京都府宮津市文珠天橋立
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社
傘松公園
西国28番札所:成相寺

郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海
|
天橋立の自然
《天橋立の自然的な概要》

回旋橋を渡れば、天下の名勝・天橋立

知らぬ人もないであろう名勝地で日本三景の一つ、この長さ3.6キロばかりの砂嘴を「天橋立」と呼ぶ。
宮津市江尻から文珠までの間に横たわる長さ約3、615m・幅19〜49mの砂嘴。全体は白砂におおわれ、約6、600とも8000とも10000本とも数えられるマツが林をつくる。黒松・赤松が最も多い。ほかにモチ・山桃などの闊葉樹が自生し、一部にはハマナスが生えている。
↓きみ知るや、橋立にハマナス咲く頃
↓北海道まで行かなくてもよろしいな。知床岬まで行かなくとも天橋立に咲く。




ハマナスの見頃は5月の連休頃、大天橋の中頃東側海岸や、小天橋に多く見られる。ちょっと木陰になるような海岸の砂地に群生する。バラの一種なので幹には小さいトゲがある。
橋立といえば黒松で、名のある立派な松だけでも相当にある。そうした命名松ではなくとも立派なものが多い(大天橋部分)
↓羽衣の松

↓千貫松

↓見送の松

↓なかよしの松

↓智恵の松。三本よれば、だそう。


↓すべての人のしあわのために歩きましょう。ここは太古からの聖地。聖者になったつもりで歩きましょう。
↓神々しい光輝く松並木、新たな命が芽生えていく

砂嘴は南の先端で分断され、北大半を大天橋、南を小天橋と呼んでいる。大天橋は江尻から南西に延び、天橋立中央を府道天の橋立線が通っていて、ここを歩いて渡る(歩くと約1時間。大きなエンジン(125t以上)のついた物は通行できない。レンタルサイクルが用意されている)。小天橋は伸びる方向が少し変わるが文珠の切戸(九世の戸)から南に延びている。
文珠とは廻旋橋で結ばれ、大天橋とは唐破風の↓大天橋で連絡している。
↓一字観上空から(坂根正喜氏の空撮)

どうしてこんなモンが海の中にできたのだろうかと、自然の不思議な創造物に素朴な疑問が湧いてくる。
砂嘴としての成因や発達には種々の仮説があるが、天橋立は安定したものでもなく、水流による海底の砂礫の堆積作用で生じた海中の砂州であり、強風にたなびく旗のようにその姿の変容は著しい。古図や諸記録と現地形は相違しており、特に江戸期以降の洪水による決壊や文珠沿岸の新田開発などにより、さらに砂州としての変容は著しい。といわれる。
↓これが現在の姿
↓室町時代の雪舟の水墨画、国宝「天橋立図」に描かれた図と較べてもわかる。ほぼ写実的に描かれたものと考えられるが、全体に短く、小天橋がない。

↓元禄頃の丹後国成相寺図にも小天橋はない。

↓貝原益軒の「天橋記」(元禄2)にも小天橋はない。

↓幕末頃に至ってもまだないが、少し伸びかけている。(丹後国成相寺図)。これらの絵は正確ではなかろうか。現在の松並木の松の大きさや、林相、木々の生え方などを見ているとそう思える。橋立神社から南の部分は幕末以降のものなのではなかろうか。

もともとは大天橋と小天橋は繋がって地続きだったものであるが、明治五年七月の大洪水で、今の大天橋(橋)↓の所で六十間にわたって決壊したという。

このHPの壁紙は安藤(歌川)広重の浮世絵「天の橋立錦絵」(嘉永6頃)↓の一部を勝手に使用しております。橋立明神が見えるが、小天橋については不明。
広重は天才、彼の浮世絵はゴッホも模写して学んだという、この絵なのかどうかは知らないが、この浮世絵も震える、全世界に強い影響を及ぼしそうな才能の持ち主だと私でもわかる。元絵はカラー、しかし色がない方が絶対によい…。古図はすべて出典は『郷土と美術21』。

不思議で美しい自然の景観を見せる天橋立は古来有名、すでに「丹後風土記」には、(古典文学大系本より)
天椅立
丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間に久志と云へり。此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。 |
デラシネの松
↓台風の被害のよう。地下水位が高く、根が育たないうちに幹ばかりが生長してしまった、ほかの樹木が育たない貧栄養地に育つ黒松にも次第に落ち葉などで富栄養化土壌となり、根をしっかり張る必要はなくなり、長い深い根がなく、頭デッカチの根無しの松、そうしたアンバランスな松が多くなり、橋立の松はコケやすい。落ち葉などは人力で取り除く必要がある。富栄養・過情報ブンメー国の過保護ブンメー人のようなものか。
もしや大津波でも来れば全滅、広葉樹が広がれば全滅、かも知れない、の危機上の美であろうか。


柔らかい砂地の上にこんな根しかない。力学上は無しに同じ。根を踏んで弱らせたりしないようされたい。
平成16年の台風23号によって247本もの松が倒れた。「双龍の松」も倒れた↓。

気仙町の高田松原防潮林(陸中国立公園)の7万本もの黒松・赤松が全滅したが、10メートルを越すような津波に襲われれば橋立も同じかも知れない。
↓ええとこだらけで、カメラ持ってあるけば、簡単にやっても丸一日仕事になる。生涯を捧げてもいいような所ではある。

天橋立は土地の人々には、神々が作られた神々の住み給う聖なる土地と受け取られ、信仰の対象として大切にされてきた、後世には智恩寺の境内地ともなり、天地和合のシンボル橋立によせる畏敬の念は橋立を人為的破壊から守ることともなり、現在へも受け継がれ、種々の橋立保存運動が熱心に続けられている。

道祖神か石仏か。屋根の上にカラスが一匹とまっていて、こちらを睨んでいるのでコワイ。ここは神の領域のよう。このありたに小女郎キツネもいたという。

↓一番巾の狭いあたり、淡松(うすまつ)と呼ばれる。江戸期の図ではよくわからないが、明治期の写真では、このあたりでは松がずいぶんとまばらで少なく、濃松と較べるとまさに淡松である。

「天橋立を世界遺産に」といった、運動も始められた。もっともっと綺麗な海と松原、本来のびっくりするほどの美しい自然環境を取り戻すことが第一の課題だろう、古代の信仰もも少し研究してかかる必要もありそうに思うが、観光客獲得目的やよそもやっとるから式ではなく、もしや本気のものならば「観光」や「生活」や「開発」との釣り合いが難しくなろう、もうちいと自然を大事にしたら、と私らでも感じるような所もある。

