冠島・沓島
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(↑冠島とオオミズナギドリ・舞鶴みなとライオンズクラブ発行のパンフより) 《冠島・沓島の概要》 舞鶴市の北、若狭湾の無人島。舞鶴港から二八キロある。 冠島(大島・雄島)とそれより北二キロの沓島(小島・女島)の二島よりなる。両島の異称は多い。舞鶴側より見れば冠と沓に見えなくもない。 ↑冠島は東西413メートル・南北1、316メートル・標高169.7メートル・面積22.3ヘクタール。島南部の狭い低地以外は急傾斜の山地で、大部分は輝石安山岩からなり、全島に暖帯性植物が繁茂する原生林に覆われている。 島はオオミズナギドリ(サバドリ)の繁殖地で、南方へ渡る冬場を除き約20万羽のオオミズナギドリがいるといわれる。大正13年に日本では最初に天然記念物に指定され、昭和40年には京都府の鳥にも指定さている。海上を群遊し魚類を追って移動するので漁場の目安となった。 ↑冠島の北東2.2キロに沓島(釣鐘島と棒島の2島よりなる)がある。全島が切り立った岩よりなる。一番高い箇所は海抜84メートル。この島はロック・クライミングの腕のある方以外は上陸は無理です。一番上の稜線は浮き石で立てばグラグラとするそうです。死ぬ覚悟が必要です。青葉山レインジャー隊の荒木隊長のお話によれば、いつのことかあるテレビ局がこの島の上からの実況中継の放映を企てたそうである、隊長以下は手伝って重い機材をいくつも引っ張り上げ、アナウンサー氏を稜線まで引き上げた。しかしアナウンサー氏は周囲を見回してみて我が身の置かれたあまりの恐ろしい状況にとうとう一声も声が出せなかったそうである。この島はウミネコ・ヒメクロウミツバメの繁殖地になっいる。 冠島は古来、丹後・若狭魚民に対して好漁場を提供して、海難時の避難地として利用される。 島の所有は野原・小橋・三浜三地区のものと少なくとも江戸前期には慣行的に認められていた。 →冠島と沓島のちょうど真ん中あたりに「中津ぐり」と呼ばれている、小さな島と呼ぶべきか、暗礁がある。 冠島・沓島の写真は「冠島・沓島」 雄島参りは「雄島参り'11」 「雄島参り '12」 「雄島参り '13」「雄島参り'14」「雄島参り'15」「雄島参り'16」「雄島参り'17」「雄島参り'18」 《主な社寺》 一対で見られる両島であるが、参拝(雄島まいり)は冠島だけである。島の南島のわずかの平地に社がある。参詣の範囲は丹後と若狭の漁村であるが、養蚕が盛んなころは農家が繭の豊作を祈って島詣りをした。島を所有する三集落以外はだいたいは上陸はせずに海上から参拝したようである。 島の神は女神と考えられ、女性が詣ることはタブーとされてきた。現在は鳥居の辺りまでは行かせてもらえるとか…。 無動力船で参詣した時代は複数の船に分かれて競艇が行われた。現在もそのなごりか各漁船は黒煙を噴いて全速力で島をめがけ走る。燃料のことなんか言うておれません、という。 老人島・船玉両社は漁民の信奉厚く、旧暦5月に「雄島詣り」が行われる。舞鶴の三浜・小橋・野原は6月1日である。 老人島神社は、「三代実録」(巻38)の凡海坐息津島神社と推定され、祭神は海部や凡海連の祖天火明命となっている。 《交通》 なし。泳いでください。それは冗談ですが、頼めば付近の漁港より不定期で舟を出してくれることもある。また最近は付近の漁協などが島巡りや海上参拝などのツアーを募集することもある。市などへ問い合わせて下さい。 なおオオミズナギドリ保護のため島への上陸は禁止されています。一歩でも人間が踏み込むと絶滅するかもわからない。絶対に上陸しないでください。 |
