京都府宮津市大垣
京都府与謝郡府中村大垣
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社(このページ)
傘松公園
西国28番札所:成相寺
郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海
|
真名井神社の概要
真名井神社(籠神社の境外摂社・奥宮)は伊勢外宮の故地とされる超古社である。
府中一宮の船着場のすぐ脇に真名井川が流れ込んでいるが、この川、小さな川だが、これを遡った所である。真名井川はまた、粉川、古川、籠川とも呼ばれた。神体山・天香語山の南麓であり、『与謝郡誌』のいう籠川であろう。天のカゴ川のことと思われる。
真名井神社は丹後一宮・籠神社の後にあり、神社の北側や東側の小路からすぐ行けるし、天橋立ユースホステルへの小路を行って行ける。
鎮座地のあたりを現在は諸岡というが、村岡ともいい神籬山のことだろうか。見山と呼ぶのは御山のことか、その山は傘松公園のある山の北隣に連なる山で、傘松の名とも一体のものと思われるが天香語山とも、藤岡とも呼ばれる神体山。境内の禁足地などが広がる所は比沼の真名井原、あるいは真名井ヶ原とも、古杜とも呼ばれるという。
↓難波野あたりから見る、二つ峰が見える。真名井神社は右の山の麓にある。左の山は傘松山(天橋立展望ハウスの建物が見えるかなー)。
↑右の山が天香語山、独立した山ではなくて鼓が岳(成相山)の支脈の一高まりであるが、左手は傘松山公園のある傘松山である。この天香語山を神体山にしているのは麓神社(難波野)もそうでなかろうかと思われる。麓神社の祭神は億計・弘計である。
↓真名井神社参道。真名井川は左手の山裾を流れる。
真名井神社には、古来多くの別称が伝わる。別称なのか本名なのかはわからないのだが、たぶん本名的な名ではなかろうかと私には思われる。しっかりした本名がなかったというのか、いろいろの要素が重なっていたのだろうか。
←左の境内の案内石には、
真名井神社
豊受大神元津宮ナリ
古名 匏宮 吉佐宮 与謝宮
一云 天吉葛宮
一云 比沼真名井
一云 久志浜宮
一云 元伊勢大元宮 |
とある。(以前は確かにあったが話題の「ダビデの星」が変えられている)
(☆印を一筆書にしたしるしを、必ず元へ戻るという意味の魔除けのしるしにする海人たちの風習から出たものではなかろうか、しかし軍国主義のしるしに似ているために、ダビデの星になってしまったのかも知れない。ダビデの星はイスラエル国旗に採用されている)
丹後でもあちこちで聞かれる地名だが、「マナイ」とは何のことであろうか。イは井だろうが、マナがわからない。
『古事記への旅』(萩原浅男・NHKブックス)は、
聖泉を意味する「天の真名井」は、この神話の場合には高天原にあるものとされているが、同名の井泉は地上にもある。『出雲国風土記』意宇郡の条に真名井神社(松江市山代町)がある。また天孫降臨神話の聖地と伝えられる日向(宮崎県)の高千穂峡にも忍穂井・真名井と称する井泉がある。この真名井は天叢雲命が天上から水種を移した井泉といわれる。これに類した井泉は古社などに多いが、神事に用いられる地上の聖泉の天上に投影されたのが「天の真名井」であろう。因みに真名井のマナには、常人の触れるのを禁ずる意味があるという説がある。 |
私でも知ってはいるような話だが、これくらいの理解しかまだないようである。ずいぶんと古い言葉で今では誰もまったく意味がわからない。文献歴史以前の、考古学時代の言葉かと思われる。
仮に日本語ならマナコ(眼)や(マナムスメ)愛娘などと使われるマナではなかろうか。
目の威力というのか、目に具現されている霊力というのか、邪視というのがあってこれを恐れたそうだが、そんな力があったかも知れない。ゴルゴンに見られると石になってしまう、と命にかかわるほどの力があると信じられていたのかも知れない。
今境内に作られているのが、その真名井かはわからないが、真名井川の源流にあったかも、あるいは扇状地なのでどこかに泉があったかも。
今の真名井川は水がほとんど流れていない、聖なる川というよりも下流では邪魔なミゾという感じになっている。水は地下に潜っているのではなかろうか。
比沼の真名井の「ヒヌ」とは何のことであろうか、「比治」の書き誤りかも知れないが、しかしヒヌとも呼ばれている。ヒヌはヒジのことで、クシフルのことと思われる。勘注系図の天香語山命の注文に、
とある。
紀の本文では、皇孫が天降ったのは、
別の一書では、
また別の一書では、
日向の襲の高千穂の?日の二上峰の天浮橋 |
また別の一書では、
と紀が伝える。
クシヒとはクシフルであり、ソフルだろうと、だいたい見当がつかれよう。
そうすると傘松山のカサがクシフルのクシではなかろうか。本来はカサ山だったのが、何時の頃からかカサマツ山と呼ばれるようになったのかも知れない。赤松がたくさん生えている。調べてみると傘松公園が整備される以前は「笠山」となっている。
