡社)によるとこの新井は、伊根町大原村の北に接し、東は海に面する。ついで文録五年(一五五九)の文書をもとにふるくからあった鰤刺網の漁法にふれ、ここは近世より開けた漁村であると説明されている。説明のとおり新井は今日も営々と波打ちよせる漁村風景にかわりない。 ところが、金工の視点からキャッチすると新井は、やはり「丹生」である。中国の最古文学である『脱文解学』に今日の新井に相当する文字に「??」を表現したものがある。 松田寿男氏は、日本でも朱砂は、丹井つまり地表からの露頭鉱床の採掘にはじまって塀次深くタテ穴状に掘り下げられる。自然湧水を排除する技術が、未熟であった古代社会にあって地下浄水に達するまで掘るとその水銀坑は放棄されたと述べている。 また同氏によると、日本各地にのこる仁井、新井地名は朱砂採掘地と密接なかかわりをもつ地名であると指摘されている。 よって伊根町の新井も全くその例外であると言い切れずかって朱砂採掘の民が、土着し命名したことを語りあかす「丹井」であったと考えられる。 丹生氏とニウズヒメ 神功皇后が、いざ新羅遠征の途に進発しょうとされたとき、播磨国にニホツヒメが出現し、のちこの女神が紀伊(和歌山)の管川のち藤代の峯に鎮祭されたことはさきにのべた。 この藤代の峯は、今日の和歌山県伊都郡富貴村筒香(つつか)で「高野山」の東方丹生川の発源地、藤代岳にあたる。この富貴村には、つぎのような丹生神社が三社鎮まる。 富貴村大字東富貴 丹生神社 丹生都比売神 高野御子神 西富貴 丹生神社 丹生都比売神 誉田別尊神 中筒香 丹生神社 丹生都比売神 丹生狩場神 ところが播磨国から鎮祭されたと傳えるニホツヒメを余る神社の形跡は今日そのあとがない。このニホツヒメからニウズヒメへと変化した事情について深沢武雄氏の見解をみよう。 播磨国のある一帯は、古来朱砂採掘を専職とする人々が多く居住していて、彼らはともにニホツヒメと呼ぶ女神をその祖神あるいは守護神として奉じていた。 ところがあるとき、より良鉱を求めるためか、その一部の採掘民がうちそろって紀伊の国の管川方面へと移動し、その祖神ニホツヒメを藤代の峰の頂きへ鎮祭した。 のちそこにはどれだけの歳月が流れたであろうか。ある時期を画して、彼らのあいだに漢字というものが入り込んできた。そこで「ニウ」と自称していた彼らは、自らの族名に同じ朱砂産出の意味をもつ丹生の二字をあて祖神ニホツヒメをも、丹生都比売(ニウズヒメ)と語り記すようになった。そしてそれがのちニウズヒメと発音されるにいたったのである。(『古代工人史紀行』技術の神々田畑書店)と述べている。 つまり深沢氏は、漢字の使用を契機としてニホからニウへと変化を遂げたと主張している。しかし私は「ニホ」と「ニウ」とは言語系統がかなりことなると考えている。 ふるく赤土のことをこと言って「丹」の字をあて『萬葉集』では赤土をハニフと読ませている。 このハニフの「ハ」が打ち消され「ニフ」となりニフから「ニウ」と発音するようになって「丹生」の文字をあて朱砂採掘の民が、丹生氏と呼ばれるようになったと理解したい。今日福井県にある郡名を遠敷郡、ヲニウ郡と読ませているが、藤原官出土木簡(文武二年紀六九五)に・・・小丹生都岡田里・・・塩二年・・・云々と記されていて「小丹生」の文字をあてていることが歴然とする。いうまでもなくこの地は古代朱砂の主産地であったことは紛れもないし丹生神社の古社もある。 ただし丹生と記してニウ、またはニプと読みくだす用例もあって地方においては、丹生の文字に「入・乳・」の漢字をあてていることが多い。また丹生をそのまま現代読みすると「タンセイ、タンショウ」とも読みくだせる訳だ。ところで一方、爾保(ニホ)はあくまでニホであって「ニウ」には変化しない。丹後のニホの崎のニホである。 このニホはただしニホから二尾、さらにニヨウ(勾ケ崎、女布)へと転化する。私の考えとしては、もともとニホとニウは別系の日本語で、それぞれ日本列島にそれらの言語をたずさえた二系統の朱砂採掘民がいたと思いたい。 そのような言語系統がことなることは産鉄民の場合の言語でもままあることだ。 天女の羽衣傳説を傳える丹後の比治の山の山名の原語、ヒシ、菱を、南方系産鉄民たちが鉄資源の山と山名を付したのと同じく、丹波の夜久野町のサイ谷、綾部市のサイ(犀川)、野田川町サイ谷などの原語は、鉄の古語、「サヒ」から転化し、北方系産鉄民が、鉄の谷、鉄の川と命名したのと同根の話である。 こうしてニホとニウは明瞭に分別できる。そこでニホからニウへの変化は、ある時代を画して丹生氏がニホにとってかわって朱砂採掘の主導権を確立掌握するにいたったと考える方が理解がはやい。それは王権との結びつきであろう。この丹生氏の祖神であり朱砂産出の神で最高神格をもつ丹生神社が、大和の吉野郡川上の丹生川上神社である。 祭神はのべるまでもなくニウズヒメの女神でト部兼倶の撰といわれる『二十二社注式』に人皇四十代天武天皇白鳳四年(六七五)創立を傳える大和屈指の古社である。 松田寿男氏の調査結果の集計によると、この丹生神社は、埼玉県の二十二社、和歌山県の七十八社など全国で百六十社が鎮祭されているといわれる。さらにこれらの丹生神社は、和歌山県の高野、奈良県の宇陀、吉野を本拠とする朱砂採掘の民・丹生氏が日本各地へ拡散しその地でそれぞれ丹生神社を鎮祭したと主張している。 そこで大和から日本海辺に目を向けると、鎮祀される丹生神社は、 丹生神社 福井県三方郡美浜町丹生 〃 〃 仁布神社 福井県大丹生町白浜 丹生神社 〃 小浜市太良庄 〃 新潟県長岡市新保町 丹生神社 兵庫県城崎郡香住町浦上 と福井県北部地域を中心に、兵庫県北部にかけ平安時代の延喜の制にみえる古社、六社の分布を知る。 いずれもこれらの古社は、市毛勲氏が限地的に作成した水銀鉱床帯に横たわる画一線上に位置し、丹後半島の基部までその範囲に含まれている。 この背景と立地条件に立って、舞鶴市の二尾、大江町、千原、伊根町の新井地名にふれた。のち詳述する碇高原のイカリ、網野の丹池(あかいけ)傳説などもまたこうした理由と背景があってのことである。(別表1、2図) 丹後の丹生神社と丹生地名 実のところ、この丹生神社が丹後園に二社鎮祭している。たかが二社とは言え、この社が鎮座する以上松田寿男氏が説くとおり、この丹後にかって丹生氏が存在し、朱砂採掘を行っていたことを示す無言の立証となる。 その一社は、丹後半島の北端、丹後町の岩木の丹生神社と、他の一社は、青葉山の北西大浦半島の突端、大丹生の丹生神社がそれである。 丹後町岩木の丹生神社は、用明天皇の時代麻呂子親王による土クモ退治傳説が横たわる。 竹野神社の近接地、高城山(城山)に対峙する小字、新道(しんど)に鎮座し、ここでも土クモが動めく。 とおりがかりの中年婦人からこの社は現在岩木集落の氏神であることを知ったが、突然訪れても、社名標示もない椎の潅木に覆われた社地から丹生神社だと知るには、かなりの時間がかかる。 たまたま摂社にかかる乳道(にうじ)荒神と記された小さな墨書文字から乳道は、丹生地であり、朱砂産出を示す地名から丹生神社であることを知る。 この岩木出身で近くの吉永に住む古老、道家(どうけ)宗春翁八十八才からの教示によると、この社は現在、ニウさんの呼称は消え、ニブさん、ミブさん、比較的若い世代になると、タンショウ(丹生)さんと呼ぶという。古代朱砂採掘の民である丹生氏は、岩木集落において今日タンショウさんと呼ばれ風化しつつある。致し方のない歴史のはざまが、ミブ、ニブ、タンショウと語る古老の口もとで去来し、浮沈している。 ところが、古老道家宗春氏が、平然とつぶやいた、ミブさん、ニブさんのたったふたことをききつけかつてない衝撃をうけた。 このミブの言葉は、平城宮跡出土木簡に、丹後国竹野郡・生部(みぶべ)・須・・と記された墨書文字が語る「生部・壬生部」そのものを指すミプの古語であったからだ。 五世紀初頭の仁徳天皇記に壬生部を定めると記され、皇徳天皇記にみえる「乳部(みぶ)」がそれで、言葉のふるさを物語っている。 ついでニブは「新撰姓氏録」(八一五弘仁十三年)に記された平安初期の高官、息長丹生眞人の「丹生」そのものを表現する言葉であった。やはり丹生氏は、この岩木で、ミブ、ニブという日常会話の中に生き、今日も健在であった。平安京の地名壬生より丹後岩木のミブがよりふるい落差がある。岩木のミブは、木簡記載のとおり奈良朝にさかのぼる。京都の壬生は湧水地水分(みぶ)より生まれた地名でその性格がまるで違う。「神社明細帳」によると、この丹生神社は、水神である罔象女の女神を祀り、弘化元年(一八四四)四月十六日火災にかかり嘉永二年(一八四九)六月再建と記し創建年代不詳となっている。 しかし日本の丹生の記録は、延久四年(一〇七二)『参天台五台山日記』承保三年(一〇七六)『百錬抄』を最後に採掘記録が史上消滅。丹生氏の活躍も、平安末から鎌倉期にかけ衰退した。時代の推移である。 この事情から「神社明細帳」で創建年代不詳とされているが、この丹生神社の創建は、松田寿男氏が述べるとおりまず平安期にさかのぼり丹生氏による創始と察しられる。 丹生の言語が今日に生き、乳道(丹生地)地名も現存する。丹生氏のかつての土着がこの岩木にあったことは、もうまぎれもない。 いまから二十年前の昭和四十二年十一月五日のこと、松田寿男氏は、網野町字郷の史家後藤宇右門翁の案内で、はるばる東京からこの岩木の大地にたたずんでいる。そして岩木の朱岩から水銀を見事検出された。これによって岩木の地が、古代朱砂の採掘地であったことを証された。それは、丹後町の岩木の古代を語る鮮明な一頁でもある。 碇高原 この岩木の東部に屹立する丹後の奇峰が依遅ケ尾(市ヶ尾五四〇)である。この依遵ケ尾は、日本海を眼下に見おろし、間人の漁民たちが、ふるく暮らしの糧とした山かけ漁法の唯一目標とした聖山で、漁民はもとより、海民信仰の山でもあった。 この依遅ケ尾から宇川をへだて東部にまたがる高原が、世屋高原とならんで、丹後半島の屋根といわれる碇高原である。 この高原は、いま、京都府畜産総合牧場の一大拠点として牧畜近代化への歩みをみせる一方、昭和五十二年九月、牧場施設工事現場から中国古代の古銭である開元通宝(六二一)が多量に出土。また平安時代の古社、大野神社の旧地が高原の一隅に現存するなど、生活の拠点としての高原のいとなみはふるい。 この高原の地名由来について、かって丹後町長であった蒲田保氏は、高原に建つ記念碑の碑文冒頭でつぎのように刻みつけ、 ・・碇はその昔、大野郷と称し、狩猟をなりわいとする千軒長老を構えた太古に端を発し・・・中古、うち続く天変地変、火災と農耕の変遷などによって住民は、三上、乗田原、竹久僧へ移住したと傳えられるが、また、「猪刈(いかり)」ともい・・・・と述べている。 つまり碑文がのべる碇とは、太古からの狩猟をなりわいとする猪狩≠ノことよせた、「いかり」だと主張している。 また口碑によると、碇とは強風の北風が吹きつけ、唸りを立て、怒る。高原の風土的見地から、風が怒るから「怒(いか)り」で碇高原だという説が一部にある。この高原に立つとき、たしかに一瞬にして強風に煽られよろめきを感知し、すさまじい風のいかりであることはたしかだ。しかし私は、さきの二説と全く見解をことにし金工にもとづく起源説をとる。 その理由を挙げる。 丹後森林施業図の小地名をみると、この碇は、三上のイカリ豊山、イカリナル、小脇のイカリ地名などが高原近くにまず集中していることを知る。平坦地のことをナル(平)という柳田国男通説の考えを念頭におくと、このイカリナルこそ現在の碇高原の「碇」の原地名ではなかったかと喚起したい。さらに注意を喚起したい二三の地名がある。尾和にある、吉野、吉野、谷内にある高野、高野坂、ついで丹京寺地名である。 つまりこの高原で、イカリ、吉野、高野、丹京寺と四点セット地名である立場に立って考える必要がある。峰山町の古刹、緑城寺年代記にも、かってこの高原の一画にあった寺名、吉野山上山寺(天応三年七八一)と記され、吉野地名は平安初期にさかのぼる。 ところで、これらの地名は、この丹後の高原を本拠に派生し命名されたものだと到底考えにくく、するとその地名の本拠は、大和、奈良県地方であるとみたい。 大和には、屈滑の古社丹生川上神社が吉野にあり、吉野、宇陀が、水銀の主産地であることはくりかえしのべた。この吉野にイカリ地名がある神武天皇の傳承ものべた。 さらに福井県の上一光(かみいかり)、下一光地名も丹生郡にあって古代水銀の主産地であることは、松田寿男氏が検証されたところである。 また、高野、高野坂も、和歌山県の高野を原郷とし、高野山金剛峰寺が、弘仁十年(八一九)弘法大師によって開山されたことは誰でも知っている。 弘法大師がその晩年、金剛峰寺の高野を開山した主目的が、水銀資源の獲得に狙いがあったことは、松田寿男、若尾五雄両氏らの尖鋭な指摘と論証がある。 その一例は『今昔物語』や、弘法大師が金剛峰寺の地主神として丹生神社を崇め大師がいたく信仰していたことからでも、その一端がうかがえる。いずれにしても、イカリ、吉野、高野地名がそれぞれ水銀主産地に深く根ざしていることが一目瞭然である。この丹後の碇高原もその例外とはいえない。丹後町の岩木の足元にかって丹生氏が土着していた足跡もある。 これらの理由から、イカリ高原の「碇」はかって丹生氏が、朱砂採掘のため、この高原の一画に居をかまえて彼らによって名付けられた可能性が高かろう。 さらに高原の一画である谷内と、さきの吉野山上山にまたがる丹京寺≠フ丹京も、「丹の都」を表現する内容をもち、丹生氏の氏寺である丹生寺も諸国に多い。朱砂採掘にかかわる遺承寺名の痕跡とみたい。 網野町の丹生 日本海沿岸最大級の網野町銚子山古墳が、近代化への変貌いちじるしい網野の町並と昔日の入江湖を見おろし身を横たえる海ぎわのまち網野。 この町なみを流れる福田川の中流域に地質学上有名な郷断層をみる網野町字郷がある。 今日網野の町名由来である網野郷は、奈良東大寺仏が竣工なった、天平勝宝四年(七五三)東大寺要録にすでに記載があって地名は奈良時代に端を発している。 かつての中心的役割をとどめるのが、この郷で村内に水銀地名「丹生土」があるが、喧騒と情報化の波間にかき消され埋もれて久しい。 この郷にれっきとした平安時代の古社、大宇迦(オオウカ)神社が鎮まり、鎮座地は網野町小字丹生土二一四で「入道」と記された文書もある。そのほか入道、入道口という地名も併存し、この入道は、丹後町岩木の乳道と同義の丹生氏とかかわる地名であることを知る。このほか丹後には、中郡大宮町字明田の入道、与謝郡加悦町字明石の須代銅鐸出土地としてすでに著名な須代神社の近くに入谷古墳群の入谷地名があってこれらは、丹生土、丹生谷から「入」への変化と考えられる。が、しかしそれを裏付けるたしかな傍証資料がなくその証明はいたってむづかしい。 ところで、網野の郷に鎮座する「大宇迦神社の大ウカの神」は峰山町字鱒留に鎮まる古社で、丹後国風土記逸文がのべる豊ウカノメを祀る藤社神社から勧請された古傳を残している。 しかし、この郷の丹生土で、丹生とウカがペアであり、大和の吉野のウカシのウカと丹生とが、重層し丹生とウカとの関係には、なにかがありそうだが、いま深入りはしない。 いまから二十年前の昭和四十二年十一月のこと丹後町の岩木と同様、松田寿男氏はこの神社の境内「丹生土」にたたずみ赤土を採取。〇・〇四オーダーというまさに目を見張る多量の水銀が検出された。松田寿男氏が着目した地名、丹生土は、松田寿男氏の期待をそこなわなかった訳だ。 同氏の検証成果をふまえると、郷の丹生土は、地名といい神名ウカといい、古代水銀の採掘にたずさわる一群の丹生氏が、かつてこの地に土着していたことを如実に語りかける丹生氏の古代から現代へのメッセージでもある。 このことから、柳田国男が主張するように地名は、二人以上の人間が、生活の便宜上、人間がひとひらの大地の「一隅」に命名するものなのだという述懐があらためて念頭に浮かぶ。 よって前述のとおり、血原、血浦、血田、「爾保、ニホ、二尾、ニヲ、」「新井、ニイ」「乳道、ニウジ、丹生土、ニウド」「丹生、ニフ、ニウ、ニプ」「井光、一光、碇、イカリ」等々の地名が、それぞれ、朱砂採掘の民たちのかかわりによって命名された地名であることが理解された。 そこでつぎに丹後にのこる口碑、傳説から水銀傳説を抽出し、検討したい。 網野町の丹池(あかいけ)伝説 この丹という金工の視点から『奥丹後民俗覚書』(『郷土と美術』所収井上正一編)の丹池傳説をみつめると、この傳説もやはり水銀傳説が横たわる。 丹後の木津温泉で有名なこの木津に隣りする網野町俵野、この地は奈良時代の俵野廃寺としてもすでにその名が知られている。 この山あいに、周囲四キロばかりの「丹池」というふるくからの池、「かった池」がある。 