日本三景・天橋立
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京都府宮津市大垣 京都府与謝郡府中村大垣 −天橋立観光− 主なものだけ (文珠地区) 智恩寺(智恵の文珠) ビューランド展望台(飛龍観) 股のぞき 天橋立温泉(智恵の湯) 知恵の餅(橋立名物) 知恵の輪 廻旋橋 天橋立観光船 日本三景:天橋立 磯清水 橋立明神 (府中地区) 丹後一宮・元伊勢・籠神社 真名井神社 傘松公園(このページ) 西国28番札所:成相寺 郷土資料館 国分寺址 阿蘇海と与謝海 |
傘松公園の概要天橋立名所の傘松山公園は天橋立の北岸側の高台にある。カメラのGPSでは標高130メートルくらいである。 ケーブルとリフトで登れる、成相寺への参詣道でもあって、昔からの歩道(大谷道)もある。 上には展望レストランや土産物店、成相寺へのバスの発着場がある。 背後の円い山頂は天香語山といい、傘松山公園は、写真で言えば左手に山頂がある笠山という山の中腹にある。 丹後国や天橋立に敬意を表して、一宮・元伊勢・籠神社にお詣りをして、土産物店街を抜けていくと、ケーブル乗り場がある。 大谷寺のすぐ脇をケーブルが登る。歩いて登ろうなどとは考えない方がよろしいかも。昔の人は皆、この道を歩いて登ったのであろうが、現代人のハシクレの私などはここまででゼイゼイであった。偉そうに言ってはいても情けない。 ケーブルやリフトがない時代には駕籠屋さんに頼んで登った人もあるそうである。(展望台の写真館より) さっそくリフトに乗り、登ってみよう。 天橋立を一望にする傘松公園。天下の絶景。 ここには展望台やレストランなどがある。 徒歩でもう一段10メートルばかり登ると天橋立はさらによい。 ここは空中庭園、天空の城ですが、わたくし的には一番先側(東側)がおすすめ。 「天橋立」から「浦島子(浦島太郎)」が行ったという「常世の国」(冠島)まで一望できる。伊勢と同じように ぜひ時間の許される限りをごゆるりとお過ごしを− ↑風土記はこの方向(左の木の向側))に、浦島子が行ったという常世の国があると伝えるのだが、こんなことで超大事な観光スポットが見えにくい。 ここからも「日本三景・天橋立」は見えても、近頃いわれる「世界遺産・天橋立」が見えてこない。世界の天橋立をめざそう。もっともっと視野を広げるべきかと思われる。どこかの政府や政治屋どものように、都とアメリカしか見えてない、上ばかり見ていると世界遺産はない。 しかもこの輪は小さくて何度投げてもカワラケが入らない。「入らんネ、病気が治らんネ」と嘆き悲しむ方もおられた、作るのならば、もっともっと大きく大きく作るべきと思う。 ここは天橋立
「股のぞき」は天橋立だけに見られるもので全国的によく知られている。丹後人の責務としてぜひとも解明したいと願わずにはおれない。 |
天橋立伝承 神代の昔、天にあった男神イザナギが地上に祭られていた女神イザナミのもとに通うために立てられた梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。また、人間の心が純朴で素直であった古代には、神と人、天と地上はは互いに往き来でき、天橋立は神と人、男と女とを結ぶ愛の懸け橋と信じられていたのです。 |
傘松公園と股のぞき 一の宮社頭の案内所から一人の婦人がメガホンを口にあて、道とおる遊覧客にむかって「ケーブルはこちらから−」と、一人でも多く境内とおり抜けの道へ引っぱり込もうと一生懸命である。どうも少々いただきかねる有様であるが、境内とおり抜けはたしかに二三分間時間の節約にはなりそうだ。いずれにもせよ、傘松公園へのケーブル線一の宮駅へいそぎ、四○○メートル四分半のケーブルカーで傘松公園へ着く。ここは京都府営の公園地で、特色は「天橋立」眺望の名所として有名である。