過去を忘れて、戦争へ行こう

引揚船32隻の画像


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復員兵を迎える看板
復員兵を迎える看板 舞Iは、戦後の復員や引き揚げに重要な役割を果たした港で、「岸壁の母」という歌でも有名である。この看板は、舞鶴市の平にある引揚施設に掲げられたものである。(昭和24年7月 舞I ダン撮影)(2)
『敗戦国ニッポンの記録(米国国立公文書館所蔵写真集)』は、

 〈 8日25日、昭和天皇は海外で武装解除した日本陸海軍の将兵に対して諭した。 「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり」この勅諭にもとづいて、満州・朝鮮に約100万人、中国に約110万人、南方諸地域に約160万人の合計約370万人もの陸海軍将兵は、粛々と日本国土に還ってきた。これを「復員」といった。
 さらに、中国や満州その他の外地には多くの居留民がいた。その数約300万人。これら多数の老若男女が、「引き揚げ」の名のもとに、まったく保護なしに母国へ帰ってきた。
 国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。とくに幼い引揚者の疲れ切った姿には、戦争の残酷さ、残忍さというものを強く突きつけられ、出迎えた人々の涙を誘ったという。  〉 


 「国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。」と書いている。民間引揚者に対する国家の保護はなかった。それらの役目を負う軍人や官吏どもは一番最初に逃げて帰国してしまっていたからである。国家の原発事故後の対応などを見てみればおおよその想像はできる、グルでダメである。
舞Iほどに有名な引揚港はない、昭和25年以降は引揚港はただ舞鶴しかなかった。全国知らぬ者はなかろう。知らぬ者も多くなった、というか最近では知らぬ者の方が多いかも、忘れさせたい者も多いし、何とか美化したい、何とか外国に罪をかぶせ、自分は不問にしたいとする者どももまた多いのである、しかししかとみなが史実を知らねばならないものなのである。

舞I市民と舞I引揚記念館は全国民と全世界の平和を愛する人々に対して大変な重責を負っていることになる。二度と繰り返すことなきよう、マインド・コントロールされたままでなく、これら国家の恥ずべき事実を展示しなければならない。しっかりと向き合えるだけの才幹があるだろうか。これはなかなか自称平和主義者でも難しい。
名誉にもわれらは東電原発事故記念館の先例となるべき使命も背負っている。
引揚船・高砂丸
↑高砂丸を湾口まで出迎える(懐かしい日本の唱歌、童謡のメロディーを流して)(1)

出迎え風景
↑婦人会員の出迎え(1)
 舞Iでは引揚げといえば、こんな風景↑ のイメージであることが多い、しかしこれらは引揚もかなり後の国家の支援体制が整ってきた兵隊の復員時代のものである。
兵隊の引揚げの法的な根拠は、ポツダム宣言9条で「日本軍隊は完全に武装を解除せられたるのち各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営む機會を與えらるべし」で、受諾した腐った日本国は当然としても連合国側も条約上の義務を負っていた。

ところが、海外にいた兵隊ではない一般国民(武器を持たない市民)は、連合国には義務は何もなく、バンザイバンザイで送り出した腐った国や自治体の保護も、国民からの支援も何もなかった、何も法もない、行け行け、あとは知らん勝手にさらせ、であった。当然国家あげての支援も報道体制もなかった。↓
ただただ人道上の、見て知らん顔はしとれん、の理由によった。東アジアには「暴をもつて暴に報ゆるなかれ」の古来からの教えがあり、連合国側にもヒューマニズムがあり、そうした指導精神に基づいて事にあたってくれた。(感謝)
原発事故避難民と同じであった、知らんである、イジメが起きても、国も自治体もは何もしない。どこかの腐った国のその深刻な腐敗ぶりは何も変わってはいない。経済復興はどうか知らないが、国の復興とはそれだけではない、肝腎のその魂はまさに完敗してしまい、魂は死んで腐り果てている、いまだに立ち上がれず魂の真の復興はまだまだ遠そうに思われる。本格的に戦争の総括ができていない、それが今の日本社会の元凶であろう、今からでも遅くはないし、それしか本当に立ち上がることはムリであろう。漁船での引き揚げ
漁船での引き揚げ 朝鮮半島から引き揚げてきた日本人たち。日本兵の復員とは違い、一般の日本人の場合このような粗末な漁船でやっと帰国してくる人びとも多かった。(昭和20年10月 福岡 ジョーダン撮影)(2)
列車に乗る引揚者たち
故郷への列車に乗る引揚者たち 佐世保の浦頭港に入った引揚者は、南東の針尾島にあった引揚援護局で各種の手続きを済ませ、2〜3泊した後、南風先駅から日本各地の故郷へ帰っていった。(昭和21年6月 佐世保 ウィドウスキー撮影)(2)
アメリカ人が写してくれていなかったら写真すらも残らなかった。
引揚者たち
↑東京・品川駅で引き揚げ列車を降り、故郷に向かう列車に乗り込もうとしている引き揚げ者の一団。朝鮮北部からの引き揚げだったという(46年6月)(3)

引き揚げ孤児たち← 旧満州からの引き揚げは混乱をきわめ、多くの引き揚げ孤児たちを生み出した。46年12月5日、品川駅に引き揚げ孤児の第2陣33人が到着。先頭の少女は両親の遺骨を抱いていた。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容された。(3)


この時期は舞鶴でいえば「上安時代」と呼ばれる頃になるが、それは舞鶴市民からもすっかり忘れられている。

引揚者たちが困っていた当時には、何も別にたいしたことなどはしなかったし、全国的な注目が集まるような、今になってもほったらかし。
それが今ごろになって、当館やその関係者とかが「温かく迎えました、ホコリです」などあつかましく言うのは、同郷人としては何とも聞き苦しい。
一般に何もしなかった者に限って、あとになってさもがんばってやったかのように過去を語るものである。身近な経験でもそうした例ばかりであることを忘れないでおきたい。自分も苦しい中で実際にそうした行為を行った立派な人は、あとは黙っていて、あえて尋ねれれば、半分以上テレながら悔やみながら苦しげに、いやいやあれは当然のことをしただけですとかいうだけ、さも自慢げにアホ丸出しで人に語ったりはしない美徳を備えておられる。ここがさもしい限りのクソと立派な人物の大きな違いと心得られるとよろしかろう。


『朝日クロニクル 20世紀』は、
 660万人、
血涙の帰郷に祖国は冷たく
 
 民間人の引き揚げと軍人の復員は、地域によって大きな差が生じ、とりわけ旧満州を含む中国・朝鮮方面からのそれは凄惨をきわめた。
やっと、たどりついた祖国にも安住の地がなく、国内開拓地や南米移民へと新たな旅に出る人々も多かった。

 連合国軍最高司令官マッカーサーは、ミズーリ号で日本が降伏文書に調印した1945年9月2日、日本政府あて一般命令第1号で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
 その数は660万人で、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは46年夏までにほぼ終了した。しかし中国軍管区では国共内戦にまきこまれ、ソ連軍管区ではシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。
 日本送還に際しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還をアメリカ軍が指示していた。日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかがうかがえる。

曠野を流亡する民

 旧満州では、関東軍、満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。そのため、満州奥地に入植した開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言蜚語の下に曠野を流亡する民となった。その身に大日本帝国への怨恨を負わされての逃避行は、現地人の襲撃に身をさらすだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程であった。
 ちなみに三江省方正収容所には、敗戦から翌年5月までの9カ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻」すなわち中国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルビンにたどりつけたのは1200人にすぎない。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者1120人、ソ連兵に拉致された孝460人と記録されている(『満州開拓史』)。各開拓団の青壮年が敗戦3カ月前の45年5月に、関東軍による「根こそぎ動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群れとして、流亡せねばならなかったことが事態をいっそう悲惨にした。
 日本政府は、博多などの引き揚げ港に婦人救護相談所を開設、引き揚げ女性の相談業務を行った。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの女性すべてが対象となった。故国にたどり着いた女性の、いまなお癒されぬ傷となって残っている。また引き揚げ者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多くみられた。これらの引き揚げ者を迎える世間の眼は冷たく、引き揚げ者は故国日本に安住の地をみいだせないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった。

