京都府宮津市国分・小松・中野・大垣・江尻・難波野・成相寺・溝尻
京都府与謝郡府中村
−天橋立観光−
主なものだけ
(文珠地区)
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船
日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神
(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社
真名井神社
傘松公園
西国28番札所:成相寺
郷土資料館
国分寺址
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府中の概要
成相山(569m)南麓に位置し、南は阿蘇海に面する。天橋立北岸の景勝の地。
全国の同じ府中や国府といった地名と意味は同じで、律令制下の国衙所在地の遺名である。
丹後国衙の位置については、宮津市中野、岩滝町男山などいくつかの候補地はあげられ検討されてはいるが未詳とされている。
中野および溝尻には国衙と関連をもつとされる多くの小字名が残る。飯役・丁田・町田・大門・東大門・ドイ・鍵畑などがそうだという。
「府中」と呼ばれるのは、現在の中野や大垣のあたり「府中小学校」の周辺である。従って丹後国府はこの近くにあったと思われるが、ただ手狭な場所なので、後に西方の男山のハナナミの方へ移ったかと私は考えている。
貞和4年卯月初旬(1348)、「海橋立」を見ようと都を出発した本願寺3世覚如は、14日に「国府」に到着し、大谷寺を訪れ、次いで成相寺に参詣して数日を過ごしたという(「慕帰絵詞」)。
大谷寺は傘松山ケーブルのすぐ西側にあるが、そのすぐ近くに国府があったのかも知れない。
中世の府中は、南北朝期〜戦国期に見える地名で、文献的には、正智院文庫目録、「釈論開解紗」に「応安三年九月廿一日丑時、於丹後国府中北野談義所書畢」と見える(大日料6-33)のが府中の用語例の早い例であるという。
「多聞院日記」に、永正4年(1507)5月、丹後守護一色義有と若狭守護武田元信が成相山で戦った際、武田方の陣が「府中城」と称されている。
「丹後御檀家帳」には「一 ふちう」「一 ふちうの地下にて」とあり、前者には守護一色氏・守護代延永氏などが、後者には寺谷淳左衛門尉・米屋三郎左衛門尉・うをや孫左衛門尉などの名があげられている。
府中は天橋立にのぞむ景勝の地で、知らぬ者とてない観光地であるが、もっとも栄えたのは中世の時代ではなかろうか。
東に丹後一の宮籠神社、続いて成相寺・大谷寺・万福寺・安国寺・宝林寺が並び、西に国分寺が建っている。また、丹後の都の地として、国府・守護所が所在し、その繁栄のありさまは「成相寺参詣曼荼羅」「慕帰絵詞」あるいは雪舟の天橋立図などによって知られる。
こうした府中が繁栄を奪われたのは、一色・武田両氏の抗争が最も激化した永正4年であろうといわれる。
府中の大寺のうち、一宮の大聖院には供僧智海がいて文明〜文亀年間に活躍、大谷寺は建武2年7月、惣寺をもって御祈願所の官符を賜らんことを奏請している。また、万福寺は時衆天橋立道場として大伽藍を誇り、建武元年再建された国分寺は永正4年の戦禍をこうむるまで威容を保っていた。
「丹後国田数帳」によれば、府中に所在した寺社のうち、成相寺が与謝郡・中郡にわたって49町余、一宮も両郡にわたって48町余、国分寺が石河荘に28町余、金光明寺が13町余、大谷寺が13町余の所領・免租地をそれぞれ有している。
田数帳には「一 法花寺 四町一段卅六歩 山田袷介」が見えるが、これは往古の国分尼寺にあたかともいわれる。
近世の府中郷は、江戸初期の村名。「慶長郷村帳」に1、019石余。「延宝郷村帳」以降、国分・小松・中野・大垣・江尻・難波野・成相寺・溝尻の8か村に村切りされた。
近代の府中村は、明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。国分・小松・中野・大垣・江尻・難波野・成相寺・溝尻の8か村が合併して成立し、旧村名を継承した8大字を編成。