この真名井原のあたりこそは、日に向かい、二つの峰があり、天浮橋が眼前に横たわる。神が降臨するには最高の聖地ではなかろうか。降臨神話は天皇さんが独り占めしているが、本来は天皇さんのご先祖ばかりでなく、あちこちの古代豪族達も多くは天皇さん同様の自らの先祖神の降臨神話を持っていたと思われるのである。元々が同じ所からやってきた同じ民であったから、同じような神話を持っていた、どちらかが真似をしたのではない。その中で一番運良く現在まで生き延びて神話も独り占めしているのが天皇さんの一族ということであろう。天から降ってきたのではなく海からやってきた、それを神話的に天降る、海降ると呼んだのではなかろうか。
ソは地名で、ソフルのソ、高千穂は高は美称で、チホはシホすなわちソフのことだと金沢庄三郎はいう。
クシフル山・クシヒ山はここ真名井原の神体山では久志備山と呼ばれていたと推測できる、浜は久志備浜と呼んだわけであろう。比治山(伊去奈子嶽)も同様にクシフル山と考えられし、勘注系図など読めば笶原・矢原・ヤブも同様にクシフルの転訛とも考えられそうなことになる。タクリ(田造)、由良、カサ、ヨサもそうであろうかと思われるのである。
『元初の最高神と大和朝廷の元初』は、
与佐郡真名井原の真名井の場合も、比沼を久志備之としていることは、社伝に、
此泉云二久志備之真名井一也今謂二比沼之真名井一者訛矣
といっていることで知られ、久志と久次とで用字には相違があるが、比沼を、くしひねの約とすることは共通している。
与佐郡の比沼が、又、真名井が、久志備の浜に存在することは逸文風土記によって確かめられ、又与佐郡真名井神社の東方に小川があって、その流域を、現在、「けしがは」と云っているのは、「くしがは」の転であって、久志と真名井とのつながりは明確である。(高千穂のクシフル獄のクシとも、その音が通じている) |
久志備は金沢庄三郎がいうように大は美称で、要するにソフルのことである。天孫が降りてきたといわれる久士布流多気のクシフルである。皇国史観では気付かないかも知れない、気が付かないフリをしているのかも知れないが、ソフルという故国の名を残していると思われる。だからマナイもそうした古い彼らの(というのか我らの)遠い故郷の言葉ではなかろうかと思われる。
↓真名井神社の本殿。
与謝宮・吉佐宮・匏宮。
大変重要な社名で、吉佐宮の故地と伝える神社は丹後にはあちこちにあるのだが、ここもその一つで、伝承地はすぐ近くでは橋立明神や文珠堂の地にもある。
ヨサは地名と思うが、この辺りには遺称はないようである、ここから見える外海(宮津湾)を与謝の海と呼ぶが気が付くのはそれくらいだろうか。与謝郡というような行政地名などがない古い時代の事なのでヨサといってもその範囲がわからない、与謝郡の範囲外でも広くヨサであったかもしれないが、ヨサと呼ばれた広い地域の中心的な場所でなかったかと思われる。
↑真名井神社参道から見る天香語山。
ヨサは匏、ヒョウタンとする説などもあるが、それでは表記に使われた漢字の意味をいっただけで、比沼真名井や久志備宮と意味的な歴史的な関係が切れてしまう。多くの異称はバラバラで何も繋がりがないように見えるが、しかし相互に何か意味的に繋がらねば、どんなチンプンカンな名付けでもできてしまうおかしな話になってしまう。先人は好き放題な名を付けて、そのチンプンカンが千年以上も伝わったとは考えられないのである。
やはりヨサはクシフル系のクシの転訛ではないのかと思われる、カサ(加佐郡)もアソ(阿蘇の海)もイソ(磯清水)もそうした転訛かも知れない。
今の天香語山、その隣の傘松山、このあたりが久士布流多気でなかろうか。こうした神体山がないと、吉佐宮の故地説は苦しいと私は思うのである。現在とこの時代の間には大きな断層が何重にも走っていて簡単には現在人的常識からは見通すことが難しい。さて賢者の皆様はどう見通されることでしょう。
『丹後与謝海名勝略記』は、
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。 |
↑傘松山の展望台より天香語山を見る。売店の右手の赤松が「かさまつ」(三代目とか)だそうで、その奥に見える円い山頂が天香語山。ここはまだ山の中間点でさらに高い一番左手の山頂が傘松山、本当は笠山なのではなかろうか。少しきつい石段を登らねばならないのであまり人影がないが、展望は良好、最高です。天橋立は天橋立と成相寺と籠神社だけがすべてなのではなく、もっと広く、空間的にも時間的にも、広がりをもっている。この展望台からでもそのすべてを見ることができない。
元伊勢大元宮・豊受大神元津宮。
ここが吉佐宮なら、そういうことになる。ここがもしも吉佐宮でなければ、丹後一宮・籠神社は元伊勢とは名乗れなくなる。籠神社の真後ろの山は傘松山ではなく、天香語山のように思われる。籠神社の神体山も天香語山と思われる、直接には見えない。
勘注系図の天香語山命の注文に、
天香語山。亦名は手栗彦命。亦名は高志神彦火明命。天上に於いて生ます神也。母は天道姫命亦名屋乎止女命、亦名高光日女命、亦名祖母命也。
爾に天香語山命と天村雲命は父火明命に従い、丹波国凡海嶋へ天降座す。