現状のような橋立のありかたや認識水準でいいのかという根本的な見直しもあろう。こんなものはそうざらにあるものではない、よく保存してくれたものと先人へは感謝に堪えない、後世人もしっかり見習わねばなるまい。将来は恐らく人間の活動はさらにさらに厳しく厳しく制限され、タバコ一本吸えない日がまもなく必ず来よう。それも致し方あるまい、なにせ世界にも稀な美しい世界遺産、後世に大切に引き渡さねばならぬ貴重きわまる自然・文化遺産、喜んで辛抱しようではないか。
金樽いわし(金太郎いわし)
天橋立の内海(阿蘇海)で獲れるイワシを金樽いわし、あるいは金太郎いわしと呼んで珍重してきた。私は食べた記憶はないが、大昔からの伝説のイワシだけあって、とてもおいしいものだという。こんな案内板がある。→
金樽いわしの話
この天橋立の内海でかつて大量に獲れた 「金樽いわし」は、別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、その歴史も非常に古く、一千年以上も昔から丹後の名産として名高いという。したがってこの鰯にちなむ伝承も多く、古くは平安時代の中頃、丹後の国司藤原保昌が金の樽に酒を入れ内海で酒盛をしていたところ樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが樽は見つからず、かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平会戦のころの平忠房であるとか、江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。
とにかくこの金樽いわしは美味であったといい、評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、宿の朝食に出された金樽いわしのオイルサーデンのおいしさに、「ひよっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか」(『考えるヒント』)と、感動したというエピソードもある。
名月や 飛びあがる魚も 金太郎 蝶夢
宮津市教育委員会
伝説の金樽いわし(金太郎いわし)も、乱獲と汚染で一時は絶滅状態だったが、内海の浄化作業も進み、ここ最近は少し獲れるようになっているという。黄金色に輝く当地だけのマイワシで、獲れれば一匹千円の値がつくこともあるという。
金樽いわしを口に入れるのは、いまとなればチョットムリかも知れない、その代わりといってはナニだが、金樽いわしの往時の伝統を引いた「天橋立オイルサーディン」缶詰が近くで製造販売されていて、これも絶品と好評といわれる。だいたい1缶罐500円少々くらいの値のようである。
舞鶴あたりでもお中元など贈答品やおみやげとしてスーパーなどでも販売されている。

天橋立の文化的小史
周囲には西国28番札所の成相寺、大谷寺、智恩寺(文珠堂)、奈良期創建の国分寺、丹後一宮籠神社などがある。橋立には与佐宮の故地とも伝える天橋立神社(橋立明神) があり、その境内に磯清水がある。
天橋立の風景は都の貴族にも愛され、平安時代中期の神祇伯大中臣輔親の邸宅六条院は「海橋立」とよばれ、橋立の風景を池泉に取り入れていた。また歌枕として「能因歌枕」「和歌初学抄」「和歌色葉」「八雲御抄」などの歌学書にもあげられた。
名所遊覧を兼ねた社寺参詣が中世から近世にかけて庶民の間に盛行し、足利義満・覚如・雪舟らも訪れている。
本願寺3世覚如が「年来ゆかしくも見まほしく思ひわたり侍る丹後の海橋立」へやってきたのは、貞和4年(1348)四月。「慕帰絵詞」は覚如の死後間もない観応2年(1351)息子従党が命じて寛如の生前の行状を絵巻物にしたもので、それに描かれた天橋立の図は現存の図としては最古の例と考えられている。
↓左は空色の大天橋、右に赤い廻旋橋が見える。

江戸期には陸奥の松島、安芸の宮島とともに日本三景の一つとして定着をみた。
現在は付近一帯は「丹後天橋立大江山国定公園」(平成19年)の一部をなし、大天橋・小天橋・第二小天橋(鷄塚付近から杉末にかけて、今は陸にくっついている部分)・笠松の区域は府立天橋立公園、これに智恩寺境内を含めて国特別名勝地域の指定を受けている。
「日本の名松百選(昭和58年)」、「日本の白砂青松百選(昭和62年)」、「日本の渚百選(平成8年)」。橋立を縦断する砂利道は「日本の道百選(昭和62年)」「美しい日本の歩きたくなる道五百選」(平成16年)。値千金と言われる磯清水は「日本の名水百選(昭和60年)」。そのほか「日本の歴史公園百選」(平成19年)「美しい日本の歴史的風土百選」(平成19年)「日本の地質百選」(平成19年)。日本を代表する景観美を誇る。
↓第二小天橋は、船の後方、対岸の松並木がある部分(小天橋の一番南から。ここが橋立運河の出入り口。一番奥の山並は鬼の棲む大江山)。

永禄12年(1569)連歌師紹巴は、6月橋立に至り「天橋立紀行」に、次のように記すという。
海中に出たる松原、村奄詩に碧海中央六里松と作給ひしもしるく、文殊堂前かけては、卅六町にもあまらんかし、横狭所は四間、両水涯の高しのは六七寸、小石まじりのま砂地平等なるあやしさ、見ぬ人にはかたりても詞残り、ゑしと云とも筆かぎりあるべし、と記す。また七月の初めには府中の成相寺を訪れ、二王門から橋立を見おろして歌を詠んでいる。
夕月夜ふけゐの浦を見わたせばとだえも波の天の橋立 |
文化11年(1814)8月当地を通った野田泉光院は、籠神社から橋立に出て「日本九峰修行日記」に次のように記すという。
橋立明神は並木の中程に鎮座、西向、脇に清水の池とて深さ五尺計りの井戸あり。此橋立は一里の間便船あるに付舟に乗る。一人前貨八銭宛、佐度の因智足院と云ふ山伏乗合す(中略)此橋立と云ふは幅二十間計りにして長さ一里、東は成相の方より南西に流れし砂原也、日本三景の一つ也 |

どれもみなかなり高尚、高貴な都人の話になってしまい、そちらの方が有名であるが、それしかないのではなく、根っこには地元の庶民的素朴な信仰がある。
しかしそれがよくわからない。天地和合の橋立とはどんなものなのかよく知りたいが、誰も書いていないよう。遺跡や伝説めぐりをしてみるより手がないか。…

