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雄島参り '11 (舞鶴市冠島)




老人嶋神社の神事
↑老人嶋神社の神事(2011.6.3)

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「雄島参り」参拝船団の野原港出発

 「雄島参り」の祭日、6月1日はたいていよく晴れるのだが、2011年は台風2号の影響で予定日より2日遅れ、6月3日に行われた。朝のうちは雲が低かったが、次第に晴れてきて暑いくらいになった。波はなく穏やかだった。
長い歴史と伝統の「雄島参り」、師匠・坂根氏は何度も来られたそうだけれども、ワタシは初めて。野原から同行させてもらった。

 ↓「雄島参り」・老人嶋神社の供物・掛けの魚(カケノイオ)の用意、イオとは古代語、海で捕れたものなら何でもいいそうだが、二匹が原則。ここは一番ウマイ大きさの桜鯛二匹。

供物の鯛
 ↓大浦校の6年生たちも行く。
子供達も乗船
 ↓9時30分出発
老人嶋神社参詣船団
 ↑↓野原の参詣船団。太鼓と笛の囃子がある。

 ↓モヤがかかって見にくいが正面に冠島がかすかに見える。ここから約10キロ沖になる。

 ↓「老人嶋大明神」と書かれた赤い幟や、こんな大漁旗をなびかせて、冠島向けて走る。帽子は飛び、髪の毛はクシャクシャ。大漁旗

参詣船団
↑どこの村の船であろうか、伝統による競艇でフルスピード。
「雄島参り」には決して外せない古来からの伝統民俗行事があった、それは各村々の競艇競技であった。手こぎのトモブト(木造の古来からの小舟)で雄島までのスピードを争ったという、ペーロン競艇と同根の太古の南方風習であった。今はプラスチック製でエンジン付き、もうそうした行事は全く見ることはできない。わずかな記録や口承、伝説、今に微かに伝わる↑こうした光景から何とかしのぶのみ。

    ↓わずか30分で到着した。すでに先着参詣部隊が何隻もいる。
冠島
 ↓子供達も無事到着
参詣船



冠島(雄島)上陸

 ↓本船はアンカーをうって沖合に停泊、ここからは小船に乗り換えていよいよ冠島に上陸する。
参詣船
 ↓舳先から着ける、伝統の「雄島づけ」。
雄島付け


冠島の人工物
 ↑こんな人工物がいくつか残る。旧海軍のものか。

 ↑↓看板が立てられている。上陸は禁止されているが、この日だけは別。





          

 ↑ 歩きにくい。海岸はゴロゴロした大きな円い石ばかり。


 ↑雄島参りの老人嶋神社の鳥居前に到着。


老人嶋神社の神事

 ↓鳥居からは石畳の参道が続く
老人嶋神社参道
 ↓ すでに何人もが。右手が社殿、左手は社務所、蒹避難小屋か。
老人嶋神社
 ↓古い由緒の老人嶋神社(おいとしまじんじゃ)
老人嶋神社
 ↓供え物はこれに限る
老人嶋神社への供物
 ↓10時30分くらいから神事
神事

神事
 ↓玉串の奉奠が続く…
玉串奉奠
 ↓ 一般参拝、ぞくぞくと、何を願ったことでしょう。
参拝
 どんな勝手な事を願ったか、だいたいはわかるゾ
参拝

     

 ↓船玉神社。近くにもう一つ神社があるらしいが、どこにあるのか?
船玉神社
 ↓周辺はオオミズナギドリの巣穴だらけで、キョロキョロウロウロしているとボコと突然足元が落ち込む。ごめん、おウチをつぶしたみたい。どの木に登って飛び立つのだろう、キョロキョロしてるとまたボコッ。
オオミズナギドリの巣穴
 ↓なぁ記念に写しといてな、とインドの何さんだったか、再会となった。
参拝を終えて


