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No.35
雄島参り(老人嶋神社祭礼) '12
(舞鶴市冠島)
↑
冠島
に座す
老人嶋神社
。ずいぶんと古くからの社であるが、冠島は
オオミズナギドリ
保護のため上陸は禁止されている。学術調査と、この日6月1日の老人嶋神社祭礼に限り許されている。島は人の手が入らない原生林で覆われている。対馬暖流の影響を受けて、タブノキ、シロダモ、スタジヒ、モチノキ、ヤブツバキ、 イヌマキ、ケグワ、ムサシアブミ、オオカサスゲ、キノクニスゲなどの常緑闊葉樹、落葉闊葉樹が混生した原生林で、暖帯植物景観を示している。
周囲4キロメートル、山頂約170メートルの冠島は、緊急避難時以外は無人島であった、戦時中は本土防衛の最前線基地となり、海軍は勝手に重油発電所、高射砲やサーチライトなどをすえて、海兵500人が駐留していたという。その跡は今も残っている。
雄島参りの太鼓と笛の囃し(野原)→
↑ 奉納された「のぼり」。紅白があるが、どういういわれなのかわからない、今年は何か少な目の様子で、これが邪魔になって、写すのに苦労するカメラマンにはありがたい。
私は昨年もお世話になったのだが、2012年もまた野原の皆様にお世話になった、以下はその記録。
↑ 舞鶴市野原・小橋・三浜の三地区の共同管理の社で、その漁業関係者などが主な氏子、この日の参拝者は約250名とか、市長さんも見えられているが、行政や報道や地元の小学生、ついでに私などの野原のお邪魔虫などもゾロゾロゾロゾロ…。
明治初年までは神聖な島、島自体がご神体と仰がれ女人の入島を許さず、不幸のあった者などは入島しないならわしであったそうである。
三地区以外でも若狭湾沿岸の漁村などもっと広く崇拝されているが、6月1日の「雄島参り」で上陸してこの島で直会を行うのはこの三地区だけ。ほかの地区は海上から参拝して帰るようである。
↑ 雄島様のご加護のもと、どうか安全で豊漁となりますように…
祈りが捧げられる。
「合わせ火」という言葉が丹後には残っている。沖に出漁中に遭難した場合、生きて冠島に避難しているか否かを陸と確かめ合う方法で、はじめに陸側から島へ向けて火を焚く。その火のことを「送り火」とか「迎え火」という。これを見た島の避難漁師は陸へ向けて火を焚く。それを「受け火」と言い、陸と島とが確認しあった火のことを「合わせ火」と称したそうである。冠島は古来より海上で荒天にあい遭難した時の避難場所として位置づけられた救命の地、非常食などを蓄えた非難小屋があったそうで、この写真で言えば少し右手になるが、今はもうないという。
↑ このような屋上屋に収まっておられる。式内社ではないが、「日本三代実録」元慶4年(880)10月13日条に記録が見える国史現在社、全国391社の1。舟に積んで持ってこなければならないためか、あまり大きな物はないが、石造のかなり古そうな狛犬なども見られる。
↑ 社殿の背後の山側はこのような岩(凝灰岩)がゴロゴロしていて、ここが社殿なき古き時代のイワクラであろうと思われる。特別そうな大岩もないが、かつてはこのあたりでおまつりが行われたと思われる。もしかして縄文土器か石器の途方もないカケラでも大発見かも、と探してみたが、古代祭祀跡遺跡(未調査)を勝手に掘るわけにもいかないし、あるのはただ鳥の巣穴とフンばかりであった。
↑ 船玉神社。アッ鈴がない、とか。老人嶋神社入口の境内社。
↑ ここはエライさんたちばかりがお行儀よく直会の様子。(それはどうでもいいが)、背後にホコラが見える、冠島には老人嶋神社だけでなく、古くからこうした社もある。
洲先大明神として、絶壁に囲まれた冠島に、この少し平らな洲先があるのはこの社のおかげと『丹哥府志』は書いている。今は瀬宮神社と呼ぶようである。だいたいお酒をぶっかけてお参りするようである。
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冠島へのアクセス
