丹後の地名

溝尻(みぞしり)
宮津市溝尻

付:金太郎いわし・金樽いわし


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京都府宮津市溝尻

京都府与謝郡府中村溝尻







天橋立観光
主なものだけ

文珠地区
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船

日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神

(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社

真名井神社
傘松公園

西国28番札所:成相寺


郷土資料館
国分寺址

 

溝尻の概要




 市の北部で、南は阿蘇海に面し、東は中野、西は国分、北は小松に囲まれている。橋立の西側で、国道178号以南に集落がある。
溝尻から天橋立を見る

溝尻村は、すでに鎌倉期には見える村名で、丹後国与謝郡拝師郷のうち。文治4年(1188)の年号を有する府中籠神社出土経筒に「南閻浮提大日本国山陰道丹後国与謝郡拝師郷溝尻村」と刻名が見える。
近世は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の府中郷のうち。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
溝尻の舟屋(宮津市溝尻)

外海との往来に不利な条件を負いながら、沖打網・さげ網・四人網・小網などを使用して漁業につとめた。阿蘇海の金樽(金太郎)鰯は有名である。享保12年に阿蘇海で当村の漁師が鰤をとる珍事があったが、天橋立の洲崎が延びて内海がせばまり漁獲高が減少したため、天橋立切断の議論が住民の間に起こり、橋立存続をめぐって漁師と藩や橋立を支配する文珠智恩寺との間で争論が絶えなかった。
与謝蕪村の愛人「ゆき」さんというのはこの村の人という。
溝尻は、明治22年〜現在の大字名。はじめ府中村、昭和29年からは宮津市の大字。



《溝尻の人口・世帯数》287・148

《主な社寺など》
深田遺跡
国分寺南方の阿蘇海に面した小字深田の水田から、弥生式土器・壷・高杯などが出土し、弥生式後期、古墳前期の遺跡とされる。

浄土宗金谷山長徳寺
金谷山長徳寺(宮津市溝尻)

金谷山長徳寺
 府中村字溝尻本尊同、由緒不詳、庭前に応永八年の石佛燈籠一基ありて著はる。
(『与謝郡誌』は、)

案内板、長徳寺の案内板
宮津市指定有形文化財(彫刻)
木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代)
宮津市字溝尻長徳寺
右手を挙げ、左手を垂下して、いずれも第一、第二指を相捻して来迎印を結んで立つ、いわゆる安阿弥様(快慶様式)の三尺の阿弥陀如来立像である。頭体を通じて耳後の線で前後二材を矧ぐ寄木造りで、技法的には衣文を股間に集め腿の膨らみを強調するなど、安阿弥様の特色をよく伝えながらも、快慶では外側に膨らんで胸の膨らみを表現する右襟の垂下の線が、本像では直線的になる点などは、この作品が快慶の時代より少し新しいことを示している。また、螺髪を小粒に作り髪際の線をほぼ直線的にする点などは、快慶に並ぶ仏師運慶の様式に近く、両者を巧みに取り入れたものといえる。一三世紀前半の塵派様式の変容を伝える像として貴重である。
 また、長徳寺のある府中地区は平安時代には浄土信仰の中心地となうたところで、大乗寺・万福寺本尊(現舞鶴市瑞光寺)と、鎌倉時代に製作された三尺阿弥陀像が知られているが、そのなかでも本像は最も古く、これらとともに当時の人々に他力易行の念仏が受けいれられた時代相を知る資料としても価値が高い。
宮津市教育委員会


《交通》
国道178号線

《産業》



溝尻の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎溝尻村(男山村の次)
【飯役大明神】(未考)
【金谷山長徳寺】(浄土宗)

金太郎鰯】(内海の名産)
金太郎鰯といふは梵行場の鰯といふものなり。抑内の海は寛印供奉の来迎会を行はれしより殺生禁断の地となる、よって云爾。其形状他の鰯と異り味殊に美なり、一おの値銀五分一銭に至る。僅に天橋隔て外の海に捕る鰯は百尾値銀三分に満たず大捕といふ時には往来の人々に之を与ふ猟師の習ひなり。又鰯を汲むといふ事あり、海面に鰯多く集りて山の如くなりぬ、舟に乗て其處に向ひ、タモ(捕魚具の名)といふものを以て鰯を舟にすくひ入るる、多く捕る者は舟に三艘五艘も捕るなり。斯様なる事は海国ならでは知らぬ事なり、山間の人々之を聞かば定而荘子の説の如く思ふなるべし。

