丹後の地名

難波野(なんばの)
宮津市難波野


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京都府宮津市難波野

京都府与謝郡府中村難波野




天橋立観光
主なもの

文珠地区
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船

日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神

(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社

真名井神社
傘松公園

西国28番札所:成相寺



郷土資料館
国分寺址

難波野の概要




《難波野の概要》

天橋立の北側、籠神社の東側の山裾に位置する。日本三景の観光地からはわずかに外れるだけだが、今は静かな場所である。
難波野村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の府中郷のうち。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
明治9年京都府に所属、同22年府中村の大字となる。
難波野は明治22年〜現在の大字名。はじめ府中村、昭和29年からは宮津市の大字。
国道178号線のバイパス工事中だが、ここから弥生期の貼石墓や条里制遺構が出土している。
大阪の難波(浪速・浪花)と同じ地名で、同じくらいの同じ意味の古い歴史があると思われるが、それがわからない。『大阪府の地名』によれば、
「日本書紀」の神武即位前紀に「皇師遂に東にゆき…、方に難波碕に到る。奔き潮有りて太だ急なるに会ふ。因りて以て、名づけて浪速国と為す。亦浪花と曰ふ。.今難波と謂ふは訛れるなり」とある。大阪湾の潮流はそれほど速くないので説は信じがたいとする意見が強いという。
ナニハは魚庭(なには)の意で、魚の多い所から生れた名称とする説。
古代の大阪平野の内陸部には大きな潟湖が存し、それと大阪湾とをつなぐ水路の流れが、潮の平満によって急流となることから浪速の地名が生じたとして、「日本書紀」の所伝を復活してよいとする説。
ナニハはナミ(波)ニハ(庭)のつづまったもので、波静かな海面をいうとする説。
朝鮮語のナルが太陽を意味するところから、太陽を祀る神聖な場所をさすナルニハがつづまって、ナニハとなったとする説。
などがあるという。神武東遷以前からの地名だが、そもそも何語なのかも定説はないようである。
川上真稚命は、丹波道主命のことといい、別名を建倉五十建命、大難波宿祢命、難波宿祢命ともいいナニワの地名を負っている。
勘注系図では、川上真稚命−大矢田彦命−大倉岐命−難波根子建振熊命と続くわけであるが、大倉岐命は舞鶴志楽の長谷山に、難波根子建振熊命は田造郷高野丸子山に墓がつくられたという。

《難波野の人口・世帯数》175・101

《主な社寺など》

難波野遺跡
夜間照明のあるグランドの山手側、赤いトラックが止まっている付近に遺跡がある。弥生中期の方形貼石墓が2基出土した。

難波野のバイパス工事現場

弥生中期の遺跡群出土
墳墓2基 丹後最大級と推定
宮津で府埋文研貼石墓(難波野遺跡)

 宮津市江尻の国道178号バイパス工事現場で、弥生時代中期の墳墓二基を含む遺跡群が見つかり、九日、府埋蔵文化財調査研究センターが「難波野遺跡」として概要を発表した。墳墓は長方形の周囲を平らな石で囲まれた方形貼石墓。同時期、同型の墳墓は丹後半島一帯のほか、鳥取、島根、広島県にも見られる。同センターは「丹後地方の有力者の勢力分布や海上交易を知る上で貴重な史料」としている。
 現場は、遺跡西側を流れる真名井川が形成した扇状地。墳墓の南端部分とみられ、東西一六・二b、北方向に最大七・八bにわたり高さ六○センチの盛土を確認した。墳墓はさらに北に延びているとみられる。周囲の溝から弥生土器が見つかった。貼石は近隣産とみられる約四○センチ四方の花こう岩。埋葬施設は見つかっていない。露出した一六・二b分は短辺とみられ、長辺は三○b程度と推定される。丹後地方最大級の与謝野町日吉ケ丘遺跡(長辺三二b)の墳墓に並ぶ規模になる。
 被葬者は、現在の同市府中地区付近を地盤としていた有力者とみられる。海に近いため、同センターは「山陰地方との日本海ルートの交易を考える要素の一つになる」としている。こうした有力者グループが、後の「丹後王国」形成に発展した、との見方もある。
 調査では、一帯から奈良時代の土師器や須恵器、平安時代の遺構なども見つかっている。中でも、奈良時代の文字の書かれた土器や硯は、当時の地方官庁、官衙が存在した可能性を示すとされる。… 

