志楽(加佐郡志楽郷)

志楽


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龍宮伝説とコッテイ崎(舞鶴市市場)



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松尾寺本堂
 志楽谷は西国三十三箇所観音霊場二十九番札所の真言宗の巨刹・青葉山松尾寺がある谷筋になる。こうした全国に名の知れた寺院のある土地は何かそれなりの先行する古い宗教歴史があると思われる。
長くなりそうなので、新たにページをつくります。


「青葉山松尾寺」 「青葉山松尾寺」 「青葉山松尾寺」 「青葉山」 「青葉山」 「青葉山縦走」 「青葉山・頭巾山・大島半島」


青葉山とその周辺

丹後国の東端に青葉山がある。山の中腹に松尾寺がある、陸耳御笠くがみみみかさくがみみみかさくがみみみかさがいたと伝わる山である。松尾寺以前からの仏教以前の古い宗教的中心である霊山であったろうと思われる。陸耳御笠の伝説ともかかわり深いので、そちらのページも参考にして下さい。青葉山(舞鶴湾上より)
「陸耳御笠の伝説」

『高浜町誌』の伝説と民話に、

 〈 青葉山の土蜘蛛(青葉山麓)
 青葉山は、丹後と若狭との国境にあって若狭富士ともいわれている。
 崇神天皇のころ、この山に「土蜘蛛」が住んでいて、その頭を「陸耳の御笠」といった。山から下りて来て田畑を荒らしたり、家にはいって物を盗んだりするので、天皇は御弟の日子坐の王に、討ち捕えるようにとお命じになった。王が青葉山のふもとにお着きになると、地面や山々はごうごうと音をたてて揺れだし、天からは御光がさして、土蜘妹たちは目もあけていられないので、頭の陸耳は驚いて山を下り逃
げ出した。王は方々追いかけまわして遂に、これらのものをお退治になったという。  〉 

『角川日本地名大辞典』に、

 〈 あおばやま 青葉山〈高浜町〉
   若狭富士、また弥山・馬耳山ともいう。大飯郡高浜町と京都府舞鶴市との境に位置し、内浦湾の南岸にある山。標高699mのコニーデ式火山。「若耶群談」は「形チ円ニシテ尖錐髻ノ如ナル者並立ツ、樹陰繁茂、色鴨頭ノ如シ、故二青羽ト名ツク」と記し、「若狭国志」は「西二丹後ノ国界二接ス。最モ高山ニシテ故二国民須弥二比シテ以テ弥山卜呼ブ」と記す。西から望むと、東・西2つの頂上が馬の耳のように見え、馬耳山の名がある。また東からは2つの峰が重なってピラミッド状に見え、古来若狭富士の名で親しまれる。丹後・若狭両国の各地からよく見え、航海のよい目標となる。泰澄が白山比ロ羊神社の分神を山頂に移して開いたと伝え、修験道の山として江戸期は女人禁制であった。南の中腹標高約250m付近に古刹松尾寺があり、山頂には中山観音と松尾観音の奥院がある。「万葉集」 巻8に三原王の歌「秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば」が見え、名山として歌枕ともなる。山頂の眺望は雄大であるが、付近一帯は舞鶴軍港の要塞地帯であった。南麓には吉坂峠があり、昔は丹後街道、現在はJR小浜線と国道27号が通る。  〉 
陸軍省の建てたもの(青葉山登山道・高浜町今寺) 要領よくまとめている、仏教以前の歴史にはふれていない。そこを当たり前のようにスイスイと飛ばしてしまうから、歴史を読み間違えることになる。
 699メートルは高い方の峰で、若狭側にある。丹後側は低く、693メートルだったかそこらである。地図によっていろいろと標高が変わっているが、そのあたりが正しいようである。
丹後一の高山は大江山で832.5メートル。これ以外には700メートルを越える山は丹後にはない。大江山というか厳密には現在は大江山は千丈ヶ岳を呼ぶのであるが、この大江山の周辺には700メートルを越えるピークが5つばかりある。丹波と丹後を分ける屋根である。このあたりの高山の連山を全部ひっくるめて広い意味で大江山という。大江山の鬼という場合はそうした意味の大江山である。丹後の高山はあとはこの青葉山あたりが続くわけである。若狭から見ると富士山の形となり若狭富士とも呼ばれる。『稚狭考』は、丹後より見ては何の見所もなき山なり、としているが、そんなこともない、若狭の真裏から見れば同じ形となる。それが上の写真の地あたりで、舞鶴湾あたりから見れば結構秀麗な姿になる。
 京都府全体が低く、府内には1000メートルを越す山はない。、若狭も低く、従って冬の雪は若狭湾沿岸は少ない。低い山を越えて太平洋側まで飛んでいく。1377メートルの伊吹山の麓、関ヶ原あたりで新幹線が止まったりするのはこのためである。

