阿蘇海(あそのうみ)
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京都府宮津市文珠天橋立 京都府与謝郡吉津村文珠 −天橋立観光− 主なものだけ (文珠地区) 智恩寺(智恵の文珠) ビューランド展望台(飛龍観) 股のぞき 天橋立温泉(智恵の湯) 知恵の餅(橋立名物) 知恵の輪 廻旋橋 天橋立観光船 日本三景:天橋立 磯清水 橋立明神 (府中地区) 丹後一宮・元伊勢・籠神社 真名井神社 傘松公園 西国28番札所:成相寺 郷土資料館 国分寺址 阿蘇海と与謝海(このページ) |
阿蘇海と与謝海↑手前の阿蘇海と橋立の外側が与謝海(西側上空より) ↑与謝海(左側)と阿蘇海(右側)(北側上空より) 天橋立に区切られた内の海を 与謝野町と宮津市にまたがる、天橋立の西面の内海で、天橋立の砂嘴によって宮津湾内に生じたラグーン(潟湖)のこと。 天橋立南端の切れ口(切戸・九世戸)によって東側の外の海(与謝海・宮津湾)と続いていて、阿蘇海西岸には野田川が流入している。 日本三景の天橋立とともに、古来詩歌に詠まれた景勝地で、 思ふことなくてや見ましよさの海の天の橋立都なりせば 赤染衛門(千載集) よさの海内外の浜はうらさびて浮世を渡る天の橋立 曾禰好忠(曾丹集) 与佐の海に浪の夜昼眺めつゝ思し事をいふ身ともがな (和泉式部集) 与謝の海の沖つ潮風浦に吹けまつ也けりと人に聞せむ 藤原良経(秋篠月清集) などとあるそうで、宮津節でも、 ♪月が出ました橋立沖に 金波銀波の与謝の海 などと歌われる。 ↑天橋立を挟んで内海が阿蘇海、外海が与謝海(南側より) 天橋立は現在はこのように長いが、こうなったのは幕末の頃からという。以前は橋立が広くなっている途中のあたりまでしかなく、南側は山ぎわまで海であったという。内海と外海は広い水道でつながっていて、ここを九世戸、切戸と呼んだ。 「丹後国風土記」逸文には、
栗田半島先端の黒埼と対岸を結んだ線から内側、橋立から東側の内海が本来の与謝海だが、現在は与謝郡の海は全部が与謝海で、阿蘇海もその一部といったようにとらえているようである。 風土記のアソ、ヨサ、クシ、クシビ、などはずいぶんと古く、たぶん弥生の渡来地名と思われ、たぶん天日槍族が残した、たぶん大風呂南墳丘墓や難波野墳丘墓などを残した人々の時代の地名か。 今に伝わる関連の地名をさらに拾えば、九世戸、傘松公園のある山は笠山、磯清水のイソ、須津や惣、獅子、矢原、吉原という地名。与謝の吉原はヨサのフルネームがヨサハラだと語っているように思われる。 現代人には何のまじないやら、さっぱり理解もできず、世界遺産で売り出すはずの地のせっかくの古代地名群だが、案内されることもない、失われた歴史の失われた地名群である。 これらは互いに深く関連があり、早く 金沢庄三郎『日鮮同祖論』がズバリ指摘している、
簡単にいえば、これらの地名群はクシフルの転訛だといっているわけである。 クシヒという地名、天橋立の北側の付け根附近、そこにある真名井神社は久志浜宮とも呼ばれる、その意味を逸文風土記もほとんどの今までのガクシャセンセも誤解している、「霊異のはたらきをする意。クシ(霊妙)の動詞形。天に立てかけてあったハシ(梯)が海上の砂浜になったとして霊異のはたらきを認めたもの」などと和風の大学者くさい話をしているが、地名はもっと簡単な庶民の誰にもわかる意味を持つものである。 紀によれば、天孫降臨のクシフルのタケのことを「クシヒの高千穂の峰」「ソの高千穂のクシヒの二上の峰の天浮橋」「ソの高千穂のソホリ山の峰」とも呼んでいる。イコールで結んでみればわかるようにクシヒはクシフルのルが脱落したものであることがわかる、高千穂の高は美称、チホはシホでソホのことである。 ク(大の意味の美称)・ソ(金沢庄三郎は新羅の民族名ソという)・フル(村のこと)で、興味深い地名のソ、見逃してはならないサシスセソである。 今も誰にもよく理解できるように書けば、この周辺の一帯はソフルと呼ばれていたということである。ソの村ということである。ソは伽耶や新羅からの渡来人たちの自称名ととりあえず見ておいていいと思われる。それに発音上の接頭語アとかヨがついてアソとかヨサとかになったと思われる。 当サイトをお読みのかたは別に驚かれないかも知れないが、この地もまたソフルと呼ばれた古の聖なる地であった。 