旧・西大浦村(にしおおうら)
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京都府舞鶴市西大浦 京都府加佐郡西大浦村 |
旧・西大浦村の地誌《旧・西大浦村の概要》 西大浦は舞鶴市の北部。大浦半島の西部に位置する旧村名。 明治22年〜昭和17年の加佐郡内の自治体名で、小橋・三浜・多禰寺・赤野・中田・平・佐波賀・大丹生・瀬崎・千歳の10か村が合併して成立し、旧村名を継承した10大字を編成した。 地名の由来は大浦半島の西部に位置することによる。役場は平に設置。明治32年東大浦・西大浦2か村組合高等小学校が東大浦村の河辺中から村内の中田に移転したが、同44年廃校となり、丸山・大丹生・平の尋常小学校に高等科が併置され、尋常高等小学校となった。昭和17年東舞鶴市の一部となる。村制時の10大字は東舞鶴市の大字に継承された。 《人口》1415《世帯数》421 《主な社寺など》 《交通》 《産業》 旧・西大浦村の主な歴史記録《加佐郡誌》 〈 西大浦村。古代は何郷であったか明かでない。或は凡海郷の部内であったともいはれているけれども、恐らくは外海の沿岸ばかりであったであらふ。舞鶴湾の沿岸は志楽郷の部内であったといふ者もある。今は小橋、三浜、多祢寺、赤野、中田、平、佐波賀、大丹生、瀬崎の九ケ字から成っている。参考一、多祢寺は同地所在の医王山多祢寺と云ふ寺の名を其侭字の名にしたものである。此寺に就いては神社寺院の部に記すことにして置く。二、佐波賀は千歳、大丹生、瀬崎と所謂四所浦を成せるもので東南蛇島に城址がある。天正年間に若狭の竹田の一族逸見駿河守が居たところであるといふことである。三、千歳は霊元天皇の天和年間から今の名を用ひている。旧名は波佐美といって此地に古城があったさうであるが所在が明かでない。四、瀬崎は旧名を二石崎フタイシノサキといっていたが何時の頃からか今の名に改められた。語の起源は風土記に出ている。古老のいひ伝へによると昔天下をお定めになった時大己貴命と少彦名命とが此地にお出でになり御相談の上白黒の磯砂をお把になって天火明神におほせになるには此石は自分の分離である。汝がこれを此地に祀ったならば波浪が荒れていてもしづまり邦も亦よく治まるであらうと、そこで天火明命は詔に随って其霊石をお祀りになったら左右に分れて神験があり。今の世になっても変らないので、それからここを二石の崎と名づけた。(後略)五、老人島一名冠島は与謝海の中に在る小島であって東大浦村字野原と西大浦村字三浜と同村小橋との共有である。中生代侏羅紀の砂岩礫岩から成り、世俗の信ずるやうな海中に噴出した火山島ではない。周囲の陥没によって丹後本土と分離したものであると、但し…大宝元年三月の地震によって生じたものであるか否かは同島の博物学上の研究によるも明言し難い。尚此の島に生ずる桐樹は無比の良材の名が高い。六、赤野に平安時代の名絵師巨勢金岡の住した庵址があって、其の石垣等は今尚残っている。 〉 西大浦の小字関連項目「大浦半島」「大浦半島つづき」 「小橋」 「三浜」 「多禰寺」 「赤野」 「平」 「中田」 「佐波賀」 「千歳」 「大丹生」 「瀬崎」 |
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