『与謝郡誌』
金太郎鰮
 金太郎鰮は内海所謂阿曾海の名産にして禁断場の鰮と云ふ名なり抑も内海は寛印供奉の来迎会行はれしより殺生禁断の地となる依てしか名づく其の形状他の鰮と異なり風味殊に佳なり。
 因に云ふ藤原保昌丹後守たりし時内海を渡らんとし誤て金を入れたる樽を海中に落し之を拾得せんが爲めに溝尻村の漁夫をして網を作らせ捜索したるも途に樽を得ずして多くの鰮を得たり依て此の内海の鰮を特に呼んで金樽鰮と称したりと俗説固よう云ふに足らるも人口に膾炙せし話なれば茲に記し置く。

『郷土と美術28』
天橋内湾の名物
 金樽いわしの放養
八木橋武八郎

金樽鰮の名称の起り
 藤原保昌が丹後の守であった時に彼は金を入れた樽を携へて與謝内海を渡ったが誤って其樽を海中に落した、そこでこれを拾ふために溝尻村の漁夫に綱を作らせて捜させたが樽を得ずに多くの鰮を得た、そこで此の時からこの内海の鰮を金樽鰮と名づけたといふ傳説がある。
金樽鰮の放養
 與謝内海の鰮には内海で孵化したものと外海から入って来たものとある。外から入って来たものには六月中旬頃までに「ひしこいわし」と共に切戸から入ったものと、人工的に放養されたものとある。
 これらの鰮は八月中旬頃から外海に遁れ去り、八月下旬から九月下旬までは最も多く去り、十一月頃迄も継続するさうである、しかし此内一部は居残って越年するのである
 かやうに内海の鰮は外海に向って移動するからこの内海の漁業権を専有する溝尻の人々は鰮の漁獲が減退するのを恐れて人工的に移養の作業を行ふのである今其作業の状況を述べて見よう。
いわしを移養する作業の模様
 毎年五月(稚魚の得らるゝ時季により六月中旬に至る迄の間)に與謝内海の沿岸にある府中村字溝尻の長分が酌み込み(鰮を外海から内海に移す作業)の命令を発する、その日は区民皆漁業を休み一戸必ず一名以上。バケツ手桶樽盥を手にして橋立に集合する、そこで長分はその出揃ったのを見るとこれを橋立適当の所に配置する、この時宮津湾に地曳網を敷いてゐた宮津の漁夫は橋立の沿岸適当の場所に思ひ思ひに網を引き揚げ、魚捕り(網の末に附いてゐる魚の溜る嚢)の岸に着いた時に長分はその魚の多寡を見て漁夫と価を協定する、価定まれば長分の吹く笛を合図に一定区域のバケツ組はこゝに集り、魚捕り内の平子(眞鰮の仔魚で長さ一寸乃至一寸五分位あり形扇く背の少しく青きもの)及び白目(平子より尚小さく五分乃至一寸位あり白色圓筒形のもの)などを海水と共にバケツなどに酌み取り、これを與謝内海に運び移す。酌み込みの状況はこゝでの名物
 さて酌み込みの人々は、身なり年輩さまどまで、向ふ鉢巻や頬被りシヤシ猿股や白襦袢、半纏姿や朱子の帯、メリンス帯や革の帯、股引はさや前掛や、ゴム靴わらじ跣足袋半白頭やおさげ髪、散髪束髪入り乱れ、織るが如くに駈け違ふ、爲に天橋は煮へ返る程の混雑でこの界隈の一名物となってゐる。
 此作業と前後して切戸の内方一町位の距離に天橋と文珠の間に張り切網を建てゝ鰮の外海に遁れ出づるを防ぐ。
 斯くして内海に移されたいわしは入梅明けの頃から漁獲される、其間の日数は僅少であるが箸るしく生長して食膳に上すに充分である。外海に棲んでゐるものは体細く扁平で脂肪が少いが、内湾のものは圓く肥え太り且脂肪に富んで体色が濃厚に見ゆ、これは即ち金樽鯛である、斯やうに外海のものと違ふ訳は主に食物の爲であって、内海は浮遊生物の種類に富み且其量に於て外海の三倍に達してゐる、のみならず内海は塩分少く鰮の発育に適してゐる爲めといはれてゐる。左に宮津水産講習所で試験した金樽鰮の平均
生長度を示して見やう。
 五月三十日体長一寸内外の鰮を外海より内海に移養
 六月   体長三寸万分  体重一匁五分
 七月   仝 二寸九分  仝 二匁六分
 八月   仝 三寸四分  仝 三匁八分
 九月   仝 三寸六分  仝 四匁七分
 十月   仝 三寸八分  仝 五匁一分
 十一月  仝 三寸九分  仝 五匁五介
 宮津水産講習所で溝尻村の漁夫から此金樽鰮を買入れて罐詰を製してゐる。その方法は鰮を罐に入れて綿実油を以て妙り、次に「オリーブ油」を注入して密封するのである大正十二年度の製造高は約二万六千個に達してゐるさうである。     (大正十四年稿)

