京都府宮津市文珠
京都府与謝郡吉津村文珠
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社
傘松公園
西国28番札所:成相寺

郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海
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智恩寺の概要
《智恩寺の概要》
宮津市文珠にあるお寺。「天橋立駅」を降りたところであり、北へ延びる天橋立はここからはじまる、また当寺は文化財の宝庫でもあり天橋立観光の大きな目玉ともなり親しまれている。
「三人寄れば文殊の知恵」の文珠菩薩を祀る。一説に中国五台山の文殊菩薩を勧請したとも伝え、臨済宗妙心寺派。山号は天橋山であるが、本尊が文殊菩薩であることから、五台山という山号を通称している。古来日本三文殊の1つとされて、「切戸の文殊」とか「九世戸文殊」、あるいは単に「九世戸」とも呼ばれる。

天橋立は「丹後国風土記」逸文に見えるが、当寺の創建も古く、大同3年平城天皇が天橋立に行幸、霊夢に感じて勅願により建立されたと寺伝はいう。山号・寺号は延喜4年に醍醐天皇の勅により付され、その勅額と称するものが伝えられる。勅願所となって、文殊会料の荘田寄進があった。平安期には丹後国司藤原昌保や平重盛が文殊堂などの堂宇の修覆にあたったと伝えられ、その当時は真言宗の寺院として展開をみたと推測されるているが詳細は未詳という。
古い謎に満ちたお寺である。
…天橋立図記二曰、延喜四年甲子勅して山號を賜ひ荘田を賜ふ、其後四百餘年を経て嘉暦年中嵩山禮師住侶となる是禅刹の始なり。其れより寛永迄三百餘年住侶詳ならず、寛永年中国主高広公別源禅師を請して住持せしむ。是より洛の妙心寺に属す。文殊堂明暦年中改造、禁裡より修理料を腸ふ、傳奏の文書当寺に納むと云々。
謹按一説に云今文殊堂の地は往古与謝の宮の旧蹤なり、文殊堂元と波路村にあり中古已来今の地に移ると云々。又宮津古記の説に別源禅師より五代雪山和尚の代に、与謝の宮旧跡に残たる社を橋立の洲崎に移し橋立明神と神號を改めしとあり。以上の二説是非を知らずと雖も延喜帝已来の事跡舊記に顕然たれば古代の開基に疑なし、然れども其神代の開闢と云ひ或は天照太神と地神二代天忍穂耳尊二神して海岸寺より此處へ移すなど云ふは誣説なり。
(『宮津府志』) |
元々は東側になる波路にあったもの。また元伊勢「吉佐宮」の旧地ともいう。
超古くは「智恵の樹」=「生命樹」「世界樹」の信仰があったと想像するが、そのような史料は残らない、文珠堂には室町初期ともいわれる柱が残されているが、その柱があるいは智恵の樹かも知れない。
さて当寺近辺には、文殊菩薩の乗る獅子にちなんだ獅子崎・獅子、文殊奥院と称する戒岩寺、文殊菩薩化現のとき乗っていた雲が化したという岩のある雲岩寺、文殊菩薩が最初の示現地である経ケ岬から、九世戸に移る途中に一時滞在したという穴文殊の洞穴など、文殊信仰に関する伝承も多い。
鎌倉時代制作の于?王と善財童子を従えて獅子に騎乗する文殊菩薩像(重要文化財)を本尊として祀る智恩寺は、縁起などで天橋立を中国五台山文殊大士降応の土地としているが、その開基については伝承の域を出ない。「延喜聖主」こと醍醐天皇から「天橋山」の勅額を賜わり、智恩寺と名付けたと伝える(『九世戸智恩寺幹縁疏并序』、『対潮庵記』が、『丹後国惣田数帳』にはわずかに「九世戸 二町三十六歩」を寺領として載せているだけで、所領規模だけから見れば鎌倉時代の智恩寺はそれほど規模の大きな寺院とはいえなかった。『対潮庵記』は、相国寺の彦龍周興(一四五八〜九一)が文明十四年(一四八二)に天橋立に遊んだ際の漢詩文であるが、彦龍はその中で延喜以来応永年中まで「爾来誰が人か主たるを知らず」というありさまであったと述べている。なお寺伝では、嵩山居中が嘉暦年間(一三二六−二九)に智恩寺を中興して新たに禅宗寺院としたという。
(。『宮津市史』は、) |

