京都府宮津市文珠天橋立
京都府与謝郡吉津村文珠
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社
傘松公園
西国28番札所:成相寺
郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海
2
|
橋立明神と磯清水
↑橋立明神(表参道より)
千金の井戸、神の世の井戸である。天橋立内の「橋立明神」の脇にある井戸。上の写真で言えば、神社の向かって左側にある。
橋立明神は現在は「天橋立神社」と呼ばれている。伝承では吉佐宮の故地ともされる超古社である。
その境内に「磯清水」がある。四面海中にも関わらず塩分を含まない真水の泉である。両者は本来は一体のもので、神社よりもずっと古いこの霊泉を祀るのが橋立明神だったと思われる。霊泉こそが主だと考えるが、後世では関係がたいていは逆転しているし、最近では両者とも忘却の彼方へと追いやられているようにも思われる。
案内板には、
磯清水
この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。
そのむかし、和泉式部も
「橋立の松の下なる磯清水
都なりせば君も汲ままし」
と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重きれてきたことが明らかである。
延宝六年(一六七八)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には
丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、云々
とある。
湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪ずれる多くの人々に親しまれ、昭和六十年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。
宮津市教育委員会 |
『京都新聞』(96-9-1)の「きょうと水紀行」には、
…磯清水が脚光を浴びたのは昭和六十年に、日本の名水百選に決まってからのことだった。案内してくれた天橋立を守る会の幾世實会長によると「この水は長寿の水と呼ばれ、それまでは地元の人や信心深い人が飲みに来る程度だったが、名水に指定されてからは、一時、タンクを持った人の列ができた」ほどだったという。
昨年、井戸に油が投げ入れられるという事件があった。守る会会員らが連日、清掃にあたったが、いっこうに消えず「名水もこれまで」と心配した。八月の大雨の時、井戸の側面から真水が吹き出し、洗い流すことができた。「三十年、毎日見てきたがあんなことは初めて。なにか神秘的なものを感じた」と幾世会長はしみじみ。
現在は、六十年当時のブームは去ったが、自転車などで散策する観光客らが時折立ち寄り、名水を味わっている。
〈メモ〉礒清水の井戸は昔ながらの、つるべで組み上げる方式が取られている。名水選定当時、観光客に対応するためポンプの設置も検討されたが、水源や水量が不明で枯渇する心配があったため見送られた。昨年、井戸と一体となって生い茂っていた神木が枯死。現在、二代目「豊玉の木」の移植準備が進められている。 |
【磯清水】(明神の傍)
