丹後の地名 越前版

越前

與祥郷・与祥郷(越前国敦賀郡)
福井県敦賀市


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福井県敦賀市余座

福井県敦賀郡東郷村余座

與祥郷・与祥郷の概要




《與祥郷・与祥郷の概要》

敦賀郡六郷(伊部鹿蒜與祥津守従者神戸)の一つ。少なくとも平安期中頃以前の敦賀郡は、現在の南条郡から丹生郡の一部までを含み、今の敦賀市よりも、北に広大な郷域があったと見られる。
どれもムズ古代地名だが、これらの郷で、今も遺称が残っているのは鹿蒜神社くらいで、あとは確かな証がなく、アバウトな推測説しか書きようがない、誰もがナットクのハナシはムリのようである。(しかも敦賀市より足を伸ばして調べた地はなく、旧敦賀郡内にはなるが、今はほかの自治体となっている地については、あくまでも机上調査によるもの)


與祥郷(刊本)・与祥郷(高山寺本)と書かれているが、いずれにも訓注がなく、何と読むのか不明である。そのまま読めばヨショウだが、どうにも地名らしくない。ヨサカ、ヨサキ、ヨサチといった呼び方をするのではないか、あるいはヨソ、ヨサかも知れないと思われる。

 『和名抄』以外の古代史料としては「造寺所公文」に、
大神黒麻呂〈年四十四〉越前國敦賀郡与祥郷戸主神人根麻呂戸口  天平十七年九月廿一日
丹斤量定文の古紙に包んで納められたという。天平十七年は西暦745年で、東大寺の大仏建立のただ中の時代。
戦国期の永禄元年(1558)5月1日の天野景重寄進田地請文(地元の「善妙寺文書」)に「在坪ハ与祥村之西ニ有」と見え、天文23年(1554)に景重の親が善妙寺に寄進した地を安堵している。この地は、永禄元年6月5日の善妙寺領常住分新寄進注文案(同前)で「在坪ハよさ村之西有」とされている。同日付の善妙寺領目録(同前)には「よさ村之前」「よさのうしろゑほしかた」「よさの前竹の腰」「よさの西」などと見える。慶長3年の津内村検地帳写には「よさ」を肩書きに持つ藤大夫が見える(布施美術館所蔵文書・敦賀市史史料編)という。

吉田東伍にならってか、市東部越坂(おっさか)付近と推定もされている、しかしそれはもしヨサカと読めば、ということであって、本当にヨサカと呼んでいたかは不明である。
中世の善妙寺文書を見れば、与祥村=よさ村であることがわかる。與祥はヨサと読むのが正解でなかろうか。
今も余座(よざ)という所があり、この辺りの一帯、笙の川の中流・上流域、越坂も含まれるが、木ノ芽峠あたりまでが郷域でなかろうか。

丹後にも与謝郡があり、ヨサあるいはヨザと呼ばれる。
与佐伎(よさき)神社(但馬国城崎郡式内社)(豊岡市下鶴井)。キは村のことであろうか。この地もヨサであろうか。ヨは接頭語で意味はない。サは新羅や加耶の民族自称名と思われる。日槍さんが開発された土地であろうか。

與祥郷・与祥郷の主な歴史記録

『大日本地名辞書』
与祥(ヨサカ)郷。和名抄、敦賀郡与祥郷。○ヨサカと訓む歟、今東郷に越坂(ヲッサカ)村の大字あるは、ヨサカの訛なるべし、即東郷にあたる、敦賀の東北なる木目峠の山谷を云ふ。
 梓弓つるがの山を春こえて帰りし雁は今ぞ啼くなる、〔夫木集〕



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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