丹後の地名 越前版

越前

鹿蒜郷(越前国敦賀郡)
福井県南条郡南越前町南今庄(帰)


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福井県南条郡南越前町南今庄(帰)

福井県南条郡鹿蒜村

鹿蒜郷の概要




《鹿蒜郷の概要》

敦賀郡六郷(伊部鹿蒜與祥津守従者神戸)の一つ。少なくとも平安期中頃以前の敦賀郡は、現在の南条郡から丹生郡の一部までを含み、今の敦賀市よりも、北に広大な郷域があったと見られる。
どれもムズ古代地名だが、これらの郷で、今も遺称が残っているのは鹿蒜神社くらいで、あとは確かな証がなく、アバウトな推測説しか書きようがない、誰もがナットクのハナシはムリのようである。(しかも敦賀市より足を伸ばして調べた地はなく、旧敦賀郡内にはなるが、今はほかの自治体となっている地については、あくまでも机上調査によるもの)

鹿蒜郷
どう読むのか。高山寺本に加比留、刊本には加倍留の訓注がある、カヒルあるいはカヘルと読んでいた。
郷域は今の敦賀市内にはなく、木の芽峠の北側、今の福井県南条郡南越前町南今庄(帰)を中心とする日野川の支流・鹿蒜川の流域一帯と見られる。ここには敦賀郡式内社の鹿蒜神社と鹿蒜田口神社がある。同じように式内社の加比留神社も掲載されているが、所在不明とも二ツ屋の日吉神社であるという、もしかするとこの社は鹿蒜神社と重複かも…
中世は加恵留保、帰ノ里と書かれる。
近世の帰村は江戸期~明治22年の村名で、今の鹿蒜神社周辺の戸数30戸余の集落名。明治22年鹿蒜村の大字となった。
近代の鹿蒜村は、明治22年~昭和26年の南条郡の自治体名。帰・新道・大桐・山中・二ツ屋の5か村が合併して成立した。旧村名を継承した5大字を編成。役場は今庄村との組合役場。昭和26年今庄村の一部となり、当村の5大字は今庄村の大字に継承された。平成17年、南条郡南条町、今庄町、河野村が合併して、南条郡南越前町が発足した。
近代の帰は、明治22年~昭和37年の大字名。はじめ鹿蒜村、昭和26年今庄村、同30年からは今庄町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北32間、戸数33、人口は男73・女83。昭和38年に帰から南今庄に字名変更、バス停名は帰のまま。

『今庄町誌』に、
鹿蒜郷は加倍留(カヘル)又は加比留と訓ずるのであり、南条郡旧鹿蒜村及び旧今庄・旧堺村の一部を籠める地方となろうし、同じく天平神護二年(七六六)の東大寺庄券に郷名が初見される。とある。
鹿蒜郷は昭和26年まであった南条郡鹿蒜村に比定されている。鹿蒜が転化したと思われる大字「帰」に式内社鹿蒜神社があり、旧鹿蒜村では最も古い集落と考えられる。ここの地籍図をみると、「中倉」「飛馬谷」など駅家とかかわりのある小字があるので、このあたりに鹿蒜駅が置かれていたのかもしれない、という。官道は今庄・湯尾峠を経由して淑羅駅に至る。古い北陸官道が通り、紫式部も通ったという。国鉄の北陸本線も当初はこの地を通っていた。昭和37年の北陸トンネルの開通をもって廃止。線路は県道207号今庄杉津線に転用されたという。
ウソみたいなハナシであるが、本当の歴史で、杉津あたりからは当初の北国官道のだいたいのルートになる。地図と鉄道のブログ」様のブログより↓



天平神護2年(766)10月21日越前国司解(東南院文書)によれば、坂井郡田宮村の西北2条6粟生田里に口分田を持つ農民として「鹿蒜郷戸主」の物部兄麻呂・服部否持の名が見えるという。

鹿蒜道・鹿蒜山
可敝流・帰とも書き、帰山路ともいう。敦賀津から越前国府へ向かう古代官道の山越え道。鹿蒜駅を通ったことによるという。敦賀から舟で敦賀湾東岸へ渡り、杉津か五幡のあたりに上陸し、そこから背後の山地を日野川上流の谷へ越える。その道筋の詳細は不明であるが、敦賀市杉津-山中峠-南条郡今庄町と見られる。道筋に鹿蒜の遺称地という帰村(南越前町南今庄)があり、背後の山地が帰山だともいう。
鹿蒜街道が通る周辺の山々を旅人たちは鹿蒜山と呼んでいた、一つの山でなく、山々であり、この山といってどれか特定の一つの山を指すものではないようである。
天長7年(830)に木ノ芽峠道が開通して官道となると山中峠を通る道はさびれたが木ノ芽峠道も帰村を通ったので、後にはこの道も帰道・帰山路と呼んだ。