07年1月17日
水辺で祭り?古墳期の遺構出土
宮津の難波野遺跡 室町の漆器も
良好な状態で発掘された漆器。繊細な模様が描かれている(宮津市江尻)
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、宮津市江尻の難波野遺跡の第5次発掘調査結果を発表した。古墳時代中期に水辺で祭りを行う場所だったとみられる跡や、黒漆の上に朱漆で花や鳥が描かれるなど装飾が施された室町時代の漆器などが見つかった。
 国道178号のバイパス工事に伴い、同センターは2002年度から調査を実施。今回は8区画計約1700平方メートルを発掘した。
 西側の1区画(約900平方メートル)の地下1・5メートル−1・8メートルから、古墳時代中期のかめや高杯(たかつき)などの土器、それを模した小型土器計100点超が出土。大半が上を向き、流路跡(幅約5メートル)に入り込む形で一辺が約3メートルの「コ」の字の列に並んでいることなどから、同センターは水辺で祭りを行う場所だったとみている。このように並んだ土器が発掘された例は全国的に少ないという。
 また、同じ区画から漆器、はしなどの木製品、陶磁器が出土。漆器は直径6センチ−20センチの17点で、黒漆の上に朱漆で花や鳥が描かれるなど装飾が施された高級品。
 現場近くには、延喜式式内社で丹後国一宮の籠神社があり、また、神子(みこ)屋敷などの小字名が残っており、漆器は籠神社に関係する施設で使われていた可能性があるという。
 同センターは「一帯は当時、足利氏が代々保養に訪れるなど、豊かな文化があり、今回の漆器もその一端を示している」としている。 …
(『京都新聞』(060310)(写真も))

(ふもと)神社麓神社(宮津市難波野)

地内に鎮座する麓神社には飯遣福(いかりふく)・居在福(いありふく)という習俗が残る。これは雄略天皇に追われた市辺押磐皇子の子、億計皇子・弘計皇子が一時「余社郡」の当地へ避難した故事にちなみ、両皇子を祀った当社へ毎年11月20日に赤飯を供えて、それを氏子が分けあうものと伝わる。



千体仏千体仏(宮津市難波野)
千体仏は辛丑の年(天明元年1781か)に成相山付近より出土したものという。多くの板碑が集められている。室町期から近世初期のものが大部分で、「丹哥府志」によると、辛丑の秋に成相山の下から掘り出したという。
現地の案内板(宮津市難波野)
難波野の千躰地蔵

 ここを千躰地蔵と称するのは、既に丹哥府志(宮津藩主本荘氏の委嘱によって小林玄章父子孫三代によって天保十二年(一八四一)完成の地誌)に次の如く記されている。
 灘波野村の西、成相山の下より一千躰佛を掘り出す。蓋応永年中大江越中守造る所の千躰佛ならん。
大江越中守云々は信頼し難いが、嘗てこの場所からおびただしい石佛を掘り出し、その後ほうぼうで見つけた石佛を持ち寄り集めて、千躰地蔵と称してきた百数十年に亘る歴史は疑うべくもない。
 まことここにある石佛石塔は、十教段にわたって優に「千躰」を超え、そのうち板碑型に数えられるものは一三百余基ある。若干の宝篋印塔・五輪塔のほかに、舟形光背形の地蔵像が多い。紀年銘のあるものは見つからない。板碑の彫成時代は戦国期から完成初期にかけてのものが多い。
宮津市文化財保護委員会