 『丹後風土記』残欠にも記事がある。青葉山(高浜町城山より)

 〈 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食)  〉 
その残欠の志託郷の記事に、

 〈 志託郷、本字荒蕪。志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ荒蕪シタキシタキシタキ為ス。故其地ヲ名ツケテ荒蕪シタカシタカシタカト云フ(以下十四行虫食)  〉 
とある。
 陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。葛城山の役行者を思い起こさせる記事である。飛翔能力を持つと信じられていたということは、敵からも天上界の神的な存在者と恐れられていたということである。神的というか権力側には魔的なのだろうが、プロトタイプの修験道と呼ぶのか呪術師と呼ぶのか妖術師か、そうしたシャーマンの神通力をもつ宗教集団も籠もり居た山なのであろう。仏教の渡来以前からの宗教的な聖山のようである。のちに青葉社と呼ばれるもの、丹後側と若狭側にあるが、それが彼らの根拠施設センターであったろうと思われる。葛城山の役行者集団には大和朝廷の時代までも手こずった様子であるが、玖賀耳御笠にも手こずっている。簡単に退治できたりはしていない。一度死んでは新たに復活してくる。神様だから仕方がない。土蜘蛛などといったものではないが、その蔑称から考えるとシャーマンとカジヤは同根らしく、そうした製鉄集団でもあったと思われる。
 役行者は一言主神を祀ったようであるが、若狭の三方郡美浜町坂尻、もう越前との境であるが、ここに一言主神社がある。私はこのあたりまでは玖賀耳御笠の勢力が強かったのではないかと考えたりしている。頭巾山(君尾山より)遠敷郡上中町三宅の信主神社も一言主神を祀っている。同町中野木の泉岡一言神社も同じ祭神である。小浜市次吉の一言神社も同祭神。
「役行者のこと」 「役行者」 「葛城一言主神社」 「一言主神社伝説」

 青葉社は南へ下がった頭巾ときんときんときん山(左画像。「頭巾山」 「頭巾山登山」)の頂上にも祀られている(古和木権現とも呼ぶ)。ここは名からしても丹波の修験道の山である。綾部市・北桑田郡美山町・若狭国名田庄村にまたがる山であり、これら麓の三聚落合同で祭祀が行われるという。ここも玖賀耳御笠の勢力ではなかろうか。
「青葉権現」(「丹後の伝説2」へ)


青葉山のアオとは何であろうか。残欠にその名があるから、古くから青葉山と呼ばれたと思われるが、すぐ東に高浜町青(大飯郡阿遠郷・阿桑郷。桑は袁の誤といわれる。あるいは阿乎か)。大飯郡青郷駅舎青郷は東隣の木津郷(現在の高浜や和田の町並みがつづくあたり)までの、青葉山麓東側の広い地は古代の丹後とは関わり深い地域である。
 『角川日本地名大辞典』によると、