碑文云。丹後国天橋磯辺有二井池一清水湧出蓋在二海中一而別有二一派之源一乎、古来以爲二勝区一。呼曰二磯清水一舊談有レ言和泉式部和歌曰、橋立濃松濃下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志云々式部従二藤原保昌一来二当国一界其所二傳称一非レ無レ縁也。今応清水混海鹹而尋其水路新構二幹欄一以成二界限一永使下二勝区之名一垂二於不朽一而考古之人無中弁尋之疑上延宝六丙午年当国宮津城主大江姓尚長建 弘文院林学士撰
愚按ずるに衆妙集に此歌を玄旨法印の歌となせり、いづれか是なるをしらず。
(『丹哥府志』) |
磯清水
橋立明神社の西にあり。橋立内外海潮の中に在て少しも鹹味を交へず、名水といふべし。延宝年中永井尚長公井欄を設け、林祭酒をしてこれが記を書かしむ
磯清水記
丹後国天橋立ノ磯辺ニ有リ二井池一清次浦キ出ツ。蓋シ在リ二海中一而別二有ル二派之源一乎。古来以テ為シ二勝区ト一呼ンデ曰フ二磯清水ト一郷談二有リレ言へルコト和泉式部ノ和歌ニ曰橋立農松農下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志卜云々。式部従ニ二藤原保昌ニ一来レバ一当国ニ一則チ其ノ所二傳称スル一非ルレ無キニレ縁リ也。今応サニ三清丈混ス二海鹹ニ一而尋ネ二其水路ヲ一新タニ構ヘ二幹欄ヲ一以テ成シ二界限ト一永ク使テ下二勝区之名ヲ一垂レ二於不朽ニ一而考古之人ヲシテ無カラ中弁尋之疑ヒ上。
延宝六戊午年 月 日
当国宮津城主大江姓尚長建
弘文院林学士誌
(『宮津府志』) |
↑飲んでみようかという人もあまりいないようであるが、これは案内看板にもあるように「真清水神座・長寿の霊泉」
橋立の松の下なる磯清水
都なりせば君も汲まし
和泉式部とも細川幽斎ともいわれるが、作者はよくわからない。幽斎よりは古い時代の和歌ではなかろうか。
→水量としては多くはないそうで涸れないように少し以前まではツルベで少量ずつ汲み上げていたが、今はこのようにポンプアップされているようである。千金の磯清水、日本名水百選だけあって、さすがである。
天橋立は砂で出来ているが、松や草が生えている、植物があるということは地下には真水があるのであろう。降った雨水が砂層に蓄えられているものと思われるが、この磯清水の真水はそれと考えるには量が多いし、この一点にしかないというのも頷けない。
氷河期の頃は海面は今よりもずっと低く、このあたりも陸地であったのだろう、その頃はここを野田川が流れていた、それは今も流れていて、磯清水の水源となっているのではなかろうか。あるいは山近くの海底から清水が湧き出ているという話は高浜にもあって、近くの陸の山の水が伏流水となって当地の海底から湧き出ているのではなかろうか。
この泉の傍らにも、それを世話し祀る女性(人の女性・巫女)がいた、村で決められてここに一人いたのか、複数いたのか、井戸の神に仕える巫女として生涯独身で、神の御衣など織りながら過ごしていたと思われる。狐の小女郎の松が近くにあるが、元初の橋立小女郎(人)がここには確かにいたと思われる伝説である。彼女は神聖な女性で人間が手を出したりすることは絶対にできないものであった。和泉式部も、もとはといえばその名のように泉のそばにいた女性なのではなかろうか。
そこへ神が天から降りてこられた。その形はマラによく似ていた天橋立であったし、それは天と地を繋ぐハシゴとも考えられた。
ゲスの勘ぐりのようなことをすれば、神が望まれたのか、小女郎が望んだのかはわからない、ともかくも「天地和合」の末には「神の子」が誕生したはずで、子が生まれたからそんな話をデッチあげたのか、その子孫と称する氏族がありそうに思われるが、そのあたりは伝わらないので、巫女側のデッチ上げかも知れないが、うまい具合な話ができたのではなかろうか。
