丹後の伝説:9集 |
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麻呂子親王と土蜘蛛退治の伝説を集めてあります。 日子坐王と丹波道主命も含む。 このページの索引 青葉山の土蜘蛛(高浜町) 伊也神社(綾部市広瀬町) 大江山鬼退治伝説(加悦町) 鬼嶽稲荷神社(大江町) 駒返しの滝(大宮町) 七仏薬師伝説(舞鶴市) 白ミズミと小判(大宮町) 立岩と麿子親王(丹後町) 日子坐王・丹波道主王伝説(綾部市) 飯宮(=八坂神社・綾部市上杉町小嶋) 麻呂子親王伝説(網野町誌) 麻呂子親王の鬼退治伝説 麻呂子親王の土蜘蛛(加悦町誌) 麻呂子親王の鎧(福知山市野花) |
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『加悦町誌』(S49.12.1)に、 (麻呂子親王と土蜘蛛)
麻呂子親王と勢籏家 与謝、山河に観音堂があって、そのそばに勢籏家という、麻呂子親王の鬼退治に供御した家があり、この家に名槍(刀剣も)があって、これがたたるといわれた。 そこで元伊勢の神主がこれを借受け、親王の墓碑(石の祠)を祭るため、先祖講を開いた。これを 六兵衛屋敷 麻呂子親王の膳部の役になった家で、明治の頃落ちぶれ、男の子は無く、女の子が石川村へ嫁入りされたという。屋敷跡は与謝段の坂で、古銭が埋まっているといわれるがその後田地となる。 この屋敷に庭石の良いのがあり、村人が金剛寺へ持参した。ところで、当時の住持は毎夜夢に、石が六兵衛屋敷に帰りたいと泣くので、これを帰した。そして宅地に埋めた。 なお、屋敷には、御所桜の立派なものがあり、与謝小学校の校庭に移植、親しまれていたが、現在の小学校改築の際伐採された。 土蜘蛛退治 大江山に土くもという山賊が住み、この地域を荒していた。土ぐもとは、穴の中に住み、しばしば朝廷の命に服さない未開の民であった。 用明天皇第二王子、麻呂子親王は、この山賊を退治するため丹後へ征討に向った。親王は、温江から大江山に登り、途中「サガネ」で休憩、その時カブトをとり、ある岩に置く、その後この岩をカブト岩と称し、現にその地名が残っている。その「サガネ」から「横百合」という土地を経て、休み石のある場所に着いた時、首に鏡を掛けた犬が現われて、山賊の住む巌窟に案内をした。 こうして土蜘蛛は滅ぼされ、大江山がもとの姿になった。犬の現われた場所を犬つくといっている。
『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 …麿古親王が三上山の賊を退治に来た時、一人の老翁が頭に鏡を頂いた白毛の犬を献上して道案内をさせたので、鏡に賊の姿が写ってたちどころにそのありかがわかって誅せられたという話があり、
また親王に 大江山の鍋塚は麿古親王が死んだ乗馬の鞍を埋めたと伝え、墳らしいものがあるし、大虫神社は鎌倉の頃まで大江山の池ヶ成にあって、親王もここに身を寄せて賊を退治したといい億計、弘計の二皇子もこの社家にかくまわれたと伝えられている。
『網野町誌』がまとめているので、そのまま引用させてもらいます。 麻呂子親王伝説
『紀』の用明天皇条に、「葛城直磐村が女広子、一の男・一の女を生めり。男をば麻呂子皇子と曰す」、とあり、前文から、麻呂子が用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟に当たることがわかる。麻呂子についての記事は『記』・『紀』を通じてこれだけしか見当たらず、丹波・丹後に流布している麻呂子親王伝説は、まったく当地方独自のものということができる。しかも、この伝説の初見記録は近世初期のものという研究がある。(『麻呂子伝説の研究』福知山市史編さん委員会 芦田完氏)さてその伝説は−麻呂子は用明天皇の命を受けて、鬼賊討伐のためのいくさに発つ。