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丹後国分寺の概要
荒れ野に墓標のようにポツリンと立つ「史跡 丹後国分寺趾」の石柱や案内板。
この周辺に丹後国分寺があった。
バッタ(イナゴかも)どもが一杯飛び跳ねて、珍しいモンが来たわいと、迎えてくれる。
ひっそりと、しかしバッタどもには天国のにぎやかな草はらになっている。
すいぶんと広い跡地で、これは↑金堂の礎石34個。正面は「丹後郷土資料館」(丹後ふるさとミュージアムとも)。資料館の東側の山裾に「真言宗護国山国分寺」がある。古の丹後国分寺の流れを今に伝える。
↓左側に塔の礎石16個。中門の礎石2個。それに不明の円い柱穴のある礎石などがある。
これらは創建時のものではなく、建武元年(1334)再建時の礎石であるが、創建時も位置はだいたい同じ場所に建てられていたといわれる。
雪舟の「天橋立図」には、金堂とその脇に五重塔が描かれているが、その礎石がこれらであろう。雪舟の絵にはほかには伽藍が見られず、たぶん再建された国分寺はこれだけの規模であったように思われる。
創建当時のものは周辺から出土した軒丸瓦と軒平瓦の2個のみだそうである。これから創建は奈良期の末頃と推測されていて、時期としてはあまり早くはない。
あるいは創建時もこれだけの規模ではなかっただろうか。丹後は古代寺院は多くはなく、瓦を焼く窯趾なども見つかってはいない。プランとしてはあったかも知れないが、実際にはここに壮大な規模を誇る大伽藍があっただろうとは状況的には考えられないように私は思う。調査員が血眼で探し廻っても見つからないほどの可愛らしいものであったのかも知れない。
丹後国分寺は「弘仁式」によると、寺料2万束が充てられ、これを出挙して得る利稲によって経営されていたという。丹後国田数帳には、
与謝郡に「金光明寺 散在十九町二段卅八歩 御免」、
「石河庄」に「十五町三段十八歩 加松富名 国分寺」
同荘にはほかに「十三町六段百九十八歩 国分寺領無現地」
と記されている。
国分尼寺に比定される法花寺は、丹後田数帳に、
「一法花寺 四町一段卅六歩 山田拾介」
と名をとどめるが、位置は詳らかでないとされる。
中野遺跡ともされるが、ここの瓦は時期が早く、尼寺とするには難しいようである。
京都府与謝郡野田川町岩屋に法華堂の小字があるが、あるいはここかも。
↓阿蘇海を間に天橋立が横一文字に見える、前に民家の屋根がなければ最高かも知れないが、「続日本紀」天平13年(741)3月24日条の国分寺建立の詔勅に「其造塔之寺、兼為二国華一、必択二好処一」というとおりの超「好処」である。
伽藍はまったくなく礎石とバッタしか居ない、アイソのないことなので、「丹後郷土資料館」の隣りになるし、成相寺へ参る登山道(西谷坂)の登り口にもなっていて、そこらに来られた折りについでに見学されるといいかと思う。
現地の案内板に、
史跡 丹彼国分寺跡
天平13年(741)3月、聖武天皇は詔して天下諸国に僧寺、尼寺を造らせ、それぞれ金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とされた。これが全国一斉に行なわれたかどうか疑わしいか、おそらく地方諸国の経済制度の整備と併行して、逐次建立されたものであろう。
この一帯は「丹後国分寺跡」として、昭和5年10月史跡に指定され、昭和38年買上げ整地して保存されることとなった。指定地内には、中門の礎石2個、金堂の礎石34個、塔の礎石16個か現存しているが、創建当時のものではない。創建年代は明らかでないが、出土しだ古瓦からみて、奈良時代末頃であろう。その後幾度かの興亡を経て、建武元年(1334年)に金堂が再興され、また室町の禅僧雪舟筆「天橋立図」に描かれた伽藍は、天文11年(1543年)兵火焼失前を偲ばせる。現存の礎石群はこの絵の配置と一致している。未調査のため創建時の寺域や伽藍配置は明かでない。