この池が、丹池となった傳説はその昔、このかった他に一匹の大蛇が住んでいた。ところがあるとき、武勇にたけた三五郎という人物が、この池の主である大蛇を斬り捨てこれを退治した。ところがそののち大蛇の血が流れだし血で池が眞赤に染まっていつまでも赤さが消えなかった。そののち里人は、この他を俵野の丹池とよび、丹波の国の国名起源は、この俵野の丹池に由来すると傳える傳説があることを井上正一氏がまとめている。 この傳説を一読すると、大和の宇陀の血原、豊後の血田傳承と近似する同系の語りであって池の赤色を大蛇の血にことよせ語られていることがまずわかる。 四年前の晩秋のある日、一人でこの丹他の池ぶちに佇ずんでみたが、崖の斜面の地肌は、たしかに赤い。鉄系の赤色ではない赤さを今でも認める。その足で井上正一氏宅を訪れ、同氏から近傍地名について教示をうけた。 この丹池がある谷あいを「丹谷(たんだに)」と呼び、また続いて丹地(たんじ)地名も近接するという地名の原理から察すると、ほぼ水銀地名であることが推察できる。しかし察するだけでは証明不足でその理解がえられない。 ところが一方さきはどの網野町郷地区内に奇妙な牛傳説が語り傳えられている。 この傳説は、井上正一氏のまとめによると・・・あるとき、郷村の牛洗い場で、飼い牛を洗っていたところ、牛のからだが深みの淵にずるずると沈んでしまい、とうとう姿が見えなくなってしまった。ところが数日後のある日のことその.牛の屍体が、俵野の丹池に浮き上がったという話が「奥丹後民俗覚書」(井上正一編)に採録されている。ついで郷の牛洗い場と俵野の丹池とは他の底がつづいているという口碑をともに紹介している。 この網野町郷の「牛洗い場」とは、かって松田寿男氏の取材に同行した地元の史家、後藤右工門(故人)翁の教示によると、大宇迦神社の境内「丹生土」がそれであるという。今日ではもはや見るかげもない小さな池に縮小されているが、明治末期ころはかなりの広さがあってその池の深さを知らずと言い傳られていたという。 この丹生土は、さきのとおり、〇・〇四オーダーを示す多量の水銀産出地であったことは、松田寿男氏の検証結果できわめて明白。 網野町の俵野の丹地も、わざわざ「丹」の文字をあて、池水の赤さを表現しいることからも血のしたたりを思わせる水銀朱の赤さを表現するため「丹」の字をあてたことを知り、丹谷、丹地地名がこれを傍証する。 このことから、郷の牛傳説も、俵野の大蛇傳説も、語りの媒体として牛と大蛇が主人公にされたのであって、もともと双方に横たわる水銀傳説の語りであったとみるとその謎も容易に氷解する。 ただし郷村の「牛」は、労働力からみた牛で把握する物語りが単純となる。 ここで朱という文字を漢字分解すると、「牛とハ」の記号から朱文学が成立していることがまず明瞭だ。 中国の最古文字である殷代の甲骨文字「朱」の字体をみると、朱は「?」(牛)の文字の眞中に横棒を一本加えたかたちで、ばっさり牛を胴切りにした形である。胴切りにしたとき、ふきだす血の色がアカ、天然水銀の赤色なのだ。つまり牛は古代において朱の代名詞でもあったわけである。 こうした理解に立つとき、郷の牛傳説と俵野の大舵、丹池傳説は、古代水銀を媒体とし金工の視点からここで自然融合する。このわけから郷の牛の屍体が数日後、俵野の丹池に浮き上がった理由の謎もこれで氷解する。 また双方の池の底がつづいているという語りも、郷の丹生土の水銀の赤さと、俵野の丹他の池水の赤さが同色であった表現の語りであったとみなされる。 ただしこれがいつ頃の時代のことであったか、あくまで傳説であるためその推定はむずかしい。ところが、かって俵野の丹谷から湧出し流出した天然水銀が、かった池に浸透し池水を眞赤に染めあげた。この赤色が、大蛇の血にたとえられ、大蛇傳説が生まれ、丹池傳説となって今日に語り傳えられたと把握したい。 このほか、伊根町の蒲入、大浦半島の大丹生、冒頭でふれた丹波の国名由来も検討したいが紙面の都合で割愛し後日にゆずりたい。 (付図・付表は略)
日守長者
南宮大社の北方約一キロの地は「日守」と称し、「日守長者」の居住地との伝承があり、同社宇都宮敢宮司の教示によると、その付近より鉄滓がしばしば発見されている由で、しかも伊吹おろしの風が強く、冬は傘をさして歩けないほどであるというから、ここはおそらくタタラ炉以前の自然風に頼った原始的製鉄の頃より引続いて製鉄を行っていたところであろう。「日守」とは「火守」すなわちタタラ炉の火を守る意で、「日守 長者」とは、「火守」の長(おさ)、すなわち製鉄技術者集団をたばね、製鉄によって大をなした氏族の長であったのであろう。「日守」を「火守」とすることは、上代特殊仮名遣いの上からいうと「日」は甲類の〈ヒ(hi)〉であるのに対して、「火」は乙類の〈ヒ())〉であるから、「日」と「火」は別個の概念であるが、「火]の根源は太陽の霊格である「日」とする観念もあり、また後述するが、古代の製鉄民は日神祭祀と関わりがあったから、「日守」は「火守」であるとともに、古代製鉄に関わりある日神祠の司祭でもあったとみてよい。 「日守」の地よりさらに北へ約一キロの地に南宮大社の御旅所がある。御旅所はいうならば南宮大社の神威のよみがえりを願うミアレ所で、毎年五月五日の例祭に際して神輿渡御あり、還幸の途次「還幸舞(かんこまい)」が行われる。御旅所はいうならば南宮大社の神威を更新するミアレ所(神威顕現の場)である。製鉄地の北にお旅所を設け、南方に本社が鎮祭されているところに、南宮との呼称と関係がある。
*西舞鶴平野は海進でできた
塩見教諭が研究論文まとめる* 「西舞鶴平野は、後氷期の海進によって奥深く入り込んだ海水が形成したリアス式海岸で、これか発達した沖積平野である」と、西舞鶴平野部の形成過程を研究、論文にまとめた人がいる。この人は、西舞鶴校商学科経論の塩見良三さん(43)=福知山市=で、地質学や自然地理学とはまったく無縁の経済の先生。地質年代測定などによる舞鶴の古環境の研究の例はこれまでになく、貴重な資料となりそうだ。 塩見さんと自然地理との出会いは三年前。兵庫教育大学大学院へ入学したのが始まり。府教委は、教員に幅広い知識を身につけてもらう目的で、十三年前から大学院への派遣を続けている。当時福知山高校の経論だった塩見さんも、これに応募し、平成二年四月に入学をした。専攻を決める際、まったくの未分野で勉強したかったことと、自然環境の変遷や生物活動の足跡を残している足元を見つめ直すことが、きょうの環境問題を考える上でよい教育材料になるのではと考え、自然地理学を選んだという。 在学中は、専門書を読むなどして研究を続けていたが、たまたま西舞鶴の平野部の地質資料を入手したことから、同平野の古環境の成立過程を解明することを修士論文のテーマに決め、平成三年に本格的な調査を始め、同年十二月に論文をまとめた。 地理学教室の成瀬敏郎教授の指導のもと、まず、既存の資料により沖積層の検討から始め、深度一七・六〇bのポーリング調査によって各地層のサンプルを次々と入手。これをほかの地点で得たサンプルと比較しながら、珪藻化石や貝化石、火山灰などを分析した。伊佐津川流域を歩く地形調査も行った。 いまの姿は江戸中期に この間、研究は順調に進んだわけではない。最初に苦労したのが資料を集めること。舞鶴市史にも、地形について述べている部分は少なく、小浜や豊岡周辺の研究資料を参考にもした。また、珪藻はは淡水、海水、汽水性と棲み分けをする性格を持ち、この化石から海進、海退の目安を知ることができるのだという。しかし、ポーリング調査の結果、珪藻化石の個体数が少なく、古環境の復元が難しいため、貝化石へと分析のポイントを変更せざるを得なくなった。 こうして得た資料の、地層年代を測定することなどにより、塩見さんは次のような結論を得た。一万二〇〇〇年前の急激な気候の温暖化により海面が上昇、海水は内陸部に徐々に侵入し、六〇〇〇年前頃には公文名、七日市、中筋付近にまで達し最大の広さとなる。この時の海面は現在の海面より六bは高かったと推測される。 それが多量の雨により、砂礫が湾内に流れ込み、五〇〇〇年前には湿原が一面に広がった。そして、三五〇〇年前の縄文時代後期のころには、再び海水の侵入が進み、湾入り口には砂州が西から東へと延び、やがて、砂州は完全に内湾をふさぎ、湖が出現した。 「貝化石が海水性から淡水性へと変化していったことでも、この環境の変化がわかる」と塩見さん。その後河川からの堆積物で湖は狭くなり、また、海進、海退により内湾の拡大、縮少を繰り返し、江戸時代中期頃に現在の平野ができあがった。 一つの区切りをつけて、「満足できるものができまたが、未完域な部分もあり、これを踏み台にしたい」と話す塩見さん。「今後も、課題である詳しい年代測定を行つとともに、東舞鶴平野の成立過程も解明していきたい」と研究意欲をみせている。 この研究のまとめを確か「舞鶴地方史研究」に発表されていたが、私の手元にはない。 『中筋のむかしと今』に、(写真も) 田辺の海
海水面は長い歴史の間に一進一退をくりかえしています。六千年前の縄文時代、海面は今より六メートルも高く、公文名のあたりまでは海でした。七日市の交差点南方の三叉路のあたりが海抜九・五メートル、伊佐津の三柱神社付近が四・五メートルだからです。上がり下がりをくりかえし、縄文時代後期には湾口がふさがって湖になったこともありました。だから平地に縄文時代の遺跡はありません。大内交差点で海抜一・九メートルですから、中世には海か湿地だったことでしょう。 その後だんだん水位はさがり、江戸時代の中ごろに今のようになりました。だから、公文名の陸橋近くで丸木舟が出土した、という話はうなずけるのです。広い舞鶴湾を丸木舟が行きかい、外海へも出かけていたことでしょう。 よく知られた「三庄太夫」の安寿と厨子王は、奥州日の本の将軍、岩城(福島県)の判官正氏の子で、筑紫(福岡県)にいる父に会うために日本海に出て、越後(新潟県)の直江津で人買いにだまされ、由良の港に連れてこられます。 羽黒山伏で知られた出羽(山形県)の羽黒山を開いた蜂子王子は、丹後の由良から出羽に向かったと伝えられます。 謡曲「丹後物狂」の主人公花松は、橋立の浦で身投げしたところを、筑紫彦山の麓に住む男に助けられ、英彦山に上って学問した後、早鞘(関門海峡)をへて浦伝いに丹後に戻り、九世の戸の文殊堂で七日の説法をします。 真倉の稚児ヶ滝不動堂には、津軽(青森県)十三湊から逃れてきた安倍宗任の稚児と伝えられる、千世童子が祭られています。 永享八年(一四三六)、奥州十三湊日の本将軍安倍康季が、若狭(福井県)の羽賀寺本堂の再建のために、大金を寄進をしています。どの話からも、日本海をたくさんの船が盛んに行き来していた様子がうかがわれます。 三庄太夫物語の安寿は、後に津軽の岩木山の女神と祭られます。そしていじめられた丹後の者を嫌い、丹後の人が津軽に来ると、丹後日和といって、天気がにわかに悪くなり、船が動けないほど風雨がつのると言われました。江戸時代の話に、網野の人が但馬(兵庫県)の者とうそをついて津軽に行った時のこと、風雨が三十日も続いてお金を使いはたし、実は丹後の者だが宿代が払えないと謝ったところ、「丹後の者が来ているから天候が悪いのだ」と思った船主たちが、みんなで金を出しあって旅費を作って送り出してくれた、助かってよかったんだが、三庄太夫の子孫が通ると言って、道々たくさんの人に見物されて困ったよ、という笑い話もあります。戦前までは実際に嫌われたそうです。 平成八年、引土の円隆寺門前の地中から、一万一、九四三枚の銅銭が発見されました。一万枚をこえる出土銭は、舞鶴・丹後はもとより京都府北部で最も多い数で、保存状態も良い貴重な資料なので、すぐに市の文化財に指定されました。 円隆寺門前の出土銭は、埋められた南北朝時代に、少なくともそれだけの財をなした人がいたということで、近くに港があって盛んな取り引きがあったのでしょう。 高野川にその港があった可能性がある一方で、伊佐津にいつのころからか港があったことは確かです。伊佐津という地名が、砂利の浜の港という意味だからです。切山(天神山)が伊佐津川を越えて八間も突き出していて、その北の仁寿寺の門前に港がありました。「御厨子観音」の霊場です。聖なるお寺や神社の門前に船着き場は作られたものなのです。 応仁二年(一四六八)田伊佐津平門四郎家国と書いた記録があります。田辺の伊佐津なのかどうか、研究はこれからです。 文亀元年(一五○一)に丹後に来て、「天橋立図」(国宝)を描いた雪舟は、住んでいた山口県との間を船で往来したことでしょう。八二才という高齢でしたから、長旅はこたえたかもしれませんが、丹後の国のお客さんですから、手厚い待遇を受けたと思われます。すでに戦国時代に入っていて、丹後の国では戦乱がたえませんでした。雪舟は戦乱の丹後の様子を見ながら、あの「天橋立図」を描いたのです。 現在に続くのカネがすべて社会の萌芽である。すべての価値はカネに換算できる。カネで何でも買うことができる。現在社会のありがた〜い神様仏様、ご主人様である。商業主義、観光主義、拝金主義、ホリエモン様、金万能主義、政治も思想も命も人間も何でもこれさえあれば買うことができる。貧乏人のひがみ嫉みかも知れないが、すべての人間社会の堕落はここから始まるのかも知れない。現在は全地球を金が支配しようとしている。この際限もない流れに抗しなければ人類もその目先の欲望のために滅ぶことであろう。 税金の無駄遣いは駄目だが、病院はムダではない。近代都市にとっては必要不可欠の施設ではなかろうか。何はなくとも病院はなければなるまい。人類はずいぶん古くから赤字は覚悟で、というか無料で銭なく病める人々のために人道的立場からこの種の施設を己が社会の中に設けてきたようである。古くは悲田院といいましてな、と私のロシア語の先生は話してくれたことがあったが。綾部の診療所をどうして作ってきたか、の話であったがもう内容は忘れてしまった。 赤字のためだとか、たいした努力もせぬままに、恥知らずにも簡単に××公立病院の廃止・民営化などと言い出す者や、それに同意賛成される方々など、特によ〜くヨ〜ク拝まれるとよろしいでしょう。ゼニにためなら人命などはどうどもよいことなのであろうか。病院をなくすなどといえば人殺しの大悪人でもチト簡単には同意せぬであろう。彼は言うであろう。「ワシは多くの人を殺してきた。他人の命などはどうでもいいが、ワシや最愛の家族が病気やケガの時に困る。病院をなくしてはいけない。命にかかわるように事態にどうすればいいのだ。それは殺人行為ではないか、ワシよりも大大悪人のすることだ」と。 金貨や銀貨はなく、すべて安価な銅貨であり、日本製ではなく中国のいわばありあわせの貨幣である。統一貨幣を流通させるだけの統一権力はなかった。これだけあっても額とすれば大したものでもないであろう。百万円とはいくまい。しかしこれは大きな人間史上の意味がある。いよいよ貨幣経済が始まった。誰が誰と何を売り買いしたしたのであろう。こうして歴史は一歩前進を始めたのであろう。 田伊佐津平門四郎家国というのは『海東諸国記』(1471朝鮮)に家国、戊子年(応仁二)遣使来賀、書称丹後州田伊佐津平朝臣四郎家国、以宗貞国接待、のことであろうか、この田伊佐津は 中世の埋蔵銭についてもう一つ資料があるのでついでに上げておく。 『京都新聞』(030719)に、(写真も) *古の伝言25*
*中世埋蔵銭(京都市左京区鞍馬二ノ瀬町)* *地域経済の裏付け* 一九九八年二月四日。「古銭が山ほど見つかった」と連絡を受けて、京都市埋蔵文化財調査センター副所長の梶川敏夫さん(五三)は、京都市左京区鞍馬二ノ瀬町の宮坂篤芳さん(七四)宅に駆けつけた。そこで信じられない光景を目にした。 緑色がかった古銭が、むしろの上に無造作に山積みされていた。後で数えたら三万八千三百六十四枚あった。京都府内で最多、最古の埋蔵銭の発見だった。 宮坂さんによると、裏庭の石垣を積み直すために、シュロの根株を掘り起こした時、子どもの頭大の石を三つ発見した。取り除くと、古銭がびっしり埋まっていたという。重くてスコップではすくえず、深さ一メートル半まで、手ですくって掘り出した。「埋め戻そうかとも思ったけれど、せっかく日の目を見たのだから、とセンターに連絡した」と妻の三千枝さん(七一)は振り返る。 古銭の大半は中国からの渡来銭で、紀元前一八七年の八銖(しゅ)半両から一三一〇年の至大通宝まで八十七種類あった。奈良時代の和同開珎や渡来銭を模した日本製の模鋳銭も含まれていた。現在の貨幣価値に換算すると三百万円前後といい、南北朝中期、二ノ瀬地域で活発な経済活動が行われていたことを裏付ける。 時代が動乱の南北朝、場所が北から都に入る重要ルートの鞍馬街道沿いとあって、埋蔵銭はさまざまな憶測を呼んだ。「都落ちし、この地に隠れ住んだ武士が軍資金としてためていた」「村の有力者が備えにした」という説が有力だが、梶川さんは「銭に汚れを託して身を清める、さい銭と同様の習慣も捨てきれない」と話す。 二ノ瀬地域には、いくつか焼け寺があり、山中には大きな屋敷跡も残っているという。古い文献がないだけに、埋蔵銭出土は、地域の歴史への想像をかき立てる。(社会報道部 松田規久子) 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 漆原の唐銭