『拾芥抄』に「智恩寺 丹後九世ノ戸、文殊天竜、六斎供灯明云々」とみえて、九世戸文殊として早くから知られ、中世にはお伽草子の「梵天国」に、京都清水寺の観音の霊験で生れた主人公が智恩寺の文殊に、その妻が成相寺の観音になったという話を記すという。謡曲「九世戸」「丹後物狂」などにも取り上げられ、「丹後物狂」ではシテが名乗りとして
かやうに候ふ者は丹後の国白糸の浜に岩井の某と申す者にて候、われ久しく子を持たず候ふ間、橋立の文殊に一七日参籠申し、祈誓仕りて候へば、ある夜のこ霊夢に、松の枝に花を添へて賜はると見て、程なく男子を設けて候、
と述べ、その霊験が知られる。
足利義満も至徳3年からの約20年間に6回もこの地を訪れたという。

本堂に相当する文殊堂は明暦年中および宝暦年中の江戸期に修理を経たと伝える。内陣中央の「神建の柱」と称する四本柱や天井は室町初期を下らぬ古いものといわれるが、全体的には江戸初・中期頃の建築という。
宝形造の本堂には多彩な絵馬がかかる。正徳5年(1715)義士討入の絵、この地方で盛んであった俳諧・和歌の額、和算・砲術などの奉納額、千石船の模造の船絵馬などもある。和算の奉納額は文政元年(1818)の加悦町佐々木竜景門人の新井住石倉浅治郎、同12年の後野村広瀬儀光、天保8年(1837)の宮津藩小笠原長荘・新井正表書の3点である。絵馬は庫裏にも掲げられていて、そのうち板地幸色の酒屋絵馬は寛文9年(1669)に宮津の住人25人が奉納したもので、1つの画面を上下2段に分けて酒の製造工程と店の繁栄の様子を措いている。という。

↑絵馬が柱にも掛かる。
↓絵馬というのか絵扇子というのかおみくじなのか、びっしりと掛かっている。

↓文珠堂の裏側。古い絵馬がびっしりと奉納されている。

↓地獄の絵馬。悪事を働けば必ずここへ行く、と親に脅かされたものである。


禅宗寺院化したのは南北朝期の嵩山居中(大本禅師)入寺が契機となったようである。
足利義満・義持、細川幽斎・三斎などの保護を得たほか、「丹後国田数帳」には与謝郡に九世戸二町三六歩ほか、計五町四段三六歩の寺領をあげている。現与謝郡野田川町字石川に九世戸の地名が残っている。
永禄12年(1569)、京都を立った連歌師紹巴は「天橋立紀行」の6月23日条に
戒岩寺を過て宮づと云村より文珠堂に入了、院主出むかひて、寺前の潮をくませて焼ける風呂に入、夕すゞみにながめくらし、二十四日払暁より天橋立のきれどをわたり、府中など一見して帰寺畢、文珠縁起拝聞、天神七代地神二代正哉吾勝々速日天忍穂耳尊之時に向臨之九世戸とゝ云々、天浮橋の事などおもひあはせらる、
と記す、という。
文化11年(1814)、当地を訪れた野田泉光院の「日本九峰修行日記」に
九世戸の文殊へ着、本堂八間四面、納経す、楼門あり、門前茶屋多し、和泉式部三角五輪石塔あり、大寺也
と記す。という。

境内の柿葺二間の多宝塔(重文)は寺伝で明応9年(1500)丹後国府中城主延永修理之進春信建立と伝えられてきた、大正期の修理の際に上重の柱に「明応九庚申三月吉日テウノ初有之…」の墨書が発見され、大檀那延永修理進春信が大聖院の大阿闍梨智海を奉行として建立したことが知られる。

