天橋山智恩寺
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京都府宮津市文珠 京都府与謝郡吉津村文珠 −天橋立観光− 主なものだけ (文珠地区) 智恩寺(智恵の文珠) ビューランド展望台(飛龍観) 股のぞき 天橋立温泉(智恵の湯) 知恵の餅(橋立名物) 知恵の輪 廻旋橋 天橋立観光船 日本三景:天橋立 磯清水 橋立明神 (府中地区) 丹後一宮・元伊勢・籠神社 真名井神社 傘松公園 西国28番札所:成相寺 郷土資料館 国分寺址 阿蘇海と与謝海 |
智恩寺の概要《智恩寺の概要》 宮津市文珠にあるお寺。「天橋立駅」を降りたところであり、北へ延びる天橋立はここからはじまる、また当寺は文化財の宝庫でもあり天橋立観光の大きな目玉ともなり親しまれている。 「三人寄れば文殊の知恵」の文珠菩薩を祀る。一説に中国五台山の文殊菩薩を勧請したとも伝え、臨済宗妙心寺派。山号は天橋山であるが、本尊が文殊菩薩であることから、五台山という山号を通称している。古来日本三文殊の1つとされて、「切戸の文殊」とか「九世戸文殊」、あるいは単に「九世戸」とも呼ばれる。 天橋立は「丹後国風土記」逸文に見えるが、当寺の創建も古く、大同3年平城天皇が天橋立に行幸、霊夢に感じて勅願により建立されたと寺伝はいう。山号・寺号は延喜4年に醍醐天皇の勅により付され、その勅額と称するものが伝えられる。勅願所となって、文殊会料の荘田寄進があった。平安期には丹後国司藤原昌保や平重盛が文殊堂などの堂宇の修覆にあたったと伝えられ、その当時は真言宗の寺院として展開をみたと推測されるているが詳細は未詳という。 古い謎に満ちたお寺である。
超古くは「智恵の樹」=「生命樹」「世界樹」の信仰があったと想像するが、そのような史料は残らない、文珠堂には室町初期ともいわれる柱が残されているが、その柱があるいは智恵の樹かも知れない。 さて当寺近辺には、文殊菩薩の乗る獅子にちなんだ獅子崎・獅子、文殊奥院と称する戒岩寺、文殊菩薩化現のとき乗っていた雲が化したという岩のある雲岩寺、文殊菩薩が最初の示現地である経ケ岬から、九世戸に移る途中に一時滞在したという穴文殊の洞穴など、文殊信仰に関する伝承も多い。
『拾芥抄』に「智恩寺 丹後九世ノ戸、文殊天竜、六斎供灯明云々」とみえて、九世戸文殊として早くから知られ、中世にはお伽草子の「梵天国」に、京都清水寺の観音の霊験で生れた主人公が智恩寺の文殊に、その妻が成相寺の観音になったという話を記すという。謡曲「九世戸」「丹後物狂」などにも取り上げられ、「丹後物狂」ではシテが名乗りとして かやうに候ふ者は丹後の国白糸の浜に岩井の某と申す者にて候、われ久しく子を持たず候ふ間、橋立の文殊に一七日参籠申し、祈誓仕りて候へば、ある夜のこ霊夢に、松の枝に花を添へて賜はると見て、程なく男子を設けて候、 と述べ、その霊験が知られる。 足利義満も至徳3年からの約20年間に6回もこの地を訪れたという。 本堂に相当する文殊堂は明暦年中および宝暦年中の江戸期に修理を経たと伝える。内陣中央の「神建の柱」と称する四本柱や天井は室町初期を下らぬ古いものといわれるが、全体的には江戸初・中期頃の建築という。 宝形造の本堂には多彩な絵馬がかかる。正徳5年(1715)義士討入の絵、この地方で盛んであった俳諧・和歌の額、和算・砲術などの奉納額、千石船の模造の船絵馬などもある。和算の奉納額は文政元年(1818)の加悦町佐々木竜景門人の新井住石倉浅治郎、同12年の後野村広瀬儀光、天保8年(1837)の宮津藩小笠原長荘・新井正表書の3点である。絵馬は庫裏にも掲げられていて、そのうち板地幸色の酒屋絵馬は寛文9年(1669)に宮津の住人25人が奉納したもので、1つの画面を上下2段に分けて酒の製造工程と店の繁栄の様子を措いている。という。 ↑絵馬が柱にも掛かる。 ↓絵馬というのか絵扇子というのかおみくじなのか、びっしりと掛かっている。 ↓文珠堂の裏側。古い絵馬がびっしりと奉納されている。 ↓地獄の絵馬。悪事を働けば必ずここへ行く、と親に脅かされたものである。 禅宗寺院化したのは南北朝期の嵩山居中(大本禅師)入寺が契機となったようである。 