磯部の直会

磯部の石
 ↑磯は凝灰岩のよう。かつて激しい火山活動があったのだ、丹後半島的な地質のよう。この島は日本列島の誕生を知っていそう。あるいは大地震や大津波も記録しているかも、実は記録にはあって、三日間地震やまず丹後国加佐郡凡海郷は一夜にして海中に没した、残されたのがこの冠島と沓島だと、そんな伝説は誰も信じていないが、それには金銭のからんだワケがあったかも知れない。
対岸は日本の1/4の原発が集中する日本一の14基の「原発銀座」である。それらは最大でわずか2.9メートル(大飯)の津波しかないと想定しているそう、しかしそれは悪夢のようなことは想定したくないというだけのおハナシだろ、高浜は2.3メートル、美浜に至っては1.9メートルの想定とか、笑ってしまいそうな「津波対策」だが、そう目出度い大バカが想定するほどに若狭の自然が原発に都合がよいヤサシイものかどうかだ。ここは福島どころではない、若狭原発14基すべてが一夜にして滄海に没するかも知れないという超想定外の最悪も想定もしておかねばならない、関西の水瓶・琵琶湖までは30キロ、京都までは60キロ、「首都」大阪までは100キロである、海水が原子炉を冷却してくれるかも知れないが、たぶんその時はこの世の終わり、日本の終わり、世界の破滅になろう、半減期2万数千年という高浜4号炉のプルトニウムが10万年にわたって全世界を汚染し続けることになろう。相手は自然である何が起こるかは人間にはわからない、人間にできることは最悪も想定してかかるということであろう、地震国津波国にいて安全です、安心ですなどとアホくさい空念仏の寝言がよく言えたものである。:実際に大事故が発生すればデータはグルで隠す、とぼける、垂れ流す、最後は外国に助けてもらわなければ、どんな事態となっていたか、こんなソーテーガイ連中が動かしているのかと寒気がしてきた、原発に油断はゼッタイに厳禁だろうが、もっともっとピリピリしてくれよ、原発必要だというクソ連中の住んでる町にこそ「安全で安心な原発」はつくれ、 オマエらなら放射能くらいヘでもなかろう、自然もロクに知らず、ロクに調べもせず、原発すら知らない、そんなクソに原発など超危険な装置が扱えるのかの哲学的疑問が発生する、「大本営」はたるんで呆けているのか買収されているのか、福島では「悪く」想定した者の予測が現実になったのだ、実際はヤバすぎるのでは…

若狭の観光案内では原発のゲも言わなくなったし、原発労働者たちも自分がそこで働いていると決して言わなくなって久しい。都合が悪いのであろうか。
若狭の大津波の記録は関西電力原子力事業本部自身のホームページにもある。
→「美浜町くるみ村 むかし大津波で滅んだ村
 このコーナーには良いHPがある、私もよく覗きに行く、同じことは関西電力広報紙にも載っている、そんな記録があったなんて知っていたことなど都合が悪すぎると消さないようにして下さい。知らぬととぼけるのは、自分たちが何を書いてるのかも心得ぬ超不勉強なクソばかりのよう。

     

直会
 ↓ 島での直会は大浦半島の3つの村だけだが、超ゴッツォをいただく、ありがとうございます。舞Iに住んでいてもめったなことでは口にできないもの、新鮮とれたて、うまくてボリュームがあって、腹が二つ三つ、口が五つばかりほしくなる。
直会
そこに男の子がいるでしょう、小5なんだそう↑ 本当は学校なんだけれども、今日はサボって雄島さんへ来たそう、おっちゃんが来る前からボクは来とるで、毎年ずっと来とるで、ということであった。彼は野原には住んでいないそうだが、野原の出で彼に流れるアマの血のDNAが騒いでどうにもならないのだろう。吉原の知り合いは「子供の頃は、親に見つかると叱られるで、舟に早ように行って隠れとってな、雄島さんへ行った」などと語っていたが、伴さんのように言えば「頭はいいわ、顔はいいわ」のアマ族は海の女神に招かれてもうジっとしておれない、女神が喜ばれていることだろう。

 ↓鯛の刺身が惜しげもなく何度も空を飛んでいく。もったいないが食べきれない、ウミネコに食べてもらおう、世話になってることだし…
ウミネコにも
 それクエクエ、ワサビ醤油、酒付きだぞ ↓
鯛の刺身をウミネコに