それは山城・丹波の境あたりからはじまって、現京都府(途中、現兵庫県域にも少々入り込む)を文字どおり南北に縦断する長い道のりのもので、 ところで麻呂子は長い征旅の途次、鎮魂と征伐の成功を念じて、七体の「七仏薬師像」を刻み、現舞鶴市大浦半島(多禰寺)以北の地域の七か寺に分置してこれを祀ったという。竹野郡内では元興寺・神宮寺・等楽寺三か寺の名が挙げられている。 このように、さし当たって麻呂子伝説の波紋は網野町に及んでいるとはみえないが、それでも『丹後州宮津府志』巻の五に、「鏡掛松」として、『竹野郡浅茂川明神今云奈古の社の側にあり、枝ぶり見事なる松なり。俗説にいふ、金丸親王当国鬼賊退治の時導きせし白大頭に戴きし鏡を此松に懸しより名くと…』などとあり、浅茂川明神とは島児神社を指すものと思われる。しかしながら「白犬頭に戴きし鏡」を松に懸ける話は、すでに大江山付近でのたたかいの時、現加悦町の大虫神社でも、また現丹後町立岩付近の竹野浦でも語られているエピソードでもある。 右の文中の「金丸親王」とは麻呂子親王のことであり、麻呂子はこのほかにも 注一 近年の美術史的調査(京都府教育委員会文化財保護課)によって、丹波・丹後の伝麻呂子親王自作の七仏薬師像の大部分は、藤原時代(平安後期)の作と判明している。 二 麻呂子は大江山付近で、四人の武将ともども奮戦しているが、この伝説が後世(室町期)、源頼光と四天王の鬼退治説話として再生されたのかもしれない。
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(〈伝承探訪〉も) 麻呂子親王の鬼退治 伝承地 竹野郡丹後町宮
第三十二代(『古事記』『日本書紀』によれば第三十一代)用明天皇は、大和磐余宮で天下を統治する時まで、この丹後の国に鬼賊が多く隠れ棲んで人々を悩ましていることを聞き、諸皇子のなかから討伐に向かう者を選び出そうとした。この時、皇后には四人の皇子、第一に厩戸皇子、弟二に久米皇子、第三に殖栗皇子、第四に茨田皇子がいた。また、蘇我大臣の辱名姫には田目皇子、葛城直磐村の娘広子には麻呂子皇子がいた。この麻呂子皇子は、勇ましいこと万人にすぐれ、 その才知世に類なく、神仏を篤く敬っていた。臣下を恵み、民衆を憐れんで、その徳は遠く広くまわりに及んでいた。このことによって、この丹後の国の鬼賊を退治せよという勅命が下された。 その時、彼は、勅命に従い、丹後の国に下向しても、鬼賊を追討して功名を立てることができないときは、その苦労が何もならないのみならず、天皇の政にきずがつき、また自分にとっては恥となってしまう。仏神の力を借りようと考え、まず宮中において七仏薬師の法を修め、また金の薬師仏一体を鋳造して護身仏としてお持ちになった。また、天照大神宮に祈誓をかけ、「この度の諸願が成就するならば、社殿をそこに立てることとします」とお誓いになり、兵を率いて征伐に向かわれた。 丹波篠村の川辺で、死んだ馬を土中に埋めるのをご覧になり、心のなかで祈誓して、「この度の鬼賊の征伐が成就するならば、この馬はきっと生き返ることになりましょう」とおっしゃって、この馬を掘り出しなさった。この馬は駿足の竜馬であった。今、ここを馬堀(現亀岡市)といっている。 皇子はこの馬に乗って、与謝郡におもむかれた。その地には、惣鬼、迦桜夜叉、土熊という三人の鬼を頭として、眷属が多数いた。皇子はこの国の大社籠明神社に参るべきこととして参拝をなさったが、その後に一人の翁が白い犬を連れて現われ、「この国は道筋が定かではない。この犬を道案内に用いよ」と言って、行方知れず消えてしまった。これはひとえに神の加護にちがいないと思って、皇子はこの犬の後に従って与謝村にお着きになった。しかし、悪鬼の棲んでいるようには見えなかった。