丹後の伝説:24集 |
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弥加宜神社、御上神社、天御影命、大岩山銅鐸、他
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森の池の白い水(倉梯)東駅の南側は昭和のはじめは見渡すかぎりたんぼであった。そのたんぼの中に、こんもりとした森がみえた。今は工場やビルが立ち見ることができない。駅から十分ほど歩くと大森銀座にでる、そこまでいけば老樹蒼然たる森がみえる。弥伽宜神社である。人は大森神社といっている。天御影命をまつっている。古丹波道主命四道将軍の一人として、土賊退治の事があったとき、国内平定に際し国家鎮護の神として奉祀せられたものである。近郷の氏神として多くの参拝者がある。 例年七月十四日は大祭であり、近年は大名行列があり、境内は広く、夏は納涼によく、せみが耳に清らかにきこえる。時には子供たちが写生している。私に子どもができてからは、自転車に乗せてきたものだ。ジュースのないころで、マヨネーズの空いたのにお茶を入れて持参し、のどがかわいた子に飲ませたものだ。それが空になると霊泉のわきに出ている杜清水のところに来る。夏であっても手をつけるとひんやりとする。手ですくって飲むとつめたくて口のかわきが一ぺんになおる。タオルをつけ、子供の顔をふくと、「とうちゃん きもちがいいね。」という。 みかげ石にかこまれたこの池には亀が仲よくおよいでいる。近隣の人たちは、正月二日に一升ビンにこの水をいれて、書初めをしたり、神だなに供へたり、初茶会の水とする。そして一年の幸多かれと祈る。着かざった乙女たちが水をくんでいる姿は心暖まるものがあった。いたずらっ子たちも与保呂川や祖母谷川でとってきた亀をこの池にはなしたものだ。近所の人たちは、この亀によくジャコをやっていることもあった。旱天つづきの夏でもこの清水はこんこんとわき、かれることをしらなかった。村の人たちはお宮に参ったら、必ずこの池にきて水をすくって飲んでいた。又誰云うとなく、水が少くなったら天変異変がおこったという。又この水が白くにごったら、何か重大な事件や戦争がおこると恐れたと古書にかかれている。 老樹は時に雷に見舞われてさけたり、毛虫にやられたりはしたが、昔を語りかけるように立っている。しかし現在は町の方で、クーラーやモーターで水をくみあげたり、冷房水をかき出しているので、何時しかこの池の水も少くなり、子どもたちが亀を放つこともなくなった。村の人達もこの様子をみてなげいている。時たま子どもが足を洗っているのをみて、叱っている光景もみる。私はただ数十年前のように、こんこんとわき、夏でも干れぬ、水の満々とたたえる池であってほしい。 文明が進むにつれて、目然破かいが次々におこってくるのはさびしいことだ。この間も息子の自動車でここにきて池をみた、息子もこの池をみて、不思議そうに底がみえ、「水がすぐなくなったなー、手ですくってあの冷たい水が飲めないなぁ」とつぶやいていた。.