而して神議を以て国土を造り修んと欲し、百八十軍神を率い、当国之伊去奈子嶽に到る時、母道日女命と逢い、因て此地へ天降る其由を問う。母は答えて曰く、此の国土を造り堅めんと欲す、然と雖も、此の国は豊受大神の所在国也。故に大神を斎奉しなければ、則ち国は成り難也。故に神議を以て斎清地を定る。此大神を奉斎れば、則ち国成。故に祖命乃其弓矢を香語山命に授け曰く。此則ち是大神之意者。汝宜しく之を発ち。而其落に随い清地に行くべし。故に香語山命は其弓矢を取り、之を発つ。則ち其矢は当国加佐郡矢原山に到りて留まる。即時根生て枝葉は青々、故に其地を名づけて矢原と云う。(矢原訓屋布)。爾に香語山命が南東に到れば則ち荒水が有。故に其地神籬を建て、以て大神を遷し祭る。而して始めて墾田を定む。是に於て春秋に田を耕し、稲種を施し、恩頼は四方に遍く。即ち人民は豊なり。故に其地を名つけて田造と云う。
爾に香語山命は然る后に、百八十軍神を率い退いて由良之水門に到る時に、父火明命に逢う。詔が有る。命は其神宝を奉斎し、以て国土造りを速修せんと欲す。
其地を覓めて行き而て遂到当国余社郡久志備之浜に遂到る之時。御祖多岐津姫命とに逢う。因て此地に居ます其由を問う祖命は答えて曰く。斯地は国生の大神伊射奈岐命が天より天降り坐す地也。甚清地也。故に参降りて而して汝の来るを待てり。是に於いて、香語山命は地が速かに天に連き、天真名井之水に通うを知る。すなわち天津磐境に起て始て其神宝を其地に奉斎し、豊受大神を遷し祭る(分霊を矢原山に斎奉る)。是に於て則ち国成る。其時此地に霊泉出る。
爾に天村雲命は天真名井之水を汲み、此泉に濯ぐ。其水は和らぎ以て御饌之料と為す。故に此泉を名づけて久志備之真名井と云也。今世に謂う比沼之真名井は訛也(真名井は亦宇介井と云う)。此時、磐境の傍に於て天吉葛が生る。天香語山命は其匏を採り、真名井之清泉を汲み、神饌を調度し、厳かに祭りを奠る。故に匏宮と曰く(匏の訓は与佐)。亦久志浜宮也(此郡を匏を号くる所以は風土記に在り)。爾に香語山命は然る后に木国熊野に遷坐す。而て大屋津比売命を娶り高倉下を生む。道日女命は多岐津姫命と此地に留り、豊受大神に斎仕。(原文は漢文。ルビは勝手につけました) |
海部氏(本宗家)が加佐郡笶原山(天香山・藤岡)の麓から由良を経てここへ移ってきて、印鑰社・飯役社(吹飯社で、これも真名井の意味)のあたりを拠点にしていたのだが、やがてそれ以前からの真名井神社の際祀権をも掌握するようになった。それ以後に天香語山とも呼ばれるようになったのかと思われる。
しかしここはそれ以前からの霊地でクシビとかヨサとか呼ばれていた豊受大神を祀る地ではなかったかと想像する。
豊受大神は海部氏(本宗家的な海部氏だが)の祀る神というよりも、それ以前のこの地の人々が祀っていた神かと思われる(傍系の古い信仰をもつ海部氏もいたかも知れない)。
現在の籠神社の本殿はその背後に天香語山が見えない。傘松山の方向も向いていない。何か中途半端な建て方のように思える。後世に位置が移動したかも知れない。元々は今の真名井川のまだ東側にあったかも知れない。現在地より100メートルか200メートル東の位置だと天香語山が見える。
雪舟の「橋立図」では、今の位置に見える、だいたい1500年の頃である。
本殿の左脇に「恵美須神社」が祀られているが、元々はこの神社の境内地であった所へ、籠神社が移ってきたか、新たに建てられたのではなかろうか。
境内の案内板には、それは養老三年(719)のことと書かれている。
丹波国を割いて丹後国が出来たのは和銅六年(713)で、その初代丹後国造・国司は籠神社祝でもあった丹波国造の海部氏が勤めた。しかし初めて祝の文字も明記される。
丹波郡は隣にあり、丹後こそが丹波なのに、丹後というのはおかしい。さらに養老三年からは代が変わり、二年の空白ののち丹波国造の肩書きは消えて、単に祝となっている。
丹後国と籠神社と海部氏にはこの時期に激震があるのだが、詳しくは別の機会にしたい。
鶺鴒石。
本殿のすぐ裏側に鶺鴒石と呼ばれる磐座がある。
↓右側が本殿で、左の古木が生えた岩が鶺鴒石。
社殿などない時代の悠久の昔の「神社」である。
吉佐宮などと言えば、立派な神殿があったかのように錯覚するが、そんな当時なら立派な建物はない。仏教が渡来して、その伽藍を目の当たりにして真似をするまではこうした磐座や高い樹の下で、人々はお祀りをした。祭神などはのちの神学が発達した段階での概念であって、この当時は単に神様ではなかったかと思う。ありがたくまたおそろしく、何となく人間的な神様同士の秘蹟の磐座であっただろう。
イザナギが降りてきた橋が天橋立と伝わるが、そうかも知れない。それは北方系の人々がここにあらわれるまではそのような呼ばれていたかも知れないと思われる。そうすれば、イザナミ大地母神がこの池のほとりにいたことになろうか。海辺で、常世の島(冠島)が見える場所、浦島太郎が伝わるかなり海洋的南方的な性格をもった初期の人々の信仰地跡がこの鶺鴒石ではなかろうか。アマテラスもここの浜辺で生まれたかも知れない。難波野とか成相寺とか日置とか何かそんな事を連想させられる名が残る。マナイやウケイというのもそうした時代の名かとも思われる。