昭和48年3月 京都府教育委員会 |
国分寺の創建以来の歴史をしのぶものとしては、国分寺跡に残る門跡・金堂跡・塔跡と、北方の一段高い山鼻に建つ現国分寺に蔵する古瓦片・行道面・鬼面などがある。
現国分寺に蔵する丹後国分寺再興縁起(1冊)は嘉暦3年(1328)から建武元年(1334)にかけてのこの寺の再建の状況を記す。
それによると、鎌倉時代末には国分寺は荒廃し、本尊金銅薬師が盗難にあって国司が京都に探索にいったこともあった。住僧円源房宣基は再興の志を起こしたが、元弘の戦乱などで中止、後醍醐天皇が伯耆から帰京するに及んで復興し、建武元年盛大な供養が行われたという。その時の金堂が5間四面堂舎一宇というのは現在小字本堂屋敷に残る礎石と合致する。この時の再建堂舎に塔がみえないのは、あるいは塔のみは創建時のものが残っていたためとも考えられる。雪舟筆の「天橋立図」に描かれる塔はこれであろう。
のちに再び荒廃し、とくに永正4年(1507)の若狭武田氏が細川政元の応援を得て府中城を攻めた時には戦火を被ったと思われる。現存礎石のほとんどが火にあたったあとを残している。行道面(1面)は桐製・彩色、縦32.5センチ、横19.7センチで、練供養に用いられた。裏に「金光明寺」「修正円尊」と墨書されている。毘沙門天と伝え、鎌倉初期の作という。
丹後国分寺の主な歴史資料
『京都考古学散歩』
丹後国分寺
籠神社から西へ一キロいった北側の台地上に、丹後国分寺跡と京都府立丹後郷士資料館がある。
丹後国分寺跡は、資料館の前庭として史跡公園化され整備されている。南に中門跡、その北側の一段高いところに金堂跡、その西側に塔跡のそれぞれ礎石群が露出している。そして丹後国分寺の法灯をつぐ現在の国分寺は、さらに北側の一段小高い所に存在している。現在露出して建物跡として整備されている礎石群は、発掘調査した結果によっているのではなく、昔から露出していたものをそのまま整備したものである。いうまでもなく、丹後国分寺は奈良時代に諸国に建立された国分寺の一つであるが、現在の金堂跡等の礎石群は奈良時代の建物では考えられないような礎石配置を示しており、これらの建物群は室町時代の初期、建武年間に再建された堂塔のものであろうと推定されている。したがって、奈良時代創建の丹後国分寺がどのような伽藍配置をしていたのかは明らかではない。しかしこの周辺で採集される瓦には明らかに奈良時代のものがあり、この位置付近にあったことはほぼ間違いないものとされている。
この丹後国分寺跡に立てば、眼下に、天橋立を一望にすることができ、天平13年(七四一)の、いわゆる「国分寺建立の詔」にいう「それ造塔の寺はまた国の華為り、必ず好処を択んで実に長久にすべし」とあるとおりの絶好の場所をえらんで建てられていたことがわかる。 |
『与謝郡誌』
国分寺趾
府中村字国分、護国山国分寺附近にあり東西凡三十五間南北四十間中央に金堂跡礎石四十有餘個歴然として現存す。寺は東南に面し十一間四方その前方十六間を隔てたる正面に圓柱の柱當ある礎石二個現存し塔の礎石も西南二十間を隔てゝ十六個完存す。講堂は金堂の背後七間餘を隔て、ありしが如く、僧坊は其南方にありしものか今長老坊の字名存す。鎮守は本尊薬師如来の垂迹牛頭天王を斎き坊後の小丘に祭る。金堂より山門を見透したる一直線に海岸まで賽路の跡もあり土塀の蹟は御土居の字名と共に残る。以上大體の地域は現今稲田と化し殆んど中央を縦貫して現在国分寺の通路となれり、地内より発掘されし古瓦は無論平安朝以前なるも寺に建武再建に関する古文書ありそれに依れば現存の礎石は天平創建の国分寺趾にあらで建武再興の寺趾かとも疑はる。 |