『加佐郡誌』は、 弥加宜神社
祭神 天御影命 相殿 誉田別尊 由緒 当社は崇神天皇の御年11年丹波道主之命の御祭りになったものであって、延喜式内の御社である。御祭神天御影命は又の名を天目一箇命と申し、神代に於て武器刀斧等を造り始め給うた大神で天孫瓊瓊杵尊が天降り給うた時防衛をなして仕え奉られた32神の一神に座す武徳の高い大神であらせられるのである。 崇神天皇の十年秋十月丹波道主命が都を御出発あらせられる時、当国青葉の山中にて土蜘蛛陸耳の御笠といふ強賊が居て、地方人家を暴し民を伐ひ国内の害を蒙る事甚だしとの報があったので、命は御父彦坐王の御力ををもお借りに名つて此の地に来給ひ、遂に賊の巨魁を逐ひ払はれて国内を御平定になり翌十一年四月になって朔戎夷を平定せられた状を上奏になったが、同時に国家鎮護の御守神として、御祖父神に当らせられる武徳御盛大の天御影命を御親祭あらせられたのである。然して当社は往昔字ミカゲ谷に鎮座ましましたのであるが、中世(年代不詳)今の地に遷し奉つたものである。此の様に由緒の深い御社であるから古来国司国守領主の御欽仰一通でなかったが、特に田辺の城主細川兵武大輔藤孝崇敬篤く昨大正11年まで境内に存した一の鳥居は藤孝の寄進立せられたものである。社中及び境内二箇所に神泉があって清いことは麗鏡の様に四時水の増減することがない。依って世俗は之を霊水と称している。杜の清水と號せられるのはこれであって、1200年前の丹後風土記に記載せられている通り今に伝わって少しも変っていないのである。
倉見駅と能登野の間なる成願寺に在り倉見庄の鎮守とす、古事記、伊邪河宮(開化)段云、「御子日子坐王、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子室毘古王」、沙本は大和の地名にて、春日も大和なれど、室毘古王は即ち若狭耳別の祖なれば、耳別の氏人が祭れる祖廟なるべし、延喜式本郡又和爾部ワニベ神社あり、(所在不詳)和爾部氏も春日氏と同祖の家にて、日子坐王室毘古王に姻親の子孫ありしとおもはるれば、和爾部の人々の此に移住したるを知る。 『福井県の地名』(平凡社)に、 闇見神社(くらみじんじや) (現)三方町成願寺
丹後街道(国道二七号)の東に鎮座する旧郷社。祭神大闇見戸売。「延喜式」神名帳にみえる「闇見神社」とされ、享禄五年(一五三二)の神名帳写(小野芋文書)に「正五位闇見明神」とある。別当は成願(じようがん)寺の大坊。 江戸時代までは天満宮あるいは天神社と称し、「若狭国志」は「今称天神、里民伝言、創建以後及一千年余、奉祠僧云、社祭菅公像、此尤可疑、然以創建年代考之、則蓋後所配祭、倉見庄数村以此社、歴世共祭祀、且外無可称闇見神社者、則恐此也」という。中世には倉見(くらみ)庄の総鎮守であったといわれ、江戸時代にも成願寺・倉見・白屋(しろや)・岩屋(いわや)・黒田(くろた)・井崎(いざき)・横渡(よこわたり)・能登野(のとの)・上野(うえの)の各村を氏子圏として宮座が構成されていた。現在も四月五日の例祭神事は各地区が回り持ちで担当、頭屋儀礼が行われ、王の舞と獅子舞が奉納される(県指定無形民俗文化財)。祭礼と頭屋儀礼については社蔵の倉見之庄天満宮御祭礼帳に詳しい。 『森の神々と民俗』(金田久璋・1998・白水社)に、 …