天橋立の切断計画小史
一方では破壊も企てられた。天橋立は湾口を塞いで往来の邪魔になるので、途中で切断して、舟や魚を自由に通そうというもくろみも実は何度かあった。
バカの一つ覚えのようになんぞ言うたら、橋立橋立、いつまでもいつまでも大事や大事やと言っていてもしゃないですデ、ここは一つ新しい考えでバアーンと行きまひょ、裁断しまひょ、ブッつぶしまひょ。
漁船が言うのはカワイイが、阿蘇海の一番奥には軍需工場があって、そこへ鉱石を運ぶため橋立を切断して大型船舶を通そうという計画が実はあったという。
市民病院をブッ潰し、旧海軍倉庫をくだらぬ改造をした、どこぞの町の驕慢で勝手なモーソー狂のクソ役人やクソ政治屋どものような連中だったのかも知れないが、いつも目にしていると世界稀なせっかくの「お宝」の意味も見失われる。目先の自分たちの都合だけで勝手な評価をする、そんなことをすれば全世界が嗤いころげ、智恩寺の和尚が言うように「諸国往来之者迄嘲哢可仕儀に奉存候」、また後世人の厳しい非難は避けられまい。
当時の宮津町長は懐に短刀を忍ばせて泣く子も黙る軍部との会見に臨んだそうである。橋立は切れない、どうしても切りたければ私をこの短刀で切断してからにしろ、そう言ったかは知らないが、己が命をかけたすごい迫力の町長に軍部もたじろいだのであろうか、橋立切断はなされなかった。
もしどこぞの町の連中のようなものが町長だったとしたならば、きっと橋立はそのド真ん中に大穴があけれらいたのではありませんぬか。問題の深刻さも理解できないので、いやいや別に何も問題ありません、とかヌカスことであろう。アンさんの胴体を真ん中で切断するのと同じだぞ。
享保年間(1716−36)内海に面する溝尻村は、漁業不振と内外の海の通運の便の打開という理由から、宮津藩に橋立切断の許可を求める訴願を出したが、それを阻止したのは智恩寺であった。
一、橋立は天下無双之絶境、六里松之称古今不変之儀不及申上候、然る処纔一村之困窮御救ひ之為として橋立裁断候義被仰付候者、諸国往来之者迄嘲哢可仕儀に奉存候、乍然当御代之御為筋と被仰付候上者不及是非候、然共到後代其時之住持叫応之御断りをも不遂申候段無調法之沙汰に可罷成候儀、於住持迷惑に奉存候事、
一、天浮橋者橋立之儀と諸書に詳に候殿御存知之事は不及中土候、然は二神降下之神跡を仮初にも人手に懸けて截断申儀天下之聞え不吉第一に奉存候、(中略)自余之境内道橋等とは格別に存罷在候、
これは智恩寺住職妙峰の差し出した口上覚の一部であるが、藩は寺の言分を認めて落着した。しかしその後、洲崎が突き出て潮路も不自由になったため、元文4年(1739)溝尻村から再び切抜きの願が出され、切声洲崎の分を堀浚えすることで藩側と協議が整った。寛延2年(1749)から3年にかけても同様の事件が起こった。藩側は「橋立之儀は智恩寺之境内に候へは智恩寺住持合点無之候而は相成不申候間、溝尻村より直に智恩寺え願出可申」と責任を智恩寺へ転嫁した。寺は元文4年の例にならって掘浚えの願書を出したところ、20日余り過ぎて藩側からは「切戸さらへの儀披露候処、殿様御下知にて橋立に手をつけ申儀不同心に被恩召候段被仰出、橋立之儀向後互に申分無之候而珍重候段被抑聞則拙僧方えも手紙被遺」との返事があり、結局藩は許可することは神罰を受けるのではないかと恐れて手を引いてしまった(「橋立一件始終之記録」智恩寺文書)
(『京都府の地名』) |
↓船越の松(中央の傾いている松)