天橋立神話の原点はこんな所にあったかも知れない、ーような気持ちがするのである。
神話にも、新浜にもつながる原点がここにありそうに思う。
磯清水のイソとは何か。磯のことだろうと誰も疑わないが、阿蘇海と與謝海の境目にあるイソだから、一般名詞の磯ではなく、ここの地名かも知れない。このあたりは広く「ソ」と呼ばれた地だったかも知れない。そして元伊勢の「セ」とも関係があるかも…
鳥居が海に面して建てられているが、本来は海からお詣りしたもののようである。参道が残っている。
写真で言えば、一番右側のあたりから急に林相が貧弱になるが、このあたりから右側部分は最近にできた橋立で、本来というのか明治以前はこの部分は海であり、鳥居まで舟で渡った。
↓今は橋立縦貫道が神社の裏を通っている、たいていの人は神社も清水も無視してスイスイと通り過ぎて行く、何をそんなに急いでどこへ行く、何を見にござったのであろう。ネコに真珠、ブタに小判のごとしの感あり。
世界遺産を目指すには整理したり、もうチイとらしいものに作り替えなければならないようなものもたくさん残されている、別にこれを特に言うのではないが、評価委員でなくとも横向きたくなるようなものが多すぎる。ゴミ捨て場ではないのだから、少なくとも明治からこちらの世界遺産としては評価のしようのないようなものは橋立上からは即時全部撤去すべきと私は思ったりする。
↓正面は…。誰もいません。やはり…
燈籠が幾つも苔むして、かつての栄光の日々を伝えるような…。
橋立大明神。余社郡天橋立。祭神=豊受皇太神宮 大川大明神 八大龍王。
此所者崇神天皇卅九年天照皇太神宮奉崇與佐宮倭姫垂跡也。
(『丹後旧事記』) |
橋立大明神 在二同郡天橋立一
大河太明神
祭神 豊受皇太神
八大龍王
磯清水 在二當社ノ境内ニ一載ス二古跡ノ部ニ一
鎮座年歴未レ詳或曰当社ハ元在リ二九世戸文珠之地ニ一中古移ス二於此地ニ一云云。
謹按一説に云今文殊堂の地は往古与謝の宮の旧蹤なり、文殊堂元と波路村にあり中古已来今の地に移ると云々。又宮津古記の説に別源禅師より五代雪山和尚の代に、与謝の宮旧跡に残たる社を橋立の洲崎に移し橋立明神と神號を改めしとあり。以上の二説是非を知らずと雖も延喜帝已来の事跡舊記に顕然たれば古代の開基に疑なし、然れども其神代の開闢と云ひ或は天照太神と地神二代天忍穂耳尊二神して海岸寺より此處へ移すなど云ふは誣説なり。
(『宮津府志』) |
【与謝宮址】今の切戸文珠堂の境域なるべしと云ふ、近世まで其祠を遺ししを、橋立に移し、改めて橋立明神といふとぞ。〔宮津府志神祇志料〕是れ崇神帝の朝に、天照大神の暫時鎮座し、所にして、一に吉佐宮に作る、蓋大神此に御座して、真井原又比治山に天降坐せる御饌都神の大饗をうけたまへる故跡とす。比治麻奈為神社を参考すべし、伊勢内外宮の関係蓋此に起る。
倭姫命世紀云、御間城入彦天皇、殊立磯城神籬、奉還天照大神及草薙剣、令皇女豊鋤入姫命奉斎焉、然後随太神之教、国々所々に大宮所を求給へり、卅九年、還幸但波之吉佐宮、積四年奉斎、此歳豊宇介神天降坐、奉御饗、従此更好国求給。
豊受皇太神御鎮座本紀云、天照太神、遷幸但波之吉佐宮、今歳、止由気之皇太神結幽契、天降居。
補【与謝宮】○神祇志料、等由気太神、旧与謝郡切戸にありて与謝宮と云ひしを、後世橋立に遷し、改て橋立明神と云(丹後宮津志、丹後名所記)
按、吉佐宮旧址今切戸に在り、何頃よりか其近傍に文珠堂ありしが、奸僧雲山なる者、其仏の栄ふるまに遂に本社を今地に移して、其跡に文珠堂を構へたりし也とぞ、甚々憎むべき所業と謂ふべし、さて古は切戸より橋立の内府中真井原までも悉く本社の境内なりしと云ふ、姑付て考えに備ふ、