足利義満・義持、細川幽斎・三斎などの保護を得たほか、「丹後国田数帳」には与謝郡に九世戸二町三六歩ほか、計五町四段三六歩の寺領をあげている。現与謝郡野田川町字石川に九世戸の地名が残っている。 永禄12年(1569)、京都を立った連歌師紹巴は「天橋立紀行」の6月23日条に 戒岩寺を過て宮づと云村より文珠堂に入了、院主出むかひて、寺前の潮をくませて焼ける風呂に入、夕すゞみにながめくらし、二十四日払暁より天橋立のきれどをわたり、府中など一見して帰寺畢、文珠縁起拝聞、天神七代地神二代正哉吾勝々速日天忍穂耳尊之時に向臨之九世戸とゝ云々、天浮橋の事などおもひあはせらる、 と記す、という。 文化11年(1814)、当地を訪れた野田泉光院の「日本九峰修行日記」に 九世戸の文殊へ着、本堂八間四面、納経す、楼門あり、門前茶屋多し、和泉式部三角五輪石塔あり、大寺也 と記す。という。 境内の柿葺二間の多宝塔(重文)は寺伝で明応9年(1500)丹後国府中城主延永修理之進春信建立と伝えられてきた、大正期の修理の際に上重の柱に「明応九庚申三月吉日テウノ初有之…」の墨書が発見され、大檀那延永修理進春信が大聖院の大阿闍梨智海を奉行として建立したことが知られる。 近世には宮津藩主歴代の保護を得た。寺領50石、末寺25か寺、塔頭は久昌院・本光院・寿昌院・対潮庵・心月院の5院庵を数えて、本堂(文殊堂)・鐘楼・山門・方丈・経蔵・地蔵堂・観音堂・多宝塔・衆寮などの諸堂宇完備の寺観を呈している。 寺格は乗輿免許5か寺の1寺に入り、御目見は第3番目であった。 寺勢興隆は京極高広に依るところが多く、寛永年中に別源禅師を招請し中興開山としている。第2世住持南宗和尚が明暦年中に文殊堂修理を行ったのをはじめ、8世完道和尚、10世蘭渓和尚など諸堂宇修理に尽力し寺観を保った。 正面の唐様楼門は黄金閣とよび明和4年(1767)の建立。 ↑ウホー。こんな軒の深い物をどうやって作ったんだろなー 多宝塔もあきれてあきれて、屋根がひっくり返って落ちてこんもんだな− 方丈は天保年間再建、上間の床板は「一分七目の松」と称されて、天の橋立公園を領有していた時期(明治維新まで)、その松を建材として用いたものである。庫裏は貫政11年改築、楼門は「暁雲閣」と称し享保年間再建、鐘楼は明治14年再建。 無相堂は寛永年中、鎮守堂は嘉永年中の再建と伝える。 ↑せめて英文の説明板くらいは立てないと、「世界遺産」は無理でなかろうか。「立入禁止」と書いてあってもこの人達は読めないようで、スイスイと入っていってしまった。 舞鶴あたりでも英文やロシア文、中国文、韓国文あたりまでは翻訳した案内パンフを作成している。最低これくらいは必要と思われる。 しかしこれでも本当は不十分であろう。元の文章は何でもない舞鶴人が作った日本文である。それをヘタクソに(失礼)に舞鶴人が翻訳したもののようである。舞鶴人からでもブーイングが聞かれる程度のものである。本当は英語圏・ロシア語圏、その他もろもろの文化圏の文化人に舞鶴をよく見て貰い、彼らの目から見た、彼らの言語での舞鶴案内を作るべきかと思う。舞鶴人の見方が絶対に世界標準で世界のどこにでも通用する見方のはず、そうに違いないとくらいに勝手に思い上がった連中ばかりのようなので、舞鶴では無理かも知れないし、私も言う気にもならないのだが、天橋立は実際に外国の観光客も多いのだし、地元住民がそうした広い世界精神を持つ市民に成長していかなければ、「世界遺産」の運動もたいした意味がなくなろう、ぜひとも取り組んだもらいたいと願う。いや勝手に評価してもらっては困るとか、老舗の看板に傷がつくかも、とか文句言うような世界遺産都市もあるようだが、人間の文化というものはそうしたものではなかろう、並行してあるもので、どこかが上だとかいうものでもあるまい、いろいろな見方があってこそ成長もしていけるもので、一枚岩の考え方だけでは変化に対応できない、何をそこまで傲慢に増長するのかと私は思う。 「知恵の輪」も当寺のものらしいが、その他の寺宝は、いっぱいありますが… 本尊の木造文殊菩薩と脇侍善財童子・優?王像3躯は重要文化財。寄木造、彩色、鎌倉後期の作。像高は文殊49p、獅子82p、善財60p、優?