6龍蛇退治の神話 龍蛇の退治伝承において、切断された蛇体がのちに神社の祭神として祀られるようになったという神話が、地名の由来をまじえて語られ、神社の神事芸能のなかにとりいれられている事例がある。福井県と滋賀県の県境に位置する三十三間山(八四二メートル)の周辺に点在する神社と地名の由来について、「闇見村立始並に闇見神社の発端の事」(三方町井崎井上安清家蔵)は次のように記している。 少し長いが全文を引用しよう。 抑 川上の庄上下大明神は素戔鳴尊奇稲田姫の示現也 当国の戊亥に高き峰あり 近江若州越前三ケ国にそびえて日没れが嶺と名付此山の東半腹に大なる池あり (大蛇)住て年古る 在時は砂を降メ悪風を散ず 或時は大水山を穿ち常に黒雲峰に覆ひ 夜は波水に人りて東に渡り美濃の国の民家を悩し又は越前の海辺にや若狭の国に下り万民之災をなす 于時天皇十一代垂仁天皇の御宇午の年彼の大蛇衢に於て人を悩し既に蛇国となさんとす 万民の哀み休む事なし 或時は奄然として山鳴り雷の声甚し 七口の川より流るる水赤くして血と変じ常に覆所の黒雲青雲となる 尋登て見るに老翁二人を在して曰く 汝等が恐るる処の大蛇を平げせしなり 吾等は是素戔鳴尊稲田の神なり 此の蛇は出雲の国簸の山八岐か霊魂雷気成て年降るとは雖も 蛇気又此所に生まれ国の煩ひをなす故に二度たおして退治せしめ給ふ 然るに此剣を投げ玉ふに八尾の谷を越えて里の近き山の辺り也岩の上に留る光る事日光の如し故に此所を岩剱の神と祭る 又一人の老婆角を取りて投げ玉ふて後に二人老人失せ給ふ 然るに震動雷電して大水山谷を崩す 彼角流走て止る処を角山と号けて角神と祭る也 大蛇退治の時に二人の老翁立給ひて私語在所を明語と号く 腹の赤い大蛇故に蛇腹の赤坂と号け 八丈幅の大蛇二段になる故に二段が原とも云ふ 蛇の頭の至る所を頭上が谷と号け 蛇の尾の尽る処を尋ねて見給ふが故に尾見坂と号す 二人の老人失せ給ふて後見えず也故に水別れの神と祭る也 彼剱の岩の上に止る故に岩剱の神と号す 剱降りて此岩の上に留りて神となり故に降りの宮とも名付け角を投げ人給ふ川を角+光(つの)下り川と号け角+光落の谷と云ふ 此所より流るる故に角川と名付け 角流れ出るときに大小石を流し田野を埋む故に石田川とも号く也 退治給ふ大蛇二段に成て空へ飛上る其声雷の如し 一段は美濃の国へ落る 一段は若狭の山辺に落て闇見の神となる 是は大蛇落し時クラヤミ成し故闇見(あんけん)の神社と祭る義也 此居を勧請せし故に闇見と名付 惣而(そうじて)川の流れ七口の上故に川上と号る 也 則ち出雲の国簸の川上の因縁也 江州高島郡川上庄 永代酒波社へ寄進申大般若経の事 合壱部也 右の件大船若経六百巻倉見村より永代寄進申所実正明白也 然る上は毎月十一日に倉見御祈祷可有之 也 又其為御礼に川上庄の後山へ可立入申者也 然る上は此山に於て万難公事不可有候者也 此山に 入候に於ては酒波大菩薩の御雑用可有時は御奉賀可有仰候者也 此上違乱の儀申輩是在者は時の公方 可有御罪科者也 依而後日の為寄進状如件 康和三年八月二十三日 倉見之左近 河上庄酒波岩剱大菩薩へ参る 日本神名帳之下巻 北陸道三百五十二座之神社の内 覚 正保二年の五月三日御公儀より諸国在々へ村山国境山中の難所相改絵図認差上候様被仰付候節川上庄 山内若州と山境の儀双方立合絵図面相改指上申候時の役人付 江州高島郡川上庄酒波村川上庄惣社 岩剱大明神詞宮降宮雅楽佐 酒波村庄屋 木下孫右ヱ門 深清水村庄屋 藤原市右ヱ門 梅原村庄屋 桜田三郎右ヱ門 中庄村庄屋 北河弥二石ヱ門 若州三方郡役人 増井政右ヱ門 井上吉太郎 青池清兵衛 田村五郎太夫 酒井讃岐守様 沢田八兵ヱ殿 右之通り御公儀へ差上申候に付此書に付け絵図壱通相認め郷土史家沢田八兵ヱ様へ指出し申度又若 州様より川上庄の五組の地頭へも如斯別紙取送候 以上右は石書文也(大野僉+攵の読みくだしによる) 若州の闇見神社(福井県三方郡三方町成願寺)と江州の川上庄上下大明神、すなわち上社の日置神社(滋賀県高島郡今津町酒波)と下社の津野神社(同北仰(きとうげ))は、県境にそびえる三十三間山と武奈ケ獄・荒谷山・滝谷山・箱館山山系によって相へだてられていながら、古来切っても切れない相関関係を有しており、かっては若狭の倉見から馬を引き具して川上庄上下大明神の祭礼に参加をした経緯がある。 