近世には宮津藩主歴代の保護を得た。寺領50石、末寺25か寺、塔頭は久昌院・本光院・寿昌院・対潮庵・心月院の5院庵を数えて、本堂(文殊堂)・鐘楼・山門・方丈・経蔵・地蔵堂・観音堂・多宝塔・衆寮などの諸堂宇完備の寺観を呈している。
寺格は乗輿免許5か寺の1寺に入り、御目見は第3番目であった。
寺勢興隆は京極高広に依るところが多く、寛永年中に別源禅師を招請し中興開山としている。第2世住持南宗和尚が明暦年中に文殊堂修理を行ったのをはじめ、8世完道和尚、10世蘭渓和尚など諸堂宇修理に尽力し寺観を保った。
正面の唐様楼門は黄金閣とよび明和4年(1767)の建立。

↑ウホー。こんな軒の深い物をどうやって作ったんだろなー
多宝塔もあきれてあきれて、屋根がひっくり返って落ちてこんもんだな−

方丈は天保年間再建、上間の床板は「一分七目の松」と称されて、天の橋立公園を領有していた時期(明治維新まで)、その松を建材として用いたものである。庫裏は貫政11年改築、楼門は「暁雲閣」と称し享保年間再建、鐘楼は明治14年再建。
無相堂は寛永年中、鎮守堂は嘉永年中の再建と伝える。
↑せめて英文の説明板くらいは立てないと、「世界遺産」は無理でなかろうか。「立入禁止」と書いてあってもこの人達は読めないようで、スイスイと入っていってしまった。
舞鶴あたりでも英文やロシア文、中国文、韓国文あたりまでは翻訳した案内パンフを作成している。最低これくらいは必要と思われる。
しかしこれでも本当は不十分であろう。元の文章は何でもない舞鶴人が作った日本文である。それをヘタクソに(失礼)に舞鶴人が翻訳したもののようである。舞鶴人からでもブーイングが聞かれる程度のものである。本当は英語圏・ロシア語圏、その他もろもろの文化圏の文化人に舞鶴をよく見て貰い、彼らの目から見た、彼らの言語での舞鶴案内を作るべきかと思う。舞鶴人の見方が絶対に世界標準で世界のどこにでも通用する見方のはず、そうに違いないとくらいに勝手に思い上がった連中ばかりのようなので、舞鶴では無理かも知れないし、私も言う気にもならないのだが、天橋立は実際に外国の観光客も多いのだし、地元住民がそうした広い世界精神を持つ市民に成長していかなければ、「世界遺産」の運動もたいした意味がなくなろう、ぜひとも取り組んだもらいたいと願う。いや勝手に評価してもらっては困るとか、老舗の看板に傷がつくかも、とか文句言うような世界遺産都市もあるようだが、人間の文化というものはそうしたものではなかろう、並行してあるもので、どこかが上だとかいうものでもあるまい、いろいろな見方があってこそ成長もしていけるもので、一枚岩の考え方だけでは変化に対応できない、何をそこまで傲慢に増長するのかと私は思う。
「知恵の輪」も当寺のものらしいが、その他の寺宝は、いっぱいありますが…
本尊の木造文殊菩薩と脇侍善財童子・優?王像3躯は重要文化財。寄木造、彩色、鎌倉後期の作。像高は文殊49p、獅子82p、善財60p、優?王75p。渡海文殊の群像を表したものというが、仏陀波利三蔵と最勝老人は残存しない。
金鼓一口も重要文化財。青銅で径50.9p、厚さ9.7p。鰐口とよばれるもので、側面に「至治二年壬戌十月十六日、海州首陽山葵師寺禁□造成棟梁道人守理…伏願皇帝万々歳」の刻銘がある。至治2年(1322)は元の年号で朝鮮高麗王朝の9年。智恩寺には元渡来の仏画2幅もあり、ともに丹後の渡来文化を考える上で貴重という。

境内に手水鉢として使われてい、「正応三庚寅七月七日」の銘をもつ鉄造湯船は上端径173p、高さ63.5p、内側銘によって願主物部家重、山川貞清鋳造と知れる。もと興法寺(弥栄町)にあったもの、「鬼の椀」とも呼ばれたそうで、成相寺にある同型湯船とともに、丹後の鬼と金属文化を考える上で貴重。正応三年は1290年だが、錆びてボロボロにはなっていない。千年鉄とでも呼ぼうか、現在の鉄でもここまでもつものだろうか。鋳鉄製で、この時代のものは成相寺と東大寺にあるだけとか、極めて貴重。