ところが、この犬の額には物みなをよく照らす鏡が掛けられていたが、それに悪鬼がたちまちに顕れた。この犬は、今、温江大鏡大明神と崇め申し上げている。皇子はとうとう河守庄三上ヶ嶽まで攻め上り、平定なさった。このとき、土熊鬼だけは討ち洩らされたが、今の竹野の地で封じ込め、岩窟のなかに繋がれた。 この鬼賊を征伐された後、皇子は七仏薬師の像を自ら彫刻なさった。ここを仏谷といっている。第一に善名吉祥如来を祀る滝村(現与謝郡加悦町)の施薬寺、第二に宝月智厳光音自在如来を祀る河守(現加佐郡大江町)の清園寺、第三に金色宝光如来を祀る竹野郡の元興寺、第四に無憂寂勝宝吉祥如来を祀る竹野郡吉永(現丹後町)の神宮寺、第五に法界雷音如来を祀る溝谷庄(現竹野郡弥栄町)の等楽寺、第六に法界勝恵遊戯神通如来を祀る宿野(現宮津市)の成願寺、第七に瑠璃光如来を記る白久村(現舞鶴市)の多祢寺、の七ヶ寺がその七仏を祁っている。 竹野神社は、この皇子が鬼賊退治をされた後に、伊勢両宮を移されたものである。当国熊野郡市場(現久美浜町)の神社からこの神社へ斎宮を奉るのである。市場村に神の子が生まれると、その家の屋根に白羽の矢が立つといっている。それで、斎大明神と呼び申し上げているのだという。また、間人村というところがある。この母后が当国へお下りになり、そこでこの皇子がご対面になったので、対座村と名づけたのである。 「丹後名所案内」 〈伝承探訪〉 麻呂子親王の鬼賊退治の伝説は丹後・丹波地方に広範に伝承されている。 現在残されている資料のなかで、もっとも古いものは大江町清園寺に蔵される室町時代前期の作とされる縁起絵図で、この伝説が少なくともこの時期まで 遡るものであることは確実である。この寺は麻呂子親王が鬼賊退治を成し遂げた後、自ら彫り刻んだという薬師如来像を祀る、いわゆる七仏薬師の一つであるが、ここに掲げる七ヶ寺以外にも丹波地方の数ヶ寺がほぼ同様の伝承をもっている。 この伝説は、源頼光の酒呑童子退治伝説とその分布が重なり、その伝説との融合もみられる。 さて、この伝説の中心となっているのは、竹野川が日本海に注ぐ河口の宮集落にある竹野神社である。江戸時代後期の『丹後名所案内』には、麻呂子親王が鬼賊退治の成就した後に天照大神を祀ったことによって始まったとあるが、社記によると、垂仁天皇に仕えたこの地方の豪族の娘竹野姫が郷里に帰り、天照大神を奉斎したことに始まるとも伝える。本殿右には摂社斎宮神社があり、麻呂子親王はここに合せ祀られたとする。代々、神社の神官を勤めてこられた桜井家は麻呂子親王の鬼賊退治に従って功を成した人物の子孫と伝えられ、本殿の左にやや離れてある丸田社はその桜井家の祖を祀る。この神社の南、小さな山の向こうの山麓には討伐された鬼賊の墓だといわれる鬼神塚があり、またその反対側、神社の北の竹野川河口には鬼賊を封じ込めたとされる、立岩と呼ばれる岩があって、みごとな祭祀空間を形づくっている。江戸時代には、この鬼神塚・立岩のところで、神官と社人衆とによって、他の者には見ることを許されない、厳しい祭りが執り行なわれていた。この神社には『齋明神縁起』という江戸時代の縁起絵巻が伝来しており、この伝承はこうした神社の由来・祭祀の起源を説くものとなっているのである。 ウラニシ(北西の季節風)の吹く初冬の一日、鬼の封じ込められたという立岩には激しい白波が打ち寄せていた。
『丹後の民話』(萬年社・挿絵=杉井ギサブロー・関西電力・昭56)に、(挿絵も) 立岩と鬼