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《丹後風土記残欠》 〈 凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が凡オホシク枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。ときに大宝元年701三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食) 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 海中沖ノ島 老人島明神 三浜 小橋 野原ノ氏神 同瀬ノ御前 恵比須 荒神 愛宕 沖の嶋に毎年隼巣を成す名隼也。巣ハ山上の崖ニ在りて人足不及所也窟の内に在り上ヨリもつこうに乗せ縄を付下し子隼を取、其取去に七斗三升壱合米を被下古例なり。 〉 《丹哥府志》 〈 【冠島】(宮津より海程凡八里、田辺より八里、小浜より八里、伊根湾より三里、野原、小橋より三里、出図) 【沓島】(冠島より相隔つ一里半、出図) 冠、沓の二島俗に沖の島といふ、一に雄島女島と呼ぶ、又大島小島、陰陽島、釣鐘島棒島、鶺鴒島などともいふ、皆二島相対する處の名なり。昔陰陽の二神爰に天降り初て夫婦の因を結ぶ、於是荒海大神といふ龍王を退治し給ふ、是時天女天降りて天の浮橋に松樹を植ゆ、天の橋立是なり、と風土記に見えたり。…略… 【老人島大明神】(島内) 老人島大明神俗に小島大明神とも称す、野原、小橋、三浜三ケ村の氏神なり。梅雨前後風波穏なる日浦々の者太鼓を撃つつ多く参詣す、蓋黄昏より船を艤して暁島に至る、島の前後に猟舟の泊するものあり、依て参詣の者酢、酒、味噌、醤油の類を船に出し用ふ也、其魚を買ふて之を肴とす、島の内にも自然生の菜大根の類あり、又竹の子、枇杷尤沢山なり、鯛などを釣る處を見て直に之を屠るに清鮮の味誠に妙なり、好事の者之を奇とする。宮内に米あり、難船の者爰に泊し、其米を借りて之を炊ぎ命を助かる者尠からず。 【洲先大明神】(島内) 島の南に洲あり長サ一丁余、蓋此洲あるを以て船の泊する所なり、其洲先に洲先大明神といふ、渺たる大洋の間風波の為に其洲の壊れざるは洲先大明神の護る所なりといふ。 【立神岩】(出図) 島より十間斗り隔てて切り立たるが如き岩あり、岩周り七八尺四面、其高サ卅丈余、海底幾何ある事をしらず。 【サバ鳥】 鳥の形鴎の如くにて水に泛ぶ、立能はず又樹木に集ること能はず、夜は土を堀りて形を没す、恰も門方の城の如し、波面に浮出たる魚に飛付て之を食ふ、是以其啄み喰する容易ならず、依て餓て常に飽こと能はず、故を以て食に当りては人を畏れず命を惜まず餓鬼ともいふべき様なり、まづ小島に限る鳥なりといふ。辛丑の夏六月十四日伊根浦に宿す、其夜三更の頃月の乗じて舟を泛べ大島に至る。始め鷲崎を出る頃風吹きぬ所謂夜風なり、よって蒲帆を掛て東の白き時分洲先明神の前に至る、明神より島山の下に至る凡二、三丁、其間小石の浜なり、處々にサバ鳥といふもの群り集りて其鳴?々たり、山の麓老樹森々たる間に老人島大明神の社あり、社の前後幟数十本、皆難航に逢ふ者の願済なり、社の後より山に登る、山の模様陸地の山と異ることなく、されども竹木の形は大に異なり松なども古びて葉短く木皮細なり、松にあらざる様にも見えたり、又十囲余もある桐の大木あり、定めて異草異木もある可しと、聊尋ねたれども何分一里余もある山なれば容易に極めがたし、山の内に蛇の大なるもの栖めり所謂うわばみなり、是島の主なりといふ、年々海を絶て野原、三浜の辺に渡る、若し是を見る時は必奇怪のことありて風波必起る、よって舟子余を招きて舟に上らしむ、既に舟に上る頃、日出の光波面に映じて朱を注ぐに似たり、実に日の海中より上るを見る、是時鯛を釣る者あり、又泊宿の漁舟アワビなどを採る、乃ち之を買ふて其鮮を割く、於是一杯を傾けざるを得ず、瓢酒を把てまづ両三杯を喫す。既にして島を巡り立神岩の際より小島に渡る、其間に白岩といふ處あり水底僅に四五尺の處に岩あり、凡四、五丁四方其色皚々たり、凡大島小島の間風は東西より吹き潮は左右より来る、依て處々に渦の處あり実に阿波の鳴門の如し、船人誤て其處に至る、船中皆愕然たり、江魚の腹中に葬られんとす、幸に遁れて小島に渡る、是時に方て再び瓢酒を把て茶椀に盛り之を嚥む凡五杯、傍人皆船に酔て吐気を発し舟中に臥しぬ。