昭和29年の戸数632・人口2、960、同年宮津市の一部となり村名解消。村制時の8大字は宮津市の大字に継承された。
《府中村の人口・世帯数》2005・1085
《交通》
国道178号線
府中の主な歴史記録
丹後御檀家帳
『丹後与謝海名勝略記』
【府中七ケ村】此古府なり。江尻、溝尻、小松、国分、大垣、難波野、中村なり。扨此海浜をなへて吹井といふ名所なり。但これより中村の西を記す。
続古今集冬 橋立や與佐の吹井のさよ千鳥 とをよつ沖よさゆる月影 (衣笠内大臣) |
『大日本地名辞書』
【府中】橋立の北浜なる江尻、大垣、国分、成相寺、は府中庄と称せり、今村名に転ず、即古国府の地とす。
補【府中】与佐郡○宮津府志、府中、今、熊野山に城跡あり、天橋立記に、明応年中府中城主延永修理進は一色の旗下なりとあり、又府中江尻村慈光寺は、古は中村に在、是れ延永氏の菩提寺なりとかや、慈光寺殿と云ふ人は修理進が先祖と見えたり、又九世戸文珠の多宝塔は、延永氏除病を祈て建る所と云ふ。〔江尻、参照〕
国府、与謝郡拝師郷にあり、
和名抄、国府在加佐郡、行程上七日下四日、今、府中村存す、即ち与謝郡拝師郷の地なり、按、和名抄注、在加佐郡と云もの誤なり、当さに与謝郡に作るべし、拾芥抄加佐与謝両郡の下共に府字を注す、亦誤る、当さに加佐下府字を刪る可し。 |
『丹後の宮津』
府中
いまから一千二百四十五年(昭和三十三年から)のむかし、時は奈良朝初代の元明天皇和銅六年四月(七一三)、丹波国から五郡(加佐・与謝・丹波・竹野・熊野)をさいて丹後国とすることがきめられ、ここにはじめて丹後の国ができた。ところが、それ以前の丹波の中心も新らしい丹後国のうちにあって、丹波郡(いまの中郡)などはおそらく丹波の中心であったであろうが、丹後国ができるとその中心は「天橋立」を目の前にみる速石の里へうつされ、ここにずっとながく国府(丹後の政治をするところ)がおかれた。そこでこの国府をおいた所が以来「府中」といわれるようになったが、このことは日本全国に共通したことで、地名に府中もしくは国府などとあるところは、ほとんど例外なく、この「はしだて」の速石の里とおなじ意味があるとみてよい。
さてその当時、「あまのはしだて」はまったく神秘そのもので、古代人はこれを天へ神々がかよいたもう梯であったと信じ、それが一夜のうちに倒れて海中によこたわったものと考えた。かくて「速石の里」は丹後の中心となって、ここえ海部の人々も祖神(丹後一の宮・籠神社)をまつり、渡来仏教もはやく寺をたて、ことに聖武天皇が天平十三年(七四一)、丹後国分寺を建てると、いちだんと府中かいわいは開発され、発展してきた。当時丹後への国道が、丹波から大江山を越え、その山麓をつたって倉梯山(須津の大江山鉱山精練所南がわの山)の西を石田へ、石田から板並の里(岩滝町)をへて府中速石の里へとのびていた。そのずっと後のことであるが、室町時代中期の雪舟えがくところの「橋立図」をみても、そのさかんな有様は今日のわれわれを驚かせるのである。
ところが中世室町期には丹後の中心は他にうつり、府中はわずかに一色氏の代官延永氏などの城下となり、おまけに幾度となく戦乱があって、せっかく上代にひらけた府中は日に日に荒廃していった。それが徳川の天下になると、なおさらに荒れはてて、
古い神社仏閣は潰れてしまい、その跡かたさえ訪ねがたく、天平の国分寺などもわずかに一部の礎石をのこすのみとなった。
だがそれだけに、いま「天橋立」を中心に、ここ府中かいわいの古蹟遺趾をたずねるとすれば、おそらくどこよりも豊富であり、興味がわくであろう。そこでほんの一二ケ所、誰にもわかる所だけを訪ねてみたい。… |
『両丹地方史』(75.7)
阿蘇海沿岸調査について
丹後地方史研究友の会
岩滝町史談会