その後に北方系がやってくる。天香語山に降りてこられる「天帝」と「真名井の女神」の交合の場がここであったことになるのだろうか。天香語山や笠山とか吉佐宮、久志備浜というのはその時代の名と思われる。
そうして誕生したその子孫が氏子の人々であったのだろうが、やがては村の大将家に占有されただろう。
「天帝の子で、母は河の神の娘」という高句麗王の出自と同じであり、遠くユーラシアの北方遊牧民族と繋がる王は天の血を引くという信仰である。天香語山のカゴは銅のことのようで、ここへ降りてきたのであろう、海部氏の祖の天香語山命はだから鍛冶屋ということになるが、これも北方系の話で、突厥の王の先祖は鍛冶屋だったと伝わる。
海があって、すぐ山の地で、時代的には二つの要素が重なっている、南方もいるし北方もいるように思われる。それらが融合して、北方系が社会上部を占めていき、そのまま海部氏であろうし、我ら丹後人であろうし、多くの日本人であろうかと思われる。そうした我らの原点が見えるような気もする所になる。
『京都考古学散歩』は、
籠神社境内には経塚があり、文治4年(一一八八)銘の銅製経筒二口と鏡二面が出土して国の重要文化財に指定されている。また籠神社の背後には摂社の真名井神社がある。この神社には自然の巨岩からなる磐座があり、付近から、弥生時代の石斧と古墳時代の土師器、滑石製品などの祭祀遺物が出土している。ここに天照大神が天降ったという言い伝えもあり、天橋立の伝説ともからみ古代人の自然にたいする祭祀を垣間みるようで興味深い。 |
貼石墓が出土した難波野遺跡もあり、遅くとも弥生後期にはすでに真名井神社は祭祀されていたと思われる。
真名井神社の主な歴史記録
『丹哥府志』
【真名井神社】(一宮の西北、祭九月十五日)
倭姫世記云。豊受皇降臨之地與佐比沼真井原云。蓋豊受皇者開闢元始之神国常立尊是也。仝書云。崇神天皇十年谿羽道主之子八乎止女斎奉御饌都神止由居大神。又曰。泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(大泊瀬稚武天皇諡雄略天皇)即位二十二年丁己冬十月倭姫命夢教覚給久皇大神各一所(耳)坐(波)御饌(毛)安不聞食丹波国與佐之小見比沼之魚井原坐道主子八乎止女(乃)斎奉御饌都神止由居大神(乎)我坐国欲(止)教覚給(支)爾時大若子命(乎)差使朝廷令参上(天)御夢状令申給(支)即天皇勅汝大若子使罷往(天)布理奉宜(支)故牽手置帆責彦挟知二神之裔以冨斧冨・等始採山材構立宝殿而明年戊午秋七月七日以大佐々命(天)従丹後国與佐郡真井原(志天)奉迎止由居皇太神度会山田原(乃)下都磐根(爾)大宮柱広敷立(・)高天原(仁)千木高知(・)鎮定坐(止)称辞定奉(利)奉饗(利)神賀告詞白賜(倍利)云々下略。
日本開闢元始之大神国常立降誕于與佐郡真井原以至諾冊二尊凡七世此為天皇諾冊之長女曰大日・貴諡天照大神天照大神以至・・草葺不合尊凡五世此為地皇・・草葺不合尊第四子曰火火出見天皇諡神武天皇此為人皇祖天地二皇之世時方…略… |
『宮津府志』
真名井社 在一宮東北五町許
祭神 豊受皇太神
中古以来一ノ宮祭ル二豊受皇太神ヲ一故ニ当社亦今属ス二一ノ宮之隷ニ一。
倭姫世紀ニ曰泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位二十一年丁巳冬十月倭姫ノ命ノ夢ニ教へ覚トシ給タマハ久皇太神各一所耳座波御饌毛安不ズ二聞シ食サ一丹波ノ国與佐之小見比沼之魚井原ニ坐ス道主ノ子八乎止女乃齋奉御饌都神止由居太神乎我座国欲止誨へ覚シ給支爾時大若子ノ命乎差シテレ使二朝廷仁令メ二参リヲ一天御夢ノ状ヲ令メレ申サ給ヒ支即チ天皇勅シテ汝シ大若子使トシテ罷リ往イ天布理奉レト宣ヒ支云々。明年戊午ノ秋七月七日以二大佐佐ノ命ヲ一天従リ二丹波国餘佐郡眞名井原一シテ奉リレ迎ヘ二止由気皇太神ヲ一度曾山田原乃下盤根爾大宮柱広敷立K高天原仁千本高知K鎮リ定マリ座セ止称辞定奉利奉レ饗利神賀告詞白賜倍利下略。
天橋記曰、一宮の小松の茂りたる所実に比沼の真名井の原の藤岡の神社也、今に崩れ損したる宮柱あり其傍に鶺鴒石あり神秘なり是所謂與佐宮也、然るを諸社一覧に與佐の宮は與佐郡川森にありと書て川森に今内宮を祠るは近代の俗なりと載たり、甚誤也、蓋し今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なる可し、河森の外宮は山も浅く内宮に比するに祭以後の勧請と見へたり、然るに與佐の宮とさして與佐の海の古歌どもを引けり、河森は海辺より四里餘大山を隔て山中なり是誤の證拠なりと云々。一説に豊鋤入娘命天照皇太神を戴て丹波與佐の宮に至りて四年を経と云神跡は今の文殊堂なり、俗傳て堂内の四柱を天照太神の建立と云ひ、又真名井原と文殊の地と纔に三十町を隔て一所なり、是豊受太神自二天降一同座一所と云ものなりと云々。
謹按ニ世紀所レ載スル豊受太神降臨之地、與佐ノ比沼ノ真名井之神跡者即チ今ノ真名井ノ社是也。神社啓蒙諸社一覧等之説似タリレ誤レルニ。 |