「倉見からの祭礼参加はいつしか途絶えたが、その因縁譚として倉見側に次のような口碑がある。険しい山坂を越えての参加が難儀だったため、これを辞退することになったが、その代償として、倉見村伝来という古筆の大般若経を川上荘内へ贈り届けた。しかしそのとき一巻だけを残したので、全六百巻のうちの九九巻だけが川上荘に伝えられた。それが川上山下の古訓酒波寺(日置神社の北方約二〇〇メート)に所蔵されている経巻だという。」と『日本の神々−神社と聖地−5 山城・近江』のなかで橋本鉄男は、「闇見村立始並闇見神社の発端の事」の歴史的な背景について言及している。その文書の前段は、すさまじい大自然の猛威を悪蛇の仕業として描写しており、神社の創建と地名の発祥の由来を説く。日置神社の祭神、素蓋鳴尊と奇稲田姫にちなむ、いわゆる出雲神話の八岐の大蛇退治の異伝にほかならないが、ほぼ同じ神話が上の宮の社家布留宮家所蔵の「淡海国高島郡大江保并河上荘旧事伝説」の冒頭に上下両社の祭神について記した「両社御縁起」にも見ることができる。それによれば、スサノヲが退治した大蛇は二つに切断され、半分は若狭へ落ちて闇見神となり、片方は美濃の不破神となったという。その由緒によって美濃国多芸郡宿村(岐阜県安八郡墨俣町)より両社の例祭には御供を献撰するのである。 7 龍蛇退治の祭り さて、闇見神社と川上圧上下大明神に伝わる龍蛇退治の神話は、大御幣搗きと呼ばれる神事芸能として象徴化され、毎年五月五日の闇見神社の春祭りに奉納される。 「一段は若狭の山辺に落ちて闇見の神となる」と「闇見村立始並に闇見神社の発端の事」に神社の由来を記していることは先に引用した。ところが『神社明細帳』は弘化三年の大火により「書類悉ク一朝ノ煙トナシ依テ由緒末詳ト雖モ老伝言」として沙本之大闇見戸売命を主神としている。これは伴信友の『神社私考』の説をそのまま引用したものにほかならないが、邪悪な大蛇を祭神とすることを認めたくない心意が反映していよう。それはともあれ、同社は相殿に天満大神と十二座の合祀の神々を祀る古社と知られ、春の例祭を「闇見の大まつり」「天神さんの春まつり」と呼んでいる。 当屋は一区一交替制で、倉見と白屋は三年ごと、岩屋・成願寺・上野は六年ごとに奉仕をすることになっており、当日は当屋に王の舞の舞児・鉾持・神輿警護・神輿舁きが全員そろったところで当立ち(村立ち)となる。神社に着くと、参道入口の「大槻(おんげやき)」という広場で御当渡しの儀を行い、王の舞・獅子舞が奉納される。そのあと大御幣が来年の当屋番にひきつがれ、いよいよ大御幣搗きの神事が始まることになる。 この神事は、道中、「サイヤリヤー」の掛声とともに祭りの行列を先導した采配幣の根元に大御幣を納めるまで、荒縄を大御幣の四方にくくりつけ、大槻の広場から長い桜並木の参道をひきまわして過酷に何度も激しく地に打ちつけ、木端微塵に破砕するという、大変荒々しい所作が伴う。祭りには熱狂がつきものとはいえ、本来なら神がのりうつった大御幣を、このように手荒くあつかい虐待するなどということは考えられないはずである。このような民衆のオルギーをどう解釈したらいいのであろうか。少くとも近在には、このような神事は見当らない。故・渡辺正三宮司は「闇見神社例祭神事」のなかで、この神事について八岐大蛇退治の様子を再現したとする説と、氏子が一体となって氏神が領知する土地を搗き固めるという二つの説を紹介している。伝承通り大蛇が祭神なら、邪悪な意志との争闘を象徴的に演出したものと考えられよう。災厄をもたらす大蛇は退治され、御霊神となって、崇敬する人民に幸福をもたらすのである。 