日本人と「非日本人」

 政府の緊急開拓事業は、引き揚げ者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地への入植は、満蒙開拓や南洋進出を夢想した引き揚げ者にとり、新しい大地との出合いであり、戦後開拓の幕開けとなった。
連合国軍総司令部は、こうした外地日本人の引き揚げとは別に、1946(昭和21)年5月に「以前に中国、台湾、朝鮮、琉球諸島の住民であって、日本に移動させられた者」を「非日本人」と規定し、それぞれの出身地への引き揚げを指令した。このとき、北緯30度以南の鹿児島県と、沖縄県の出身者は「南西諸島人」「沖縄人」として「日本」からの引き揚げ対象者となった。まさに敗戦は、日本と日本人にとり、帝国日本の原像を問い質す場を提示していたのである。(大濱徹也)  〉 


 引揚者は「祖国の同胞に温かく出迎えられた」という美化された物語、舞鶴あたりでもまことしやかに語られる伝説はどうやらデッチ上げられたものでマユツバもの、はっきり言えばウソらしい。「外地」と呼んだ他国へ賓客として行っていたわけではなく、敗戦でその地を叩き出されたのだが、送り出しておいて、帰ってくるとなると知らぬ顔、迷惑顔であった。
連れて帰れそうにはないと我が子を我が手で絞め殺し、我が子を外地に残したままでも帰国したのであるが、「しまった、帰ってくるのではなかった」と思ったという引揚者もまた多かったという。
「舞鶴の故国の自然に迎えられて感無量」とかは引揚者の手記によく見られるから本当だろうが、「同胞市民に温かく迎えられて感無量」はまず書き残されてはいない。同胞の国家政府や地元行政の対応などがうれしかったなどもない。今でも民間引揚者などは当館ですら「温かく迎えている」とは書きがたい、リックや子供の小さな靴がわずかに展示されているだけのものであった。当ページが書き立てでもしない限りはほぼ無視であろうか。↑上に引かせていただいた『朝日クロニクル 20世紀』の指摘はほぼ正確であったと見てよいし、現在に至るもその様子のようで大きくは変わらないようである。
「舞鶴は引揚で燃え尽きたんです、引揚が終わってからは腑抜けのような町になってしまいました、あれで終わったんです」と舞鶴出身で舞鶴を見つめ続ける某氏に言われたことがある。
「自然の美しさは感無量、住んでる人間はたいしたことなし」と命のかかった苦労の中でみがきあげた感覚で引揚者たちはわずかの間に見抜いていたのかも知れない。しかしそこまでは言えないかも知れないことがわかる。
多くの市民とすればそれでも一生懸命に精根尽くしてやってはきたのだと思われる、そして燃え尽きてしまった、そして終わったあとはみなが腑抜けのようになってしまった。
市民とすればもう一度原点の引揚に戻ること、もう一度引揚に向き合いなおすこと、苛酷な過去に思いをめぐらすこと、そうした精神に立ち返り燃え残したものを燃やし尽くすことが、抜けた臓腑をとりもどし、舞鶴市民のキモを取り戻す出発になろうか。
楽しかったよき時代を思い出しても自分を取り戻すことはできない、単なる思い出で、二度ともどらぬ過去の甘い記憶である、癒やしにはなっても未来を切り開くエネルギーまでにはなるまい、苛酷な過去を思い出してこそ、自分のキモが取り戻せる、明日への糧になるのかも知れない。それが当館などの使命だが、はたせるだろうか。


 引揚は敗戦の直後から、昭和33年の末の援護局閉局まで続いた。ずいぶんと長い期間続いた事業で、66万人余が舞Iへ帰ってきた。
引揚といえば引揚船が思い浮かぶが、舞Iは、こうした港ととして戦後を出発した。舞Iへ入港した引揚船は延べ346隻にものぼるというが、私はこの時代に生まれて、ずっと小学校卒業して中学校へ行く頃まで、我が家からは直線3キロばかりの対岸で見られた光景であったにもかかわらず、何もこれにまつわる記憶がない。舞鶴市民のはしくれではあったのだが「温かく迎えました」とはどうもそうした記憶はない。
ずいぶんとええかげんな教育環境に育った、こうしたことは日常茶飯事の地の少年だったと思われる。

ここでは引揚船についてだけで、こうした悲惨な事態を招くに至った我国の恥多き隠したくなる前史などはすべて省略しています。何のために「外地」にいて、引き揚げるまでの間は実際何をしていたのか、当館も何も説明はない。頭の薄いのは当然としても、そうでなくとも歴史を思い違いをするかも知れない。それを書いてアップするにはかなりの労力を要するために、当サイトもいまだに一部だけでほとんどは手つかず、自分で調べて下さい。


 引揚の写真集
ナホトカ港
氷雪に閉ざされたナホトカ港↑(『続引揚援護の記録』より)
葫蘆島
コロ島埠頭と引揚者の列↑
←コロ島埠頭乗船場。警備しているのは中国兵
(『引揚援護の記録』より)


この時期に引揚げて帰国した人々はたいていは被害側の方々で、加害者のワルどもはたいていが誰よりも先にこうなる前にノウノウと帰国していたと思われます。今もノウノウと生きているのであろうか。



錦縣↑↓。満州百万余の同胞は、葫蘆島で乗船した。錦縣はその集結基地である。
満州の各地から同胞は続々として送られてきて、ここの収容所に入った。ここまで来て多数の同胞は栄養失調や病にたおれた。大きな墓地が残っている。(『引揚援護の記録』より)




釜山↑↓。南鮮の同胞を送還した後、釜山からき北鮮脱出の同胞が帰還した。「釜山日本人世話会」の人々は同胞の援護に帰還命令のでるまで努力を続けた。
北鮮から脱出してきた人々、子供は野宿したときのゴザをここでも、やはり大切に背負っている。↑
LST、リバティー−それは引揚げた同胞にとってなつかしい名である。LSTはQ何号、リバティーはV何号とよんだ。写真はリバティー型引揚船。↓(『引揚援護の記録』より)




上陸・揚陸。引揚船は入港しても、上陸までにはいろいろの手続がある。佐世保浦頭検疫所に投錨した大安丸。↑
田辺引揚援護局へ上陸した復員者。↓
故国の土へ上陸第一歩。↓ (『引揚援護の記録』より)





「乗船する朝鮮半島北部からの引揚者」(昭和21年夏、三宅一美氏撮影)↓
釜山港、桟橋の光景。北緯38度線を越えて来た人々の引揚は、「満州」地域と並んで最も困難を伴った、写真中、はだしで歩く少年が見える。
「博多港引揚資料展」より


「博多港に接岸する旧日本軍の上陸用船艇」(昭和20年10月、米国立公文書館資料)↓
甲板には復員兵たちが並び、陸側には帰国を待つ朝鮮半島の人々が並ぶ、博多港での復員・送出の光景。「博多港引揚資料展」より


「博多港に着いた「満州」からの引揚者」(昭和21年6月、米国立公文書館資料)↓「博多港引揚資料展」より



『引揚港舞Iの記録』には、
 〈 興安丸など32隻が就航
 引き揚げ初期には、日本船のほか米軍のリバティ船(第二次世界大戦中、アメリカで造った構造の簡単な船)などが就航し、中国の上海、葫蘆島からの引き揚げに当たっていました。引揚第一船の入港は昭和二十年十月七日で、これは前月の十六日に朝鮮人七八八人を釜山へ送還した雲仙丸が、復健で旧陸軍軍人二、一〇〇人を乗せて入港したものです。
 引き揚げにたずさわった日本船は総数三二隻で、この中には戦前大連航路に就航し、戦時中海軍病院船であった高砂丸(九、三〇〇トン)、関釜連絡船の興安丸(七、五七四トン)などが配船され活躍しました。
 各船の搭載人員はおおむね二、〇〇〇人から三、〇〇〇人で、多い日には一日に四隻が入港しました。  〉 
 ♪異国の丘 引揚記念館ではテーマ・ソングのように流れている。you tube より↓
この歌は記憶にある。たぶんラジオで聞いたものと思うが、何も意味は知らなかった。『引揚港舞Iの記録』には、