『宮津市史』(挿図も)
諸国国分寺・尼寺の建立
奈良時代の前半から中ごろにかけては、相次ぐ政権闘争や疫病の流行などの社会不安が相次いだ。天平元年(七二九)年にいわゆる長屋王の変をおこし権力を掌握した藤原四氏は、天平九年に疫病のため相次いで病死する。さらにその三年後の天平十二年には、九州の大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしている。時の聖武天皇は同年以降、平城京から山背の恭仁宮(加茂町)、近江の紫香楽宮(滋賀県信楽町)、摂津の難波宮(大阪市)へと相次いで遷都を断行し、ふたたび天平十七年に平城京へ戻ってきている。この聖武天皇の行為は、相次ぐ社会不安のなかでこれを断ちきるための施策であったと考えられるが、一方で仏法の加護を得てこれらを解消しようともした。その施策のひとつが、天平十三年に下された、いわゆる「国分寺建立の詔」である。この詔には、国ごとに金光明最勝王経一部を安置した七重塔一基を作り、僧寺を「金光明四天王護国寺し、尼寺を「法華滅罪寺」とすること、また造塔は国のもっとも良き箇所になすこと(必撰好所)、などが述べられている。今日ではこの詔により各地に築かれた寺院を「国分寺」、「国分尼寺」と呼んでいる。つまり平城京の東大寺を総国分寺として全国六○余国に国分寺と国分尼寺が築かれることになるのである。
丹後国は、和銅六年(七一三)、丹波国より加佐・与謝・丹波(現在の中郡)、竹野、熊野の五郡を割き成立した。丹後国設置以後、国の政庁である国府の諸施設は、丹後における旧来の有力者の本拠地である、野田川中流域(加悦町付近)や竹野川中流域(峰山町付近)に築かれることはなく、特定の政治的意志によるものか、天橋立を見おろすことができる阿蘇海北西岸の台地、すなわち岩滝町男山付近あるいは宮津市府中地区に漸次的に建設されていったのではないかと考えられている。一般的には国分寺・国分尼寺は国府所在地およびその隣接地に造営されるが、丹後国分寺もまたその原則に従い、国分の台地上に築かれたのであろう。阿蘇海・天橋立を見おろすこの地は、まさに聖武天皇の詔にある「必撰好所」の地にふさわしい。
…
府中地域は、背後に標高五四六メートルの成相山を抱え、阿蘇海までの狭小な扇状地形を流れる短い河川は、たび重なる氾濫と山崩れをおこしている。したがって当地では、集落は土石流に強い台地上に集中することになる。このような地形的制約により、この地に諸国に比して大きな国分寺伽藍を築くことは困難ではなかったかと考えられる。いずれにしても謎の多い丹後国分寺の実態を明らかにするためには、中心伽藍が所在するであろう史跡地内の発掘調査が必要であろう。 |
『舞鶴市史』
丹後国分寺の創建された場所は、建立の詔に「必ず好き処を択ひて」とあるのにふさわしい、南方の内海に横たう景勝天橋立を指呼のうちに一望できる宮津市府中地区に比定、僧寺は字国分の台地上にある史跡「丹後国分寺跡」を当て、尼寺については、国分寺跡より東に一キロメートルと近接し、奈良時代の軒丸瓦・布目瓦の出土している中野遺跡付近(字中野)がその候補地にあげられていたが、前記した中野遺跡発掘調査によって、平城宮系軒平瓦や風字硯・墨書土器など有力な手がかりは検出されたものの、明確な寺院跡は確定できなかった。
