伊部郷(越前国敦賀郡)
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福井県丹生郡越前町織田 福井県丹生郡織田町 |
伊部郷の概要《伊部郷の概要》 敦賀郡六郷(伊部・鹿蒜・與祥・津守・従者・神戸)の一つ。少なくとも平安期中頃以前の敦賀郡は、現在の南条郡から丹生郡の一部までを含み、今の敦賀市よりも、北に広大な郷域があったと見られる。 どれもムズ古代地名だが、これらの郷で、今も遺称が残っているのは鹿蒜神社くらいで、あとは確かな証がなく、アバウトな推測説しか書きようがない、誰もがナットクのハナシはムリのようである。(しかも敦賀市より足を伸ばして調べた地はなく、旧敦賀郡内にはなるが、今はほかの自治体となっている地については、あくまでも机上調査によるもの) 伊部郷。高山寺本、刊本ともに訓がなく、何と読むのか不明であるが、イベか、古くはインベ(忌部・斎部)の意であろう。 滋賀県長浜市湖北町の伊部はイベと読む(浅井長政の本拠地)、岡山県備前市の伊部はインベと読む。 普通はイベと読んでいるようなので、当ページも一応それにならっておく。 天平神護2年(763)10月21日「越前国司解」(東南院文書)に、坂井郡田宮村の西北2条6粟生田里12坪に口分田を持つ農民として「敦賀郡伊部郷戸主」である間人石勝や秦日佐山の名が見える、 「三代実録」貞観15年(873)12月2日条に、 越前國敦賀郡人右大史正六位上伊部造豐持賜姓飯高朝臣。即改本居貫左京五條三坊。其先。出自孝昭天皇皇子天足彦國押人命也。と伊部を名乗る人名が見える。 敦賀郡伊部郷は実在したのだが、しかし今の敦賀市内には、それに該当しそうな地が見当たらない。 延喜式神名帳の敦賀郡式内社43座の1つに「伊部磐座神社」が見えるので、郷域はそのあたりであろう。 それは今の福井県越前市芝原か、あるいは丹生郡織田町岩倉とされる。こんな鹿蒜郷のまだ北、まだまだ北までも敦賀郡であったのであろうか。 伊部磐座神社(敦賀郡式内社) 越前市は、平成17年に、武生市および今立郡今立町が合併して発足したもので、旧武生市になる。JR武生駅前には総社大神宮があり、この辺りが越前国府の地と見られる。国府が置かれたのは、北陸地方の政治・経済・文化の中心地として栄えてきた歴史があるからで、紫式部も、少女時代をここで過ごしている。『和名抄』によれば国府の地は丹生郡であった。 ところが芝原は国府よりもまだ北に位置している、武生駅よりほぼ真北にほぼ2㎞になる。南から敦賀郡、次に国府のある丹生郡、そしてその北にまた敦賀郡があるというおかしなハナシになる。 芝原は、敦賀郡ではなく、丹生郡に属しており、当社を比定地とする根拠はあくまで伝承によるもの、確証となる文書はない。 吉田東伍は、「延喜式、伊部磐座神社は敦賀国に収めたり、一書にこれをば吉野村芝原の岩倉神に引きあてしは従い難し、芝原の地勢は丹生郡丹生郷の中にて、敦賀国に混入すべきものにあらず。伊部は忌部に同じ、織田の社司を忌部氏とす」。 伊部磐座神社は今の越前町(旧織田町)岩倉の地にあったとする説もあり、当社を比定社と断定するのはむずかしいようである。 県史は、「伊部郷は、天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)にみえ、奈良時代に存在したことが確かめられる。『延喜式』神名下の敦賀郡の項に「伊部磐座神社」がみえ、これは丹生郡織田町岩倉の地にあったと考えられているから、織田盆地一帯をその故地としうる。敦賀郡の郷としては北に片寄りすぎているようにもみえるが、『延喜式』には「織田神社」「天利劔神社」が敦賀郡の項にあることからわかるように、古代には織田盆地は明らかに敦賀郡に属していた。なお、織田町の東にある朝日町の佐々生からは「敦賀」の墨書銘を有する須恵器が出土している(「県内出土墨書土器一覧表」『資料編』一)。