一、ことしは共同調査研究の試みとして二つとりあげた。ひとつは由良浜の製塩についてであるし、もうひとつが阿蘇海沿岸調査である。前者は実人員十名程で五回にわたって史料探訪を行い、また府立総合資料館、大学等にも三回に亘り全国的な研究文献等を探りコピーした。これは主として中嶋が担当した。後者は岩滝史談会と共同研究ということで共同現地調査五回、更に中嶋が五回個人で現地に赴いた。
この研究については宮津市、並びに市教委府中支所等の絶大なご協力をいただいた。にもかかわらずこの二つとも充分成功したとはいえない。主たる原因はわたしたちが共同研究ということに習熟していないということにあろうと思う。それでも前者については「両丹地方史」第二〇号に、由良塩浜聞書をのせることができたし、後者についてはここに多少の問題提起をし得ることを以て僅かな喜びを分かちあいたい。
二、府中概観
(イ)古代の府中
この時代を象徴するものとして籠神社・国分寺を始めとする寺社のことはさておき、国府の所在がもんだいとなる。倭名抄にいう「在加佐郡」はそのままには信じるわけにはいかぬが阿蘇海沿岸に求めるとするならばいまのところ、府中飯役社、ネコ宮ドイ、ドエ、陣屋、二日市一帯、岩滝男山川の注ぐ扇状地、惣役、国住、町田、郡分、横田、鍵町、丁役田一帯、なお素人の思いつきだが江尻東部、籠神社に接して、九条、市場、丁田、マトバ前田、横田一帯の地等が考えられる。ここの丁田は南北約九十米一段高く、その南に古道が東西に走り、何かの跡地であることを思わせるに充分である。細かな測量、製図等をしてみる必要がある。
(ロ)中世の府中
山上においては成相、山麓においては標高二十米前後に帯状につづく社寺。籠神社はしばらく措くとして、慈光寺、クコンドン(供献殿か)、余内寺、橋立道場(萬福寺のち妙立寺か)、安国寺、法連寺(宝林寺か)、北野天神、妙照寺、正音寺、番神堂田中宮、国分寺が殆ど途切れるすきもなくつづいている。以上の諸社寺は必ずしも同時代にあったとはいえないが、壮観というべきである。安国寺地籍の東西百三十米、南北六十米の一事を以て別地図面で他の社寺の規模を推しはかってみていただきたい。尤もこの地図はあくまで概観であることをご承知願いたい。社寺ラインをつないで古道(現里道)が通り、今も辿ることができる。社寺ラインの下に民家があり、そこを近世の「トノサマ街道」がとおる。現在は更にその下に丹後半島一周の府道が通る。この山麓から成相寺へは東谷、真名井道を始め八本の参道登口がある。成相道のできた時の成相寺は現在地より上の方、仙台又は逆杉の辺にあった。
中世の問題で興味のある記録を紹介しておきたい。
その一。本願寺三世覚如は貞和四年(一三四八)この記を訪うた。以下慕帰絵詞第九巻より引用する。
貞和四年如月初比、法印都を出で聊路次に逗留のことありて、おなじき中の四日、年来ゆかしくも見まほしく思ひわたり侍る丹後の海(天)橋立に赴に、みちに雲原といふ深山の中にて郭公をきゝて
はるばると葉山のすそにわけいれば、
木しげきかたになく時鳥。
同日かの国府に下着しけるに、人々さそひ件にもおよばず、少々わかき僧など相具して心もとなさのあまりに、まづ成あひの麓大た仁の辺巡見し侍れば、寺僧に何の律師とやらうむきゝしかども忘却し侍り、云々
ここでいう「かの国府」は固有名詞でなく、かの国衛の所在地というほどの意味であろうか。あるいは政庁そのものを指すのであろうか。もし政庁そのものをあらわすとすれば、その政庁は大谷寺はほんのちょっと出ていけるあたりにある、という地理関係にあることになる。
その二。妙立寺厨子(重文)銘からわかることがら。
昭和二年修理の際に書き控えたかご書きの記録は不明の部分が多いが興味のある事実を伝えている。
(イ)臨阿弥陀仏は浦明(久美浜町)に留主を定め橋立へ通い、住した。(因みに久美浜と念仏宗との関係は一遍聖絵第八巻二段に弘安八年(一二八五)五月、山陰遊行の聖人か久美浜で海中から竜が昇天するさまを描いている。人々は竜神の影向として行道したという。)文和四年(一三五五)より暫くして炎上、延文三年(一三五八)七月十日棟上。
(ロ)貞治(一三六二〜六七)の頃の状態を記しているのであろうが、「道場ハ大工東那水廿五間堂也」という文字もみえる。