和泉式部歌塚と伝える鎌倉期の石造宝篋印塔があり、明応頃、山門より600メートルほど南にある鶏塚から掘り出したという。下のものも含めて石の文化も考えさせられる。

等身石造地蔵が3躯あり、右が応永34(1427)年丹波郡三重郷大江越中守永松の寄進になる千体地蔵、左は永享4年(1432)沙弥祐長の寄進である。少し左にはずれて同じく等身阿弥陀石仏が1躯、嘉吉元年(1441)の刻銘がある。
戦国期のキリシタン灯籠
稲富一夢斎の墓
出船祭(7月24日)

「出船祭 '12(天橋立文珠堂)」
「出船祭 '13(天橋立文珠堂)」

「日本三文珠」はどこを言うのか、ここ切戸の文珠と奈良県桜井市の安倍文珠院と、もう一つは周防大島の文珠堂、あるいは山形県高畠町の文珠堂とか(webで調べたもの)
ここでのガイドさんなどの案内を聞いていると、大和と山形県の亀岡文珠堂をいっている。
若狭湾の東側にもうひとつ有名な「もんじゅ」がある。この切戸の文珠から名を貰ったともいわれる、高速増殖炉である。文珠菩薩は御釈迦様の弟子の中では最も智恵深い人だったとされ、智恵の仏様、学問の仏様として崇敬されている。日本方式の増殖炉を目指したというが、神や仏と同程度と自己認識しているのか、それを名乗るような傲慢さ、増長ぶりでは必ずや大失敗するだろうと見ていたが、案の定そうした状態である。隣にあった「ふげん」は解体中。解体するにも1千億とかの費用がかかるという。根本原因は組織のたるみと自己批判したそうだが、高速増殖炉「たるみ」とでも名を改めるとよろしいだろう。プルトニュウムを扱う機構が「たるみ」とは、一原子力開発機構の「たるみ」というよりも、さらなるより大きな基本要因の解明が忘れられていそうに思う。
もう一つは「智恵藏」。これと同じ名の書籍があったが、それではなくて、舞鶴の旧海軍倉庫を改造したもので、バカほどのゼニをかけて何に使っているのかも一つよくわからない、どこが智恵なのか、こうした税金浪費の上のカラッポ建物が智恵なのか。これも似た結末になろう。戦争遺跡をどう後世に役立てるべきかの根本的考察ないままに、小樽や横浜の真似をして一体何が生まれるというのだうか。高慢が高じてとうとう市民病院をつぶしてしまった舞鶴市政が始めたものだが、市民病院の再建費用はこれまたいくらかかるのかもまだ見えない状態である。
緊張感を欠いてたるみきっている上に傲慢にも自分ほどエライ人間などいるはずもないと思い違いしているド役人どもが考えているほどには、人間の知恵なるものは、自ら神や仏の名を名乗るはもってのほかだし、智恵を名乗るにしてすらまだまだそこには到達してはいない。そのあさはかぶりはこれらの例からだけでも理解できよう。「あさはか蔵」とでも陰口をたたかれぬ間によく考えられるとよろしかろう。
智恩寺の主な歴史記録
『丹哥府志』
【五台山智恩禅寺】(臨済宗、寺領五十石、塔頭五院、末寺廿ケ寺)
寺記云。五台山智恩禅寺は其始を詳にせず、抑山を五台と號し智恩と称するは延喜皇帝より始まる、文珠堂に掛たる智恩寺の扁額は則、皇帝の宸筆なり、是以延喜皇帝を中興の開基と称す。文珠堂の聯云。天一地一忍穂尊創久志渡基。前三後三延喜帝賜智恩寺額。蓋是其大槧を掲示するなり。是より後殆一百年を経て藤原保昌本邦の刺史となる、是時再び伽藍を重修せり。保昌の後殆二百年小松重盛又伽藍を重修す。其後将軍足利義持公親ら文珠堂に参詣して白銀若干を賜ふ蓋重修の為なり、其時一族一色氏本邦の刺史なり、一色氏の次に細川侯、細川侯の次に京極侯、是より代々伽藍を重修して今に至る。蓋享保明暦寛政以上三度是時の重修には、今上皇帝より黄金を賜ふ、伝奏の書今に存す、是山門の黄金閣と称する所以なりといふ。