『丹後の宮津』
「金樽いわし」の話
 国分寺址の礎石にさまざまの想いをのこして、道をもとにかえし、さきの小松部落から海岸の方へ出ると、溝尻部落を目のまえにする。ここは遺蹟名所など、注意せねばならいもの何一つのこさぬが、そのかわり、かって大極殿マークのオイルサーデインとして、世界の食通によろこばれた「金樽いわし」の主産地であることは、大いにほこるべきである。
 さてこの本来一般の大衆魚としての「いわし」が、ここではなぜそう高名なのであろうか。話はまた平家とのつながりになるが、あの源平のむかし、おごる平家の公達として名ある重盛の五男侍従忠男は、ある日この溝尻の海に舟をうかべ、黄金の樽に酒をつめて魚とる漁人の姿を追い、あるいは「はしだて」の美景をたたえて酒宴にふけっていた。ところがどうした拍子か、乗る舟の動揺によってその黄金の樽を海中へ落し、おどろいてこの樽をすくいあげようとするが、どうしても拾いあげることができない。そのうち、漁人たちの樽をすくいあげようとした網には、樽ならぬ黄金色にかがやくいわしが無尽蔵にとれだした−という話。これがすなわち「金樽いわし」の由来ではあるが、この時の忠房侍従があるいは国司藤原保昌にかわることもあり、それはいずれも話にもならぬ話として、なんら意とするには当らない。ただこの「金樽いわし」の出所が、実は建武の昔、一の宮の別当大谷寺が、勅裁をうけて殺生禁断の制を定めたということがあり、文殊の「三角無字塔」がこの時の傍示の一基であるという説も否定できぬとすれば、この殺生禁断によってうけた溝尻漁師の苦しみと、この苦しみをとくためには百分一の租税を納めねばならなくなったということなどから、「金樽いわし」は実は「禁断のいわし」をもぢったものではあるまいかという説も、また一概に否定することができぬのである。もっとも、また別に転落した酒樽の酒をのんだ「いわし」が、金太即のように赤くなってあがってきたという話もあって、そこで「金太郎いわし」の名も適用するという、まことに融通性のある魚ではある。
 それにしても、なぜこの内海に産する「いわし」が天下に高名なのかといえば、実はこの内海で成長した「いわし」は、外海の「いわし」とは形は小さいけれど、比べものにならぬ美肉なのである。その原因にはプランクトンの発生が豊富なこと、潮のうごきが静かで、特殊な養魚池ともなっていることなど、専門家もまだ解決できぬ原因もあるらしく、近年は春ここに稚魚を放流し、秋その豊満な美肉にはち切れそうになったのを漁るのが例となって、京都府漁業のうち、ここほど安定経営のできる漁村は他にない。
   土産にもと金樽鰮贈りけり      

金樽いわし(金太郎いわし)は、一時は絶滅状態だったが、内海の浄化作業が進み、ここ最近は少し獲れるようになっているという。黄金色に輝く当地だけのマイワシで一匹千円の値がつくこともあるという。金樽いわしの往時の伝統を引いた「天橋立オイルサーディン」罐詰も絶品と好評と聞く。


溝尻の小字名


溝尻
ホウジ ヤグラ谷 弐反田 二反田 シホ入 金山 五反田 丁田 四十田 大橋下 角田 清水 ホコ 岡田 シル谷 フロガ谷 コマガリ谷 トウノ後 セリ田 砂田 中田 大橋 酒屋田 竹ノ下 西深田 アライ田 江戸分 二町田 三谷 峠 下堂 サイミ田 立ノボリ 杉池 深田 イモネ セド川 セド イナドメ 重兵ヱセド 中ノボリ 縄手 忠右ヱ門セド 東大門 田中宮 西ノボリ 菅坪 ドイノ下 ドイ東ノボリ スガツボ 大池 寺ノ下 飯役 梶原 若宮 柳 ヤナギ 法ケ堂 西山 古川 町田 一町田 下国分 正免口 下川 嶋崎 荒神 中地 正音寺西 片山 北野 砂原 川東 金津 金ス 上加屋敷 安国寺 大口谷 枝谷 ド石 トリガ谷 島崎 ヤクラ谷 小谷 滝ノ水 法薄寺 コマガリ 東浜




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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