丹後の伝説
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丹後の伝説・18集

丹後の伝説: 第18集

由良川水運開発計画、戦争と舞鶴、細井和喜蔵、他
 このページの索引
雄島事件 小笠原朝経入道沢蔵軒の切腹 海軍とともに栄えた舞鶴のくるわ 岸谷観音由来 車持の地名 白杉古墳(舞鶴市) 終戦のころの舞鶴の様子 建物の強制疎開(舞鶴市) 東山地下壕(舞鶴市) 細井和喜蔵 舞鶴工廠鎮魂碑 舞鶴所属艦船35隻の最後 舞鶴空襲(20.7.29) 舞鶴空襲は原爆模擬弾 舞鶴要塞 舞鶴鎮守府・舞鶴要塞跡 まるこ山古墳(舞鶴市野村寺) 宮津湾沿岸の前期古墳 由良川水運開発計画 由良川・加古川ルートの開発計画 与謝野礼厳


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岸谷観音の由来(舞鶴市岸谷)

『市史編纂だより』(昭49.1)に、


岸谷観音の由来


         (岸谷)  岸本庄三郎さん

 岸谷の観音さまといえば、特に良縁と安産、難病に御利益があるといわれ、最近では入学試験の願をかける人もふえている。
観音堂(舞鶴市岸谷)
 本尊は平清盛が信仰したという聖観世音菩薩である。源氏に追われた平家が屋島に落ちのびる際弥平兵衛宗清の家来が背負って来たと伝えられている。岸谷より二キロほどロの出合った土地に住みついたが、敵の追跡をおそれてさらに奥地へ逃がれ、ここにお堂を建ててお祭りし、残党が集って岸谷の部落を作ったという。出合い付近には住家があった模様で多くの墓石が散乱している。観音さまはたいていた寺に祭ってあるが、岸谷の観音さまは長泉寺と反対の丘に東向きのお堂に祭られている。先年、京都大学の赤松教授が鑑定され国宝的存在であるから大切に保存するようにいわれた。
岸谷の集落(観音堂より)
 落人たちは敵に気づかれないように、外部との連絡を絶って生活していた。明治維新まで石尾、竹之内、嘉門、岡などの姓があった。また何々左衛門、何々右衛門、何兵衛などの屋号がいまでも残っている。時々二本差しで町へ出て田辺藩の武士たちと間違われたともいう。刀の残っている家もたくさんあったが、終戦の際、供出してしまった。家の系図も残っていないが、観音さまは村人に氏神のように祭られ、代々、弥宜という二戸の家で堂守りしている。

 境内には樹齢五、六百年という百日咲の巨木が枯死寸前の姿で花を咲かせているのは痛ましい。さる四十五年の大火に痛めつけられたためて、岸谷にはその以前にも同じような大火があったが、二回とも災難を免かれており、災難よけの観音さまともいわれている。

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雄島事件(舞鶴市)

『市史編纂だより』(昭和49.4)に、
何度もコピーが重ねられたように書面で、読み取れない箇所が多い、読めて適当そうな所だけを引かせてもらいました。山本文顕のような人が絡んでくると冠島を世界遺産に押したくなる。舞鶴では可能性のある所かも知れない。

雄島事件をめぐって


    専門委員  戸祭   武
1…

…なかでも、昭和8年から?年にわたる「雄島事件」とでもいうべき軍当局との抗争はは、まさに時代の先覚として、軍港都市舞鶴に数少なく咲いた?軍」の記念碑であり、全国的にも紹介にされるべき性格と意義をもつものである。



結局「科料十円」の判決に処せられた事件である。この間の有形無形の圧迫のなかで「恐怖心と盲従」に屈せず、敢然とたちむかった山本さんの勇気とその背景は、大きな興味をそそらずにはおかない。このような言動にかりたてたものは一体何なのであろうか。大正10年の丹州時報の紙面に論説として「軍港の一市民として−−軍備制限の実現を祈る」という文章が残されている。

 「人類の巳むなさ罪科とある戦争、手をもぎ足を奪い命を断って松葉杖や未亡人、孤児をも造る彼の戦禍、若しもこオ,が地球の世界より駆逐し得るならば、如何に我等の生活がより人間らしくなる事であろう。海軍の縮少に依り節約し得る各国莫大の国費之れを移して種々なる産業政策や或は社会施設に振り向け得るならば如何に多くの文化生活を採り得らるるであろう.…..

ただ一度よりなき此生涯、どうかそうした満足を感謝の仕組の中に送りたい、合理せる社会組織の中に生きて行きたい、此の願い、此の望み、私はいま私生涯のため、且は私の愛する児供達のために、之れが体験を祈って巳まい・・・・」.

 この文章の中に烈々たる理想を求めてやまぬ平和主義肴の面目がみえる。大正デモクラシーのもっともあざやかな開化であろうか。しかも「人間が至上の理想に立つ所論、所謂理想論なりとして、近き実行の可能性はないものと実は見縊って過ぎ去った。然るに切って落した華府会議……」と告白し、その理想の実現が、全く予期しない形で舞い込んできたことに対し、狂喜の心情がすなおにこ述べられている。そして、その強い理想主義は次の言葉をも忘れていない。

「然も忽然我が眼の前を想起せば、海軍縮小に伴う吾れが住む軍港市街の衰退?私の心はいまや岐路に立つ・・・・一は世界人類の平和、一は一家眷族の糊口問題、そも、何れを採り何れを棄つべきか.大義は親を滅す、我は人類多数のために、よし糊を失うとも、海軍縮少を祈らん哉.・・・・海軍縮少を実施せば失業者、倒産者、夜逃、昼逃色々の悲劇もあろうが、犠牲者諸君、・・・泣いて笑うて笑うて泣こう。人間万事が塞翁の馬・…」

 一時的に舞鶴の衰退、失業考の増加があつても、いつかは形を変えて帰ってくる繁栄のために、堪えしのぼうではをいか、というのである。今日に至る近代舞鶴百年の歴史のなかで、かくも明快に、軍港としての繁栄を否定し去った文章は珍らしい。大正の軍備縮小、要港格下げに当って、官民ともに、海軍に哀訴し、奴隷的な哀願を重ねて海軍に「盲従」したのであつた。それ故に、昭和に入って日本の軍国化がすすみ、舞鶴がふたたび軍港として復活しようとした時期、山本さんの、理想主義を底力にもつ平和主義は、すぐなくとも表面的には朝野一致の軍国化の潮流に対し、なまはんかの社会主義や労働運動家の屈服をのりこえて、昭和8年の痛烈な海軍批判をもちらし、光栄あるしかも孤高の海軍への挑戦をもたらすのである。論理上、本人は否定しているものの「反軍」思想は脈々と生きつづけていたとみなければなるまい。大正10年の文章はそれほどに、格調高いものであった。

       4

 実際に、抗争の発端となったのは、昭和8年、海軍当局が漁民などの雄島上陸を軍師的な立場から禁止した事にあった。これに対し、古来の雄島信仰に生きる漁民の信仰心をふみにじり、海難避難の場をなくして漁民の生活権をおびやかすものとして、その反対を公表したものであった。「名勝雄島考」は、単なる雄島の学術的な考察でなく、副題の示す「−没義道に海軍の上陸禁止令−」を批判するために書かれたものである。古来からの丹後人と雄鳥の交流を論証し、動植物学、地学上に至るまでの雄島の現況に筆は及ぶのであるが、それは、単なる歴史叙述や、博学のみせかけでなく、切々と情熱をこめて、名もなき庶民と雄島の切っても切れぬ心の通いを説いたものである。

「老人島明神こそは丹後風土記により当国最古の神祇であって、豊葦原水穂の国を闢きたまうたのが天照皇大神で在します如く丹後の国祖神は此老人島神に在す」とすれば「神国日本は伊勢大神または皇別神だけが神祇であるのではない。地方神祇が之等を囲繞しての神国である。・・・かかる由緒深き神社の鎮座を無視し参拝上陸を禁じたことは・・・げに心ないもののふや、余は国民たるの言論に立って、かかる神祇無視の武人に対し国体上その存在を否認する」という論理であった。「神国」 日本を逆にとっての巧妙な運びである。…

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由良川・加古川ルートの開発計画

『市史編纂だより』(昭49.6)に、

由良川舟運史料の発見について



       専門委員  吉田 美昌


 江戸時代、北前船が由良港からおよそ三百二十里を乗り切って、大阪まで輸送していた回米や、諸荷物を、逆に由良川の舟運を使って福知山領内まで遡航(そこう)し、由良川と播州の加古川を最短距離で結ぶため、国境の峠道を拡幅して加古川の舟運につなぎ、わずか五日ないし六日で搬送するという大がかりな計画書が発見され、従来諸書に散見されていたこの種輸送計画の全貌(ぜんぼう)が、はじめて明らかになった。
 文化五年(1808)に書かれた石田千頴の「若狭考」(全十巻)に 「由良川は近国の大河にて河守辺までも大船帆かけのほる。享保十七年(1732)北国より大坂へ廻船 長門中国の間にて風難の愁につきて、北国の船を由良に来らしめ、ゆらより川舟にうつし、福知山、くろい、成松をへて津の国へ出るへき事声言して関東に願ふものありて、久見の郡令海上禰兵衛殿、命を奉し此辺巡見あり、此時より七曲,道ひろかり行人悦ひき。然れとも川舟つの国ゆきの事は調はてやみたり。宝暦年中(1751-1763)にも此類の願あり、是は但馬気多川より播州市川まての舟路にて此事漸行はれたれ共 費ありてやみたり。何れも例の無頼の輩願ふ事にて賞するにたらす」とあって、手きびしくなじっている。

 また昭和四十三年に書かれた舞鶴海上保安学校長渡辺加藤一氏の「丹後の海運」に「一説には、享保五年(1720)頃加賀米を宮津票田港に海上輸送し、高瀬舟によって由良川を遡って福知山上流に至り、山越えして加古川上流れに達し、川舟を利用して高砂港に運び、大船に積み替えて大阪に回送することもあったといわれる」と述べているが、発見された古文書は、こうした風評より十年前のものである。

 この古文書は、市内岡田由里、南部亘国氏(在東京)所有の土蔵にあったもので、親類の南部治重氏(岡田由里、舞鶴市選挙管理委員)が、市史編さん室へ解読依頼に持参されたものである。南部家は大庄屋筋で、本家は貞享二年(1685)より四代にわたって南部彌左エ門名で大庄屋を勤め、また分家南部亘国家は、本家のあとをうけて宝暦前後に南部新五左エ門、南部新左エ門が大庄屋を勤めている。

 発見された史料は、大坂(阪)天満老松町の岡村善八(回漕業者か)なる同一人から奉行所にあてた口上書で、宝永七年(1710-252年前)に、川舟往来を出願したものと、正徳四年(1714)に再度具体的な計画をたてて吟味を願い出たものと、これを裏付ける地方史料として正徳五年(1715)の由良川筋九ヵ村の大庄屋、庄屋年寄が連印で、この計画を吟味して奉行所へ報告した一連の書き付けである。

 宝永七年の口上書は、この計画をしたためたものとしては 上限のもので、具体的な内容には言及していない。一方、正徳四年の計画は細部にわたっていて、この輸送路の開発による利便を随所に強調している。

 宝永七年と正徳五年の史料は、和紙各一枚のものであるが、正徳四年の史料は、和紙十六枚つづり三十ページに書かれたもので、表書きに

 丹後     川浚並川普請
 丹波  三ケ国       諸事覚
 播磨     高瀬船通用

としたためられ、左脇に 大阪天満老松町岡村善八(虫食い)の署名があり.奉行へ提出したものの写してある。

 本文の書き出しは、北海丹後宮津領栗田の湊(みなと)より南海播州潤砂の湊まで二十六里の間二十一里は従来から川船が往来しているが、残り約四里の中、福知山領の荒川(現荒河)より同領の下榎原まで一里余を、枝川を渡し舟で登りたいこと、下榎原より播州氷上郡の内、東芦田までの一里半を道普請し、東芦田より本郷までの二里半を川さらえ、川普請したいことのあらましを述べつづいて工事区間毎に分けて具体的な計画を説明している。それによると、