史跡「丹後国分寺跡」は国分集落の北側、平坦な台地上にあって、金堂跡とその南側二八・八メートルに門跡、西南西側三九・八メートルに塔跡の三礎石群から成り、これらは嘉暦二年(一三二七)〜建武元年(一三三四)に再建された国分寺のものではあるけれども、創建当時の同寺もこの位置で、しかも現史跡より大規模な伽藍が方二町の寺地内に配置されていたものと考えられ、礎石の中には造り出しを施した奈良時代の古式礎石も各群に一個ずつみられる(写真74)。また、丹後国分寺の遣瓦とする軒丸瓦・軒平瓦各一点が同寺の法灯を伝える国分寺(字国分)に所蔵されているが、軒丸瓦は塔跡出土といわれ、瓦当文様が単弁八葉蓮華文で、小さい中房に蓮子一十五、周縁に珠文二四を置いており、軒平瓦は破片のため明細を知り難いが、n状の顎を呈し、文様はかなり細緻な唐草文の周囲を珠文が密にめぐっている。いずれも時代は奈良時代末期で、両瓦は一対として創建当時使用されたものであろう(写真75)。
なお、現国分寺に安置されていた丹後国分寺丈六仏の胎内像と称する金銅観音菩薩半伽思惟像が、明治二十一年、盗難にあってその所在が不明となっていたが、近年、大阪府下の美術館に収蔵されていることが確認されている。
平安時代になると、諸国の国分寺の中には倒壊・焼失しても、律令体制の変質や地方財政の窮乏のもとでその再建が困難なため、国内の定額寺をもって同寺の代替とされたり、また、鎮護国家の仏事が同寺のみならず定額寺や国庁でも催されるようになったり、さらには、天台・真言両宗の新仏教が勃興するなど、同寺の存在意義は次第に薄れて衰退に向ったが、同時代における丹後国分寺の沿革については、わずかに弘仁・延喜の両主税式に「国分寺科二万束」。(二五六頁)とあることを知るに過ぎない。
以上、丹後国分寺は奈良・平安時代の丹後国における鎮護国家の道場であり、国の華と謳われた当国仏教の象徴であったが、これらの実態を尋ねうる史料に乏しく、今後の寺跡発掘調査による究明が期待されている。 |
『宮津府志』
護国山 国分寺 在與謝郡府中国分村
真言宗古義派 成相寺末
本尊金銅薬師如来 開山行基菩薩
寺記曰。人皇四十五代聖武天皇天平十三年建立ニシテ而行基菩薩之草創也云々。
天橋記曰、凡毎州国分寺を置るゝ事天平九年なり、相傳ふ当寺本尊を盗人奪ひ去て他国に往き鎚を以て砕かんとす、其鎚の音丹後国分に帰らんと聞ゆ、盗人驚て返し奉るとなり今に鎚の痕あり。嘉歴年中宣基上人再興す上人は東寺の亮明なりと云、供養法事の図あり、勅使など有りけるよし傳へ侍る、今田間に古の伽藍柱礎の跡残れり。
…
鬼面二ツ 外ニ 上人面一 毘沙門面一
古記曰、当寺に一角の鬼の面二あり、常は秘して猥りに開かず、是を出す時は究めて風雨俄に起るなり、夏日旱天には郷民此面を仰ぎ雨乞を爲すに大雨必ず降るなり、毎年疋月十三日於二寺内一開帳す。相傳へて云ふ宣基上人の時嘉暦三年十二月二日何国ともなく老人夫婦来りて上人に仕ふ、老夫は山野に出て耕作薪水を供す老婦は内に在て食饌を供す夫婦昼夜奉事する事数月也、上人怪みて毎々其来所を問へども更に語らず。一日土人他に行かんとして留守を夫婦に属し、明日ならでは帰るまじとて出行しに、其夜夫婦の者上人の留守を安じて互に酒を酌て覚へず酔臥す、上人は思の外に用事を早く仕舞て他に一宿す可き所を其夜に直に帰り、方丈に入て見れば夫婦酔臥してあり、灯の影に見れば其顔色異形の相を顕らはす人間の顔にあらず、上人大に驚き怪むし雖彼等が日頃の労事を思て是を咎めず、翌朝に至て夫婦の者上人夜中に帰来て、酔臥の貌を見し事を恥けるにや、二人共に啼泣して暇を乞ひ永く去らん事を願ふ、上人懇に止むれども留らず、其夜顕わせし二人の異相を手自ら彫刻して上人に奉り、二人共に辞し去て行方を知らず、時に嘉暦四年正月廿三日なりとぞ、今の什物の面即ち之れなり。
