岸壁の母
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明治32年(1899) | 9月15日 石川県羽咋市に生まれる、一人娘。函館に移住、自宅と貸家があった。父は外国航路の船員で、年中ほとんど留守。実の母は早く亡くなっていて、継母に育てられる。そのことは長く知らないでいたが、母を何となく冷たく感じていた。女学生時代に親類がそのことを教えてくれる。実母は顔も知らない。 |
大正7年(1918)か | 裁縫を習う(女学校とも書かれているが、同じものか不明) 父の死。女学校3年のことという。 |
大正9年(1920)か | 母の(一方的)すすめで清松と結婚。顔を見たことも話したこともなかった、母の話では、両親はないが、兄弟6人の末っ子、兄弟はみな樺太に住んでおり、函館商船学校を卒業して青函連絡船に勤務している、とのことであった。養子を迎えて母をみなければならぬ立場であり、意には沿わないが、それに従った。 |
家庭の不和。夫の酒と暴力などと金を入れない。自殺未遂など。 | |
大正14年(1925) | 6月12日新二(長男)誕生。 10月類焼で自宅と貸家を全焼。 |
大正15年 | 離婚。 |
復縁。 | |
昭和4年(1929) | 年末、 栄子(長女)誕生 |
昭和5年(1930) | 9月12日 清松死去。 |
昭和6年(1931) | 1月13日 栄子死去。 2月末 新二と函館から東京へ移住。 仕立や家政婦、工場の寮母など住み込みで生計を立てる。 |
昭和11年(1936) | 東京都大田区大森へ転居。借家ながらも念願の我が家であった。 表札は端野新二とした。展示より→ これ以後生涯を当地で暮らす。 |
この当時のものか(展示より)↑ |
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昭和19年(1944) | 新二氏は立教大学文科を中退し、商船大学を受験。親類が死にに行くのと同じと猛反対、受験したが不合格。(商船船員の死亡率は兵士の死亡率の数倍はあり、わかっている限りでも7300余隻が海軍の護衛もなく米軍攻撃で沈没、6万余の民間船員が死亡している。兵站軽視の悪しき伝統のようなことで、商船や漁船は海軍も逃げ出すような最も危険な任務につけられ、そのクルーは帰ることはなかった。月に百隻とかのペースだったそうで、「母一人子一人か」と、ワタシが試験官なら不合格とするだろう。親類なら猛反対するだろう。船員志望は父や祖父の後を継ぐものか、また授業料などの免除制度の利用も考えていたよう) 3月末 新二渡満。しばらく友人の会社(奉天の満州銅鉛鉱業)に勤める。 (満州は関東軍がいるから本土にいるよりも安全という神話があった、彼もそう考えて渡満し、現地で入隊した。しかしそれが裏目と出た、最悪の裏目であったよう、最悪の国ではこの年代のそこそこ体格のよい一般国民の男子には安全な所はなかった。) 5月草々 兵隊検査。 7月 入隊。甲種合格。5尺6寸(170p)、17貫(64s)で、相撲や柔道が得意であった。 |
昭和20年(1945) | 6月末 石頭の教育部隊入隊。「関東軍石頭予備士官学校」と通称されているが、昭和20年7月設置の、正式には「関東軍歩兵第二下士官候補者隊」の編成を増強し甲種幹部候補生を入隊させ教育したものという。また満州第604部隊、関東軍第13981部隊という。 『岸壁の母』には、 〈 入隊当時は象徳におり、甲幹に合格したので、幹部候補生として教育隊へ入隊のため、牡丹江省の石頭に行きました。それが二十年六月末だったとのこと。三千六百人もおり、入隊して期間も短く、同班の人でなければ顔も名前もわからず、まもなくソ連が参戦したため出動したそうです。部隊の行動はくわしくはわかりません。 〉 (19年11月2日、熱河省承徳歩兵240連隊に入営、同日歩兵砲中隊に編入) 8月15日、新二氏は満州国牡丹江省穆稜県磨刀石陣地で戦死か(戦友の証言による判定)。 新二氏ばかりではなく、様子が分からないままの候補生は磨刀石にはあまりに多い、ロクな武器もなく、見とる者もなく、若い命が何百と天へ登っていった、そして弔われることなく、殺害の真犯人も捕らえられず、追究もされず、書籍すら図書館に置いてもらえず、舞鶴は引揚港「岸壁の母」で知られるが、それでは暗いイメージだ、それよりも赤れんがだ、とアホほどのゼーキンはそちらへ投入され、今も肝腎なことはほったらかしである。