天橋立の一番北のもう江尻に近い所に「特別名勝天橋立」の石碑が立っているが、その裏側に大きな少し傾いた松がある。この松は「船越の松」と呼ばれている。このあたりが船越と呼ばれていたから、このように呼ぶそうである。
船越は舟が越した所であるから、海路をとってぐるっと橋立の先端を迂回するのが嫌な小舟は、かつてはこの辺りで一度橋立の上に陸揚げして、橋立を横断させて、反対側の海へ入れたものと思われる。こんな手間がかなわんから切断してくれという話になったものではなかろうか。
天橋立は別称として、如意島とか錫杖島とか、××島という「島」と呼ばれる別称が伝わる。普通は「島」といえばぐるりが海で取り囲まれた所であろう。どこかが陸地に繋がって地続きの地は島とは呼ぶまい。ということはかつては天橋立は、切戸だけでなく、江尻のあたりでも切れていたかも知れない。こちらは細いからあるいはそうだったかも知れないナと想像するのである。誰かが切ったのではなく、自然に切れていたのかも知れない。風土記以来の文献記録にはそんな話はまったくないが、それ以前は本当に島であったかも知れない。
自然と文化財
丹後地方史研究友の会 中嶋利雄
一、自然はおのずからにあるものではない。
天橋立濃松、橋立明神の傍らに自然石の蕪村の句碑なるものが建っている。
橋立や松は月日のこぼれ種
これが蕪村の句かどうかは知らないが、日本人の自然親としてはこうであろうと思う。とはいっても橋立が「こぼれ種」によっておのずからに木が生え、茂り、こんにちの美しい景親が生まれたと考えるなら、これは歴史の真実に反する。
近い過去からこんにちまでの経過をたどってみても、天橋立保勝会(一九二二)天橋立を守る会(一九六五)丹後の自然を守る会(一九七二)が結成されて、この自然を守る運動はつづけられている。
京都府は昭和四五年度から四か年計画で老松樹勢の回復、施肥補植薬剤撒布(二千万円)、昭和四五〜四八年度に侵蝕防止対策(一億三三〇〇万円)昭和四九年度より四か年計画で二〇〇〇万円の経費を具込んで保存事業を継続している。
自然景観がこんにちあることのなかに、人為の工作はかくのごとく加わっている。そのことは自然が人間の生活要求と深い関係をもっていることを示しているといえる。
二、天橋立切断のもくろみとそれに対する抵抗
橋立は世の人に守られて順調に生きつづけてきたのではない。頻々と破壊の危機に出会つている。天僑立智恩寺の文書に「橋立一件始終之記録」というのがある。
御領命溝尻村近年不漁に付 御役所江御願申上候處橋立截断候様可被仰付旨当寺江訴有之則當寺より願書指上候條左之通
此事享保年中當寺先々住妙峰住持之節也
奉願口上覚
略
享俣、元文、寛延と切断のくわだてはつづき、慶応四年(一八六八)にも又おこっている。十五年戦争下、昭和十二年大江山ニッケル精錬所が内海沿岸に建設されるに伴って軍人商大臣伍堂卓雄は軍需製品運搬に差支えるからといって橋立を切れと迫った。三井町長はクビをかけて反対したという。戦後は橋立の横に自動車の通れる道路をくっつけて北部住民の便をはかれという声があがって阻止につとめた経緯もある。時に住民の生活要求から、また時に軍需産業の立場から橋立の直面した危機の様相には一様でないものがある。それを阻止したものも智恩寺住職とか宮津町長とかさまざまの人が表面に出ているが、それら人士の個人的見識に敬意を表することにやぶさかでないが、忘れてならぬのは、この地自然と文化財方のながい歴史の中に根づいたこの景勝を守り育てる意識の根深さがこれらの人々の意識と行動を与えてきたということである。
(『両丹地方史22』) |
悠久天橋立の碑
天橋立の悠久を念じて
一九三七(昭和十二)年、わが国は中国と戦ってしました。政府は大江山のニッケル鉱石を軍事用に供するため海上輸送しようと考え、天橋立の切断を地元に強く求めました。地元民は心の古里として大切にしている天橋立が切断されることに賛成ではありません。しかし戦争であるからしかたがないと考える人も多くありました。加えて政府や軍部の考えに反対することは、生命に危険が及ぶことも覚悟しなければならないほどの異常な時代だったのです。
地元民の期待と不安のうちにたったひとりで交渉の席に着いたのはときの宮津町長・三井長右衛門でした。彼は戦争の遂行と天橋立の歴史と自然を守ることの相反する難題を前に思い悩みましたが、最後に切断すれば再び元の姿にもどることはできないと、天橋立を愛する心のほとばしるまま、生命も捨てるほどの決心で政府の要求を断固として拒否しました。この勇気ある行動により天橋立は切断の危難を免れたのです。
この場に立って、静かに先人の労苦をしのぶとき、眼の前に展開する世界にも稀な美しい景観を、次の世代に伝え継ぐ責任の重さがひしひしと迫ってきます。
この碑が自然を守ることの大切さを広く末永く訴え続けてくれることを祈念してやみません。
天橋立を愛する者相集まってここに碑を建てる
賛同者世話人 北絛喜八撰
一九九七(平成九)年十一月吉日
設計施工、碑石寄贈 寿園、山寺 清 |
偉い町長や和尚さんや町民がいて本当によかったのう。隣町には命を懸けて市民病院を守ろうとした市長や和尚さんや市民がいたのであろうかのう。
病院や自然や戦争遺産がゼニ儲けの手段としか見えないという夜叉どもじゃ。恥ずかしいことじゃ。悲しいことじゃ。情けないことじゃ。
戦後になってもまだあった。『宮津市史』は、
なお、昭和二十二年天橋立に難問題が発生する。天橋立の内海の魚が近年いちじるしく衰亡し、内海の漁業権を持つ府中村民の死活問題になってきたという事情である。与謝内海に通ずる文珠水路は非常に狭く浅いため潮流の移動を妨げ、内海の金太郎イワシや貝類が続々死滅し、十年まえの約五分の一の水揚げ高になったという。京都府は、二十一年五月より文珠水路の浚渫により海水の移動を図るが、京大舞鶴海洋研究所は調査研究を進め、二十二年七月天橋立の切断を発表した。この案は、江尻の桟橋付近から内海一宮桟橋に向かって道路に沿い長さ三○○メートル、幅三○メートルの水路を掘り、宮津湾からの海水流入口を開くという設計で、これにより内海の海水を常態に維持し漁獲を増やし、海水や海岸を清潔にする、というものであった。海洋研究所の理学士は、「江尻附近に水路を展いても天の橋立の美観は変らないし魚も住めるようになる」と談話を発表した。これにたいし、地元府中村は漁業上の見地から切断に賛成し、宮津町ではこの改変に反対の態度をとった(四−五七○)。結局のところ、この切断はおこなわれず、その後内海の浄化の試みは、京都府・地元住民によってさまざまな形でおこなわれている。 |
どうも舞鶴という所は何かルーズな「文化」を持つ場所なのだろうか。「ずれとる」と言われるのもわかる。
同市の一市民としては厳しい態度をもたれる隣町にたいして何やら恥ずかしくなってくる。
「諸国往来之者迄嘲哢可仕儀に奉存候」(たまにやってくる観光客までが、こいつらアホだと大笑いするのでありませんか)程度のヨタ話を大センセが平気なツラしてのたまう町。ちょっとくらい切ったって何も変わらんやないかい、という考えらしいが、そのちょっとが、本当にちょっとか、ということになる。世界遺産にちょっとくらい落書きしても何もそう騒ぐこともあるまい、一円くらい盗んでも窃盗ではあるまいの舞鶴風的な考え方は、さて皆さんはどう判断されることだろう。
海流の流れや湾内の魚の回遊を考えれば、あるいは、付け根のところを「ちょっと切る」のがよいかも知れない、何なら天橋立を全部取ってしまえばなおいいかも知れない。
しかし自然を汚す真犯人は天橋立ではない、人間であろう。その人間が己が行為を改めないままに、汚れたココロのままに好き放題するから汚れるのであって、それにも気付かぬバカセンセが、何か天橋立をワルにしたてて、ちょっと切ったとしても天橋立は美しさを取り戻せるだろうか。ちょっとでは足りず、もうちょっと、いやもうちょっと、もうちょっとだけ、とそうしてとうとう天橋立を全部取ってしまったとしても、それでも汚れは決してなくはなるまい。阿蘇海は殺生禁断の場とされ、ここに生息する生物は保護されてきた、その獲ってはならぬの戒めをやぶり禁断イワシ(金太郎イワシ・金樽イワシ)を取りすぎたから漁獲高はなくなった。こんな狭い海から将来も考えず全部獲ってしまえば、すぐに資源は永遠に失われる、当たり前ではないか。
天橋立に元の美しさを取り戻せるかどうか、金樽イワシが戻ってくるかどうか、観光客が増えるかどうか、それらすべては、人間の心の美しさ如何、理性如何にかかっている。天橋立が汚れていたなら、観光客がみえないなら、それは人間のココロの、アタマの汚れのためであろう。