天皇三十三代推古天皇のころ、今の大江山に多くの鬼が住んでいたという。 その鬼は、大変乱暴で、村に出ては娘をうばい、旅人を殺しては持っている物をうばい、時には沖を通る船におそいかかったりして、目に余るふるまいばかりをしていたので、人々は毎日、おびえながら暮らしていた。 このことが天皇に知らされ、鬼どもを征伐することになった。そこで天皇は、用明天皇の第三皇子、麿子親王に鬼をたおせとお命じになって、討たせることにした。 麿子親王は大変勇気があり、すぐれた才能をもった皇子であった。 そして、親王の弟君、塩干、松干の二人の皇子にも鬼たいじに行くようにお命じになった。三人の皇子は、大神宮というお宮さんに参りお祈りをした。その時、三人の皇子に神のおつげがあり、立派な剣が授けわたされたという。 天皇の命を授かった麿子親王は、弟二人と戦いの用意をすませて、いよいよ大江山上ケ岳へ出発したのである。 京の都を出て丹波に入り、河辺を通りかかると、死んだ馬を土の中に埋めているところを見かけ、親王は、この時、仏神に誓いをこめて、 「私に、鬼をたおすことができるなら、この馬はきっと、生きかえるであろう」といった。これを聞いていた家来たちが、もしかしたら、生きかえっているかも知れないと、早速掘り出してみると、なんと、不思議なことに、死んでいた馬は息を吹きかえし、神馬によみがえった。(その馬が生きかえった所が、今の亀岡の馬堀という)親王は、その神馬に乗り、やがて与謝にはいった。そして、この国の大社、今の龍神社に参り、 「鬼たいじが成功しますように」 と祈っていると、ひとりのおじいさんが、額に鏡をつけた白い犬をつれてどこからともなくあらわれた。 「この度の鬼たいじに、この犬を連れて行かれるとよいでしょう。お役にたちましょう」 という。いい終わると、そのおじいさんの姿は消えていた。 皇子たちは、これこそ神の助けと思い、犬の道案内で与謝村まで来たが、鬼のようすが、まるでつかめなかった。 その時、犬が前へ進み出て、山にむかって激しく吠え出した。すると、犬の額についている鏡に太陽の光が反射しだし山を照らた。そのまぶしさに隠れていた鬼が姿をあらわした。 皇子たちは、それっとばかり一気に攻め登り、鬼の大将をのぞいてすべてをたいじした。勝目がないと、ひとり逃げた鬼の大将は、ようよう竹野の浜までたどりつき、岩穴に隠れていたが麿子親王に遂に打ちとられた。 そして、鬼がふたたび生きかえらないようにと、その岩穴の上に、大きな石をドシリとのせておいたという。 その大きな石が、竹野の、あの有名な立岩だという。浜に立っていると、今でも鬼がうなっているような「グワーグワー、ゴーゴー」という音がするという。 (袖志・村上正宏様より)
『市史編纂だより』(昭49.1)に、 七仏薬師
(浜) 浅奥茂登雄さん 昔、当地にテンコ、カルヤシヤ、ツチクルマという三人の悪者の頭がいて付近を荒し回っていた。住民が苦しめられているということをお聞きになった時の帝(みかど)は、さっそくこれを平定するようお命じになつた。 討伐軍は必死になって賊を攻撃したが、テンコ(天駆?)は空を駆けて逃げ、カルヤシヤ(軽足?)は地上を疾走して逃れ、ツチクルマ(土車?)は素早く地下をくくり抜けて逃れてしまうので、手のほどこしようがなかった。 そこで帝(みかど)は麻呂子親王に討伐をお命じになった.親王は直ちに攻撃を始めたが、前者の戦いと同様、容易に討ち取ることか出来なかった。そこで親王は、もはや神仏の加護を受ける以外に方法はないと考えられ、直ちに七つの寺を建立、それぞれの寺に薬師如来を祭って戦勝を祈願された。そして無事、悪者どもを退治して都へ凱旋されたということだが、その時の御一体が多禰寺に伝わっている薬師如来だといわれる。
『天田郡志資料』(昭11年)に、 麻呂子親王の鎧