別途船便を用意する以外は島へ行く手立てはありません、行っても上陸はできません。島の周辺は豊かな漁場ですから、遊船を頼まれれば、近くまでは連れて行ってくれます。
出発
だいたい9時30分に、野原漁港を出発する。
↑ 大きな岩ばかりがゴロゴロしている冠島の磯だが、このあたり50メートルばかりはなぜか砂浜、砂と呼ぶには粒が大きいが、まあ礫浜か、ここへ舳先から「雄島づけ」をして上陸する。この上陸点は狭く、一度になるため混み合う。
↓ 具合がよろしい、天使の小石浜。
↓ こんな場所では、オットットトー。ヤバイが、海に落ちる人はない、みな海人の子孫のよう。
↓ 掛けのイオやお酒など、供物を下げて神社へ急ぐ。道などはなく、歩きにくいところである。神事だから正装して、黒のスーツにネクタイに革靴、そんな姿の人もけっこうあるよう。
老人嶋神社の祭礼
上でもすでに紹介済みですが、ここは拾遺編、くどいか…
↓老人嶋神社の鳥居と参道。誰か先に手入れしたのだろう、きれいになっていた。
↓ 社殿の山側には角張った大石がゴロゴロしている。
これが古くは、社殿ができる以前の磐座と思われる、奥の宮であろうか。
そうした意識があるのか、掛けのイオが捧げられていた。
↓ 子供達もやってきた、狭くて見る場所がないので、山手へ回ってここから見よう…
もしかしたらヘビがいるかも、いないだろうけど、まだ鳥の卵がないから餓死寸前のひょろひょろのはず、もしいたら、それは神様のお使いだそうです。
↓瀬宮神社。瀬の先にある、エビスさんといわれている、耳が悪いので、石を叩いたり、石を投げて起こすのだそうで、周囲はそうして投げられたためか石が転がっている。中には小さなホコラがあるがボロボロ、覆屋はコンクリート・ブロック製で頑丈に作られている。
手前にある石が面白いカッコウをしている、ナニカに似ておりませぬか、ずいぶんと古い縄文時代からの信仰と思われる、これは南方ではなくて北方系で若狭か越前ではなかろうか。こうした石棒は舞鶴では見かけないのだが、いつどこの集落が持ってきたものだろうか…
老人嶋神社の入口にもある↓、冠島は雄島とも呼ばれるのはこのためか?
鳥の巣穴
大正13年に日本で最初の天然記念物指定を受けたオオミズナギドリ、京都府の府の鳥でもある。島全体では13万個もこうした巣穴があるそうだが、実際に使われているものは2万個ばかりという。多くは空き巣なのだが、私としては十分に注意して踏みつぶさないよう気をつけてはいるつもりなのだが、それでも時折ボコッとつぶしてしまう。
巣穴は入口が16〜26センチの円形で、奥行が1・2〜2メートル、半ばより少し奥のところで、直径が少し大きくなり30センチばかり、鳥はここで休んだり、枯葉や枯枝を少量持ち込み産座にする。巣穴に入った鳥はここで方向転換をする。巣には雌雄二羽が入っていることが多いが、一羽の場合もある。という。
巣穴は横に曲がっているから、上からはどの方向へ伸びている巣穴なのやら見当がつかない、注意していても踏みつぶすことになる。六月中旬〜下旬が産卵期で、この時期はまだ卵はない、産卵は一個で白色、卯殻のきめは細かく、厚さは鶏卵より薄い。 産卵総数は12000個以上と推定され、明治時代や、戦後の食糧事情の悪かった時に、卵を食用に盗まれたこともあったという。朝早くまだ暗いうちに飛び去ったあとですでに成鳥の姿はないし、「空き巣ネライ」とはこれかと思いながら、穴をいくらのぞき込んでみてもまだヒナなどの姿はない。
↑ 自然の楽園というのはこうした所か、フンのリンの効果かも知れないが、植物の色が生き生きしていてまったく違う。
不思議な姿の老木、モチノキだろうか。岡では見ない。
海上では…
↑来るまでの途中、少しだがオオミズナギドリが飛んでいた。
直会
供物をさげてきて直会。島で直会を行うのは三地区のみ、これらの地区は集落へ戻ればまたそこで、もう一回飲み直しだそう。