 〈 あおのごう 青郷〈高浜町〉
 北東は高浜湾に面し、関屋川・日置川・高野川などが流れる。

  〔古代〕阿遠郷 奈良期〜平安期に見える郷名。『和名抄」若狭国大飯蝋郡四郷の1つ。高山寺本は「阿遠」、東急本は「阿桑」につくる。東急本は遠敷郡にも「阿桑」郷を載せ、「阿乎」の訓を付すが、誤りか。天長2年までは遠敷郡のうち(日本紀路天長2年7月辛亥条)。平城宮出土木簡の庸米付札に「敷郡く青郷川辺里>庸米六斗<秦 □>」「天平二年十一月」と墨書したものがある(平城宮出土木簡概報11)。川辺里は、現在の京都府舞鶴市の河辺川流域東大浦地区の字河辺原・河辺由里付近に比定され、郷域は西方に深く入り込んでいたことになる(県史)。さらに、調の付札として「若狭国遠敷郡<青里戸主秦人麻呂戸 秦人果安御調塩三斗>」「天平勝宝七歳八月十七日量豊島」の墨書があり、郡郷制下でもなお里が使用されている(平城宮出土木簡概報6)。また、贄の付札として「若狭国遠敷郡<青里御贄 多比酢壱?>_」「奏人大山」平城宮木簡1)、「若狭国遠敷郡<青郷御賛 胎貝一?>」(同前2)、「青郷御贄伊和志?五升」(同前2)などの墨書がある。若狭国は毎月旬日ごとの旬料と正月三日の節料という2種の贄を貢進する規定であるが、鯛ずし・胎貝・鰯干物の品目は見えない(延喜式宮内省諸国贄条)。ただし、若狭国は「貼貝保夜交鮨」を調として納める規定になっている(延喜式主計上)。木簡によれば、若狭国から贄を貢進しているのは当郷のみで、宮内省大膳職所属の漁民である江人の居住地であったと推定できる。なお「延喜式」神名帳の大飯郡七座のうちに「青海神社」が見え、現在の高浜町青に鎮座する。大治元年2月源某若狭国所領処分状(京府東寺百合文書ぬ)に「青郷六ケ所・・…・海壱所 字鞍道浦」と見える。郷域は、現在の高浜町青を中心とする関屋川流域に比定され、西方の京都府舞鶴市にも及んでいたと考えられる。

〔中世〕青郷 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。大飯郡のうち。鎌倉初期建久7年6月の若狭国御家人交名に青六郎兼長・同七郎兼綱・同九郎盛時が見えるが(京府東寺百合文書ホ)、青奥次郎入道跡は承久の乱の時以来地頭によって押領されている(同前ノ)。文永2年11月の若狭国惣田数帳案によれば「青郷六十町八反百廿歩 除田井浦二丁八反四歩定_」とあり(同前ユ)、田井浦2町8反4歩も本来当郷に属していたが、同田数帳案によれば田井浦は丹後国加佐郡志楽荘に押領されているとあり、中世の国境が定まることにより、田井浦は丹後国に属したことが知られる。…  〉 

東へ行けば式内社・青海神社(高浜町青)、青戸入江、蒼島、小浜市青井とアオが並ぶ、私は「青い山脈」などと名付けているが、さて、青海神社には池(池なのかどうかわからないが…)がある。神社の説明札には、青海神社(高浜町青)


 〈 禊池。人皇第十七代履中天皇の御息女青海皇女(別名飯豊天皇)が青海の首の御祖神である青海神社御祭神椎根津彦命を御拝礼される時、青葉山を仰ぎ見つつこの池で禊(潔斎)をされたと伝えられています。毎年七月一日の池替神事に際し御祓を受けた人に限りこの池に入る事を許されて、年に一度の清掃を行う慣例になっております。  〉 
 