8 龍蛇と宇宙樹の構造 厳密に言えば、大蛇と龍は別の動物である。ヨーロッパとアジアでも龍蛇の概念はいささか異なる。しかし、これまで私はあえて区別せず、時には恣意的にこの言葉を用いてきた。 東西の龍蛇について書かれた著作の多くは、龍蛇の起源について必ず一章を設けて論及することを忘れない。たとえば、安田喜憲箸『蛇と十字架』は「蛇から龍へ」、アジア民族造形文化研究所編『アジアの龍蛇』は「蛇と龍」、森豊著『シルクロード史考祭11・龍』は「龍の起源」、荒川紘著『龍の起源』は「日本の蛇と龍」のなかで、蛇から龍蛇へのエポックメーキングな変身について熱意をこめて解説している。ここではいちいち紹介するいとまはないが、安田喜憲はさすがに考古学者らしく、土器にえがかれた龍の図像を通して蛇から龍への転換について、「同時に弥生時代の大阪府舟橋遺跡や池上・曽根遺跡の土器には、明らかに龍と見なされる絵が描かれるようになる。銅鐸に描かれた蛇を殺す図像と、土器に新たに登場してくる龍の絵の出現は、新たな世界観の転換が語られているように思われる。」とのべている。元来、縄文以前には龍は存在しなかったが、稲作を伴って大陸から渡来してきた弥生文化とともに日本にもたらされたのであろう。とすれば、龍の伝来は文明史的なシンボルといえなくもない。 「海中または池沼中にすみ、神怪力を有するという想像上の動物。姿は巨大な爬虫類で、胴は蛇に似て剛鱗をもち、四足、角は鹿に、目は鬼に、耳は牛に似、池上では深渕・海中に潜み、時に自由に空中を飛翔して雲を起し雨を呼ぶという」(「広辞苑」龍の姿は、荒神神楽の八岐の大蛇やエトンビキの大蛇の図像にも反映している。闇見神社の大蛇退治譚も、大蛇とはいえ角があることから、龍に相違ない。 しかし、一方こういう伝承もある。すなわち、美浜町新庄在住の民俗研究者、小林一男の亡父が語ったところによると、大蛇は一千年を経ると龍となって飛天するという。 また、先年、敦賀市長谷でダイジョコ信仰の調査中、小祠の傍の松の古木から、ある荒天の日に龍が天にのぼっていくのを見たことがある、と近くに住む寺の奄主が話してくれたこともあった。民間伝承のなかには、今も龍蛇の信仰が脈々と生き続けているのである。 さて、話題を「行くが行くが行くと」の樵の巨樹伝承と龍神の神話にもどして、この小文を閉じることにしよう。 なにはともあれ、巨木の根元に龍神の一族が住んでいたということは、いったい何を意味するのだろうか。私がはげしくこの開拓伝承にひかれるのは、この一点をおいてほかにはない。舞鶴市の神社縁起やエトンビキの民俗をはじめ、八岐の大蛇退治の神話や一奄主の飛龍の話にも、巨樹や森がつきまとう。龍蛇と巨樹は密接不可分と言ってよい。巳−さんが巣くうダイジョコ(大将軍神)のタモの木の伝承なら、あまたある。それはなぜか。敦賀市御名と美浜町山上で、ダイジョコさんと呼ばれる祖霊神が斎くタモの木の森影から、雨の日に耳のある蛇が出てくるのを実際に見たという老人の話を聞いたこともある。このダイジョコの蛇もまた龍への変容を具現化しつつあるかのようだ。 なぜ、龍蛇と巨樹はこのようにアナロジーの親和力を発揮するのであろうか。決定的な解答を、必ずしも私はまだ見出してはいないのだが、次のような論考は想像力を大いに刺激するだろう。 たとえば、山本ひろ子は「心の御柱考−その宗教的位相をめぐって」と題するすぐれた論文の末尾に、心の御柱の守護神として龍神が登場することに注目している。『御鎮座伝記』には「龍蛇・十一神各一座。為二守護之神一坐。」とあり、また『御鎮座本紀』に「三十六禽、十二神王、八大龍神、常守護坐。」とされた、「心の御柱の不動性は、そのマトリックスたる磐石のみならず、八大龍王と十二神王の常住・守護という働きによって約束されていることになる。」