之の正面に仏殿あり、所謂文珠堂是なり、本尊文珠菩薩は帝釈化人の作なり、額智恩寺の三字は延喜皇帝の賜ふ處なり、一の額に五台山といふは隠元禅師の筆なり、堂の内に掛たる聯は前に所謂天一地一前三後三なり、又一の聯に天橋架起五台山龍女献珠擁護神代降臨七仏祖獅王?足?叫とあり、化僧無染之ょ書す。仏殿の後に法堂あり、法堂の東に方丈あり、方丈の次に食堂あり、食堂の次に衆寮あり、衆寮の前に鐘楼門あり、暁雲閣といふ。暁雲閣の左に東司あり、東司の次に禅堂あり、次に久昌庵、次に本光庵、次に寿昌庵、次に寂定門、額の文字は悦山の筆なり、次に観音堂以上仏殿の東に連り山門の前に至る仏殿の西に無相堂、次に塔宝、次に鉄磐、鉄磐の大サ六尺四方内に銘あり今僅に正徳三年の四字をよむ、俗に鬼の椀といふ、泉を引て毎に溢る其水の清き実に掬するに堪へたり。鉄磐の次に経蔵あり、額に標月指の三字を題す、即非の筆、経蔵の次に二重の塔あり、明応三年府中城主延永修理進是を建つ、以上仏殿の西に連り山門に至る。仏殿正面に石灯篭一対京極侯之を建つ。其前に又石灯篭一対蓋是喬松院殿の建る所なり。石灯篭の前に松樹道を挟て左右に各二株、松樹より山門に至るすでに卅間余、山門の額に海上禅叢の四字あり、園大納言の書する所なり、樓上に十六羅漢を安置す。其正面の額に黄金閣の三字を題す、九条尚実公の書なり、是より以前に末国開先の四字額に題してありしよし、末国開先は国末開先の心なり文字の顛倒却古代を想するに足る。山門の前東の方に下馬札あり、凡境内南鶏塚より北江尻村に至る凡卅六町、西穴憂の里に至る廿九町。毎年六月廿五日は文珠の会式なり、其前夜は出船とて通夜参詣の人あり、又往来の人々互に悪口を語る前々の習なり。
宝蔵目録
一、大黒尊像(出図)…略…
一、香炉(出図)。此香炉は俗に章魚の香炉といふ、其状章魚の如く見ゆれども実孔雀なり、海底より上る今に漁叉の痕あり。
一、鰐口(出図)。鰐口の銘に至治二年壬戊十月十六日海州首陽山薬師寺禁口とあり、(註禁口和名鰐口)是も前の品と同じく海底よりあがるといふ。愚按ずるに至治は元英宗の年号なり、至治二年は本朝の後醍醐天皇元亨二年に当る。当時本朝無頼の徒支那の海国を攻むることあり、是を和寇と称す、蓋和寇の取り来るものと覚ゆ。
一、舎利(五顆) 一、白馬角
一、螺貝珠 一、木に生たる鎌
右の四品は松の丸殿より京極高広に伝へらる、京極高広之を智恩寺に納む、寛永十四年二月十六火其臣中川小左衛門の目録及総書あり、木になりたる鎌の事蒲生軍記に詳なり。
一、古刀鰐(出図)。古刀鰐は古代の太刀の頭なり、聖武帝時代のものといふ今図して参考に備ふ。
一、八僊鏡
予州大龍寺といふ寺に大汝持来の鏡とて裏に八僊人の付たる鏡あり、其鏡と寸法及銅色いささか異なることなし。
一、短冊…略…
右の外に龍の卵、天狗爪、龍鱗、牛の玉など類挙ぐべからず今之を略す。 |
『丹後の宮津』
文殊堂−天橋山智恩寺
門前旅館街から文殊さんへの正面に、禅宗妙心寺派に属する天橋山智恩寺の山門、これを「黄金閣」という。二層の楼門、「黄金閣」の名は、江戸期のはじめ、皇室から黄金を下賜されたことから、この名がつけられたといわれる。この山門にかかげられる額に「黄金閣」とあるのは、江戸期明和五年(一七六八)九条尚実の書である。この門の階上に、釈迦如来と十六羅漢の像を安置してあるが、いずれも江戸末期の作ではあるが、木彫りに玉服極彩色の立派な仏像といえる。山門は、創建以来何度目かの再建で、いまのは宝暦十四年(一七六四)の建築である。
文殊堂 山門から正面に、四柱式の檜皮葺