天照大御神の御饌都神等由気太神を祀る、雄略天皇御世大御神の御教に依て、此太神を伊勢の度会山田原に遷座奉らしめ給ひき、即今度会宮に鎮坐す神也(止由気太神神宮儀式帳、参取延喜式)
(『大日本地名辞書』) |
(真名井神社の)昔の神域は、この霊山を北にして、南方は、日本三景の一、天橋立、それから、東南、西南へ跨がる地域、概算、合せて、十数万坪に及ぶと考えられるところであり、皇大神四年御鎮座の大宮処は、その地域の内であり、西南方、今の御本宮の所在地であったと云われる(皇大神四年鎮座考一名与佐宮考参照)。一説には、奥宮真名井神社の宮処であったとも、或は、天橋立の松林の内にあったとも云われているが、いずれにしても、同神社往古の神域内であったことに変りはない。天橋立は往古の同神社の神域であり、その中に、所管社橋立神社があったのである。橋立神社は、丹後与佐海図誌に、「橋立大明神、本社豊受大神を祭る。左は大河大明神、右は八大龍王を祭る」とあって、与佐宮(籠神社の別称)の所管社の一であったが、今はその関係は無い。
橋立の松林中には、橋立神社があるが、往古から、橋立明神として知られ、その本地仏が有名な文殊菩薩であって、今の文殊智恩寺がそれである。橋立神社は、籠神社の祭神の一柱である海神(竜神)を祭った社である。
(『元初の最高神と大和朝廷の元初』) |
案内板に、
天橋立神社(橋立大明神ともいう)
橋立大明神本社正面は豊受大神向って左は大川大明神右は八大龍王(海神)である。
かつては皇大神を祀り、いわゆる元伊勢を移したものとの説もあるが、これは附説であり、やはり文珠信仰が流行した平安末期から鎌倉時代にかけて、文珠堂境内鎮守として祀られたものと考えたい。(天橋立は文珠堂の境内地です。)
宮津市文化財保護委員会 |
もともとはどこが聖地であったのかを忘れている、太古の信仰までは視野が及んでいないとしかいいようもない説明書き。
ここだけではなく海の中でも真水が噴き出す地点があるという。周囲の山からの地下水がそこへ吹き出てきているわけであるが、橋立の場合は、そこへ上手な具合に砂嘴ができてきたわけである。自然の不思議としてはあり得るのである。こんな海の中に真清水が涌くとは…、太古の人々としては有り難い神が作りたもうたものと受け取り特別に神聖視したことであろう。
さて、霊泉・磯清水に付属した神社と思われ、それが現在地にあったか、あるい南の今の文珠堂の地にあったか、それとも北の真名井神社か籠神社の地にあったか。それはわからないが、現在もその三地点に霊地があるように、太古もそうであったのかもわからない一連の関係深い霊地のようである。何も一ケ所だけであったとも思えないし、三地は時代時代の力関係で主たる霊地とされるところが移動したと思われるが、磯清水に最も近い所こそが発祥ではなかろうか。このあたりが吉佐宮だと伝承は伝えている。吉佐宮は伊勢外宮の旧地、元伊勢である。
主祭神の豊受大神は、その通りなのだろう、なにせここは元伊勢なのだから。大川大明神が気になるが何物かわからない。八大龍王は竜神で海の神様と言われる。
橋立明神、磯清水の主な歴史記録
「室尾山観音寺神名帳」
『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)
【橋立大明神】 本社豊受太神を祭る左は大河大明神、右は八大竜王を祭る。拝殿三間四面此一宇宮津城主の建立所也。今有所正徳年中奥平昌春の建立なり。
詞花集幟上 浪立る松の下枝をくもてにて かすみ渡れる天の橋立 (源 俊頼)