「あそびの浦」という浦がある、京丹後市網野町掛津の遊↑で、よくここの阿蘇海と混同されるようだが、アソビもアソも地名としては同じ意味だと私は考えている、最後のビが残っているか脱落したかの違いで、元々は両者はアソビであった、もっと古くは最後にルの発音があったのではなかろうか。最初のアは発音上付けられたもので、茶碗といったりオ茶碗といったりするが、意味上の違いはなく、あってもなくても意味上には変化はない、アソビはソフルのことだろう。 遊部だとか、すぐクソ難しいことを言い出してメシ喰っているのがガクシャセンセだから仕方ないが、地名は庶民の物であって意味はもっと簡単なダレでもすぐに理解できるものである。 日本の歴史でも間にはいくつもの断層があり、古代の実情は現在からは直接には誰にも見えなくなっている、机上の空論を有り難がったり、極右のマネしたりしているから、ワレラがルーツに関わる大事の地名がすなおに理解できなくなっていると思われる。こうしたことは歴史教科書には書いてなく、図書館で調べてもない、はっきり言えば「歴史とはウソ」である。その前提に立って真実を自分の頭で解明していくのが未来を開かんとする者の努めである。過去を抹殺する者は未来もまた抹殺する。戦争中のことなんか今さら蒸し返して、などと考えてはならない、過去は未来のことでもあり、過去は忘れて未来指向でつきあうなどは大ウソのヘリクツでしかない。未来指向で行こうとすればするほど過去が大事になってくる。 依羅(よさみ)という古代語がある。依羅郷とか式内社の大依羅神社、依羅氏という氏族もあるが、河内摂津国や参河国に見られる。BとMはよく入れ替わるので、ヨサビルというのが本来ではなかろうか、それがヨサミとなり、ヨサとなったのかも… 以上阿蘇海とか与謝海はだいたいエライ人たちの「行政地名」的な「よい子ちゃん」たちの呼び方であるが、ワタシ的にはたいして興味もない呼び方である。 しかしフツーの人達(当地の海人・倭人)がそうとばかりに意識して呼んでいたのかはよくわからない、というのか違うのでないのかと思っている。世の中のもうひとつのウソも書いておこう。 歴史はウソだらけ、古代史などは特にウソだらけ、しかしちょっとお下品かも、だいぶエロい話になるかも、しかしその評価もエエかっこしたい愚かなオモテヅラだけのちょっと文明進化したとかの権力よりなことかも… これは北岸の傘松公園から見た天橋立である↑。 右が阿蘇海、左が与謝海であるが、どちらも含めて全体に円い。鉄幹も「まろき入江にひとすじの松」と詠う。 こういうまろき入江は古くはマと呼んでいる、伊根湾も湾内をお間内、湾外を間外と言うし、間人にも大間港・小間港がある。大地のマである。マというのは今でも卑猥語でそう呼ぶのでないかと思うが、舞鶴あたりでは「○マン○」などと呼び女性の円い穴のことである。 これは大地のマである。ここに大きな地母神が横たわっていて、この部分が彼女のマである、そしてそのマの真ん中に突き刺すように天橋立と呼ばれる棒が入っている。これは! (*^_^*)え゛゜っそういうことなの?、と思われるだろうが、そういうことなのである。まさにモザイクなしのポルノ写真を見るようなことである。バカみたいことを根掘り葉掘り書かなくとも現代人でもわかる人にはわかるハナシであろうが、現代人は実質無関心・無気力・無責任な主体性なき風次第のノー天気人間で、スコーンと肝心が抜けるアホなワンパターン思考的な所があって、アホの一つ覚えのように、昔は今と同じだったと考えて、わからないのが結構いる、そう言われてみればとはじめて気が付くのがほとんどでないかとも思われる。知性薄い風次第でどうにでもなびくヤバイ国である。 テレビ番組や観光案内やセンモンカガクシャセンセ、エエカゲンものばかり見たり聞いたりして知ったような気になって我が身知らず思い上がって歴史や民俗を見ていく時の謙虚さを失うと大事なことがサッパリわからなくなってしまう、それはいかれ思い上がった支配者どもの歴史に向き合う知的姿勢であるが、ワレラがバカどもを真似てはなるまい。一般には、情けない日本国ではそういわれているが、現地をよく見てみれば、この説明は何かおかしいぞと気付くことが大事かと思われる。気付けば気付くのであり、そのギモンを持ち続けることである。