過去を忘れて、戦争へ行こう

岸壁の母
今なお終わらぬ戦争の悲劇
A


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岸壁の母の続きです

附録


T34戦車
ソ連軍のT34戦車   (T34ユーチューブの動画)

いろいろなバージョン併せて8万余輌も生産されたという当時のソ連軍主力の傑作中型名戦車、第二次大戦中の最高傑作の名が高い。上の引用文では重戦車としているものが多いが日本兵はそう感じたということで、正確には中戦車である。しかしドイツ軍の旧来の兵器ではどうにもならず、タイガー重戦車(T34の二倍の重量がある)でも苦戦したとかの大変有名な戦車。85ミリ砲を積んだT34/85の戦車砲はタイガーの前面装甲をぶち抜いた。↑写真の戦車は初期の76ミリ砲のようだが、この砲ではタイガーはどうにもならなかった。日本ではあまり知られていないが、ヒットラーを打ち砕いた戦車である。
大きさは米軍のM4中戦車と同じくらいのものであるが、V12ヂーゼルエンジン、広いキャタピラ、鋳造の装甲、ロシアの国土とメンテ能力などをよく考え抜き本格的に磨かれた戦車、ドイツ軍を撃ち砕いたこの戦車に対しては、旧態依然の日本を象徴する陸軍の超時代遅れの軍の「戦車」などは前世紀の荷車程度のカボチャで問題外である。
バージョンアップされて戦後も同盟各国で運用されたといい、いろいろある。今も栄光の戦車なのか、現在の軍事パレードでも、この戦車が先頭を行くことがあるようである。
ちなみに←同時代の日本の戦車。たぶん89式か97式というヤツのよう(砲身の短い57ミリ砲)、三式戦車といってもうチイとカッコのエエ強そうなヤツもあるそうだが、本土決戦用に温存されていて一度も戦場に出ることはなかった、それでもM4などよりも軽いのでどれ程の戦果をを上げられたかはあやしい。社会の変革(言うまでもなく進歩の方向へ、今の日本のような逆廻しではない)を推し進めないとその兵器も世界の趨勢についてはいけないを見る思いになる。愚かさが過ぎて歴史の逆廻しに血道をあげていれば、そのめざす軍事大国化も不可能になるという皮肉な教訓を得る。
T34は陸自の今の戦車より小さく、現在なら小型か軽戦車に分類されるくらいのものだが、当時の日本軍の装備ではどうにもならない鋼鉄の巨大な塊であった。新二氏の隊に2門あった旧時代物の37ミリ対戦車速射砲では命中しても蛙の面にションベン、対戦車の唯一の武器だったがT34やM4の装甲は打ち抜けなかった。歩兵砲中隊の砲というのは歩兵や馬賊相手の迫撃砲などの小砲で、こんな砲や即席の粗悪小型爆弾ではこの相手はどうにもならない。あとは15センチ榴弾砲が4門あったという、しかし榴弾砲は対戦車砲でない、命中すればそこそこのダメージが与えられただろうが、接近戦だから、周囲の味方も吹き飛ばしてしまうことになる。T34戦車に対抗できる装備はスンバラシイ国軍には荷車しかなく量質ともに圧倒的な格差があった、偉そうに口先だけのイカレたものであった。しかれば三十六計逃げるに如かず、開拓民は置き去り、若き兵士は下敷きに飛び込ませ、サッササッサ、後のことなど知るわけないでっしゃろ、みんなロスケが悪いんですわ、ホンマでっせ、その骨も拾わずほったらかし、真相も伏せてエエかげんとバカ話ばかり、そうして今日まで来たのである、これがどこかのスンバラシイ国である。ソ連軍は1週間で全満州を制圧してしまった。ベルリンへは日に50qの速度で迫ったというが、それを上回る作戦術とスピードであったよう。