 〈 《異国の丘》敗戦後、シベリアに抑留された将兵が強制労働の合間に、はるか故国を偲びながら朝な夕な口ずさんでいたといわれる歌謡曲異国の丘≠ヘ、昭和二十三年八月一日、NHKの「素人のど自慢」で、復員して来た一人の元兵士が歌ったのがきっかけとなって、その歌詞・メロディともに多くの人々の共感をよび、たちまち全国のすみずみまで広がった。
極寒、炎熱の地で虜囚の日々を過す夫や息子を偲びながら、老いも若きも、あるいは身内にそうした人がある、なしにかかわらず、多くの人々によって歌われたのである。また、
……昭和二十五年一月二十一日夜、舞鶴へ帰港した高砂丸が、翌二十二日早朝、上陸を前にして待機中、胸に日の丸の記章をつけ、同じく日の丸の小旗を振ってデッキいっぱいに並んでいた引揚者の一隅から、突如、朝もやをついて″異国の丘≠フ歌声が流れてきた。それは、たちまちアラシのように船全体を包む大合唱となった。内地の留守家族達が肉親を偲んで歌っていたこの歌が、引揚船で歌われたのは、引き揚げ開始以来、これが初めてであった……と、当時の朝日新聞(昭和二五・一・二三付)は報じている。  〉 

 ♪岸壁の母 舞Iのテーマ・ソングであった。
↓you tube より。『引揚港舞Iの記録』には、

 〈 《岸壁の母》平沖に停泊した引揚船からランチに乗り換え桟橋へ、人々の重味でしなう木造の桟橋を渡るとすぐ目の前に「歓迎」のアーチ、それを渡ると夢にまで見た祖国の土だ、ふるえる足を踏みしめながら感激の第一歩をしるす。桟橋に立ち入れない出迎えの家族や関係者達は、アーチの周りに府県名や肉親の名前を大書したノポリを立て、帰って来る人の姿を求めて、いまか、いまかと待ちわびる。やがて、そこ、かしこから悲鳴にも似た嗚咽と、爆発するような喜びの声の交錯…。(朝日新聞より)。
 これが引揚船が着くたびに何時も見られた出迎えの光景である。こうして船の着く日は全国各地からまだ帰らぬ夫やわが子を待ちわびていた留守家族が出迎えに、あるいはその消息を求めて、どっと繰り込んできた。こうした出迎えの人々のなかに、いつのころからか、毎回、同じ顔ぶれの人が桟橋の脇にたたずんでいる姿が見受けられるようになり、これが、いつしか報道陣の目に止まり「岸壁の母」あるいは「岸壁の妻」として取り上げられ、たちまち有名になったのである。もっとも、こうした人達は、当時、マスコミに取り上げられた特定の人だけでなく、ほかにも、たくさんの人達がそうであった。
 なかでも、レコードで一躍有名になった「岸壁の母」のモデルといわれる東京都の老婦人は、昭和二十五年一月、ナホトカからの引揚船が舞鶴へ入港して以来六年間その都度、舞鶴へやって来て息子の姿を求め″もしや、もしや≠ニ桟橋に立ち続けた。当時、東京−京都間は急行列車でも一晩がかり、そして京都−東舞鶴間も鈍行列車で約四時間、時間的にも経済の面でもつらい旅であったと思われる。三十一年に息子の戦死公報が届いたが信用せず、いつかは帰って来る、と三十七年間抱き続けた願いも空しく、遂に五十六年七月もしや…≠ェ果たせないまま亡くなった。
 こうした情景を歌った「岸壁の母」のレコードは、まず昭和二十九年十月、菊池章子がテイチクレコードへ吹き込み、次いで四十七年二月、二葉百合子がセリフ入りでキングレコードへ吹き込んだのが爆発的な人気を呼んだのである。
 また、歌にこそならなかったが「岸壁の母」にも増して、当時、話題を呼んだのが「岸壁の妻」である。鹿児島県のある婦人は、満州で別れた獣医のご主人を待ちわびて二十六回も舞鶴へやって来て桟橋のかたわらに立っていた、という。また舞鶴市内のある婦人は、引揚船の出迎えに便利なようにと、平桟橋が見える舞鶴市立大浦中学校(当時)に用務員として勤め、三人の子供を育てながら十三年間も帰らぬ夫を待ち続けた。あるいはまた、市内の同胞援護会の寮には、六〇数人の戦争未亡人に交って、一時は夫を待つ九人の妻が入寮し、船が着くたびに桟橋へかけつけ、その合間には手仕事やミシンを踏みながら、二年ないし三年も帰らぬ夫に思いをはせながら待ちわびていたという話も残っている。  〉 


 32隻の引揚船がいつ舞Iへ入港したかのデータは、「引揚船の入港状況」 を参照して下さい。


↑デッキをうめつくした帰国者たちは、ちぎれんばかりに手を振る(1)

『引揚港舞Iの記録』には、
 〈 引揚者総数の七三パーセントは旧軍人で、一般邦人は約二六パーセント、また、引揚者が抱いて帰った遺骨は、地区別にみるとソ連一一、六五三柱、中国四、五四二柱、朝鮮七〇柱、その他四柱であった。なお、せっかく祖国へたどり着いたのに舞鶴地方引揚援護局内で死亡した人が三六〇人、引揚船内での死亡が五九人、もあり、さらにこれら引揚者の中には孤児が一〇一人もいて哀れをさそった。  〉 

帰国できた人はまだしも幸運であっただろう。帰れない人が多かった。多くの人は遺骨すら帰れなかった。その実数が知りたいがデーターはない。

注意! これらの「過去の歴史」は何も過去だけに限られるものではない、将来再び起きるかも知れない物語でもある。今を生きるわれらがウッカリすれば、即繰り返されることになる。



32隻の引揚船の画像
   (順不同)

舞I港へ入港した引揚船は32隻。そのすべて
引揚記念館藏の「モデルシップ友の会」製作の模型。キャプションはそれに添えられていたもの。


 〈 引揚船
舞鶴港へ入港した引揚船はのべ346隻にものぼりました。引揚者を輸送するための船はほとんどが貨物船でした。客船の多くは第二次世界大戦中に「特務艦」として日本軍に徴集されてしまい、そのほとんどが戦闘によって沈没しました。引揚者を乗せた貨物船の中は、夏は蒸し風呂のように熱く、冬は凍るほどの寒さだったといいます。また、引揚船中で伝染病が発生すると日本へ到着しても下船が許されませんでした。  〉 

引揚船などと名はカッコつけているが、見てのとおり、貨物船や軍船である、今で言えばタンカーかコンテナ船か。僚船のほとんどは(9割近く)アメリカ潜水艦などの攻撃ですでに沈んでいて、終戦まで生き延びた、これらいずれの船も驚きの超幸運艦、拝んでおくと少し幸運を分けてもらえるかも。生き延びて乗船した引揚者たちも、そうした意味の幸運な人達であった。ワタシだったらたぶん生き延びることはできなかったかも、拝んでおこう。粗末にして、次に戦争があれば、絶対に生き延びることはできないことだろう。
興安丸や高砂丸などだけは貨客船で、どうですリッパな船で迎えたんですよともいいたいのか、これらの船だけが宣伝され、市民の間では知られている。

 こじま
引揚船:こじま
総トン数:878トン
速力:15.5ノット
登録寸法:78.8×9.1メートル
建造年:昭和20年
船の種類:海防艦
主な引揚地:ナホトカ・遮湖
就航回数:2回
引揚乗船者総数:59名


 白山丸

引揚船・白山丸
↑サハリンのホルムスク(真岡)からの帰国者を乗せた引き揚げ最終船白山丸(昭和33.9.7西港第2ふ頭で)(1)
 背後に建部山が見える。この船で満13年にわたった引揚は終わった、とされる。しかし「残留孤児」や「残留婦人」はじめ遺骨等まだまだ残されていて、引揚は実は今もって終わってはいない、何も過去の物語ではない。
引揚船:白山丸
総トン数:4.351トン
速力:16.4ノット
登録寸法:108.0×15.0メートル
建造年:昭和16年
船の種類:貨客船
主な引揚地:上海・真岡・塘沽
就航回数:15回
引揚乗船者総数:7.452名


 雲仙丸

引揚船:雲仙丸
総トン数:3.140トン
速力:13.0ノット
登録寸法:92.0×14.5メートル
建造年:昭和17年
船の種類:貨客船
主な引揚地:ナホトカ・釜山
就航回数:4回
引揚乗船者総数:4.745名


舞鶴への引揚げ第一船となった。当館の語部たちの発行した『白の残像』に、

 〈 第一船 雲仙丸
昭和20年10月7日、引揚げ第一船の雲仙丸は釜山より2100名の軍人、一般邦人を乗せ戦争悲劇の後遺症ともいうべき哀しい事件を孕みながら、舞鶴西埠頭に入港する。今更ながら胸が痛む。  〉 
後に運輸省の航海訓練所の練習船銀河丸(初代)となったという。