天橋立の主な歴史記録
『宮津市史』
天橋立と阿蘇海
地形的特徴
日本三景の一つ、若狭湾国定公園の中心として天橋立は本市を代表する地形景観である。天橋立は延長約三・六キロメートル、幅二○〜一五○メートルの細長い砂州で、クロマツにおおわれたグリーンベルトをなす。江尻から文珠へ延び、その内側には宮津湾から切り離された波静かな阿蘇海を擁する(写真3)。このような砂州と海跡湖の組み合わせは、久美浜湾をはじめ青森県の十三湖、秋田県の八郎潟(干拓により消滅)、鳥取県の湖山池、中海など日本海沿岸に多く分布する。これは水深が浅く比較的緩い傾斜の海底地形が広く分布すること、冬期の北西風がつよいため海岸の土砂が季節風により岸に打ち上げられ浜堤や砂州、砂丘を形成しやすいためである。約一○○年前(一八九三年)製作の図13によると、北砂州は延長約二・四キロメートルと現在とほぼ同じであるが、南砂州は一・五キロメートルもあり、現在の○・八三キロメートルより約一・八倍も長く杉末付近まで延びていた。また、大天橋の水路も二倍程広く、現在のような海岸浸食は生じておらず、防潮堤も存在しない。構成物をみると、江尻付近では径五〜二○センチ、南砂州でも径五〜一○センチ程度の礫を主体としており、礫州とよぶべきであろう。礫は丹後半島を構成している砂岩、安山岩、花崗岩の円礫からなり、世屋川や畑川などの砂礫が強い沿岸流によって南へ運ばれ堆積したものである。
砂州の幅が約一五○メートルに広がった部分に日本名水百選の一つ、磯清水が位置する。両側を海水にはさまれながら真水が湧き出しているのはまさに不思議である。ここでは地表下一メートル以下に塩分濃度が○・○三〜○・一二パーミルの淡水地下水層が存在し、クロマツも成育できる。これは海水と真水との比重差によって宙水帯が形成されているためで、水源は自然降水に依存している。砂州は宮津湾の水深約二○メートル付近、阿蘇海の水深約一二メートル付近から約六パーセントの急勾配をもって立ち上がっている。
つぎに面積四・九キロメートルの阿蘇海の湖底音波調査をおこなった。その結果えられた音波探査記録は史料編第五巻に収録されている。これによると、本湖は水深八〜一二メートルの平坦な湖底面が広く分布し、西から東へ緩く傾いている。最深点は砂州の西側で水深一三・○メートルに達し、久美浜湾の最深点二○・六メートルとともに海跡湖としてはきわめて深度が大きい。また、磯清水の西側や国分沖には水深二〜四メートルにかっての砂州やデルタが水没したと思われる湖底段丘が分布している。
形成史と現状
天橋立は次のような過程をへて形成されたと考えられる。@約一・五万年前以後の気候温暖化により、海面は一○○年に一メートルという猛烈なスピードで上昇してきた。A約八千年前には現海面よりマイナス二○メートルで現在の天橋立と同じ位置に達した。このため、北から南へ水中の砂州が形成され始めた。B現在の砂州は約六千年前の最高水準後の低下期である約五千年前頃陸上にあらわれたであろう。当時の砂州は文珠との間に広い水路(古切戸)を隔ており、今より短かいものであった。C南砂州の形成は江戸後期以降である。これは砂の供給源である丹後半島部で森林伐採や火入れが活発になり、海へ流入する土砂量が増加したことが大きな要因と考えられる。また、この部分はしばしば浚渫され、阿蘇海とを結ぶ航路として利用されてきた。なお、昭和四十年頃から、砂州は海岸侵食が進んでやせ細るようになってきた。これは砂の供給源である世屋川や畑川などで砂防堰堤の建設が進み、砂礫の供給が減少したことが原因である。このため、宮津湾側に多数の防潮堤が建設され、空からの景観は一変した。それでも、侵食が止まらないため海底砂を浚渫し、それを日置沖に投下するサンドユーターン作業が実施されている。 |
↓小天橋は生成の途中にあるのか、小天橋内こんな海水池がある。池と呼ぶべきなのか、それとも残されている海というのか。

『京都五億年の旅』(図も)

天の橋立・砂丘
今の形は二百年前に治岸流が砂を運んで作る
大江山いく野の道の遠ければ
未だふみも見ず天の橋立 小式部内侍
平安の都人たちにとって天の橋立の景勝はあこがれであり、霞たなびく春の松の緑はさながら天に続くかけ橋と称するに値するものだったのでしょう。ところで天の橋立は平安の昔から今日まで同じ姿を海にうつし、訪れる人の目を楽しませていたのでしょうか。
宮津市観光課の話では天の橋立を訪れる観光客は年間二三五万人(昭四九)ということです。しかし元禄年間に編集された〃丹後与謝海図誌〃をみますと、その頃は宮津から天の橋立へは道らしい、道もありませんでした。人々は海岸のおし迫った山道を老翁坂をこすか、飛石づたいに海岸を渡るか、あるいは舟に頼らねばなりませんでした。
夕日浦や文殊の人々は海岸を埋めて新田を作り道を作りました。宮津藩も道路の敷設には積極的でしたが、いまのような道ができたのは、明治になってからのことなのです。
小天橋はなかった
天の橋立は鳥取県の弓ヶ浜や久美浜湾の小天橋とともに日本海岸の三大砂洲(砂によって湾の口がふさがれたもの)の一つにあげられています。ところで天の橋立はいつごろから現在のような姿になったのでしょうか。
室町時代の画家雪舟の天橋立絵図≠みますとこのころの天の橋立は今の橋立明神あたりで終る砂嘴(さし、湾口が完全にふさがれていない状態)でした。江戸時代のはじめのころは智恩寺は半島にあり、国鉾の天の橋立駅のあたりは海でしたし、もちろん小天橋もありませんでした。橋立明神を建てた宮津の藩主は舟でおよそ一町(一二〇メートル)をお詣りしたのです。今日のような形が出来たのはここ二百年位のことなのです。松の大きさが橋立明神の場所を境に府中がわと文殊側でちがっていることからもこのことはわかります。
こうして作られた
奈良時代にできた風土記は天の橋立を長洲とし、平安時代には橋立明神近くにある磯清水をたたえた歌がよまれています。古くから江戸時代のはじめごろまでは地形に大きな変化はなかったようです。
天の橋立の成因について加悦谷高校の小谷先生は、縄文時代前期の海水位が高かったころ、れきが江尻から橋立明神あたりまでたい積し、四千四百〜三千年前の水位が下がったころに天の橋立の原形が海上に現われたのではないかと指摘しています。
その後の天の橋立の成長には沿岸流の働きが大きな役割をはたしました。この付近の海には日本海を流れる対馬海流の逆流があり、伊根の鷲岬から海岸に沿って南に流れています。天の橋立をつくっている砂はこの沿岸流によって運ばれてきたものです。
沿岸流で運ばれてきた砂やれきは内海から外に出ようとする倉梯川(野田川)の流れと潮の干満による潮流とのつり合いで沈下したい積します。砂れきの供給がはげしく大天橋の成長が続きますと、出口をふさがれる内海の水はより南側の砂浜をとおって外海に出ます。こうして小天橋ができました。この成長は今も続いています。また時には排水口を求めて砂洲を切断することもありました。その一つが大天橋の切戸なのです。 |