これは85ミリ高射砲改の85ミリ戦車砲を搭載したT34/85のよう↑。


『われは銃火にまだ死なず』

 〈 磨刀石の肉攻陣地を蹂躙し、各砲陣地・機関銃座を壊滅させたソ連機甲部隊のT34戦車は、俗にスターリン戦車≠フ異名を持った当時欧州最強の、いや世界最強の威力戦車であった。全備重量三十二トン、乗員四名、最高時速四十八・三キロ、実用走行距離三百キロ、装甲の厚さは九十ミリを誇った。しかも搭載砲は八十五ミリ砲一門、七・六ミリのデグチャリョフ機関銃二梃、弾薬は砲弾六十発と千九百二十発の機関銃弾を装備していた。(以下資料:ダグラス・オージル/加登川幸太郎訳『無敵!T34戦車』サンケイ出版を参照)
独ソ戦で、ロンメル麾下のドイツ大機甲軍団が決定的な壊滅を受けた最大の原因は、実にこのスターリン戦車によるものだった。ドイツ機甲部隊司令官として勇名を馳せたエバルト・フォン・クライスト元帥は、このT34戦車に最も悩まされた将軍である。「それは、世界でもっともすぐれた戦車だった……」というクライストの回想は、世界戦史に意味深い戦訓をとどめている。
ミハイル・コーシキン設計のT34は、火砲、装甲、機動性といった戦車に不可欠の戦力要素を余すところなく、最高に充実させた戦車である。車内の居住性は悪く、外装は荒げずりで、磨刀石で捕獲したT34を目撃したある候補生などは、泥がへばりつき固く焼きついたような鋳物の型のよだれが付いたままの凸凹の装甲に驚いている。仕上げの研磨など全く二の次なのであった。だがソ連は、独ソ戦開始前後からこのT34型をひそかに大量生産し、快速、重装甲、強大火砲をもって、ドイツ軍に殺到し大反撃に転じた。T34の前部が角張り、深い傾斜が付けられているのも、装甲の強度をいやが上にも倍増するものであった。その前部装甲の傾斜は、正確に六十度でありこれは垂直に置いた約三百ミリの鋼板と同じ強度を持つものと言われている。
あらゆる攻撃火器も、これでは歯が立たなかった。まして磨刀石布陣の火砲では推して知るべし。候補生たちは、挺身爆雷攻撃によるより他に道はなかった。しかも体当たりでその下敷きとなりながら……。  〉 


ソ連軍の対日参戦

牡丹江方面へは対日参戦したソ連軍主力の最大勢力が来る、と日本軍も正しく見ていた、ジャの道はヘビで、自分らがこの道を逆方向に攻撃する予定だったのだからそれはよくわかった。
この方面のソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹で、数の上でも日本軍の3倍以上あったし、その装備はドイツ戦を勝ち抜いた世界最強陸軍のものだから、質においては口ばっかりで竹槍に毛が生えた程度の日本軍装備とは較べようもないほどの戦力差があった。全満州の根こそぎ動員で員数だけは全体で80万ほどに水ぶくれしてほぼ最大勢力だったが、ロクな武器はなく素手か竹槍、投石で立ち向かうような張り子の虎の素人部隊、ソ連軍を阻止しろなんて、バカ言うな、のハナシであった。牡丹江にあった関東軍第一方面軍司令部は戦争が始まると同時に敦化に移動するよう準備されていた。若者達に爆弾かかえさせて戦車に飛び込ませて時間かせぎをして、その間に上層部は逃げた、このとき民間人にも逃げられる時間ができるが、それは本来の目的ではなく、たまたまの余禄、満州全土で開拓民や居留民を置いて我先に関東軍は逃げていて、当地だけは居留民に逃げる時間を作ったなどはあり得ない。
エラそうに言っていた者どもは敵のいる方ヘ移動するのではなく、いない方ヘと移動した、あの大口はどこへいったのやら、ヒッヒキョウにも敵を見て逃げた。(そう言われても仕方なかろう。敵前抗命とか敵前逃亡は重い犯罪で銃殺刑と定められていた)