大川橋から宮津へ抜ける岡田上漆原の小字的場で、昭和十五年三月十九日耕作道路を工事中、白髪神社の北東から中国の唐、宋の古銭が多く発掘された。 開元通宝 三 唐 元豊通宝 一 宋 淳化元宝 一 宋 元裕通宝 一 〃 咸平元宝 一 〃 政和通宝 二 〃 祥符元宝 一 〃 淳煕元宝 一 南宋 天聖元宝 一 〃 紹定通宝 一 〃 煕寧元宝 二 〃 こうした古銭は、岩屋の雲岩寺と竹野郡函石浜遺跡より発掘されたほかは丹後では例をみない。どうしてこのような僻地に中国の古鈍が埋められていたのかわからない。ちなみにこの近くの地名に殿段、上の奥、堂屋敷、地蔵田、城屋、久保田などというのがある。
かつて海軍が海岸を埋め立てたのがよくわかる。海抜5メートルまでを濃い水色にしてあります。緑色は10メートルまで。
(切山古墳とその組合石棺)
…平成四年、市役所の別館建設工事で郷土資料館と石棺の再移転が決まったのを契機に、もう一度この石棺について詳しく調べることになり、京都府北部の地質の第一人者、京都大学理学部名誉教授で府文化財審議委員や財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事を務められていた中沢圭二先生によって石棺の石材鑑定がおこなわれました。 その結果、石材は舞鶴市内では産出しないもので、宮津市江尻から伊根町にかけての海岸線や福井県高浜町の内浦湾の海岸にみられる「流紋岩質の凝灰岩(火山灰が流れて堆積したものこ製であること、堆積の年代は、新生代第三紀中新世前期から中期(約二千年万年前〜千五百万年前)であること、石材の表面にゴカイのような生物がはいまわった「生痕」が見うけられることから、海岸近くの浅い海底で堆積したらしいこと、海岸から切り出す際には地層にそって切り出されたことなどがわかりました。 つぎに、石棺の形式や京都大学の考古学教室に保管されている出土品について、府立丹後郷士資料館の細川康晴技師(現府文化財保護課技師)に鑑定を依頼しました。 石棺は、丁寧に面取りした六枚の石材で構成される「組合せ式石棺」です。組合せの方法は、まず、底板石を置いて小口となる短側板石を外側に立てます。つぎに二枚の長側板石で短側板石を左右からはさむように立て、その上に大きな蓋板石を置くと石棺が完成します。 この形式の石棺は、大王の石棺といわれる畿内の長持ち形石棺の影響を受けたものとみられ、青龍三年鏡などの中国鏡が納められていた弥栄町の大田南五号墳や岩滝丸山古墳の石棺とともに京都府北部最古形式の組合せ式石棺に位置付けられるものです。 切山古墳の年代については、墳丘が自然の丘陵を楕円形に整形したもので埴輪や葺き石などがみられないこと、石棺を納めるための穴が巨大なこと、石棺を覆う粘土の上からみつかった土師器壷の形状、棺内の鉄鏃セットの形状、欠けた銅鏃を副葬する点などから、 古墳時代前期中頃(西暦三二五年〜三五○年前後)であることが明らかになり、舞鶴市の歴史を考える上できわめて貴重であるとして、平成四年十二月、舞鶴市指定文化財(考古資料)に指定されました。 古墳の被葬者 古代の伊佐津は、西舞鶴湾の海が奥深く入り込んだ入江港であったとみられ、港を見下ろす丘陵頂部に切山古墳が築かれたのです。古墳の被葬者は、丹後地方の勢力や畿内の勢力とも関係をもち、西舞鶴平野一帯で勢力を誇っていた人物と考えられます。 [吉岡博之] 『広報まいづる』(97.3)に、 *ふるさとの文化財と伝承*第3回*
*切山古墳* *府北部で最古級の組合式石棺* *被葬者は女性か* 昭和二十六年、伊佐津川沿いの境谷地区での土取り作業中、石棺が見つかりました。調査の結果、六枚の板状の石を組み合わせた組合式石棺で、四世紀中ごろ(古墳時代前期)に築造された京都府北部では最古級の古墳と判明。付近一帯の通称名”切山(きりやま)”から”切山古墳”と名付けられました。 古墳の被葬者は、どのような人物だったのでしょうか。 【″伊勢の津″と呼ばれた海】 発見された場所は、調査後に地形が改変されたため、今では古墳そのものは残っていませんが、西市街地を一望できる小高い丘の上です。 築造当時、現在の西市街地付近は、これまでの調査などから海が深く入り込んでいたことが明らかになっています。 西地域は伊勢信仰を表す真名井や天香山(愛宕山)などの地名や、古い神社祭祀が残っていることから、”伊佐津″は西地域の海をさす古語”伊勢津”が後年なまったものではないか、といわれています。 【朱塗りの棺】 石棺に使われた石材は、凝灰岩を加工した丹後半島産のものであるほか、棺内の全面には、長(おさ)(権力者)を示す朱が塗られていました。石棺の中からは頭がい骨の一部のほか、鉄剣、鉄鏃、銅鏃などの副葬品も発見されました。 また、後にこの頭がい骨を見た医療関係者から、被葬者は女性といううわさがささやかれてきました。 【海と西地区一帯を支配】 古墳築造当時の地形や出土品などから考えると、被葬者は古代丹波の中心であった今の丹後地方の支配者の一人とみられます。しかも、四世紀の中ごろという時代からみて、支配者は女性であった可能性もあり、眼下に見下ろす海とその周辺一帯を祈りによって治めていたのではないか、とも思われます。舞鶴にも、邪馬台国の卑弥呼のような女王がいたのかもしれません。
*由良川考古学散歩146*
*死者は赤く眠る* これは、福知山市広峯15号墳の埋葬施設が発掘された時の写真です。ほら、かの有名な景初四年銘鏡などが顔をみせていますよね。でも今日はそれら副葬品の話ではないし、そこに葬られた人物は誰か、という話でもありません。 埋葬施設それ自体、特にその色が問題なのです。カラー写真なら一目瞭然なんですが、そうもいかないから、頭の中で彩色しながら話を聞いてください。 赤いのです!何がって、墓壙の中が。鏡などがある墓壙の底面、そこは本来、遺体の横たわる木棺の底面だったのですが、そこが鮮やかな朱色をしているのです。これは、そこの地山が赤土だったとかいうことではなく、明らかに彩色されているのです。そうです、赤く塗られた木棺が納められていたんですね、もともとは。長い年月が経過する中、遺体や木棺は腐って無くなったわけですが、赤い塗料は地面に沈着して残った。まさにその状態なのです、この赤い墓壙の状況は。 このような赤いお墓(朱塗りの埋葬施設を有するということ)は、ほかにもあります。広峯15号墳と同じ駅南の古墳群の中では、寺ノ段2号墳もそうでした。その四基の埋葬施設のうち一基では部分的ではあったがやはり赤かった。ほかに、福知山市内の例を挙げれば、八ケ谷古墳第3主体部、稲葉山9号墳第1・2主体部、これらは石棺が用いられていましたが、石の内面は赤く塗られていたのです。また、武者ケ谷1号項の第2主体部、これは一風変った石室のような石棺でしたが、この蓋石の内側も赤く塗られていました。 ところで、これら棺の赤色の正体は何なのでしょうか。その多くは「朱」と呼ばれるものです。朱すなわち硫化第二水銀(HgS)、水銀朱とも言います。天然おものは「辰砂」と呼ばれ、縄文時代より赤色顔料の代表として使われてきました。特に弥生時代から古墳時代にかけて墓の棺内の彩色として重要視されていたようです。棺材に塗るだけではなく、遺体そのものに散布したり、塗布したりもしました。もちろん、すべてのお墓が赤くなっていたわけではありません。彩色していない棺も多くみられます。でも、地域の有力者と思しき立派なお墓ほど棺内は赤く赤くなっていくのです。王墓クラスともなると真っ赤ですよ。 死者は赤く眠る−。なぜこんなことをしたのでしょうか。朱には防腐効果があり遺体の保存に有効らしいのですが、そのわりには、広峯15号墳のように遺体など完全に消え失せてしまっている場合が多く、疑問ですね。むしろ、呪的というか精神的な要素が強いのではないかと言われています。なんてたって、赤い!ってことは、見た目にも強いインパクトを与えますからね。 原始・古代から、赤い色は祭祀や儀礼の場にはなくてはならないものだったようです。墓の棺内だけではなく、装飾古墳や寺院の壁画などにも用いられたし、神殿や寺院の建物自体を赤く塗ったりしました。また、赤色顔料としては、朱のほか、ベンガラすなわち酸化第二鉄(Fe2O3)もあり、これも古くから用いられました。更に、丹すなわち四酸化三鉛(Pb3O4、鉛丹ともいう)もあります。古代では、これら三種の赤色顔料を巧みに使い分けたようです。 ともかくも、赤は精神を高揚させる色に違いありません。だから、弥生墳墓や古墳などを発掘していて、墓壙を掘り進んで行くうちに、それがだんだん赤く赤く輝いていく、なんてことになると、これは発掘している側も大いに精神が高揚し、胸の鼓動が高鳴るのを禁じ得ないのです。 (近)
《シラ》系統の地名で新羅系だということがもっともはっきりしているのは、いうまでもなく、備前の
新羅訓が「白国」になり、新羅が「志楽」あるいは「新座」になっているのをみても分るとおり、この「新羅」という地名もまた、「加羅」や「加耶」・「安羅」などと同様、八世紀以後にぞくぞくと抹殺されていったものと思われる。しかし、それでも、地名そのものを消し去ることはできないので、「シラ」の音を頼りに尋ねれば、その多くは復元できるのである。 そこでまず、新羅系であることがかなり確実なものから挙げてみると− 越前・南条郡の 越前・敦賀郡の白木浦・白城神社。 丹後・加佐ノ郡の 三河・ 遠江・浜名郡の白須賀。 羽前・最上郡の白須賀。 武蔵・入間郡の白子。 加賀・能美郡の白江(のち白木村)。 越中・ 筑後・八女郡の白木村。 肥後・ 能登・鹿島郡の白比古神社・白浜。
新座(ニヒクラ・シンザ)郡
明治二十九年、北足立郡へ併人す、然れども地勢荒川の西方に居りて、全く北足立郡と水を隔て、東京より川越に往来する交通にあたり、当然入間(若くは北豊島)郡の属とす。故に本篇は之を入間郡の首に掲ぐ。面積凡四方里、二町七村、人口二万余。又郡内保谷(ホヤ)の一村は、形状北多摩郡の域内に挿入するを以て、彼郡に係けたり。 国都沿革考云、新座郡は古の新羅(シラギ)郡なり、延喜式、新座に改む、初め「天平宝字二年八月、帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉」「宝亀十一年五月、武蔵国新羅郡人、沙良莫熊等二人、賜姓広岡造」按、新羅改称の事、史に見えず、然れども和名抄新座郡二郷、志木(シラギ)、余戸あり、今白子村土人シラクと唱ふ、即志木の地にして、新羅の遺名なり、或曰、志木蓋志楽の誤ならん、木楽の草書、頗相似たればなり、又郡人沙長英熊等に広岡造の姓を賜ふ事は、其東隣豊島郡に広岡郷あるに因るなり、是亦新座は新羅の改称たるを証すべきなり。○新風土記云、新座郡は和名抄爾此久良と註す、中古よりは仮借して新倉とも書せり、斯て近代に至り新倉村の人、己が村は郡の本郷なりとて、余の村をばおとし、其はては諍論を起し訴へけるより、時の代官郡名の字村名と同字を用ゐし故に、頑愚の民かゝる僻事をいひ出すをれとて、倉の文字をば座の字に改められしとつたへたれど、その年代は詳ならず、元禄頃の事にや、それよりして唱も区々に別て、東南の方にてはニヒクラとも唱へ、又ニヒザとも云ひ、西の方高崎領の辺にてはシンザと唱ふ、かく古を失ひしかば、土人己がままに混乱したり、然るに享保二年、郡名の唱を定められ、今はニヒザと唱ふることゝはなれり、中古まで此辺は武蔵野の末にて、茫々たる原野なれば、其比は今の斯倉、白子の数村の他のみ民家ありと見ゆ、延喜式にも五十戸より以上、隣郡に附しがたき地は、別に一郡を置れし由見えたれば、此地撮爾たる村里なれど、地理に依りて一郡とは定められしならんか、郡内街道一条あり、江戸より川越への通路にして、僧日蓮佐渡国へ配せられし時、武蔵国に至り久米川(クメガハ)の地より新倉をすぎ、日をへて児玉時国がもとに宿せし由、其年譜に見えたるは、こゝに云へる古街道のことかや。 桧山巡覧志云、新座村白子宿、土人はシラクといふ、古の新羅郡なり、類聚往来の武蔵国部名の所に、新座郡となくて、新羅とあり、是は何によりて記せしや、古書になき事を、わづかに此書を以て証となしがたし、只後世の書に出たるが珍しければしるすのみ、但ししひて説をいはゞ、新座は新羅の転たるにや、さらば新座と書たるより、文字につきてにひくらと唱しか。○今按、新羅を新座と改められしは、高麗を高倉と改められしと同例にて、続紀、姓氏録に高麗氏を高倉に改められしこと見ゆ。但し当国高麗郡は此例に人らずして、依然高麗と唱へ来れり。又国史に、新羅人を武蔵国に配置せられしは、持続紀を初見とし、聖武帝の時、天平宝字二年郡名を建てられ、四年には「置帰化新羅一百三十一人於武蔵国」、五年には「令武蔵国少年二十人、習新羅語、為征新羅也」とあるなど、盛況想ふべし。清和紀、貞観十二年、新羅人情信、鳥昌、南巻、安長、金連等五人を当国に移されしに、同十五年、新羅人中、金速以下三人、逃隠しければ、京畿七道諸国に令して捜捕の事見ゆ、其後は帰化安置の事を開かず。 埼玉県村名認云、新座郡は合て一駅、一町、廿三村なり、凡南北三里余にして、面積四方里六あり、其地武蔵野の東端に際し、平坦高燥、多くは水に乏しきを患ふ、故に承応年中、松平信綱の家士安松金右衛門、多摩川の水を分ち、七里余の溝渠を鑿ちて飲水に供す、此末流野火止(ノビドメ)を経て志木(シギ)宿に至り、百余間の筧を架し、内(ウチ)川を渡し、入間郡村々の水田に漑ぐ、民業は農を専務とし、産物は米、麦、蕃薯、及び蔬菜、花夲、多く東京に輸送す。 補【新座郡】○和名抄郡郷考、爾比久良、○松山巡覧志、新座村白子宿、立義云、土人はしらくといふ、里老云、武蔵に新羅郡といへる有しが、いつのほどにか絶たり、此辺其しらぎ郡のあとなればしらぎと云しがいつしか転じてしらくと唱へ、文字さへも改りしと云、按に統紀天平宝字二年帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡焉。四年置帰化新羅一百三十一人於武蔵国。又宝亀十一年武蔵国新羅郡人沙良真熊等二人賜姓広岡造。右の如く見えたれど、はやくより廃れたるにや、民部式に載たる郡名の内に見えず、其後の和名抄拾芥抄等にも不見。 志楽(シラギ)郷 和名抄、新座郡志木郷。高山寺本、志末郷。○今按、志木、志末は共に楽字を草体に書せる者、末に近似し、木に近似するを以て、魯魚焉馬の誤を招ける也。即今の膝折村新倉村、白子村の辺にて、豊島郡に近接する方ならん。 新風土記云、志木郷は五音の相通なれば、シラキと云ふを、中略してシキとせるならん、此説牽合に似たれど、そのかみ郡内多くは未開の地なれば、其所在は実に白子宿の辺なるべし。 補【志木郷】 新座郡○和名抄郡郷考、志木、今按、志木は志経木なりしを二字にしたるか、郡名の新座も新羅の転り、新羅郡の事上に続紀を引て云り、又持続紀元年夏四月筑築太宰献投化新羅僧百姓男き二十二人、居于武蔵国、賦田受稟、使生業。続紀天平宝字四年関月置帰化新羅一百三十一人於武蔵国とありて、郷名も郡名も是より出たるをるべし、又宝亀十一年五月武蔵国新羅人沙良真熊等二人云々ともあり、○行嚢抄、江戸板橋の出口より川越城下に趣く道に四楽、根利聞より二里、或は白子とも云、四とある四楽はシラクまた白子とも云はシラコにてシラクもシラコも皆シラキの転訛なり。 白子(シラコ) 今白子村と云ふ、新座郡の東界にあたり、豊島郡赤塚村と一溝(矢(ヤ)川と名づく)を以て相隔つ。 板橋駅へ二里、川越へ六里、北方荒川の岸を去る一里許、小駅家とす。 行嚢抄云、江戸より川越に赴く道に、四楽(シラク)村あり、白子(シラコ)とも云ふ、共に新羅(シラキ)の転なり。新記云、吹上(フキアゲ)観音堂(白子駅の北半里にあたり、下新座と云ふ)は境内六十間四方、本堂八開、束向の精舎なり、元亀二年鋳造の鰐口あり、祭日には遠近の男女群集市をなせり、是を吹上の市といへり、縁起に載る所は、天平年中、行基巡化ありし時、土地の形仏法繁栄の相ありとて、天竺の椋の木にて高八寸の観音の立像を彫刻し、赤池の側に一宇を建て安置せり、後多くの年歴を経、普明国師東明寺を開基し別当とせしとぞ、今の本堂は近年の再興なり、此堂前より荒川の左右を望むに、青山に眼を遮り、帆舟木の間をすぐるさま、頗佳景の地也、小田原北条の時代は、此村代々実に守護地頭不入の地たるよし、其頃の文書に見えたり、今は駅家ありて、人家軒を並べたり。