千載集独旅 思ふことなくてや見まし與佐の海の 天の橋立都なりせは (赤染衛門)
拾遺愚艸 ふみもみぬいく野の與佐に帰る雁 かすむ波間のまつと伝へよ (定家)
名寄 與佐の海のうちとの浜に浦さひて うきよを渡る天の橋立 (曽根好忠)
夫木抄 はるかなるねの日の崎に住あまは 海松をのみひきやすよすらん (よみ人しらす)
浦塩艸 浜の名に君かわはひのあらはれて のとけき波も万代の聲 |
【磯清水】 社の西にあり、井欄永井尚長建立建立弘文院記作る郷談有(かえり点)言和泉式部和歌云々。しかれとも幽斎の歌なり。
衆妙集 與佐の浦松の中なる磯清水 みやこなりせは君も汲みん (法印玄旨) |
『与謝郡誌』
磯清水
天の橋立濃松明神の傍にあり。橋立内外海潮の間にありて少しも鹹味なく名水といふべし。
橋立の松の下なる磯清水都なりせは君も汲まし 和泉式部
磯清水
橋立や神代のまゝの井戸一つ 岳輅
丹後国天橋立磯辺有井池清水涌出蓋在海中而別有一派之源乎古来以爲勝区呼曰磯清水旧談有言和泉式部和歌曰橋立農松農下奈留磯清水郡奈利勢彼君毛吸未志云々式部従藤源保昌来當國則某所伝称非無縁也今応清水混海鹹而尋其水路新溝幹闌以成界隈氷使勝区之名乗於不朽而考古之人無弁尋之疑
延宝六丙午年當国宮津城主大江尚長建
弘文院学士撰
磯清水の東方広場を岩見重太郎仇打の場所とて慶長の昔剣客岩見重太郎父の讐仇を報ぜしといふも定かならず。 |
吉佐宮の歴史記録
余社宮(與謝宮)は伊勢神宮の故地であるが、それがどこなのかについては諸説がある。『与謝郡誌』がよくまとめていると思われる。
『与謝郡誌』
吉佐宮趾
崇神天皇の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代、即ち三種神器の内八咫鏡と叢雲剱を奉じて大和国笠縫邑より當國に御神幸あり。社壇を橋立の洲先に卜して宮殿を御造営あらせられ、吉佐の宮と申し霊代を奉安神事せらるゝこと四年、のち伊勢国五十鈴川上に奉遷し、内宮皇太神の神都に奠め給ひしといへる舊社にて、我国體上最も尊厳の地位を占むる霊蹟なれば、伊勢に御遷幸の後にても依然宮殿を存置して皇太神を奉祀せしも、文殊堂の雪山和尚が諸堂拡張の爲めに、切戸を渡して橋立の厚松内に宮殿を移したるが今の橋立明神なり。文殊境内なる宮跡は今本堂の東北なる本光菴の前に當れるが、古来神聖の境域として苟くも汚穢不敬等のことある無く、約四坪計りは厳然として保存せられ今要目樹壹株を栽ゑられてあり。尤も吉佐宮に就ては種々異説ありて倭姫世紀には「奉天照太神於笠縫邑遷之于旦波與謝宮今加佐所在内宮即其處居焉四年又遷于伊勢五十鈴川上號曰内宮、事在垂仁天皇二十五年機歴十代至雄略天皇祀豊受皇于伊勢所謂外宮是也云々」と載せ神社啓蒙には「與謝宮在二丹後国與謝郡川森一所祭神一座」と云ひ和漢三才図会には「與佐宮在二與謝郡川守一云々」となし又大神宮御遷幸図説には丹波吉佐宮今丹後に属し丹後の神森云々と云ひて河守に比定し、加佐郡舞鶴町紺屋天香山鎮座笶原神社慶長五年庚子冬十一月十四日国守細川越中守忠興再建の棟札に「丹後州神座郡田辺城外西嶺有笑原神宮焉豊受大神神幸之古跡而所謂為真名井原與謝宮三處之一而此嶺別有天香或藤孝之名焉、祭神天皇即位卅九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙剱月夜見神于此地以奉斎一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與謝郡九志渡島以奉斎此時始有與謝郡名焉云々」と録し、日本地理志料には「豊鋤入姫命斎皇太神於丹波吉佐官云々吉佐趾在文殊村郷名取此云々」と載す。