とするのである。一方、中世には八大龍王とは別の龍神守護神があり、「磐石=地輪説とも関わる、須弥山と結びつけた龍神説で、心の御柱=須弥山をめぐる中心のシンボリズムが展開され」ることになる。須弥山とは「仏教の世界説で、世界の中心にそびえ立つという高山」(『広辞苑」であり、まさしく宇宙軸にほかならない。ともあれ、世界の中心にそびえる心の御柱という宇宙軸を龍神が守護するという図像学的な構造が認められよう。 「世界樹は旧大陸と新大陸との人間の共同体が抱いた世界なるもののモデルを長期間にわたって規定してきたある普遍的な概念の具体的なイメージである。」とイワーノフ、トポローフは「宇宙樹・神話・歴史記述」のなかでのべている。私たちはその宇宙樹の根元の地下世界に、邪悪な龍蛇を配した世界各地の神話を知っている。なかでも古代ゲルマン系の神話『エッダ』に登場する巨大なトネリコの木、イグドラシルとニフルヘイムの泉にすむ年へた龍蛇ニーズヘグの物語を、時には池河内の開拓伝承と重ねあわせ、ゆたかに想像力をはばたかせることもできるのである。こうして、龍蛇と宇宙樹の神話は、ウロボロスの蛇のようにめでたく終局をむかえる次第。
謂はゆる意宇の社は、郡家の東北の辺、田の中にある 上は『図説古代出雲と風土記世界』(河出書房新社)より。 闇見国は「北門の良波国(農波国)」から引いてきたものだという。ではそのふるさとの「北門の良波国(農波国)」とはどこであろう。
福岩 (中舞鶴)
余部上九丁目より南へ歩いていく。自動車屋があり、自動車の中古の山が右にあり、坂を登っていくと榎川の上流にでる。更にいくと十一丁目ぐらいになる、清らかな流れ、川向かいにお地蔵さんがある。手をあわせて、「お地蔵さん、お地蔵さん、大きな岩のあるところはどこですか」とお尋ねすると、「さきだ、さきだ」とおっしゃる。 「ありがとうございます」と上に行く。川水がとび散る。あれからたしかに上が平らな大きな石が横たわっている。福岩という岩である。 正月元旦にこのあたりに、羽織袴の礼装で、川をじゃぶじゃぶ渡って、この岩にあがる、坐る。しばらくすると真下で鶏の鳴く声が聞かれると家内安全、幸運が舞いこんでくると言い伝えられている。いくら坐っていても鳴き声がきこえてこなかったら駄目だ。 ほとんど親を大切にし、すべての人に愛をほどこす人には声が聞こえるということだ。岩かげには夫婦の鶏が住んでいたという。 常日頃でも、田畑へ出かける農家の人が、この岩を通りすぎる時、岩に住む鶏の鳴声をきくと、豊作であり、幸運が舞こむという。昔の農家は星の見える頃に家を出て、星のでる頃に家に帰るのが普通であった。それにしても不思議なことがあるものですね。 私も岩の上にあがったり、岩の下をのぞいたりしたが、鶏らしきものはおらず、どじょうがどろをけって逃げてしまった。
余部の赤城山 (中舞鶴)
舞鶴に軍港が設置されて中舞鶴町となった。余部下の字になったが、余部上には、奥山、才ヶ谷、下谷、谷口、後山、北安、スゴ、久田、前田、森ヶ奥、久田、前田、婿ヶ坪、土井の十六の小字があり小字余部上に統一しました。現在二十九の町内会があるが、大字名をつけているのは和田で、小字名は加津良と奥母だけです。 婿ヶ坪は上村の中央の一等地の田のあるところで、むかし田植は、親しい人たちの「てんごり」を受けて、多数並んで手植えするのであるが、遅れて植え場のなくなることを「坪にはまる」という。初めてきたお嫁さんなどに、悪さに坪にはまるようにしむけて、当惑するさまも田植時の余興であった。 余部の後山に、俗称清水尻というところがある。そこには、むかしから、どんなに旱天でもかれることない清水が湧き出し、村人ののどをうるおしていたという。