『宮津府志』
天橋立 拾芥抄海橋立 作属与謝謝郡府城西北半里許
風土記二曰。丹後国与謝郡艮方有リ二速石ノ里一里中有リ二長大ナル崎一長サ二千二百二十九丈広サ九丈二尺是レヲ名二天橋ト二。所レ調陰陽二神立ツト二天浮橋之上ニ一是ノ故ニ得タリ二此ノ名ヲ一又名ク二久志之渡ト一。
和漢三才図会二曰。相ヒ傳フ此ノ島神代九世ノ時始メテ出来ス故ニ名二九世ノ戸ト一又名二切戸一。東西長二千二百二十九丈南北ノ潤サ九十二丈内自リレ北流レテレ南ニ入ル一海潤百七八十丈可二舟渡一云々。
天橋立図序云。天橋立は伊奘諾尊伊奘柵尊天の浮橋の上に立ちたまふより其名を得たり、与謝の海中にある長州なり、三十六町あり、土人浮島といへるは浮橋を誤るなるべし、松樹並木のやうに連れり碧海中央六里松と作りて詩人六里と称す、社の近所松樹茂りてある所を濃松といひ、おろそかなろ所を淡松といふ、濃松は雑木も生ひ交りたる故紅葉しけるともよみ下紅葉する天の橋立ともよめり、俗に三保は梢ひとしく橋立は一の枝そるふといへり、さる事もあるにや。二町ばかりの舟渡しあり、これを九世戸の渡といふ、世に切戸の文珠といふも是也、明神の在る方も文殊の在る方も共に橋立也。堂のある方は六町ばかり明神の在る方は三十町ばかりなり、堂の後は竹木生ひ茂りたり。帝都よりは大江山いく野の道をへて今の府宮津まで二十八里なり、西は青山昇風の如く環り、南は大山巍々とそびへ、東北は越の海渺々と湛へて千里一眺望なり、春霞秋月朝晴夕雨景象一ならず、烏丸光広卿の
君とはゝ見すは知らしと答まし
ことのはもなき天の橋立
と詠じたまひしぞ実に感深さ事なり、いにしへ 帝の御幸もあり将軍の文殊参詣もありけり。内外の浜、子ノ日の崎、万代の浜などいふも此橋立の別名ならんか。
宮津記曰。切戸文殊縁起といふ物を見れば、此文殊は天照大神と地神二代天忍穂耳尊二神して海岸寺より此所へ移し給ふ故に、天神七代に地神二代を添へて神の世九世に当て出来れば神々よりて九世渡と名付たまふと書り。抑沸法は人皇三十二代用明天皇の時に至て日本に仏法といふ名を知れり、しかるに神代に何ぞかゝる事のあるべきや一向信用に足らず、又救世戸など書たるも見へたり、皆浮屠訛誘の論なり、古より切戸と呼来れり、橋立の嶋と陸の間少し切れてあればなり。又或論に奇の戸本論なりといへり、実も橋立は奇異なる嶋なればさもあるべし。此地素神代よりの地勢と見へたり、与謝郡府中江尻村と云所より海上へ三十餘町細く長く生出したる洲崎なり、横幅は広き所にて三四十間もあるべし、殊に高き島にもあらか波打際よりわづか高き島なり、古へよりいかなる大風高浪にもつねに島の切れたるためしもなし、海上へ糸を引たる如く眞直に生出たり、左右に並松生つゞきいかなる潮風にも枯れず折れず、幾萬代か経にけんなれども緑の色彌増て常盤の陰顕はせり。道は砂地にて小石交りの浜なり、並松より外は直に左右ともに漫々たる大海にて、数百艘の船行かふなり。並松の内に千貫松といふ大木あり、又美人松といふもあり 今は枯れてなし 切戸渡し場の辺厚松といふ橋立明神 見二神社之部一 の社あり、此所諸水交り生て遥に観れば木立あつし故に厚松といふ、此側に磯清水見下あり。
矢野氏古日記の内に元禄十二年九月の頃 仙洞君の勅のよしにて橋立の紅葉取りに参りしよし記せり、俗に云ふ橋立の紅葉は葉先九つに別れて自餘の楓とはことなりとかや、此頃禁裏にて名所の紅葉含有し故なりとぞ。古より橋立を詠ぜし詩歌数百首に下らず、其集天橋山智恩寺にあり、又橋立案内志 覧山著 にも大略のせたり、今一二を爰に出せり
…
橋立明神の在所あつ松より西宮津の方へ中古より段々洲崎出たり、これ沖より波のあたるに砂をゆり上て年々自然に出来たるものなり。永井侯の代に此新たに出来たる洲崎をはかられしに百拾六間ばかりぞ有けるとかや。今にては四百間餘もあらんか、永井氏の城主たりしは寛文延宝の頃なり、今巳の年までは八九十年斗なり、かゝる事にて所々の古跡勝地も往古よりとは地勢もかわる事なり。当国の名所往古より伝し名も今さだかならぬ所多し。今あらわにしれたる名所ばかり左に記しぬ。
天橋立別称 錫杖島 如意島 六里橋 |
『丹哥府志』
【天の橋立】
風土記云。丹後国与謝郡艮方有速石里里中有長洲長二千二百二十九丈広九丈二尺此石天橋所謂陰陽二神立浮橋上是也
云北江尻村より起りて南の方海を絶て五台山にそひ鶏塚に至る凡卅六町、鶏塚より又南の方に出洲ありて赤岩の辺に至る、赤岩よの北身投石の前に至る凡五町、東西僅に二三十間其間一面の白砂なり、身投石の前に当て初而松樹四五十本あり、其北に潟あり一丁四方、潟の北に松樹林をなす。これを淡松といふ。南北二丁斗、東西一丁余、松碧に砂明なり、来遊の者の遊ぶ處なり。淡松より北松樹連りて濃松に至る、其間凡一丁余、其南北に石地蔵各一躰あり。濃松の間は諸木交り茂る。所謂下紅葉する天の橋立といふは此處なり、松露初茸など生ひ松樹の間に橋立明神の社あり、社の前内海に向ひて鳥居を建つ又社傍に磯清水といふ井あり、井の碑は永井侯の建る所なり、其文は弘文院之を撰す。濃松より北江尻村に至る凡十六七町、其間松樹相連る。諺に三保の松原は梢ひとしく、天橋立は下枝ひとしくといふ、蓋重に此處をいふなり。道は砂地に小石交る、其小石の中に木の葉石といふものあり奇石なり。天橋の東を外の海といふ、西を内海といふ。其外の海を隔てて栗田の山に至る僅に十四五町北は黒崎より山岳連りて南与謝の大山に至る。五台山の後に金剛峰熊野山といふ山あり、其西にある山を王落嶺といふ。大落嶺の東北に鼓が嶽といふあり、所謂成相山なり、成相寺は其半腹にみゆる粉壁是なり。是より山?相連り北稲浦に至る、蓋皆風景の顕はる處なり。