学校(上川口尋常高等小学校)のすぐ上に大きな廃家かある。『野花の森さん』と言えば、この近在にひゞいている旧家です。其の家が今では住む人もなく廃家となっている。風雨が荒すまゞにしてあるため、屋根は破れ.垣根は壊れて、草木が生え茂っている。 『甍破れては霧不断の香を焚き、扉落ちては月常住の燈をかゝぐ』の感がある。此の家に次の様な話が言い伝えられている。 今から一千二百年も前のこと、大江山の鬼退治があるよりもまだ以前、丹後のある孤島に鬼が住んでいて、附近の民を苦しめていた。時の天皇(用明天皇ならん)は皇子麻呂子親王に、その鬼を退治することを命ぜられた。其の時御道すがら野花の森家へお立寄になり、お肌着をおいて出立せられた。親王は鬼の住家にいたり、 苦戦苦闘を重ねついに御滅しになった。 この時親王が置いておかれたお肌着を、森家では麻呂子親王の鎧といって、今でも家宝として伝えられている。そうして代か変る毎に、この鎧を出してお祭する習慣かあるという。その時には身を清め、不潔な者はよせつけず、若し無理に近くに行くと、動けなくなるということである。又不思議な事には、森家ではこの鎧かあるために、昔から雷か落ちた事かないそうである。 (岡 野 弘一)
麻呂子親王よりもう一つ古い伝説を伝えている。 『綾部市史』に、 (日子坐王・丹波道主命伝説)
綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命。受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟宮神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。 もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。 これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。 『何鹿郡誌』(大正15)に、 八坂神社(綾部市上杉町小嶋)
東八田村字上杉小字島迫にあり。明治六年村社と公定。素盞鳴命を祀る。上杉全部之に属す。 例祭は十月九日。徳川時代飯宮山牛頭天王と称し、今尚世人多く「ハンノミヤ」と呼ぶ。現在氏子二百五十戸。 東八田村字上杉小字小島なる八坂神社には、永久五酉稔三月捜社麻多波牟宮神 の銘ある神鏡を保存せり、思ふに麻多は上杉付近の地名なること明らかにして、波牟宮神は「ハンの宮神」とよむべし。大正の今日土俗「ハンノミヤ」と奉称する者極めて多く、八坂神社といふ者頗る少し。 『京都府の地名』に、 谷氏陣屋跡(小字城山)に接し
永久五年なら1117年。ずいぶんと古い重要文化財まちがいなしだろうが、現在には伝わらないのであろうか。その頃は総社麻多波牟宮神と呼んでいた。 麻多は何だろう。日槍の妻は麻多烏(またお)。百済の王には末多王というのがいる。波牟はこれはヘビと思われる。
青葉山の土蜘蛛
丹後国と若狭国境にある青葉山は、その美しい姿から若狭富士とも呼ばれている。 崇神天皇のころ、その青葉山には土蜘蛛が住んでいた。頭は、“陸耳の御笠”といい、それはそれは恐ろしい形相をしていた。その頭を先頭に、土蜘蛛たちは山から降りては田畑を荒らしたり、家に入っては物を盗んだりと、村人たちを困らせていた。 このことを知った天皇は、弟の日子坐王を呼んでいった。 「青葉山の土蜘蛛が村で悪さをしていることは、そなたも知っておろう。何とか討ち捕らえてはくれぬか」 土蜘蛛退治を命じられた王は、すぐさま青葉山へと向かっていった。 するとどうであろう。王が山のふもとに着くとすぐに、あたりには異変が起こりだした。地面や山はごうごうと音をたてて揺れ、天からは神聖で荘厳な光がさし始めた。 「ま、まぶしい…」 あまりのまぶしさに、土蜘蛛たちは目も開けていられない。頭の陸耳は驚き、ころげるように山を下り逃げだした。それからどのくらいたったろうか。後を追いまわした王は、ついに陸耳を退治した。 それ以来、青葉山のふもとの人々は穏やかに暮らしたそうだ。
現地の案内板 鬼嶽稲荷神社