しかしエライ人達はそうしとは考えていないようだしな、などと自分がいだいたせっかくの疑問をそうしたことで打ち消すと、間違ってしまう。カゼが正しいとき何も限らない。 天橋立は一方の大方にはそのように理解された場所でもあったと思われる。「天地和合」などとよい言葉で呼ばれる、お坊さんだって知っている。天橋立にはこんな碑→が建っている。 皆が知っていることなのだ、大地同士・男女神が和合して一体になっている、和合と歓びの地の光景と見ている。和合とかだけではなく、大切な意味は、クニ生みクニ作りをされているのである。 人を生む、クニを生む、これ以上に大事なことが人間社会に存在するであろうか。 日本国中探し回ってもめったに見られまい大変な場所である。だからこそ当地だけに股のぞきの慣習が伝わる。 天と地、海と陸、自国と他国、男と女、この世とあの世、そうした異質なもの同士の接点であることを地形自体が表している。 丹後にはこうした地形が過去にはたくさんあった、今は当地だけ、若干久美浜湾、だけになってしまったが、この性格を意識的に役立ててはじめて丹後の栄光があった。 その大事なミソが隠されるだけでなく、忘れられてしまっているのでハラが立つのである。バカどものクソ案内のせいかも知れないが、気が付きもしないのがほとんどだろうが、仮に知ってはいても誰もこんなことは書いてはくれない、書けないのである、社会的な地位やメンツがあり、自分の名で公表することなどできるワケない、むつかしい世の中である。小さく言えば「案内」だが、そのバックには日本社会全体がある、明治以降の国家神道・皇国史観が100年以上も日本社会を支配していることにある、これで全日本人は脳死状態にあることにある。ワレラの脳味噌は何世代にもわたり国家神道に支配されたまま、そして今はさらにアメ帝に支配されている、きわめてアホな危険な脳味噌にされているのだが、その典型的なもっともイカレた例がどこかの学園理事長氏にみられるが、あそこまではいかなくとも大抵の日本人氏はだいたいはあの程度の頭でしかない、あるいは氏以下である、何とか学園は全額税金ではない、どこかの町の赤れんがとかの建設費などは学園の2倍である、中身はまったくのカラッポ、全額税金、イカレかたはさらにひどく深刻である、こうしたことに早く気付かないとまたまたま同じ過去を繰り返すことになってしまう。オレオレ詐欺に引っかかっていないか、その手先になっていないか、よく検討すべきかも知れない。ワタシが仕方ないので書いておくのでしっかり読んでくだされ。 これがわからないと「股のぞき」などの本当の意味も理解できたりはしない。さかさまに見たら風景が美しく見えるから、などは子供むけの説明なら致し方ないが、大人同士がまじめ顔でかわすとすればかなりのうすらボケのアホクサのアサハカ理解、というか間違った理解であるのがわかろう。それなら富士山を股のぞきするか、しない、そのほかの風景明媚に場所でも股のぞきするか、しない、ウソくさい説だとすぐ気付かれよう。だいたい「美しい」などは主観的なものだから、人によって美しく見えるかもしれないし、逆かも知れない話である。 天橋立でだけ股のぞきするのは、ここがその「ポルノ」の現場だからであろう。神々がこうしているのに、人であるものも真似ないわけにはいかない。真似る、というか本当はモテナス、オ・モ・テ・ナ・シするという性的な慣習の遺風であろうか。「股のぞき」は養老以前にまでさかのぼることまちがいなしの古来からの当地の神事であったと推定される。 ニホンザルのメスが赤い尻を向ければ、向けている対象のオスザルへのセックス・アピール、求愛行為である、しかしサルは足が短いので「股のぞき」のカッコウにはならない。人間の女なら、服を着たままでは「股のぞき」かも知れないが、服を着けていなければ強烈なセックス・アピールである。だから正式には「股のぞき」は服を脱いで、対象から少し離れた位置から行う女性のセックス・アピール行為であったと推定される。 イザナギが降りて来た梯子が倒れて天橋立になったと逸文風土記は語る、天皇への復命文章だからそれはそういう説明で仕方もなかろうが、それは天橋立がイザナギのマラだということを語っていることになる。イザナギというのか、このあたりは国生み・国作りの神は大国主命とされることが多いので、本当は大国主命のマラということであろう。