過去を忘れて、戦争へ行こう
引揚の歴史-2-
−概要−

引揚の概要
:援護局設置以前の時期


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厖大な人数が海外から引揚げてくることになるが、敗戦直後はその受入体制すらなかった。引揚援護局の設置は20年11月、開庁式は21年2月であった、このページはそれ以前の、敗戦から4ヶ月間ばかりの時期の様子である。

『…援護局史』は、
 〈 この時期の事情を詳らかにする資料はないが、この時期に行なわれた業務はう朝鮮人の釜山向け送還と、釜山からの帰還陸軍部隊等の受入処理であって、西舞鶴地区において舞鶴西警察署、舞鶴重砲兵連隊、京都府舞鶴出張所、山陰上陸地支局により行なわれた。

朝鮮人の送還業務
 昭和二十年八月、徴用朝鮮人の解放とその送還の決定を伝え聞いた近畿地方在住の帰還希望朝鮮人は、随意に陸続として、西舞鶴に集合して来たため、市内はすこぶる混雑した。当時、送還者の鉄道輸送、収容施設の準備、乗船の配置はもちろん、処理機関さえ設けられていなかったから、舞鶴西警察署をとりあえず取扱機関とし、天台海軍工員宿舎跡を仮借用して収容し、その処理に当り、九月十六日、その第一船雲仙丸を出港させた。これに協力したものは「興生会」京都府支部であった。
 昭和二十年十月二十四日、京都府舞鶴出張所が設置され、次いで「朝鮮人連盟」舞鶴支部も結成され、伊佐津海軍工員宿舎跡を借用して主収容所とした。
 京都府舞鶴出張所はその第三部として総務、物資、輸送、医療、帰鮮、協力の六班を有し事務に当り、興生会京都府支部は主として集結援助を、朝鮮人連盟舞鶴支部は主として集結後の宿泊、給養、出国事務援助を行なって協力した。この期間に送還したものは第一表のとおりであった。  〉 

第一表
船名 出港日 行先 人員
雲仙丸 昭20.9.16 釜山  788
昭20.10.11 1.678
白竜丸 昭20.10.12 1.800
天祐丸 昭20.10.18  965
雲仙丸 昭20.10.19 1.776
白竜丸 昭20.10.20 1.826
雲仙丸 昭20.11.12 1.888
白竜丸 昭20.11.22 1.893
泰北丸 昭20.11.28 1.175
(9隻) 13.789

浮島丸の爆沈(20.8.24)の直後であるが、この時期にも多くの朝鮮人たちが同じ舞鶴港から、延べ9隻に分乗して故国へと引き揚げていった。浮島丸のような「触雷事故」は一隻もなく安全に引き揚げていった。
のちに有名になった「平の桟橋」ではなく、この時期は西舞鶴の第二埠頭から引き揚げていった。
↓第二埠頭(昭21)(『引揚援護局史』より)
その後二回は延長拡張工事が行われていて、現在のものと較べるとずいぶんと可愛らしいものであるが、なんとなく面影が残っている。西舞鶴港の主力となる埠頭。
今はテロ対策とかいう超愚策のおかげで、埠頭の周辺もフェンスだらけで、近づけない。しかし第一埠頭にはフェンスがないし、埠頭と埠頭の間にもない。もちろん本気でテロ対策をやろうというものでもないのである。警備会社が儲かるだけで何の効果もない馬鹿げた税金の大無駄遣いであるのに偉そうにしやがるので腹がたつ。

昭和21年当時の第二埠頭


 〈 この乗船は西舞鶴埠頭において行なわれた。集合のための鉄道輸送は、大阪鉄道局福知山管理部の計画により集団輸送を行ない、前述の収容所に入った後、必要の手続を行ない乗船したのであるが、その業務は次の機関によって担任された。
  検疫−復員収容部検疫課
  兌換−安田銀行舞鶴支店
  税関−近畿海運局舞鶴支部
  乗船待期間の食事は自弁自炊であり、患者は京都府舞鶴出張所医療班が処置し、重症者は国立舞鶴病院に入院させた。  〉 

朝鮮人達を釜山まで送り、帰りは日本の引揚者を乗せて帰ってきた。
西舞鶴駅頭の「見送り松」
 〈 引揚者受入業務
 前記朝鮮人の送還輸送船は、その帰路、釜山から引揚者を運んで来た。その第一船雲仙丸は昭和二十年十月七日西舞鶴に入港した。これもまた受入機関の開設前であったから、邦人は舞鶴西警察署、陸軍部隊は舞鶴重砲兵連隊が受入処理を行なった。
 京都府舞鶴出張所は開設とともに邦人の引揚援護に当り、山陰上陸地支局は敦賀から到着した後は陸軍部隊の収容、復員処理に当った。
 この期間に上陸したものは第二表の通りであって海軍関係のものは全くなかった。  〉 

第二表
船名 入港日 出港地 乗船人数
陸軍 邦人
雲仙丸 20.10.7 釜山 2.100 0 2.100
白竜丸 20.10.8 2.300 0 2.300
雲仙丸 20.10.16 1.850 80 1.930
白竜丸 20.10.17 2.566 0 2.566
雲仙丸 20.10.30 0 1.680 1.680
白竜丸 20.11.3 0 2.217 2.217
六隻 8.816 3.977 12.793



 〈 引揚者は上陸後二十四時以内に援護局を出発、帰郷させねばならぬ指令であったから、業務は極めて急速処理を必要とし、引揚者も職員も不眠不休であった.そして一般に援護金物資の給付はなく、軍隊は舞鶴重砲兵連隊に収容して給食、復員に関する事務を行ない、邦人は埠頭において炊き出し給食を行ないつつ、埠頭広場において帰国業務を処理し、終了したものは帰郷先別に臨時列車により西舞鶴駅から送出した。邦人に対する業務は次の機関が担任した。
   検疫消毒−復員収容部検疫課
   税関検査−近畿海運局舞鶴支部
   医療・調査カード・引揚証明・外食券−京都府舞鶴出張所  〉 