参考文献

 ↓さらば冠島! われらに冠島に坐す女神様のご加護どうかあらんことを!
さらば冠島


『吉原校百年誌』
 〈 お島(冠島)参りと漁船競漕
 舞鶴から北東約二十八キロメートルの海上に冠島があります。この島は周囲四キロメートルたらずの小さな無人島で、「オオミズナギドリ」生息地として大正十三年に天然記念物に指定されています。
 通称大島とも、雄鳥とも呼んでいますこの島の、老人島大明神は、音から漁業者が、豊漁と海上安全を祈願しています。例年旧五月の節句には、数隻の船を仕立ててお参りして、青年による漁船競漕が行われました。しかし昭和二年六月五日の午後、競漕の練習中に心臓麻痺のため一名死亡といった不幸なことがありました。それ以来、この競漕は行われていません。
 この行事について古老は、「おしま(老人島)参りは、昔からあり、東吉原は胴船(どうぶね)で西吉原は網船で参った。胴船には、四十人から五十人くらい乗ったが、西吉原の網船は、八枚の櫂(かい)で漕ぎ、おしまから競漕した。」と云っています。いつの時代から初められたかは判りませんが、西吉原町保存の永代記録帳に、次のような記録が残されています。
「文政十一年(一八二八)五月より御嶋参り之とふ舟(胴船の意)宮津屋六右衛門殿方より札三百匁ニ而借り付ニいたし則代札相渡し申候」
これを見ますと、昔機械船がなかった時代、胴船で何十人かの人々が、おしま参りをしたことがうかがえます。漁船競漕については、記録してありません。
 大正十四年京都府教育会加佐郡部会発行の「加佐都誌」に、当日の模様が次のように記録されています。
「尚本島には、老人島大明神の祠があって、漁夫の尊崇が甚だ篤い。それで陰暦五月五日の例祭には非常な賑ひを呈する。共の日には、舞鶴から吉原の漁夫が競舟と称する漁船の競漕を催す古習があるが、それは選手の者が、其の日に吉原を出てこの島に渡り、終夜近海で漁撈した上、翌朝は身を潔めて神に祈りを捧げ、櫓一挺に、櫂八本の漁船二隻に組を分け、正午一斉に纜を解いて、十八海里の海上を腕の限りに競漕して舞鶴に帰るのである。
 其の決勝点は、湾内横波(白杉)の松で、疾いのは約一時間半で、着するといふ。それから数多の歓迎船に擁せられて、漕手の若者は様々の扮装を凝らし、鼕々たる太鼓の音勇ましく吉原へ凱旋する。これを雄鳥戻りと称へ、当日の朝から満街の士女は、舟を装ふてこの盛挙を観るため、湾内に輻輳するが、先着の舟が眼に入ると、歓呼の声、喝釆の響、海波に相和して、観る者も漕ぐ者も、狂せんばかりの壮観を呈するのである。」
 前述のように、漁船競漕は現在は行われていませんが、海上安全と豊漁祈願の老人島(おしま)詣りの風習は、いまも続けられています。  〉 