黄泉国へ行った始祖神というなら山幸彦(彦火火出見)でもいいので、実際に同神は籠神社の養老以前の同社の主神と言われる。彦火火出見≒浦島太郎、大和政権への表向きには瓊々杵尊の子の彦火火出見となっているが、本当は地元の浦島太郎さんを祀る社であったと思われる。彦火火出見は日向国の神様で、この辺りでは合いそうにもない。若狭一宮の若狭彦神社も彦火火出見を祀り、若狭姫神社は豊玉姫だという。これも似たような事情か、丹後の浦島太郎と乙姫である。 籠神社の伝えでは、末社の蛭子神社に後には旧主祭神・彦火火出見を祀り、彦火火出見は別名を浦嶋太郎といい、蛭子社を元浦嶋大神宮とも云うのだそうである。 そうしたことで、だいたいは推定の通りだが、大国主命というか、与謝国主、あるいは丹後は単に国主と呼ぶようで、丹波国主彦と丹波国主姫の夫婦神。あるいはよく知られる名で言うなら、丹波道主命、あるいは浦島太郎さん。天橋立は丹後では一番エライ男神のマラなのである。彼は国作り国生みのマッ最中の様子で、ガンバッテはげんでおられる。この神を祀っているのが本来の籠神社と思われる。海部氏はこの神を祀る神官職であったのであろうが、祀る側がいつの間にか養老以後になれば祀られる側に移動したということであろう。 そんなものがマルミエ、この光景を目の当たりにしてすっかり興奮してしまった古代の女性が我が身わすれて思わず、あんなリッパな神様のあんなリッパなモノ、ワタシのマにも…とかの行為であった姿、あるいはもっと敬虔に巫女が神をモテナスという行為が誤解された、あるいは子供だましに言われたオハナシが「股のぞき」かと想像するのである。 今は社会モラルとかルールとか人間の男のあるいは権力の勝手なリクツでガンジガラメで、表面はで、裏は知らないが、そうした野生のような、本能のおもむくままの性的欲情、あるいは神に対してそうしてもてなすという風はもたれないだろうが、昔は性はもっと自由、ずっと神聖、何人も犯すことができないものてあり、今のように権力が取り締まって当然とかとする見方とはずいぶんと違っていて、そうしたことはあたりまえでなかったかもと思う。ナニを言われなければならないのか、アンタのものではないでしょ、ワタシの勝手でしょ。神に捧げるのは当たり前で、自分の娘や妻がそうしてもてなしていても、男は当然と心得ていてナニも文句はいわなかった。元々ワレラの祖先に「一夫一婦制」などはなく、母系社会の伝統強かったものかも知れない、男の力は弱い、今の社会のようなものか、特に私有財産というほどのものがなく、子が自分の実子でないと困るとかいって互いに拘束し合うということがなかったのかも知れない。 オ・モ・テ・ナ・シの深い所はこの太古の宗教観念に発していて、よそ者は神様で、お客様は神様は日本人的な考えだが、客人は神様の使いと見る民族は今も多いという。よそ者は見れば冷たい目で官憲以上に不審者注意と警戒していて、外国人排除、外国人(自国より程度が悪いと勝手に思い込んでいる外国だけだが)は出て行け、沖縄人は土人だ、壁を作るなどと叫んでいるアホ権力とそれにベタベタにへつらう現代人どもに限ってオモテナシなどと言うが、それはとってつけた口先だけの付け刃であろう。昔の狭い封鎖的な社会へ違う遺伝子を持ち込むという意味があったかも知れない、もし子が出来れば、それは「神の子」、娘なら処女受胎とされ、実子以上に大切に育てたといわれている。クソ権力側からみれば自分の指示なしに勝手なことをされるのは最も忌避されることであり、権力が強くなればそうしたことはできなくなってきて、今の世ように何かそれが当たり前みたいに思われるかも知れないが、それは後の世の権力側の「倫理感」を「行政指導」され続けてきたものであろう。近代の個の目覚めとともにこの、個の生き方と「権力社会」(権力・金力・武力社会だが)のズレ問題が意識されるようになる。 「股のぞきすると風景が逆さまにまって美しく見える」は子供だまし、あるいはあからさまに言うのがはばかられた、ということであり、見落としてはならない大事な真実は語られてはいない。 あれは今でははるか太古になってしまった共同体的人間社会のオ・モ・テ・ナ・シの性的遺風。ずいぶんと古い権力発生前の慣習が「股のぞき」であるのかも知れない。 