舞鶴への引揚の当初は平ではなく、西舞鶴であった。

一般市民の引揚げが中心であった。この時代を「上安時代」と呼んでいる。
今は何も残ってはいない。西舞鶴の駅前には、当時を知る松がポツンと一本ある。碑の一つもない。

民間引揚者の収容所が舞鶴のあちこちにあったが、それらは市民に伝えられることも少なく、いつの間にか姿を消していった。最後に残った上安寮の1棟もつい最近、何の保存の手当もとられることなく姿を消した↓

一生懸命にオモテナシしました、ホコリですジマンです、口先だけの者のむなしい言葉に聞こえる、何もしなかった者のネゴトのようにも聞こえる。

 ヴィクトリー型船


建造年:1941〜1945
速力:15〜17ノット
出力:6.000〜8.500馬力
寸法:139×19メートル
備考:第二次世界大戦中、アメリカで建造された戦時標準型船で、リバティー型を改造したものである。


 大成丸(たいせいまる)

引揚船:大成丸
総トン数:2.430トン
速力:13.0ノット
登録寸法:90.1×12.2メートル
建造年:昭和23年
船の種類:航海練習船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:2回
引揚乗船者総数:62名


 長鯨

引揚船・長鯨
総トン数:5.160トン
速力:16.0ノット
登録寸法:123.0×16.18メートル
建造年:大正13年
船の種類:旧海軍潜水母艦
主な引揚地:沖縄
就航回数:1回
引揚乗船者総数:6名


伊根湾で米海軍機の空襲にあい、沈没しかけた。

 高砂丸

引揚船:高砂丸

総トン数:9.315トン
速力:20.15ノット
登録寸法:139.9×18.5メートル
建造年:昭和12年
船の種類:貨客船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:30回
引揚乗船者総数:55.205名


 興安丸

引揚船・興安丸
↑歓迎と報道陣の船が大丹生検疫錨地に着いた興安丸を取り巻く(1)興安丸の時鐘、これはレプリカ
 今の石炭火電の沖合で、今はこの風景はない。
興安丸もなく、時鐘だけが残されている。
海上自衛隊はこの船を改造して空母にしたかったとか、懲りない連中である。
「興安」というのは大興安嶺・小興安嶺の興安かと思う、満州語で砂丘の意味という、大興安嶺は満州の西の壁、小興安嶺は北の壁である、嶺というより高原の感じだという。
引揚げと言えば興安丸というくらいに舞鶴では有名な船であるが、昭和28年に初めて舞鶴へ入港していて、舞鶴引揚げでは最も後期の船である。引揚者の手記などにはよく興安丸で帰ってきたとしているが、28年より以前に引揚げているものが見られる、何かの記憶違いではなかろうか。
瀬島龍三氏も31年夏にこの船で引き揚げた、『日本新聞』の浅原正基氏も同じ船だった。ワタシの恩師もこの船。731関係者もこの時代に帰国した(一番先に逃げた大物やデーター類は別で、これは逃げ遅れ組のこと)。
引揚船・興安丸
総トン数:7.103トン
速力:23.1ノット
登録寸法:125.5×17.46メートル
建造年:昭和12年
船の種類:貨客船
主な引揚地:塘沽・ナホトカ
就航回数:20回
引揚乗船者総数:17.891名


 信洋丸

引揚船:信洋丸
総トン数:6.888トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・興南
就航回数:17回
引揚乗船者総数:32.321名


 辰日丸

引揚船・辰日丸
総トン数:6.890トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:大連
就航回数:1回
引揚乗船者総数:3.540名


 第一大拓丸

引揚船・第一大拓丸
総トン数:6.886トン
速力:13.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:17回
引揚乗船者総数:36.017名


 英彦丸

引揚船・英彦丸
総トン数:6.886トン
速力:13.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:11回
引揚乗船者総数:23.494名


 山澄丸

引揚船・山澄丸

総トン数:6.850トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和19年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:13回
引揚乗船者総数:24.716名


 大瑞丸

引揚船・大瑞丸

総トン数:6.872トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:大連
就航回数:1回
引揚乗船者総数:3.202名


 米山丸

引揚船・米山丸

総トン数:6.670トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和19年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:7回
引揚乗船者総数:16.775名


 恵山丸



総トン数:6.891トン
速力:10.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:19回
引揚乗船者総数:41.444

「命のビザ」で有名な杉浦千畝氏家族がこの船で引き揚げている。終戦当時は氏はルーマニア勤務でシベリア鉄道経由で大連から博多へ、各地で停められたため半年かかったそうで昭和22年4月のことと言う。彼が救った約6千人のユダヤ人たちは、シベリア鉄道経由でウラジオストックへ、そこから敦賀へ、運んだ船ははるぴん丸・気比丸・天草丸・河南丸、これらの船はすべて魚雷や機雷で沈没していて、引揚時にはすでにいなかった。

(簡単なキャプションでは何もわからないが、引揚船に使われたような船は、いずれも「奇蹟の超幸運艦」ばかり、普通程度のウンの船なら、もうすべて沈んでいた。
社会実情図解」によれば、「太平洋戦争〜海に消えた船たち」には、「開戦前、世界第3位の船舶保有を誇った商船(100総トン以上)は2568隻、保有船腹の88%が沈没。漁船や機帆船は4000隻超が喪失したと見られる。
商船は戦時海運管理令により軍の作戦行動と民間物資の輸送に配分され、漁船も輸送用に軍に徴用された。
これらの輸送船を沈めたのが米軍の潜水艦だ。第一次世界大戦でドイツのUボート(小型潜水艦)が、島国・英国の息の根をとめるために海上輸送路を断った通商破壊作戦を踏襲した。日本は歴史に学ぶことなく、輸送船団の護衛のために海上護衛総司令部を創設したのは、戦争も後半の1943年11月になってからだった。」
さらに東京新聞の大図録「太平洋戦争 日本商船隊の壊滅」(2012.7.29)では海域別の沈没船数と犠牲者数のデータが掲げられたのでこれを同時に図示した。同紙によれば総トン数ベースの沈没原因別割合は、雷撃(潜水艦攻撃)が56.5%、空爆が30.8%、触雷が6.7%、その他が1.1%、普通海難が4.9%となっている(財団法人海上労働協会「日本商船隊戦時遭難史」による)。

船だけが沈んだのではない。人や食糧や武器弾薬等が超満載されていた。
『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑』によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=一八万二〇〇〇人、陸軍軍人・軍属=一七万六〇〇〇人、合計で三五万八〇〇〇人に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、八万八一三三人(『日露戦争の軍事史的研究』)と比較すれば、この三五万八〇〇〇人という海没死者数の重みが理解できるだろう。(『日本軍兵士』より)
米潜水艦は一隻が失われるまでに25隻もの敵商船を沈めた。ムテキの日本潜水艦はたったの1・4隻しか沈められずに自分が沈められた。)