○白子駅南の小寺の境内、一樫樹ありその皮肉の間に挿入する所の石器ありて、四五寸許を露出す、石器は謂ゆる石棒の類とす。 補【白子】○人類学会報告、白子村福寺の石棒は本堂に向ひて左の方丘の山樫の洞に在り、木質成長して棒を覆ひしが故に充分に形状を見、寸尺を測ること能はざれども、用石は常の如く緑盤にして、上方の珠は高さ二寸直径二寸、木より顕はれ出でたる胴の長四寸七分あり、此石器を掘り出せるもの、戯に木に挟みたるが終に取れざる様にをりしなるべし。 新倉(ニヒクラ) 今新倉村と云ふは、上新倉にして、下新倉は白子へ併人す、吹上観音堂(下新倉)の西に迫り、膝折村根岸(ネギシ)の東とす。 水月古鑑曰、武蔵国新倉郷七百貫事、右可領知、亡父蔵人依忠節、本領永不可有相違、仍執達如件、文保元二月十八日、吉良亀松殿、源朝臣。 新記云、新座村は新座郡の根本の郷なりと、新羅王の居跡なりとて、牛房(ゴバウ)山の上にわづかの平地あり、又当村に山田、上原、大熊など氏とせる農民ありて、祖先は新羅王に従ひ来れりと云ふ、されば此山名ももと新羅王の居跡より起りたる事なれば、御房山など書くべきを、何時の頃よりか午房の字にかへしならんと、是も村老の説なり、国史、「持続紀元年四月、筑紫大宰献投化新羅僧尼及百姓男女二十二人、居于武蔵国、賦田受稟、使安生業」といひ、又四年二月、帰化新羅人韓奈末許満等十二人を、この国に置かれしことあればこの居蹟と云ふは、もしくはこれらの人をりしにや、されど外に拠もなければ詳なるを知らず、又此村に朮(ウケラ)庵といふ草堂あり、土人の伝へに、此辺は武蔵野の内にても、別きて其名をウケラ野とて、朮の多く出せし所なれば、古きを失はじとて、かく庵の名とせりと、覚束なき説也、万葉集東歌の武蔵国歌九首の中にも、「こひしけば袖もふらむを武蔵野のうけらが花の色にづなゆめ」是等の事を以て、かゝる名の起りしなるべけれど、古き事にはあらざるべし、されば此求朮など云へるも、近き世の唱なるべし。 志木(シギ) 今志木町と云ふ、人口三千、旧称館(タテ)村また引又(ヒキマタ)町と云へり、明治の初年に志木宿と改号し、尋いで志木町と為す。志木とは和名抄に志楽郷を志木郷に謬れるに困り、近世説を為して、志木は志良木の中略なりなど云ひ出て、遂に志木の名称を転借したるなり。野火止の北一里、柳瀬川の新河岸川へ会する東南岸に在り。航路より云へば、東下一里半にして荒川に入り、更に一里半にして戸田渡に達し、猶五里にして隅田川に達す、又北上二里半にして、川越新河岸に至る。
小路田泰直氏の「第四章 地域史の通史的把握の試み」に、こんな面白い説がある。 「湯」の地名
『記』『紀』にのこされた丹後出身者の名前が、まず古代の丹後が金属工業ときわめて密接にむすびついた地域であったことをしめしてくれているのである。 そして金属工業の存在をしめすキーワードが「湯」だとすれば、丹後にはいくつか「湯」のつく地名がのこされている。とりわけ加悦町温江にのこる「湯の谷」「湯舟」の地名は、ちかくに古来栄えた式内社(明神大社)大虫神社・小虫神社の鎮座する場所のあることともからんで重要である。「湯」が「油」になり、「油」が「由」になったと考えればその関連する地名の数はさらに増える。そうしたことも丹後が古代以来金属工業の集積地であったことを、証拠立ててくれている。つけ加えておけば、壮大な青銅器文明を生み出した「殷」(中国の王朝)の初代が「湯王」であったことなども、この「湯」という字のキーワード性をしめしているのではないだろうか。 註 「油」のつく地名には、京都府では舞鶴市油江(ゆご)・夜久野町大油子(おおゆご)・久美浜町油池(ゆいけ)、兵庫県では香住町油良(ゆら)・氷上郡氷上町北油良・南油良・御油(ごゆ)・油利(ゆり)・加西市油谷(ゆだに)町などがある。 また「由」のつく地名には、京都府では舞鶴市高野由里・宮津市由良、兵庫県では養父郡大屋町由良・朝来郡朝来町伊由(いゆう)市場などがある。加悦町内にある「湯舟」(温江)「由船」(金屋)「由里」(金屋)「湯利」「由利」「ユリ」(滝)といった同音異字の小字名の存在から類推するとき、やはり「湯」=「油」=「由」の等式は成り立つような気がする。だとすれば「由良」=「油良」は「湯浦」、「油江」=「油子」はーそして「湯利」「由利」「由里」もー「湯凝(ゆごり)」の変化したものといった類推は成り立たないだろうか。丹後を起点に由良川・円山川・加古川を媒介に広がる古代の鉄の道がその類推から復元可能となる。 ユゴという地名はこの二つしか知らないが、ユウゴという小字が中郡大宮町周枳にある。大油子と鉄の関わりについては『西丹波秘境の旅』が早く指摘している。次にそれを引かせてもらった。少し長いので勝手にあちこちを切り取らせて頂く。 『西丹波秘境の旅』に、 (大油子)
大油子をめぐる古代製鉄とコンビナートと丹後の遠所 … 大油子と由碁理 … ところで、遠所遺跡と軌を一にするような製鉄遺跡が、由良川を遡った西丹波の夜久野にあるのは? さて、その地名を大油子(夜久野町字大油子)という。以前訪れたときには、「オユゴ」という妙な地名に、奇異感に打たれたのであるが、筆者には丹後古代の「由碁理」のことが頭にひらめいたものである。そのあとすぐ、その近くの上夜久野荘に二泊して、再度調査したものである。たしか夜久野郷土資料館にもその展示はなく、夜久野町教育委員会の『京都夜久野文化財』の栞にも「荒堀遺跡」という地名があるのみ。『京都府の地名』(日本歴史地名大系26、平凡社)にも、製鉄の記事は全くない。夜久野町教育委員会に問い合わせてみても、詳細は不明であるとのこと。いまだ正式に京都府の製鉄遺跡には指定されず、市民権をもっていないようである。 その大油子は、JR上夜久野駅のすぐ東方、板生(いとう)川と直見(のうみ)川が合流して走る下流あたりに大油子集落がある。その源流には鉄鈷山(カナトコとは金床・金敷ともいうが、鉄などの金属を鍛える土台のこと)や居母山(鋳母(いも)は正確にはヒ(けら)のことで、タタラによる鉄の粗製品のこと。刃物の原料として母なる鉄の意があり、前述のように芋の字を書くこともある。居母山一帯は山麓に赤土を露出した花崗岩地帯で山砂鉄を含んでいると推測される)や金谷、金尾などの地名もある。なお直見川の源流丹後との境界には、才(さい)谷という集落がある。「サイ」は鉄の古語「サヒ」に通ずる。そこはまたおそらく塞の神(道祖神)を祀った集落でもあろう。サイにはサカイ(境)の意で他国から病魔などの侵入を防ぐため六地蔵や道祖神などを祀ったのである。京都南部の六地蔵がそうであり、『遠野物語』(一一三)にジャウヅカとして境の神を祀り、また京都北山の薬師峠にも六地蔵を祀っている。 さて『京都夜久野文化財』をみて、大油子荒堀遺跡があるというところがどうも気にかかって仕方がない。 このあたりには縄文時代早期から鎌倉時代にかけて、各地に土器や石器類、土製品、石鏃類、玉類など多数出土している。また古墳時代後期の竪穴式住居跡も確認(昭和五五年)され、長期にわたって人々の生活の場として利用されてきたところといわれている。 大油子を歩いてみた感じでは、同地区の南方入り口あたりは、長年の河川浸蝕による開析と、近年の圃場整僻事業にともない整地され、平板な新しい道路もできて、古代の様子は全くわからない。しかし、ここには製鉄製品の倉庫や木炭貯蔵所などがあったのかもしれないが、洪水などによる異変で洗い流された可能性は十分考えられるのである。 しかしオユゴといえば、筆者には前記荒堀遺跡とかかわってピンとくるものがある。オユゴとは「オユゴリ」(お湯凝り)の転訛したものであろうと。オユゴという地名から考えると、板生川と直見川の上流地帯が、花崗岩の砂鉄地帯であり、再度いうが、前記の鉄鈷山や居母山・金谷・金尾などの山名や集落名は、一体何を物語るのであろうか、と探究心が頭をもたげてくる。 さて「ユゴ」といえば、まず想起されるのは『古事記』にいう丹後の大県主由碁理のことである。由碁理−竹野比売−比古由牟須美王−と系図は続く。『日本書紀』では由碁理−丹波竹野媛−彦湯産陽命−丹波道主王の系譜伝承がある。ここにいう「湯」(由)は、当時における鋳鉄・鋳鋼技術の明確なる実在を立証できないという定説もあるが、「ユ」とは鋳鉄・鋳鋼に使う「湯」と考えられる。技術的にみても、弥生時代の鉄器はすべて鍛鉄であって、鋳鉄品の存在は知られていないという。 一方、鋳銅技術は弥生時代すでに立派に存在している。とすればわが国の鍛冶神として最初に現れた由碁理(湯凝)や由牟須美(湯産霊)は、鋳銅の鍛冶神であったのであろう。… … オユゴの製鉄が、鋳鉄であったか鍛鋳であったのかは別として、丹後の遠所のような一大製鉄コンビナートとしてのオオユゴリ地(大湯凝地)、略してオユゴになったことはほとんど間違いないのではなかろうか。 参考になる大油子の小字名 念のために大拍子の小字名を探してみた。採掘製鉄を思わせるそれらしいものが、かなりある。それは荒掘(あらぼり)・カネ田(でん)・深掘(ふかぼり)(2)・ユブネ(湯舟とも書くが、湯は鉄がとけた状態を指す語で、舟は熔鉱炉でタタラ炉のこと)・菅谷(すがたに)(2)・釜ケ谷(カマは古代朝鮮語で熔鉱炉を指す)・湯舟・斎ノ向(サイは鉄の古語サヒに通ずる)やコカジ(小鍛冶?)などである。(カツコ内の数字の例えば2とは二カ所あることを示す)。ちなみにスカ・スゲとは砂鉄のことで、出雲にも簸川源流に古代製鉄地の菅谷があり、丹後半島筒川の源流地にも同名の集落がある。ついでにいうと、大油子にはないようであるが、藤原の「フジ」は産鉄民によくつく名前である。これは砂鉄をとる鉄穴流しに、藤の枝が用いられたことから考えて、産鉄民を象徴するのである。また芋掘藤五郎にちなむ藤井姓は花背別所から峠を越えて上賀茂・柊野、また別所から東に峠を越えた安曇川流域に多い。またプロ野球阪神球団の売り出し投手、湯船なる姓もタタラ炉にゆかりがあり、単に温泉のユブネではあるまい。 以上の小字名などから考えて、板生川と直見川の流した砂鉄が堆積した菅谷のカネ田のアラガネ(砂鉄)を浅くまた深く掘り下げて採掘し、タタラのフイゴを踏んで、三日三晩一代(ひとよ)六六時間から六八時間)の激しい労働のすえ、湯舟のごとく流れ出る熔融鉄を金池(カネ田)で冷やして製鉄して鋳母(いも)鉄を造り、それから鍬や鋤を造り出す(タタラ製鉄は二・五トンの鉄を造るために、一三トンの砂鉄を必要としたという)。 *島根と広島の県境近くに比婆山があるが、比婆とはタタラ炉を指すという「火場」の意であろうか。 *むかしから「砂鉄七里に炭三里」という言葉がある。砂鉄は掘った場所から七里運んでも勘定にあうが、炭は三里以内に運べないと採算がとれない。だから砂鉄はタタラ炭の採れる近くに運ばれるのが原則である。まして川に流して溜まった川砂鉄と炭焼き釜のあった大油子がセットになって至近距離にあれば、その製鉄能力は抜群であるといえよう。さしずめ炭焼き釜で作った木炭の貯炭所は、菅谷と湯舟の中間地点が最良である。 *炭焼き長老伝承も、多量に炭を消費するために購入してくれるタタラ師や鍛冶師の存在がなければ成立しない伝承である。 *タタラといえば、高村光太郎の『智恵子抄』で、光太郎が妻の智恵子に「あれが、阿多多羅山(安達太良山)で、あの光るのが阿武隈川」と教えたアダタラを想い出す。 ところで、この熔鉱炉作業は、洋式鉱炉の導入以来だんだんすたれ、いまでは全くみられなくなったが、その技術の廃絶を惜しんだ日本製鋼協会が、昭和四四年秋、島根県飯石郡吉田村菅谷でタタラ製鉄の復原を行い、その一切を岩波映画が記録に撮った。またその作業記録をさらに山内登貴夫氏が、『和銅風土記』という本にまとめた。いま米子に和銅製鋼所がある。筆者も先年、菅谷・横谷を訪ね、タタラなどを実見してヒ(粗鉄)をもらったのを思い出す。 いいたいことがたくさんあって文脈を忘れがちであるが、さきに触れた三日三晩一代というのは、三昼夜がつまり一代を指すことであり、タタラ師たちが三昼夜連続作業で鉄を吹き出すことをいうのであるが、それは『古事記』に、コノハナノサクヤヒメ(おそらくハナは火花とか初花などのハナで産鉄神を指す)が、天孫ニニギノミコトを一宿(ひとよまぐわひ)(一夜)して妊み、疑われて「戸無き八尋殿」にこもり、火をつけて子を産み、「火の盛に燃ゆるときに生める子の名はホデリノミコト(海幸彦)、次に生める子の名はホスセリノミコト、次に生める子の御名はホオリノミコト(山幸彦)」とあるのや、神武天皇がヒメタタライスケヨリヒメ(古名ホトタタライスズヒメというセックスを連想する名前)と一宿(一夜)御寝して子を妊り三子を産むのと同工異曲で、深く製鉄のタタラとかかわりがあるのは興味深いことである。 大油子製鉄の重大性 さて、地名は一〇〇〇年たってもその八割ぐらいは残るというが、タタラ製鉄地大油子の製鉄の始源はわからない。しかし、仮にこれを鉄の世紀といわれる五世紀ごろまで遡るとすれば、古代の国家権力を考察するとき、製鉄のありようを抜きにしては考えられない。五世紀ごろといえば、やはり私は丹後半島の遠所を想い出す。夜久野(夜久野の宝山はタタラ山であろうが?)に近いこのあたりも丹波であって、天火明命を祖と仰ぐ大丹波王朝(丹後・但馬も含む)の勢力範囲に入り、その勢威は、あなどり難く、大和政権と拮抗していたと考えられるのではなかろうか。したがって大油子をめぐる由良川の攻防戦は両政権の雌雄を決するエポックであったことも想像されるのである(大和政権がわには物部軍団が動いた)。また五世紀というのは、朝鮮半島の国々においても、紛争に明け暮れ、またわが国もその中にまき込まれようとした重要な時期であった。雄略を中心にした五世紀中ごろは内外共に多難なときであるが、綾部で最近発見された私市円山古墳の築造も五世紀中ごろで物部軍団が中心をなしているようである。この被葬者を物部の武将とすれば、大油子をめぐる攻防にも一役かっていることは重大であると考えることもあながち無理ではない。『海からみた日本の古代』(新人物往来社)をみても、おおまかにいえば、日本の古墳から出土する短甲などの武具に例をとっても、かなりの数が朝鮮半島製であるという見解も附されているが、技術改良を加えた日本製のものも相当あったにちがいない。弥生時代から古墳初期には、鉄素材の大型板状鉄斧や鉄テイどは、中国や朝鮮半島から輸入していたが、(鉄テイなどは玄界灘の海の正倉院といわれる沖の島にも遺されているが)古墳時代後期ごろには、わが国で砂鉄などによるタタラ製鉄が行われていたのは間違いない。 いまのところ、わが国最古の製鉄製錬遺跡は、北九州市小倉南区の潤崎遺跡が、鉄滓と伴出する土器類によって五世紀後半ごろといわれている(『鉄の古代史』白水社)が、丹後の竹野川畔の遠所遺跡は五世紀まで遡る可能性もあるという。西丹波の大油子もこのこととかかわりがあるとすればことは重大で、大油子の重要性が俄然クローズ・アップしてくるのであるが、さてその異相は模湖として、深い霞の奥に隠されている。しかし、このころになると農業社会における製鉄の重要性も再評価され、漂泊・放浪を繰り返していた積年の海人たちも、また褒貶の対象となっていた人々も、ようやく有徳人として定住するようになったのであろうと推測されるのである。それが有徳人として鎌倉権五郎景政を祀る有徳社が西丹波の各地に散在するゆえんであろう。 大油子再訪 ところで、再度、大油子を訪れたのは一九九三年六月一九日のことである。昼過ぎ上夜久野駅を降り、北風に誘われながら、駅前の街道筋を下った。何だか少年期のやるせない強い臭いが鼻をうつ。栗の花のあの臭いである。男性なら誰でも経験のあるあの臭いである。そういえば、いま丹波は粟の花まっさかりである。このあたりもどこに行っても粟、粟、栗。 牧川にかかる広瀬橋を渡ると、道の左側に大油子の玄武岩の岩塊が日に入ってくる。地質時代の地磁気の移動や逆転から、明らかにされた夜久野玄武岩地帯の一つである。夜久野の小倉にも、前面に水を湛えた見事な玄武岩があって有名である。 大油子の小字名のうち、菅谷と湯舟を土地の人にきいてみると、大分みちのりがあるとのこと。丁度通り合わせた年配の男性に都合よく案内されて、車で右手にある浅い菅谷と、その源流地にある湯舟谷の入り口まで訪ねることができて大満足。厚くお礼をいって大油子バス停まで送っていただいた。 ところで大池子の小字コカジ(小鍛冶)の入り口の丘の上に、喜代見神社がある。きくと祭神は大国主命とのこと。大国主命は大己貴命(大きな鉄山持ちの貴人)、大地持命ともいうが、その原義は大穴持神(大きな鉄穴持ちの神)で、やはり鉱山神でもある。キヨミとはキヨミズ(清水)の転訛語であろうが、やはり製鉄で鍛冶の作業のとき使用する清水の湧くところと解したい。 帰りみち、歩いて夜久野高原上の大山キャラボクの真っ黒な火山灰地帯を通る。そこには見渡すかぎりまた栗の木が植林されている。速まわりしてその異臭をさけ、夜久野荘に着いたのはもう夕暮れどきであった。 ところで大油子製鉄の始源はわからない、しかし、もし仮に丹後王朝の滅亡した六世紀末ごろ、遠所コソビナート製鉄に従事した人々が、由良川を遡って地形をみきわめ大油子に拠点をかまえ、遠所コンビナートの技術を踏襲して製鉄を始めたとすれば、それはおよそ七世紀の初めになるのであろうが、その真相は丹波霧の彼方に隠れて判然としない。筆者が朝からさ迷い歩いた大油子の上流地を、風呂からあがって宿のテラスで微醸をおび丘の下を眺める。テラスの丘の下に大油子の家路を急ぐ車の明滅する光がさながら太古のむかしの夜久野火山の噴火や小油子製鉄錆鉱炉の火煙のそれと重なってくる。紫烟をくゆらしながら、快い陶酔感に身を任せたものである。 日本列島に居住する人々の生活を、原始から離脱せしめたものは「稲と鉄」の技術であったといわれる。新石器時代から鉄器時代、焼き畑農耕から水稲農耕への移行時代、鉄は絶対不可欠のものであったのは間違いない。鉄製品の鍬や武器(そこにはもろ刃の害も含まれるが)の人々に与えた恩恵ははかり知れないものがある。丹波の秋の山がひときわ美しいのは、山に鉄分が多いためだという。人情実にうるわしい大油子の晩秋、また訪れてみたいものである。 ユリという地名と金属が関係あるのかも知れないような昔話がある。 『丹波和知の昔話』(昭和46・稲田浩二編)に、 牛の恩返し