たいへんな人物が出てくる。忍海飯豊青皇女、舞鶴にもその伝説が残るが例の袁祇命・意祇命のその姉あるいは叔母にあたり一時は天皇位に就いたとも言われる。名前からいっても葛城山麓の人であり、渡来系、忍海漢人の鍜冶集団との関わりがありそうな人である。禊池(青海神社)
 忍海は大海であり、凡海とも意味は同じ、飯豊はイイトヨとも読むが本来は飫富であるらしくオフである。青もオウと読むことがある。東京都青梅市はアオウメではなくオウメである。忍海飯豊青皇女はだからオホミのオフのオウの皇女である。青とオウは同じことのようである。そうすると大浦半島・大波・大内郷・大飯郡・大江山(残欠の与佐大山)・大雲川(由良川)・凡海郷・加佐郡唯一の名神大社・大川神社などもみな同じつながりがあるのかも知れなくなる。
青海神社の祭神は大和の多神社の祭神と同じであり、多神社摂社には青皇女が祀られるという。
『世界大百科事典』の多氏の項目に、青葉山(青海神社遥拝所より)

 〈 多氏(おおうじ)
 日本古代に活躍した氏族。多は太、大、意富、飫富、於保などとも記す。《古事記》《日本書紀》によれば、神武天皇皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする。大和国十市郡飫富郷(現、奈良県磯城郡田原本町多)に多氏一族のまつる多神社(多坐弥志理都比古神社)があり、この地を本貫としていたと考えられる。多神社は式内社で、すでに奈良時代中期には多数の神戸(かんべ)を有しており、有力な神社であった。多氏の姓(かばね)は臣(おみ)であったが、一部は684年(天武13)に朝臣(あそん)に改められた。また後に863年(貞観5)に臣姓より宿衝(すくね)に改められた者もある。有名な人物としては、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)方について活躍した多品治、《古事記》を編纂した太安麻呂、813年(弘仁4)の《日本書紀》講読の講師をつとめた多人長などがいる。のち平安時代以後宮廷の雅楽をつかさどる楽家として重きをなした。             〉 
弥志理都比古とは椎根津彦と同一だと谷川健一氏は書いている(『青銅の神の足跡』)。
「多神社」 「多坐弥志理都比古神社」 「青海神社」


青地域の小和田からは石剣・石戈がセットで発見されている(1971)。土取りをしていた人が見つけたそうである。このあたりが大飯郡阿遠郷の中心地であるそうであるが、『高浜町誌』は、小和田出土の石剣・石戈

 〈   独立丘陵的な様相を呈するナコウジ山のやや急な斜面を形成する先端部は、土取りなどによって山はだをえぐられていた。ナコウジ山は、北東から南西へ伸びる丘陵であり、その南西部の先端が出土地点である。斜面表土より約五○〜六○センチの赤土層に石剣が上、石戈を下にして重なり、切先をN30°Wへ向けて横帯し発見されたものである。両者は、いずれも平面を水平にしていたという。…
(左図も同誌による)  〉 
『青銅の神の足跡』は、

 〈 青葉山のふもとから、頂上の方にむけて埋納した石剣と石戈が重ね合わさって出土したことがある。これはまったく朝鮮で発見される石剣・石戈と同じである。あるいは朝鮮から渡来してこのあたりに住みついた豪族がいたのではないかと、私は想像する。  〉 
 この辺りも残念ながら旧日本軍が監視所を建設して周囲を破壊している、そのためかそのほかの関連遺物は何も発見されていない。砲台や高射砲陣地があったそうで、舞鶴空襲時に応戦した記録もあるそうである。
 青葉山々頂に矛先を向けて埋納されていた石剣と石戈、青葉山は土蜘蛛・陸耳御笠以前からの弥生期からの霊山である。あるいは土蜘蛛・陸耳御笠そのものの遺跡であるかも知れない。すぐ近くに日置ひきひきひきという地名がある。ヒキは「土」の朝鮮語であり、土蜘蛛と呼ばれた集団の住んだ地なのかも知れない。大飯郡式内社の日置神社もここにあったかも知れない。『大江町誌』は、日置(高浜町。青海神社のすぐ西である)