杉浦千畝氏の語録。
大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです

日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思ってない

果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している

世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません

当館地元の市長市民の語録
… (次からはここに書くからアホを言わないようにしてくれ、しかしまた話題に上りゴーゴー非難されている。平和と民主の社会の根幹をゆるがすようなことをヘーキでいい、それをまた広報誌も秘書課ノーチェック、ヘーキで乗せる、このマチはネっからどうも狂っている、中学生レベルの話で、杉浦氏と並べて書くのも身の程知らずか、小さい字で書こう。上に立つ者ほど謙虚にもっと謙虚に、どんな声にも真摯に耳を傾ける姿勢を貫かないと、すぐに感染するから全体が全部アホばっかりクソばっかりになってしまうぞ。少数を無視し多数派の強行採決などは民主主義ではない、日本国会などでは多数派の常套手段で、あれが民主主義だと誤解している者も多かろうが、あれは形骸化したもう死んだ「民主主義」で、ファッショ的暴挙などと昔は呼んだが、その通りでファシズムのはしりで、あたかも民主主義であるかのように装った民主主義の反対物である。その行き着く先は当館が教えてくれる。何とも考えずについホンネが出るのだろう、言い訳しているが、ヘンな言動は今回だけでもない、一人一人を大事に考えないような者はクソである、人と呼べるようなリッパな者ではなかろう。ヘイ、ヒットラー、ヘイ、トウジョウ、ヘイ、イシイシローと呼ばれることはもう避けられまい。もうほとんどそうなのである)
「京都新聞」(19.5.25)  広報まいづる5月号の市長コラム
少数派を排斥する、あるいは、排斥しなくても、見捨てる、無視する、まして敵視することは、ヒットラーに直結する、民主主義の危機である。アメリカのトランプも同じだが、自分らが多数派と見て何もないカラッポが偉そうに吹いているのである。あれらは少数派、ワシはアレらとは違うからダイジョウビ、そう考えたりしていると次は自分になる、そう気づいたときにはもう遅く、ダレも助けてはくれない、助けられない、どうにもならなくなっている、地獄世界になっていることを歴史は教えている。「世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません」少数派、多数派などと分けてはならない、そんなことにはたいしたネウチはない、正解が得られそうにもない場合のとりあえずのことであって、1+1の解すら多数決で決めたりはできない、そのテイドのもの、もしも世の中バカばかりだったら、多数派だけで事を進めればどうなるだろう、その行き着いた先をこれらの船の悲劇が物語る。
どうしてかくも情けないマチに成り下がってしまったのか。やはり根底は経済であろうか。地域経済の停滞というより後退が政治から文化、社会全般の質を引き下げてしまったと思われる。まあ××市ばかりでなく国全体が、アメリカも含めてそうであって、この状況は一つ間違えると危険な方向へ進んでしまうかも…
首長は多数派の公僕ではない、全体の公僕であろう、多数派といえども全体の一部でしかない。すべての公務員も行政組織もはみなそうなのだが一部の者のためにあるのではない、アタリマエの話だがその範となるべき者の言い分とも考えられないようなことである。市長に就任すればその出身派閥がどうあれ、全市民一人一人のための市長である、市議もそうである、出身は関係なく市民の全てが満足できるよう努めなければならない、もちろん少数派の公僕でもあり、少数派の声を聞く会議とかも開くべきことであるが、切って捨る敵視無視するなどはまったくの責任放棄であろう。少数多数は関係のない話で0点市長が己が職務をサボルために思いついたウワゴトであろう。また少数派の方が正義ということはよくあるし貴重な意見も少数派にあることも実際多い、また社会矛盾や未整備のツケやしわ寄せは少数派弱者に向けられる場合がほとんどである、少数の声は大事にすべきものなのである、こうした所から社会が崩れていく、人間が破壊されていく。大きい小さいなどは問題ではない、ナカミが大事、人間よりも象のほうがずっと大事か。少数問題が少数問題でとどまり社会全体に広がり多数にならないよう対策するのが基本だろう。ネボケたことをほざいている時ではない、少数派も多数派もみんな力を貸してくれないか、小さな田舎町だから、少数は排除するなどのアホは考えてはならない、どっか上の方でアホげた対立があるとしても、それは地方に持ち込んではならない、お互い尊重しあい助け合いミンナで頑張っていこう、それが田舎のよいとこだろう、とか言えよ。患者がここがこうなんです、と話すのを聞きもしないで看護婦と話している医者などは医者でなかろう。医者とも思えないハナシではないか、患者の訴える病状を丁寧に聞かないことには治療はできないだろう。軽症は横向いていて、ナンだその態度はと問いただすと、もっと重症になってから来いというようではもう医者ではなく腐った権力者にシンから成り下がったようである。言っても変わるわけもない、対抗馬がないので権力者はたかをくくって、共済病院院長の金看板の裏側はその程度の人物ということだが、実態の超低レベルのままに、少数多数はかかわりなく同じ市民をあなどるまでにのぼせ上がっている、これが今の市政、国政か。有力な対立候補がいない、これが民主主義、平和の危機を生んでいるので、口先の非難だけでは問題は解決しない。草の根側の無関心と無気力が根底にある問題であるが、これが彼らに善良な市民に対する侮辱的態度をとらせる根底にあり、仕事もできないコッパ役人根性丸出しにしたものか、それとも一部のクソ市民のネゴトか、そうした三流以下の言動は少数派でなくともまともな政治センスを持つ市民は怒る。少数者へのこうしたヘイトすれすれ、いじめに近い発言や少数派の発言中は聞きもしないで側近と雑談しているような風潮は絶対に許してはならない、人類が築き上げてきた民主主義を侮辱し挑戦し冒涜しようとする態度で田舎町の市長程度ができたりするはずもなく破綻は間違いはないが、市民がそれを傍観したりなかには加勢したりするようでは舞鶴はホンマにダメになってしまう。オマエを引きづり落とすぞのファイトとポリシー兼ね備えた、誠に自治体の首長にふさわしい人物を実際に立てないと、自力で更正したりはしない。その候補者だが、神仏の助け、T様(TrumpやDoctorTでない方の)、次の選挙にお願いできないでしょうか、ワタシとしてはそう願うのですが、ガンバレ、力足らずですが、応援させてもらいます。


ある団体が現市長のヘイトと取られかねない発言に対して、それをどう思うかと市会議員全員に問うたところ、26人中20名が無回答であったという(6.25)。民主主義と自治の基本と責任を脱した精神を共有する同類と見てよかろう。市民の声、そんなもん聞くかの権力翼賛多数派が牛耳るその程度の町ということで、ヘイトぽい展示に舞鶴市民であっても嫌気や怒りを訴える人もある、このクラスの市民にロクな者がおらん、これではロクなことができるわけもない、そうした歪みと弱みの政治と行政の元に当館も置かれていると理解しておいていただきたいと思う。
こっちの大ホラフキか、それともあっちの税金大泥棒かと、田舎では元々優れた人材が大変に少なく必要数に満たないのだから、選挙という民主主義の基盤すらも意味があまりなく、どっちもいやや、と誠に情けないと半泣きで投票することになり、何万回選挙しても多数派は役立たずの惰タコのムレにしかならない。議員の選び方から考え直す時に至っているのかも知れない。このあたりをよく心得て行政に当たらないと、大事な政治問題に何も答えない、そんなアホならサルでもできる、多数派の声しか聞かんでは確実に舞鶴も当館も亡んでしまう。
アホなマチとは聞いたことあるが、まさかウソだろ、という方も多かろう。金看板をそのまま信じてしまうほどの田舎者ではないメディアの危機感が伝わってくる、さすがだが、たいていの当市民は田舎的呑気である。
『京都新聞』「取材ノートから」「行政の主導権」
『舞鶴市民新聞』に市民が投稿している何通かあるが、ワタシが勝手にそれをここで全世界に発信していいものかどうかわからない、今はここではとりあげないが、「」「」「」「市当局による検閲のようなことは謹んでくれないか」「それを言っちゃぁおしめぇよ」などが見られる。
市民団体の折り込みビラは、2019.3定例本議会の市長答弁「26分の4反対したって、流れは変わらんのですよ、全然。そういうことを余りしつこいんで重ねて言っておきます。」に触れている。正式な市議会の本会議の市長答弁の正式な記録である。もう言い訳もできまい、語るに落ちている。これは前代未聞、たぶん右翼もビックリ、反共のガリガリでも口にはすまい、全国的にもこうした首長はないのではなかろうか、26分の4の少数の家庭ゴミは回収しません、というのと同じで、強い者の味方の男の反民主主義者、反自治者の異常な本性が丸出しである。
市内にはいろいろな人がいてそれで回っている、同じ者ばかりなら世の中は回らない、市内すべて医者ばかりだったら回らないのだから、一枚の政策だけではすべてを満たすことは当然できない、社会はますます複雑になり人々の立場も多様性が広がる、いろいろな意見を聞かねばならないのはこれは当然のことであり、それが仕事である。少数であれ、多数であれ社会には欠かせない大事な構成者である。それも理解できず反社会的、反自治的な何か自分を超権力者とでも思い違いした超国家主義的錯誤の役立たずの幼児ような発言である。厳しく糾弾されて当然。


 栄豊丸

引揚船・栄豊丸

総トン数:6.886トン
速力:13.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:14回
引揚乗船者総数:27.015名


 大久丸

引揚船・大久丸

総トン数:6.872トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:1回
引揚乗船者総数:2.555名


 遠州丸

引揚船・遠州丸

総トン数:6.873トン
速力:10.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:23回
引揚乗船者総数:48.960名


 明優丸

引揚船・明優丸

総トン数:6.868トン
速力:12.5ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和20年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:16回
引揚乗船者総数:35.849名


 朝嵐丸

引揚船・朝嵐丸

総トン数:7.394トン
速力:10.0ノット
登録寸法:135.94メートル(全長)
建造年:明治33年
船の種類:客船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:8回
引揚乗船者総数:14.001名


 永徳丸

引揚船・永徳丸

総トン数:6.923トン
速力:12.43ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和19年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:16回
引揚乗船者総数:35.113名