敦賀郡がこのように現在よりかなり北までのびており、丹生山地の多くが敦賀郡に属していたのは、敦賀津を中心とする海上交通を通じて、海岸部とその東側の山地一帯が一つのまとまりのある地域として歴史的に形成されてきたことを反映しているのではないかと考えられている。」としている。 織田町岩倉に、敦賀郡式内小社・伊部磐座神社があったという。今はそうした社はない、記録にもない。 同じ越前町の織田に越前国二ノ宮の劔神社が鎮座している。その境内社に織田神社がある。何れも敦賀郡式内社か。 ついでながら、当社は織田信長の本貫地である。当社の栞に、 劔神社と織田信長公
当社の鎮座地である越前町織田は、織田信長公の祖先の地です。織田氏は織田荘の荘官として、また越前国二の宮劔神社の神官として代々劔大神に仕えてきた由緒ある家柄でした。 応永年間二(一三九四~一四二七)に神官の子に「常昌」という立派な人物がいましたが、時の越前守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられて、尾張国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになりました。 織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代を勤めるまでになり、信長公の時には尾張一円を掌握し、更に「天下布武」の旗印のもと日本全国に雄飛するまでになりました。 信長公は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊崇し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と領内の治安に尽くしています。 天正十年(一五八二)、信長公は京・本能寺で壮絶な最期を遂げ、天下統一の夢は消えましたが、織田の人々は信長公の功績と威徳を偲び、御霊を境内の小松建勲神社に合祀しました。 織田氏の家紋が「織田木瓜紋」(五つ木兵紋)で、当社の神紋と同じ紋章であるのは、劔神社と織田家の深いつながりを示しています。 劔神社の歴代の神官は忌部氏である。 『新撰姓氏録抄』 山城国諸蕃。百済。伊部造。出レ自二百済国人 乃理とあったり、努利、努理とあったりするが、百済から来たと自称する。姓氏録に、平安左京の調連、右京の民首、河内の水海連・調日佐・山城の民首・伊部造などの祖ということになっていて、応神天皇の世に渡来し、孫を安久太、その子を弥和、次を賀夜、次を麻利弥和と言った、顕宗天皇の世に、絁・絹の様を献上したので調首の姓を賜わった、という秦氏と似た伝えを持っている。また、 百済というか百済に近い賀夜方面からの大きな渡来拓殖産業最新技術集団であろうか。伊部氏はその一派のようである。 越前町の辺りには越前焼きとか越前カニとか、古そうな有名な伝統産業がある。 「延喜式」神名帳に見える敦賀郡43座の1つ「伊部磐座神社」の鎮座地は、今の越前町岩倉と推定され、伊部郷は織田盆地一帯に比定されている。 伊部郷の主な歴史記録『大日本地名辞書』和名抄、敦賀郡伊部郷。○今本郡に入り、白山村織田村及び城崎、四箇浦、常磐の数村是なり、北は越前岬越知山に限り、山谷頗広く、沿海亦三里許。 延喜式、伊部磐座神社は敦賀郡に収めたり。一書に之をば吉野村芝原の岩倉神に引きあてしは従ひ難し、芝原の地勢は丹生郡丹生郷の中にて、敦賀郡に混入すべきものにあらず。伊部は忌部に同じ、織田の社司を忌部氏とす。 補【伊部磐座神社】 ○神祇志料、今丹生郡飯部郷芝原村磐山にあり、 按い此地近傍に石をとるべき所なきに、社地は人力もて運び難き大盤石を畳み積敷たる磐座なりと云り、 ○今吉野村大字芝原。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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