小松(こまつ)
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京都府宮津市小松 京都府与謝郡府中村小松 −天橋立観光− 主なものだけ (文珠地区) 智恩寺(智恵の文珠) ビューランド展望台(飛龍観) 股のぞき 天橋立温泉(智恵の湯) 知恵の餅(橋立名物) 知恵の輪 廻旋橋 天橋立観光船 日本三景:天橋立 磯清水 橋立明神 (府中地区) 丹後一宮・元伊勢・籠神社 真名井神社 傘松公園 西国28番札所:成相寺 郷土資料館 国分寺址 |
小松の概要市の北部。天橋立の西側、南に阿蘇海を望む。東は中野、西は国分、南は溝尻に囲まれた山よりの地域。 雪舟の天橋立図にみえる日蓮宗功徳山妙照寺・諸山如意山宝林寺・鳳凰山安国寺などの諸寺はいずれも廃され、現在は小字としてその形跡をとどめる。 小松村は、江戸期〜明治22年の村名。近世初期には慶長検地郷村帳にみえる「府中郷」に含まれたと思われ、延宝三年郷村帳に「府中小松村」高82・449石と記される。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。 小松は、明治22年〜現在の大字名。はじめ府中村、昭和29年からは宮津市の大字。 《小松の人口・世帯数》79・44 《主な社寺など》 日蓮宗妙法山正音寺
北野天神社。 すごい石段を登り切ると、ちょっとした社殿があって、眺望がよい。 天神社は永万元年、小松内府とよばれた平重盛の勧請と伝え、雪舟の天橋立図に北野として描かれている。
鳳凰山安国寺遺跡 安国寺は暦応2年嵩山和尚の開基と伝わる。今の妙立寺(与内寺)から西側の一帯の小字は「安国寺」で、雪舟の橋立図に描かれた安国寺があったのだろうとされていたが、発掘調査などは行われていなかった。 今はこんなところで、別に何もない。タンボとか耕作されていない田畑になっている。右手奥の建物は妙立寺で、そこから正東西に通る道、あぜ道だが、これが「天平の道」と呼ばれている。国分寺の溝などと一致する地割り方向なので、奈良時代に遡るものかと言われ、こんな名がある。諸国の国分寺は天平13年の勅で、天平14年(742)頃に建立されたのではないかとされる。 妙立寺から安国寺へ続く「天平の古道」↑。手前の方が正しく西を向いている、先の少し高くなった所あたりが安国寺の心臓部があったものか。今回はその高くなった一帯を掘っている。 国府の柱穴か、というものが見つかったのは、写真の左手の木立↑が見える向こう側あたりの地下1.5メートルくらいの面。 何度も右手の山から土石流が発生した様子で、当時のままの地形ではなさそう。 立派な案内板がある。せっかくだから↓ 智恩寺を禅宗に改宗した嵩山居中が開山。弟子の宝山浮玉に寺庵を譲り、秋月庵と呼ばれたが、暦応2年(1339)に丹後国の安国寺とされた。山号は鳳凰山。小字が東西130m、南北60mに分布し、大寺院であったと推定される。 『丹哥府志』には天正の頃(1573〜92)宝林寺と同じく廃寺とある。安国寺は夢窓疎石の勧めにより、足利尊氏、直義兄弟が後醍醐天皇はじめとする戦没者の冥福を祈るため、聖武天皇の国分寺にならって国ごとに1寺1塔(安国寺・利生塔)を建てたものである。なお、丹後の利生の所在は有無も含めて不明である。 雪舟の「橋立図」には、今の中野のあたりがなぜかすべては描かれていない、慈光寺(一色氏の菩提寺・府中小学校のあたりにあった。今は江尻に移っている)のすぐ西隣が安国寺になっている。 遺跡の位置は飯役社(印鑰社)の山側になる。宮津市教委は28年度安国寺遺跡の範囲内容確認調査で7ヵ所発掘し、その現説が開かれた。 とんでもないもの、というのか、ある程度は期待できた大変なものが出てきた。世紀の大発見になるかも知れない柱穴が、ラッキーにも一発で出てきた。 第6トレンチ(地図↑の6T) 新聞などで、国府跡かとも報道された大きな柱穴、直径80センチから1メートルという柱穴、普通は柱穴と言っても30センチくらいのものなので、それらの3倍と隔絶した大きな建物があったと推定される。 何個もあるが、建て替えで、時代の違うものか。小判みたいな形や円形でないのは、柱を抜くときに揺らせたためか。現説の資料には、 第6トレンチ 直径80cmから1mを測る円形または隅丸方形の土坑(穴)が複数検出されました。