何か隠された由緒ありげな社と千体仏だが、記録は残されていない。何か大きな寺院が近くにあったのであろうか、西光寺、正法寺という小字があるが、そうした寺院か、これはもしかして麓神社の神宮寺か。そうだとすれば麓神社は今よりずっともっと大きなものだったものか。
麓神社はフモト神社と呼んでいるが、この字でハヤマと読む所もある。人は死ぬとひとまずはハヤマに来て、それから奥山へ移るという、千体仏があるのは、この一帯が葬送の地であった名残りであるのかも知れない。
また麓神社は山口神社で、本体の山上神社があったのではなかろうか。山の神を祀る神社があったのではないか、山の神なら鉱山神であるかも知れない。
飯遣福は皆で集まってメシを喰うということで、大量のメシをぶらさげて皆がそろって山上神社に参詣し山で遊ぶ風習があったものの名残りかも。歌垣山でもあったものか。葬送の地はまたこうした地でもあった、人は死ぬと、こうしてまた生まれ変わるとされたのである。
オケヲケと繋がるとすれば、鍜冶系の社か。鬼退治されてしまい彼ら本来の祭神の記録も消された過去があるのかも。由緒はもうわからないが遠い祖先とつながる社と思われる。


《交通》
国道178号線


《産業》

難波野の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎難波野村(大垣村の次)
【千躰仏】今茲辛丑の秋、難波野村の西成相山の下より一千躰仏を掘り出す、蓋応永年中大江越中守造る所の千躰仏ならん。

『丹後の宮津』
千体地蔵 真名井神社の山からおりて、難波野の新住宅地域までくると、その裏の山肌に一割を区切って多くの石塔をならべてあるのを見ることができる。細い畑道をつたってその現場へ行くと、最近整理された石仏が幾百となくならべられ、それをよくみると年代的にかなりの相違が発見されて、永いあいだに集められたものが発堀されたという見当はつくのである。そこで、さきに故永浜宇平氏によってつくられた「難波野郷土誌」をみと、この千体仏はかって天保十二年七月(一八四一)、現在の場所「赤土取場」から「五百三拾程」出土、ところがその噂をきいて宮津方面をはじめ、あちらこちらから堀り出しては持ちより、ついに「凡七八百程御座候」ということになり、さらに同年八月一日にしらべたところ、「千体地蔵御座候」といった驚くべき数になった。そしてこれを時代的に分類すると、室町期応永年代(一三九四〜)から、江戸初期の慶長・元和・寛永(一五九六〜一六四三)ごろまでにおよぶ二百余年間の形式がみられるのであって、このおびただしい地蔵石碑がなぜここに集ってきたかわ明でかない。しかし古い時代のこの辺一帯は、なお多くの寺院などもあり、あるいは供養地として特殊な意味をもっていたかとも思われる。いづれにしても、時に一見してその時代別の調査などをするのもおもしろく、またここにたって東南を眺めると、宮津湾の風光は、背面の山々とかさなりあって、美しく大きい。
麓神社 千体仏の山をおりて、難波野部落に足をむけ、その部落の中央の道を山手へあがると、そこにこの「麓神社」がある。見かけはみすぼらしい小社であるが、その境内にのこるムクやクスなどの古株をみると、幾百年をへたともしれぬもの、この巨木数株がいかにも意味ありげに感じさせるのである。もちろんここの氏神で、さまざまの伝説的説明もあって、難波野の人々は遠い先租とのつながりを、いまにほこりとさえしている。またそれにふさわしい「飯遣福」という行事などもあって、祭神は大鷦鷯尊に、丹後と縁のふかい億計・弘計(雄略天皇に殺された市辺命の子で、のちに顕宗・仁賢という両天皇のこと)をあわせ祀っている。なにはともあれ、今日の府中地域にのこる古社の一例として、瀧尻の飯役社とともに、なお注意されるべきであろう。
慈光寺 麓神社からまた引きかえして部落をあとに、足を江尻へはこぶと、橋北への道路にでて慈光寺の墓地である。ここをさらに江尻の旧道へまわると慈光寺であるが、この寺はもと中世一色氏の有力な部将であり、府中城主であった延永修理進家の菩提寺であった。この延永氏が文殊智恩寺の多宝塔を寄進したことは、さきにみたとおりである。この寺の慈光寺というのも、その法名の慈光寺殿からとったもので、本尊・観世音菩薩は室町初期の作とみられ、立派である。