小島は大島に比すれば又一段の険阻なり、島の岸に舟をつくべき處もなければ攀ずべき道路もなし、奇岩千尺の間に落々たる怪岩互に聳立つ、誠に一大奇観なり、其険阻の際に?しき草花を見る、又枇杷の実るあり、嗚呼剛の中に柔あり柔の中に剛あり剛柔相摩して変化窮まらず、天地の情是れに於て見るべき也と工風の心起る、又花実の己が為にもせず又人の為にもせず、只天地の自然に任す情態を見るなり。 〉 『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒) 〈 【冠島】 履島 速日神降止の霊跡なりといへり。此二島遥に、数里を隔て與佐の入海にはあらねと古図にもあれは爰に記す。 〉 《地名辞書》 〈 丹後海湾の門口に当る小嶼なり、成生岬の北四海里半(亀島の東五海里半)一名奥オイ島と云ふ、方十町民戸なし、木竹叢生す、冠島の北岸に近接して立神と称する砥柱あり、波際に危立す、高十丈、沓島クチシマは冠島の北一海里、宮津府志云、沓島はめぐり二十三町、鷹隼此に巣くふ、年々田辺の人行きて之をおるすなり。遊九景浦。笛浦。舟放空明無所依、一瓢取酔…。神祇志料云、恩津島神、今与謝郡奥の島にあり、俗に弁天と云ふ、三代実録、元慶四年、正六位上恩津神、葛島神、坂代神並に従五位下を授くとある者是也。(今按恩津島は奥島にて、葛島は沓島なるべし、坂代神不詳) 補〔冠島〕○宮津府志、宮津府城より舟路八里、伊根浦よりも亦三里あり、島の回り一里六町、山ありて諸木大竹生茂り、笋多く生て漁師の食とせり、諸国廻船俄に風波の凌ぎがたく難風に逢しとき、此島へ乗つけて順風をまつ、島の内に臼杵鍋等ありて其用を達す、此島北受の岸に立ケ神といふ立岩あり、長さ十五間、○沓島、冠島の西海上一里を隔ててあり、回り二十三町余ありとなり、此島には鷹隼等の巣あり、例年田辺の人行きてオロスとなり。 〉 《加佐郡誌》 〈 冠島。大正十三年十二月九日、内務省告示第七百七十七号を以て、おほみづなぎとり繁殖地として天然記念物に指定せられた、東大浦村大字野原・西大浦村大字三浜・大字小橋立合字大島といふのは、舞鶴湾外の舞鶴を去る約十六浬の沖合にある一島であって、其の形が冠に似て居る為め冠島と呼んでいるが、又大島とも雄島とも老人島とも称へられているのである。そして其の傍には沓に似た小さな島があるので、それを沓島又は小島・雌島といっている。冠島の周囲は一里にも足らないが、奇巌怪石が縦横に遶っていて、狂瀾怒涛は巌角を噛み飛沫は霧の如くに散じて、壮観実に筆舌の及ぶところでない。若し一度西北方の千畳巌頭に攀ぢて眼を放つならば、雲波縹渺水天髣髴として一物の眼界を遮るものなき日本海を一望の中に収め得べく、形勝の雄偉気象の宏瀾真に鯨背鵬翼に跨って北溟に飛ぶの概がある。然し東部及び南部は鬱蒼たる森林であって眺望は全く不可である。其の林中の木根や草根の下等に数尺の横穴を掘って、無数のおほみづなぎ鳥(舞鶴地方ではさば鳥といっている)が塒を作っているが、此の鳥は他の鳥の如き巣は作らないので昼間は必ず海上を飛翔或は潜泳し、夜間のみ此の穴に帰へるのである。けれども六、七月頃り産卵期には、其の穴中産んだ唯一つの卵を孵化せしめる為に、雌鳥は約一ケ月間穴中に居て、昼間と雖も決して海上には出ない。それから此の鳥は余り人を恐れないので掴む事も出来るが、保護鳥である上、此の冠島全体が此度此の鳥の為めに天然記念物に指定せられる事になったのであるから、鳥も卵も絶対に捕獲し得ないのである。 尚本島には、老人島大明神の祠があって漁夫の尊崇が甚だ篤い。それで毎年の陰暦五月五日の例祭には非常な賑ひを呈する。其の日には舞鶴から吉原の漁夫が競舟と称する漁船の競漕を催ほす古習があるが、それは選手の者が其の日に吉原を出て此の島に渡り、終夜近海で漁撈した上翌朝は身を潔めて神に祈りを捧げ、櫓一挺に櫂八本の漁船二隻に組を別け、正午一斉に纜を解いて十八海里の海上を腕の限りに競漕して舞鶴に帰へるのである。其の決勝点は湾内横波の松で、疾いのは約一時間半で着するといふ。