きで、東西十間、南北九間の堂がある。これを文殊堂といい、天橋山智恩寺の本堂で、ここに有名な文殊善隣をまつって本尊としている。建築の様式から禅寺の本堂でないことは明かであるが、そのまえに真言宗であったことを知ればなるほどとうなづける。
さて、この文殊堂はいつ建てられたのか。寺の説明をきくと、「堂内四本の柱は神代の創建にて−」といわれる。ところでその「神代」であるが、現代人はこの「神代」がいつごろのことか、さっぱりわからない。また本尊の文殊菩薩にしても、「梵天帝釈化現の作」だなんていわれても、おそらく千人に一人も、その意味のわかる人はいない現代である。それよりか、本堂・文殊菩薩ともに、平安期または鎌倉期のころとでも聞かされると、たいていの人はあゝそうかということになる。現に、「天橋山智恩寺」というこの山号寺号は、延喜四年(九○四)醍醐天皇によってつけられたこともほぼ確実であり、本尊「文殊菩薩」(重文)はその脇士(重文)とともに、はやく明治三十五年四月に国宝と指定されていることにみても、およそその尊さはうなづけるし、秘仏としてみだりに開扉しないことも、なるほどと思われる。
多宝塔 本堂から山門の方に向って立つと、その右側に二重層の多宝塔(重文)がある。これは室町期明応九年(一五○○)、時の府中城主延永修理進が、病気全快を感謝して建てたもので、よく室町期の工法をあらわしているので、これも明治三十七年、古社寺保存法による特別保護建造物と指定された。加えて塔内に安置される本尊「大日如来」も、同じく室町中期ごろの作として、立派な仏像である。
和泉式部の歌塚 多宝塔の向い側、本堂よりに花崗岩でつくられた大宝篋印塔(重美)があり、和泉式部の歌塚だといわれる。明かに鎌倉時代の特長をあらわす代表的石塔で、伝えられるところでは、かって宮津街道の鶏塚に建てられてあったのが、明応年中(一四九二〜一五○○)の水災で埋もれたのをここに移したといわれている。去る昭和十二年(一九三七)、重要美術品に指定されたことからも、その石造美術として立派であることが知られる。式部の歌塚といわれる話は、鶏塚のところをみられたい。
マリア燈籠 この寺に「マリア灯篭」があることは、ひろく知られている。書院の前庭にひそやかに建てられた織部形の「マリア灯篭」、よく見るとなるほどと思われるが、なぜこの寺にこうして建てられているかは明かでない。ただ想像すれば、江戸期はじめの城主京極氏などにキリシタン大名のうわさがあり、その前の細川忠興夫妻も宮津大窪城にいたことなどから、なんらかの関係があるようにも思われるが、これという確証はない。
鉄盤 本堂の右前に、清水をたたえた鉄盤。直径五尺六寸、高さ二尺一寸、むかし湯船に鋳たものだといわれる。内側に銘があって「正応三年」とあるから、西暦一二九○年にあたり、鎌倉期北条貞時執権時代のもので、まことに珍しい存在である。
稲富一夢斉の墓 この鉄盤のうしろに、出雲石の平板で高さ九尺もある墓碑。これが稲富一夢斉の墓である。足利末期、戦国時代の人で鉄砲の名人であった。はじめ明智光秀の家来として、光秀の娘お珠の方が細川忠興と結婚するとき、明智家からの附人として細川家にいり、弓ノ木城主となった。のちには豊臣秀吉や徳川家康などからも惜しまれた人であったが、もともと丹後一色家の家来から転々と、その主人を代えた人で、当時鉄砲の射手としてはならぶものがなかったといわれる。なお多くの話材があるが、ここでは省いておく。
寺宝を見る この寺の歴史からも知られるとおり、寺宝といわれるものの数はおびただしいが、それらを一々あげることはとうていできない。そのうちの一ツ二ツをみると、まず大正十四年八月、当時の調査で国宝となった「金鼓