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志には孰れも「橋立大明神余社郡天橋立、祭神豊受皇太神宮、祭神天皇三十九年天照皇太神宮を崇め奉る、與謝宮倭姫の垂跡なり」と云ひ、神祇志科式外論神の部に「等由気太神與謝郡切戸にありて與謝宮と云ひしを後世僑立に遷して改て橋立明神といふ。(按與謝宮旧趾今切戸に在り何頃よりん其近傍に文珠堂ありしが奸僧雪山なる者其仏の栄えるまにまに遂に本社を今地に遷して其趾に文珠堂を構へたりしなりといふ甚だ憎むべき所業なりと云ふべしさて古は切戸より橋立の内府中真名井までも悉く本社の境内なりしといふ云々)天照太神の御饌都神等由気太神を祀る。雄酪天皇御世大御神の御教に依て此大神を伊勢の度会山田原に遷坐奉らしめ総ひき云々」と掲げ、尚ほ皇太神四年鎮座考(吉佐宮考)には「皇太神は籠神社に四年間御鎮座ありて後伊勢の五十鈴川上に御遷幸」の由を記す。其他諸書の載する説もおのづから異るものあり、又皇大神と豊受大神即も内宮と外宮とを混同せる向もありて一定せず。按ずるに此の両者は倭姫世紀にある如く判然別個にして、皇大神を吉佐宮に斎き奉るのとき、典御饌神に丹波郡の眞名井原に降臨御鎮座あらせられたら豊受大神を橋立近辺に迎へ奉り(今府中村に豊受大神を祀る真名井神社は其宮なりと伝ふ)皇大神の伊勢に御遷幸の後は祭祀も頽れしを、雄略天皇の朝に皇大神の御託宣により真名井原へ勅使を御差遣(此の真名井原とは府中の真名井原か或は其故地たる丹波郡の真名井かを知らず)伊勢の度曾に奉遷したるが豊受大神なれば、吉佐宮は内宮の皇大神なるは謂ふまでもなし。 |
『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按二帝王系図一用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自レ天降同座二一所一といふものなり。是又一説なり。 |
『丹後旧事記』
倭姫尊。垂仁天皇第四柱目の姫尊母は皇后日葉酢媛奉斎天照皇太神当国與佐郡宮津の地天橋立有事年間四年一国の民貢を入是所謂與の宮也宮津府志に今の文珠堂の跡也と記天橋記に同事を記す。
凡当国神社の初は崇神天皇即位六年乙丑秋九月大和国笠縫より殊磯神籬を立て天照大神及草薙の劒を加佐郡神守の地に移し奉り皇女豊鋤入姫命いつき奉るの垂跡内宮村とてあり。其後卅九年壬戌天照皇太神與佐の宮に迂幸ましまし倭姫四年を経て斎奉る是よりさらに倭国を求め玉ふ此年秋七月七日豊宇気比売神比治の真名井原に天降り與佐の宮へ通ひ御貢を奉り四十三年丙寅大和国伊豆如志の宮に移り玉ふ八年をいつき奉りぬと倭姫の世記に見えたり。又谿羽道主命も此朝十年四道将軍の勅命を受て比治の真名為原にいまして四方を治一国に豊宇気持命を祭らせ豊宇気比売は此神の化神成事を教祭らせ比治真名為原咋石嶽に豊宇気持神玉死ふひし形とて岩面に黒き人の影顕られたり。是を以て神崇む事当神社の始めなりと伝ふ延喜式に六十五社あげたり。
籠神社。板竝庄府中。祭神=籠守大明神。当国一宮(延喜式名神大社目次に在)。合神=豊受太神宮。
社記曰当社篭大明神者神代之鎮座而往昔従朝廷造営又四月臨時祭有勅使其後国司此使蒙仰。
養老年中迄造営度々あり延暦年中以後廃絶す。神社啓蒙曰篭神社有丹波国與佐郡府中大垣村一宮記曰篭守大明神と名づく住吉大明神同体なり。類聚国史曰貞観十三年六月八日従四位下賜。
同合神 豊受皇太神宮之事。