『若狭の漁師、四季の魚ぐらし』(1997・貝井春治郎)
 〈 若狭湾に浮かぶ冠島のことを漁師たちは、雄鳥(おしま)さんと呼んでおりましてな、海の神さんへの深い信仰の対象となっております。高浜の漁師にとっては、海の雄島さん、山の青葉山が、海と山それぞれへの信仰につながっておるということでしょう。六月の第一週から十日ごろまでの一日、高浜の塩土(しおど)区と事代(ことしろ)区の漁師たちは、何艘もの船を仕立てて雄島さん参りをします。平成八年の雄島さん参りは六月八日におこなわれました。
 冠島は、行政上の地籍としては京都府舞鶴市に含まれておりまして、島周囲の地先の共同漁業権も舞鶴市の福井県寄りの野原、小橋、三浜の三つの漁業協同組合の共有となっております。地籍や漁業権の所有はいろいろな伝承があるようですが、この雄島さん参りは、若狭湾でも西側の高浜、和田、音海半島の漁師、そして京都府の舞鶴、宮津、伊根の漁師たちが、それぞれに漁村というムラ単位に、日もそれぞれ別々になるように続けてきました。
 高浜では、塩土と事代の二つの地区が一緒になって漁協がつくられております。現在では一緒になっておりますが、昔は別々で、お参りの日も別々でありました。区の漁師も大勢参加して、六十人が長さ一三メートルはある木造のハガセ船三艘に二十人ずつ乗り分けて、漕ぎ手の若い衆たちが太鼓や笛の鳴りものもはでに、島までどの船が速く着くか競いおうたもんです。塩土区の場合は、東之丁、中之丁、西之丁と三組に別れます。三艘とももちろん手漕ぎですから、ふだんから鍛えた腕っぷしを競いおうて、そりゃ威勢のいいもんでした。勝利船の漕ぎ手となったものたちには、その年の大漁が約束されたもんです。
 現在の雄島さん参りは昔のような威勢こそありませんが、この日は年寄りも若いもんも心を一つにしてお参りをします。塩土と事代それぞれに三隻の漁船、島へわたるさいに乗り込む一隻のマルキブネを曳航して七隻に五十人ぐらいが乗り込みます。
 雄島参りの総指揮は、組合長の鯛取勇会長の役です。漁業協同組合の組合長というよりも、こういうときの立場は、塩土区と事代区をあわせた漁業会の会長さんと昔はいうておりましたが、両区の漁師集団の代表が総指揮をとるということになります。町の衆には、このへんのことが少々わかりづらいでしょうな。漁村という昔からの村のなかに、みんなで出資して漁師がとってきた魚を買ったり売ったり、漁業の仕事の手助けをするための会社のような組織がありましたが、これが後に漁業協同組合といわれるもので、それとは別に祭りや講の行事など村ぐるみのいろいろな行事をとりしきるさいに漁師を束ねる集まりがありまして、それを昔は漁業会というておりましたのやな。そういうことがあるもんで、昔の癖が抜けんでな、わたしは、いまでも鯛取組合長のことを「会長さん」と呼んでおります。
 朝六時に、会長さんが「いこかぁー」とひと声をかけますと、みんなで「いこー」と威勢のいい声で返します。それを二度繰り返して、さあ出港です。船が出ると、すぐに鷹島(たかしま)の弁天さんと城山の蛭子さんの方向にむかって、それぞれに全員が遥拝いたします。次に、港の中を時計回りと反対の左回りに三回ぐるっと回って、それから港を出て一路冠島に向かいます。競漕はしませんが、わたしが乗った船は、この日に間にあわせるために数日前に進水したばかりの「大芳丸」ですから、そりゃ速いのなんの、白波をたてて猛スピードで走る。船主の大黒芳信君はまだ三十代ですが、高浜でもリーダー格の若手漁師やもんで、昔のように一番で島に着いてやれというつもりもあったようです。
 三十分走ると、島が近づいてきます。この日は南からのヘタの風が強く、白波が立っていて、いつも上陸する丸石の磯側からは近づけないので、裏手に回りこんで岸に並行して三隻横につなげて停泊し、マルキブネとロープ伝いに乗り移ることになりました。雄島へは、このマルキで上陸することになっております。老人嶋大明神と白地に朱書した幟と赤布に墨書した幟とをそれぞれにかかげながら、海岸伝いに回り込んで老人嶋神社に幟を奉納し、拝殿にお供えを献じてお参りをいたします。漁師そろっての参拝のかたちはこれですみますが、冠島には、老人鳴神社に並んで船玉神社があって、ここにもお参りします。
 また、石の鳥居から五〇メートルはど離れたところに瀬の宮神社というエビスさんをお祭りした蛭子神社があります。高浜の漁師は、この神社をウバコシ神社と呼んでおります。姥越神社と書きますが、このエビスさんは耳が遠いといわれていて、参拝して大漁祈願をするときも、まず石でごつごつと音をたてて神さんに気づいてもろうてから、大きな声を出してお参りするのが習わしになっております。ほかの地区ではこのようなことはしませんで、高浜の塩土と事代の漁師だけに伝わっていることなのだそうです。ここのまわりには、オオミズナギドリが巣にしている穴が地面のそこかしこに掘られているので、卵を踏まないように注意が必要です。
 帰りには、みんなでマルキのハシケのところに集まって、その場でお酒をいただきながら直会(なおらい)をします。それから各船に戻って一時間ほど停泊しての直会が続きますんやな。それが終わると、帰りも、行きのときと同じように三回旋回してから戻ります。高浜の港に着くと、こんどはマルキに代表の役員さんらが五人ほど乗り込んで、海から城山の蛭子神社に渡って参拝し、幟を奉納して、ようやく雄鳥さん参りの行事は終了します。
 午後からは、集会所に塩土と事代の漁師全員が集まる総会となって、お参りの報告会と、また直会です。まあ、この日は一日よくお酒をごちそうになりますんや。この雄島さん参りがすむと、高浜も夏の漁へと切り替わっていきます。  〉 