  ○票田の湊は三方を山に囲まれた要津で、数千艘(そう)入って、手ぜまないことはなく、諸国の回船がシケの時、日和(ひより)待ちをしているが、ここには船問屋もなく、役人もいないので願いがかなったら役人もおいて、回米や商人の荷物を計画した新調の船に積み替え.急用の場合は五日で大坂へ着船することを請け合う。いままで北海を大回りして、その年の新米が翌年の五月か六月にならなければ、大坂へ着かをかつたが。この輸送路が出来たらこれからは海上で難破の心配もなく、米一粒も失うことがない。

O田辺領の弐ケ(現二箇)村まで四里の間は入り海同様の大川だから、北国筋の佐渡、越後や丹後近国の渡海船で、二百石−三百石積みの大船は遡行(そこう)できる。支配の大庄屋善右エ門と話し合いかついている。ここには米穀、諸荷物の積み場、上げ場、船会所および役人小屋を建て、風雨の時は土蔵へ入れる処置をすることにしている。

○下榎原から東芦田までの一里半は、細い山道であるので、牛馬で荷物の運送ができるように道普請する。ここには船の組頭馬の組頭のほか、役人もおいて船会所や小屋を建てる。

○荒川村より下榎原天照まで、枝川一里余を川ざらえする。この人足五百人。

○下榎原から東芦田まで一里半の平地を道普請。この人足三千人。右のうち十八丁の山坂を約四千坪切り落す。この人足八千人。一坪に人足二人がかり。切り落した土を引きならし、道幅を広げ、十八丁の間一方に土手を築き並木を植える。この人足二千七百人。一丁につき百五十人がかり。

○東芦田より本郷までの二里半を川ざらえ、川普識この人足千二百五十人と川筋一里につき人足五百人がかり。〜
 人足は合計一万五千四百五十人、賃銀は1人二匁五分あてで、…

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『市史編纂だより』(昭49.8)に、

由良川の陰・陽連絡水路計画


           専門委員  藤村 重美

 舞鶴市岡田由里の旧家、南部亘国氏所蔵の古文書より丹後→舟波→播州→大阪の水路計画が分かり、新聞の話題となった。この計画は大阪天満の岡村善八が宝永7年、つづいて正徳4年に立案したもので、栗田湊より由良川・荒河・下榎原〜(陸路)〜東芦田・本郷と加古川系へ出て高砂〜大阪を結ぶ計画であった。

 我が国の水運・海運は、中世の荘園発達とともに、その物資の輸送の必要性より発達し、多くの港津を成立させた。中ても琵琶潮・淀川の水運を利用して日本海岸の物資は主として敦賀・小浜を経由して上方や大阪に送られていた。

 しかし大量輸送できないため、寛文期に加賀藩により下関回り航路、同じころ、河村瑞賢により東海路がそれぞれ開かれ、日本海岸の物資(主として米)は直接、江戸・大阪に輸送されるようになった。幕末になって蝦夷地の開拓が進むにつれ、北前船の就航があった。これら西回り、東回りの航路は長い日時を要する上、遭難の心配もあるため、南部家の文書にみられるような計画は江戸時代〜明治期にかけてしばしばみられた。

 上方への最短ルートである敦賀と琵琶湖の間を運河で結ぶ計画は古く平清盛が計画し、江戸時代には幸阿彌や河村瑞軒、明治期に田辺朔郎によっても計画されている。しかし地形的、技術的を問題で水路を設けることはむずかしかったため、明治15年に鉄道を長浜−柳ケ瀬、同17年に敦賀−柳ケ瀬間に敷設し、明治12年に就航した鉄道局の連絡船で、長浜〜大津間を結んだ。大津〜京都間は明治13年、京都〜大阪間は明治10年、大阪〜神戸間は同7年に既に敷設されていたので、明治17年に日本海岸と太平洋岸の連絡路が完成したことになる。この間に鉄道が敷設されていたのは新橋−横浜間(明治5年)のみであったことをみても、日本海と太平洋を結ぶ路線の完成が明治政府にとっても最重要を政策であったことが分かる。

 鉄道の利用が考えられない江戸時代にあって、この可能性の最も強かった河川が老年期の低平な河谷を流れる由良川だった。上記の加古川水系と結ぶ計画以外に、由良川水系の利用計画案には次のようなものがあった。

(1)@宝暦期、大阪(坂)嶋之内高間町・長柄展次兵衛が宝暦9年に和知川筋より、由良湊の通船計画を京都の所司代に出願している。しかし大津の御用米会所の反対にあって沙汰(さた)止みとなった。

(2)天明期、天明5年、武州豊島郡三河鳩村の与惣右衛門が江戸表に通船運送計画を出願した。この計画は米穀運送を除外したため天明7年に幕府の許可を受けた。この時に輸送申請した米以外の所荷物は114品目あり、主として海産物、農産物農村加工品で、北陸のものとともに丹後の物資も含まれており、当時の農村の生産状況を知る好史料といえる。この計画はその後どのようになったか不詳である。

(3)文政期、文政11年、城州淀住人河村与三右衛門により「由良川筋新規通船路取開方」を江戸表に出願、同人は文久3年に西高瀬川の開さくを出願し、維新後と京都府庁に河川管理担当者として任用されているが、この期の計画もどうなったか不詳である。

 加古川上流と由良川とを結ぶ計画は宝永期以外に江戸時代にもあったか、どうか、未だ調べていないが、昭和6年、大阪府選出の石原善三郎、本田彌市郎両代議士によって衆議院に建議されているその内容は次のようなものであった。

 「日本海と瀬戸内海を通ずる運河を開鑿し、裏日本と表日本との水上交通を開発して、進展遅々たる裏日本を振興せしめ、帝国の発展を計りたい。幸ひ明石から舞鶴に通ずる加古川・由良川がある。この両川を利用すれば設計が容易で、明石と舞鶴との水位も明石が舞鶴よりわずかに0.3メートル高いだけだから、関門(かんもん)などの必要もなく、工事も容易であるゆゑに、政府はよろしく適当なる時期と方法により実行してもらいたい」。

 この建議もどう取り扱われたか、また調べたいと考えている。我々舞鶴市民は上水に、また工業用水、灌漑(かんがい)用水として由良川から大きな恩恵を受けているが、この川が古代より交通路として、また漁業に果してきた役割りは大きい。

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白杉古墳(舞鶴市白杉)

『市史編纂だより』(昭49.10)に、

白杉と白杉の古墳

            専門委員 坂根清之

…村人は古墳ま存在は知ってはいるが、ほとんど人々の口にも上らなかった様子である。戦前に近くから土器が出たとの話があったが、現存不明。
 古墳は大和政権の勢力がこの地方にも及んでいたことを物語るが、この白杉は前記のごとく土地も狭く、江戸時代の石高もわずかであるのに、どうしてこのようを大規模な古墳が営まれたのであろうか。[丹後国諸庄園郷保惣田数帳」(市史)によると、白杉の竃(かまど)役米は当市で最高であることや、その件数の多いことなど、有力者がそのころも多数住んでいたのかも知れない。ともあれ、石積みの状況や規模などが田井古墳と共通面が多く、あるいは稲作とは別の漁労を主とする人々と何らかの関連があるのではなかろうか。またその首長たちの墓がなぜこのような場所に築かれたのであるか、将来の研究課題である。隣村の青井にも小学校裏山に二基の古墳があり、宝篋印塔(ほりきよういんとう)もあるなど.舞鶴湾沿岸の古代史研究の重要な手がかりてあることは確かである。

 なお白杉神社の西側や、山に通ずる道を200メートルほど登った小路の傍らの雑木林の中には、古墳造営に用いたのではないかと考えられる巨石が2、30個ずつ、かためてころがっているのを見るが、破壊された古墳のものとは断定し難い。しかし未発見の古墳が、この付近にあるのでははないかと考えさせられるので引きつづき調査の必要がある。

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役にたたなかった舞鶴要塞

『市史編纂だより』(昭51.2)に、

《資料紹介》        (編さん室)

役に立たなかった舞鶴要塞


(昭和20年11月18日日付朝日新聞)


 舞鶴要塞は目下進駐軍の手により接収されつつあるが、ここにあった望遠鏡、探照灯、電波探信儀、無線機などの科学兵器は、一応本土へ送る参考資料として残され、その他の設備は全部爆破されることに決定、すでにその作業も開始されている。この要塞は日清戦争直後造築されたものだが大東亜戦争中は遂に軍港上空において1機も撃墜せず50年の歴史に寂しい終止符を打つにいたった。

 こんどこれらの砲台が厚い覆面を脱いだが〃開けてびっくり玉手箱〃で、各砲台とも装備の貧弱なのには、驚かされるとともに、高角砲ばかりで要塞砲は一基も無いという有様である。

 明治20年、鎮守府設置予定と並行してここの要塞が設けられたのだが、今日まで半世紀に及ぶその間、軍備縮少の影響もあったとはいえ、これといった設備はなにも無かった。ただこれらを守るのに重砲兵連隊(後の中部71部隊)がおかれ旧式の全くの形だけの要塞砲がおかれただけであった。

 北の要塞として強化され出したのは、大東亜戦争に突入してからである。海軍の面目にかけてあくまでも守り抜かねばならぬとあって、その後急激に増加した兵員がこれに使われ、砲身を分解して数百尺から1千尺に及ぶ山頂に引き上げ、本土決戦に備え長期の籠城を覚悟して1年分ないし3年分もの糧秣が運ばれていた (中 略)。

 しかし、これらの命の綱と頼む高角砲にしても8.9千メートルの高空へは達しない。若狭湾へ機雷投下のため9千メートル前後の高度で東から西へのコースをとって来襲するB29の編隊をいつも顕上に見送ったまま、どうにも手かつけられなかったほどである。いまここに覆面を取った主要塞台見たままを記してみよう。


〔空山砲台〕

 東大浦の若狭湾を眼下に見下ろす海抜1千尺に達する景勝の地にあって、12.7センチ連装高角砲4門、95式陸用高射装置1基、12.7高角砲演習装填砲1門、13ミリ重装機砲4基、12.7センチ高角砲照準望遠鏡5基、20式4メートル高角測距儀、追尾式150センチ探照灯などのほか、13号電波探信儀1組S24号電波探信儀2組が備えられ、B29の激撃戦に活躍、八丈島付近にさしかかるこるから逸早くその動向をキャッチし、爾後その進路、機数が波状となってパノラマのように現われ、その情報を刻々他の砲台及び陸上部隊、海上艦船部隊に伝え.空陸海呼応の態整を整えたが、それでも撃墜の歴史を持っていない。


〔倉梯砲台〕

舞鶴東市街を眼下に見下ろし、89式12.7センチ連装高角砲、8センナ高角砲各4門、12.7センチ高角砲装填演習砲1門、13ミリ連装機銃4基、25ミリ機銃8基を備えていた。


〔博奕砲台〕

舞鶴軍港の人口を扼していたとはいえ、3年式8センチ高角砲3門、8センチ高角砲装填演習砲1門、96式25ミリ単装機銃2基を備えていたのみ。


〔槙山砲台〕

舞鶴軍港西口を扼し、10年式12センチ高角砲4門、25ミリ単装機銃1基、13ミリ単装機銃2基を備え、電波探信儀室には3式1号電波探信儀、TM軽便無線通信機各1組があっただけ。


〔五老砲台〕

舞鶴東西市街の境、五老ケ獄の頂上にあり、市街地を一望の下に収め得る地点を占め、3年式8センチ高角砲、12.7センチ高角砲各4門、12.7センチ高角砲装填演習砲1門、13ミリ機銃4基があった。


〔愛宕砲台〕

海兵団東兵舎裏の愛宕山頂にあって軍港の東端を抑え、12センチ高角砲4門、93式13ミリ単装機銃3基のほか、96式150ミリ大探照灯、ステレオ式2メートル局角測距儀、エ式空中聴測装置などを備えていた。