しかも、いまもって新二氏などの遺骨の収拾などはなされてはいない。いや中国が入れてくれんのじゃ、とか言うだろうが、そんなことはない、悪の権化のように言っている北朝鮮だって入れてくれる、本当に気の毒なことだ、いつでも来い、といって協力してくれる。テメエらが行く気もないのである、そんなことで寝た子を起こしたくないのであろう。本当の悪の権化が見える。
どこかの国は長く中華人民共和国を認めてはこなかったし、また中ソ国境紛争もあった、そうしたためこうした国境地域は外国人は入れてもらえないことも多い、またかつてあまりにメチャクチャをしてきたため、現地人々の反発がいまなお強いし、それも理解せずバンザイなどをさらしたバカがいたからということであって、何も他国の事情のためだけではない。


ヤルタ協定とソ連の対日参戦(8月8日)

 〈 ソ連は8月8日、日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定に基づいて満州や南樺太と千島列島に侵攻を始めました。  〉 
と中学校の教科書にも書かれているが、その所を見ておこう。
ドイツの降伏は5月8日で、ヤルタ協定(秘密協定部分)に従ってソ連は対日戦に参戦している。約束の日のギリギリであった。
アメリカからソ連への軍事援助は膨大で、トラックだけでも37万台、イギリスに対する援助に較べれば少ないが、ほぼイラン経由で行われていたという。(イラン石油をねらって当時はイギリス、アメリカ、ソ連などに何度も侵略を受けている)
上の『画文集』にもT34等の戦闘車は別として、トラック・ジープなどの車輌はすべてアメリカ製だったと書いている、アメリカ製の車に乗っているから、反ソのパルチザンかと思っていたら、それらはすべて正規のソ連軍だった。
「頼むデ、ドイツの次は日本もな」の意味がもちろん込められていて、対日参戦はその借金の清算のようなもの。真珠湾直後からのアメリカの軍事援助あってこそ対ドイツ戦も勝てたようなこともあるだから、苦しい時を気前よく助けてくれた持ちたい友の最有力者であると信じていたアメリカの要求というか、ツケの支払いの請求は飲まざるを得なかったと思われるが、プラスして若干の見返りも付加している。ソ連国内が大変であるし、強いとされていた関東軍が相手であった。ソ連が要求したものか、アメリカがボーナスとして付けたものか、日本の権益ばかりだから、何も痛くはなく、アメリカ側が出したものと言われる。何といってもアメリカが仕切った会談であった、文書面にはおくびにも出さず、三国の対等な立場での協定であったかのような姿をしているが、これはアメリカのやり方、高利貸国アメリカの対外施策の基本で、今もそうであるが、アメリカの腹はおそらくイギリスもソ連もアメリカの借金で縛られた属国・従属国と見なしていたものと思われる、高利むさぼる貸し主のアメリカのトリタテとしてソ連の対日参戦が決定さられたと推測される。あとでトリタテることのできないような、アメリカいいなりの傀儡勢力を強められる見通しがたたない「支援」(ヒモ付き)はしない、ユネスコとかみな断っている通りである。ヤルタよりも早く十九年九月には米ソの予備会談があり、対日参戦はドイツ降伏より三ヶ月を要すること、アメリカは物資支援をするなども決められていた。
終戦一週間前に火事場ドロみたいに来やがって、中立条約を破りやがったキタネー国だ、は舞鶴あたりの指導層でも聞かれる(それしか聞かないが)俗論、帝国の亡霊の説で、歴史と実態に目を閉じて純粋に日本を信じ続けアメリカをソンケーし続けてている人にはとても信じられないことであろう。
ソ連も何も来たくもないが、借金のためシャーナシで荒っぽく大仕事をして、すぐに引き上げていった、のかも知れない。日本の勢力だった所はアメリカの好き放題…、のはずであったが…。日本と朝鮮の南半分しか達成できなかった。しかしその野望は捨てていない、北朝鮮が、中国がと日本政府やマスコミを巻き込んで非難し基地だらけにしている。(ヤバイ位置にいる韓国は知らん顔である、これがカシコイ)
『ソ連が満州に侵攻した夏』