 〈 丹後・丹波地方の磨製石剣の出土地として現在まで知られているのは、熊野郡久美浜町芦原、宮津市日置ひおきひおきひおき、舞鶴市蒲江、地頭、福知山市観音寺、天田郡夜久野町日置へきへきへきである。このうち舞鶴市蒲江及び地頭発見の四例は鉄剣型石剣であるが、他はすべて有樋式石剣であり、特に宮津市日置出土のものは全長三三・九abの完形品である。  〉 
神武紀に、「高尾張邑に土蜘蛛有り、その人となり、身短くして、手足長く、侏儒と似ていた」の記事があるが、この高尾張(たかおわり)邑はのちの大和国葛上郡日置郷の地である。侏儒(しゅじゅ)は小人のことで、彼らは赤銅(あかがね)八十梟帥(やそたける)に率いられていた。
高尾張は後の尾張氏の発祥地と推測されていて、そうすると丹後海部氏の発祥地でもあることになり、土蜘蛛や侏儒と呼ばれた人達こそが先祖の姿だということにもなる。


『高浜町誌』は、平城宮木簡などを分析して、

 〈 …平城宮出土の若狭関係木簡のなかで御賛の貢進地は青里・青郷に限られており、若狭国の西域が大和朝廷と直接結びついていたことを如実に物語っている。
 前述のとおり、この地域には三宅田の地名も残されており、大化改新以前から天皇家の直轄領として存在したことを伺わせている。もっとも若狭国そのものが早くから大和朝廷とかかわりを持っており、この外、大飯町佐分利、上中町三宅、三方町能登野、小浜市遠敷などにも三家人の存在がみられるのである。そうした中でも青郷一帯は天皇家と深いかかわりを持続しており、奈良時代に入っても御賛の貢進をしているのであった。
 三点の木簡はすべて和銅六年(七一三)五月以降のものである。この年好字令が出され、すべての郡名は二字に統一され小丹生郡も遠敷郡と改名、かえって難解な郡名となった。
 以上、高浜町関係の木簡について述べて来たが、勿論不充分であり、さらに分析し検討しなければならない。若狭国は畿内に近いため、古墳時代より大和朝廷の支配下におかれ、おそらく五三六年ころ集中して屯倉が設置されたとき、若狭各地にもそれがあてられ、天皇家の経済基盤の一つとして大化改新まで存続したことが推測される。今一つは日本海の文化流通を考えねばならない。これは六世紀〜七世紀にかけて起った朝鮮半島の内乱による影響もあって、この時期朝鮮半島より多くの人々が渡来していることに視点を合さなければならないであろう。とくに若狭国遠敷郡に新羅系氏族集団とされる秦氏が多くみられることである。これら渡来集団による経済発展は日本書紀に記されている通りであり、彼らは五四○年に戸籍がつくられたという(『日本書紀』)。その辺りはさておいて、若狭国でも奈良以前からすでに各地に集住しており、木簡でみる限り青郷が非常に顕著である。秦氏集団の一翼をになっており大きな経済力を持ったと思われるが、それらの人々は大和朝廷へ統括され、青郷にみられる御賛の貢進という形で天皇家と直接結びついていたことが考えられるのである。…  〉 