〔中山砲台〕

元鎮守府の裏山にあり、軍港の中央部を扼し、12センチ高角砲4門、12センチ高角砲装填演習砲1門、13センチ機銃3門があったのみ。


〔建部砲台〕


奥丹後から舞鶴への入口を扼する丹後富士の頂上に位し、8センチ連装砲2門、4式射撃装置1基のほか.2メートル高角側距儀1基、1メートル10センチ探照灯があった。


〔栗田砲台〕

与謝郡栗田村にあって、12.7センチ連装高角砲4門、25ミリ単装機銃5基、12.7センチ高角砲装填演習砲4門、工式空中聴測装置1組、武式2メートル高角測距賎、97式2メートル高角測距儀、98式4メートル半高角側距儀各1基などを備え、栗田航空基地の護りに備えていた。
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舞鎮所属の艦艇35隻の最後

『市史編纂だより』(昭51.3)に、

《資料紹 介》         (編さん室)

艦艇35隻の最後

   (昭和21年3月17日付朝日新聞)


 舞鶴復員局では、今次の戦争で旧舞鎮所属の消失した艦艇35隻の最後を16日次の如く発表した。いずれも海防艦以上で、これらの最後は長らく遺族にも知らされていなかった。総トン数11万230トンに及び、所属艦艇の大部分である。

〔特殊航空母艦〕 大鳳(30360トン)19年6月20日(潜水艦によりマリアナ海域で沈没◇竜田(3230トン)19年3月13日、潜水艦により八丈島付近で。◇木曾(5100トン)19年11月13日、飛行機によりマニラ湾で。◇長良(5100トン)19年8月7日、潜水艦により太平洋水域で。

〔巡洋艦〕 筑摩(8500トン)19年10月25日、艦砲射撃と飛行機によりレイテ島東方で。◇天竜(3230トン)17年12月18日、潜水艦によりマダン北方で。◇名取(5170トン)19年8月19日同上。◇蒼鷹(160トン)同上。◇日進(9000トン)飛行機によりブイン東方600マイルの海上で。

〔駆逐艦〕 羽風(1215トン)18年10月23日、潜水艦によりカビエン西方水道で◇秋風(1215トン)19年11月3日、潜水艦により太平洋水域で◇太刀風(1215トン)同年3月17日、トラックで坐礁◇長波(2040トン)同年11月飛行機によりオルモツク沖で◇巻波(同)18年11月25日、艦砲射撃によりブカ島西方50マイルの海上で◇大波(2040トン)同上◇高波(同)17年11月30日、艦砲射撃によりルンガ沖で◇清波(2040トン)18年7月20日、チヨイセル島南岸で◇早波(同)19年6月6日、潜水艦により太平洋水域で◇浜波(同)19年11月11日、飛行機によりオルモツク沖で◇玉波(同)同年7月7日、潜水艦により太平洋水域で◇涼波(同)18年11月11日、飛行機によりラバウル港外で◇藤波(同)19年10月27日、飛行機によりシブヨン海で◇沖波(同)19年11月13日、飛行機によりマニラ湾で◇岸波(同)同年12月4日、潜水艦により太平洋水域で◇(1262トン)19年8月4日、飛行機と艦砲射撃により小笠原諸島で◇(同)20年1月31日、飛行機により鵞?鼻(台湾)付近で◇(同)19年12月15日、潜水艦により太平洋水域で◇芙蓉(820トン)18年12月20日同上◇刈萱(同)19年5月10日、同上◇草垣(940トン)同年8月7日、同上。

〔海防艦〕 九号(740型)20年2月24日、潜水艦により太平洋水域で◇六十五号(同)20年7月14日、飛行機により室蘭沖で◇六十九号(同)20年3月16日、飛行機と荒天により太平洋水域で◇初梅(1262トン)20年6月26日、機雷により舞鶴軍港内で◇沖縄(940トン)20年8月14日、同上。


山本五十六さんが亡くなった頃からもうおかしかったですよ、と誰だったか忘れてしまったが、当時女学生だった、軍の機密にも接することが出来る職場に動員されていた女性、郵便局勤務だったか、それも忘れてしまったが、大本営発表ではないナマの秘密情報に接することができたそうである、軍艦が次々に沈んでいく様を秘密電報で知らされる、みんな沈む、日本はもうアカンかもと仲間内では言えないけれどもついつい口に出たという。
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海軍と共に栄えた舞鶴のくるわ

『市史編纂だより』(昭52.4)に、

 

くるわ

    専門委員  白井啓一
…今までに市内のくるわについてのまとまった記録もないので、軍港と共に栄えてきたくるわについて、不十分ながら探ってみることにした。…

…各遊郭の大正2年中の実績は次のとおりであった。

戸数 芸妓 娼妓 遊客数 消費金額
朝代 46 56人 68人 75.588人 63.760円
竜宮 31 33 187 111.669 86.180
加津良 27 21 70 37.294 35.593

 この当時朝代の賃座敷中、客筋もよく設備も整っていて一流だとされたのは、自由楼と富田屋であった。

 大正7年11月ごろ竜宮遊郭で、水兵達による芸娼妓不買同盟事件が起きた。ことの起こりは、貸座敷業者中に暴利をむさぼるものがあって、これに憤激した水兵達が不買同盟を結んで対抗したしかし遊郭側に対しては暴力、脅迫などの行為に出ることはなかったので、犯罪は構成しなかったが、他の水兵達が遊びに行こうとすると、竜宮橋やその付近に立ちはだかって、強くそ止して引返させた。このようにして両者の対立が続いたが、結局、遊郭側の打撃は大きく、このため警察署長が調停に入つて解決をみたが、翌8年2月から花代を改正し、しかも軍人に対しては更に1割引きとすることで、この事件は落着した。…


現在も他所から入港した海自隊員から暴利をむさぼる飲食店があるという。暴力ざたを起こせば海自隊員も公務員だからすぐにクビがとぶ。それをいいことにたかる悪質な者もあるという。情報化の時代ですからね、一発で携帯に連絡が入ります、絶対に誰もそんな店には行かないようにしてますよ、とこのことであった。その界隈全体に誰も行かなくなるので打撃は一店にとどまらなく大きい、一隻入ったら何億円ととらぬ狸の算用する前に受け入れを整えなければなるまい。舞鶴は何でも物価が高いですから、舞鶴ではあまり町へは出ないようにしてます。とも言っていた。

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舞鶴要塞跡

『戦争遺跡から学ぶ』(戦争遺跡保存全国ネットワーク編・岩波ジュニア新書・2003)に、(地図も)

舞鶴鎖守府・舞鶴要塞跡
日本海の一大軍港と軍港を守る要塞



 舞鶴の戦争遺跡は海軍と陸軍の関係に大別される。海軍関係は鎮守府、海兵団、兵器廠、火薬廠、海軍工廠、海軍機関学校などと複雑であるが、陸軍には山頂や岬に砲を据えて海をにらむ役割を担った砲台があった。舞鶴市は東西に長く展開しており、西は城下町と商業港、東は軍港といえる。しかし第二次世界大戦中は、西舞鶴も軍事都市化していた。ここでは、主として東舞鶴に焦点を当てて戦争遺跡を紹介する。

その経過と遺構舞鶴の戦争遺跡(主なもの)

 海軍が横須賀・呉・佐世保・舞鶴に鎮守府の設置を決めたのは一八八九年だが、そのうち舞鶴は遅れて一八九七年に、日清戦争の賠償金を充てて軍港建設が行われた。当時、半農半漁の湾岸農村は変貌して、東舞鶴は都市化が進行した。一九〇一年舞鶴鎮守府が開庁し、その司令長官に海軍中将の東郷平八郎がなり、対露政策に取り組み「日露戦争」を想定した。この鎮守府はすでにないが、裏手に和風建築の「長官官舎」が保存されている。また、この付近には「水行社正門」が残っている。ここから東の海岸に出ると日立造船の工場群地域となるが、ここが海軍工廠の中心部であった。爆撃を受けたが、当時の多くの遺構が残っている。この地域の象徴的建造物であった「海軍工廠本館」は、現在、高台に移築されて「舞鶴館」と名づけられ、当時の資料が保存された記念館となっている。この日立工場内にも海軍工廠当時からの多くの赤レンガ建築物などが残っている。この南側の高台上は「海軍機関学校」跡で、現在は海上自衛隊の総監部が使用しているが、当時の建造物がそのまま残っている。たとえば道路に画した門は「海軍機関学校正門」で、その門を入り坂を登りつめた左側の建物が「海軍機関学校大講堂」で、現在は「海軍館」と呼ばれる資料館となっている。

 機関学校の東北方がいわゆる「北吸赤レンガ地区」となる。文庫山と呼ばれる小高い丘やその向こうの市役所を越えたあたりまで十余棟が続く。規模の大小、建造された時期も明治、大正とさまざまであるが、構造的には赤レンガ二階建て一一様、鉄骨二階建て一棟である。海軍時代は、この倉庫まで引き込み線が敷かれていた。同種のレンガ建築は、隣の自衛隊内にも現存する。当時、ここは軍需品の倉庫で、軍艦用品や兵器・武器・弾薬・水魚雷から食料・被服・生活用品の貯蔵庫であった。蓄える品物によって倉庫の所属が変わるが、全体的にはすべて日本海軍の軍需品倉庫といえる。この地域の見学者には、この赤レンガ建築物から搬出された武器・弾薬類が、どこの国のどの海岸やどこの軍艦を、どれだけ攻撃し続けたのかに思いを馳せてほしい。

ここを東に進んで湾奥まで行くと「海兵団」跡がある。当時の遺構があると考えられるが、現在は、自衛隊の訓練基地なので入れない。ここから海岸は大きく湾曲する。この海岸線にも海軍軍需部の「(たいら)重油槽」に見られるような海軍石油の備蓄タンクが続く。湾の最奥には、第二次世界大戦の終焉の姿を示す六〇万人余の引き揚げ港の「平桟橋」が復元されている。付近は公園となり、引揚記念館がある。しかし、二〇世紀の戦争を反省する展示や資料が見あたらないのは残念である。引き揚げの苦労はわかるが、引き揚げるまでの「歴史」が見えない館である。

 ほかに市の中心部にも多くの遺構が残る。たとえば、国立舞鶴病院は「海軍病院」、舞鶴市民病院は「海仁会病院」、国家公務員共済病院は「海軍工廠職工共済会病院」であった。そして何よりも東舞鶴のスタートにあたり、道路名に明治の軍艦名を冠して誇った。東西の通り名は「初瀬通」「朝日通」「敷島通」「八島通」「富士通」と続く。まさに、この東舞鶴の市街そのものが近代遺産である。


軍港を守る陸軍の要塞


 舞鶴湾を取り圃む山頂や岬には陸軍が大砲を据え、日本海をにらんでいた。そのため、第一六師団には「舞鶴重砲兵連隊」が編制された。上安久の現日星高校が「司令部」跡で、裏手に陸軍の遺構が残っている。砲台などは湾口の西側に「金崎」「槙山」「建部山」が置かれ、東側には「浦入」「葦谷(あしや)」「吉坂」「博打岬」をつくった。昭和になり、「新井崎」「成生岬」などに砲台や壁塁などが構築された。陣地は砲座を中心に、弾薬庫・司令室・将校室・兵休息室や生活の部屋をつくっている。建築構造は地下を中心に、赤レンガを組み上げコンコリートで補強している。

 もう一つ注目の遺跡に「神崎ホフマン窯」がある。舞鶴最西部の由良川河口右岸にある。ホフマン窯は全国で四基しか残されていない貴重な遺跡である。ようやく保存の方向で進んでいるが、民間まかせでなく、近代化遺産としての文化財保護策で保存してほしいものである。(池田一郎)

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建物の強制疎開

『市史編纂だより』(昭60.12)に、

戦後40年間の舞鶴

     市史編纂委員 小川 高

 学童集団疎開の出発を待っていたかの様に、市内の主要個所に防空上の空地地帯を設けるため、疎開を必要とする土地、建物の所有者に対し、知事から防空法による建物除去命令が発せられた。
 舞鶴市の第一次強制疎開は4月5日から行われ、対象家屋1200戸、面積70,100坪といわれた。その主なものは次の通りである。

(東地区)
 ・東舞鶴駅前一帯
 ・三条通…三笠通・大門通間の東側
 ・敷島通…寺川・与保呂川間の北側
 ・五条通…大門通・海岸間の東側
 ・五条通・六条通、八島通・大門通間に囲まれた区画
 ・与保呂川東岸…八島通・大門通間の舞鶴東警察署隣接地
 ・祖母谷川西岸…大門通・富士通間の海仁会病院東側隣接地
 ・祖母谷川東岸…大門通・鉄道(小浜線)間