もっともケーブルの終点からさらに五○メートルの急坂をのぼった台地が、古来の傘松であり、ちょうど傘のように枝をはった老松が一本あって、府営の設備もここに設けられ、展望は一段とすばらしいが、徒歩で急坂五○メートルは誰もあまり好まないとみえる。 さてこの傘松公園からの「天橋立」観は、平凡といえばもっとも平凡であり、美しいといえばもっとも美しい「はしだて」で、いわゆる箱庭的景観の典型といえよう。ところが、この公園に設けられた石の台に乗り、「はしだて」をうしろに、腰を曲げて自分の股間から向うをのぞくと、その箱庭的景観は一変し、天地は転倒、「はしだて」は空に、空は下に、まったく驚くべき奇観を呈し、「天橋立の股のぞき」という天下独特の眺望法となる。これは体位をかえて眺望するものゝ、その錯覚を活用したもので、まことに愉快な観賞法ではある。.… またのぞき かさ松から 天の橋立を 股のぞきしたら 松も舟も空から落ちそうだ よその ねえさんが スカートをまくりあげ わらいながら 見ていた またのぞきのかっこうは おかしいけれど まっすぐみているよりも 美しい橋立がある 何でも 見方をかえたらおもしろいな 丹後野田川町市場小学校 五年 山本微二君作 この少年のたくまない詩は、「天橋立股のぞき」の妙味をいかんなく歌っている。 |
戦時下の天橋立 昭和十二年(一九三七)九月の日中戦争の勃発とその拡大は天橋立観光に大きな影響を与えた。十三年人月、本来は稼ぎ時であるこの月の宿泊人員は前年八月に比較するならばほとんど半数程度の激減振りであった。具体的には、宮津では男二七八二人、女三九八人、合計三一八○人、文珠では男二○二五人、女一○三一人、合計三○五六人が八月の宿泊人員であった。各旅館では「今年のごとき閑散なことは全く未曾有です」と語っていた(『橋立新聞』昭和13.9.14)。海水浴客も、八月の土用期間が案外涼しかったことも影響して大きく減少した(同、昭和13.9.14)。また、新浜芸娼妓の稼高は、八月中に一万八○○○余円、昨年当月に比較して三、四割の減収であった。この後戦争が拡大していくにつれ、天橋立への観光客は減少していったと思われる。 このような事態が進行するなかで、『橋立新聞』昭和十三年十一月六日付は、同月四日に京都府警察部の特高、保安両課の検閲係が天橋立の股のぞき土産品の一部を発売禁止にすると言明をした、と伝えている。これは、京都府警察部による銃後の風俗取締の一環で、おそらく成相山上での着物姿の芸妓の絵葉書などが観光土産品中のいかがわしいものとして取り締まりの対象になったものと思われる。 |
傘松の編入 大正期には、天橋立は傘松など周辺地域を編入して公園域を拡大するとともに、明治期にまして環境整備が進行した時代であった。また、史蹟名勝天然記念物保存法による名勝地指定により、より保存の動きが強まった時代でもあった。 大正六年(一九一七)十月二日、宮津町の時務調査会(委員は内山唐三、佐久間丑雄、池川進一郎、木谷清七、宮城仁祐、三上勘兵衛、今林仲蔵)は山本浅太郎宮津町長にたいし「宮津町政に関する意見書」(四−九七)を提出している。この長文の意見書はこれからの宮津町政の課題を述べたものであるが、その一項目として「町是の確立」を挙げ、今後の宮津町の町是として、工業地や貿易港としては前途の光明を見出しがたいとして、「天橋遊覧地」として設備を完備していくべきだとしていた。このように、大正期、宮津町をはじめとした与謝郡の町村は、天橋立を中心にした観光開発に積極的に乗り出していく。八年一月十七日、小松九郎右衛門府中村長は、根本吉太郎与謝郡長にたいし、一定の条件を付して府中村のうち笠山の土地ならびに御休憩所を無償で寄付するという「寄附願」を提出している。 条件とは、@使用権は従前の通り府中村にて享有する、A使用権を許可する場合は分割しない、などであった(四−五三六)。 このようにして、府中村および成相寺からも寄付を受けて、同年四月、傘松公園が設置され、この時この傘松地域は天の橋立公園に編入される。