異名 錫杖嶋、白糸浜、万代の浜、六里の松、海橋立、六里洲、天路通橋、仙洲、天橋、浮嶋、浮橋、内外の浜、如意嶋、天の浮橋、常世の浜、久志の浜
凡橋立の詩歌世に名あるもの挙げ数ふべからず、吾王父会て尽く抄録して天橋詩歌集といふものを撰す、今枚挙するら暇あらず、僅に二三を記す左の如し。…略… |
『丹後の宮津』
天橋立
君問はゝ見すは知らしと答まし 言の葉もなき天の橋立
この歌は慶長四年六月(一五九九)、京都から「あまのはしだて」へあそびにきた烏丸光広が、いままで話にきいていた「はしだて」より、やはりこうしてきて見たほうがよかったと思ったときの、そのいつわりのない心を詠んだものである。それから四十余年後の、寛永二十年(一六四三)には、日本全国の名所旧蹟をあるきまわった林春斉(林羅山の子)が、「日本事蹟考」という本を書いたそのなかに、丹後の天橋立・陸奥の松島・安芸の宮島、この三景をあげて、これは日本の三景だといって大いにほめあげたのであったが、これが「日本三景」のはじまりで、春斉はことに「あまのはしだて」をよろこんでいるところをみると、お公卿さんの光広が、わざわざ丹後までやってきて、「はしだて」をみたときの感動をそっちよくに詠ったことが知られるのである。
ではこのような美しい「はしだて」はどうしてできたのであろうか。「丹後風土記」という本には、長さ二千二百二十九丈、広さ九丈二尺、むかし陰陽(いざなぎ。いざなみ・の二神)の神さんが、天への上り下りにつかった「うきはし」であるといっている。だから春海という人の歌にも−
神の世に神の通ひし跡なれや 雲井につゞく天の橋立
とよんでいるのであるが、しかし今日のわれわれには、これではどうもピンとこない。大むかしの人なら、男女の神さんが天へのぼって、愛のむつごとをかわしているあいだに、その「あまのうきはし」がたをれて、いまの「はしだて」になったといっても、それは通じるかも知れないが、現代人への説明にはならない。ではどうかといえば、やはりこれは自然の作用というよりほかなく、ながい年月のあいだにできた「砂嘴」だといわれる。すなわち日本海の風波が、与佐の海のわくへ砂をはこび、それに対して大江山のふもとから、野田川が砂をおしながし、この双方がよりかたまって、ここに「砂嘴」ができ、その上に植物がめばえ、松がおいしげり、こうして「天橋立」になったというのである。
それにしても、この三・六キロの白砂青松は、古代人にとって神秘そのものであったにちがいない。それなればこそ、人々はこの「はしだて」を中心に、丹後の宗教も政治も文学も、みなこゝへ集めたのである。あの中世の画僧雪舟の「天橋立図」をみても、五百年前の「はしだて」附近、府中や文殊あたりが、現代のわれわれにはとても想像もできぬほどひらけていたことが知られる。神秘な自然のいとなみというか、とにかくこの美しい「あまのはしだて」が、自然にできた景色であると知るとき、われわれ現代人といえども、その神秘さを感じないわけにはいかない。
しかもこの「はしだて」には、大小七千本の松、そのうち五六百年の老松も数多く、たれの句であったか−
はし立や 松は月日のこぼれ種
とあるのが、なるほどとうなづけるのである。こうしてすでに幾千万年のむかしから、そのかぎりない生命をつずけてきた「はしだて」、だからこの「はしだて」は、こゝをおとずれたあらゆる人々の足跡を、その歌を、その画を、その思いを、その永遠の生命のかてとしてきたのであった。おそらくこれからも、また世界のあらゆる人々のおとづれをまち、その人々にかぎりないよろこびをあたえてくれることであろう。
〃はしだて〃を歩く
この「あまのはしだて」が、「風土記」には長さ二千二百二十九丈と書いてあることは前にいった。どんな尺で計ったのか、いまの実測ではどうも中国式の白髪三千丈とまではいかなくとも、少々長すぎるようである。ことに今から一千年もの昔では、大分そのかっこうがちがっていたかもしれず、文殊堂から国鉄あたりのことは、わずか四五十年の昔とさえ、まったく変ったのだから、大むかしは想像外のこともあろう。
さてそのはじめだって、「はしだて」は「速石の里」にあるとされている。だから歩くのには、府中の方から文殊さんの方へなら、ずっと歩いて「はしだて」見物はできるわけであるが、しかしどうも文殊さんの渡し、この「九世戸」の渡しをわたったほうが、昔からの順路らしい。いまは廻旋橋をわたるけれども、この橋のできるまえ、いまから四十年も前は、渡しはすべて舟で一銭、この右料渡し舟で「九世戸」を「はしだて」へわたらねば、文殊からの人はどうしても「はしだて」の土はふめなかったのである.だからこそ、昔の人は−
立別れ松に名残りは惜しけれど 思い切戸の天之橋立 幽斉
などとうたったのであった。だが大正十一年から大天橋ができ、その翌大正十二年からは廻旋橋、あの二人の男がハンドルをにぎって、エッサエッサと橋を廻して切ったりつないだりする橋、あれを渡って「はしだて」の土がふめるようになると−