大飯郡青郷の比定地には、現在の舞鶴市内の地も含まれていたと考えられることがある。舞鶴市田井、あるいは川辺(河辺)はそうであったと若狭側では考えられているようである。(先に引用の角川日本地名大辞典を参照)そんなことはないと言っていてもはじまらない。私の学校時代の地図帳は青葉山の二つのピークの真ん中に県堺が引いてあったと記憶している。現在の地図帳では二つのピーク共に福井県になっている。私の生きているわずかな時代の間でも県堺は西に僅かに移動していたようである。遠い昔の国境などは現代人の予見なしに考えないと間違えてしまうだろう。いずれにしても若狭の青郷の分析なくしては舞鶴の古代もわからないであろう。
 同書によれば、小字「三宅田」という地域は青海神社の西側一帯、かなりの地域を占有するそうである。小和田古墳群には双子山古墳(全長30メートル前後)と呼ばれる前方後円墳が知られる。各地出土木簡に「三家人みやけひとみやけひとみやけひと」の名がよく見える。青にも木津にも佐分利にも見える。この三家人はどう見ても渡来人で、たぶん天日槍の末裔ではなかろうか。
 角川日本地名大辞典に引いておいたが、木簡には「秦人はたひとはたひとはたひと」の名もよく見える。
平城宮跡出土木簡に「庚子年(700年)四月 若佐国小丹生評 木ツ里秦人申二斗」
東隣の木津郷であるが、「木ツ」とカタカナが書かれている。こんな時代にカタカナがあったのだ、頭の中がひっくり返るような木簡だ。さて平城宮跡出土木簡に「□□敷郡 青郷川邊里 庸米六斗□」、これが有名な川辺里の木簡、これを舞鶴市の河辺のこととするのであるが、最期の□はたぶん秦だろうという。「若狭国遠敷郡 青里戸主秦人麻居戸 秦人果安御塩三斗 天平勝宝七歳(755年)八月十七日□□嶋」、「若狭国遠敷郡青里御贄多比鮮壱? 秦人大山」。そのほかにも二点ばかり秦人の記載が見られる木簡を紹介して、『高浜町誌』は、秦人の記載が認められ、当町の青地域である可能性がきわめて高い、としている。秦人は新羅からの渡来人・秦氏の同族であろう。新羅からの渡来人たちの子孫かと思われる。
 高浜町にははたはたはたの地名がある。青郷なのか木津郷なのか、その中間あたりに位置している。この畑も秦のことであろう。木津郷の東が佐分さぶりさぶりさぶり郷で、現在も佐分利さぶりさぶりさぶり川が流れている。サブリはソフルのことであろう。 
 高浜町の総氏神様の式内社・佐伎治神社(高浜町宮崎)に伝わる鐘は朝鮮から流れてきた姉妹の鐘だという。鐘だけが流れてきたのであろうか。
「雨乞鐘」(「丹後の伝説2」へ)
 高浜の朝鮮鐘は和鐘だそうだが、本物の朝鮮鐘は日本では54口ほどあるそうである。敦賀市の常宮神社に伝わる国宝の新羅鐘は新羅の年号「大和七年」(651)が刻まれている。朝鮮の役時に秀吉が持ち帰ったと伝えられているが、この半島の先端には白木という聚落がある。ナトリウム漏れ事故の「もんじゅ」のある聚落であるが、これは新羅だろうといわれている。そうだとすると秀吉説もあやしいのではなかろうか。
『大飯郡誌』(昭6)は、
 〈 上古天の日槍が近江より来り此国(此郡)を経て但馬に土着せしは正史の明載する所、随て蕃民移住の跡歴々徴す可きものあり、爾来世故幾変遷其間記す可きもの亦尠からず。  〉 
として、高浜町の坂田・薗部・笠原・木津などの地名を分析している。特に明載されているわけではないが、敦賀から出石へ移動するには空を飛んでいったのでなければ、郡誌の述べる通りであろうかと思われる。西隣の加佐郡その他は飛んでいったのかも知れない。