この当時の引揚者の手記がないかと探すが、私の手元の資料では見当たらない。少し後の「上安時代」になるが、援護局職員の手記があったので、勝手に引かせていただく。『私の海外引き揚げ』(昭60・実行委編)に、


 〈 あゝ引揚船
京都市北区上賀茂深泥池町
森下 満
 今年十月は舞鶴が引揚者受け入れ港として四十年を迎えることになったと聴き、今更らのように、あの当時の状況を思い浮べる者の一人であります。
 昭和二十年、京都府知事木村惇宛に舞鶴引揚援護局設置の入電があり、最初に雲仙丸が入港し、同年十月七日引揚援護局が西舞鶴上安に設置になり(元徴用工員の寮跡とか)、その後、上安寮と呼ぶ。当時大陸からの引揚基地として舞鶴港が注目の的になり、日本国民は誰れもが日々の飢をしのぐため汲々としていた。私は恩賜財団同胞援護会京都府支部の一職員として、専ら引揚者援護のため援護局にゆき、引揚者(成年者のみ)に対して酒と煙草の支給に従事した。
 お酒は丹後由良町の中西酒造より一回五樽宛をトラックで受領に行き、煙草は海軍が保管していたものを受けて、円と交換場所の隣りで、一人にお酒は約一合と煙草はバット二十本宛であった。引揚者が上安に到着するのは、大概午后八時以降になり、そのため、私らは東舞鶴の松月に宿泊することになっていたが、結局一泊も旅館で泊ることは無かった。小生も若かったからできたのである。当時の援護局(上安寮)は各所に光々と電灯が照されて昼の如く、あだかもナイター(現在の野球場)そのものの光景を呈しておりました。円と交換後に受ける酒、煙草を引揚者の皆々様は、沈痛な顔で黙々として大きな声を出す者もなく、整列して受けてくれた。お酒をもう一杯如何がと進めても、呑む者は少なかった。恐らくは、多くの日本人がいまだ引揚船に乗ることなく、彼の大陸の地に残って苦難を続けていることを思ってのことと思いました。
 又、昭和二十一年七月二十一日、高松宮殿下が引揚援護状況視察に舞鶴にこられた時、同胞援護会京都府支部を代表して私が、府警察本部警務課首席警部(当時)であった宮崎一雄氏と共にその随行を命ぜられました。このようにして引揚船が着く毎に、鈍行列車で煙で黒くなりながら、舞鶴上安−京都間を往復したものでした。  〉 


(参考)
20.8.15〜20.11.30
この時期の舞鶴地方援護局の年表(『…援護局史』より)

年・月・日 主要事項 参考記事
20.8.15  ○終戦に関する詔書煥発
8.17  ○東久邇内閣成立
8.21 ○邦人引揚計画は綜合計画局及び内務省管理局の担任と決定
8.28 ○進駐軍先遣部隊厚木着
8.30 ○マッカーサー元帥厚木着
○引揚者応急援護措置要綱(次官会議決定)
9.2 ○ミゾリー艦上降伏調印式
9.16 ○雲仙丸、釜山へ出港(788名)
9.28 ○舞鶴他九港引揚港として使用許可
10.1 ○引揚民事務所設置の件(健民局)
10.5 ○東久邇内閣辞職
10.7 ○雲仙丸、釜山より入港(2100名)
10.8 ○白竜丸、同右(2300名)
10.9 ○幣原内閣成立
10.10 ○舞鶴海軍復員収容部設置
10.11 ○雲仙丸、釜山へ出港 (1687名)
10.12 〇白竜丸、同右(1800名)  ○引揚に関する中央責任官庁設定指令
10.14 ○引揚者収容能力一日2500名の指令  ○京都府へ引揚民事務所設置方入電
10.15 ○内地陸軍部隊復員概了
10.16 ○雲仙丸、釜山より入港 (1930名)
10.17  ○白竜丸、同右 (2566名)
10.18 ○天佑丸、釜山へ出港(965名)  ○厚生省、引揚関係中央機関と決定
10.19 ○雲仙丸、同右(1776名)
10.20 ○白竜丸、同右(1826名)
○北陸第二上陸地支局編成完結(敦賀)
10.24 ○京部府舞鶴出張所第三部設置
10.26 ○北陸第二上陸地支局舞鶴移転完了(山陰上陸地支局と改称) ○恩賜財団戦災援護会、引揚者一人に援護金三十円贈与決定(日附不明)
10.28 ○引揚業務実施要領合同会議(舞鶴復員収容部、山陰上陸地支局、京都府)
10.30 ○雲仙丸、釜山より入港(1680名)
11.3 ○白竜丸、同右(2217名)
11.6  ○引揚共同事務所を舞鶴海兵団に設置
11.8 ○天台寮を朝鮮人収容寮に決定
11.12 ○舞鶴受入施設協議会(京都府庁)
○雲仙丸、釜山へ出港(1888名)
11.14
11.17 ○送出非日本人収容能力一日2500名の指令
11.22 ○白竜丸、釜山へ出港(1893名) ○社会局引揚援護課設置
11.24 ○厚生省舞騨引揚揺護局設置 
○局長木村惇(京都府知事)次長八田健次(前静岡県経済部長)任命
○地方引湯援護局官制公布
○下関、鹿児島、浦賀、博多、佐世保各援護局設
11.28 ○泰北丸、釜山へ出港(1175名)
11.30 ○第一復員省、第二復員省官制公布






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引用文献
『舞鶴地方引揚援護局史』



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