その上の方の、丸山と呼んでいるところが、余部の赤城山である。そこは丁度、外輪山に囲まれ、火口中の小さい噴火山の跡のような地形している。 この丸山には軍用金が埋蔵されていると伝えられている。埋蔵の地点は、 長縄三把、縄三把 朝日輝く、夕日は照らす 三つ葉うつぎの下にある いつごろ、どれほど埋蔵されたか詳らかではない。群馬県赤城村の赤城山にも江戸城の軍用金千両箱が麓に埋められていると言われた、古図画によって発掘が行なわれたが、ついに発見することが出来なかったと報道されている。今でも探している人があると聞くが余部の赤城山にはほんとうにあるか、探してみたいものだ。
日天様のお伴(中舞鶴)
余部の里には、むかしから春秋の彼岸の中日には、日天様のお伴をするという習わしがある。現在でもこの日は近郷の人たちがたくさん、松尾寺にお参りする。余部から東へ十二粁ほど、太陽の恵みに感謝し、仏教への信仰もあると思われるが、この日一日は、仕事も休み、のんびりとお参りする。今でいうレクレーションである。 各家では、朝早く牡丹餅を仏前に供え、おべんとうは日の丸弁当、東の青葉山に日が出るとともに家を出て、北吸、浜、市場と東へ歩くのである。市場には梅助という掛け茶屋があって、弁当のない人は、一寸よって、うどんの一杯を食べる。吉坂にも宿があり、遠くからお参りする人はそこに泊まったという。昼頃には松尾寺に参り、和尚さんからありがたい講話を聞く。巡礼の姿をした人も多く、寺前の店屋にも沢山の人がお昼をしていて、座るところもない。又露天の店屋もならび、あめのかちわり、みたらしダソゴ、子供の玩具が売ってあり、財布のゆるむのもこの時である。 自分たちの影が後ろにさすと家路に帰るのであるが、お天道様が、舞鶴湾の向こうの建部山に落ち、太陽が沈むのを待って家に帰りつき、今日一日は、早朝から日の沈むまで日天様を拝んで健康な一日を楽しむのだ。 又この日は、春のお彼岸なら今年の麦の出来はよさそうだ。近くの若嫁は、良く働くとかいい顔していると、秋のお彼岸なら、お米の出来がよいとか悪いとか、頼母子で得したとか、村の出来事や、世間話に話が咲くのも楽しいことであった。
大蛇の話(中舞鶴)
昔から滝の空から桂谷にかけて、大蛇がいると言い伝えられていた。このあたりは、足もふみいれられない程、篠竹が生え茂っておったが、二次世界大戦による食糧不足の影響で、当時一部分は山畑として開墾され、又、戦後滝の空の頂には、テレビの中継塔が建設され、和田中の記念植林もでき、馬の下からバツ谷、桂谷の一部にかけては、小西商事が砕石工事のため、此の一帯は開墾されて、今では大蛇がいる事は想像できない。 明治のおわり、本町四丁目の八十すぎの松本氏が小学生のころ友人三人と栗ひろいにいき沢山の栗をひろっていた。突然大蛇に会って、命からがら帰ったという。当時は町には蛇屋というのがあったが、下一丁目の荻野さんはこのことを聞いて、「ボンほんまに大蛇に出会ったんか」と念をおして尋ね、大阪の蛇取りに知らせ、三、四人でとりに行った。第一日目は蛇もそれを察したのか、いくらさがしてもみつけることが出来なかった。しかし二日目の夕方、日が暮れるし今日もだめかと帰りかけた。ふと前方に大木がころがっていた。少しおかしいと目を大きくひらいてじっとみていると、少し動いているようだ。草むらがかさかさいう。四人で二手にわかれて、その方にいった。大蛇だ。片方にあみのふくろを二人で持ち、あとの二人は木の棒で反対の方にまわってたたいた。大木みたいな蛇はゆっくり動きだした。間違いないと四人は緊張した。胴まわりは一尺六寸はあるだろう。あみのふくろにゆっくりはいっていった。「とれたとれた」四人はよろこび、あみにはいった蛇をたたき気絶させ、かついで帰った。 蛇は必ず二匹いるものだと蛇屋はいう。