府中村はみずからの村の土地を寄付することによって、村の振興を図ろうとしたのである。 傘松には、すでに阪鶴鉄道が福知山まで開通した明治三十三年頃、吉田皆三によって民間の展望所が開かれていた。また、吉田は、宮津への鉄道の延長の運動や広く橋立を世に知らしめるために尽力し、大正元年十一月に逝去した。吉田の十三回忌の年にあたり、丹後鉄道宮津線が開通された大正十三年(一九二四)十月、三井長右衛門ほか五人を発起人として、吉田の碑を橋立の畔か傘松付近に建立する運動が起こり(4−五五七)、吉田の命日にあたる十一月八日大谷寺に建立された記念碑の除幕式がおこなわれた。 史蹟名勝の指定 大正八年四月十日、史蹟名勝天然記念物保存法が公布される。この法は、内務大臣が指定した史蹟・名勝を地方公共団体に費用も含めて管理の責任を負わせ(一部国庫負担)保存をはかっていくことなどが規定されていた(高木博志『近代天皇制の文化史的研究』)。十年六月十七日、内務省は堀切内務大臣官房地理課長の名で馬測京都府知事にたいし天の橋立公園を史蹟名勝天然記念物保存法第一条により名勝に指定する予定であることを伝え、そのことにたいする意見を京都府に照会するとともに、公園地・傘松展望地の地籍・面積評価・管理者・付属の建物その他の工作物・国有地以外の所有者の住所氏名・地籍図、智恩寺境内の地籍・面積・管理者・所有者・地籍図を知らせるよう通達した(四−五三八)。八月一日、与謝郡は「天橋立公園地二関スル調書」を京都府に提出し、十一月四日、京都府から内務大臣官房地理課へ回答された(「天橋立・宇治公園一件綴」京都府庁文書)。このような経過を経て、十一年三月八日、内務省告示第四九号により「天橋立」は三保の松原とともに名勝地に指定され、二十二日そのことが京都府から与謝郡役所に伝えられた。この時、磯清水神社、智恩寺境内、成相山上部の郡有山林が名勝地の範囲にされたのは、それらが天橋立と分かつべからざる風景とされたためである。そしてこの地域は、「公益上必要止むを得ざる場合の外風致を損傷すべき現状変更を許可せざるべし」、とされたのである(四−五四三)。 保存法第五条は、史蹟名勝を管轄する公共団体の負担の一部を国が補助することができると規定していたが、名勝に指定されたからといって、ただちに名勝保存費が支給されるわけではなかった(丸川論文)。むしろ名勝指定により天橋立の名声を高め遊覧客の増人が期待されたのであった。 保存と設備の充実 このように、天橋立は保存を図りつつ、公園内設備の充実が図られていくことになる。保存の面では、松樹の保護が重要であった。天橋立の松は長大で樹齢の古いものが多く、風雪などによる傷みは激しかった。大正六年四月、与謝郡は天橋立内で保護すべき松一二○本一本づつ詳細な保護の仕方を記した「天橋立公園松調査書」を作成し、さらにこの年には京都市の要請をうけて松樹保護および松樹移植工事を実施している(「天橋立公園一件書類」与謝郡役所文書)。京都府も府内の貴重な文化財産として、天橋立の保存には積極的であった。同年六月二十三日、京都府は内務部長の名で与謝郡長にたいし、「松の稀疎なる箇所に補植の要ありや」など具体的に項目を挙げて「天橋保勝法」を質問し、与謝郡もこれにたいし「イ、補植の要あり、現在大天橋に於て間引き得る松苗数百七十七本(四尺以上十五尺以下)あるを以て之を全部大天橋に補植す、ロ、渡船場附近の補植」などと答えている(同)。京都府にたいする与謝郡の回答は、このような松の補植と植え込み、松以外の雑木の伐採、地面の整理(盛上、凹部の埋立)、護岸工事、傘松に達する道路の整備、智恩寺山門前および渡船場付近の民家の移転、智恩寺の多宝塔の整理、小天橋と文珠との架橋など詳細に回答が寄せられていた(同)。 大正中期、天の橋立公園の設備も充実していった。