地獄で奇蹟で仮に生き残ってもシベリアであった。心ある人によって語りつがれる岸壁の母や磨刀石の悲劇性はこんなところにも見られ、ファシスト側に不本意であっても巻き込まれた場合は戦争の底のない地獄を戦争が終わってもさまよい続けることになる。この悲劇の心ない最悪の端役をどっかの市民も演じているのかも知れない、ワルは何もどこかの他国ではなさそうである。天国へ行くなどとダマされて人でない道を行けば、結末は地獄である。 戦没者名簿によれば、丹後でも与謝郡、中郡の方が亡くなられている。新二氏と同じ六中も南桑田郡におられたが、13日亡くなっている。 引揚げが行われている期間は、息子が生きて帰ることを信じて、品川駅の出迎えや、舞鶴にも数度足を運ぶ。しかしシベリア抑留は誰も彼の姿を見た者もなく、帰っては来なかった。 |
昭和31年(1956) | 9月25日 東京都より新二の死亡通知書(戦死公報)が届く。 「死亡通知書」展示より→ 〈 死亡告知書(公報) 本籍 東京都大田区入新井町四丁目一一四番地 陸軍見習士官 端野新二 右は昭和二十年八月十五日中華民国牡丹江省穆稜県磨刀石陣地で戦死されましたのでお知せします なお市区町村長長に対する死亡の届出は東京都でいたします。 昭和三十一年九月二十五日 東京都知事 安井誠一郎 留守担当者 母 端野いせ殿 〉 中華民国なのか、満洲国なのか、昭和二十年八月十五日なら満洲国であろう。天皇の玉音放送が終わった途端から満州国軍の反乱が始まった、上官の日本人将校が小銃で撃たれ射殺された。日本の敗戦とともにその傀儡満洲国は十八日に自ら滅亡を宣言。その存在すらここでは消されたよう。満州国の政府要人などはソ連軍によって一斉に逮捕された。 また中華民国というのもイカレたハナシで、三十一年ならば今の中華人民共和国(中国)でなければなるまい、中華民国は台湾の蒋介石政権であった。日本は架空の亡霊政権としか国交がなく、実際の統治者である中華人民共和国とは国交を持たず、生死不明者、残留孤児などの捜査にも困難をきたした。 責任者の謝罪や言い訳もなく何のための死ともわからぬイカレどもを代表した通知である。 |
いせさんには受入がたいことであった。この通知以降も息子の生存を信じて帰還を待ち続ける。 中国との国交なってからは中国大使に調査を頼んだりしている、マスコミもあげて調査に取り組んでいる。本来はどっかのくさった国がやらねばならない仕事であるが… 裁縫で生計をたてながら、新二氏の帰りを待った。 舞鶴までの旅費さえ容易なことではなかったという。 |
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昭和56年 (1981) |
〈 母は疲れたよ、もう待ち疲れたよ、… 〉 7月1日 逝去。81歳。 |
このページの目次 |
岸壁の母や岸壁の妻の町 |
舞鶴の原点 |
身の上ばなし |
新二さんの最後 |
磨刀石の死闘 |
新二氏は生きている |
附録 |
−舞鶴引揚記念館− |
舞鶴引揚記念館:設立の趣旨 |
舞鶴引揚記念館:シベリア抑留 |
舞鶴引揚記念館:満蒙開拓青少年義勇軍 |
舞I引揚記念館:満州開拓団 |
満州天田郷・第二天田郷 |
舞鶴引揚記念館:岸壁の母(このページ) |
−引揚の歴史− |
引揚の概要1 |
引揚の概要2:援護局開設までの時期 |
引揚の概要3:「上安時代」 |
32隻の引揚船 |
−引揚の様相− |
引揚船のリスト |
民間人の引揚-1- |
民間人の引揚-2- |
民間人の引揚-3- |
50音順 |
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ま | み | む | め | も |
や | ゆ | よ | ||
ら | り | る | れ | ろ |
わ |
丹後・丹波 市町別 |
京都府舞鶴市 |
京都府福知山市大江町 |
京都府宮津市 |
京都府与謝郡伊根町 |
京都府与謝郡与謝野町 |
京都府京丹後市 |
京都府福知山市 |
京都府綾部市 |
京都府船井郡京丹波町 |
京都府南丹市 |
若狭・越前 市町別 |
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福井県大飯郡おおい町 |
福井県小浜市 |
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福井県三方郡美浜町 |
福井県敦賀市 |