人おして廻旋橋の開く時 黒くも動く天の橋立 晶子
廻旋橋雪もろともに切り放ち 水府
といった景色がみられだした。そして「はしだて」の濃松へはいると、にわかに広々として明神さんや「磯清水」のあたりが、いかにも「はしだて」へきたような感じをあたえてくれる。
橋立の松の下なる磯清水
都なりせば君も汲まゝし 和泉式部
一口はげに千金や磯清水 聴秋
わけて、岩見童太郎仇討の場の立札や、あの試し切りの石、ななめにわれた石塔をみると、なんとむかしの豪傑の刀というものは、えらいもんだと感心させられ、そこの茶店をみると岩見刀という木刀が土産物になっているなど、いかにも観光地の風景である。
それにしても夏の「あまのはしだて」のすばらしさ、毎日毎日、何万の人がこの海にはいってさわいでいるが、いくらさわいでも底の砂が一ツ一ツかぞえられるほどに水はすみ、波は静かである。このような海水浴場がどこにあるであろうか、太平洋岸によくあるあのきたない海、どすぐろくにごった海で、芋の子を洗うようなありさま、あれで海水浴だなんて、まったく想像もできぬことである。
足を府中の方へむけ、さまざまの姿をみせている松の道をいくと、なにか不思議なおもいがするのである。理くつをぬきにして、どうしてこのような「はしだて」ができたのであろうか、どうしてこの松がそだってきたのであろうかと、それは古代の人々のふしぎさに似た思いがしてならない。案内記によると、千貫松・美人松・夫婦松といった名が見られ、そういいたいような姿の松が幾株もある豪華さ。芭蕉の句というのが立札に書いてある−
八朔や天の橋立たばね熨斗
どこを詠ったものか、奥の細道なられ「あまのはしだて」の松の並木道を歩く芭蕉の姿が目にうかぶようである。この立札のそばに、「一声塚」として、芭蕉の句碑がある。見ると「一声の江に横たふやほととぎす」とあるが、立札をよめばこの句碑が、もともとここのものでないことも知られ、なんだか興ざめのおもいがする。また少しいくと、「金太郎いわし」のことを書いた立札、それには五升庵蝶夢の−
明月や 飛上る魚も金太郎
どうもこの句のほうがピックリきそうな気がする。このようにして、「はしだて」は見る「はしだて」であり、また感じる「はしだて」でもある−などと思ううちに、足はすでに府中ちかくにはこばれて、一ツ眺める「はしだて」はどこからが美しい「はしだて」であろうかなどとも、つぎつぎと「はしだて」にからむ慾望はつきるところを知らない道であった。
またなおこの「はしだて」を歩いていて、つよく目にうつったのは、松のこかげ、草むらのそこここにみだれ咲く「はまなすの花」や「はまえんどの花」(晩春から夏のころ)であった。松にくらべていかにもよわよわしく、しかもひっそりとあでやかな花、「はしだて」を歩くものに、ひとしおのよろこびをあたえてくれる花である。 |
橋立というのは本来はハシゴを立てかけたような嶮しい地形を指す地名だと柳田はいう。『定本柳田国男集』
「地名の研究」
天橋立と云ふ語は、小式部内侍を始め多くの人が歌に詠んだ外に、釈日本紀に引用した丹後風土記の文にも見えて居るが果して今の地を指した地名か否かは疑ひがある。それはハシダテと云へば梯を立てたやうな嶮しき岩山を云ふのが常のことで、其梯が倒れて後に之を橋立と云ふのは不自然なるのみならず、風土記に大石前(おほいそざき)とあるのが今と合はぬ。此は寧ろ湾の外側の岩山のことであったのを、名称と口碑とが何時か湾内の砂嘴に移って来たものと見られる。現在の橋立の名前としては、今では山上の寺となって居る所の成相の方が当って居る。併し随分有名な語になったものだ。加賀江沼郡の橋立村なども、百二三十年前までは黒崎から西北に、海中へ二百間ばかりも突出した懸崖の石崎であった故に、それが崩壊して後までも地名となって残って居る。同じ丹後の中でも、但馬に接した久美漬の入江などは、規模が総体に宮津湾口のものより大きいにも拘らず、辺鄙で見に来る人が少ないばかりに、土地の人までが遠慮をして小天橋などゝ名乗って居る。此等の例もあるから、今となっては潟の外郭を爲す砂嘴は凡べて丹後同様に橋立と呼んで置くのが便利かと思ふ。
多くの橋立は海の都合風の都合で今日でも切れたり繋がったりする。地形の一定せぬことは驚くばかりである。與謝海の本家本元でも、あの切戸が屡々塞がったり壊れたり中々厄介であるさうだ。従って潟溌生の時代も一様で無い事は勿論である。… |
「潟に関する連想」
△天橋の意義と伝説 此に行って予の心付いた事は、天の橋立なるものが、松の生えて居る長い砂嘴を意味して居るかどうか疑はしい事であります。古語の「ハシ」は、水平の橋梁を一意味するの外、梯とか、石階とかを意味して居ったのであります。さらば「ハシタテ」といふ以上は、常に雲梯(山に登る道)を意味して居るものであります。それで「丹後風土記」を見ますると、榊様が天に懸けようとした橋が、倒れて海上に横はったのであると書いてありますが、此のやうな伝説によるの外は、あれを橋立といふことが当らぬ。それよりも、今では山頂の寺の名になって居りますが、成相寺の成相といふ語が、もとは成合であって、即ち両陸の相接続することを意味することで、此方が寧ろ適当な名であると思はれます。 |

関連項目


|
資料編のトップへ
丹後の地名へ
資料編の索引
|