『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按二帝王系図一用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自レ天降同座二一所一といふものなり。是又一説なり。 |
『与謝郡誌』
境外摂社に真名井神社あり小字諸岡鎮座無格社、祭神豊受大神、伝へ云ふ崇神の朝皇太神四年の間吉佐宮に御駐斎ありしとき豊受大神の御饌を献供せる霊跡にて養老三年社殿を籠川の浜に遷して籠神社と云ひ跡地を奥宮と云ひ小祠を構へて真名井明神とも崇む天保三年社殿再建明治十年三月二十一日籠神社摂社に列せらる尚境外末社に飯役神社あり皇太神御行在の際に酒饌を献供せられし豊受大神なれば之れを飯役社といふと皇大神四年鎮座考にあれど国司所在地に祭る印鎰社なるべし |
『丹後の宮津』
真名井神社 一の宮の裏の道を難波野の方へ行くと古い木の鳥居があり、そこから登るとしぜん真名井神社の境内にたっする。ここには保食神を祀り、伊勢の外宮に祀る豊受大神と同体である。いわゆる「ヨサノマナイ」の故地ともいわれ、「吉佐宮址」の問題と混同されて、誰も解決の鍵はもっていない。けれども、保食神が大陸渡来の産業神であり、海部の勢力がつよまるとともに、ときにはその勢力とむすばれたでもあろう。いずれにしても、ここ難波野の「真名井神社」は、四囲の感じからして、いかにも古社の神域であることいなみがたく、その境域に立つものに何かすがすがしさを思わせる山である。 |
『元初の最高神と大和朝廷の元始』
真名井神社は、後に述べるように、古代の磐座を以て神座とし、その神座と、本殿内との両所に御神霊をお祭りされて来ているから、豊受大神伊勢国奉遷後も、祭祀は、それ以前と変りは無かったようである。一伝によると、伊勢御遷幸の豊受大神の御分霊を、此処に留められた由であるから、すると、奥宮真名井神社の御本殿内には、御分霊もお鎮まりになっていると窺われる。
同神社の奥宮真名井神社の所在地は、低い山岳であって、真名井、もろおか、村岡山、比沼の真名井、藤岡山、天香語山、古社(コモリ)等の称があり、これら数種の名称が重なっていて、見(み)山という称号は、現在見えぬが、東側の谷を見谷(みだに)といい、西側の谷に流れる清流を、真名井川、又、粉川、古川、籠川)といっている。
慶長七年壬八月十日の御検地帳に、「真名井地六拾間四方、右ハ御除地也」と見える。
伊勢の御鎮座本紀(記)に、
丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主子八乎止女乃奉斎御饌都神
と見える真名井原の一部であって、その所在地が与佐郡であることは明らかであるが、小見及び比沼、特に小見に就ては、それが、雄略天皇の御代の御神勅に見える字句であって、古事記が撰進せられた和銅五年を遡ること二百三十余年にも及ぶ遠い上古のことであるので、その意が、相当難解となっているのである。小見も、比沼も、恐らくは、地名を意味すると考えられるのであるが、いずれも、その後、地名が沿革していて、公式の呼称としては、存続せられてはいない。与佐郡真名井原を、比沼ということは、後項に述べるように、室町以前の記文に、日沼野と見えて、その名残を留めているが、小見に至っては、相当その意がむずかしい。「ヲミ」は、元、里名の類であって、「ヲミノサト」と云われたものと見られるのが最も妥当のようであるが、与佐郡は勿論、丹後国のどの郡にも、この郷名が遺存していないのである。しかし、伊勢国には、この郷名があることが、古記に見え、「従二高宮一而入ニ坐
磯宮一因立二社於其地一曰名二服織社一号ニ麻績郷一者郡北在レ神此奉二大宮神荒衣々一神麻績氏人等別二居此村一因以為レ名也」とあるように、神麻績氏人等の居住していたところを、「ヲミノサト」といっているが、又、この服織社は、神服織社とも、神服社とも云っていて、神服連に関係があるので、天孫本紀伝系の六世孫建田背命、即ち、丹波国造氏人の祖と、その祖を等しくしている氏の祭る社であるから、「ヲミノサト」の里名が、奈良朝以後には消えて行ってはいても、この与佐郡真名井原の上古にあったと云うのは、当然のことと考えられねばならぬのである。それは、後に述べるように、建田背命の子孫である国造氏人が、この真名井ヶ原で、豊受大神をお祭りして来ていたからである。小見が麻績(ヲミ)を意味するかどうか、確実には、わからないが、真名井の山の東側の谷を見谷(みだに)と云っていて、小見谷の意味であるかも知れない。しかし、又、一つには、小見は小+山見の意、山+見は山の名称で、小さい山+見山という意味であるかも知れない。
後に述べるように、延喜年中には、その意味に考えられていた時代があったであろうことが考えられる。若し、そうであったとすると、前記の「見谷」は山+見谷の意味で、真名井の山は、小さい山+見山と見られていたのであるかも知れないのである。山+見山は、嶺上が平らかで、低い山といわれているが、見方によると、それに似た山と見えるかも知れない低い山である。