昭和13年、府警の特高により、「股のぞき」をしている和服姿のみやげ用人形を禁止されたという、みだらだからという。こうしたみやげ人形はワタシは子供の頃に見たことはある、今もあるのだろうか。 おおかたの今のカシコイ人達より特高の方がだいぶにリコウだとわかる、さすが権力のハシクレだけあってチャント「股のぞき」の本質は見逃さない、カレラから見れば天橋立は畏くも天皇陛下様のマラであり、今でも皇国史観に立てばそうしたことになるが、それにむかってナニだあの「股のぞき」は、と考える。自由奔放で権力の意向などは意に介しないのが権力は一番困るのであるが、いかに現代人のおおかたが骨のズイまで脳死状態に陥っているかがわかる。特高より思考力が劣り、ひどい権力べたべたぶり、お上(権力や権威。別にそんなにリッパな者でなくとも上役とかその程度のものでもいい)が言うことは間違いないと信じ切っている、元々おおかたの日本人にはそうしたところがあるが、今はさらに有史以来の最低レベルのバカさであろう、こうしてすっかり忘れてしまった本当の歴史はまだまだ一杯あるのだろう、ワレこそは科学の子だ、智恵の固まりだなどと思い上がっていないで、このことに早く気が付かないと日本に未来はなかろう。 股のぞきなどは別にどうでもいいが、何事であれ、上が言うことに対する批判心を失うと大変なことになってしまう。それをカレラはジッとまっている。今のあわれな知的状況はカレラ権力には大きなチャンスである。 天橋立の付け根に鎮座する丹後一宮・籠神社は龍宮城(常世国・黄泉国)への通用門とされ、冠島・沓島はその奥宮とされる。ワタシが子供の頃は大鳥居(一の鳥居)の下は池になっていて、そこに一杯亀がいた。ナニであれだけもいるのか、不思議に思い尋ねたが誰も答える者はなかった、この年にもなってようやくあれは竜宮城の亀だと理解できるようになった、常世の国からの使いなのだ、この亀に乗れば竜宮城に行けるのだろう。 ←境内にはこんな像もある。亀に乗ってるので浦島太郎さんかと思えば、倭宿禰命だそう。海部氏の祖でもあるという。 塩土老や椎根津彦や珍彦とかも同じだろうが、倭宿禰と正体は大物主神ですと言っているようなことで、大国主命(素戔嗚神)の又の名だろうと思われる。 海人たちは亀に乗る神は国生・国作の始祖神で、常世と行き来できる神と見ていたと思わされる。名は各地の海人によっていろいろいろいろあって、その名やバリエーションにまどわされるとわからなくなるが、要するに丹後海人も己が始祖神をこのような姿と考えていたようで、名がはっきりしない、消されたのかも知れない、島子かも知れない、天橋立はこの神のマラであろう。というか天橋立をこのような神として祀っていた社であったと思われる。 ついでながら、倭宿禰は丹後降臨の神で、丹後から大和に入り、(記紀が記録する以前の、神武以前の)大和建国に当たったと丹後では、海部氏では、言われている。大和では大物主神と呼ばれ、三輪山の神になっている。もしかしたら三輪山は亀の甲羅の形なのかも知れない。 夫婦神でヨメさんは天照大神であるので、外宮ばかりでなく、伊勢内宮も元々は丹後だという主張は一理も二理もありそうだといったことになってくる。元々の阿蘇海与謝海のマの天照神は今は恵美須神社として本殿の東側に祀られているものだろうか、本殿に彦火火出見(山幸彦)、その東に恵美須とされるヒルコ・太陽神ということて、このセットで夫婦神、国生・国作された。 (奥宮の真名井神社とセットかも、あるいは境内末社として天照大神和魂社と猿田彦社もある、このセットも同じで当社の本来の祭神(マラとマの持主神として、自然そのものとしては阿蘇海、与謝海、天橋立が祀られているのだが、それらを擬人化して)を二重に、あるいは三重に丁重に祀っているものかと思われる。春日社は藤原系の神祇官の顔を立てたもので、ナニも当地には関係がなかろうが、逆に本来の祭神はおとしめられた名にされているように思われる) 綾部市の天一高倉神社も、一番奥にイザナギ・イザナミの大地主神社、そこへの参道に天照皇大神宮と八坂神社が祀られている。 天照と須佐之男は姉弟ともいうがここでは夫婦神のようである。大国主神社であろうが、そうすると出雲の神様と間違われるかもと、こうした名になっているものか。吉見の国を生まれた神様であろうか、本当の名がわからなくなって、記紀などからこうした神としたものか。 