『丹後路の史跡めぐり』
麓神社(ふもとじんじゃ)
 府中の東、灘波野部落に麓神社とよぶ小さな社がある。
 ここには億計、弘計二皇子を祀っている。安康天皇の代、四五六年に眉輪王(まゆわのきみ)の乱というのが起きた。允恭(いんぎよう)天皇の皇子穴穂命は兄の軽皇子を殺して帝位つき、安康天皇となったが大草香命を殺しその妃蔕姫を奪って自分の妃としたため、大草香の子眉輪王は父の仇と天皇を殺した。天皇の弟雄略は眉輪王を殺し、さらに帝位のじゃまになる履中天皇の皇子市辺押磐王(いちのべのおしわのきみ)を蚊屋野(かやの)に殺して天皇の位についた。そこで身の危険を感じた日下部使臣と子吾田彦は億計、弘計の二皇子とその母クサカンムリに夷姫(はえひめ)をつれて与謝へ逃れ、灘波野にかくれた。母のクサカンムリに夷姫はこの冬病死し、日下部使臣も前途を悲感して自殺した。
 弟弘計はここで小野姫をめとって妃としたが、追々と身近に危険が迫ったので、大内峠より三重長者五十日真黒人を頼って落ちていく。ちょうど村人はぼた餅を差し上げようと準備していたのが、あまり出発が急なため、小豆を炊きたての餅米の中へ投げ入れて差上げたので、その風習が残っている。

『京都新聞』(昭和39年3月8日)
(16.10.23研修ウォークでの資料にもらったもの)
*伝承ここに 京大名誉教授 新村 出氏談*
*難波野の飯遣福(いいやりふく)
*二王子安泰の祈り*
*皇位争った悲劇語る。
こどもの頭のように大きなお赤飯のおにぎりを、三宝にのせて持つ中田龍太郎さん(六四)木P大蔵さん(六五)井上秀之祐さん(六一)のあとから、自治会長の森中敬三さん(四七)や世話役の中田二郎さん(三六)中田赴さん(三六)そのうしろに里人たちがつつく。
つまさきあがりの坂をのぼると、宮津湾をみおろす小高い丘に、麓(ふもと)神社があ。。見かけは小さな社で、無格社だか、古びた石ガキの上にそびえるムクやクスの木は、樹齢七百年をこすという巨木。この社が難波野(なんばの)くわしくいえば、宮津市府中難波野の人たちの氏神さま。ご祭神は仁徳天皇と億計(おけ)王、弘計(おけ)王、のちの仁賢天皇、顕宗天皇である。
 祭りがくると、宮座の長老たちは三日間、肉食を断って精進し、すべて男手で米をかし、シメなわを張ったセイロでお赤飯をむし、ごついおにぎりをつくる。新しいワラづとにつつんで三宝にのせ、神酒とともに神にささげる。これとともに、難波野地区(戸数三十戸、約二百人)全員にいきわたるように、同じような大きなおにぎりをつくって、これも一度神前におそなえする。
 海部穀玄(よしはる)宮司(六五)=一宮の宮司と兼務=のノリト奏上がおわると、集まった里人たちに神酒をふるまい、おにぎりを分配するのである。これが飯遣福(いいやりふく)といい、居在福(いありふく)ともよばれる行事。難波野の人たちは、千五百年の昔から、この祭りをかかさずにつづけてきたという。