 〈 いま明らかになっている「ヤルタ秘密協定」の全文は以下のとおりである。日付は一九四五年二月十一日となっている。
 「三大国即ちソビエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し、かつヨーロッパにおける戦争が終結したる後に、二カ月または三カ月を経て、ソビエト連邦が左記の条件により連合国に与して、日本に対する戦争に参加すべきことを協定せり。
一、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし。
二、千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害せられたるロシア国の旧権利は、左記の如く回復せらるべし。
 (イ)樺太の南部及びこれに隣接する一切の島峡は、ソビエト連邦に返還せらるべし。
 (ロ)大連商港におけるソビエト連邦の優先的利益は、これを擁護し、該港は国際化せらるべく、またソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順港の租借権は、回復せらるべし。
 (ハ)東清鉄道及び大連に出口を供与する南満洲鉄道は、中「ソ」合弁会社の設立により、共同に運営せらるべし。
  但し、ソビエト連邦の優先的利益は保障せられ、また中華民国は満洲における完全なる主権を保有するものとす。
三、千島列島はソビエト連邦に引き渡さるべし。
 前記の外蒙古並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総帥の同意を要するものとする。大統領はスターリン元帥よりの通知により、右同意を得るため措置を執るものとす。
三大国の首班は、ソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後において、確実に満足せしめらるべきことを協定せり」  〉 
「千島」というのはどの部分を言っているのかは明確ではないが、普通には全千島の意味であろう。戦後処理としては千島は全島が、あるいは択捉までは日本領でいいと思われるが、サンフランシスコ講和条約では日本は千島を放棄している。この千島も、何の但し書きもなく普通には全千島の意味であろう。後に北方四島はその千島には含まないとして、不当占拠だ、返せといっている。ソ連から見れば何を言い出す国やら、わけわからんであろう。
沖縄も小笠原も取ってもらって文句いいません、の近衛特使の要項もあり、千島も取ってもらってよろし、の考えは日本側にあったと見られる。
自分さえよければ、領土など好きなようにして下さいの保身者のクソども考えなのか、アメリカにケツを叩かれたものか、それだけ自分の非をわびて強く平和を求めていたものか、そもそも戦争をはじめた国の責任を不問にしては、平和はとりもどせない、自分が火をつけたから、境界線もおかしくなったのであって、非難するならまずその火付けからであろう。まずその基本をしっかりせずに、それをヌキにしアイマイにしたままではどうにもなるまい。当時の日本はその立場にあった、ソ連との後の平和条約が難しくなるかもの配慮とワタシには思われる。
ソ連の参戦の地域については何も書かれていない、実際は日本の海外分へ侵攻したが、ソ連は北海道上陸戦を8月18日と定めて準備万端整えていた。当然ながら本丸の攻略戦にも参戦が含まれていたと思われる、ソ連参戦は出城だけ限定とは何も但し書きはない、本丸戦の方がはるかに困難である。しかし文書には何も残されていない、巧妙な文書である。
アメリカは南から攻める、ソ連は北から攻める、利根川で出合って握手しよう、エルベ河の邂逅ように、ファシストどものカゲもなくして、青年は二度と銃を交えずと、お互いに誓おうではないか、とか。結局はアメリカに拒否されて取りやめとなったが、ソ連だけで勝手にできるハナシではなく、本丸部分の何らかの協定があったと思われる、しかしそれは今尚明かではない。このあたりがわかってくると浮島丸事件の底も見えてきそうである。







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関連項目



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このページの目次
岸壁の母や岸壁の妻の町
舞鶴の原点
身の上ばなし
新二さんの最後
磨刀石の死闘
新二氏は生きている
附録
 

−舞鶴引揚記念館−
舞鶴引揚記念館:設立の趣旨
舞鶴引揚記念館:シベリア抑留
舞鶴引揚記念館:満蒙開拓青少年義勇軍
舞I引揚記念館:満州開拓団
満州天田郷・第二天田郷
舞鶴引揚記念館:岸壁の母(このページ)


引揚の歴史
引揚の概要1
引揚の概要2:援護局開設までの時期
引揚の概要3:「上安時代」
 
32隻の引揚船


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引揚船のリスト
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