南方に海を臨む小丘であって、後方(北方)は高く、前方は低くなっていて、磐座の所在地から、御社殿の所在地を含む神域は、前方へ長く大体に平坦である。小見が、麻績であるか、小山+見であるかは尚、今後の研究に俟たねばならいであろう。神域のうち、大体平坦になっている部分(段々に前方へ低くなってはいるが、)御本殿の裏の正中にあたって、磐座があり、又、御本殿の裏側正面にも御扉があって、神座は、磐座と御本殿の御内陣と両所になっている。御本殿は神明造ではあるが、普通の神明造とは稍々相違するところがあって、御社殿の大きさに比して、相当高く造られている。磐座の周辺からは、上代の土器(祭器)、石器(石斧、砥石、石鉾、石刀等)、古銭等が出土しており、又、銅鏃等も一個ではあるが発見されている。磐座は、一座ではなく、二座になっていて、御本殿の正中にある磐座の西隣にある磐座は伊奘諾伊奘冊二神を祭り、この東西両磐座を中心とする古代祭祀の霊場である真名井神社は、その山の形状が、大和国の一宮三輪明神の御山と似通うところがあり、東西に谷を控え、山をめぐらし、極めて遠い上代祭場の面影が窺われる。
昔の神域は、この霊山を北にして、南方は、日本三景の一、天橋立、それから、東南、西南へ跨がる地域、概算、合せて、十数万坪に及ぶと考えられるところであり、皇大神四年御鎮座の大宮処は、その地域の内であり、西南方、今の御本宮の所在地であったと云われる(皇大神四年鎮座考一名与佐宮考参照)。一説には、奥宮真名井神社の宮処であったとも、或は、天橋立の松林の内にあったとも云われているが、いずれにしても、同神社往古の神域内であったことに変りはない。天橋立は往古の同神社の神域であり、その中に、所管社橋立神社があったのである。橋立神社は、丹後与佐海図誌に、「橋立大明神、本社豊受大神を祭る。左は大河大明神、右は八大龍王を祭る」とあって、与佐宮(籠神社の別称)の所管社の一であったが、今はその関係は無い。
藤岡社
丹後与佐海図誌に、
真井ヶ原、一宮の北松の茂りたる所実に比沼の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる与佐の社也。
といって、籠神社奥宮真名井神社の所在地を、比沼の真井原と云い、又、橘三喜の一宮巡詣記に、
古老云伝へたるは、豊受大神宮、もとは籠の神社の後の山上に真名井原有、此所に小社有、鶺鴒石とて二ツ有、一段下の片原也、今は松生繁り森と成れり、一宮の立給ふ所迄も真名井が原と云伝ふ、一宮の右方粉川と云流有、是日本酒を作る始に用たる水也、と土俗にいふ、此川上を満井と云、此を村岡山とも、藤岡とも云、(以下略)と云って、籠神社の奥宮真名井の社を藤岡の社と云い、又、その山を藤岡といっているのは、前述のような、豊宇賀能売神飯盛りの古伝承地でもあるからである。
与佐宮は、天照大神四年御鎮座の与佐宮と、崇神天皇の御代から雄略天皇の御代まで、豊受大神が鎮まりました与佐宮と、二つの与佐宮に分けて考えられねばならぬが、この二つの与佐宮は同一の宮域内に鎮まられていたものであり、飯盛りの神即ち豊宇賀能売神の御在所も、亦、その宮域内に存在していたのである。
奥宮真名井神社御本殿裏正中の磐境が「ケ」ノ大神(豊受大神)、向って左側(西)の磐境が、「コ」ノ大神(伊奘諾大神配祀伊奘冊大神)であり、「キ」の大神(天御中主神)は、即ち「ケ」の大神(豊受大神)であらせられ、又、「コ」の大神(伊奘諾大神)は、一面、「キ」の大神(天御中主神)でもあらせられるとされていたようである。
この祭祀は、この通りの古い文献は存してはいないが、諸伝を意訳して秘伝とされていたものと考えられる。
その全面的の是非については暫く措き、「コ」ノ大神を伊奘諾大神と申してお祭りしていたことは動かぬところである。西の磐境の祭祀がそれであって、その磐座を、子種石といい、鶺鴒石といい、伊奘諾大神といい、古社(コモリ)と伝えられる。「コモリ」は、
「コノヤシロ」「コノ杜(森)」の意味で、「コ」は御祭神の神名であるからである。
即ち、悠遠の上古、神代と云われる昔に、コノ大神をお祭りした祭場であって、 「コノミヤ」の原始に於ける祭祀を偲び得る霊場なのである。逸文風土記に見える天梯立の条文に、伊奘諾大神が天降られて、寝ていられたところと伝えられるところであり、磐座の形状は伝えられる如く正しく寝ていられる形を現わしているかに見受けられる。
豊受大神奉斎、或は降臨と伝えられる磐座は、これに隣接して東側に続き、真名井神社御本殿裏の正中に位して存在しているのである。丹後国内神名帳抄本に、「従二位古社(コモリ)明神」と見えている。同神名帳は与佐郡の部は、その巻頭数社を挙げるに過ぎないので、この霊場の全容について、当時の状況を知り難いのは惜しまれるが、御本宮と奥宮との関係を考える上の貴重な史料たるを失わない。 |
伊勢の御鎮座本紀(記)に、「丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主子八乎止女乃奉斎御饌都神」