何回してもいいのでは、浜でいただく漁師料理はうまい、ワレラは普段は何を喰っていたのかと思わせられる、あんなものは人間が喰うものではない、そんな風にも思えてくるカルチャーショックがある。とれとれ新鮮で量はてんこ盛り、少々荒っぽくうまい。
↓ 大海原を前にして磯に転がる岩を卓に、岩に座り、酒を呷り、肴をほおばる、何ともワイルドな…
直会の最良食材が一杯、さあさあどんどんと食べてね、ぐいぐい呑んでね、カモメの皆さんも、残り物だけど…
「かもめ」はチェホフの戯曲にもあるが、女性宇宙飛行士の「ヤ、チャイカ」とか、本場は寒い北国で日本で見られるのは冬、大陸から越冬に渡ってきたもののよう、ここにいるのはカモメの親類で、かもめ、かもめと舞鶴でも呼んでいるが、本当はウミネコ。舞鶴市の天然記念物、オオミズナギドリのような渡り鳥でないので年がら年中ここにいて、何から何まで食べる、海が荒れると山田のタンボにも避難して姿を見ることもある。ニャーニャーとまるで甘えたニャンコのように鳴く。幼鳥の羽根の色はオオミズナギドリに似ている。
参考文献
『海といのり』(1985.11 舞鶴市郷土資料館発行)
〈
…午前9時半出港。出港に際し、船が3回まわるということが、現在意味が不明をところから、単に形式的に1回だけまわったり、新造船の時は必ずまわる等ということであった。野原区・三浜区でも、出港時・帰港時にそれぞれ湾内を一周した。青井では、以前雄嶋参りに際して、神社前の沖でていねいに3回まわり、帰港時も必ず3回まわりをした。そして酒迎えもあったということだが、東南アジアの島々の儀礼として、新造船の場合このことが必ず行われ、その様子は、あたかも日本の宮詣りに相当する行事といわれ、恐らく南方から伝わったものではないかと考えられる。
雄鳴参りは、競漕の形で行われてきましたが、これは中国南部にその発祥をもっとの研究が進められている倭人の祖にかかわる汎太平洋圏の海洋民族の祭祀習俗であり、華南・沖縄・長崎、近くは出雲美保神社の諸手船神事と同様の龍神信仰の東限地であると考えられています。
また、吉原からの参拝者は帰港の日に、雄嶋戻りといって競漕して帰ったといいます。
雄嶋参りの風習は、過去においては京都府下にとどまらず、西は隠岐から東は若狭まで、広範な信仰圏を有していました。現在でも、毎年5月〜7月頃、京都府下・福井県下の漁村から多くの参拝者があります。
ここで、この行事の目的をみていきますと野原・三浜・小橋・大丹生地区はいずれも“大漁祈願”を目的としていますが、白杉・青井・吉田地区においては、“雨乞い”を目的としており、「日照りが続くと、冠島にある井戸を振物で使用する薙刀の刃でかきまぜると雨が降る。余り強くかきまぜると海が荒れて、村に帰れなくなる」との伝承も残っています。 (白杉・青井)
更に“海上安全”を祈願するのは、神崎・和田地区です。また、昔、由良川筋では養蚕が不況のときは、雄嶋参りをして島のひとかかえもある桑の木の葉を取って持ち帰り、これで蚕を飼い、翌年は、とれた糸や反物を持ってお礼参りに来ていたとのことです。
冠島へ行く船は、ともうちを2艘並列に組み(「ともうち」を並べ、帆を立てたともいう。)その上に太鼓をのせて打ちならしながら、島に向った村もあり(吉田・和田・長浜・青井)、また、船を直接島に着岸させないで、一度海にとび込んで身を浄めて上陸もしました。 (白杉・吉原)
昔の参拝は、3月3日でしたが、5月5日に変更となり、現在の6月1日になりました。そして、出発も風を利用し、夕刻から夜にかけて南風にのって島に渡り、翌日午後から、あいの風(沖風)にのって帰る所もありました。(神崎・瀬崎)
「3月3日には、この島の神さん(女神)が、新井崎の男の神さんに会いに行かれる日で、不思議にこの日の前日の夜から朝にかけて神さんが島を出られる時は、それまで騒しかった島が静かになったと聞いている。そして女神さんが、新井崎に行かれる通り道は、静かな海であったという。」(古老談)…
〉
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