 間宮丸

引揚船・間宮丸

総トン数:1.125トン
速力:13.0ノット
登録寸法:63.0×9.9メートル
建造年:昭和4年
船の種類:貨物船
主な引揚地:釜山
就航回数:2回
引揚乗船者総数:54名


 進徳丸

引揚船・進徳丸

総トン数:2.792トン
速力:9.5ノット
登録寸法:91.0×13.4メートル
建造年:大正13年
船の種類:航海練習船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:1回
引揚乗船者総数:47名


 北斗丸

引揚船・北斗丸

総トン数:1.631トン
速力:13.0ノット
登録寸法:75.5×11.0メートル
建造年:昭和27年
船の種類:航海練習船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:2回
引揚乗船者総数:98名


 信濃丸

引揚船・信濃丸

総トン数:6.155トン
速力:15.4ノット
登録寸法:133.5×15.2メートル
建造年:明治33年
船の種類:貨客船
主な引揚地:ナホトカ・大連
就航回数:19回
引揚乗船者総数:38.621名


 "敵艦見ユ" の艦
日本海海戦に先立って、北上するバルチック艦隊を対馬沖で最初に発見した船で、「敵の艦隊、二〇三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」の電文であった。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の“警報“を発した船になり、日本海海戦大勝利に大きく貢献する情報をもたらした。
ずいぶんと長い船歴があり、実によく働いた超幸運艦、一時は蟹工船にもなり、引揚げ時代になれば浮かんでいるのが奇跡のようなボロ船であったという、南方引揚げにも従事し、『俘虜記』の著者(大岡昇平)たちの部隊もフィリピン、レイテ島へ迎えにも行ったという。海外引揚げを象徴するのは興安丸ではなく、この船かも知れない。
どうせこんな小説などは読んでるはずもなかろうから(失礼、どこかの町の不勉強な人たちの場合のみ)、少し引かせてもらうと、…俘虜記

 〈 …船尾に誌された船名も漸く明らかになって来た。
「信濃丸」
 はて、どこかで開いたような名前だが−−俘虜がこれぞ即ち日本海海戦の前夜、最初に「敵艦見ゆ」の無電を放ったあの有名な信濃丸であると合点したのは、上船した後だった。
 この以前の日本海戦史の花形は、当時復員のために就航している二隻の中の一つで戦時中ずっと日魯漁業の鮭工船に使われていたが、終戦時日本海にあって撃沈を免れた。一度千島から俘虜を運んでこれが二度の務めであるが、南方へは日本船の第一陣の由である。…


船橋の正面には鋼板に信濃丸竣工の日附が英文で刻ってある。一九〇〇年英国の或る港湾都市の製造である。これは私よりも九歳年長だ。日本近海の激浪で解体してしまわなければよいが。
 その鋼板の上の船橋に船長が立って、じっと前方を見詰めている。五十に近い白髪。
鮭工船時代から引き続いての船長で、温厚な人柄らしい。彼は船員や俘虜達のいさかいに加わらず、ただレイテの俘虜が持っているライフやタイムを要求した。敗戦後やっと四カ月である。彼はそれによって戦争の実状を知るのがうれしいといっていた。  〉 

『水木しげるのラバウル戦記』にも信濃丸が見える。まだ引揚時代前の話(S18の終わり頃)で、当船は氏の陸軍部隊をパラオからラバウルへ運んだ。前後して出発したラバウル船団はすべて途中で沈められたという。


 〈 パラオに着くと、また里見が、「いよいよ最後だ」という。「あんた、まだ船に乗っとらんのに、そう悲観せんでも」というと「ま、あの船、みてみ」というのでみると、ナントこんな船が日本にまだあったのかと思うほどの古船。名前をきくと、日露戦争に手柄をたてた信濃丸だった。
船体に塗るペンキを節約しているから、「ああ、もうおしまいだ」と思うほどみすぼらしかった。
舷側をグーツと強く押すと、鉄が、即ち船体の一部がはがれた。おどろいて船員にきくと「この船は浮かんでるのが不思議なんですから……」というおそろしい返事。
船はいつまでたっても出航しないようにみえた。だが、それは普通の船のことを考えていたからだ。この船は七ノット位で進むから、普通の人間には進んでんのか止まっているのか、見分けるのがむつかしいのだ。
里見は「もうおしまいだ」と念仏をとなえるので 「やられたら泳げばいい」というと「あんたアメリカまで泳ぐの……」といわれて返事に困った。
船室は一番底にあり、横から煙突が出ていたため、ものすごく暑い。古兵殿は甲板に出て寝る。「初年兵は下だ」の一言で、我々は「地獄の釜」みたいなところで寝かされたが、いくら健康でも、四十度近くあるようなところでは寝られない。しかたなく、スキをみて甲板に出て体温を調節した。
めしは半分海水のまぎったもので、どうしたわけか、まずくて喉を通らない。たりないはずのめしも余った。おかずはニンジンの乾燥野菜だけときているから、目まいのするようなメニュー。馬ならいざ知らず、ニンジンばかり十日も食わされたら、たいていおかしくなる。船員にきくと、うまいものは船底にあり、簡単に出せるのはニンジンだけという話だった。

船には上陸用舟艇、即ち大発というやつを六隻ばかり積んでいたが、おろすのが大変だ。
なにしろ、日露戦争で日本海海戦の時「敵艦見ユ!!」の電報を一番最初に発信した信濃丸だから、装備が旧式らしく、いくら待っても上陸出来ない。  〉 

←氏の『総員玉砕せよ!』より。超有名なシーン
捕虜になることはできないので、玉砕命令が出る、それでも死に切れないと、命令違反で、処罰される。将校なら腹を切って自決、兵なら次は必ず玉砕するようバンザイ突撃の最前線に出される。
命令した者はノーノーと生きていることが多い。
こうしてただ忘れ去られるためだけに死んでいった兵士や船舶も多かった。このページには取り上げないが忘れてはなるまい。



また、
「里の秋」の元歌詞
 

きれいなきれいな椰子の島
しっかり護って下さいと
ああ父さんのご武運を
今夜も一人で祈ります

大きく大きくなったなら
兵隊さんだようれしいな
ねえ母さんよ僕だって
必ずお国を護ります

さよならさよなら 椰子の島
  お舟にゆられて 帰られる
  ああ父さんよ 御無事でと
  今夜も母さんと 祈ります


「もずが枯木で」
もずが枯木に鳴いている
 おいらは藁をたたいてる
 わたびき車はおばあさん
 こっとん水車も回ってる

 みんな去年と同じだよ
 けれども足ん無(ね)えものがある
 兄(あん)さの薪割る音が無(ね)え
 バッサリ薪割る音が無(ね)え

 兄(あん)さは満州へ行っただよ
 鉄砲(てっぽ)が涙で光っただ
 百舌と寒くも泣くでねえ
 兄(あん)さはもっと寒いだぞ



こうした歌詞もたいていは肝心な部分は消されていて、知る人も少ないが、忘れてはならない歌詞である。これを忘れるとバンザイバンザイのバカと同じになる。恐ろしいことだが、今では大半の「リッパな」日本人でもそんなアホなことだが、引揚げはこうした軍国日本の略奪と侵略の前史、侵略された方は言うまでもなく、侵略にいやながらも加わらざるをえなかった人々をも苦しめた、支配者のクソどもが隠したがる暗黒の前史、があっての当然に行き着いた結果であることをユメ忘れてはなるまい。引揚者たちが意外と明るい表情をみせるのは、あああの暗い時代が終わった、これでワタシをとりもどせるの喜びがあるものと思われる。舞鶴市民が悲惨だとばかりに勝手に思い込み「温かく迎えおもてなしした」とかの結果ではまったくない。過去に向き合うことは当然として、今の国の政治にもしっかり目を向けてもう二度とこうした過去の日本を繰り返さぬように努力する姿勢が、市民としては本当に温かく迎えることになる。どちらもエエカゲンで不勉強で、クサレ官僚ベタベタのにせ市民が、「温かく迎えました」では、ヌカセとなる。
引揚げの手記にも「ナホトカから信濃丸で引揚げた」というものも見られる。しかし名を覚えてればいいほうで、たいていは無関心、とても大岡氏ほどにはしっかり当船を見ていない、やっぱりブロの書く物は数段違うよう、文化力の差、ならいいが人間としての差があるのかも…、不本意ながらむこうの方々にはエライ迷惑かけました、の言葉などはあろうはずもなく、こうしたレベル、スタンスの「証言」の価値はそう高くはないだろう。もちろんそうしたラベル、程度でしかない悲しき当館のような展示施設や書物なども同じことで、そのままでは学問的、人間としてのタマシイ的なマコトの意味での価値の高いものとはなりえまい。
また日本人が「温かく迎える」のは当たり前のハナシで、仮に言葉通りであったとしても何も自慢のことではない。もしジマンげに語れば、なんじゃそのテイドかアホめがと冷笑されるくらいのことであろう。
カンコーカンコーでその流れに乗ろうとして努力すれば、そのお客さんになる相手の国内認識水準、期待水準と、まして世界に売り出そうとすれば、その当然達しているべき迎え入れの物質的精神的水準と、足元の実際の客観的な水準に大きな差がありすぎることに気付く。我が身のそのまことに貧相な分際をわきまえないどこぞのマチが、もしやカンコー化で何らかの利益もたらすとすれば、一日も早くその乗り越えがたいほどの大差に気づき、それを埋める猛烈な死ぬほどの努力をそれこそ官民あげて取り組むことにあろう。従前のママではカンコー化でもうけるなどはありえまい、カンコー化に力を入れれば入れるほど逆にますますますますますます全世界から見放されよう。