(中地区)
 ・中舞鶴駅前一帯
 ・余部下…舞鶴共済会病院中舞鶴分院隣接地
 ・余部上…六丁目通北側


(西地区)
 ・西舞鶴駅前一帯
 ・現大手通…大手橋・広小路通間の西側(北田辺七軒通、本町・魚屋町)
 ・広小路通…新橋・相生橋間の北側
 ・上横町通…竹屋町通・三の丸間の南側
 ・竹屋町通…上横町通・竹屋橋間の西側
 ・平野屋町通…西舞鶴郵便局平野屋分室北側隣接  地
 ・高野川西岸…大橋西詰北側・新堀橋西詰間
 ・笶原神社前通…紺屋町・新建通間の南側

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舞鶴空襲(主に昭和20年7月29日のもの)

『市史編纂だより』(昭60.12)に、(上のつづき)

 昭和20年7月29日、この日の朝8時30分ころ、舞鶴一帯に警戒警報が発令され、サイレンが鳴った。その直後、〃ドーン〃という爆発音が聞こえ、地響きが起こった。米軍艦上爆撃機の500キロ爆弾1個が工廠内に投下されたとは、あとで分かった。この日、日曜日といえども工員、勤労学徒や女子挺身隊員等1万人を超える人たちが作業に従事していたという。このため、作業中の工員をはじめ勤労学徒97人が死亡し、百数十人の重軽傷者を出したといわれている(「府政だより、資料号外」=昭47.8.15)。また、舞鶴海軍工廠空襲殉職者追悼会の調査による同日の殉職者名簿には、次の死亡者と29人の負傷者が確認されている。

・舞鶴第二高女教諭(1人)、・京都市立二商生徒(3人)、・京都師範生徒(9人)、京都市立洛北実務女生徒(7人)、海軍技手・工員(60人)、所属または氏名不詳(4人) 計84人
・負傷者(29人)

 翌7月30日(月)は早朝より敵機の襲来絶えず、延べ230機が数次に分かれて、舞鶴軍港を中心に宮津湾、伊根湾あるいは小浜湾を襲い、艦船を主として爆撃および機銃掃射を繰り返した。この日の空襲で軍人・軍属・工員など83人の死亡と247人の重軽傷者が出たという。
 この両日にわたる死亡者数、負傷者数は、まことに残念ながら判然とはしていない。しかし、これが当時の状態であったともいえよう。
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軍事機密とはこういったことのようである。イージスシステムの情報漏洩といったレベルでなく、国民が何人死んでも明らかにならないと言ったことになる。時の権力に具合が悪ければみな隠される、軍事機密として。
これは秘密ですから言わないようにして下さいよ、とか言って隊員から「秘密」を聞かされることもあるが、それはたいてい何も秘密でもなく、全市民がすでに知っている内容である。情報とはそんなもので、秘密にできたりはしない。公開される共有されるのが情報の正しい性格で、秘密情報などといった言葉自体がそもそもおかしい。何が秘密で何が秘密でないかは人それぞれに判断が異なる。その線引きを時々の、特に右よりの権力にまかせてはならない。秘密にしたければ情報にせずにおくより手はないわけで、一度情報化されればその秘密化は無理な話である。
さあ、自衛隊の秘密漏洩・スパイ罪で舞鶴の全市民を逮捕しなければならないぞ。みんな知っているからだ。早く逮捕しろ、5年の懲役にしろ。結局はそういうことなのである。逮捕もできないから、市民の監視をする。憲兵のようにスパイのように。誰でもない納税者市民を脅かしながら目立つ市民(団体)を常時監視スパイするという体制をつくる。そんなことはもうやってるのだろう。私もスパイされてるのだろうか。私のHPは防衛省もよく見に来てますよ、ベスト100位にははいりますね、などというと、「へえ、そうなん、熱心にスパイしとってんやね」となどと笑う人もあるが、あなたはどうですか、周囲にスパイがいませんか。防衛省さん別に何も私はスパイとは思ってはいませんから、いくらでも隅々まで見て下さってケッコウですよ。国民の知る権利よりもアメリカはんや日本ファシストの勝手な秘密が大事。軍などというものはそうしたものだと歴史が教えている。「軍事機密」や「スパイ」は死刑までいくことだろう。しかしスパイというのは本当は市民団体や個人を監視しているのが本物のスパイである。スパイスパイといい、機密漏洩だなどと言って一般市民を敵視している者がまずはかなり怪しいのである。こいつらこそスパイでありまず死刑とすべきかも知れない。


『舞鶴市史』は、(地図も)

舞鶴空襲

 太平洋戦争も終結を間近かにした昭和二十年七月二十九日と、翌三十日の二日間にわたり、舞鶴市はこの大戦中における最大の空襲に見舞われて、多くの死傷者を出し、また軍用施設や鑑船に甚大な損害を被った。

  (昭和二十年)
七月廿九日 日曜日 晴天  授業休止
   警報 八・三七 警 戒  工廠門前ニ爆弾投下  伊佐津宿舎前 同前
   八・四○ 空襲
   九・○○ 同 解除
   九・三○ 警 戒
   九・四五 空襲
  一〇・○二 同 解
  一○・一○ 警 解除
七月三十日 月曜日 晴天  朝来空襲頻発(十二回ニ及ブ)P51数十機波状来襲 主トシテ船舶ヲ攻撃セリ 中庭ニ四十ミリ機関砲弾一発落下ス                          (明倫小学校日誌)

 七月二十九日午前八時三十分ころ、舞鶴一帯にはサイレンが鳴りわたり警戒警報が発令された。続いて空襲警報が発令されるか、されぬうちに、ものすごい爆発音と地響きが起こった。米軍艦上爆撃機の一機が五百キロ爆弾一個を工廠内に投下したのであった。当日は日曜日とはいえ舞鶴海軍工廠では決戦に備えて、軍艦、大砲、魚雷などの軍需生産に追われ、工員はじめ勤労学徒や女子挺身隊員など、一万人を超える人たちが作業に従事していた(図35)。

 このため、作業中の女子作業員や勤労学徒は爆風で吹き飛ばされ、九七人が死亡し、百数十人の重軽傷者を出したといわれている(「府政だより・資料号外」昭和四七・八・一五)。

 また、この爆撃は直接市街地を襲ったものではなかったが、三、四百メートルも離れた中舞鶴駅付近一帯の民家の窓ガラスは、爆風のため粉々に壊されたし、市街地からも、工廠の方角に空高く立ちのぼる黒煙が眺められた。

 舞鶴海軍工廠空襲殉職者追悼の会の調査による同日の殉職者名簿には、次の死亡者と二九人の負傷者が確認されている。

京都府立舞鶴第二高等女学校教諭  一名
京都市立第二商業学校生徒     三名
京都師範学校生徒         九名
京都市立洛北実務女学校生徒    七名
海軍技手、工員          六〇名
所属または氏名不詳        四名
     計           八四名
    負傷者          二九名

この日の空襲に関して舞鶴鎮守府は次のような発表をした。
舞鶴工廠爆撃位置図(宍り)

舞鶴鎮守府発表(二十九日十一時)
本二十九日八時三十五分敵機二機舞鶴市に来襲、内一機は撃破せるも他の一機は小型爆弾一個を海軍作業庁に投下遁走せり、我方の被害は僅少にして、戦力の増強には何らの影響なし
    (昭和二○・七・三○ 朝日新聞)

 また、当日勤労学徒の監督として出動していた舞鶴第二高等女学校教諭は、この爆撃により殉職したが、当時の模様は次のように伝えられている。

 ○昭和二十年七月の終り遂に敵の艦載機が学校の裏山の上空で散開し、東舞鶴湾に向って機銃射撃を開始しました。例の地上形防空壕に入ったのはこの時です、校舎の屋根校庭にものすごい音を立てゝ行きます。銃撃されるものと息を呑みましたが、後で薬莢が落ちる音とわかりました。学校がねらわれたのでなく、湾にいた艦をねらったのです。大きな艦が燃えていつまでも消えませんでした。その日、海軍工廠に一発大きな爆弾が落ちて、動員学徒の見廻りに行ってもらっていた藤田至譲教諭が、不幸にして即死されたのであります。

 大音響と共に天にも登る黒煙が工廠のあたりにあがりました。生徒たちに何事も起らればと心配していました処、工廠からの連絡によりこの事件を知り、直ちに永田教頭と海軍工廠に飛んで行きましたが、長い間待っている間に夜になりました。詳細は誰も教えてくれません。この一撃で何十名、何百名亡くなったのかそれすらわかりません。本校は藤田先生一人なのは確実です。何でも、運悪く、本校生徒の働いている部屋を出て、次の工場に移動しようと外を歩いている時、爆弾が近くに破裂したものゝ様です。もう少し生徒の働いている部屋にぐずぐずしておられたらと悔まれました。

 夜に入って、工廠の案内人の指導で、どこをどう歩いたのか、こんなにも工廠内は広いのか、まるで狐にでもだまされたのではないかと自分自身を疑う位、谷を下り山を登って細長いような台地に着きました。台地の向こうに林が見えました。月や星の明かりもなく真暗闇を人のあとにつづいて歩いたのです。こゝで今日の犠牲者の火葬が行われるのだと聞かされました。

 いつの間にか私のそばに藤田先生の奥様が来ておられました。みんな無言です。白い寝棺が並んでいます。幾つあるのか闇夜でしかとわかりません。無言で働く無気味な人達があります。眼前の棺の前に名札があり藤田至譲と書かれてありました。見誤りではありません。虚脱状態の私にもはっきりしていました。棺の後に濠がほそ長く掘ってあるのが見えます。やがて濠の上におかれている二条のレールの上に棺が移動され―斉に点火されました。その火は夜空に赤くいつまでも私の脳裏から消えません。あれから二十数年、この時の炎は時々私のまぶたに浮びます。どこをどうして帰ったか、ようとして忘れてしまいましたが。(略)

○構内へ入ると、人びとの動きが常とは変っている。なにかしら唯ならぬものを感じる。いつも左に見て通る職札場の窓ガラスが、微塵に粉砕されて無残に飛び散り、ひん曲ったドラム躍が横転している。負傷者が一人、また一人と担架で運ばれる。苦痛に顔をゆがめ、血と油と、土にまみれた様は、実にせい惨そのものである。
 巡視経路を気ぜわしく廻り、本校生徒の安全を確認した。帰途職札場付近で、偶然出合った守衛から「学徒動員の監督の先生が、ついこの先で倒れましたよ」と知らされた。
 藤田教諭は巡視を終って職札場を出た途端に、近距離に落ちた爆弾のあおりを食って、眼前の横穴式防空壕をみながら、非業の死を遂げられたのである。(略)
    (「泉源」京都府立東舞鶴高等学校)


 翌七月三十日は早朝より敵機の襲来絶えず、延べ二三○機が数次に分かれて舞鶴軍港を中心に、宮津湾、伊根湾あるいは小浜湾を襲い、艦船を中心に爆撃及び機銃掃射を繰り返した。このため湾内に停泊していた艦船の大半が沈められたり坐礁した。これらは終戦後も舞鶴湾内や宮津湾にその姿を見せていた(写真73)。また、宮津湾での襲撃のあおりを受けて宮津駅構内も銃撃されたので、宮津線は一時不通となった。

 この日の空襲で軍人、軍属、工員など八三人の死者と二四七人の重軽傷者が出たという。また、字小橋の葛島沖で網入れ中の漁船が襲撃されて四人が死亡し、字三浜にある丸山国民学校校舎も機銃掃射を受けた。

 七月三十日に関する記録や新聞報道は次の通りである。
一、本三十日午前午後にわたり敵小型機約二百三十機数次に分け舞鶴地区□来襲、主として艦船及び軍事施設に対し爆撃を行ひたるも被害は極めて軽微なり
二、現在までに判明したる戦果次の如し  撃墜二十機、爆破約二十五機
      (昭和二○・八・一 朝日新聞)