(長瀬 山口まつ) お爺さんとお婆さんとおらはってなあ、お婆さんがなあ、牛の好きなお婆さんやったやって、牛を飼うとったやってなあ。ほしたらなあ、身上が貧しいてなあ、食わすもんがよけい無いのになあ、お婆ちゃんが牛が好きなもんじゃざかい、何でもかんでも好きといっては牛にやらはるんのやって、餌を.ほしたら、お爺さんはそんなんかなんにゃけど、よけい食うもん無いさかいに、所帯が楽にないさかいかなんにゃけど、お婆さんやりとうてやりとうてかなんもんやさかい、隠してでも牛に精出いて食くさせはったやて。ほしたらなあ、あんまり牛に食べさせるもんやでなあ、お爺さんが嫌がってなあ、お婆さんに出て行け言わはったんやって。 「お前が牛にあんまり食べさすさかいに、うちがよけい貧乏するさかいに」。 ほしたらなあ、そのお婆さん、 「ほんなら行きます」言うて、お婆さんが荷拵えてなあ、風呂敷包み持ってなあ、ほして銘々の着替を……かど口へ出ようと思ったらなあ、入口のとこへ牛がちょこんと居ってなあ、ほいで横向けに寝て動けへんやって。ほんで牛に、 「どいてくれよ。わしはもう今までは置いてもうたけどここに、今日は『出て行け』ちゅうて暇もろたんじゃさかい、お前を、牛を、飼うちゃろやないさかいに、ほんでお前はここに幸せよう置いてもらえ。わしは出て行くさかいに」言うたら、牛がちょこんと垣しとってしやないもんじゃで、またげて出なしやないと思ってなあ、ほいで、 「ちょっとまたげさしてもらうで」ちゅうて牛が寝たもんじゃで、ほれをちよいっとまたげはったやって。ほしたら牛がなあ、むくんと起きてなあ、お婆さんがまたげたら、お婆さんを乗せてなあ、ほしてとことことことこ連れて行ったやって。ほいてどこまで連れて行くしらん思うたらなあ、山小屋の山の離れ家のとこになあ、一軒ゆりみたいなとこあるや。−昔はゆり言うよった。今はなんて言う知らんけど こう、道ばっかしのある、家の無いとこがなあ−そこに小っちゃい家が立っとったてや。ほいてそこんとこまで行ってなあ、ほいてちょこんと牛がおりくんで股へくっとやって、ほんで日が暮れたなり、お婆さんしやないさかい、そこ降りてなあ、ほいてその家に、今夜泊めてもらおうと思うてなあ、 「今夜すまんけえど一晩泊めておくれ」ちゅうてなあ、 「ここまで、牛に連れてもろうて来たけえど、行くとこないし、どっこも行けんで日が暮れたでしやないさかいに」ちゅうて、ほいたらなあ、一人寡の、ひとりぽっちのおっさんが、一人おらはったやってなあ。ほんでなあ、そのおっさん頼んで泊めてもろうたらなあ、 「食べるもんは何も無いで、ようせんで」言うて、まあそのおっさんとこにちいと買うてあったもんをお婆さんが行って、そいつをまあ拵えて、食べさしてもろうて、その夜さは。ほいてしたら、そのおっさんが、 「お前来たんなら」そこんとこに、ちいとお金持つとったやって。 「これでほれで何も食うもん無いちゅうだで、これで米買うてきてくれえ」ちゅうて、お婆さんお金出したやって。食べるもん無いで。ほした、 「そんなもんか、そんなもんなら、このわしの炭焼きに行っとるとこにいっぱいある」ちゅうんやって、お爺さんが。そんなはずはないけえども、ほんでも、 「それ一遍見せて」ちゅうて、そんなとこにあるんなら、泊めてもうた明け日やで、 「それほんまか、一遍わし連れて見せてくれえ」いうて、言うたやてお婆さん。ほいたらそこへお爺さんが連れて行ってくれてなあ、ほいて見せてもろうたやって。ほいたら、壷になあ、−昔小判ちゅうもんを泥棒が埋けたんか何が埋けたんかそら知らんやなあ−いっぱい埋けたったんやって。そやけどそれが使えるもんやちゅうことは知らんもんじゃで、お爺さんはその小判を見たことないさかい。ほんで、それ貰うてはじめて、これこんなもんで米が買えるんちゅうたぐらいやで。ほいたらやっとお米くれて、まだ釣りようけくれはった。 「こんなもんならわしが行っとる山になんぼでもある」って、連れて行ってもうたやってなあ。ほしたらようけいあったやって、壷に、埋けてあったやって。ほいてそれを貰うて、持って戻ってなあ、そして幸せよう暮さはったんやって。 そいで人間は牛は大事に飼うちゃったらよいんやちゅう話や。 『おおみやの民話』(町教委・91)に、 ぴしゃどん
五十河 田上惣一郎 五十河の西山に、 この百合道は、西山全体がそうであるように粘い赤土で、雨が降ると、水はちっとも土の中に吸いこまれず、川のように流れる。 あるとき、あるもんがこの道を、雨のようふる昼下りに歩いとったら、ぴしゃぴしゃいう音がするだって。おかしいな思って、後をふり向いて見ると、なんだか黒い衣を着た、小坊主みたいなもんが、ついてくるように見えるだって。ふと足をとめたら、ぴしゃぴしゃいう音はきこえん。その黒いもんも見えんだって。それで、また歩きだしたら、ぴしゃぴしゃ、ぴしゃぴしゃいう音が聞えてくるもんで、また、後をふりむいたら、小坊主みたいなもんは見えん。また歩きだしたら、ぴしゃぴしゃ音がする。あんまり不思議に思って、あと見、ほて見しとったら、赤土の道にすべって、つるるどしんと、しりもちをついてしまったそうな。それいらい、西山には、「ぴしゃどんがでる」ということだ。
三重長者五十日真黒人
三重長者五十日真黒人の屋敷跡と伝えられる場所が五十河地区に数ケ所ある。 一、久住小字蔵住二〇九番地の畑地 この蔵住の畑地を五十日真黒人の邸跡と伝え、昔は二皇子が住んだので久住を皇住と称したという。(五十河村沿革誌)蔵住は久住村落の東南、川を隔てた山の麓の広い畑で、谷もあり水の便もある良好な屋敷地である。近年耕作中にこの畑から完全な須恵器三箇が発掘され、なお、現在も弥生後期から古墳時代の土器片か散布している。出土品は周枳に移転している水口与佚郎家に次の三箇の須恵器を所蔵している。 一、小型の壷一個 一、蓋形土器一個 一、甑一個 何れも完形品で真黒人の居住を裏づける有力な考古学的資料である。 二、久住の北側に刈安(かりやす)という谷があり、その奥の小高い丘の大半水田になっている所を古小屋(こごや)と呼び往古五十日頁黒人の邸跡と伝えている。現在の水田の潅漑用水も古の水路約七〇〇mを利用した水路であるという。丘の上は見晴らしも良く付近には住尻跡と考えられる山裾の段々などもあり、古久住の昔の部落らしい地形である。この丘の上に真黒人の邸があったと伝えるが、蔵住の如き出土品はない。 三、五十河に五十河谷という深い谷があり、約二q余り奥の谷間に石垣の跡の残る十坪程ずつ三段になった所があり、古来三重長者五十日真黒人の屋敷跡という。東側は岩石の絶壁で下に小川の流れる要害の地であり、北には山を負い、南及び西には石垣を作って防備を固めていた形跡が残る。背後の道は遠く世屋に通ずる。この付近には殿様薮という竹薮があり、又二皇子が牛飼いしたという「王子がなる」という台地もある。これらからこの地は真黒人が二皇子のために築いた隠れ家であったのであろう。 その他に五十河から内山に至る道の途中から味土野に通ずる道の傍の山頂に近い台地にも「長者屋敷」と呼ぶ所がある。この屋敷の大石の下に小判が埋められているという伝えがあり、昭和の初村人達が一m程発掘したが、小判はなく朽鉄のような茶褐色のもの多量と小砥石一個が出たという。やはり避難場所の一つとして作られていたのであろう。 このように数ケ所を三重長者の邸跡と伝えているが最も確実性の多いのは須恵器を出土した蔵住である。この有名な三重長者五十日真黒人の保護した億計(おけ)雄計(をけ)二王子の逃避事件について日本書記(顕宗紀)に次の如く書いている。(概略) 雄略天皇は即位前、父允恭天皇を殺害した仇眉輪(まよわ)の王を殺し、次いで、安康天皇が弟の自分をさしおいて履中天皇の皇子市辺(いちのへ)の押磐(おしは)の皇子を皇太子にしようとしていた事を恨みに思い、押磐の皇子を近江の蚊屋野に狩に誘い偽って射殺した。かくして雄略帝は帝位に即(つ)いたが、押磐の皇子の二子億計(おけ)(古事記は意富祇(おほけ)おほは長の意)雄計(おけ)(古事記は袁祇(をけ)をは幼の意)二王子は雄略帝の迫害を恐れて丹波の余社(よさ)の郡に難を避けた。従者は近侍の臣日下部の連使主(むらじおみ)とその子の吾田彦(あたひこ)の二人であった。与謝郡に釆て使主は変名して田疾来(たとく)といって身分を隠していたがなお探し出されることを恐れ、播磨の縮見(しじみ)の石屋(いわや)に逃げ入り首をくくって死んだ。雄計の王はこれを知らず兄億計の王をすすめて播磨の赤石郡に行き、二人とも変名して「丹波の小子(わらわ)」と名のり、縮見の屯倉の首領(おびと)に雇われていた。吾田彦はなお忠実な臣として従った。清寧天皇二年となり、播磨の国司来日部(くめべ)の小楯(おたて)が新嘗祭の供物を赤石の屯倉に持参し、ちょうど新築祝だったのでこれに参加していた。この時弟王は兄王に「難をさけて二〇余年にもなる。名をあかし身分を表わすのは今宵がよい。」と言ったが兄王はなお迫害を恐れてためらっていた。夜更けて酒宴はたけなわとなり二人は下部(しもべ)として外で篝火を焚いていたが、その二人の様子を見て屯倉(みやけ)の首領(おびと)は小楯に「あの下部は礼儀正しくなかなかの君子である。」と言った。そこで小楯は琴をひきながら火焚きの二人に舞を命じた。促されてまず兄王が立って舞い、ついで弟の雄計の王が立って新築視の詞を述べ、終って一首の歌をよんだ。小楯は面白いと思いさらに舞わせたので、雄計の王は歌をもって我らは市辺の押磐王の子であると述懐した。小楯は大いに驚き再拝して服従を誓い、郡民を召集して宮殿を造って二王子を移し、都に急報して王子達を迎えることを求めた。清寧皇はお子がなかったので大いに喜び皇太子にしようと言って、早速播磨の国司小楯を使とし節を持ち左右の舎人を従えて赤石に行き二王子を迎えた。かくて二王子が都に帰ったのは清寧天皇の三年正月であった。 その後清寧天皇の逝去に伴い弟の雄計王まず即位して顕宗天皇となり、ついで兄の億計王即位して仁賢天皇となった。(顕宗紀) 三重長者五十日真黒人の名は正史には見えないが、丹哥府志・丹後旧事記等に初めて見えている。 (丹哥府志)三重長老五十日真黒人 億計(おけ)弘計(をけ)の二皇孫父を市辺押磐(いちのへおしは)といふ。市辺押磐は履中天皇の皇子なり。安康天皇の崩ずるに及で雄略帝市辺押磐を殺し立って天子となる。是時に当て市辺押磐の臣日下部の使主(おみ)、億計弘計の二皇孫を奉じ丹波余社(よさ)に遁れ五十日真黒人の家に匿(かく)る。清寧天皇の御宇に播磨国司来目小楯(くめのおたて)其よしを以聞す。よって億計弘計二皇孫初て都へ帰る。於是五十日真黒人を以て三重の長老とす。云々 右の「丹哥府志」は前述の顕宗紀によったもので、古事記の伝える所と小異がある。古事記安康天皇の条に雄略帝は近江の蚊屋野(かやの)に猪鹿(しし)が多いから狩をしようと市辺の忍歯(おしは)の王をさそい、騙(だま)し討ちに射殺した。そこで市辺の忍歯の王子達意富祁(おほけ)の王袁祁(をけ)の王は逃げ去り、山代(やましろ)の苅羽井(かりはゐ)に行って粮(かれひ)を食べていた時、入墨をした老人が来てその粮を奪った。そこで二王子は「粮は惜しいわけではないがお前は誰だ」と尋ねると、「山代の猪甘(ゐかひ)だ」と答えた。そこで王子達は玖須婆(くすば)の付近の淀河を逃げ渡って針間の国に行き、志自牟(しじむ)(書記、縮見)の家に身を隠し馬甘(うまかひ)牛甘(うしかひ)に役(つか)われた。とある。古事記では記事が簡単で丹波与謝郡に逃げて来た話はなく、楠葉(くすは)付近から直接播磨に行ったとなっている。従って「丹哥府志」は書記によっていると思われる。 さて、次に二王子の父市辺押磐の王の近侍日下部の使主(おみ)が二王子を連れて丹波の与謝郡に逃げて来た理由として「日本書記通釈」は左の如く述べている。 日下連は大彦命の裔なり。また日下部連・日下部宿祢・日下部首(おびと)は開化天皇皇子彦坐王の裔なり。ここなるは彦坐王の方なり。(中略)日下部氏の丹波に由縁あることは浦島子も丹波与謝郡人日下部首祖筒川嶋子とあり。又氏族志に「日下部氏は但遅麻(たじま)国造と同宗故、其族多く本国に居り朝来・養父等の郡領に補せられ、後世猶国造と称し衛府官を帯びる者あり。(中略)但馬も丹波の隣国なればよしあり。今難をここに避け玉へるも日下部氏の族によられしならん。(中略)其より丹波の国に入まし与謝郡を経て丹後国丹波郡(今中郡といふ)に打越まさんとて其郡なる三重郷に到り坐(ませ)る其峠を大内峠といふ。(此峠を王落峠と書いて俗説をいへるはつたなし)三重村にて御身をしばし忍坐(しのびま)しし事丹後旧事記に見えたり。なほ某国人の云伝ふるを聞けば此大内峠を下り果たる処に五十河村といふあり。そこに当昔五十日真黒人と云へる長者あり。此二王子をいたはり奉りて己が家に隠しおきて養ひ奉りしとなり五十河と五十日と字のたがひはあれど俗に今もいかが谷といふと云へり。其長者の許につかはれましける時の古事を下文に「人に事(つか)はるるに因り牛馬を飼牧す」とは記ししならむ。今は此国にては五月五日の幟の絵に牛飼童の牛に乗れるかたを書きて牛飼様殿(うしかひさんど)と名づけて語り伝ふる事近き頃まで其習慣ありて童謡などにも残れりと云へり。是は二王子後に都に還り座して帝位に即き玉ひし後に当昔いましけん時のさまを慕ひまゐらせてかかるものにも御かたを画きて云ひ伝ふることとはなしたりけん。扨其より播磨国には到り座(ませ)るなり。云々 右によると日下部連使主父子が幼い二王子を丹波与謝郡に隠したのは日下部一族が但馬の国造であった関係上同族も多く居住し、そのすぐ隣国丹後にも一族の有力者が居りそれを頼って来たとしている。(飯田武郷著 日本書紀通釈) なお、三重にしばらく二王子が身を隠していたという記事は叢書本「丹後旧事記」には見えないが、三重の大内峠に宮様が居たと伝える「宮が谷」と呼ぶ所があり、それは丹後林道の起点の南、妙見宮の裏の谷である。 二王子を隠し養った功績により五十日真黒人は三重長老となったと伝えるが、真黒人は恐らく日下部一族に関係ある豪族であったのであろう。五十日真黒人という名はもちろん五十日の地名を冠したものであり、五十日の地名は元来皇室と深い関係をもつ語である。 さて、ここで一言しなければならないのは二王子避難地について五十河以外に異説のある事である。閑清兼の「丹後考」に「与謝郡須津村の宮ヶ谷なりといひ、他にも異説あり。温江村にも伝説あり。又、本庄村浦島筒川及び日ケ谷にも説あり。」とあり、「丹後細見録」にも「延書式与謝郡に木積神社あり。三重郷皇住村に置き祭神億計弘計二尊。(五十日真黒人の記可見)然るに外垣村にも木積神社ありて二尊一先づ避難し更に雌島(大島)に匿るとの説を立て、又、栗田村にも宿野に避難せりと云ひ、久理多(栗田)神社は二尊を祭ると云ふ。与謝郡にも御潜在の伝説あり。同村小字峠の上宮は億計命、小字北の下宮は弘計命を祭るといふ。諸説何れによるべきや」とある。(三重郷土志より引用)丹後考、丹後細見録の諸説は恐らく後世の附会が多いであろう。「丹哥府志」等に右の記事がない上、精しく祭神を書いている「丹後旧事記」の神祇部にも与謝郡須津或は栗田等の各神社に二王子を祭神としたものは全くない。