『宮津市史(史料編五)』
 〈 オシマ参り
冠島 舞鶴市の沖、成生岬より北北西九・三キロメートルの若狭湾に浮ぶ冠島へ参拝する習俗がある。冠島は、全島が常緑樹で覆われ、オオミズナギドリ繁殖地として天然記念物に指定されているが、この鳥は別名サバドリと呼ばれ(土佐でカツオドリという)、漁師の間では魚を呼ぶ鳥とみなされている。
 冠島の北東二・二キロメートルに沓島(釣鐘島と棒島の二島からなる)があり、この島はウミネコ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として舞鶴市の指定を受けている。
 冠島、沓島の呼称は、その遠望した形状から名付けられたらしく、文殊大士が脱いだ冠と沓が島と化したという伝説や、『丹哥府志』に「冠島の二島俗に沖の島という。一に雄島女島と呼ぶ。又大島小島」とあるなど、常に一対でみられてきた。参拝するのは冠島だけで、山裾に残るわずかの平地に老人島神社がまつられている。
 島参り 冠島のことを漁師たちはオシマサンなどと親しみをこめて呼び、冠島参詣のことを「お島さん参り」または単に「島参り」と呼びならわしている。神社の祭日は毎年六月一日とされ、この日は若狭湾沿岸の各地から漁師たちが、豊漁と海上安全を願って、船に大漁旗をなびかせ参詣にやってくる。神社には神職はおらず、ただ「老人島神社」と墨書した幟を持って参るだけの行事で、これ以外の日に参る地域も少なくない。
 市域では、由良〔松下(宮本の一部)〕、中津、小田宿野、島陰、田井、宮津(漁師町)、江尻、岩ケ鼻、大島などが島参りを続けてきたが、由良や中津、島陰、岩ケ鼻などでは行われなくなった。しかしこれは村(漁業組合など)行事としての集団参拝を廃止したもので、なお、個人的に参る場合があり、根強い信仰を保っている。
 島の神は女神と考えられていて、山の神のように女性が参ることはタブーとされてきた。また、トモブトなど無動力船を用いていたときは、たいてい複数の船に分かれて競漕が行われ、漕ぎ手は若い衆であった。このため、ついでに橋立の文殊さんへ参り宮津で遊んで帰るのを恒例とする島参りもあった。沿岸の漁村では、男が成人すると小さい船を櫓一本であやつり、冠島に参拝して無事戻ってはじめて一人前の男とあつかわれた。舞鶴市吉原の「節句参り」の風習はこの発展型であろう。
小田宿野  昭和六十年代になって島参りを六月一日とするようになった。それまでは、四月か五月の漁師の都合の良いときに参っていたが、よく海が荒れたという。今も島参りを続けるのは、定置網漁のオオシキアミを続けている十五、六人の人たちだけである。漁業改革以前すなわち戦前、小田の戸数が八十戸弱のころは、オオシキアミの組ごとに船を出し秋祭りの衣裳を着て太鼓を打ちながら参った。他に田井や島陰にも組がある。島陰は廃したが、田井に残る一組からも島参りの船を出す。なお、オオシキアミのことを漁師たちはオオシキと略して呼ぷ。平成三年の小田宿野の島参りは次のようであった。
 六月一日、いつもと同じように早朝から二か所のオオシキに出かけ、水揚げした魚を出荷する。そのあと今朝獲れた魚を酒の肴に調理し、山から切ってきた青竹に大漁旗をくくり船に立てる。肴は、マルゴ(ブリの子)、アオリ(アキイカの親)の刺身、エソの刺身にきゅうりを三杯酢あえしたもの、イカの煮付けなどである。こうして一○時にオオシキに使う漁船に乗り組み小田宿野の港を出発(かつてトモブトニ隻を合せて帆をかけ、櫓をこいでいったときは四時間もかかり、このため朝四時頃に出て、十一時頃になると吹く逆風に帆をかけて戻ったという)、一時間あまりで島に着く。すでに多くの船が来ており、舞鶴市三浜、小橋などの旗がみえ、海岸ではあちこちでテントを張り、煮炊きする風景が見える。