なお、七月三十日の空襲は、主に艦船に対するものだけに舞鶴海軍防備隊は翌三十一日午前五時五十五分に、次のような戦闘概報を海軍省に暗号で打電している。……


 ところで、七月三十日の空襲は、右記の通り舞鶴海軍防備隊の報告によって、その戦闘や被害のくわしい状況を知ることが出来るのに対し、前日二十九日の空襲については前掲史料から推して相当の損害があったことは分かるにもかかわらず、防備隊報告書、その他公式記録がないために死傷者数にしても概数によるしかない。

 京都空襲を記録する会の「かくされていた空襲」(京都府立総合資料館編)によると、七月二十九日の空襲では、死者は工員のほか学徒動員の京都師範学校九人、京都市立第二商業学校三人、京都市立洛北実務女学校七人、舞鶴第二高等女学校教師一人で計七七人の氏名が判明しているが、負傷者についてはわずかに二八人が記されているに過ぎない。

 翌三十日の空襲については、主として湾内艦船への攻撃であって、防備隊の戦闘詳報の通り軍の被害は明らかであるが、全日本造船機械労働組合舞鶴造船分会「組合二十年史」には、舞鶴海軍工廠も死者八三人、負傷者二四七人とある。しかし、その数は二十九日のものと思われる。また、旧舞鶴海軍工廠殉職者鎮魂碑建立の会によって共楽公園に建てられた鎮魂碑(昭和五十三年三月建立)の殉職者銘板には空襲殉職者として八七柱の氏名が刻まれている。

 このように、日付や機数、死傷者数の食い違いは、軍による公式な発表がなかったため、風聞や記憶違いなどによる錯誤と思われ、工廠でも爆撃を体験したり目撃した者に対しては、防諜上「外部に洩らすな」と、厳重な箝口令がしかれたこと、作成されていたと見られる被害調査が、終戦により焼却処分されたことによるものと思われる。
 要するに舞鶴空襲は、爆撃を受けた場所が軍港構内という特定の区域に限られていたため、すべてが軍事機密として処理されていて、その詳細な記録が発見されず、一切の正確な数値を知るに至っていない。

何でも軍事秘密にして隠す。都合の悪い公文書は焼却してしまう。都合が悪ければ隠せばいい、燃やせばいい、わからなければいい、証拠がなければいいという神経は現在も誠に健在である。そうして証拠がないから正義の戦争だったという。正義の戦争なら証拠文書を何日も何日も燃え続けたといわれるほど大量に焼却したりするか。
7月29日に海軍工廠に投下された爆弾は艦載機からの500キロ爆弾だということになっていたが、これは府の発表なのか、軍は小型爆弾としているが、これはそんなものでなく、ポンプキン爆弾と呼ばれた原爆模擬弾であり、B29から投下したもので、爆薬は500キロでなくその10倍の5トン爆弾であった。これが現在知られる最も正確な情報のようである。


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『舞鶴地方史研究』(92.11)は、

舞鶴空襲(一九四五年七月二九日) について

      梅垣正二

 一九四五年(昭和二○年)七月二九日朝、海軍工廠に米軍の爆弾が投下され、動員学徒、女子作業員、労働者など九七名が死亡、百数十名が負傷しました。

 この空襲に関して、舞鶴海軍鎮守府は午前十一時に「本二九日八時三五分敵機二機舞鶴市に来襲内一機は撃破せるも、他の一機は小型爆弾一個を海軍作業所に投下遁走せり、我方の被害は僅少にして戦力の増強には何らの影響なし」と発表しました。

 又、「京都府政だより」号外(昭和四七年八月一五日付)には「ひそかに接近したアメリカの艦上爆撃機一機が五○○キログラム爆弾一個を工廠内の横穴式防空壕の上に投下した。このため避難をはじめていた女子作業員や勤労学徒は爆風で吹きとばされ九七名が死亡、百数十名が重軽傷をおった。舞鶴鎮守府発表は被害僅少にして戦力増強に影響なしと報じているが、実際は被爆によって工場は破壊され、海軍工廠内は大混乱していた」と記されています。

 「舞鶴市史」もこれらの発表を中心に被害が大きかったことを紹介しています。(通史編下)

 又、この空襲体験を記録に残す運動も起り、いくつかの記録集が残されています。
・一九七四年「かくされていた空襲」(京都空襲を記録する会 京都府立総合資料館編)
・一九八○年「語り継ぎたい戦争の悲惨さ」 (洛友会−元洛北実務女学校生徒同窓会)
・一八八○年「声なき戦争 教職員が綴る戦争体験」(舞鶴教職員組合婦人部)
。一九八二年「青春を奪った戦争」(元京都府立舞鶴第二高等女学校生徒有志)
・一九八八年「失われた青春」(洛友会)など……。

 これらの記録のどの一篇をとってみても、当日の悲惨な実態と被害の大きかったことをリアルに示していると共に、平和への強い願いがこめられています。

 ただ、来襲した飛行機については「グラマン」「艦載機」「B29」などさまざまであり、おとされた爆弾についても「異常な落下音」「米俵のようなもの」などの記述があるが、飛行機、爆弾の種類を特定できるような記述はありません。

 七月二九日は空襲警報がなる前に爆弾がおとされたこともあって、直接飛行機や爆弾を見た人が殆どなく、軍の発表が記憶にあって語られていることが多いようです。従って、この空襲について何の疑問も出されずに推移してきていました。

 最近、全国的に戦争の被害を再発掘する運動が高まる中、国会図書館所蔵の米軍資料の中から「第二○航空軍、第五○九混成群団」の報告書が発見され、アメリカの原爆投下とそのための訓練内容が明らかになってきました。その中に七月二九日の舞鶴空襲に関する報告もあり、改めて舞鶴空襲の実態を見直す必要が出てきました。

一、「アメリカ第二○航空軍第五○九混成群団作戦任務報告書並びに野戦命令書」(マックスウエル空軍基地)
 ・野戦命令書11 七月二九日に爆撃すべき目標一覧の中に、第二目標として
   (15) 舞鶴海軍工廠
   (16) 新舞鶴鉄道ヤード
が明記されている。
 ・作戦任務番号12
  b、機体番号七三○一号機は四日市の転換織物工場の爆撃司令をうけていたが、結果的には、舞鶴の海軍基地を目視で爆撃。(N35°28′ E135°24′)
 ・爆撃結果
   第二目標の舞鶴海軍基地(作戦番号12)を二三・三五Z(グリニッジ標準時)高度二六七○○フィートより目視で爆撃(二三・三五Z−午前八時三五分)、  パンプキン(Pumpkin)とよばれる一万ポンド爆弾がおとされた。

二、「第二次世界大戦における陸軍航空隊」第五巻(シカゴ大学出版)
  ……七月二○日 第五○九混成部隊は日本への一連の空襲を開始した。その目的はクルーに最終任務の攻撃目標と戦略になれるためであり、高々度のB-29から日本を確認するためであった。S−2の連隊は、第21攻撃司令部よりフラッグ・プランの指令をうけた。その計画は実験的なもので、原爆投下のための訓練にえらばれた町にたいし正確にピンポイントの目標を攻撃するものであった。これらの計画の概要は、第五○九混成部隊の将校によってつくられた。全部でおよそ十二の攻撃隊が七月二○、二四、二六、二九日の四日間に送りこまれた。それぞれの攻撃目標には二機から六機が参加し、すでにこれまでに他のB29によって攻撃されている町の中心部かその周辺にむけておこなわれた。地域を正確にいえば、郡山・長岡・高山・神戸・四日市・宇部・和歌山・舞鶴とあまりその位置になじみのない福島・新居浜。
 その任務は可能なかぎり詳細に最終攻撃の状況を想定されたものだった。ナビゲーションの方法、高々度からの進入(通常約二万フィート)、肉眼による投下爆撃、そして投下後のすばやい離脱、原爆の大きさや形はまだ知らされていなかったが、情報によれば同部隊は原爆に似たTNT爆弾を投下した。第五○九混成部隊はその効果がUSSBS(合衆国戦略爆撃調査団)にかかれている一万ポンドのものを用いた。グループはそれを「パンプキン」(かぼちゃ)とよんだ。どの爆撃の演習記録も驚くべきものである……。

三、「第五○九混成群団特別爆撃作戦任務一覧表および地図」(国会図書館)
  一覧表の邦訳は別掲

四、「連合軍及び米航空軍攻撃データに関す厳重秘扱い統計報告書」(国会図書館)
  舞鶴 海軍基地 四五年七月二九日
  8888部隊 99(爆弾型式) 五トン
  (8888=第五○九混成群団 98=原爆、99=模擬原爆とみられる)

五、「『エノラ・ゲイ』ドキュメント−原爆投下」(G・トマス、M・モーガン、TBSブリタニカ)(京都府立図書館所蔵)
 一九四五年七月二九日未明−テニアン島  午前○時すぎ八一名の飛行士が集合した。これから第五○九航空群の第四回日本空襲訓練の訓示をうけるためであった。

 ルイスの与えられた爆撃目標は郡山の工場群であった。フレデリック・ボック大尉は……一万ポンドの大型爆弾を投下する命令をうけた。イーザリーは舞鶴の側線を、その他の者は……。イーザリーが最初に離陸する順番で……するすると空へまいあがった。………
 ほんのちょっとした衝撃でも、一万ポンドの大型爆弾は点火されるかもしれない。……消防士や兵器係が双眼鏡で派手なオレンジ色にぬられた爆弾を観察した。(P341〜P343)

六、『原爆ヒーロー エザリーの神話』佐藤とよ子著 朝日新聞社(舞鶴東図書館所蔵)
 第五○九航空群のパイロットはほとんど実戦経験がない。飛行訓練は九千メートルの高さから直径百五十メートルの円周内に一万ポンドの爆弾を一ケおとすだけ。兵士達は模擬爆弾の一つを「カボチャ」=パンプキン=とよんでいた。(P70〜71)
 日本本土への「パンプキン」爆撃は七月の下旬から行なわれた。七月二十日、東京。七月二十四日、大津。七月二十六日、津川。七月二十九日、舞鶴。……。(P.78〜79)

 以上が今日までに判明した舞鶴空襲の七月二九日分にかかわる米軍関係のレポートです。

 尚、舞鶴の人達によるいくつかの証言を紹介します。

一、昭和二○年に入るとマリアナや硫黄島から飛来するB29が、わが祖国、神州不滅をほこった日本本土のあちこちに爆弾をおとしてゆく日が多くなった。……
 われわれ生徒の日曜外出も中止され、私が当番で分隊一号のトランクをクラブから取ってくる役目をおおせつかった。……北吸にさしかかったころ空襲警報が鳴った。
 上空を仰ぐと雲の合い間にB29が一機、一寸ばかりの大きさに見えて……そのうちなにかシューウという音がしだいに大きくなり、金属的なシャワシャワ、ジャーッという音にかわった。ちょうど、海軍道路の入口の神社前の衛兵所(東門と思われる−筆者)についたとき一瞬その音がとぎれ……フワッと身体が浮いて……
  名川光美氏(「海軍機関学校よもやま物語」) P204 舞鶴東図書館所蔵

二、二○年七月本土を焼きつくした敵機はいよいよ舞鶴の上空にあらわれました。空襲警報がなって遠く爆音をきいたのです。B29、たしかに機影をみました。……
  川崎和子氏(「青春を奪った戦争」)P.34


三、七月二九日朝 登校途中でB29が高い所をキラキラしながらとんでいるのをみた。まもなく大きなドカーンという音をきいた。
 その夜、与保呂の人も工廠で爆撃をうけて頭をケガしたと話しているのをきいた。
   石束輝巳氏(与保呂在住)の話

四、当日大爆音をきくほんのすこし前にB29が一機西進するのを目撃
   渋井弘一氏(海軍上等飛行兵として金剛院付近で陣地構築中に)