冠島は「常世嶋」と呼ぶし、天橋立は「常代の浜」と呼んだ、常世の浪の重浪帰するところ、いまふうに言えば、この界隈はあの世とこの世の境目に位置する、常世の波と風が吹いている、母なる常世に、今ふうに言えば天国に一番近い界隈である、亀に乗ればすぐに行ける、向こうへ行けば死、向こうから来れば生、であった。ワレラは向こうからやってきた、玉手箱を手に持って、いやいや玉手箱はすでに開いた状態であった、ともかくもこの世にやってきた。常世とは違いこの世の時の流れはムチャ速い、あっという間にシワクチャになって死を迎える、また向こうへ帰る者である。この世ではムシケラ同様のはかない一瞬のイノチしか保てない。 それがナニかワシほどエライ者はいないなどとパカ下駄思い込みを無制限に勝手に持つととんでもないことになる。どこかの市長さんから大統領親分さんまでその他この手の暴走迷走人は腐るほどもいて、世に害をなしている。 国作りをしようという政治家さんたちはぜひとも当社に詣でてよ〜くよ〜くご加護を願うとよろしいかも… 網野の浜も常世の浜と呼ぶし、、伊根の本庄浜には常世橋があり、橋立あたりは常代の浜、舞鶴では大浦半島の外海に面した三浜・小橋の浜を龍宮浜と呼んでいて、丹後は常世に近い所と見られていたのであろう。 阿蘇海・与謝海だけでなく、この海をマと呼んだのでないかと、そうであるはずと地名を探すのだが、あるとしたら小松。小マ津でなかろうか、阿蘇海は小マとも呼ばれていたかも知れない。 真名井のマも古くはこうした意味があったのかも知れない。真名井神社の磐座(子種石・鶺鴒石)の姿はマそのものである。真名井浦はまたフケイ浦と呼ばれるが、阿蘇海の重要な一部分が吹飯の浦と呼ばれていた。元々の真名井はここの円い湾内すべてを呼ぶ名であったのかも知れない。 こうしたマは単に「和合」するだけの、ああイヤラシー、ようそんなこと言うなぁの場所だけではなく、イノチやタカラをこの世に産み出す超大切な場所でもあり、農業生産や金属生産とも深い関係が生まれてくる。真名井はまたウケイとも呼ばれ、当地のマは豊受大神のマ、故地であるのかも知れない。豊受大神も国作りの神であり、国生みされているのだろう。 阿蘇海の主な歴史資料『宮津市史』
『岩滝町誌』
阿蘇の海では、ここでとれた「金樽イワシ」が有名。 天橋立途中にこんな案内板がある↑ 金樽いわしの話 この天橋立の内海でかつて大量に獲れた「金樽いわし」は、別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、その歴史も非常に青く、一千年以上も昔から丹後の名産として名高いという。したがってこの鰯にちなお伝承も多く、古くは平安時代の中項、丹後の国司藤原保昌が金の樽に酒を入れ内海で酒盛をしていたところ樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが樽は見つからず、かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平会戦のころの平忠房であるとか、江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。 とにかくこの金樽いわしは美味であったといい、評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、宿の朝食た出された金樽いわしのオイルサーディンおいしさに、「ひょっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか」(『考えるヒント』)と、感動したというエピソードもある。 名月や 飛あがる魚も 金太郎 蝶夢 宮津市教育委員会 『岩滝町誌』は、
今も多少は獲れることがあるよう、これだけの広さの海だから、漁獲が少ない上に、有名な超高級魚として超高価で取引され外の料亭などへ出てしまい、めったなことでは地元でも口には入らない、伝説の金のイワシである。 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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