鬼石 堂寺の近辺にあり、右の両鬼立去る時に擲し石なりと俗に云傳ふ、鬼の手痕とてくぼみあり。 |
『宮津市史』
毘沙門天面 一面 字国分 国分寺
木造彩色 長三二・五センチ
平安時代(十二世紀) 宮津市指定文化財
仏教の法会の際には、仏の世界の諸菩薩、諸天に扮し、礼拝供養のために、堂塔や仏像のまわりを歩き巡る儀式である行道(ぎょうどう)が行われることがあった。そのために用いられるのが行道面である。
この面は、忿怒形で、天冠上に火炎状の文様の中に宝珠を表しており、毘沙門天と考えられ、十二天面の一部であったかと考えられる。建武元年(一三三四)の丹後国分寺再興を記録した『再興縁起』に行道の記録があり、これがその際にも用いられたことが推定される。
ヒノキの一材から彫り出され、比較的面奥の浅い形制をとっている。仏像と同様の表現をとるが、忿怒の表情は誇張を抑え、静かな威厳を保っている。また内部のモデリングに微妙な抑揚をもち、頬の膨らんだ表現には力強さがある。天冠台や髪際の彫り口は精緻で、全体に的確な彫技を示し、優れた作域を示している。
この面は、裏面に「金光明寺・修正□□」の墨書があり、これが追記であることから、ある時期から年初の除災法会である修正会(しゅじょうえ)で用いられたことが知られる。法隆寺西円堂の修二会(しゅにえ)では、三鬼が暴れているところに、毘沙門天が登場してこれらを追い払うという追儺(ついな)の例があり、これもそのような用い方をされたものであろう。
追儺面 三面 字国分 国分寺
木造彩色 長 三五・八五 二九・八 二三・五センチ
室町時代(十五世紀) 宮津市指定文化財
当寺の修正会に用いられていたと考えられる面で、男、女の鬼面と宣基上人と伝える面とからなる。鬼面二面は、一角を含んで一材(材不明)から厚手に彫出され、白で下地を作ったのち、彩色を施していたものとみられ、父鬼に一部朱色が残っている。太い鋸歯形の眉(先端欠失)や、中央に穿孔のある球形に表された目、大きな鼻の作り出す相貌には誇張が目立っているが、下唇を噛んだり、口をへしめたりした表情には諧謔味も感じられる。口の両脇に穿孔があり、可動式の牙が取り付けられていたかとも考えられるが、類例が知られずその意味は不明である。
全体に彫技に優れ、鼻から口にかけての滑らかな彫り口にはみるべきものがある。
伝宣基上人面も一材から彫り出されるが、こちらは幾分薄手である。この面も伝承にかかわらず、鬼神系の面とみられ、細まった顎や開けた口の作り出す表情には、一種の不気味さがある。鬼面と一具の制作ではないであろうが、これも追儺面と考えられる。これらの制作時期は、同類の作品との比較から室町時代かと考えられるが、全体の整った形態には古風なところがあり、国分寺復興の南北朝期にさかのぼる可能性を保留しておきたい。
寺蔵の『国分寺略縁起』の紙背の『当寺之霊宝鬼面之起』は、嘉暦三年(一三二八)十二月に宣基上人のもとに仏道修行に訪れた二人の男(実は鬼)が、その本形を現すことを請う上人に対し、残して行ったものと伝えている。
その伝説はともかく、法隆寺西円堂には、毘沙門天が三鬼を追う追儺の例があり、これらは中世に南都との関係が深かった国分寺の追儺の行事を示す遺品として貴重であろう。 |
『丹哥府志』
◎国分村(中野の次)
【精進社】(未考)
【護国山国分寺】(真言宗)