五、七月二九日午前、高度六○○○米ぐらいの軍港上空をB29が単機西進するのが見えた。
 ……B29の機体からパッと煙が噴出し爆弾らしいものが発射された。通常の爆弾ならばゆるやかな放射線を描いておちてくる筈なのに、この発射物は凄まじい金切り声のようなサイレン音を響かせ庁舎の西側へむかってとんでくる。(弾体は黄色で鉢巻状の白線が付されていたように記憶しているが確かではない
 直線距離が九○○○米もはなれていると、二五○キログラム爆弾は小さくて肉眼では見えない。当日はB29の機体を離れた爆弾を視認しているが、少なくとも一トンのロケット弾だと思いこんでいました。瞬間的な印象ではB29のエンジンぐらいの大きさに感じた。しかし戦艦「大和」の主砲弾が直径四六センチ、長さ二米、重量一・五トンであることを参考にすると、当日の弾はとても一トンや二トンのものではなかったと思います。弾の形状は「とうもろこし」のコーンのように見えましたが、遠距離から数秒間の視認ですので確実とはいいがたいと思います。
  溝口健二氏(横浜市在住 舞鶴二中から学徒動員で海軍工廠へ)

六、私が親しくしていた挺身隊のTさんは、七月二九日の空襲で顔に大やけどをされました。そのTさんからあとできいた話ですが「大きな音がしたので思わず左の方をみた時『茶色の米俵のような物』が目に写り、それっきり意識がなくなり、気がついたときには死体の中に寝かされていた」とのことです。−Tさんは当時北吸におられた高田好子さんと考えられます−
  林田登美枝さん(「青春を奪った戦争」)これがその時のポンプキン爆弾だ(「舞鶴戦争展」より)

  尚、静岡県島田市への原爆模擬弾の投下(七月二六日)を目撃した消防団員の方の話として「木で出来た風呂桶ほどの大きさで、黄色い帯が二本色わけでまいてあった」との証言があります。

  以上の資料や証言からみて、
◎大変大型の爆弾で、とうてい一トン以下の爆弾とは考えられない。
◎爆弾の色も「黄色」とか「茶色」ということで、米軍資料の「オレンジ」と符合する。
◎被害も海軍工廠内だけでなく、現在の市民病院の窓ガラスが割れるなどきわめて大きく広範囲にまたがる。
などから、とうてい「艦上爆撃機による五○○キログラム爆弾」とは考えられず、B29による一万ポンドの「パンプキン」−原爆模擬爆弾−であったと考えざるを得ません。

 又、前記「連合軍及び米航空軍攻撃データに関する厳重秘扱い統計報告書」の中の海軍出撃記録には、七月一四日、三○日と思える舞鶴への出撃記録はあるが七月二九日分について、海軍機が舞鶴を攻撃したとの記録はみあたらないことからも、艦上爆撃機ではなかったと考えられます。…

 写真は復元されたポンプキン爆弾(舞鶴の戦争展に展示されていたもの)。色は黒でなく、はでなオレンジであったようである。長崎に投下されたプルトニウム原爆〃ファットマン〃と同じ姿、同じ重さに作られていた。
 幸いにも爆撃手がヘタくそだったのか、少し西にずれて山の中に落ちてくれたから被害はこれくらいで済んだのだろう。ネライ通りにあと200メートルばかり東に、工場群のド真ん中にこんなカボチャが落ちてきたら、さらにさらにもっともっと目を覆う大惨事となっていたと思われる。

TNT火薬は比重1.6くらいであるから、5トンならこれくらいの大きさであったと思われる。
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『失われた青春−舞鶴海軍工廠女子動員学徒の記録−』(1988・旧洛北実務女学校勤労動員学徒の会)に、


運命への約束辻君の死


      水雷工場頭部班瀬野組 和久茂(旧姓片岡)

 二十九日は、何をするともなく終わった。三十日の朝の車中で、舞鶴が爆撃されたことを開いた。汽車が東舞鶴駅に近づいた時、空襲警報のサイレンが鳴った。皆汽車から降りて、山の方へ逃げた。四、五十分間で解除、中舞鶴駅には一時間遅れて着いた。

 長い黒髪が皮膚ごと

 職札場を通って、工場に着いたが、一昨日までの姿はなかった。クレーンは落ち、魚雷の頭部(厚さ三・二ミリ、長さ一八〇センチ、直径五七センチ)は飛び散り、その頭部には弾痕が無数に穴をあけていた。ガラスは、ほとんど飛び散り、窓枠の残っているのも少なかった。無残な光景であった。
 昨日の爆撃で散った女性の、長い黒髪が、皮膚ごと、肉片もつけ、柱や、窓枠にぶら下がっていた。コールタール、機械油の悪臭の中で、ゆれるともなく、何かを言っているように思えた。
 十七歳の女性と言えば、戦時中であろうと現在であろうと、やはり開花寸前の、一番美しい年頃である。その黒髪が、肉体が、一瞬の間に粉砕されたのだ。あちこちに張りついて真夏の光にゆれるともなくぶら下がっている様は、地獄絵巻きそのものであった。
 あちこちに鉄板が五、六カ所敷いてあり、その横に白木の長い棺が三個置いてあった。
 その中に、肉片や、指などを入れるようになっていた。鉄板のへこみには、血がたまり、悪臭がひどかった。あらかた片付いてはいるが、被服など身につけていた物は散らばっていた。…

08・8・27。NHKのテレビ番組『その時歴史が動いた 模擬原爆パンプキン 秘められた原爆投下訓練』が放映された。
それによれば、テレビ番組の一部爆投下予行演習用として、長崎に投下されたプルトニューム原爆と同じ大きさ形・重さをした、中身だけ違い火薬を詰めた模擬原爆が115発作られたようである。カボチャに似ているので「パンブキン」と呼ばれていた、重さは1万ポンド(4.5トン)あったという。
ウランを使った広島型と違い、この長崎型は威力が大きく、量産が可能といい、アメリカの原爆開発の本命であったという。
原爆投下実行部隊の「第509混成群団」(ティベッツ大佐)はどこの部署の援助も得ることなく独力で作戦遂行できる秘密部隊であった。マリアナ諸島のテニアン島に基地があり、B29に一発だけ原爆を搭載して日本上空に侵入する。
京都・小倉・広島・新潟の4都市はそれまで空襲を受けることなく無傷で、これらの都市に本物の原爆を投下して、その威力を確かめようとしていた。投化場所(番組の一部より)
当時のレーダー投下装置の性能が低く、本物の原爆投下は必ず「白昼、天候のすぐれた視界の良い状態の日に、目視で投下する」と決められていたため、投下都市周辺の地理に慣れるため、模擬の物を作ってくれ、それで演習したい、また隊員たちの「心理的高揚」のために、それは火薬を入れて実際に爆発するものにしてくれとティベッツが頼み、それが認められたのであった。
模擬原爆の投下は本物の原爆投下予定の4都市以外ならどこの市街地でもかまわないものであった。そうして7月20日から8月14日までに、49発が日本各地に投下されて約400名が死亡、1200名が負傷したという。
投下地図には「MAIZURU NAVY BASE」も見えるから間違いなく、7月29日8:30舞鶴海軍工廠に落ちされたものはこれであったことになる。パンプキンの死亡者の4分1が舞鶴であったことになる。舞鶴こそが何とかこの記憶を引き継ぐ方法が真剣に考えられてしかるべきと思う。
パンプキンは原爆投下作戦の一環であり、それはそのまま現在のアメリカの核戦略に引き継がれていることになる。そんなことってあったんだぁー、くらいのノーテンキなことでなく、本物の原爆が落とされたも同様の、ド衝撃を受けてド真剣にド深刻に考えていかないと、次は間違いなく本物の原爆が落ちることであろう。


舞鶴海軍工廠への学徒動員

現在の海軍工廠(民間企業になっている)

(秘)学徒動員学校配当一覧
    昭和十九年十月調べ・京都府資料より抜すい

男子中等学校(二、七九六人)
女子中等学校(一、六一四人)
峰山工業     一八九人
舞鶴一女     四六二人
京都市立第二商業 七五四人(一部学校工場化)
福知山商業    八一二人
舞鶴二女     三一二人
舞鶴一中     二八五人
中舞鶴女     一〇八人
舞鶴二中     四〇〇人
宮津暁星     一三七人
福知山中学     九三人
福知山女     一九九人
宮津商業     一一三人
福知山淑女    三四一人
園部中学     一五〇人
峰山女       五五人
国民学校   一、〇四二人

(註)以上京都府内の男女中等学校・国民学校のみ
※終戦時には他に京都師範・奈良女高師・洛北実務女学校・金沢高女・福知山工専・乙訓実務女学校などの動員学徒、および女子挺身隊などがいました。


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 共楽公園(舞鶴市余部下)の山上に鎮魂碑が建てられている。その碑の由来は、次のように書かれている。

碑の由来鎮魂碑(共楽公園山上)
明治三十四年舞鶴海軍工廠開廠以来の殉職者の御霊を祀った招魂碑が、共楽公園山上に建立されたのは大正八年のことであり爾来春秋の彼岸には盛大な招魂祭が営まれていた。しかしながら、太平洋戦争も熾烈となるに及んで青銅製の碑は供出され、台座のみが往時をしのばせるにいたった。
戦争末期、舞鶴軍港もしばしば空襲を受けた。中でも昭和二十年七月二十九日、工廠に投下されたただ一発の爆弾は、約百名の生命を一瞬のうちに奪い去った。その中には紅顔の動員学徒男女十九名も含まれていた。
憶うだに痛恨の極みである。
被爆の真相がようやく明らかになるに及び有志相はからい初の空襲殉職者合同慰霊祭を雲門寺ににおいて営んだのは昭和五十二年七月二十九日のこと、その日期せずして鎮魂碑建立の願いが燃え上った。
かくして、かつての招魂碑復元の願いと空襲犠牲者ならびに工廠より内外に派遣され武運つたなく戦没された英霊の碑建立の願いと、これらを打って一丸とした殉職者鎮魂碑を、場所も旧工廠を俯瞰するゆかりの地に礎を固く建立することとした。
この旧舞鶴海軍工廠殉職者鎮魂碑にはご遺族や近親者、旧工廠関係者ならびに地元徙民の平和への悲願がこめられている。
在天の御霊よ、どうか安らかにお眠りください。
昭和五十三年三月
旧舞鶴海軍工廠殉職者鎮魂碑建立の会
西山鶴洞謹書


私よりも少し年上になるが、この時の空襲で工廠に勤めていた父親を失った先輩がいた。この鎮魂碑の「空襲殉職者名簿」の中に彼の姓がある。その姓は一名しかないから、たぶんこれが彼の父親と思われる。女手ひとつで彼は育てられたのであるが「昔は、ワシらが子供やったころは、1兆円といえば国家予算の額だった、それが今は防衛費に1兆億円」とずいぶん古い話だが、彼はよく不満げにそう言った。
こういう境遇の人が自分の周囲に何人かいるのが普通で、気違でもない限りは9条改正などとは言えなかったものである。ところがそうした戦争体験者がまだ生きているにもかかわらず、そんなことはなかったかのごとくに近頃は平気で憲法改正などという。たぶん戦争でよい目を見た連中の子孫であろう。戦争をまったく知らない連中である。乗せられるな、その道は行くなよ。

 現在の防衛費はいくらか。正確に言えばわからない。隠し防衛費があるので正確にはかなりの知識がないと割り出せないのである。一説に5兆円くらいだといわれている。一説に世界2位とも言われている。ちなみに「気違いの志那」の軍事費は3兆円くらいだそうで、ダントツの伸び率だそうで日本やアメリカはその肥大化を非難している。そのアメリカは30兆円+特別会計のイラク戦費=50兆円くらいという。
日米という国は自分の姿はまったく見えないか、自分は正しいと信じて疑わないのか、いずれにしてもかなりヘンな国である、他国を非難する前に自国の軍事費がどれだけに「ド気違い」規模に登っているか見てからにしたらどうだ。「私とこは3兆円くらいですが、アメリカさんは幾らですか、日本さんは幾らですか。私とこよりはるかに多いでないですか、どうしてそちらを非難なさらないのですか」とでも問われたらどうする気なのだろう。いずれにしても普通の社会人ならこんな自分のこともわからず好き勝手をふく連中は誰も信用しないだろう。軍事費をふやし続けるならば決して世界のリーダーとなりえないのだろう。人殺しの予算などは何兆円あろうとも何も自慢にはならない。恥ずかしいばかりである。早くゼロとしたいものである。


『女のつぶやき』(昭61 舞鶴虹の会)