天橋記曰雄略天皇廿二年秋九月当国與佐郡従真名井原伊勢国度会郡鎮座奉成時神而真名井原留祭是所謂與佐宮有神也其後年代遥隔社頭悉兵乱廃壊故篭守神社相殿祭建武年中以後事也大谷寺奏状見又篭神社額有正一位篭大明神是者小野道風筆也云伝然共貞観以後神位可有昇進恨国史不詳事。
又神社に古き木偶仮面山鉾曳たる車の輪数多あり是皆往昔篭大明神の祭礼に用いたるものなり。
後拾遺和歌集曰く俊綱朝臣丹後守にて侍る時彼国臨時祭の使にて藤花を(花波祭といふ事伝)かざして侍りけるを見て詠るとあって良暹法師の歌あり俊綱任国の所に記す。宮津増補府志曰く一宮正一位大明神の祭礼は四月中の牛の日なり(いかかの事にや民俗府中の癸祭といふ其訳志らず)又当所に古図あり僧雪舟と伝ふ田辺府志に曰く丹後五社の其一社なりとあり。 五社者 真名井 大川 熊野 奈具 篭守
又或木に曰く篭守大明神者天水分神なり。
前太平記に住吉同体とあり。
武家評林に源頼光朝臣当国千丈ケ嶽に向ひ玉ひし時願書を篭られし故篭大明神とあり頼光家臣渡辺綱が筆記なりとて其願書今にありといふ其外古人名将名僧の願書等多し。
神記曰く当村は往昔篭に乗て雪中に顕れ鎮座ありけるを以て神号とするとなり合神豊受皇太神は国常立尊別号なり。中昔與佐郡を魚井篭守社地に移事者往昔豊受気比売真名為原に通御饗奉捧神戸所在魚井原と云豊受太神宮に非ず社地者太神宮社地者天橋立今文珠堂の地。
倭姫世記曰(略する)
斯倭姫の世記にしるす余社といふ郡名の文字は豊受皇太神宮の垂跡此地に残りて與佐郡と祭るといふ事の心なり。又当国に真名為原と云所三カ所有事は丹波郡比治山の真名為は真名井大明神豊宇賀能売の天降の地にて天女の遊し池有故なり。余社の宮辺を魚井原といふ事は天女宇賀能売命此地に通ひ止由居皇太神へ御饗を奉捧し神戸所有が故に魚井原と伝ふて天女を飯役明神と祭る。又神座舞原は天岩戸の辺を云皇女豊鋤入姫の天照皇太神を祭りし跡なりこれにて当国に三カ所の真名為原ある事を知るべし。
橋立大明神。余社郡天橋立。祭神=豊受皇太神宮 大川大明神 八大龍王。此所者崇神天皇卅九年天照皇太神宮奉崇與佐宮倭姫垂跡也。 |
『大日本地名辞書』
【与謝宮址】今の切戸文珠堂の境域なるべしと云ふ、近世まで其祠を遺ししを、橋立に移し、改めて橋立明神といふとぞ。〔宮津府志神祇志料〕是れ崇神帝の朝に、天照大神の暫時鎮座し、所にして、一に吉佐ヨサ宮に作る、蓋大神此に御座して、真井マナヰ原又比治山に天降坐せる御饌都神の大饗をうけたまへる故跡とす。比治麻奈為神社を参考すべし、伊勢内外宮の関係蓋此に起る。
倭姫命世紀云、御間城入彦天皇、殊立磯城シキ神籬、奉還天照大神及草薙剣、令皇女豊鋤入姫命奉斎焉、然後随太神之教、国々所々に大宮所を求給へり、卅九年、還幸但波之吉佐宮、積四年奉斎、此歳豊宇介神天降坐、奉御饗、従此更好国求給。
豊受皇太神御鎮座本紀云、天照太神、遷幸但波之吉佐宮、今歳、止由気之皇太神結幽契、天降居。
補【与謝宮】○神祇志料、等由気太神、旧与謝郡切戸にありて与謝宮と云ひしを、後世橋立に遷し、改て橋立明神と云(丹後宮津志、丹後名所記)
按、吉佐宮旧址今切戸に在り、何頃よりか其近傍に文珠堂ありしが、奸僧雲山なる者、其仏の栄ふるまに遂に本社を今地に移して、其跡に文珠堂を構へたりし也とぞ、甚々憎むべき所業と謂ふべし、さて古は切戸より橋立の内府中真井原までも悉く本社の境内なりしと云ふ、姑付て考えに備ふ、
天照大御神の御饌都神等由気太神を祀る、雄略天皇御世大御神の御教に依て、此太神を伊勢の度会山田原に遷座奉らしめ給ひき、即今度会宮に鎮坐す神也(止由気太神神宮儀式帳、参取延喜式) |
関連項目
「天橋立」
「智恩寺(文珠堂)」
|
資料編のトップへ
丹後の地名へ
資料編の索引
|