島近くに停船して小舟に乗り換え、海岸線に並ぶ丸い大石に舳から乗り上げるかたちで着船し上陸する。一行は、「奉納 老人嶋大明神平成三年六月吉日 栗田漁業生産組合小田事業所」と墨書した赤い幟二本にお神酒、紐で結んだカケノイオ(このときは一対のカマス)などを手にして老人島神社へ参る。海岸から樹海のはじまる所に鳥居が立ち、木々をくぐっていくと社殿がある。先に参った人たちの赤い幟が、いずれも「老人島大明神」と大書し、周囲を圧倒するかのどとく林立し、信仰の厚さを物語っている。めいめいが参拝したあと供えたお神酒をいただき、掛けの魚を手前の建物に掛けておく。掛けの魚はかならず一対で、海で獲れた魚ならば何でもよい。
 ついで海岸に戻り、島の端にある瀬の宮(オイベスサンともいう)へ参る。ここは恵比須大明神をまつる。この神は耳が遠いので大声を出し、祠に石をぶつけて祈る。お参りが終わると、小舟に乗って本船に戻り、先に来ていた田井の漁師といっしょになって船上で酒盛り。ひとしきり歓談の後帰途につく。途中、大谷と無双にあるオオシキの漁場に立ち寄り、お神酒を海に注ぐとともにビールとジュースをビンごと網の中へ投げ入れ、大漁を祈願する。
 港に戻ってくると、迎えの船が出てきて、二隻並漕して神さん回り(時計の針と逆回り、時計回りを葬式回りという)に三度回る。その間に両船は接舷して、迎えの船からお神酒を持って乗り移った人が、島参りをしてきた人に注いでまわる。港に着いて片付けが終わると、一同は一度着替えに戻り、留守番をしていた人も加わって酒宴が開かれる。
 大島 大島は、主漁従農の半農半漁であった。それで農業のサナブリに漁業の島参りが結びつき、田植えと養蚕の終わった六月末にこの二つの行事をまとめて行っていたが(大島区有文書の「老人島参り入費帳」によると昭和五年と十五年は六月二十五日、昭和十六年は六月二十九日であるが、昭和十二年は五月二十五日である)、青年会の衰退とともに昭和四十年代から一時中断していたのを、若家主会を組織して復活させている。宵宮のサナブリ行事では、トモブト四隻をつなげて帆柱を立て、これに提灯を山形に飾り、老人島大明神の白幟も立てて、鉦や太鼓、笛で囃しながら浜の沖を三巡する。その夜犀川の河口で拾った石を持って、翌朝島参りをしている(かってはトモブトに帆を張り、夜の西風を受けて冠島へ向かった)。石を持って参るのは、孤島が侵食されて消滅するのを防ぎ、少しでも島を太らせたいためと考えられているが、これも一種の大漁祈願とみなされ、伊勢神宮の式年遷宮に行われる白石持ちの行事に通じるものであろう。ちなみに大浦半島の漁師は、出漁のとき陸の石を積んでおき、わざわざ冠島の海岸まで近づいて石を島に投じてから漁をはじめる習慣があったという。
 宮津 冠島が天然記念物に指定されていることは上述したが、参拝の上陸許可を舞鶴市教育委員会へ申請しなければならない。宮津漁業共同組合では、平成四年に二度この申請を出している。最初は平成四年四月二十七日から五月五日までの間の一日(午前七時から十一時)に、大浜丸など六隻三十名が上陸参拝するというもので、二度目は、五月二十八日から六月五日までの一日(時間同じ)に一美丸十名が参拝するというものである。一度目の実際は、四月末に三十一名が五隻の船に分乗して参ったという。大正初期までは、宮津祭りの前後旧暦三月と五月の二回参ったといい、「島参りが日和ならば、宮津祭りも日和」といった。また、漁師町には島講という講があり、上・中・板屋・新地・小浜の五組に分かれて組ごとに島参りをし、残った人はハマに茣蓙を敷いて坂迎えの宴を開いた。波が荒くて島に着船できないときは船から拝んで新井崎の神社へ参って帰った。