 新興丸

引揚船・新興丸

総トン数:2.577トン
速力:11.0ノット
登録寸法:90.8×13.72メートル
建造年:昭和13年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ・釜山
就航回数:2回
引揚乗船者総数:1.479名


 北鮮丸

引揚船・北鮮丸

総トン数:2.256トン
速力:12.0ノット
登録寸法:75.5×13.05メートル
建造年:大正9年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:1回
引揚乗船者総数:1.205名


 宗谷

引揚船・宗谷

総トン数:2.224ノット
速力:12.5ノット
登録寸法:97.5×12.8メートル
建造年:昭和12年
船の種類:砕氷貨客船
主な引揚地:元山・興南
就航回数:2回
引揚乗船者総数:1.817名


 のちの南極観測船「宗谷」として有名、6次にわたって南極へ向かった。もともとはソ連より発注を受けた「ボロチャエベツ」、国際情勢悪化でソ連に引き渡されず日本で使われていたという。こんな古い船で南極へ、当時の日本はビンボーだったよう…

 永禄丸

引揚船・永禄丸

総トン数:6.923トン
速力:13.0ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和19年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:7回
引揚乗船者総数:16.332名


 大郁丸

引揚船・大郁丸

総トン数:6.886トン
速力:13.2ノット
登録寸法:128.0×18.2メートル
建造年:昭和19年
船の種類:貨物船
主な引揚地:ナホトカ
就航回数:12回
引揚乗船者総数:26.784名


 白龍丸

白龍丸

総トン数:3.186トン
速力:15.8ノット
登録寸法:98.0×14.3メートル
建造年:昭和18年
船の種類:砕氷貨客船
主な引揚地:塘沽・ナホトカ・上海
就航回数:11回
引揚乗船者総数:15.179名



浮島丸も引揚船だが、当ページでは触れません。
日本人に対してですら、このようなことであったのであり、ましてや植民地国民に対しては、想像はだいたいつくというものである。当館にも何もなく、都合の悪い過去は、なかった過去の扱いで、ジマンですホコリですの御仁も現れるはずである。



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舞鶴引揚記念館:設立の趣旨
舞鶴引揚記念館:シベリア抑留
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〔参考〕
『「歴史の証言」−海外引揚50周年記念手記集』
(山口県長門市の仙崎港は引揚港であった、そこの記録である)