の小見はオミと読むのではなかろうか、たぶん麻績のことである。荒妙と呼ばれる麻製の神御衣を織る建屋あるいは人のことと思う。和妙でもよいが、神社に付属する重要施設であると思われる。どこかで買ってくればいいというわけにはいかず、自足で神様の調度を製作していたものと思う。しかし早く廃れたものかそうした地名は残っていない。「オミヨ屋敷」という小字が加悦奥にあるが、これくらいしかない。コミもない、田口神社(舞鶴市朝来)にコミ郷の伝承がある、今の杉山あたりがそうらしいが、これもあるいは麻績ではなかろうか。
『丹後路の史跡めぐり』
速石の里真名井原
籠神社のあたりを真名井原とよぶが、中郡の五箇にも比治真名井原があり、舞鶴、河守にもその名がある。真名井原の名のあるところ必ず豊受大神の伝説があり五穀をひろめた話が伝わっている。
速石の里は拝師ともいい、和銅六年(七一三)丹後が丹波より分立してから中郡丹波の里から国府が移されたもので、初代の国司小野馬養(おののうまかい)は養老三年(七一九)七月よりの両丹の国司を兼ねていたが、三年後の養老六年(七一三)八月、はじめて奈良の都からはるばると着任している。
国府は当初加佐の真名井原におかれていたというが真偽の程はわからない。
府中におかれた国府は小松であったがその位置はどうもはっきりしない。田数帳の中にある印鑑社というのは国司の正印を納めた倉の守護神で、これは中野にある飯役明神と思われるのでそのあたりか、妙立寺の鬼子母神の附近ではないかといわれている。
国府は寛喜元年(一二二九)正月に国司藤原公基によって大垣にうつされているが、真名井神社か籠神社の附近がそれではないかと推定される。国分尼寺についてはあったのかどうかもはっきりしていない。
風土記逸文に「郡家東北偶有速石里」とあるので、郡家(ぐうけ)もこの附近にあったと思われる。
丹後の国府の健児(兵士)は三十人ときめられており、印鑑宮(国司の印鑑を納める所)、国府八幡、法華道場跡が残っている。
籠神社の北に真名井神社があるが、これか吉佐宮の跡ではないかといわれている。伝説によれば豊受大神は天照大神が吉佐宮へうつった年に小見比沼真名井原に降ったといい、また阿蘇海を渡って吉佐宮へ通ったという。真名井なる名は中郡よりうつしたものであろう。
吉佐宮については多くの説があり、このほか舞鶴市の紺屋町の神明山であるども、府中難波野の藤岡山であるとももいわれている。とにかく吉佐宮と真名井原と豊受大神と海部の名はどの場所であろうと切り離すことができないようである。
奈良時代に丹後の国府に通じるには、大江山の双峰の鞍部を越え、駅について休憩をして服装をあらため、新しい馬に乗りかえて各辻堂を通過して国府へ到着したもので、そのコースは次のようである。
天田花(前)浪里(駅)−−大江山麓の山郷(さんご・駅)−−加悦町与謝の宇豆責(うすぎ)−−平林−−小倉山−−今江−−土山−−桑飼の槍谷−−堂の岡−−入谷−−石川の谷田−−平田−−表地−−由里−−堂谷−−石田の堂ヶ瀬−−板列−−国分寺−−国府このあたりから岩滝へかけては板列の里(いたなみ)とよばれた。 |
現地の案内
真名井縁起
上古ノ世丹後国未ダ分レズ丹波ト称ス 造化ノ霊勝天梯立眼下ニ連ナリ内ハ阿蘇海ヲ抱キ外ハ与謝海蒼々トシテ日本海ニ開ク 東ノ海中ニ冠島沓島神容ヲ現シ天神ノ示現日子日女ヲ祀リテ常世嶋トモ称ス 此処東北ニ神体山ヲ背負ヘル奇シキ一割アリ即チ元初ノ天神降リ来マセル処真井原ニシテ今太古ノ磐座存ス 東座ハ地上僅ニ現ハルト雖モ生命根源ノ神又御饌ノ神トモ申ス豊受大神鎮マリ給フ 大神ハ宇宙ノ一気発スル大元ノケノ神ニシテ時ニ月神ニ化シ或ハ海神トモ現ジソノ働キ変幻ス 之ノ神ハ籠宮祝部海部直ノ祖丹波道主王ノ娘八乙女ガ斎キ祭リシトゾ伝フ 瑞兆機ニ応ジテ表ハレ背後ノ山峡ニ狭霧立タバ水気根源ノ玄妙ヲ思フベク真名井ノ水ヲ手ニ結ビ又之ノ山ニ藤ノ花咲カバ神霊ノ気?醸化現シテ芳秀現世ニ寄サシ給フヲ知ル 真井原ニ神気発スル時風東ヨリ西ニ吹クト去ヘリ ゲニ大神ヲ祭ル神事懿徳天皇四年甲午ニ始マリテ古へ藤祭ト称シ欽明朝以後ノ葵祭ノ濫觴タリ 之ノ山ヲ天香語山又藤岡山或ハ比沼ノ真井トモ云フハ命名ノ深秘アリテ其ノ心ハ御生レノ神事ナリ 豊受大神東正中ニ鎮マルニ対シ西座ニ鎮マル雄大ナ磐座ハ大八洲国生ミノ元神伊射奈伎伊射奈美二神ノ体ニシテ日神此ノ処ニ所生スト伝へテ日之小宮ト云フ 伊射奈岐ノ神ハ天浮橋ヲ樹テテ磐座ノ女神ニ通ヒ以来之ノ磐座ヲ鶺鴒石トモ申シ岐美二神和シテ生ス 即チ天橋立ハ神人通行ノ梯ニシテ古ヘハ籠宮ノ境内参道ト為ス 神代ニ天上ナル天真名井ヲ挟ミテ日神素尊誓約シテ三女神五男神ヲ生メリ 其ヲ地上ニ求ムレバ之ノ真名井原ナラムト伝フ実ニ此ノ処両個ノ磐座ハ天地日月水火陰陽併祭ノ源基ニシテ民族ノ霊覚ノ象徴大和心ノ発祥ナリ 崇神帝ノ御宇天照大神倭ノ笠縫邑ヨリ真井原ニ遷移シ豊受大神ト同殿ニ鎮マリ吉佐宮ト申ス 二神ハ高天原ノ霊契ニ依リテ離ル可カラザル事一神ニシテ二座二神ニシテ一座ノ秘伝厳トシテ籠宮ニ存ス 是籠宮わ元伊勢ト申ス事ノ元ナリ 中書ニ曰ク天子ノ大社ハ必ズ霧露風雨ヲ受ク以テ天地ノ精気ニ達センガ爲ナリト 真名井社今ニ神代ノ風儀ヲ遺ス 天下萬民心アラバ来リ詣デテ世界平和ヲ祈リ灼然ノ霊気ニ浴サレン事ヲ平成二年庚午旧五月五日