(ハ)明応九年(一五○○)紀年銘文書にみると判読に苦しむが「本末ノ衆四十一人ナリ」「大工三良左衛門同子三良次良御遊行廿二代御時也」云々とあり、これも再建関係の記録とみられる。
(ニ)永正十年(一五一三)中興開山当寺九代其阿の記録は最も詳細である。主な点は、 橋立道場万福寺は弘法大師御建立の地であるが、中絶して久しく、ここに遊行七代御再興二百余年である。(遊行七代再興は一三00年頃ということになる。ちなみに一遍死は正応二年(一二八九)である。)永正四年の戦乱に細川右京大夫(政元)乱入放火、同七年住持又野五郎入院、この人は清久より三十四子孫清直二男十八代上人初弟子である。当寺滅亡を悲しむ)一色頭梁慈光寺殿(満範)より七代(満範より数えていること、七代と記していること注意)義有永正九年七月九日、廿六才で他界、夫人が大檀那として再興、四月より始め、筒川庄にて材木柱(?)志楽にて小壁板大輪大貫等志万豊後、同子息新左衛門檀那として人夫以下合力、高屋石見守楠朝臣信家ねたひきの檀那、河嶋主計允も壇那として合力成就した。
最後に「為義有法花龍勝寺殿御北殿云々」とあるが意味がとりにくい。念仏宗の大寺再建のために大檀那守護家一族のもとに、侍大将が檀那として尽力しているさまがうかがえて興味深い。
(ホ)「亥三月」と紀手した文書は最も時代が下ると思われる。当寺由緒は丹後国法花宗門最初の霊場で法花堂妙隆 泣(ママ)寺、開山は日養上人である。上人は身延より京都を経て丹後に来た。一色五郎より余内寺北に法護殿という供殿(地図にいうクゴンドンか)寄進、弟子となる。これによって真言宗を改めて丹後国法華宗根本地とする。その後五年を経て妙照寺、又その後正音寺を造立した云々。亥はいちおう永正十二年(一五一五)としておく。
阿蘇海沿岸の念仏の道場が真言宗万福寺であり、その再興のため守護家、地侍層の手厚い寄進があったことを知り得る。現妙立寺の前進として法華堂、与内寺供殿が考えられる。その法華堂、与内寺が、万福寺とどういう関係であったかは更にこの一連の文書を検討してみる必要があるが、真言宗を改めて法華宗としたというのだから、法華堂、与内寺と万福寺は深い関係にあったことが推しはかられる。現宮津市金屋谷妙照寺祖師像は宝徳三年(一四五一)の紀年銘を有するのだから妙隆寺法華宗改宗はそれから仮に五年さかのぼれば文安三年(一四四六)となる。
その三。注目すべき民俗として荒神がある。株講(先祖講)は永くつづいている。慣習をいま書きとめておく必要がある。
その四。板碑その他石造記念物の保存のもんだい。南北朝から室町期にかけての板碑、地蔵等注目すべき石造記念物の分布、調査、保存等について考慮を払う必要がある。文珠にあったこの付近で最も古い板碑(元応二年−一三二○−)も今は失われてしまった。
その五。籠神社、成相寺、智恩寺等については、それぞれ別便に調査をされなければならない。
【図・写真の説明】
概略図は雪舟天橋立図と比較しながらみていただきたい。
一遍聖絵のうち、橋立(部分)図は、雪舟画とも比較しながら、なお橋立が人々にとってどんな意味をもっていたかをうかが わしめる素材ともなればと考え掲載した。) |
『元初の最高神と大和朝廷の元初』
社記(一宮深秘、室町中期写本)に、此地は、元真名井原と云ったが、後に、これを府中と名づけられたと記されており、栄昌山妙立寺蔵重要文化財厨子裏書に、「飯守之森道主命之従二神殿一神火出日沼野諸家屋形堂宇民家至迄焼亡(以下略)」と見えている。日沼野は今中野と称する、府中の内である。府中は、中野と大垣を中心として、東に、江尻難波野、西に、小松、溝尻、国分の七ヶ村から成立っていて、北に山を負い、南は天橋立に続く、極めて景勝の地である。南は阿蘇海、東は与謝海、中央に天橋立が長く南方海上に延びていて、日本三景の一に数えられる土地なのである。 |
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