大正十年九月二十七日、与謝郡長が京都府内務部長へ提出した天の橋立公園の調査書によれば、体育施設としては、小天橋には大運動場、濃松には運動器具として廻旋搭、誘導円木、ブランコ等を備え、夏季には海水浴場があった。また、娯楽休養施設としては、濃松および傘松に二個の喫茶店、休憩所三箇所、腰掛十数個。遊覧者招致施設としては、夏季に海水浴場の設置、傘松に展望所があり、保安通信施設として濃松に倉庫一棟、園丁一人を常置、自動電話一、便所三、飲用水井戸一、雑用水井戸二、渡船場一、があった(四−五三九)。 大正八年傘松公園が天の橋立公園内に編入されたことは、傘松地域の設備の充実、傘松までの道路の整備が重要になった。大正十一年二月十日、与謝郡会は三上勘兵衛議長名で山本三省与謝郡長宛に傘松公園に自動電話設置を求める意見書を提出している(四−五四○)。しかし、この件はこの時点では認められなかった。三月二十七日付の大坂逓信局長から与謝郡長宛の回答では、文珠の切戸には毎年春秋に一般遊覧客用に臨時自動電話一個を設置しているが、利用客は少数で設置の効果は乏しいとして傘松への増設を認めなかったのである(「天橋立公園一作」与謝郡役所文書)。また、傘松に達する登山道路には点燈設備がなかったが、十二年五月十八日、府中村大垣の旅館菊亭斎藤弥助および一ノ家宮崎武照二人から旅館有志が傘松に達する登山道路の沿道電柱一○本に点燈したい旨与謝郡役所に申請があった。この申請は与謝郡役所から京都府に送られ、五月二十九日許可されている。この外灯はスリガラス製で横細字に楼名(旅館名)が記されたものであった(四−五五一)。 成相ケーブルと天橋立遊覧協会 大正末に、府中村大垣から成相山傘松までの電気鉄道計画か持ちあがる。この計画の実施主体は、成相電気鉄道株式会社(成相電鉄)てある。同社は、元丹後自動車会社役員を中心に、内山廣三(宮津町)、後藤龍太郎(京都市)、宮崎佐平治(府中村)等が重役となり、資本金二五万円で大正十四年(一九二五)十二月に組織された(四−五五九、五六○)。成相電鉄による成相ケーブル(天橋立鋼索鉄道)工事は、丹後震災によって若干遅れるが、昭和二年(一九三七)八月には営業を開始する(四−五六一)。 成相ケーブルの営業開始は、さらに遊覧客を増大させた。このようななかで、昭和三年六月十一日、天橋立遊覧協会が文珠なかや旅館で発会式を挙げる。この会は、天橋立に関係する宮津・府中・吉津・岩滝四町村の旅館料理屋、飲食店、土産物屋、貸座席業、自動車、ケーブル、モーターボート各種組合団体が一丸になって組織されたもので、前府会議員兼前宮津町長内山廣三を会長に、元与謝郡長山本三省を副会長、理事三人、評議員二二人、福知山運輸事務所長、保線事務所長、宮津警察署長、宮津・岩滝・吉津・府中各町村長が顧問となった。そして、今後も積極的に天橋立を宣伝し、ゆくゆくは国立公園とすべく努力することになった(四−五六二)。またこの年の秋、宮津遊覧協会では、昭和大礼で京都に集まる全国の人々を宮津や橋立に吸引する目的で、京都で観光の大宣伝をおこなう計画があったことを『日出新聞』は伝えている(四−五六三)。さらに遊覧客の便宜を図るため、昭和五年十二月一日には、天橋立遊覧の鉄道・天橋立汽船・天橋立ケーブルの連絡切符が関係筋と交渉の結果実施されることになった。下車駅は天橋立駅、宮津駅のどちらでもよく、連絡切符所持者は、文珠・一ノ宮間も一ノ宮・宮津間も同一料金。発売駅は東海道線名古屋駅、山陽線岡山駅、北陸線富山駅、関西線和歌山駅、山陰線松江駅を最長距離とするその間の著名駅、宮津線の各駅であった(『三丹新日報』昭和5.11.28)。 なお、天橋立遊覧協会は、昭和六年五月、天橋立に国際海水浴場設置の請願書を府社寺課に提出しているが、この結果がどうなったかは不明である(四−五六四)。 |
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