鎮魂碑について  仲田美代子

 毎年四月の第二日曜日頃に共楽公園の鎮魂碑の前で慰霊祭が行われます。御遺族の方で毎年遠方から出席される方もあるそうです。その碑の建立発起人のお一人からきかせていただいたのですが、大変なご苦労と努力と協力者のおかげですと、 おっしゃいました。公園法で建立することはむつかしいのですが、昔忠魂碑が建っていた所だからと、建立することを故立道市長様にお願いをして許可されたのです。鳥取へ行き大きな石をさがして手に入れることができたのですが、公園の上まで運びあげるのに道巾がせまく家の密集している所を通らなければならなかったので、大変な苦労のすえやっと建立することができたそうです。
 昭和二十年七月の舞鶴工廠爆撃で亡くなられた方達だけおまつりしてあるのだと思っていたのですが、明治三十八年から工廠関係で殉職された方達全員をおまつりしてあるということです。地元に住んでいる人でも知らない人が多いのではないかと思います。私も婦人会の役員になって慰霊祭のお手伝いをするようになりはじめて知ったのです。


 『舞鶴市民新聞』(2010.7.30)

舞鶴空襲の犠牲者らを追悼
海軍工廠殉職者鎮魂碑前で体験者や造船所OBら
初の慰霊式で長年の思い果たす


 舞鶴空襲の犠牲者らを追悼する慰霊式が二十九日、余部下の海軍工廠殉職者鎮魂碑の前で開かれた。学徒動員で空襲を体験した人、工廠を引き継いだ造船所のOBや現職ら約三十人が参加し、戦争の記憶を伝えていくことを誓った。
 日立造船・ユニバーサル造船舞鶴の退職者でつくる「OB・満亀会」(蒲田忠夫会長)が、戦後六十五年の節目を機に、一九四五年七月二十九、三十日の舞鶴空襲と工廠作業中に亡くなった人たちを追悼しようと初めて開催。蒲田会長が「犠牲者の方々に哀悼の意を表します」と言葉を述べ、参列者が次々と焼香をした。この後、近くの雲門寺でも法要が営まれた。
 中舞鶴高等女学校の元生徒の津田澄子さん(80)=桃山町=は、工廠に出勤途中の三十日、空襲に遭遇した。「犠牲者の慰霊はどうされているのか分からなかったので、きょうお参りができて長年の思いを果たせました。来年は友人にも声をかけて参列したい」と話していた。二十九日の空襲で両目を失明した元動員学徒の橋本時代さん(81)=京都市=も、亡くなった旧友一人一人に呼びかけた。



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終戦のころの舞鶴

『市史編纂だより』(昭60.12)に、(上のつづき)

終戦のころの舞鶴


 敗戦による打撃、衝撃、人心の動揺はことばには言い尽くせない。殊に、海軍一辺倒に生活し、勝つことを信じて来た舞鶴市民には、〃ぼう然自失〃そのものであった。
 灯火管制の解除で明るい夜を迎え、ホッとしたものの、軍の解体により海軍に依存してきた舞鶴には、夢想だにしない事柄がつぎつぎに発生した。

 軍人・軍属をはじめ、海軍工員、徴用された工員、勤労動員学徒や挺身隊員等、軍要員として来ていた人びとが、あるいは解雇、あるいは解除によって舞鶴を去って行く姿が、毎日のように続いた。舞鶴では一度に数千人にも及ぶ失業者が生まれたという。新舞鶴国民学校の児童数も2.000人もいたというのに、1,300人に減った。市街地の国民学校では、この現象はどこも同じで、学級編成が決まらず、混乱は21年度にまで及んでいる。20年11月、舞鶴市の人口は、人口調査によると80,407人と一気に激減している。

 食糧、物資の窮乏は、戦後一段とその度を加え、主食の配給は遅配、欠配が常時となった。以来、市民の誰もが、〃生きる〃ために、食糧確保のために躍起となった。米をはじめ食料の買い出しには近隣の農村へ、 列車を利用して出かけることになるが、こわに対し警察の取り締まりも厳しく行われた。衣料品その他と米や穀物と交換する物々交換も行われ、「タケノコ生活」ということばが生まれ、これに対して「農民貴族」ということばも生まれた。また、米の買い出しを専業とする〃カツギ屋〃も生まれ、配給米に対しヤミ米が横行し出した。
 もう、なりふりをかまっている時代ではなく、恥も外聞もなく、人びとは、ただひたすら、〃生きる〃ことに血眼になっていたといえよう。もちろん、こんな混乱の中にあって、いち早く世の動きを先取りする人たち、利権屋やヤミで一もうけしようとする人もあった。また、海軍物資の横領、隠匿、横流しする人もあらわれ、警察に検挙された。

 学校も戦時中の跡始末に大童であった。校庭のあちこちに造られた防空壕、軍が使用していた教室や取り外した天井板の整理、疎開させていた校具備品の運搬など作業は毎日のように続けねばならなかった。校庭は食糧増産のため開墾されていたが、食糧確保は依然重要な仕事であった。その上、迎える冬の燃料確保さえ急がねばならなかった。一方、連合国軍総司令部の指令により、戦時教育の禁止、教科書から戦時教材の削除や教員の適格審査が行われ、20年12月31日には修身・歴史・地理の授業の禁止が発せられ、翌年早々、教科書が回収された。食糧の窮乏は学校の運営を左右し、勉強どころではなかった。
 食糧の決定的不足はヤミを横行させ、インフレの原因ともなった。敗戦直後から日銀券の発行は増加の一途をたどり、発行残高は終戦日の302億円から年末には554億4.000万円にも達した。東京卸売物価指数は敗戦後4カ月(20年12月)で2倍、10カ月(21年6月)で4.86倍という驚異的な上昇であった。この恐ろしい速さのインフレ進行をくい止めるため、21年2月17日、金融緊急措置令等が施行された。預金の封鎖、流通中の日銀券は3月2日限り通用廃止、払い戻し額は1カ月につき世帯主300円、家族1人につき100円に限り新円と交換、それ以上は封鎖預金とされ、給与の支払いも500円までとなった。この結果、標準世帯では1カ月500円の生活が強制され、日銀券の流通高は2月18日の618億円から3月12日の152億円に激減した。 この新円切換えの際、市内国民学校、青年学校教職員は、2月23日支給されるはずの2月分給与が与謝地方事務所の手違いや新円切換等で手間どり、3月10日過ぎてようやく支給されるという事件が起こり、関係者を困まらせた。

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東山地下壕(舞鶴市北吸)

『市史編纂だより』(昭61.6)

東山顛末記

        舞鶴市文化財保護委員 渡辺祐次

…同21年1月になって、進駐軍の命令により数度にわたり地下壕の爆破作業が行われた。同年1月4日付の朝日新聞によると、「爆破作業に着手、地軸を揺すやうな大爆音は帝国海軍の覆滅と平和の招来を告げる焚鐘のやうに全市にとどろき渡っている。この爆破作業は10日ごろ完了」と報じている。この爆破作業に従事した関係者の話によると、ダイナマイトで数回爆破したが、発電機壕は完全に破壊、指揮所壕は壊れなかったので、出入口の隧道の一部を破壊、出入口と電池室の隧道の一部は、今もそのまま残っている。この爆破作業で、壕内に火災が発生し、−週間ほど燃え続け、また、爆風によって市役所旧庁舎の窓ガラスも壊れたという。
 戦後、東山に大きな地下壕があるといううわさが市内に伝わり、子供たちの遊び場ともなって危険なため、市議会や教育委員会、学校当局でも問題となったことがあった。また、米や芋類の貯蔵庫として活用することなども話題になっていた。地下壕が爆破された後、同21年3月から山頂の防空監視所は、日本放送協会舞鶴放送局として、寺川下流の現局舎が完成ざれた同27年4月まで、ラジオ放送局として使用された。
 なお、舞鶴市は昭和59年10月17日、地下壕の全ぼうを明らかにするため、壕内外の測量と写真撮影を行い記録をとった。
4.女子挺身隊員について 最後に、地下の防空指揮所で勤務していた元女子挺身隊員のことについて触れておきたい。この防空指揮所に配属された彼女たちは、戦時中、大阪に海軍の後援会「舳会」というのが発足し、京都にもその支部が出来て、茶道の表千家、裏千家、官休庵もこの会に参加していた。当時、名家の子女が多かった藤川洋裁研究所(校長・藤川延子)の生徒有志も、この会に入会。当初は舞鶴鎮守府人事部長の指導の下に、病院への慰問やスカーリンクラブ等で活動していたが、その後、時局柄海軍の要請もあって、会員の中(高等女学校卒の19歳から24歳までの者から家庭調査などを経て、30名が選抜され、舞鶴警備隊へ動員された。
 彼女たちの身分は理事生待遇であった。その他に地元の舞鶴第二高等女学校生徒20名も学徒動員で、この防空指揮所に勤務していた。そのころは、兵器の増産という名目で、男子労働力の不足を補うため15歳から25歳までの女性が、挺身隊員として動員され、海軍工廠などへも各地から多数来ていた。
 彼女たちは、海軍の機密の仕事ということだけを知らされ、昭和19年3月2日に動員、初めに舞鶴海兵団で数日間、担当の斉藤参謀から講義や訓練を受け、試験があって、一応海兵団での予備教育を終えたのち、東山の特設防空指揮所での勤務についた。当初は、専用の寄宿舎がなかったため、当分の間、竜宮(市場)の海仁会宿舎を使用。毎日、東山の防空指揮所まで、駆足の訓練をしながら通勤したという。しばらくして指揮所前に宿舎が出来て、そこに移り、夜間勤務もするようになった。
 起床は午前0時、就寝は午後8時で、昼休みには宿舎前のコートで、同僚や鎮守府の将校たちともバレーボールを楽しみ、青春時代の親交を深めたという。また、緊急時に備え、勤務の合い間をみては手旗信号や無線の教育も受け、非番のときは宿舎で軍艦旗の縫製作業も行った。彼女たちが担当した仕事の内容は、次のとおりである。
 電話交換室の勤務員は、先任下士官の下に整備員2名(他の情報室も同様)と女子挺身隊員の8名で、初めは電話局から派遣された女子職員の指導を受けながら勤務についた。この交換室は「東山交換」と呼ばれ、交換台からは、専用回線によって舞鶴鎮守府管区内、舞鶴海軍地区及び陸軍の中部軍等との防空通信専用電話として使用された。防空指揮所から各部隊へ発せられる指令電話は、指令台からの指示によって交換台のランプがつき、一斉に一つのコードから管内の各施設に対して、同時に指令を伝えることが出来。各砲台、見張所等各部隊との単独電話もできた。交換台の標示個所のランプがつくと、「ハイ、東山交換」と応答し指示された部署へ継いだり、指揮所内外への電話も取り次ぎ、特に指揮室からのランプについては、最も重要視して取り扱った。昼は二列の交換台に4名が交代でつき、夜は午後8時から翌朝8時まで、2時間勤務で2名が当直勤務にもついた。
 舞鶴鎮守府が取り扱う電話交換施設は、余部の司令部と東山の防空指揮所とにあって、東山の交換業務は、主に中央の軍令部や舞鶴鎮守府管区内と、陸軍の中部軍管区内との防空情報の収集並びに各防空砲台、機銃砲台、見張所との間の通信機能を持ち、司令部の交換業務は、管内の各官衙、部隊との通話、その他一般との電話の交換を任務としていた。したがって、東山の交換は機密を要する事項や、防空指揮に関する通信連絡をつかさどることを主任務とした重要なものであったことから、特別に厳選された女子挺身隊員を充て、通信業務につかせたのであった。
 有線情報室は、8名の勤務で、中央なり鎮守府管区内より無線、または有線を通じ暗号で伝えられてくる情報を解読して、指揮室へ渡す仕事であった。通信隊情報室は、4名の勤務で管区内の各通信隊から受けた情報を情報紙に記入し、専用の送信装置(自席から紐で情報紙を籠に入れて、2階に上げる装置)によって、2階の指揮室へ送る仕事であった。
 部外近情報、砲台情報室も同じ方法をとっていた。部外近情報室は、4名の勤務で近距離の管区外からの情報を受け、指揮室へ報告する仕事であった。また、砲台情報室は、6名で勤務し管区内の各砲台から送られてくる情報(例えば、敵機何機、○○上空を舞鶴に向かって進行中)を、伝信票に記載して指揮室へ上げると同時に、ポストン(押ボタンのこと)を押すと、指揮室の大きな地図に電光ランプがつき、警報発令の用意と指令が出されるようになっていた。
 その他に、陸軍の中部軍情報室もあったが、陸軍からは要員の派遣もなく、通信隊情報室の担当が取り扱い、舞鶴鎮守府の先任参謀が舞鶴要塞司令部員、東部軍並びに中部軍の参謀を兼務していたという。終戦前後の防空指揮所内は、新事態発生によって、電話交換業務もほとんど徹夜の連続で多忙を極め、また、情報室勤務の女子挺身隊員などは、指揮室への出入りで、8月9日のソ連の対日参戦のことを、将校たちの会話の中でチラシと耳にして、身体が震え、気持がきゅーつと張りつめるなど、時局の急変に、かつてない体験に直面したという。このような体験を積んだ女子挺身隊員は、20年8月22日まで勤務して、動員を解かれ、それぞれ懐しの我が家へと帰郷した。また学徒動員組は、終戦の日で動員解除となった。
 戦後40年の歳月が流れ、昭和59年10月10日、当時この防空指揮所で働いた元女子挺身隊員で組織する「あをみ会」有志14名が、東山の削平のことを聞き、地下壕の防空指揮所がこの工事で壊されるのではないか、壊される前に一度、見ておきたいとの思いにかられ、休日を利用して40年振りに舞鶴を訪れた。そして東山の北側に残っていた非常口から地下壕内に入り、思い出の残るかっての職場に持参した花束を置きながら、変わり果てた壕内の様子に驚き、銘々が感慨深げに、当時を思い起こし、暗い壕内を懐中電灯をたよりにして元職場の位置を確め合っていたことが印象的であった。
 彼女たちは東山の削平工事によって、中世山城や、地下の防空指揮所が破壊される話を聞かされると、残念でならないらしく、何んとかして残せないものかと、言葉少な<訴えていた。青春時代の一時期を同僚と苦楽を共にした職場が、舞鶴海軍の中枢的機関であったことで、彼女たちの心の中に強く焼きついて去らなかったのだろう。
 だんだんと戦争を知らない世代も多くなってきたし、戦後は終わったとも言われている。戦争という過去のいまわしさは、誰しも捨て去りたい気持であるが、このようにして、苦しかった戦争時代を体験し、平和を願う彼女たちの心までは、風化されてはいなかったように感じられた。..