 飯遣福の行事のかげには、皇位をねらって皇族同士、殺し殺された古代の天皇家の悲劇がからんでいる。
 話は第二十代、安康天皇(四〇一年〜四五六年)の世にさかのぼる。皇太子木梨軽皇子を排し、皇位についた允恭天皇の第二皇子・安康天皇は、叔父の大草香皇子を殺し、その妃中帯姫(なかひひめ)を后とした。ところか天皇には皇子がなかったので、いとこの履中天皇(十七代)の長子・市辺押磐(いちべのおしはの)皇子を皇太子にしようとしたところ、天皇の弟、大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)皇子がうらみ、天皇が大草香皇子の子・眉輪(まゆわ)王に殺されたとき、眉輪を殺し、どさくさまぎれに狩り場で市辺押磐皇子も射殺(日本書記)し、みずからが皇位につき雄略天皇(二十一代)となった。
 億計王、弘計王の兄弟は、殺された市辺押磐皇子の子。家臣の日下部使臣が両王子を奉じて、難波野のこの地に逃げ(古事記)(日本書記)てきた。郷土史研究家の中田龍太郎さんによれば「兄弟の母君が陰陽師だった安倍氏の出だったといい、府中のこあたりにが安倍氏の荘園だったので、その縁をたどったのだろう」という。
 ところが、雄略帝の追捕がきびしく、速石里または拝師郷といったこのあたりもあぶなくなったので兄弟は播磨国(兵庫県)をさして落ちて行った。
 里の人たちは、二王子がこの地に潜伏中、身分をかくしていたので、高貴の人とは知らなかったが、人がらがよく、由緒ありげにみえたので、何くれとなく世話をし、兄弟の出発の日、大きな赤飯におにぎり弁当をつくって持たせ、旅の平穏を祈ってあげた。のちに、この二人が王子で、しかも即位して、弟の弘計王が顕宗天皇(二十三代)兄の億計王が仁賢天皇(二十四代)になられたと聞き、二王子の住んでいたかくれ家を宮とし、二王子の曾祖父仁徳天皇と二王子をまつり、この地を出発された十一月朔を祭日に(写真は特に演出してもらったもの)お赤飯をささげる飯遣福の行事をつづけているのである。
 二王子の一生は小説以上に波乱に富んだもので、二人は播磨の国明石郡の縮見屯倉首忍海部細目の家僕として住みこみ、雄略天皇の死後、清寧天童(二十二代)の世になって、播磨の国司伊与来目部小楯が細目の家にとまったとき、弟の弘王が歌に託して身分をあかし、おどろいた小楯の注進で、兄弟は清寧天皇にまねかれ、やがて億計王は皇太子となった。しかし、兄弟は天皇の死後、皇位をゆずりあって受けず、姉の飯豊青皇女がしばらく政をとり、皇女の死後、弟の弘計王が即位、顕宗天皇となり、三年ののち、顕宗帝が死んだのだ兄の仁賢天皇が即位した。
 難波野が速石里、拝師郷とよばれていたのを難波野としたのは、二王子の曾祖父仁徳天皇が仁政をしいていたので、その故事から地名をかえたといわれる。
 祭りが本式に行われる旧十一月は、ひざまで雪にうずまるというか、里の人たちは紋つきカミシモて昔ながらの風習をゆるがせにはしない。宮座の長老たちは女色をさけて潔斎する。明治のころ、そんなことは迷信だといって、宮座のふるまいに宮津から芸者を入れたところ、その夜当屋の家から出火したという。
 「私たちは安倍家の子孫だという高い誇りをもっています。最近ではそれはなくなりましたが、一時はこのあたりの人士と結婚もしないという伝統をもっていたものです」
 中田さんらはそういう。飯遣福につなかる難波野の風習は、この里の人たちの、郷土愛をもりあげるバックボーンである。





難波野の小字


難波野
島ノ堂 宮ノ脇 竹本 丁田 浜田 横田 家ノ下 谷口 谷口大町 谷口下切 浜畷 四反田 四反田汁田 細田 沖田 筧口 西深田 三反田 妙見 東深田 塚原 東塚原 大袖 芥子川 金持 二反田 東金持 生産屋ケ谷 呑分 五斗田 柳分 高畔 嵯蛾 高石 宮ノ下 大垣 竹本 諸岡 阿ミダ堂 寄洲 池ノ上 浜畷 西光寺 大道 井戸ノ西 大背戸 柚木 妙見口 妙見谷 堅畑 外浜東切 大西 下金持 五斗田道ノ上 札ケ谷 屋敷ノ西 上地 家ノ上 長畑 奥ノ谷 堂ノ下 稲木場 桑園場 川向 ヒロクノ段 林ノ下 札場 施餓鬼田 壱町田 下坪 浜縄手 外浜 赤土畝 柚ノ木 腰前 ヲジ原 伯父原 塔鉢 家ノ上小女郎畑 薮地 正法寺 枯木谷 猿谷 塩谷 石切 石切り西 石切東側 梅本 三谷 西谷 東谷 正法寺谷 大石谷口西切 大石谷口東切上 柳分 窪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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