王75p。渡海文殊の群像を表したものというが、仏陀波利三蔵と最勝老人は残存しない。 金鼓一口も重要文化財。青銅で径50.9p、厚さ9.7p。鰐口とよばれるもので、側面に「至治二年壬戌十月十六日、海州首陽山葵師寺禁□造成棟梁道人守理…伏願皇帝万々歳」の刻銘がある。至治2年(1322)は元の年号で朝鮮高麗王朝の9年。智恩寺には元渡来の仏画2幅もあり、ともに丹後の渡来文化を考える上で貴重という。 境内に手水鉢として使われてい、「正応三庚寅七月七日」の銘をもつ鉄造湯船は上端径173p、高さ63.5p、内側銘によって願主物部家重、山川貞清鋳造と知れる。もと興法寺(弥栄町)にあったもの、「鬼の椀」とも呼ばれたそうで、成相寺にある同型湯船とともに、丹後の鬼と金属文化を考える上で貴重。正応三年は1290年だが、錆びてボロボロにはなっていない。千年鉄とでも呼ぼうか、現在の鉄でもここまでもつものだろうか。鋳鉄製で、この時代のものは成相寺と東大寺にあるだけとか、極めて貴重。 和泉式部歌塚と伝える鎌倉期の石造宝篋印塔があり、明応頃、山門より600メートルほど南にある鶏塚から掘り出したという。下のものも含めて石の文化も考えさせられる。 等身石造地蔵が3躯あり、右が応永34(1427)年丹波郡三重郷大江越中守永松の寄進になる千体地蔵、左は永享4年(1432)沙弥祐長の寄進である。少し左にはずれて同じく等身阿弥陀石仏が1躯、嘉吉元年(1441)の刻銘がある。 戦国期のキリシタン灯籠 稲富一夢斎の墓 出船祭(7月24日) 「出船祭 '12(天橋立文珠堂)」 「出船祭 '13(天橋立文珠堂)」 「日本三文珠」はどこを言うのか、ここ切戸の文珠と奈良県桜井市の安倍文珠院と、もう一つは周防大島の文珠堂、あるいは山形県高畠町の文珠堂とか(webで調べたもの) ここでのガイドさんなどの案内を聞いていると、大和と山形県の亀岡文珠堂をいっている。 若狭湾の東側にもうひとつ有名な「もんじゅ」がある。この切戸の文珠から名を貰ったともいわれる、高速増殖炉である。文珠菩薩は御釈迦様の弟子の中では最も智恵深い人だったとされ、智恵の仏様、学問の仏様として崇敬されている。日本方式の増殖炉を目指したというが、神や仏と同程度と自己認識しているのか、それを名乗るような傲慢さ、増長ぶりでは必ずや大失敗するだろうと見ていたが、案の定そうした状態である。隣にあった「ふげん」は解体中。解体するにも1千億とかの費用がかかるという。根本原因は組織のたるみと自己批判したそうだが、高速増殖炉「たるみ」とでも名を改めるとよろしいだろう。プルトニュウムを扱う機構が「たるみ」とは、一原子力開発機構の「たるみ」というよりも、さらなるより大きな基本要因の解明が忘れられていそうに思う。 もう一つは「智恵藏」。これと同じ名の書籍があったが、それではなくて、舞鶴の旧海軍倉庫を改造したもので、バカほどのゼニをかけて何に使っているのかも一つよくわからない、どこが智恵なのか、こうした税金浪費の上のカラッポ建物が智恵なのか。これも似た結末になろう。戦争遺跡をどう後世に役立てるべきかの根本的考察ないままに、小樽や横浜の真似をして一体何が生まれるというのだうか。高慢が高じてとうとう市民病院をつぶしてしまった舞鶴市政が始めたものだが、市民病院の再建費用はこれまたいくらかかるのかもまだ見えない状態である。 緊張感を欠いてたるみきっている上に傲慢にも自分ほどエライ人間などいるはずもないと思い違いしているド役人どもが考えているほどには、人間の知恵なるものは、自ら神や仏の名を名乗るはもってのほかだし、智恵を名乗るにしてすらまだまだそこには到達してはいない。そのあさはかぶりはこれらの例からだけでも理解できよう。「あさはか蔵」とでも陰口をたたかれぬ間によく考えられるとよろしかろう。 智恩寺の主な歴史記録『丹哥府志』
『丹後の宮津』
『丹後路の史跡めぐり』
関連項目「天橋立:文珠地区」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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