明日探すことにして、よろこびいさんで明日の日をたのしみにした。大蛇のおることを知らせた松本のボンは、五円のお礼をもらったという。蛇のぬけ皮をさいふにいれておくと金がたまるというが、世の人は蛇というものに何かしらこわさを感じるようだ。蛇屋は二、三日もう一匹をさがしたが、遂に発見することが出来なかったという。 話はちがうが私が五才のころ、母のさとの福知山にいったとき、新町の繁華街で人だかりがしている。何だろうかと、私は人だかりの人のあいだをくぐって前にでた。大きな呉服屋の門口から二メートルはあるだろう、真白の舵が体をくねらせながら、ゆうゆうといく。むかいのやはり呉服屋へだ。町の人たちは「主様のお通りだ、みんなもっとうしろにさがって」とうしろにさがる。おばあさんで両手をあわせ、おがんでいる人もある。何かしら蛇姫様のようである。私はさわってみようと蛇に近付いた。「ボン前にいったらあかんで」おいかえされた。町の役員の人は、ほんとうに神様のお通りのように礼をしていた。どこの町にも主といわれる動物がいるものだね。 中舞鶴の大蛇もそのあたりの主であったかも知れぬ。山くずれがあったり砕石場で人身事故がよくあったが、村の人たちはあの生どりした大蛇のたたりだとうわさした。その後蛇屋はどこにいったのかその家も今はなくなっている。
梅ヶ平発掘調査について
大江町史談会 奈良井俊一 「梅ヶ平」はA図に示す通り、大江町字内宮の西南の高台である。現在はその大部分が植林されているが、数年前までは畑地として、桑・そ菜・たばこなどを作っていた。昭和七年頃、内宮の荒木粂太郎氏が、自分の耕作地で石鏃を発見されてから、現在に至るまでに確認ざれたもの五十個を越えるであろう。京都府遺跡地図にも「遺物散布地」として登録されている。拾得された遺物は石鏃に限られているが、集中的に発見されているので、何らかの調査の必要を感じたのである。しかもこの土地が植林でおおわれてしまえば、調査は非常に困難になることが予想されるので、京都府文化財保護課に対し指導を要請した訳である。同課の見解としても、石鏃が集中的に発見されていること、地形的に見ても住居遺跡としての可能性があることなどから、充分調査の価値ありとされた。 そこですべてを文化財保護課の指導にゆだね、浪江庸二先生を主任として迎え、発掘調査にかかった。 発掘調査は、過去に集中して発見された場所を中心としてB図のように決定されたのである。(この地域は植林未完地域でもある) 発掘は七月二十七日から八月九日まで、地元内宮から廷六一人、その他調査技師、補助学生、教育委員会関係等延五九人に上って実施した。 土層は第一層が耕土、第二層が赤褐色土、第三層白黄色土の地山となっている。 出土品は概ね第二層から出たが、石鏃三点、剥片九点であった。これらが発見された地点では、グリッドを掘り拡げることも試みられ、耕土層を篩にかける作業も試みたが、遺構や土器の発見もなく、石器の発見もこれにとゞまったのである。 発見個所の確実なものはB図に示した。23Iのグリッドの一・五m掘り下げた所で、帯状の敷石らしいものにぶつかったか、調査の結果人工の跡が見られなかった。 なお過去において、当地で発見されたといわれる石鏃の中に、黒曜石のものかあったが果して当地のものかどうか疑っていたのである。しかし今回の調査で、16Iのグリッドから黒曜石剥片が発見され、当地出土のものと確認できた。 以上か梅ケ平発掘の概要である。この調査のまとめとして「今回の調査区域には、遺構は存在しないが、当遺跡の近辺に遺構があることは充分予想され、更に精査を要する。」とされたのである。 |
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