その規模や形から、国府など古代官衙に関連する建物の柱跡である可能性があります。 土師器、須恵器のほか、一般的な集落ではみられない中国産の陶磁器や灰釉陶器、瓦などが多く出土し、官衙的な性格がうかがえます。平安時代前期から後期に位置づけられ、奈良時代に遡る可能性もあります。 第4グリット(4G) 第4グリツト 平安時代後期から鎌倉時代に位置づけられる土坑が検出され、当該期の遺構が遺跡の北半部にも広がることを確認しました。第6トレンチと同様に、中国産の陶磁器や灰釉陶器が出土し、官衙的な性格がうかがえます。 調査区の南半分は、小松川の氾濫で埋まっていましたが、調査区に北側の土坑の上面からは、平安時代の土器が、置かれた時の状態で出土しました。 出土品。鉄器、木器なしで、瓦やP戸欠けのようだが、コンテナに何個分も出たとか。 安国寺以前のもので、中国産の白磁や青磁はきわめて高価なもの、そのマネで製作された日本製の灰釉陶器や緑釉陶器でも高価、一般庶民の遺物ではない。 安国寺は手かがりなしだが、これまで大きなナゾであった丹後国府がこのあたりにあったようだ、という大発見になった。今後も4年間にわたり調査されるという。東隣の中野遺跡が国府でないかと考えられていたが、発掘では何も国庁らしき柱穴は発見出来なかった、同じ天平の地割りに囲まれた安国寺遺跡が注目されるわけだが、柱1本だけではどうにもならない、このおツレの柱列が発見できるかどうか、3メートル(10尺)ばかり先の正南北東西のどこかを掘ってみて(北側にはないみたいだが)、2本目が発見できるか、国庁の建物といっても今の感覚ではさほどに大きな建物でもなく、この面積があるなら建てられそうには思える。超ラッキーにも土石流が上を2メートルばかり覆ってくれているので、掘立柱穴が残ってくれた、土石流がなければ残らなかったかも知れないような地形で、この面よりも低ければもう何も残っていないかも知れない、今は周辺には家も建っているし、だいたいは田畑なので、農閑期のこの時期にしか発掘できないかも知れない、今後に注目期待しよう。 国府があった時代は500年もあるので、その間ずっとここにあったものかどうかは不明で、時により移動したかも知れない、江尻に条里制遺構があり、ここにもあるかも知れない、男山も候補地である、ここは与謝野町だが、まだまだ調査を続けるより手はなさそう。 如意山宝林寺遺跡 宝林寺は無象和尚の開基で、ともに天正の頃に廃寺となったという。 《交通》 国道178号線 《産業》 小松の主な歴史記録『丹哥府志』
『丹後旧事記』
『丹後与謝海名勝略記』
『丹後旧事記』
『与謝郡誌』
小松の小字名小松 清水谷 矢蔵谷 二反田 西山 西山下 四十田 ヨコ田 ヨコ田下 清水西切 清水 白石 天王山 西浜 張付場 三谷 久保田 大坪 上石 上ケ石 縄手下 上石道ノ下 東浜 縄手上 川立下 川立上 田中宮 角田 縄手 横田 横田下 片山 寺山 イタンド上 イタンド西 サブン 寺山ノ上 番神堂 蓮池 大町 稲木後上 ノボリ 登り下 門前 寺ノ上 妙照寺 天神上 天神中 天神下 黒添下 黒添中 黒添上 アンゲロ 谷口 桜井分 ?《木編に久》ケ坪 ?《木編に久》ケ坪上 下ケ浜上 下ケ浜 越前下 越前上 安国寺下 安国寺上 安国寺 安国寺西 若宮 小峠 真名ケ谷 峠 滝ノ水口 久保田 墓ノ下 寺山上 寺山下 インド西 寺ノ西 家ノ後 天神 天神道下 畑田 サカ畑 西立畑 荒神 村ノ上 大池 砂原 家ノ下 村ノ下 川バタ 家後口 川端 米屋畑 立畑ケ 孫畑ケ 谷口下 谷口中 法蓮寺谷口 鍵畑 川ギシ 川原 上石ノ段 奄屋敷 小畑ケ 大井 二日市 椿原 絹巻 キヌマキ 飯役上 飯役ノ上 左七屋敷 越前 安国寺上切 茶道具 アナゲ谷 鳥ケ谷 水呑場 寺山尾 家ノ西 アンゲ奥 法蓮寺奥 法蓬寺 法蓮寺口 谷口上 北野 見明谷下 見明谷上 茶園林ノ上 茶園林ノ下 茶園林 茶園林上 茶園林下 灰谷口 灰谷 竹田尻 灰谷口下 茶釜 不動巌 不動巌下 打越奥 打越下 川原 滝ノ水 見明谷 川尻 足中田 枝谷 川ギシ 上石段 下ケ浜 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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