− 鰐口」(重文)、これは中国元時代の「至治二年壬戌十月十六日」の銘があって、日本では鎌倉時代末期の北条高時が執権中の元亭二年(西一三二二)にあたる。また竜宮からの献上品だといわれる「蛸之香炉」、これが普通の香炉とは異り、珍しい形である。以上二品とも海中から漁師がひろいあげたものとの伝えで、寺宝中の寺宝であろう。その他、さきにあげた「天橋山智恩寺」という山号寺号が、延喜年中醍醐天皇によってはじまるとともに、天皇筆の「智恩寺」という額が堂内にかかげられ、いかにもこの寺の由緒あることを物語っている。さらに他の宝物を知りたい人は
寺に頼んで拝観することもできようが、ただ文殊堂の廻廊にあげられた古い絵馬をみてあるくだけでも、結構たのしまれ、歌聖幽斉が多くの歌友を招いて、歌あわせなどの会を催したことなどにも連想される人々には、なお一入去りがたい清境にちがいない。 |
『丹後路の史跡めぐり』
天橋山智恩寺
智恵の文珠さんで観光客に親しまれている智恩寺は文化財の宝庫でもある。大同三年(八○八)平城天皇の勅願寺として建てられ、延喜四年(九○四)醍醐天皇より寺号を賜わったという古い名名刹で、臨済宗妙心寺に属する。本尊の文珠師利菩薩、左右両脇仏の昆須羯作の善財童子、うてん王はともに重文、扁額は醍醐天皇の宸筆、文珠堂の額「五台山」は隠元禅師の筆という。
山門は明暦三年(一六五六)の再建になり、黄金閣は朝廷より黄金多数下賜されて建造されたためにその名がついたといい、扁額は関白左大臣九条尚美の筆と伝える。境内にある優美な多宝塔は明応九年(一五○○)三月、一色氏の守護代で府中新熊野の城主延永修理進が、病気平癒の際僧智海に建てさせたもので特別保護建造物、境内の右に和泉式部の歌塚、応永三四年(一四二七)九月十七日銘のある三重城主大江越中守(一色の重臣)寄進の等身地蔵、永享四年(一四三二)四月二七日銘のある沙弥祐長(沙弥氏は加佐・綾部・日置に名がみえる。また加悦の西光寺の応永十六年(一四○九)の板碑に沙弥直行とある)の等身地蔵、左に名工山川貞清が物部家重の頼みによって承応三年(一六五四)に鋳た湯舟があり、これはもと竹野郡興法寺にあったものといわれる。
その後に室町末期から江戸初期にかけて不世出の砲術の名人といわれた弓木城主稲富一夢の墓があり慶長十六年(一六一一)二月六日に京極高知が建てたものである。一夢斉の戒名は「前伊州太守泰誉栄閑一夢居士」である。裏庭に俗にマリア燈籠とよばれる織部燈篭が一基あり、同様のものは宮津の国清寺に二基あるが、ガラシャ夫人や京極高知ゆかりの物であろうか。
珍らしい物は至治二年(一三二二)十月十六日朝鮮海州首陽山の薬師寺の什物としてつくられた金鼓(鰐口)があるが、至治二年は日本の元享二年にあたる。海辺の花崗岩造りの「智恵の輪」というのは、実は航海安全のための輪燈籠である。寺の裏はまだ大天橋、小天橋がなかった頃の切戸の渡しのあった所であり、その先に明治の偉大な政治家神鞭知常(石川の生れ)の碑が建っている。
門前町に売られている名物智恵の餅は、昔文珠菩薩を信仰する門前町の老婆が、霊夢によって教えられた餅をつくって幼い子供達に与えていたが、その内の一人がかしこい子供に育ち、これを見込んだ京都大徳寺の大燈国師がつれて帰り、のちに立派な大僧正となったという縁起のものである。
天橋立ホテルの横の畑にある三角無字塔は銘がないのでなんの塔か不明であるが、昔阿蘇海から引揚げられたものといい殺生を戒める塔であろうといわれている。重文に指定されている。 |

関連項目
「天橋立:文珠地区」
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