従者郷(越前国敦賀郡)
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福井県敦賀市 福井県敦賀郡 |
従者郷・従省郷の概要《従者郷・従省郷の概要》 敦賀郡六郷(伊部・鹿蒜・與祥・津守・従者・神戸)の一つ。少なくとも平安期中頃以前の敦賀郡は、現在の南条郡から丹生郡の一部までを含み、今の敦賀市よりも、北に広大な郷域があったと見られる。 どれもムズ古代地名だが、これらの郷で、今も遺称が残っているのは鹿蒜神社くらいで、あとは確かな証がなく、アバウトな推測説しか書きようがない、誰もがナットクのハナシはムリのようである。(しかも敦賀市より足を伸ばして調べた地はなく、旧敦賀郡内にはなるが、今はほかの自治体となっている地については、あくまでも机上調査によるもの) 従省郷(刊本)、従者郷(高山寺本)。高山寺本に「之度无倍下同」の訓注と案内のようなものが書かれている。シトムベと読む。「下同」というのは次の丹生郡にも同名の郷があり、それも同じように読む、の意味だと思われるが、ところが刊本には従省郷とあり之土無の訓注があるが、高山寺本にはこの郷は記載されていない、何かのモレであろうか。従省郷ではなく、従者郷と書くのが正しいようである。読みはシトリ、シトム、シトンとか。 皇極天皇三年紀に東方儐従者(あづまのしとべ)(儐は前で導くこと、従は後に従うこと)、安閑天皇元年紀に僮豎(しとりへわらは・少年の従者のこと)。シトリは後執部(しりとりへ)の義で、最後に行く従者のことという。地位は低く中国ではこうした人々は奴婢であったという。日本はその文字だけを真似ているので、こう書かれていても社会的地位は同一でないようで、名といい口分田を持っていることといい普通の良民でなかろうか。プロの従者ではなく、何か通行があれば従者役に駆り出されたのであろうか。 「行く」と言っても、手ぶらでついて行けばいいのでなく、荷を担いで行く人足のことである。 登山隊の後方から同行するヒマラヤのシェルパのような、荷物担ぎ人足である。プロになると100㎏くらいは平気とかいうが、敦賀郡は官道・北陸道が通り、官物や官人、私物私人の列は絶えないだろう、しかし南北に愛発や鹿蒜の昼でも暗い難路がある、一歩踏み外せば命を一つ失う命がけ、牛馬も通さず、鹿や猪や犬すらも震えて戻ってしまいそうな、夜道に街灯などあるはずもない、狼が出る、ミヤコ人が見たこともないような難路である。 長徳2年(996)に、越前へ下向するため塩津山(深坂峠・愛発深坂追分の質覇村峰神社のあたり)を父とともに越え行った紫式部。 「知りぬらむ (従者たちよ、お前たちも、人生の道は、この峠道のように辛いものと知っているだろうに) 従者たちが「何度越えても、なんとも難儀な険しい道じゃ」と愚痴ってへたばっているのを見て詠んだとか。 人の道は、きびしくつらいものと知ってるでしょ、これくらいでへたってどうするの。彼女は23歳、元気溌剌なお姫様であったよう。 鯖街道の担ぎ人、ボッカ(歩荷)と呼ばれた塩の道の担ぎ人の先輩であろうか。 道があるだけではどうにもならない、こうした人々がいないことには機能は発揮できない。 こうした人々が先で、道は後で次第にでき整備されていったものであろう。国家成立以前からの人々である。 史料としては、福井県史などによれば、 「越前國司解」に 分貳伯玖歩〈質覇郷戸主神廣嶋口分〉などとあるという。 この文書では何郡の質覇郷か不明だが、「延喜式」神名帳の敦賀郡卌三座のうちに「質覇村峯神社」が見える、九条家本・武田本は質覇に「チハ」の訓を付しているが、質覇郷は敦賀郡にあったことになる。また吉田東伍は質覇郷は従者郷と同一と見ている。 質覇郷これはまた何であろう。 天平神護2年10月21日越前国司解(東南院文書)によれば、坂井郡田宮村西北2条6粟生田里の口分田所有者として神広島・物部広田ら「質覇郷」の農民の名前が見える。質覇は神名帳の訓ではチハたが、『和名抄』で備後国御調郡の「佳質」郷を「加之止」、伊勢国朝明郡の「訓覇」郷を「久流(留)倍」と読んでいることから考えると、「質覇」は「シト(ン)ベ」と読んだことが明らかであり、これは従者郷と同一のものと見られる。と県史はいう。 敦賀郡式内社の質覇村峯神社はどこにあるか。今はないが、愛発深坂追分に鎮座の日吉神社がそれという。「敦賀郡神社誌」に、「延喜式神名帳、敦賀郡質覇村峰神社とあるは、是即ち當社であると云ふ。」とある。これがマコトならば、従者郷(=質覇郷)は愛発の山中にあったと見られる。吉田東伍は「敦賀津守郷の南なる山野を総べ、今の粟野中郷愛発の三村に当るごとし。」としている。 ここの民が坂井郡田宮村に口分田を持っていたというのか、架空のオハナシのようなことである、それとも本籍本貫地が従者郷であって現住所は坂井郡田宮村にあったのであろうか。 中世文書になるが、元亨元年(1321)7月13日付仏念等譲状(慈眼寺文書)に「侍都部郷内宅良村友貞名主職事」とある、康正2年(1456)造内裏段銭并国役引付にみえる「越前国従都郷」、また寛正5年(1464)8月の大塩八幡宮縁起(八幡神社蔵)に「敬白越前国従都部郷之内大塩八幡大菩薩御縁起之事」、文明6年(1474)11月29日付朝倉孝景執達状(慈眼寺文書)に「従都部郷内三尾河内八飯村」とある。という。 これらの「侍都部郷」が越前国敦賀郡従者郷の後身だとみれば、その郷域は現武生市南部の日野川流域大塩谷、現南条郡今庄町北部の田倉川、同町中央部日野川上流域の八飯にかけての地域と考えられる、という。中世の「従都部郷」が日野川上流域一帯に比定されているから、日野山山麓以南の日野川上流域が郷の故地であろう。丹生郡にも従者郷があったが、郡界をはさんで隣接していた可能性が高い。という。 鹿蒜側にも従者郷があったことは疑いないが、街道の重要性は愛発の方が上であろう。愛発は幹線、鹿蒜はローカルであろうが、両地域にあったのかも知れない。 従者郷の主な歴史記録『大日本地名辞書』従者郷丹生郡にもあり、後世従部に作る、此なるは後に聞えず、敦賀津守郷の南なる山野を総べ、今の粟野中郷愛発の三村に当るごとし。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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