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まるこ山古墳(舞鶴市野村寺)

『市史編纂だより』(昭53.3)に、

まるこ山古墳

 野村寺集落の北方「キシガ」と呼ばれる丘陵上に2基の円墳がある。丘陵端部は丘尾が切り下げられて「まるこ山」と名付けられ、独立した円形の丘となっている。ここは早くから墓地となっているが、墓地造成の際、頂部を削平したらしく、径15メートルの円形をなす。古墳の可能性は大きいが確認できない。ただ片隅に多くの山石が積み上げられている。これは石室に使用したものかも知れない。

 丘尾から約50メートル上った尾根上に1号墳がある。直径約12メートル、墳高l〜1.5メートルの円墳であるが、盗掘されて墳丘中央部に長さ8メートル、幅3メートル、深さ約2メートルの穴が掘られている。南側、野村寺の集落の方に開口し、羨道の石材3個が半ば地表に現われている。小形に破砕された石が、墳丘斜面や盗掘孔内に散乱している。出土品は不明であるが、盗掘されたとの伝説も残っている。天井石は見当たらなない。

 2号墳は、尾根をさらに50メートル余り登った地点にある。封土がほとんど流出して、高さ50センチに過ぎず、墳丘の径も8メートル内外の小形である。内部は完存している模様であるが、1、2号項とも木棺直葬かもしれない。この古墳については、丹後郷土資料館の杉原技師も確認済みである。

勘注系図に、「丹波国造 明国彦命 葬于加佐郡田造郷高野丸子山」とある丸子山古墳であろうか。奈良県高市郡明日香村真弓にもマルコ古墳があるが、ここではマロコ古墳とも呼ばれており、マルコとマロコは通音のようである。だからあるいは明国彦命とはあるいは麻呂子親王かも知れないことになるが、木棺直葬ならば時代が合わない、いずれにしても早く古墳の年代を決めてほしいものである。
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宮津湾沿岸の前期古墳

『宮津市史』に、

宮津湾沿岸の前半期古墳

宮津湾沿岸における前方後円墳としては、岩滝町男山、現在の京都府立与謝の海養護学校の付近に、推定全長七四メートルの法王寺古墳がかつて所在した。後円部は、過去に大きくえぐり取られており、昭和四十四年の調査段階ではかろうじて前方部のみが旧状をとどめる状況であった。

調査の結果、前方部は二段築成で葺石・埴輪の存在が明らかになった。後円部は、その墳頂部のごく一部が残されていたと考えられ、埴輪棺一基が検出された。墳丘の規模は、全長七四メートル、後円部径五五メートル、前方部径三○メートルと復元された。なお、調査以前から墳丘上に長持形石棺の蓋石等が置かれており、調査中に偶然表土から石枕が採集されたことから長持形石棺が中心埋葬であった可能性が指摘された。

この古墳の築造時期については、長持形石棺の存在から中期中頃とされているが、埴輪棺(丹後型円筒埴輪)を積極的に評価して、野田川流域における蛭子山古墳直後の前方後円墳で、網野銚子山古墳・神明山古墳と同様海に臨む前期末を前後する時期と評価したい。なお、未調査であるが、法王寺古墳の北方二○○メートルの宮津市岩滝町境に墳丘裾の明瞭な二○メートル級の円墳・方墳が並ぶ塚ヶ谷古墳群が所在するが、これらも前期古墳である可能性がある。

 岩滝町岩滝の大風呂南1号墓の所在する尾根の先端、阿蘇海の向こうに天橋立を望む標高四○メートルの位置に、直径三○メートル・高さ四メートルを測る岩滝丸山古墳があった。昭和二十一年、開墾中に偶然石棺が発見され、神人車馬画像鏡。銅鏃一六、素環頭鉄刀が掘り出された。石棺は、大田南5号墳、舞鶴市切山古墳に類似する凝灰岩製の精縁な箱形石棺である。時期については、土器や埴輪がなく決めがたいが前期後半としておきたい。

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若狭武田の部将・小笠原朝経入道沢蔵軒の切腹

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、

保昌塚(ほうしょうづか)と荒神塚

 天僑立駅裏部落の竹薮の中に、忘れられたように広大な石垣を積んだ退潮庵の跡がある。もと智恩院の別院であった。ここに元応二年(一三二○)二月、如法経五部奉納と銘のある宝篋印塔があるが、土地の人はこれを藤原保昌の墓と伝え保昌塚とよんでいる。保昌は右京太夫致忠の二男で盗賊袴垂(はかまだれ)を誅したことで有名な部将である。

長元九年(一○三六)九月七九才で没している。また並んで立つもう一つの宝篋印塔は荒神塚とよばれ、武田の部将小笠原朝経入道沢蔵軒の墓だといわれている。永正三年(一五○六)武田元信は普甲山の守りを突破して成相寺を占拠し、小笠原沢蔵軒を援将として上山田城と加屋城を陥し入れたが、急を聞いて室町から帰国した一色義有は翌四年成相寺に火をかけたため元信は命からがら船で若狭へ逃れ、沢蔵軒は後陣をうけたまわって退却しようとしたが、一色の軍勢に加悦谷と普甲峠を固められて脱出できず、ついに文珠堂に入って一門八二人と切腹し、はらわたをつかみ出して天井に投げつけて死んだという。

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細井和喜蔵

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、

 加悦奥駒田の鬼子母神祠の右手に細井和喜蔵の記念碑がある。和喜蔵はみずからの体験から「女工哀史」を書いて、急激な資本主義の発達のかげに低賃金の中で過酷な労働を強いられた悲惨な女子工員の実態を世間に訴えて大きな反響をまき起こした。その功績をしのぶ同志たちの手によって昭和三三年十一月に建てられたものである。鬼子母神社の隣にある細井和喜蔵碑(加悦町加悦)

 和喜蔵は明治三十年五月九日、天田郡夜久野村板生小字現世より入聟となった市蔵を父とし、りきを母として加悦奥に生れた。父は通称「幸はん」と呼ばれていたが、祖母うたと不仲で、和喜蔵の生れる前に離縁となって夜久野へ帰って再婚している。母りきは和喜蔵が六才の時、家の上のため池で入水自殺をしている。機屋の主人の子を宿して世間態を恥じたためである。母なきあとは祖母の手で育てられたが、祖母がなくなってからは機屋の小僧、電気会社の油差しなどをやり、大阪へ出てモスリン会社の工員となってストライキの指導などをした。この間同じ職場の堀としをと結婚、労働のかたわら著述に励んだが、大正十四年五月、永年の念願であった「女工哀史」を二年ぶりで完成させ、改造社から出版されてがぜん世間の注目をひいた。しかし永年の無理がたたって同年の八月十八日東京の博愛病院において、僅か二八才の若さで病没した。友人たちによって「南無無産大居士」と戒名がつけられ東京の青山墓地に葬られた。昭和三一年八月二三日には加悦町実相寺で未亡人としを招き「細井和喜蔵さんを偲ぶ会」を催している。

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与謝野礼厳

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、

大虫神社の鳥居の所に「礼厳法師の碑」が立っているが、与謝野礼厳は与謝野晶子の夫鉄幹の父であり、文政六年(一八二三)温江の虫本に生れて出家したが、俳人でもあり政治家でもありまた事業家でもあり、京都にあって大いに活躍した。特に明治五年九月植村正直知事の応援を得て療養院を建てたが、これがいまの府立病院や府立医大の前身である。
 明治三一年八月十七日七六才で京都に没し大谷廟に葬った。
    与謝郡阿知江の村に鍬とりて
       世の笑いより逃れなんかも

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車持の地名

『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹・1992)に、

 『倭名類聚鈔』の伊勢・壹志ノ郡の呉部ノ郷(のち多気郡の東黒部村と飯南郡の西黒部村)、朝明ノ郡の訓覇(クルベ)ノ郷(のち大矢知村久留部)は、奄芸郡(のち河芸郡のうち)の栗真(クルマ)(車間)と同様、「呉(クレ)」に関係する地名である。「呉」は倭国が中国の江南地方を指して名づけた名称で、『日本書紀』の第十四巻(オホハツセワカタケ紀)には、「呉織の衣縫は伊勢ノ衣縫らの先である」としるされている。
 また、クルマという地名は伊勢のほかにも次のように分編している。−
   美濃・土岐郡の黒味(クロマ)(黒味(クルマ)大神の社あり)。
   信濃・安曇郡の来馬(クルマ)(のち北小谷村)。
   上野・車馬(クルマ)郡(群馬(クルマ)郡)の群馬(クルマ)ノ郷・車川。
   常陸・多賀郡の車(のち車川村のうち)。
 このほか、淡路・津名ノ郡にも来馬(クルマ)ノ郷(のち来馬村久留麻)があるが、ここには伊勢久留麻神社があるので、伊勢の栗真(クルマ)(車間)・呉部などのうちのいずれかの地方の住民が移住した土地だとみられ、おそらくは、美濃・信濃・上野・常陸のクルマもすべて同様だと思われる。
 ところが、上野の群馬(クルマ)ノ郷には車持(クルマモチ)大明神と名乗る社がかつて祭られていた。「車持(クルマモチ)」は一般には「宮廷ならびに神祇の乗輿を扱う氏族」だと説明されているが、それはむしろ後代の話で、ここでは「群馬主(クルマムチ)」(「ムチ」は朝鮮古代語)ととったほうがよいのではなかろうか。ただし、上総・植生郡(のち長生郡)の車持(クルマモチ)(のち蔵持(クラモチ))、越中・新川ノ郡の車持ノ郷(のち月岡村のうち?)、若狭・大飯郡の車持(のち和田村のうち)については、詳細は分らない。

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