それから数多くの歓迎船に擁せられて、漕手の若者は様々の扮装を凝らし、 たる太鼓の音勇ましく吉原へ凱旋する。これを雄島戻りと称へ、当日の朝から満街の士女は舟を装ふて此の盛挙を観る為め、湾内に輻輳するが、先着の舟が眼に入ると、歓呼の声喝采の響海波に相和して、観る者も漕ぐ者も狂せんばかりの壮観を呈するのである。今此の島に関する古歌を挙げて見ると次の様なものがある。 老人島一名冠島は与謝海の中に在る小島であって東大浦村字野原と西大浦村字三浜と同村小橋との共有である。中生代侏羅紀の砂岩礫岩から成り、世俗の信ずるやうな海中に噴出した火山島ではない。周囲の陥没によって丹後本土と分離したものであると、但し…大宝元年三月の地震によって生じたものであるか否かは同島の博物学上の研究によるも明言し難い。尚此の島に生ずる桐樹は無比の良材の名が高い。 〉 『港の景観』(出口昌子・正登) 〈 周囲四キロメートル、山頂標高約一七○メートルという冠島は、そもそも避難時以外、人の住まない無人島であったが、戦時中は本土防衛の最前線基地となり、重油の発電所、高射砲やサーチライトなどがすえられて、海軍兵五○○人が駐留していたという。 海軍が直接島とかかわるようになったのは、明治後期のことである。明治三四年(一九○一)に舞鶴鎮守府が開かれてのち、明治三六年(一九○三)には舞鶴鎮守府あて、島の使用許可が西大浦村長、東大浦村長の名で提出されている。必要があれば鎮守府は無料で島を使用してよいが、毎年一月から六月までは漁業および採藻などのため、付近に出船があるので、演習などで使う場合は、三、四日前に村まで通知するよう伝えたものであった。つまり、当時の主導権はあくまで島を共有する地元の側にあり、海軍が使わせていただく形であった。 しかしながら、昭和八年(一九三三)になると、むこう五年、島の軍用地の使用が海軍によって認められ、冠島での漁を続けることが許可されたものの、海軍用地以外であってもあらかじめ要港部の承認をうけなくてはならないという厳しい統制をうけるようになっていた。 現在の冠島は欝叢とした森におおわれ、五○○人という人間圧を想像することなど困難なほどだが、戦時中は山の上にも下にもたくさん家があったという。 そして終戦になって海軍が撤収するにおよんでも、平穏が訪れるまでにはなおいろいろな悶着があった。 終戦のとき、わしゃ、田圃にあたっとったら、福井県から舞鶴湾に船がどんどん入ってくる。何事やろな、と思って見とったら、重油を全部もって帰った。わしゃ、知らんかつたから、もらわんかった。 兵隊五○○人もおったから、ムラ中て島へ行こ、ということになって行った。当時はセメン(セメント)がない。すると上田上等兵曹という海軍がやってきてな。お前ら皆、重営倉(旧陸軍の犯則者にたいする重い懲罰)というたな。断りいれてこんじゃった、というてな。終戦になってから、上等兵も中尉もあるかい。ま、いろいろあったんや。 と地元の住人は述べる。 海軍の人は戦後も居座って、奉納の旗をフンドシに使ったり、お堂の瓦をもっていくなど悪事を働く者が多かった。 「小浜の海軍大尉だかか、冠島の土を終戦後、どんどんとりだした」こともあった。冠島は、オオミズナギドリの繁殖地ゆえ、島の土全体が鳥糞である。黙って見過ごすわけにはいかず、京都大学から「先生」を呼んできて肥料としての商品価値があるかないかを鑑定してもらった。肥料成分はあるが、肥料としての商品価値はないとの結果で、結局罪にも裁判にもならず、ただ共同管理をする三地区の権利がついて、収束する。 つまり、人の土地の土を黙ってとっては罪になるから、許可されれば採取料を支払う義務ができたが、肥料としての商品価値がさほどないとわかって、とらなくなったのである。 〉 |
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『宮津市史』より 『舞鶴市史』より 『樹に登る海鳥』より |
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