ただ、久住(皇住)の木積神社のみ延喜の昔から億計、弘計二王子を祭神として尊崇し来っている。この事実からみても二王子避難の主要地は五十河地区ではなかろうか。 以上三重長老五十日真黒人の伝説ならびに二王子三重谷避難の事跡について述べて来たが、その真実性を裏付けるものとして次の理由をあげることができる。 一、五十日真黒人の邸跡と伝える久住字蔵住から、弥生後期より古墳時代にかけての土器片が多数出土し、住居址と推定されるので、或は伝説を裏づけるものではなかろうか。一、丹波郡(中郡)の式内社十三座中木積神社を除く十二座(注、大野神社も最初は豊受神を祀っていた)がすべて豊受神を祀っている中で、ただ、木積神社だけが億計弘計二王子を斎き祀っていることも有力な資料である。 一、日本書紀は雄略天皇の条となって初めて二三年間の全治世にわたり一年も欠かさず記事が書かれており、我が古代史に一時期を画すると云われる。これは伝承がより確実性を持つことを意味する。その上昭和五四年埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘に雄略帝の名が認められた事により、その実在性が確められたとされる。従って雄略帝以後の記事は一段と確実性のあるものと見るべきであろう。二王子丹波の与謝に避難の記事はこの中にあるのであるから、相当の真実性のあるものと考えられる。 一、新しく発見された延利の笠町古墳群十五基及び周辺の既に知られている古墳を合せると約二十基の古墳が存在するのは豪族が居たことを物語るものである。 以上の四点を総合的に考えると二王子避難の事実及び三重長者五十日真黒人の存在が伝説としても相当信用性のあるものと思われる。 なお、附言すれば三重長者五十日真黒人という名称は恐らく本名ではなく親愛の情をこめた愛称であって、五十河のまっ黒い顔の翁″という幼い二王子から呼ばれた呼称であろう。即ち、書記にある「丹波の小子(わらわ)」の二王子が「色の黒い爺や」と親しんで呼んだ名であろう。従って村人がその名を伝え称して伝説化したもので、本名は上述の諸書の推定しているように侍臣と同一の姓の日下部氏か又はその一族の姓の人であったのであろう。 私、未だに『大宮町誌』を見ぬので、以上は次からコピーさせてもらったものです。 『大宮町誌 第二節 三重長者五十日真黒人』 資料をこうした形で簡単にスキャナーにかけて、ウェブ上に置いてもらえると大変に助かる。ありがとう大宮町。この方法だとさしたる手間も暇もゼニもかからない。ほかの自治体なども見習って下さ.ると感謝されるだろう。ついでにつぎのように川守山の山号をもつお寺があったそうである。 『おおみやの民話』(町教委・91)に、 五十日の真黒人
周枳 堀 広吉 ずっと昔のことで、今の 五十日には 或る晩、人の寝静まったところ、真黒人の家の戸を、コトコトとたたくものがいるので、家の人がそおっと戸を開けて見ると、四人連の男たちで、一人はもう大分老人で、一人はその息子の若者、あと二人は、まだ年はもいかね子供だった。 ずいぶん、疲れているようすだったが、子供達二人は、涼しい目をして、まるで梅の花のようにさわやかな感じのする子達だった。 話を聞いてみると、都の騒動で、家にいては命があぶないということで、あちこちへ逃げ、しまいには老人の親類のある与謝の村に隠れていたが、どうにもあぶなくなったので、情け深い人だと話に聞いたこの山奥の真黒人の家をたよってきたという。 老人の話を聞いた真黒人は、この人達をかくまったことが役人に知れたら、自分は勿論のこと、家の者もみんな、とても無事ではすまないと思ったが、こうして、自分をあてにしてたずねてきたものを、すげなく断わるわけにはいかない。ここは、何とかして助けてあげたいと思案して、 「それは、お気の毒なことだ。できるだけのことはして隠してあげよう。そのかわり、目立たないようにみなと同じ着物を着て、同じように働いてほしい」 いうた。 その翌日からは、ほかの使用人たちといっしょに起き、夜は暗くなるまで、かげひなたなく働く日が続いたということだ。 真黒人は、人目につかんところで働かせようと苦心して、今の妙性寺のずっと奥の山に 真黒人も、ほかの人も、みんなやさしくしてくれたけど、やはり、小さい子供のこと、兄弟二人は、ときには都のことを思い出して泣くこともあったが、弟が泣けば兄がなぐさめ、兄が具合が悪いと弟が一生けんめいに看病するというふうで、二人ともなかよく辛抱して働いていたそうな。 そんなある日、真黒人の下男が府中へ塩を買いにいって大変なことを聞いてきた。その話によると、都の追手がきて、明日にでも五十日の方へさがしにくるそうなということだ。 話を聞いた老人は、 「わしは老人で足腰も衰えているし、四人連れで逃げては目立つさきゃあ、とても、逃げきれんで、わしをほっといて三人で逃げてくれ」いうて、その夜、昔をつって死んでしまったげな。 死んだ老人の息子は、泣きじゃくっている子供達兄弟二人を連れて、その夜のうちに五十日を出て、夜久野を越え、播磨の ここでも、「丹波の 天皇は、昔の恩返しに、真黒人を三重の長者にされたということだ。
府中の東、灘波野部落に麓神社とよぶ小さな社がある。 ここには億計、弘計二皇子を祀っている。安康天皇の代、四五六年に眉輪王(まゆわのきみ)の乱というのが起きた。允恭(いんぎよう)天皇の皇子穴穂命は兄の軽皇子を殺して帝位つき、安康天皇となったが大草香命を殺しその妃蔕姫を奪って自分の妃としたため、大草香の子眉輪王は父の仇と天皇を殺した。天皇の弟雄略は眉輪王を殺し、さらに帝位のじゃまになる履中天皇の皇子市辺押磐王(いちのべのおしわのきみ)を蚊屋野(かやの)に殺して天皇の位についた。そこで身の危険を感じた日下部使臣と子吾田彦は億計、弘計の二皇子とその母クサカンムリに夷姫(はえひめ)をつれて与謝へ逃れ、灘波野にかくれた。母のクサカンムリに夷姫はこの冬病死し、日下部使臣も前途を悲感して自殺した。 弟弘計はここで小野姫をめとって妃としたが、追々と身近に危険が迫ったので、大内峠より三重長者五十日真黒人を頼って落ちていく。ちょうど村人はぼた餅を差し上げようと準備していたのが、あまり出発が急なため、小豆を炊きたての餅米の中へ投げ入れて差上げたので、その風習が残っている。
五十河寺跡 新宮小字尾垣
往昔新宮に川守山五十河寺と称する真言宗の寺があったという。弥栄町和田野芦田行雄蔵の古文書(大庄屋の文書)に「川守山五十河寺」の名が見え、小字尾垣には山麓に屋敷跡とみられる水田があり山際に地蔵尊数体を把っている。古老もここを寺屋敷と呼んでいるが、年代その他詳細は不明である。 川守山の川守は加佐郡川守郷(大江町河守)の字と同じであり、籠守(高守高森)が本当でないかと私は考えている。カゴは銅のことである。川下の延利に高森神社がある。これはタカモリと読んでいるが、鎮座地名は古森であるし、「村落の東に接して一小部落あり字コモリと呼ぶ皇守と書く億計弘計二皇子の遺跡なりとも云ひ高森も同義より出でたる文字を訓読するに至りたるなりなど云ひ伝ふ」と中郡誌槁が書くように、本来はコモリであると思われる。この辺りはコモリすなわち籠守、銅の守護神を祀る地ではなかったかと思われる。 カグ(銅)とコウモリの地名が関係がありそうなことは次の香山神社(大飯郡式内社)でも言えそうである。
〔若狭国神名帳〕正五位香子山(カコヤマ)神社
〔新撰姓氏録〕右京諸蕃 香山連百済国人達率名進之後也。 〔若狭郡県志若狭国史〕在所不詳(参考同上二書天日八王子神社在小堀下車持二村間) 〔神社考〕按に下車持村の内字高森本村と云ふ處の高森山足に高森とて大なる森あり(山の名も此森によりて負ひたるなるべし)其處に高森明神と云ふ社あり香山延毘須とも夷三郎殿又蛭子とも称ひまた西の神とも瘡神ともいへりこれ決く香山神社なるべ志(若狭郡県志)に西神祠在下車持正保二年少将忠勝修補といへる社これなり…香山と申すは山の名なるべし。 (注 今当税所次第に…加来(カク)下野権守其代に加来三部入道定円…地名を氏に呼へるならむかしからば社号の香山も其處の山ならむ此考当らば彼高森本村といふ辺を古は加来と云ひ加来山といひ其山に坐すをもて香山神社と申せしなるべし。(延喜十二年)六月造皇嘉門(ワカ)若犬養氏…は…天香山命の後に当れり…氏人の若狭に在りて御門造りて奉る…勢あり…其氏神香山命を祀れるにやあらむしからば香山といふ地名の在りとせば社号の地名にうつりたるものとすべし) 『大日本地名辞書』に、 車持クルマモチ。今和田村の大字なり、車持とは古代の部曲の名なり、越中の車持郷を参考すべし。○延喜式、香山カコ゛ヤマ神社は今車持の高森山の麓に在りて、香山延毘須と云ふ、蓋若犬養宿禰の祖天香山命を祭る。〔神祇志料〕
補【香山カゴヤマ神社】○神祇志料、今下車持村高森山の麓高麓に在り、仍て高森明神と云ひ、又香山延毘須とも云ふ(官社私考)蓋若犬養宿禰の祖天香山命を祭る(参酌旧事本紀・日本後紀・新撰姓氏録・拾芥抄、大要)凡三月二十三日・九月二十八日を以て祭を行ふ(官社私考) ここも面白い神社である。上の説明では何のことか今ひとつだが、社前に掲げられた案内を読んでみよう。つぎのようにある。 延喜式内社・若狭国正五位
福井県大飯郡高浜町高森七の一 高森(香具)山鎮座 祭礼 古義祭 春の宮当祭 三月十三日、秋の同祭 十月八日 例大祭 春期四月二十三日 秋季十月二十八日 祭神 天香山命(開拓の祖神) 猿田彦命(道びきの神) 蛭子命(恵比須の神) 事代主命(福徳の神) 神徳 古くより高森十六所明神と尊称し、「命の神」「福の神」と仰ぎ、交通、治病、招福、厄除、安産、幼児の守護神 由緒 往昔第一代神武天皇の功臣天香山命を先人達が開拓の祖神と崇め祭祀せしか。又上古天香山命の後裔若犬養宿禰の氏人の若狭(当地方)に在りて祖神も氏の神として加来山(香具山)に創祀したものと推考される。御鎮座は奈良朝の大宝二年(七〇二)の頃か、少なくとも天平十三年(七四一)より延暦十二年(七九三)の間の年代と推定され、今より千二百五十年余前の創建ならん。降つて平安朝の延長五年(九二七)の延喜式神名帳に撰上ありしより、正に千五十年の古社なり。 中世暦応元年(一三三八)丹州、丹後の大川十六所明神が当地に飛遷(合祀)すと云う。鎌倉、室町時代は社領も百五十石あり社運隆昌なりしと云う。次降幾度かの造営修補を経て、現在の社殿は江戸時代文化十年(一八一三)の造営なり。昭和五十二年十月吉日記 伴信友の詠歌 『こもまくら高森山の高々にあふぎて祝ふ神祭りかも』文化元年(一八〇三)の春祭りに参拝の折り詠ねる。 香山神社の摂社に牛尾神社がある。すぐ隣に鎮座している。社前の案内に次のように書かれている。 摂社
古義祭 春期三月十三日 秋季十月八日。例大祭春期四月二十三日 秋季十月二十八日。 祭神 天照皇大神の八王子乃命 五男の命は天孫降臨の折り力を助け給う神、三女の命は世に云う海上全般の守護神 天日槍命を主神と仰ぎ奉る 由緒 上古第十一代垂仁天皇の御宇に来朝帰化せる新羅国の皇子天日槍命の族及びその末葉達が、当地に在りて祖神を祭祀せるものならんとも推考され、奈良朝の延暦十年(七九一)より以前の御鎮座と伝えられ、今より約千二百余年前と推定される。其の後太政官符に依り、牛を殺して漢神を祭るも禁止せられしより衰微せしが、中世平安朝の暦応元年(一三三八)丹州丹後大川天日八王子御前(あめのひはちおうじごぜん)当地に飛遷す依って社殿造営の上遷宮(配祀)すと伝う。 又後世(戦国時代)対岸の犬見の氏神も移座、即ち当社に合祀せりと伝う。区内の社壇零落し神格失却の故ならんか、今も尚犬見の白石に高森屋敷(小丘)在り。鎌倉室町時代は本社と共に社領も有り隆昌なりしと伝う。 現社殿は本社と同期の江戸時代文化十年(一八一三)の造営なり 昭和五十二年(一九七七)十月 記 摂社・牛尾神社の祭神は天日槍のようである。また加佐郡名神大社の大川神社とも繋がるようである。摂社というのは本来は本社だという人もあるが、そうだと思う。本社は新来のあとから来た神であり名目上のものがというか公式上の問題を起こしにくい神様になっていて、摂社に本来の地元の古来からの神が祀られることが多いと私も見ている。そこにやはり天日槍が出てきた。どうやら香具山と日槍は繋がるように思われる。続日本紀の牛馬を殺して漢神を祀る話については、下に引いておく。 牛尾という名も何の意味かわからないが、鉱山と関係がありそうである。『丹生の研究』も鹿児島県大口町の牛尾鉱山を紹介している。金銀と朱砂が採れるそうである。山科区の音羽山の麓に牛尾観音が祀られているが、この地は京都・清水寺の故地であるらしく、一寸法師が鬼退治をしたところで金銀銅鉄が沢山採れた鉱脈があったと『鬼伝説の研究』は書いている。今の音羽山が牛尾山と呼ばれたそうである。さらに北の大津市坂本、日吉神社に牛尾神社がある。ここは甘南備山が牛尾山で今は八王子山とも呼んでいるから、高浜の牛尾神社は何かここと関係があると思われる。志賀の漢人と呼ばれる渡来人達の集住地であり、日吉神社の祭神は山城の秦氏の松尾神社の祭神と同じ大山咋神である。高浜では天日槍を祀る、新羅系の渡来人達の社なのであろうか。 この神社は丹後海部氏と関係が深いのではないのかと私は勝手に想像しているのである。海部氏系図には海部氏の祖・建振熊宿祢は応神の時に「若狭木津高向宮」に海部直の姓と楯桙を賜り、国造として仕えたと書かれている。その若狭木津高向宮というのはこの社なのでないのかと私は考えている。高向は何と読むのかわからないが、各地の高向郷には多加无古や多加無古の訓注がある。タカムコとかタカプクとかタコウとか読まれたかも知れない。木津は青と佐分の間だから、このあたりも木津である。高浜町のタカはこれかも知れない。ここが丹後海部氏の故地なのかも知れない。 継体の生母・振姫の里である、越前三国の坂中井の高向は越前国坂井郡高向郷、福井県坂井郡丸岡町の高田付近、旧高椋(たかぼこ)村と言われる。式内社の高向神社がある。タカボコとも転訛する、日槍のホコかも知れない、高向という地名は渡来人や金属と関係がありそうな名である。 (牛を殺して漢神を祭る) 『続日本紀』の延暦十年九月の記事に ○甲戌(十六日)…、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓の、牛を殺して漢神を祭るに用ゐることを断つ。
新日本古典文学大系版の補注では、 「殺レ牛用レ祭二漢神一」 三代格延暦十年九月十六日付太政官符、応二禁二刺殺レ牛用一レ祭二漢神一事に「右被二右大臣(藤原継縄)宣一称、奉レ勅、如レ聞、諸国百姓殺レ牛用レ祭、宜下厳加二禁制一莫上レ古今レ為レ然。若有二違犯一科二故殺烏牛罪一」と見え、弘仁格抄や要略七十にも載せる。「漢神」は中国の神。故殺馬牛罪は、厩庫律8逸文に「凡故殺二官私馬牛一者、徒一年」(要略七十)とする。
日本における殺牛祭神は、皇極紀元年七月戊寅条に「群臣相語之曰、随ニ村々祝部所教一、或殺二牛馬一、祭二諸社神一」と見えるほか、延暦期には本条(延磨十年九月甲戌条)のほか類聚国史、雑祭の延麿二十年四月己亥条に「越前国禁行□加[ ]屠レ牛レ祭神」とあり、霊異記(中−五)にも、聖武太上天皇の世に摂津国の一富人が漢神の祟りに対して牛を殺して祭り、悪報を得かかったという説話が見える。 中国では殺牛信仰が古くから漢書・後漢書などに見え、農耕儀礼(雨乞い)や怨霊神の巣りを祓うための民間信仰として盛んであった。日本の殺牛祭神も中国のそれを起源にすると考えられるが、とくに延暦期の殺牛祭神は、怨霊神を対象とする怨霊思想としての性格を受け継いだもので、本条でそれを禁じたことは民間の怨霊思想対策であった可能性があり、また桓武が丑年生れであった(後紀延暦廿三年八月壬子条)こともかかわるか(佐伯有清「殺牛祭神と怨霊思想」『日本古代の政治と社会』)。 東洋文庫版の注では、 牛を殺して漢神を祭ることの禁止は、延暦十年九月十六日の官符でも令せられた(三代格)。養老の厩庫律逸文にも「故(ことさら)に官私の馬牛を殺す者は、徒(ず)一年」(『政事要略』巻七〇)とある。しかし紀、皇極天皇元年(六四二)七月二十五日条に村々の祝部が牛馬を殺して社の神を祭ったとあり、『日本霊異記』中巻第五に聖武天皇朝、摂津国東成郡の富豪が毎年牛一頭を殺して漢神を祭った話がある。実際には牛を殺して中国または朝鮮から伝えられた神を祭る風習は存したと思われる。
皇極紀からは雨乞いの犠牲として牛馬を殺しているようである。犠牲獣というのは本来はその神と考えられていたものである。牛が水の神と考えられていたのはどこかですでに書いておいた。馬もまたそうで、日照を求めるには白馬、雨乞いには黒馬がささげられたという。現在の絵馬の本来の姿である。河童駒引といって河童が馬を川の中へ引き込む話が伝わるが、それはなぜだろう。簡単すぎる問題かも知れないが、それは河童も馬も水の神様で、同じものだからなのであろうか。(右図は神奈川県のHP)。 『海部氏系図』の孫建振熊宿祢の注文に、 此若狭木津高向宮尓海部直姓定賜弖楯桙賜国造仕奉支品田天皇御宇