護国山国分寺は行基菩薩の開基なり、中興開山を宜基上人といふ、天平年中毎州国分寺を置く蓋護国山は其一なり。本尊金銅薬師は聖武皇帝の御作なり、丈六薬師の腹内に安置奉れり、其丈六薬師の御面像は光明皇后の御作なりと伝ふ、是より凡六百余年の後其金銅薬師を盗むものあり、携へて山城の国に至る、後に其もの数々の怪異の事に逢ふ、よって之を路傍に捨つ、於是山城の国司内大臣正二位藤原朝臣公賢霊夢に感じ其尊像を拾ひ得たり、よって之を丹後国司藤原朝臣忠助に送り来る、丹後国司藤原朝臣忠助之をただすに其霊夢とて符合せり、故を以て其尊像再び国分寺に置かる、後醍醐天皇是事を聞き玉ひ乃ち宜基上人に勅して伽藍を再建せしむ。嘉暦二年戊辰五月八日経始の式左の如。
供養大願主 国司内大臣正二位藤原朝臣公賢
勅使 正五位下行内匠頭藤原朝臣光達
税部旦那 正六位下行権介 藤原朝臣忠助
導師 沙門宜基
咒願師 沙門妙円
衆僧六十七人其他工匠等審に其名を題す、今これを略す、建武元年落成の式亦初の如し。
蔵宝
一、鬼形の仮面 二(出図)
寺記曰。嘉暦三年十二月二月一老夫老婆を携へ偶然として寺に来り投宿を乞ふ、元より何の人なるを知らず蓋廻国の者と見へたり、宜基上人其老て寒気に向ひ猶搓行するを憐み懇に之を留る、遂に寺に留る凡四五十日其人となり皆質朴にしてよく寺の助となる、以是寺檀共に是を喜びぬ。一日上人留守を老夫に托して他に出たり、是夜は為に帰らじと約せしが、思の外早く用を済し、いまだ夜半にならざる前寺に帰る。老人夫婦は既に熟睡して会て上人の帰るを知らず、其顔色蓋人間にあらず各一角あり、上人之を見て怪むといへども敢て其熟睡を覚さず、ひそかに室に入りしが翌朝に至て二人のもの別を告げ将に去らんとす。上人強て之を留れど肯せず、其夜現せし二人の異相を自から刻み上人に捧げて去る。今ある所の鬼形の仮面是なり。毎年正月十三日は鬼面開帳の日なり、常には人に示さず、之を出せば必ず雨降るよって請雨に是を用ゆ極めて験ありといふ。
【鬼石】(海辺)
鬼石といふは石の状鬼に似たりといふにあらず、鬼の持ちたる石といふ所以なり、蓋国分寺に留りし二鬼寺より帰り去る時此石を持てなげたりとて、其手の跡今に存すと語り伝ふ。
【付録】(地主荒神、八大荒神) |
『丹後の宮津』
国分寺址(指定史蹟)
妙立寺からでて足をさらに岩滝の方へむけると、やがて小松部落があり、目的地の国分寺址はその先の国分部落である。ところでこの小松部落は、丹後が平家の所領当時、その支配所を置いたところと伝え、小松姓を名のるここの人々は、小松内大臣重盛の流れだといっているが、それはともかくとして、ここの「天神社」が重盛によって祭られたといい、あるいはかっての「鳳凰山安国寺」遺跡、また「如意山宝林寺」址もあるといった、数々の遺跡をもつ部落である。が、とにかく足を国分部落へむけて目的の「国分寺址」をみると、畑と草むらに往古の礎石が正しくならび、その礎石の上に講堂や金堂の建ちならぶ、そのありし日の国分寺を想うとき、一千二百年の歴史が走馬灯のように目にうかんでくるのである。かりに建武再建の事実があったとしても、今日すでに現存せぬ堂塔の興廃は、むしろこの造された礎石によって清算され、天平の護国山国分寺が、そのかがやくいらかを、景勝「あまのはしだて」に相対して、そびえたたせる姿を想像するに少しも困難でない。またそれなればこそ、国家もこの遣址を昭和五年十月史蹟と指定したのであった。ではそれで、この遣址をこのままにしておいてよいものかどうか、地方人のふかい反省と、整備への努力を期待せざるをえない。なおここには現在も同名の真言宗・国分寺があるが、天平の国分寺をうけついだとはいっても、ほとんど資料もなく、わずかに二三を保存して、往古をしのぶばかりである。 |
関連情報
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