丹波国造八十二代
元伊勢籠神社宮司
海部光彦 敬白 |
『古代海部氏の系図』
元伊勢といわれる丹後の一宮「籠神社ご由緒略記」によれば、次のように記してある。
籠神社の元宮である真名井神社にトヨウケを祭っていた。ところが、崇神天皇の時にアマテラスが、大和国よりこの地に遷り、四年間鎮座して、のちに垂仁天皇の時に伊勢へ遷られた。他方トヨウケは雄略天皇の時まで此地に鎮座し、この天皇の二十二年になって伊勢に遷られた。
大化改新となって、やがて籠神社にはホホデミノミコトを祭っていた。それが元正天皇の養老三年にホホデミノミコトの親神ホアカリノミコトを主神として本殿に祭り、さきのアマテラスと卜ヨウケを相殿に祭っている。
この経過をみると大化改新以前にはアマテラスとトヨウケを真名井神社に祭っていたことがわかる。
京都府与謝郡の成相寺(真言宗)の麓に真名井ヶ原があり、ここが海部氏の霊地とされている。すなわち神々が降臨した場所で、現在はこの地に大きな岩石が二箇所に存在している。その一つは、磐座本宮と称され、他の一つは磐座西座と称されている。特にこの西座をせきれい石ともよび天照大神の出生の地と伝えている。海部氏の伝えには次のように記されている。
イザナギノ大神が真名井原に天降ったと伝えるもの。また本宮にはトヨウケが久志備の真名井原に天降ったという。現在これらの岩石は真名井神社の裏側にあり海部氏が奉祀している。この付近は考古学でいう散布地で一の宮遺跡といって弥生時代の石斧や、古墳時代の滑石製品などが発見されている(籠神社蔵)。
かかる海部氏の先祖は神を尊敬した家系であった。『海部氏本記』の丹波国造海部直勲尼の子海部直伍佰道が初めてこの二座(イザナギ大神とトヨウケノ大神)を真名井神社に奉祀した。やがて真名井神社を籠宮と改めて、与謝郡を代表する宮とした。すなわち与佐宮と称した。この伍佰道が神職(六四五年〜六八○年奉仕)としては初めで、「祝部氏系図」に代々の氏の名の下に与謝宮のいるしの印がおされている。ところで真名井神社の祭神が、大和大王の要請で五世紀末伊勢へ遷宮されたので、ここが元伊勢となった。かかることから現在伊勢神宮の根本の宮ということで、海部氏が重要な家系となっているのである。
当時丹波国造で海部直は伍佰道の子愛志であった。愛志は六八一年から七一七年まで籠宮の祝部職であった。文武天皇の七○六年の秋七月に丹波、但馬の二国に山火事があり(これは山火事ではなく火山の噴火のこと)、数日間続いた。そこで、文武天皇から愛志に勅旨が下り、国中の神社に奉幣をすることで災害を除去させるということであった。乙丑丹波但馬二国に山火事あり、使を遣わして幣帛を神祇に遣わしむ。すなわち雷声忽ち応じて、撲ずして自から滅ゆと記されている。
この事実から但馬丹波国では、愛志の奉仕する真名井神社が格式のある社であることを朝廷は認めていたことがわかる。 |
『古代海部氏の系図〈新版〉』
籠神社の祭神
さて、日本三景の一つとして有名な「天ノ橋立」のすぐ北側に、歴史の古い神社として代表的な籠神社が鎮座している。もちろん延喜式の式内社(名神大)である。
この場所は最近、青龍三年鏡などが出土し、「丹後王国論」も唱えられ、急速に注目されだした丹後半島の東の付け根にある。
籠神社は現在「奥宮」と「本宮」(下宮)に分かれている。
「奥宮」は、いままでは「真名井神社」とよんでいるが、古代には匏宮・吉佐宮・与謝宮・久志浜宮などとよばれていた。後世になると、別称として、豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮などともよんでいた。
奥宮がさらに磐座主座(上宮)と磐座西座の二つに分かれる。磐座主座(上宮)のご祭神は豊受大神であり、神社ではまたの名を天御中主神あるいは 国常立尊とよぶ。磐座西座は日之小宮ともいう。主神は天照大神であり、別に伊射奈岐大神と伊射奈美大神をまつっている。
一方、本宮(下宮)を「籠神社」とよび、別称として籠宮大社、元伊勢大神宮、丹後一宮、内宮元宮などともよんでいる。ご祭神は主神が彦火明命であり、丹波国造の祖神である。そして一緒に豊受大神、天照大神、海神、
天水分神をまつっている。
本宮の社殿は伊勢神宮と同じ神明造りで、堅魚木の数も伊勢と同じ十本で他の神社に例をみない。さらにこれも他の神社には見られない、高欄の上の五色の座玉と妻飾りの鏡形木があり、伊勢神宮と同じ社格を表している。
もともと籠神社の参道であった「天ノ橋立」の東には、かつて大いに栄えた「宮津」の町があり、籠宮の津(港)としての深い関係を思わせる。
有名な雪舟の「天の橋立図」(国宝)の中にも正一位籠大明神として大鳥居から白く描かれた参道のつき当りの社殿まで描かれている。
こうした社殿、参道をもつ籠神社のご祭神には、たいへん大きな問題をかかえている。それを解く鍵が系図にひそんでいる。本書では一つ一つ解いていこうと思う。 |
関連項目
|
資料編のトップへ
丹後の地名へ
資料編の索引
|