『勘注系図』の十八世孫丹波国造建振熊宿祢の注文に、 息長足姫皇后征伐新羅国之時、率丹波・但馬・若狭之海人三百人、為水主、以奉仕矣。凱旋之后、依勲功、于若狭木津高向宮定賜海部直姓、而賜楯桙等国造奉仕。品田天皇御宇。故海部直、亦云丹波直、亦云但馬直矣。葬于熊野郡川上郷安田。
品田天皇というのは誉田天皇で応神天皇のことである。日本第二位の大きさを誇る応神陵があり『宗書』の倭の五王の讃だともするが、本当に実在した天皇なのかどうかは怪しいとの見方もある。母が神功皇后(息長足姫皇后)で父は仲哀、祖父は日本武尊というのだし、さらには神といった名があれば実在性が怪しまれるのも納得できそうである。河内王朝の始祖王という伝説上の天皇なのかも知れない。その時代に国造や直の姓があったとも思えないので、この記事はこのままには信用はできそうにもない。応神天皇は朝鮮の始祖王と同じように卵から生まれたかも知れないのだが、不思議な天皇で次のような伝えも記紀に残されている。 一に云はく、初め天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みまつりたまふ。時に、大神と太子と名を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神と曰し、太子の名は誉田別尊とまをすといふ。然らば大神の本名は誉田別神、太子の元名は去来紗別尊と謂すべし。然れども見ゆること無く、未だ詳かならず。
これは『書紀』の記事だか、古事記にも同じ話がある。敦賀の気比神社の大神と名前を入れ替えたというのである。名前を取り替えるとはどういう意味なのであろうか。簡単に名前が入れ替えられるということは実体が同じもの、同じプロパティ、同じ性格ではないのかと、私は考えるのである。別に私だけがそう考えるわけではなく、そうした学者も多い。では気比神宮の神とは何物かという問題になる。 気比神宮(けひじんぐう) 福井県敦賀市曙町に鎮座。伊奢沙別(いざさわけ)命、帯(たらし)中津彦命(仲哀天皇)、息長帯姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)、日本武(やまとたける)命、誉田別(ほんだわけ)命(応神天皇)、豊姫命(神功皇后の妹姫か)、武内宿衝(たけうちのすくね)命の7座をまつる。旧官幣大社。大陸と京畿とを結ぶ要地であった敦賀の鎮護神として仰がれ、神功皇后が武内宿衝に命じて誉田別命とともに気比(笥飯(けひ))大神を拝祭させた話が《日本書紀》に見える。《古事記》にも主神の伊奢沙別命を御食津(みけつ)大神と名づけたとあり、食物の神となっていたことが知られるが、一説には神功皇后の母方の祖神である新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)命だとされる。境内摂社の角鹿(つぬが)神社が任那(みまな)の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)命をまつっているように、大陸と関係の深い神社である。古代には、朝鮮からの渤海使節のため設けられた敦賀の松原客館は、気比の宮司が検峡(けんぎよう)するところだった(《延喜式》)。朝廷の尊崇も厚く、神封は806年(大同1)に244戸に達し、しばしば勅使の奉幣があり、839年(承和6)には遣唐使船の平安を祈っている。神階は859年(貞観1)に従一位、やがて正一位となり、延喜の制では7座とも名神大社に列し、後、越前国の一宮となり、広大な社領を有して勢威をふるった。1337年(延元2‖建武4)には大宮司気比氏治父子が恒良(つねよし)・尊良(たかよし)両親王を金崎(かねがさき)城に奉じて足利軍と戦って敗れ、その後しだいに衰えた。近世には福井藩主の社領寄進、社殿造営をはじめ北陸の大名の崇敬をうけた。1871年(明治4)に国幣中社、95年官幣大社となり神宮号に改めた。 1614年(慶長19)建造の本殿は桃太郎の彫刻があって有名だったが、1945年の戦災で他の社殿とともに焼失し、現在は清楚に復興。戦災を免れた大鳥居は1645年(正保2)の建造といわれ重要文化財。例祭は9月4日で、2日の宵祭から15日の月次祭まで続くので気比の長祭とよばれる。7月22日の総参祭には摂社の常宮(じようぐう)神社への海上渡御がある。なお、神宮寺は715年(霊亀1)の建立で、記録に残る神宮寺のうちで最も古いものの一つである。 小倉 学 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 天日槍ではなかろうかというのである。たぶんそうなのだと思う。そうすると応神も神功皇后も新羅の王子・天日槍のまたの名、またの姿ということになりそうである。高浜にいたと思われる丹後海部氏は日槍の裔であり、息長氏の一族なのではなかろうかとも思われる。 『角川日本地名大辞典』に、 〔野尻銅山〕野尻銅山は宝暦9年(1759)より小浜藩の手により採掘が開始された。藩の役人として土田太右衛門・武藤嘉十郎が任命され、採掘の指導者として生野鉱山から経験者を招いた。鉱山の経営が軌道に乗ってくると、本郷港は鉱山に使用する坑木などの荷揚げで活気づき、200人もの男女がこの仕事のために本郷に居住していた。銅山は明和6年(1769)に休山し、天保12年(1841)に再興している。その後、廃藩になるまで酒井家と大坂の住友の合弁で事業が進められていた。
『大飯郡誌』(昭6)に、 徳川時代に酒井侯宝暦九年野尻三光銅山 本郷村 を開きしも、一盛一衰を免かれざりしが如く、現今は此銅山も体鉱し居れり。
近年大島に精鉱所を設けしも鉱毒激甚の爲め廃たれ、唯本郷の石灰と紅殻の盛を見るのみ。 『福井県の地名』(平凡社)に、 近世後期から明治初年にかけて稼行された銅山で 明和八年(一七七一)五月、問屋新介が記した野尻銅山覚(荒木家文書)に「宝暦十辰年ヨリ初リ候由」とあり、「稚狭考」には、宝暦九年(一七五九)に開かれ、今は男女二〇〇人余も銅山に住むとあるが、稼行開始は同一〇年であろう。小浜藩主酒井忠与は藩直営の銅山とした。稼行内容については史料を欠くが、藩から命ぜられた奉行・下奉行が管理に当たり、 天保一一年(一八四〇)三月、住友の支配人泉屋源兵衛が小浜に出張して当銅山は再開される。これに先立って文化六年(一八〇九)一一月、住友から当銅山稼方の願書が京都小浜藩留守居役へ差出されている。小浜藩は再開を拒絶したが、住友への借財がかさみ、国内では一揆が続発して藩の財政は窮迫していたので、再開されることになる。天保一二年八月に銅山の詳密な絵図が作成されて正式に再開され、初め住友の経営、のち藩営下に住友の使用人が稼行を担当し、明治三年(一八七〇)三月、採算がとれないため廃止されるまで続けられた。ちなみに弘化三年−嘉永元年(一八四六−四八)までの年平均産銅高は一一万四四九一・五斤。嘉永ー安政年間(一八四八ー六〇)には三〇万斤に近い年もあり、産銅高では全国屈指であったこともある。 『青銅の神の足跡』は、 『若狭路』(水上勉・昭和43・淡交社)に、 …途中の野尻鉱泉は、むかし、江戸時代の金山跡があり、銅も出た。いまも、付近の人は赤川とよぶ。鉱石の峡で水も石も赤くよごれている。上流に温泉が出る。野尻温泉である。湯治客も昨今はかなり多いが、ここにべにがら小舎があった。山の一角からべにがら石が出るのである。鉄索に寵をつるして、遠くの谷から運んできたものを、川わきの小舎で水車が廻っていて、何本もの杵がガッタンガッタン、石をくだいている。くだかれた石は泥土となり、いく槽ものコンクリートの壷にためられて、美しい紅の団子になって、竹の棚に干されてある。越前瓦を焼く工程になくてほならぬものらしい。下流の用水の赤いのも、拇指はどの小石までが赤いのも、みなこの槽のせいか。ひなびた鉱泉宿の二階から、べにがら小舎の杵音をきいていると、若狭は海ばかりでなくて、谷間の奥にも独自の個性をもったいとなみと景色があることに気づくのである。
香山神社は石柱にも見られるように、高森乃宮とも呼ぶようだが、これはコーモリとも読める、それに東隣の大飯町小堀も氏子である。小堀はコホリと呼んでいる。これは大飯郡の郡家があったのだろうかと、考えてきたのだが、小堀もコモリ転訛なのかも知れない。あるいは香山の香をコウと呼んだのかも知れない。 大飯町父子は作家・水上勉のふるさとである。ここに鎮座の式内社・静志神社の祭神は天日槍だとも言われる。 左は野尻の集落奥にある銅滓の捨て場でないのかと思う。私はこれを銅滓と断定する知識がないのだが、一度は溶けてそれが冷えて固まったものでキラキラと金色に輝く部分がある。写真は全体の半分くらいである。莫大な量である。これは高速若狭道からも見えると思う。父子トンネルと野尻トンネルの間谷側にある。 「大飯町の語り部たち 小堀」
摂社・末社
せっしゃまっしゃ 一神社内で本社に付属する小社のこと。古く〈所摂〉と記されている例もあるが、明治の制で伊勢神宮、また官国幣社において、本社に付属する関係深い社を摂社、それにつぐ小社を末社と称することと定めた。これは社格ではなく、本社祭神の后(きさき)神、御子(みこ)神をまつる社、本社旧跡に設けた社、本社祭神の荒御魂(あらみたま)をまつる社、地主神の社など関係深い社を摂社とし、それにつぐ社を末社とした。その本社境内にあるものを境内摂社、境内末社とよび、境外のものを境外摂社、境外末社とよんだが、それらのなかに、府県社、郷社、村社などの社格のある社もあった。伊勢神宮では804年(延暦23)斤の《皇太神宮儀式帳》《止由気宮儀式帳》に記す、当時官社に列せられていた社、官社に列せられていなかった社を基礎として、現在皇大神宮(内宮)に33座27社の摂社、16座16社の末社、豊受大神宮(外宮)に17座16社の摂社、8座8社の末社がある。また、その明治の制で、府県社以下の神社で、同様に本社に付属する社のことを、単に境内社、境外社とよぶことと定めていたが、その制の廃された以後の現在も、境内社、境外社とよび、また摂社、末社と称している場合がある。なお、この摂社・末社とも本社と同一宗教法人であり、別法人ではない。 鎌田 純一 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄・1981)は、 …摂社には地主神であることが多い。…
摂社の性格について少し述べておく。 所摂の社の義で、末社中特殊の由緒を有する重い社である。明治維新後は特に官国弊社に就て(一)本社祭神の后神。御子神、其他由緒ある神(二)祭神現社地に鎮座せざる以前、其社ありし旧蹟に祭る神社(三)本社祭神の荒魂(四)本社の地主神、其他特別の事由あるものを摂社考定の標準とする。摂末社中には由緒上、本社の管理に属しつつ、往々独立して一定の社格を有する社もある。 たとえば、伊勢の皇大神宮の荒魂を祀る荒祭宮は、同神宮の摂社の第一である。また『柳田国男集』に出て来る摂社では、伊勢の多度神社の有名な一目連社が、その社の摂社、熊野神社ではその九十九玉子が摂社である。面白いのは摂津の原田にある鹿塚にまつわる話で、ここにある原田社は春日大明神の摂社で、その昔は奈良から本当に鹿を連れて来て祭をしたが、後に鹿塚に変ったといい、特に原田社の話は、日本の神使を研究するのにヒントになると柳田国男は言っているくらいで、摂社は本社の内容を示す重要な神社である。
籠神社
観光船で一の宮を上がると目の前に立派な神社が見える。府中の中心で観光客の年中あふれている所である。この籠神社は延喜式名神大社にあげられている元国幣中社で格式が高く、丹後国の総社で丹後随一の名社である。養老元年(七一九) 豊鍬入媛によって四年間祀られた吉佐宮はここであったといい、天照大神を合祀している。それで元伊勢ともよばれている。この社は神守神社、籠の宮、河守神社などともいわれるので、河守の元伊勢とも縁がありそうである。神明造りの代表的な社で古来庶民の崇敬篤く、江戸時代の天保元年(一八三○)の五月頃からそれまで流行した伊勢の抜け詣りにかわって籠神社への「お蔭詣り」が盛んとなり、年中参拝者がごったがえしたという。 神額は藤原 宮司の 天平九年の但馬正税帳に「丹後国与謝都大領 海直忍立」とある。 海部は熊野・竹野がその本拠であり、豊受大神が降止したのちはこれに仕え、海外の交易に任じていた。海部直はその統領である。
まちの文化財〈49〉
奉安塚古墳出土品(福知山市土師・福知山高校所蔵) 府内で例ない馬具一式 この古墳は、戦後間もない昭和二十四(一九四九)年春、地元の高校生が発見した。古里の古代の記録を整理しようと、調査していた福知山高社会部考古班の面々が、同市佐賀小校内の山裾(すそ)に見つけた時には、すでに古墳の形式も定かにならないほど、墳丘を削り取られていたという。だが、かろうじて残っていた横穴式石室から堀り出した副葬品の数々は、考古学に輝く一ページを残している。 古墳時代後期を示す土師器、須恵器に混じって見つかった多数の鉄製品、特に轡(くつわ)や辻(つじ)金具、鞍(くら)の鏡板、杏葉(ぎょうよう)など、馬具一式がそろって発見されたのは、府内では今も他に例を見ない。いずれも金銅張りで、飾りの細工も細やかな豪華な作りは、六世紀後半の特徴をよく示している。 出土品の多くは現在、調査した生徒たちにちなんで府立福知山高の図書室資料庫に保管されている。馬具は最近、保存処理が施され、往年の金色の輝きを取り戻した。同高で社会科を担当する嵐光徴教諭は「教材として存分に活用させてもらっている。生徒たちには、先輩たちの活動と成果を話し、学校への誇りを高めてくれているようだ」と胸を張った。 〈メモ〉府が1990(平成2)年4月、出土遺物107点を一括指定。一部は京都大学文学部に保管されている。馬具のほかにも、出土例の少ない鉄鋏(はさみ)など豊富な鉄工具類が、関係者の注目を集めている。 『京都府の地名』に、 奉安塚古墳
(現)福知山市大字報恩寺 佐賀小学校校庭の西北、標高約三〇メートルの洪積層の台地にある。昭和二五年(一九五〇)発掘調査された。横穴式で七世紀のものとされる。副葬品はきわめて多く、刀剣二振・刀子・木棺の釘・金環・Q製鏡・鉄斧・鉄鏃・砥石・軽石・ガラス製勾玉の破片・須恵器多数(広口壷・台付椀・高坏・蓋付皿・台付長頸瓶・平瓶・Kなど)のほか馬具一式が出土した。馬具は鏡板四枚、杏葉三枚、雲珠五個、帯革の金具、鞍橋の部品などで、鏡板・雲珠・杏葉は、金銅張りで鍍金がほとんど全面残っていた。 木棺の大きさは、釘の配置から測定して、長さ約二・五メートル、幅約五〇センチであり、古墳の主は県主か郡司級の人であろう。 「奉安塚発掘の記」(福知山高校・一九五〇年)がある。
(内山田古墳群)
丹後の埋葬法「礫床」発見 木津の内田山B2号墳 交易関係者?移住? 京都府木津町木津内田山の内田山古墳群で、古墳時代中期(五世紀前半)の方墳「内田山B2号墳」の木棺跡から河原石を敷き詰めた礫床(れきしょう)が見つかったと二十五日、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。 勾玉や管玉も600点 礫床は丹後地域などに多くみられる埋葬法で、発掘調査をしている同センターば「埋葬者は交易などで日本海側と密接な関係があったか、移住してきたのではないか」とみている。 内田山B2号塊は一辺約十二b。中央部の木棺跡は東西に長さ五b、幅六十五aで、直径一−五aほどの石を用いた礫床が施されている。 内部ば半分に仕切られ、埋葬者を収めた主室が縦に二つ並ぶ。頭の部分に置いたとされる枕石が東側の主室に一つ、西側に二つ残っていることから、埋葬者は計三人とみられ、同センターは「集落の指導者層ではないか」としている。 礫床ば京丹後市と岩滝町で計六例あり、木津町内でも今回を含めて四例に上る。今回の成果で「両地域の関連がより強まった」(同センタ−)という。両主室内からは約六百点に及ぶ勾玉や管玉などの玉類のほか、直径約九aの青銅鏡、鉄刀も見つかった。 調査は独立行政法人・都市再生機構による木津中央特定土地区画整理事業に伴い、木津高の南側の現地で今年五月から実施していた。現地説明会は二十七日午後二時から。問い合わせは同センター… 『読売新聞』(05.11.27)に、 木津 内山田遺跡