貸与リバティー艦
山口県徳山市 …
昭和二十年八月十五日、終戦の詔勅が下ると共に全戦域一斉に矛を収めた日本国が、次に取り組むべき課題は、万里の異域にまで進出していた陸海軍将士軍属の復員と、外地在留邦人の引き揚げであった。
日本内地に在った軍隊、軍官衙は昭和二十年十一月三十日で一切廃止され、残務は十二月一日から復員局として継続せられた。武官であった職員も文官の身分になった。
西日本では西部軍を改編して福岡市に西部復員監部が置かれ、各上陸港には上陸地支局が設置せられた。私が記憶している所では、鹿児島、佐世保、唐津、博多、別府、下関、仙崎であった。また管区は異なるが、広島県大竹にも置かれていた。
南方や中国本土、南鮮方面からは終戦後の年内から引き揚げが開始せられたので、その方面の事情も幾分明らかであったが、北鮮満州は終戦の日を境として一切の通信交通が断絶したので、消息が不明であった。
戦前我が日本国の商船隊は世界第三位を誇ったが、一割以下に弱体化した残存商船と、旧海軍艦艇を武装を撤去して引揚輸送に充てる事を認められたので、政府はこれによって計画を立て、昭和二十四年までかけて完了する予定であった。
しかし昭和二十一年初めになって、連合国側から、終戦により余剰になっている船舶を日本に供給して日本人船員で運用する様に便宜を与えられ、戦車上陸艇LST百隻、リバーティー型貨物船百十隻(実際に運用せられた数は少し異なる)を貸与せられたので俄かに引揚輸送が促進せられた。
LSTはQ、リバーティー型はV、其の中で病院船に当てた船はVHの記号に一連番号を付して船名として呼称せられた。
復員局では事務官を輸送船に乗り組ませ、帰還する部隊が現地で乗船して航海中に、上陸地で行う業務の内の準備的な事務を進め、上陸後の速やかな処理が出来るようにするため、その要員に元陸軍将校下士官を任用した。
私も任用せられて昭和二十一年三月十日付で西部復員監部に属し、福岡市に集合、予備教育を受けたが、終了後、当時仙崎港に在った上陸地支局付を命ぜられ、四月中旬に赴任した。
当時仙崎小学校が上陸地支局庁舎として使われたが、学校も授業を続けていた。
帰還軍隊復員のための上陸地支局と、在外一般邦人引揚者のための引揚援護局が併設せられていたが、双方の業務は相関連する事が多いので、職員の多くは双方を兼務していた。
職員は元軍人が大部分で、制服も無く、襟肩章の無い軍服をそのまま着用して勤務していた。当時は恰好の良い高級船員でさえ、海難で制服を失い新調も出来ず、兵隊服を着ている者がいたような時代であった。勤務場所で揃いの制服を着ているのは警官だけであった。場内や埠頭の警備は警官が当っていたが、総ての管理は占領軍の軍政下で、私が着任した時はニュージーランド軍であった。引き揚げ者は上陸後検疫と検問を受けるが、その順路に、ニュージーランド衛兵が配置せられていた。
私は半月ほど上陸地で各種の業務、上陸から検疫、復員、入国手続までの進行等の見学実習をする内に配乗が決定し、LSTに乗組みを命ぜられたので五月五日乗船し、翌六日出港して佐世保に回航した。
その頃仙崎港にはリバーティー型等の大型船は入港せず、LSTと中小型船舶が多く、釜山港からと中国本土からの受け入れが主であった。また在日朝鮮人の帰国も扱った。
朝鮮に向けて就航していた船で今記憶しているのでは興昌丸、龍平丸、朝博丸、海防艦百六十号等があった。
我々乗組事務官も他の港の支局に配属せられた者は、主として元海軍艦艇に乗り組んだが、仙崎港では海防艦一隻だけであったから、他は商船とLSTに乗り組んだ。
LSTは商船の部類に入るので、乗船に際しては海運局から船員手帳の交付を受けた。
後日、日本の海上自衛隊が発足してから、数隻のLSTが揚陸艦として就役していた。
華北方面からの引揚者は割合いに身なりも整っているのに反し、釜山からの引揚者で、北朝鮮から脱出避難して来た人達は悲惨であった。それで双方が同じ日に上陸した時は、上陸地支局の職員も扱いに苦労が多かった。
北朝鮮、満州即ちソ連軍制圧下の地からの引き揚げ開始は漸く二十一年四月から見通しがついたので、我が方でも中国本土や南方方面に就航している船を萌芦島航路に転用して輸送陣を増強した。
私の乗り組んだLSTQ八九号も私の乗船が決定した後、華北タンクーの航路から、満州の乗船港葫芦島(フーリュイタオ)への航路に変えられた。
佐世保に回航した乗船は燃料、食糧、飲料水の補給を終え、五月十六日早朝葫芦島に向けて出港したが、その後は一度も仙崎港には入港せず、乗組事務官として扱った乗客、即ち引揚者を仙崎港に上陸させた事は無かった。
内地上陸地にいて、一番整って帰還し、復員したのは中国本土からの帰還部隊(当時の名で支那派遣軍)であった。武装無き軍隊であっても、軍隊としての編成を乱す事無く、乗船地からの船内や上陸後の行動も整然として復員した。これは中国政府の方針で、蒋介石総統や何応欽将軍の執った措置、態度には、復員業務に携わった者一同敬服した。
満州、北朝鮮では、停戦した軍隊はシベリアに移動し、壊滅して解散した軍隊の特務兵は、一般難民の中に混入しているので区別が困難であった。
私達乗務復員官は其の中から軍人軍属であった者を探し出して、復員の手続をするのが任務で、乗船者に申告を呼びかけるが、初めの間は容易に応じてもらえなかった。
彼等は現地で一般邦人の中に混入している時に、進駐した軍隊から度重なる落武者狩りを経験しているから、申告したらまた連れ戻されるか、また内地で上陸後占領軍に抑留せられるのではないかと心配していた。
しかし日が経つに従って、船の往復が続く内に情報が伝るとみえて、回を重ねる毎に容易に申告するようになった。
我々乗組事務官にも制服は無く、旧陸軍制服を着ていたが、現地で先方の官憲と接触する時には、仙崎の支局で支給せられた兵士の服を着用した。身分も復員局所属であるが、引揚援護局の職員兼務を命ぜられた。
私の乗り組んだ船が五月十六日に佐世保を出港して、渤海湾の葫芦島沖に着いたのが四日後の深夜で、二十日午前入港着岸した。やがて午後、乗船すべき団体が陸上を徒歩で来て船側に着いた時には、その難民集団の惨めなありさまは目を覆いたくなるほどであった。
老若男女入り混じって、長い月日の流浪に疲れ、僅かな荷物を背負った難民の日本人集団を見張っているのは中国陸軍の兵士である。
着剣した小銃を担いで周囲を固めており、同じ兵士等が船の前後を警戒している。乗船の指図をするのも港頭司令部の軍官である。
大日本帝国が連合国の軍門に降るその日までは、彼等軍官も衛兵も、我れわれに対して何等の力も無かったのであるが、今は此方の艦長も船長も彼等に頭が上がらない。
昨日に代わる今日の姿、祖国の勝敗が国民個人の優劣をかくまで変えるものかと、栄枯盛衰の現実を目のあたりに見せつけられた。
乗船を終って陸岸を離れた船上から大陸の天地を見返る時、我々乗組員にとっては、元の道へ引き返すだけで、また来る日もあるが、引き揚げて行く者にとっては万斛の恨みを残して去り行くのである。大人達は、「あー、今夜から安心して眠れます。開戦以来今日まで一日として、気心を許して眠った夜はありませんでした。」と述壊し、少年達に、「大きくなったら又満州に渡って見たいか?」と尋ねると、「もう二度と来たくない。」と答えた。
一夜間船内を巡回すると、幼女が眼を覚まして側の母親に、「お母さん、あの人日本の人なの?」と不安気に尋ねていた。
今まで一年近く、見知らぬ人さえ見れば、敵か味方かと疑わなければならなかった、不安と恐怖の中を生き抜いて来た幼な児の身を思いやると哀れであった。
帰心矢の如き引揚者にとって、低速のLSTは内地海域に入るまでに九十時間を要した。日に日に朗らかになる人々の間にも病人が生じて、肉親の介抱も、医師や乗組看護長の献身的な看護も効無く、航海中に病没する不運な人が毎度あった。
船内では遺体を長時間放置出来ないから、翌日水葬を執行するが、遺体を海に葬った後船尾に白く続く航跡に手を合せて泣き沈む母姉妹の姿には、前年まで幾戦場の海を乗り回した海の勇士達も思わず涙した。
内地に着いても直ぐには上陸出来ず、入港して内地の山河を目前に見ながら船上で病没する人も有った。外地港湾を出てから百四十四時間以内には上陸を許されず、検疫を受けて合格しなければならない。占領軍の定めた防疫規則で、軍政下の強圧の下では、情状をもって便宜を与える事も出来なかった。
病人を寝かせる寝台も無ければ、清潔な敷布さえ無く、鋼板の床上に軍用毛布を敷いた病床で息を引き取るのが最期であった。
入港後の港湾内では水葬は出来ないから、病没した愛娘の遺体を引き取りに来た指定通船に移す時、両親が持ち帰った乏しい荷物の中から取り出した只一枚の晴れ着を遺体の上に覆いかけ、ついて行く事も許されず船側で別れる姿には涙を誘われた。
引揚輸送船に船医を乗り組ませるために一般から公募したが、必要人数には遠く、私の乗っていた船にも看護長(職名は衛生手)一名だけであった。
乗船する引揚団体に医師が居ればその先生を医長として医務室を開設したが、居ない時は看護長一人で船内備え付けの衛生材料を使用して診療を行った。それで私も手が空いた時には手伝ったが、看護長は陸軍医学校で教育を受けた有能な衛生下士官で、臨床の経験にも富み頼もしい存在であった。
団体の中に看護婦の資格有る人を求めても申し出てくれる人は殆ど無く、上陸間際に判る事もあった。現地では医師や看護婦を強制的に残したそうであるから、再び送り返されるのではないかと懸念していた。
引揚輸送船では非常時の特別措置として止むを得ず、医師の資格を持たぬ看護長にも、航海中の死没者については死亡診断書の調製をする権限が与えられていた。
病人のためには設備も医療陣容も完備した病院船も数隻就航していたが、家族相携えて乗船する時に、一人だけ離して病院船に乗っても、当時の状況としては内地の同じ港に着くとは限らず、その際相互に落ち合う連絡の手段さえ明らかで無かったので、無理をしてでも一緒に乗るようになるから、航海中に病勢が重くなって死没する人も多かった。
船内では清水は大切であるから制限するが、甲板の洗い場で海水は自由に使用出来たから、汚れ物を交互に洗濯して、上陸する頃には少しは小綺麗になるが、現地で最初に収容する時には、内地の人が見るよりははるかに悲惨であった。
入港したら一日も早く上陸したいが、予防接種を受けたら、検疫を受けて合格しなければ上陸出来ないので、みな心ははやっても如何ともならない。入港の順序によって大抵予定よりも遅れるのが通例であったから、待ち切れない人達が、我れわれ乗組員の顔さえ見れば、上陸出来る日を尋ねたがる。
検疫も合格して上陸指令も届き、明日上陸と申し渡すと、其の夜の船内は歓喜に満ちて嬉しい準備に忙しい。一週間以上も船内で起居を共にすると、引揚者と船員の間にも交情が濃くなって上陸する時には船員は当直以外は皆船門に出て見送り、別れを惜しんで互いに交歓するが、恐らくその後再会する人は少ないと思う。
身内の者を海外に出している人は、どんな些細な事でもその方面の情報を求めていた。
占領下で国の四面を閉ざされていたその当時は、我れわれ乗組員は海外情報の窓口で、報道機関でさえ、自ら積極的な取材の道が無く、現地から船が入港した時に船を訪れて海外の情報を取材する状態であった。上陸して陸上にいる時でも、引揚船乗員である事が知られると、人々から盛んに外地の事情を聞かれたので、陸上にいても船の上の仕事の続きであった。
日本民族の大移動も半世紀の昔物語になった。引き揚げた人の中で辛うじて大人に手を引かれて上陸した幼児も初老になり、当時の壮年の人は残り少なくなったと思う。
引き揚げ輸送の最前線で挺身した艦船乗員が今幾人残っているだろうか。その後年久しくして訪ねた仙崎港では、援護局の置かれていた小学校も建て替えられて、今日では戦後生れの先生と生徒が新校舎で学び、校庭では球技を楽しんでいた。
鉄道の仙崎線は当時からあったが、有蓋貨車を代用客車に編成した列車が、正明市(長門市)駅に引き返す時には旗や灯火の手信号でそのまま逆行するような状態であったから、上陸した引揚者の多くは、二キロ余の道を正明市駅まで歩いた。その光景が今も眼底に残っている。
今日の観光地仙崎は、私にとっては、引き揚げ港としての仙崎が忘れられない。




まだありません

関連項目




引用文献
(1)『引揚港舞Iの記録』(舞鶴市・平2)
(2)『敗戦国ニッポンの記録・上(米国国立公文書館所蔵写真集)』(編著半藤一利・2007)
(3)『朝日クロニクル 20世紀』(朝日新聞社2001)


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