 江尻 漁業会が五組からなり、各組が一人ずつ代参をたてて角樽と魚と赤い幟とを持って参る。瀬の越さんは耳が遠いので、「江尻から参ったぞ」と大声で叫んで石を投げる。島から戻るとその足で龍神社へ参る。代参した人は明日から大漁だという。
 島参りの広がり  島参りは、図135のように、京都府から福井県にかけて若狭湾一円に広がっている。冠島に遠い若狭東部や、主として雨乞いを祈願した舞鶴湾の西側では近年衰退しているものの、豊漁を願う湾岸一帯の漁村では、今も根強い信仰を保っているといえる。これに対し、老人島神社の横に弁財船の模型が奉納されているが、これに乗って老人島の女神が海を渡ると考えられており、船玉神社と呼ばれている。ただしこの船は、明治五年に若狭国西津小松原から海上安全を祈念して寄進されたものである。さらに、境内の石仏や狛犬には「安政三丙辰年仲秋・奉再造弁天・小浜講中」「若州高浜東ノ町講中・慶応元丑歳八月吉日」など、島参りの衰微した若狭からのものがいろいろみられる。
 養蚕が盛んなころは、由良川流域の農家が繭の豊作を祈願して、団体で島参りをし、染め絹を奉納する「養蚕参り」が行われた。また、東舞鶴の市場地域からは毎年桑苗を冠島へ寄進したといわれている。
 野原・小橋・三浜  冠島の地籍は、「舞鶴市大字野原・小橋・三浜字大嶋」となっており、国有地以外は上記三地区の共有である。冠島の所属をめぐって漁師の間でよく知られた伝説がある。地域によって多少の違いはあるが、「雄嶋づけ」とよばれる船の着け方の由来ともなっている伝説である。冠島をめぐって伊根と上記三地区の漁師が対立し、双方の地から同時に船を漕ぎだして、早く島に着いたほうが勝ちということになり競争をした。伊根の漁師の方が早く着いたが、船の向きを変えて艫(船尾から着岸しようとしている間に三浜(または小橋、野原)の漁師が舳(船首)から着けて勝ってしまった。以後この船の着け方を雄島づけと呼ぶようになったという話である。
 冠島の所有について若狭湾岸の漁村では、江戸時代前期にはすでに三浜・小橋・野原三地区のものと慣行的に認めていたようで、元禄十一年(一六九八)に若狭の三方郡早瀬村の船頭らが、沖島(冠島)を基地として出漁するため、三浜など三か村庄屋に対し場代を納める証文をかわしている。
 ところで、冠島を共有する三地区は、老人島神社の鍵番を輪番でつとめ、鍵番の地区が島参りの祭典を主宰することとなっている。ちなみに鍵番は、平成四年野原、五年三浜、六年小橋の順である。そして島参りで老人島神社や瀬の宮に参拝した後、九石の折り重なる海岸で直会を行うが、これはこの三地区だけである。
 平成四年、鍵番の野原からは村神主がしょうぶ、よもぎ、熊笹の葉で包んだ粽にタテオミキ(白酒)を持って老人島神社へ参った。祭典は、修祓、祝詞、三区長及び漁業組合長の玉串奉納までという形どおりのもので、約一五分間で終わり、古式を伝えるような儀礼はみられなかった。なお、野原では五月二十八日から六月五日まで鯉のぼりを立てる。
 雄島事件  昭和八年、舞鶴の軍港司令部が許可なく冠島へ上陸することを禁止した。これにより老人島神社への自由な参拝ができなくなり、緊急避難するにも事前の許可が必要となった。東舞鶴の郷土史家山本文顕はこれに反対して、布令廃止を求める論説を「新舞鶴時報」に連載し、「雄島事件」といわれる騒動が起こった。この布令は昭和二十年の終戦まで変わらず、軍による砲台設営などで島が荒らされた。また、「艮の金神」を信奉する大本教では、本部のある綾部から艮の方角にある冠島・沓島を霊場と位置付け、現在も上陸許可を申請して、七月頃に教団関係者が団体参拝を続けている。  〉 




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