丹後の特色ある方墳 床一面に小石 交易で繁栄の勢力? 木津町木津の内田山遺跡・古墳群から、小石を敷き詰める礫床(れきしょう)など丹後地方の特色が色濃く見られる古墳時代中期(5世紀前半)の方墳が見つかり、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。同じ古墳群には、ほかにも丹後の特色を示した古墳が複数、出土。同センターは「木津川を舞台に日本海側と大和を結ぶ交易で繁栄した勢力が木津地方にいたのではないか」としている。現地説明会は27日午後2時から開かれる。 「内田山B2号墳」で一辺12b。長さ約6b、幅約2bの大きな墓穴があり、床一面に小石が敷き詰められ、内側を2室に仕切った木棺(長さ5b、幅0・7b)を納めた跡があった。遺体の枕に使ったと見られる花こう岩が東側に1個、西側に2個置かれており、3人が葬られていたとみられる。 木棺のあった部分からは鉄刀(長さ84a)や、滑石製の紡錘(ぼうすい)車2点、600点以上の玉類や銅鏡が出土。木棺の痕跡の大きさは違い、被葬者の性別は不明だが、同センターは3人は親子だった可能性もあるとしている。 礫床や枕石、1相複数埋葬は丹後や山陰の古墳に多く、これまで京丹後市や綾部市などで計8基が見つかっているが、内田山古墳群では、方墳「内田山B1号墳」(一辺18b)にも土師器を転用した枕や、礫床など丹後の古墳に似た特色が見られた。木津町には同古墳群以外にも礫床のある古墳2基があり、当時の丹後との深いつながりを伺わせる。 説明会についての問い合わせは…
*海鳴り*
*村作りのためには学校が必要* *ちょっと残念な岡田中小の休校*舞井 鶴子 とうとうこの三月末で岡田中小学校が休校となる。一一年ほどの間くすぶっていた統廃合などの話は今年一月、「休校」という形で幕を閉じた。一月上旬に友人がたまたま西方寺平に連絡をしたら、「『きょう出前講座を市にお願いして話してもらった。やっと本格的な話し合いができた。もしこの四月から廃校休校なりするなら、今月中に決まらないとできないと言っている。これからだ』と言っていた」とのことだった。その次の日、新聞は「市教委が数日後には臨時会議を開いて休校を決定の予定」と報道した。 岡田中地区は西方寺平を中心に農業小学校や棚田オーナーの会などで知られ、市のパンフ作りには欠かせない存在で、舞鶴市の看板的地域といっても過言ではない。農業に携わるこの地域の人々にはこの仕事への高い誇り、土への深い愛情がある。人の命の源である食べ物、それも日本人の基本である米や野菜、卵などの生産に関わって生きていく力強さ、喜び。 だからこそ多くの農家が無理と言い放す無(省)農薬の野菜作りでも二倍、三倍の労力をいとわず作り続ける。自然のすばらしざもさることながら、その豊かさを認歌できるこの土地の人々の心の豊かさ。それが私たち町に住む者をひきつけてやまないのかもしれない。ここを最も天国に近い村という人もいる。 岡田中小の休校はどっちみちどうにもならなかった話かもしれない。少人数での教育は「学習」そのものの効果として、誰の目にも不利なのは明らか。なのになぜ地元の人たちはあえて統合の署名に応じなかったのか、話し合いの場を求め続けたのか。 彼らは郷愁や思い出にひたって存続を訴えているのではない。「アメニテイで農林水産大臣賞までもらって、これから村作りをしようと頑張っているのに、足をすくわれたような」。西方寺平のIさんは何度もそう言った。これから村作りをするために学校が必要なのだ。「ひょっこりひょうたん島」をご存じの人は思い起こしてほしい。あんな小さな島にも小学校があった。そこに人が暮らすならば必ずや文化が生まれる。小学校は文化の「核」となり、村の象徴となる。彼らは決して過去を振り返ってはいない。未来を見つづけているのだ。彼らを看板として利用してきた市は、この言葉をどんな思いで聞くのだろうか。 結果は同じだったかもしれない。しかし、人と人との対話、話し合いを厭うていたのではよい社会が、町が、村が生まれるはずがない。
舞鶴鉱山。
所在、池内村字別所。位置、池内川の右岸に沿ひ別所より岸谷に至る途中に在る。鉱床、中生代に属し硬砂岩粘板岩より成っている。鉱物、五l内外の銅を含有している硫化鉄鉱で右記した鉱床中に介在している。現状、採取して鉱石は女工の手選を経た後若狭の大島精練所に送って精練し、最後に大阪電気製銅会社に輸て荒銅精練をなしている。 『舞鶴市民新聞』(030101)に、(写真も) *横山別所鉱山の歴史探訪*
*江戸時代、幕府の直轄地として銀や銅採掘* *郷土史家 池内幼稚園長 久手さんが本紙に寄稿* *明治時代、横山一族に幾千万の富* 舞鶴に鉱山があったことを知る市民は少ない。江戸時代に幕府の直轄地として銀や銅が採掘され、その後、明治、大正期まで採掘が続いた池内地区を中しとした横山別所鉱山で、今はわずかに痕跡をとどめるだけとなった。郷土史家の池内幼稚園園長、久手嘉朗さん(71)が、市民の記憶の中から消え去ろうとしている、この鉱山の歴史を後世に伝えるため、舞鶴市民新聞社に横山別所鉱山の歴史を綴り寄稿した。「鉱山の歴史と、当時の苦しかった生活を振り返ることて豊かになった現在の人々が忘れた何かを思い起こすきっかけになれば」という。 *当時の姿そのままとどめる砂防* 広大なる丹波山地を含む舞鶴市は、有用鉱物資源の種類は多いが、いずれも鉱床規模が小さく、鉱業は一般に不振である。舞鶴の鉱山として、古来著名なものに志高炭鉱と舞鶴鉱山(旧池内村別所・上根)があげられている。 舞鶴鉱山は、池内地区の別所・上根・寺田・白滝と、この地方一帯に分布する。鉱種は銀・銅・硫化鉄鉱であり、鉱床の走向はN50〜60E、傾斜7度〜8度Sとある。鉱床の母岩は輝緑岩ないし輝緑ぎょ灰岩で、小規模な層状含銅硫化鉄床であると、加佐郡誌・京都府鉱物誌に書かれている。 別所暮谷鉱山入口は、上林街道の赤橋を渡り、池内川の右岸に沿って谷間を遡る。赤橋より七百bばかり登ると、道端に一体の追分地蔵が祀られている。地蔵さんには「右−やまみち」「左−上ばやし」とあり、この山道は対岸の山中へと続いている。この地蔵さんは、鉱山が江戸幕府の直轄地であったころ、「立不禁止区域」として建てられたとも考えられる。 いつごろ開発されたかは、はっきりしていないが、一七四四年四月(延享元年)池内銀山採掘始まると書かれている。しかし、戦国末期から別所の暮谷坑・高油里坑を主として採掘され、最初は銀札を現場で鋳いたものらしく、現在、現場に残る鉱くずには銅分が多く残留している。鋳造にはコロビの実(潤滑油)が用いられ、池内下以東の山林の山畑に多く植えられた形跡がある。また鉱山は急な斜面にあったため、鉱石の流失を恐れて、幕府の直轄地として築造したと思われる、堅固な砂防が野つら石で積まれ、現在でも破損せず四カ所で、当時の姿をそのままとどめている。 地元の伝承によると、江戸時代に別所から寺田にかけて採掘され、特に別所は鉱石の産地として重宝がられ、時の大老酒井忠清(前橋藩主で五代将軍綱吉の時の大老)から幕府の直轄地とされた。幕末においては、各藩沿岸警備のため大砲を鋳造していたころ、田辺藩がここで銅を精錬し、これをもとにして大砲を鋳造していたようである。 *明治・大正にかけ大戦好況時代に* 明治時代になってからは、明治新政府の富国強兵・殖産興業の政策により、戦争を手がかりに需要が増大し、より一層隆盛の波にのり一八九五年(明治二十八年)には加賀藩主前田家の重臣で三万石を擁し、大名格の家老であった横山尊俊氏が尾小屋鉱山(石川県)より関係技術者を連れ安養寺荘(別所)に住まわせ横山鉱業部を創設した。 特に明治から大正時代前半にかけては、大戦好況時代に入り盛運隆々たるものがあり、横山氏はたちまち財界の王座を占めると共に貴族院議員に当選した。その当時、横山別所鉱山もその配下(支所)にあり、好景気をもたらし、多くの鉱山労働者が石川県より転勤した。現在の上根の追野木に鉱山住宅(六戸長屋の一棟・十戸長屋の一棟、鉱山飯場二棟)があり、鉱山事務所は始め別所横山にあったが、その後、上根に移転した。 採掘量の多い時は年間百万貫(三、七五○d)もあったようだ。鉱石は手選を得てモッコ・竹かごでかついで坑口へいき、そこから現在の府道まで索道で降ろされ、西舞鶴駅から若狭の大島精錬所で粗鋼化し大阪の電気精銅会社にて精錬したようである。 従業員は坑夫・鉱石搬出車夫など石川県から百人程度の人がいたようである。また、廃鉱石を原料として、粉砕袋詰めにして塗料の原料として販売したようである。その後、第一次世界大戦となり、交戦国に食料品・日用品・軍需物資の需要の増大を受けて輸出を伸ばし、国内産業経済は飛躍的に発展し、好景気を招いて立ち遅れていた重化学工業が一挙に進展し著しい経済成長を示した。 だが、大戦の終結と共に海外への輸出不振となり、日本中不景気になり、需要の縮小や労働攻勢の高まりなどのために、一九二〇年(大正九年)ごろより恐慌に陥った。このため、続々閉山し横山一門の宝庫として幾千万の富を提供し、長期に渡って探掘されてきた横山別所鉱山は遂に横山家の手を離れた。有為転変は世のならいとすれば、一九二五年(大正十四年)に閉山し単なる農村に返ったが、最終的には横山別所鉱山は、一九二七年(昭和二年)に廃坑となる。その当時の鉱山労働者は、ほとんど尾小屋鉱山(石川県、昭和三十九年閉山)に転勤し、一部の人は舞鶴に永住された。 廃坑後の一九三一年(昭和六年)十月、宮川鉱業部の経営となり、所長の福田重清氏、技術管理者採鉱係主任の菊地淳吾氏が首脳となった。かくして横山一族により開掘されて以来、久しきに渡り宝庫として幾千万の富を提供した鉱山も、遂に横山の手を離れて無石の事業家、宮川豊吉氏の経営となる。だが、宮川鉱業部は経営数カ月で不振となり、現在の日本鉱業に移管ざれ再出発となる。 *大八車に積んで西舞鶴駅まで運ぶ* 横山別所鉱山が閉山以来約七十余年の歳月が流れ、その当時の姿はほとんど雑木雑草が生え茂っているが、依然として横穴が存在し野面石を敷き詰められた石垣砂防堤がある。鉱石採掘時代に流路の決壊を防止するためのものである。現在でも破損されず幕府の直轄地のもと堅固に築造されていて、どんな洪水にあっても崩れないものである。渡河地点から二百bほど登った所に精錬所の跡があり、谷川の石を調べてみると、ちょうど溶岩(からみ石)のように一度溶解したものがあり、表面は玻璃のように輝き、手に持ってみるとずっしり重い。明治になっても暮谷坑・高油坑を中心に採掘され、採掘に従事した労働者は約五十人いたと言われている。また、運搬については、鉄道の開通後は鉱石を大八車に積んで西舞鶴駅まで運んだ。運搬賃は別所から駅まで十貫につき十銭、元気な人は八十貫の鉱石を積んで一日に二往復し、その当時のよい収入となった。 また、鉱山事務所(柴所長外二名勤務)は、もともと別所小字横山にあり、その後、上根小字見谷に移転された当時の建物は、大正時代の立派で頑丈な代表的な建築で、閉山とともに残念なことに、丹の国農協中筋支店に売却され、その当時の姿をそのまま残している。その歴史をくまなく知っているのは、この建物であろう。社宅・飯場(独身用)はすでに農地に変わり、その面影は全然ないが、唯一飯場の井戸だけが残存し、飯場長で畑中氏(以前西駅前の加賀屋)にお世話になっていた。 *みじめな衣食住鉱山労働者の生活* その当時の鉱山社宅での生活−当時、鉱山労働者であった八十八歳のH氏のお話。 鉱山労働者の賃金(一日)は、採鉱夫で八十銭・深鉱夫で一円(大正九年)で、生活はいたって貧しく、衣食住においてはみじめで最低であった。特に労働争議等があり、給料も遅配し一層拍車をかけた。そのため病人が出たり、家計が苦しくなると、娘が売られていった。十歳くらいの女の子が子守をして、家計を助けることは日常的な事であった。また、親はお金儲けに専念したため、幼児をおんぶして鞄を持って登校し、教室では背中の子をあやし、泣きだすと迷惑になるため廊下で子守をしながら勉強した。この姿は高学年の廊下で散見された。弁当も粗末な物で、大根の葉の塩漬けがほとんどで、割合に良いもので塩鱒と野菜二、三種のものであった。家に帰ると遊ぶ暇もなく、子守や家事手伝いの大切な働き手だった。一年中で一番楽しかったのは、わずかな小遺いをもらった、お正月とお盆だった。 『市史編纂だより』(昭49.7)に、(地図も) <別所銅山探訪記>
専門委員 野村幸男 舞鶴の鉱山として、古来著名なものに、志高炭鉱と舞鶴鉱山(旧池内村別所)があげられている。舞鶴鉱山については、加佐郡誌によると「中世代に属し、硬砂岩.粘板岩よりなっている。5%内外の銅を含有する硫化鉄鉱で、鉱石は若狭の大島精練所で精練し、その後は大阪の電気製鋼会社にて荒銅精練をしている」とある。また京都府鉱物誌にも、銀、銅、硫砒鉄鉱と黄鉄鉱の産地として別所、寺田、上根、白滝があげられている。これらの鉱山は、現在は廃坑になっているが、過ぎし日、どの程度採掘されていたか、また現在どうなっているか、一度訪ねてみたいと思っていた。そんな折、ふと緑の風に誘われて、6月8日、クリノメーター、ノート、地図、ハンマー、写真機を肩に、自転車に乗って家を出た。膚を吹く風はすがすがしい。舞鶴公園横から伊佐津を南下する。道の両側に真新しい建材を使った色とりどりの新型住宅が立ち並び、緑と太陽をいっぱいに受けて輝くばかりである。 池内行のバス道路に立った。今田を経て、先ず池内小学校に足を止めた。校長さんは過日、大火にあった白滝地区に見舞いに出かけられるところだったので、教頭さんに銅山を知っておられる方を尋ねる。教頭さんは、電話で高徳寺の和尚(おしょう)さんに連絡して下さる。早速お寺を訪ね、和尚さんと一緒に現地に出かける。途中この銅山について、くわしい城代さんの家に立寄ってみる、折よく、在宅で、家にあがりこんで、鉱山の華やかなりしころの話を聞かせてもらった。鉱山がいつごう開発されたかは、古い記録か火災のため焼失したため、判明しないが.一色氏か、細川氏の時代であろう。幕末、各藩が沿岸誓備のために大砲を鋳造していたころ、田辺湊がここで銅を精錬しこれをもとにして大砲を鋳造していたようだ。その後、明治になっても暮谷坑、高油里坑を中心に採掘が続けられ、鉄道の開通後は鉱石を大八車に積んで西舞鶴駅まで運んだ。運搬賃は別所から駅まで10貫につき10銭、元気な人は80貫の鉱石を積んで1日2往復し、採掘に従事した工夫は盛時には50人余いたという。その後 鉱山は横山鉱業、日本鉱業へと譲渡され、大正時代に入り廃坑となった。現在、別所に開放坑1、自然坑埋没2、寺田に開放坑1、自然埋没坑1が残っている。いずれも公害と危険防止のため、坑口は閉塞(へいそく)されている。 以上の説明を聞いて、いよいよ城代さんの案内で私達は暮谷坑の実地見聞に出発した。別所より池内川に沿って上流に進み、赤橋を渡って、白滝に通ずる道を600米程行ったところに鉱石の露頭があった。酸化によって赤味を帯びている。硫化鉄鉱と思われる。ハンマーで標本を採って、暮谷坑のある谷に行く。バスの道路を下に降り、川を渡り、谷に沿って山路に入る。最近、人の通った形跡はない。谷の幅は割合に広い。せせらぎの音を聞きながら足もとに注意しつつ登る。途中3ヵ所に砂防堤がある。鉱石採掘時代に流路の決壊を防止するために積まれた穏やかな傾斜をした見事な石垣堤である。「これは非常に頑丈(かんじよう)に作られていて、どんな洪水に会ってもびくともしない」とき思いながら渡河地点から200米程登ったところに精錬所の跡があった。ここは別の谷との合流点にあたる。城代さんに教えられて、谷川の石を調べてみると、ある!ある!ちょうど熔岩(ようがん)のように一度融解したものが、かたまり、表面は玻璃(はり)のように輝き、手に持ってみると.ずっしり重い。形のよいのを、三、四個拾って帰路に持ちかえることにする。更にカヤや、イタドリの中をかき分けて、300米位登り、城代さんの指さすところに、川をへだてて暮谷坑が見えた。目的地に到着したのである。坑は高さ1.7米、幅1.5米位、入口は木のさくでふさがっている。入口付近は夏草が一面に繁茂し、これでは余程注意して探さないと見つからないであろう。坑の対岸に、やや広い平担地がある。昔の鉱石置場だという。よく見ると草も生えていない。すぐ近くに30p四方位の鉱石が見つかった。ハンマーで割って見ると銀片がキラキラと輝いている。磁硫鉄鉱と思われる。今は静かな谷間が昔は沢山の人達によって、銅の採掘が行われていたのだ。私はそこに腰をおろして時代の変遷による人と自然の結びつきの盛衰を思い、しばらく感慨にふけった。日は高く、樹木や草の緑は濃い。重い鉱石を記念品として、帰路についたのであった。 終わりに、この探訪に、親切に案内の労をとって下さった池内小学校の教頭さん、高徳寺の掃部さん、および城代さんに感謝をして筆をおきます。 |
資料編の索引
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その四