鹿蒜駅
「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に見える越前国8駅の1つ。九条家本は「カヘル」の訓がある。高山寺本「和名抄」にも駅名がある。北陸道の駅家で、駅馬5匹を常備した。敦賀の松原駅から当駅を経て、淑羅(シクラ・シラキ)駅に至った。
叔羅駅は日野川の流域にあったと思われ、この川にそって下れば越前国府に至った。今、越前市三ツ口町に「叔羅(しくら)」のバス停がある、そのあたりであろうか。
「叔羅」「淑羅」は漢字通りに読めばシュクラだが、シラと読むのでなかろうか。シラは新羅(シラ)の意味であろう。

平城宮出土木簡に「返駅子戸主大神部宿奈戸同□(草冠に放)太調三斗」と墨書したものがある。返駅の「返」はカエルと読むのであろう。
「万葉集」巻18に大伴家持が、「可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五蟠(いつはた)の坂に袖振れわれをし思はば」と詠んでいる。以後、越路の「かへる山」として歌枕になる、しかし現地を踏んで詠まれた歌は必ずしも多くない。「類聚国史」巻83正税の天長7年2月庚午条に、越前国の「鹿□嶮道」を作るため百姓「上毛野陸奥公□山」に当国正税300束と鉄1,000挺を賜ったとあるのは鹿蒜道と見られている。


カヒルの意味
蛾の古語はヒヒル、神蛾はカムヒヒル、ここからカヒルになったの説があるが、かなり無理なこじつけ。式内社・鹿蒜神社、鹿蒜田口神社などが鎮座しているのだから、その地の地名が元であろう。
県史は、「今庄には新羅神社があるなど、日野川の上流は渡来人とくに新羅人とのかかわりが深かったと考えられる。」としている、大伴家持が叔羅川と詠っている川は日野川のことで、それは新羅川であったことがわかる。鹿蒜川はその上流支流であり、そうした関係の地名と思われる。
カヒルのヒルはフル(村)の意味と思われる、カヒルは大きな村の意味だが、シ音が落ちたと見れば、カシハラ、カサハラ、クシフルなどと同義で、大新羅のことか。大は美称だから、鹿蒜とは新羅の意味でなかろか。カという美称がついていて、聖地地名であろう。

鹿蒜郷の主な歴史記録

『大日本地名辞書』
鹿蒜(カヘル)
和名抄、敦賀郡鹿蒜郷、訓加倍留。○今南条郡に入り、鹿蒜村。今庄村、鹿見村と云ふ是なり、郡の南偏なる山中にして、近江美濃の両国堺にも接す。今今荘駅の西、杉津浦の東北なる山村を特に鹿蒜と為し。大字帰、二屋(フタツヤ)、新道等あり。延喜式敦賀郡鹿蒜神社は大字帰にありて、帰八幡と云ふ。○帰は又中世海路(カイロ)に作る、盛衰記燧城陣取の条に「西は海路、新道、水津浦、(中略)還山の麓、西は経尾と名づけ、東は鼓岡と云ふ其間二町には過ぎず」など云へり、延喜式鹿蒜駅と云ふは二屋の地なるべし、此と杉津浦の間に鉢伏山あり、之を踰ゆるを帰山と云ふ。
補【鹿蒜郷】 敦賀郡○和名抄郡郷考、加倍留、神名式鹿蒜神社、又加比留神社、○兵部式、鹿蒜駅馬丘疋、○節用集、帰山、○今按、名勝志に今は南条郡といふに入て海路山と書り、今庄の宿より西の方十余町にて敦賀路にかへる村あり、其上の山をいふといへり。○名所方角抄、建俣歌合に帰の字なり、この山は西東へ遠し、海道は南の麓なり。
補【鹿蒜神社】 ○神祗志料、今南条郡帰村に在り、八幡と云、凡其祭八月十五日之を行ふ(越藩拾遺・神名帳打聞・福井藩神社取調帳)○同、加比留神社。按、加比留は神蛾(カミヒル)の義にて、気比神社の下に記せる白蛾の故事により祭れる神にはあらじ歟、和名抄に鹿蒜郷あり、本郡に五幡村加倍留山あり、新古今集に「忘れなん世にも越路のかへる山いつはた人に逢むとすらん」とよめる、即此地也、神社も此にありしなるべし、姑附て考に備ふ。

神戸(カンベ)郷。和名抄、敦賀郡神戸郷。○今詳ならず、持統紀に「越前国司献白蛾、詔曰獲白蛾於角鹿浦上之浜、故増封笥飯神二十戸、通前」とある神戸なり、然らば其浦上とあるに当り、松原村并に東浦村(以上本郡)及び河野村今(南条郡)なるべし、敦賀海湾の沿岸とす。
抑敦賀郡の属郷なる鹿蒜伊部゙并に河野浦等の諸地が懸隔して木目嶺鹿蒜山の外に在りしは、其事故のありしなるべし、堺の遠近に相して郡界を立つるは、当然の理なるに、斯く丹生今立の近堺をば、敦賀の属郷と為されしは、気比神戸の中なれば、此便宜に任せての事ならん、而も其神戸は郷里過大なれば、鹿蒜伊部并に河野等を分置されし歟。○延喜式加比留神社あり、持統紀に浦上浜に白蛾を得たりと云、蛾は即神蛾(カヒル)なるべしと説くものあり、然らば此社は東浦にもやある。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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