ここは大江山(千丈ヶ岳)の八合目海抜六一〇米のところ、頂上まであと約一キロです。ここ鬼嶽稲荷の一帯はブナの原生林で多様な植生がみられ多くの昆虫や鳥獣が生息しており、まさに野生の宝庫です。 昔、神社はもっと頂上近くにあったと伝え、人々は大江山のことを御嶽と呼んでいました。社伝では、往古、四道将軍として当地へ来た丹波道主命が父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立したと伝えてます。又、この一帯に修験の遺跡も多く残っています。本殿に向って右手の小祠(はしくらさん)も、その一つです。大江山は修験の山でもあったのです。 社殿が現在地に移されたのは、弘化年間(十九世紀中頃)と思われ、このとき伏見稲荷大社の分霊を勧請し、鬼嶽稲荷と名を改めました。以来、当地方の主産業であった養蚕の神、稲作の神として、農民達の篤い崇敬を受けてきました。本殿の前の狐の石像をご覧下さい。狐の尻尾は道祖神を思わせます。農民達の豊穣への祈りがこめられているのでしょう。 秋の早朝、ここからの雲海の眺めは絶景です。特に日の出の瞬間「ご来光」は神秘的で、美しい紅葉と共に、多くの来山者を迎えています。 案内碑 鬼嶽神社由緒碑
御鎮座ハ遠ク上古ニ係リ社伝ニ依レバ開化天皇之王子日子坐命崇神天皇之朝青葉山之巣賊土蜘蛛ヲ討伐之途北原ヲ経テ与謝大山御嶽ニ登リ神籬ヲ樹テ天神地祇ヲ祭リ祈誓ヲ罩メラレ神助ヲ得テ遂ニ妖賊ヲ亡シ皇化ヲ布カレ又其王子但波道主命四道将軍勅ヲ奉シテ山陰地方スイ撫ノ際父命之御遺跡ナル当社ニ奉幣祈願セラル爾来御嶽之神籬ト称シ上下之尊崇ニ厚シ平安朝ニ降リ丹後之国司在原棟梁屡々参向社殿ヲ建立シテ御嶽大明神ト崇メラル一條帝ノ朝当山ノ一部ニ悪鬼酒顛童子篭窟シ正歴元年三月源頼光勅ヲ奉ジテ追討ニ向ヒ当社ニ祈願神勅ヲ蒙リ悪鬼ヲ誅戮セラレシヨリ朝野挙テ崇敬シ鬼嶽大明神ト尊称スルニ至ル爾後累代国主ノ崇敬篤ク殊ニ宮津藩主本荘侯深ク敬仰アリ神号額ヲ揮毫奉納セラル弘化五年二月伏見稲荷神社ヨリ正一位鬼嶽稲荷大明神ノ神号ヲ贈ラレ上下遠近之崇敬聚マリ昭和十一年五月村社ニ昇格崇敬信徒京阪地方千五百余ニ及ビ神徳愈々顕著也 塩見愛泉識
『おおみやの民話』(町教委・91)に、 駒返しの滝と地蔵さん
周枳 坪倉 利正 昔、丹波や丹後に疫病がはやって、大勢がころころと死んだだって。その年は長雨が続いて不作で因っとったら、あっちこつちで盗賊が出るようになって、みんなが不安がっとったそうな。 それに大江山の鬼がおりて来てあばれただって。そんな年だて夏だちゅうのに、雹が降ったり地震までいったりしたそうな。みんなは、不作で因っとるわ、疫病で死人がでるわ、悪いことばっかり起こったんで、みんなが、今にもっと恐ろしいことが起るいうて恐がっとっただって。 そうしたら、ある日、都から麻呂子いうえらい人が、家来を大勢つれて、鬼を退治するいうて丹後に来なって、馬に乗った行列が野田川を渡って、岩滝から竹野(丹後町)の方に行こう思って、道戸谷まできなったら、大きな滝があって道が進めんだし、困っとんなっただって。百姓なら、脇の細い道を登って行くんだけど、馬をつれた大部隊ださきゃあ、もう進めんとあきらめて引返しなっただって。そいで、その滝のところを駒返しの滝ちゅうだそうな。そこの大きな石に地蔵さんがほったって、霊験あらたかだいうで、あっちこっちから参んなったそうな。 『大宮町誌』に、 駒返の滝地蔵
延利小字道戸 駒返しの滝という名の起りは麻呂子(丸子)親王の伝説に由来する。用明天皇の皇子麻呂子親王は勅を奉じ丹波丹後地方の鬼賊の退治に向かった時、馬を進めて道戸谷を通って鬼の隠れ住む竹野郡竹野に行こうとしたが、この滝にはばまれて進み得ず駒を返し道を転じて竹野へ進撃したという。それから起った名が駒返しの滝である。この滝は現在では巨石が急斜面に並列した中を道戸川の水が流れ落ちている所で、昔は大きな滝であったと伝えられる。 この滝の傍におよそ三米四方の巨石があり、その表に石地蔵が刻まれており、その左側に「貞和五四」と銘がある。貞和(北朝の年号) は五年までであるから「五四」は五年四月の意であろう。地蔵は六○センチに三○センチの舟型の凹みを作りその中に半肉彫に彫られている。この地蔵は三重城主大江越中守の作仏一千躰の中の一体で「言わざる」地蔵とする説があるが、年代からみて誤であるのは明らかである。貞和五年(一三四九)は南北朝の頃で足利尊氏の時代であるから越中守が一千鉢の仏像を作った応永卅四年を遡ること約七八年前である。この地蔵は古い地蔵てあり、霊験あらたかであつく地方の人々に信仰されている。かってこの地の新道が造成された時、人夫がこの像に放尿して祟をうけ腹痛二旬に及んだが、祈祷により快癒することを得たという。なお、駒返の滝の下の台地に不動明王を把る小祠がある。近時のものであるが、俚人の信仰厚く霊験あらたかであるという。 『丹後の民話』(萬年社・関西電力・昭56)に、 大宮町・白ミズミと小判
むかしむかし、遠いむかしの話だけんなあ。よいお爺さんと、悪いお爺さんがあったげな。よいお爺さんがなあ、抜(ぬけ)詣りしよう思ってなあ。人に知られんよう、晩げおそうに、地蔵様に詣っただって。そうして、地蔵堂の近くまでくるとなあ、中から、何んだか音がしとるだげな。それでなあ、そうと歩いて、堂のうら手に廻ってなあ。板の節穴から中をのぞいて見たら、なんとそこに、白ネズミがようけ集まって、地蔵様にぎようさんなこと小判を供えて、その上で唄を歌い乍ら、踊っとるだげな。 てんてんてんぐるま、あれあ、だあれの、てんぐるま。 おじぞうさんの、てんぐるま。ヨイ、ヨイ、ヨイトナレ。 言うて、小判の上で踊っとるだげな。白ネズミが、白ネズミがあんなことをしとる思って見とったら、大きな屁が、ぷん、と、出ただげな。しまった。 思っとったら、白ネズミが唄にして、 ぷんとなったは、ときのたいこ、 臭いはまっ香の香 ヨイ、ヨイ、ヨイナ。 言うて、踊っとるだげな。ようし、猫の鳴きまねしたろう思って、「にやおん、にやおん」言うたら、そいたら、白ネズミが、「そうら、猫がきたあ」言うて、跳んでにげたげな。よいお爺さんは、地蔵様に供えてあった小判を、ぎょうさん持って帰って、おばさを喜ばしたげな。そいたら、隣りの悪いお爺さんが、この話を聞いて、「わしも一つ白ネズミの小判を取って来たろう」思って、晩になるん待っとって、丑満時になったもんだで、地蔵堂に、そうっと、忍びよって見ると、やっぱし白ネズミが集まっとって、ようけ小判を供えて唄って踊っとるだげな。 てんてんてんぐるま、あれあ、だあれの、 てんぐるま。おじぞうさんの、てんぐるま、 ヨイ、ヨイ、ヨイトナレ。 言うて踊っとるだなあ。悪いお爺さんもなあ、猫のまねをして、 「ニヤオン、ニヤオン」言うただげな。そしたらなあ、白ネズミの大将が、「猫に小判、言うて、猫が小判もっていくはずがない。夕べの猫は合点がいかん。今夜も猫がきた。どんな猫だ見たろうや」言うてなあ。みんなをかくれさして、見とっただってなあ。そいたら悪い爺さんはそんなこと知らんと、「しめたっ」思って、供えてある小判を、ぎょうさん、取りかかっただって。そいたらなあ、それ見とった白ネズミが、猫だ思っとったら人間だったんでえ、木の陰からいっぴやあ出てきて、悪いお爺さんの手といわず足といわず、そこいら一面を、かんでかんでして、けがだらけにしただげな。悪いお爺さんは、小判取るどころか、白ネズミに、半殺しにされて、命からがら、家に戻ってきただって。 この地蔵堂いうのは、それから、ネズミ堂言うようになったげなし。ネズミ堂は (新宮・井上 保様より) 私は行ったこともないのでどんな所なのかわからないが、鬼退治のあるところ必ず宝物がありの感がある。 |
資料編の索引
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麻呂子親王伝説