青葉山と名のある山は舞鶴にはいくつかある。私が卒業した中学校は青葉中学校(舞鶴市行永)である。何故に青葉なのであろうかと卒業生でもわからない。ここなら行永中学校とか森中学校とか倉梯中学校とでもするべきではなかろうか。青葉山(行永)
ここは先の青葉山とは関係がない、ここからは全然見えない、それでも青葉と名乗るからにはここにも何かそれとは別の青葉の地名があったに違いない。校歌にも「青葉の嶺」が歌われており、私などは丹若国境の青葉山だとばかり思っていたが、それはどうも違うようである。青山橋(行永青山住宅の向かい)
 何時の事かはっきりしないけれども、来鶴した鳥居龍蔵が山本文顕に見送られて東舞鶴駅のプラットホームから「上代このあたりに住んでいた人々の聚落はあのあたりにありましたな」と指さしたという、だいたいそのあたりに青葉中学校はある。
 行永という村は現在はずいぶんと北の広い平地部に広がるが、しかし古くはずっと南の山のふもとにあったそうである。その故地に青葉山がある。低い山ではあるが姿はそれなりにいい(左画像)。近くに青山という住宅地もある。「室尾山観音寺神名帳」の正三位青山明神はこの地にあったのであろうか。
天台寺(天台)
舞鶴市天台の天台寺は山号が青葉山である。ここにも青葉山があったのであろうか。(下画像は天台寺。小さいので見にくいかも知れないが、白壁がお寺である。)
これらの青葉山は陸耳御笠の青葉山と何か関係があるのかも知れない、たぶんあるのではなかろうか。

志楽郷の一番上へ

泉源寺(舞鶴市泉源寺)

志楽谷の一番西側、舞鶴湾よりに位置しているのが泉源寺である。現在の市場もこの村に含まれていた、東舞鶴高校から海側全部、今の海自の教育隊のある所もそうである。
笠松山泉源寺という真言宗の古刹があったところからこの地名になったという。では何故に泉源寺という寺の名がついたのであろう。こう問われるともうわからないが、千軒といったような呼び名があったのではなかろうかと私は想像している。江戸期には銀山があったという。『ふるさとのやしろ』は、この地の熊野神社について、熊野神社(舞鶴市泉源寺)

熊野神社(舞鶴市泉源寺)


 〈  国道27号線の青葉大橋の東詰め、泉源寺変電所の角を北へ折れ、約八百メートルのぼったところに熊野神社がある。
 泉源寺村の旧名は「波多=はた」といい、この社も、元は「波多明神」と呼ばれていたが、いつのころからか、熊野三所権現を歓請してこの社にまつり、明治初年の神仏分離令以後は「熊野神社」と呼ばれるようになり、祭神は、伊奘册命=いざなぎ、速玉男命、事解男命=ことさかのおの三柱とされている。
 本社は、和歌山県東牟婁郡本宮町にある熊野坐神社、新宮市にある熊野速玉神社、勝浦市那智にある熊野那智神社の三社で、本宮・新宮・那智社とも呼ばれている。祭神は、本宮は家都御子神=けつみこ、新宮は熊野速玉神、那智社は熊野夫須美神=くまのふすみ、を主祭神とするが、三社が互いに祭神をまつり合ったり、相殿に諸々の神をまつるなど祭神には諸説がある。仏教伝来後、熊野は山伏の修業の霊場となり熊野三山の権現信仰は広く全国にひろがり、全国に末社が三千余社あるという。
 舞鶴市内でも、宗教法人登録されている熊野神社は九社にのぼり、そのうち泉源寺、杉山、観音寺、大波下、上安久、三日市、久田美の七社は旧村社として村の氏神としてあがめられていた。
 泉源寺の熊野神社の特色は、春に行われる「持立講=もったてこう」。昔は三月三日だったが、今は四月第一日曜に、当番六人が、三人の幼女とともに威義ほ正してお宮に参詣したあと、弓で的を射る行事が行われ、その後、智性院で会食するならわし。これは、昔、鬼を人身御供でおびきだして退治したという伝承の名残でないかともいわれている。御講の席順は、文政13年(1830)以来の仕切が長く厳守されてきたが、昭和29年、社殿を大修理したのを機会に、現代風に改められた。  〉 
志楽尋常高等小学校の郷土教育資料には、

 〈 熊野神社 村社 氏子戸数 七十二戸
(祭神) 伊奘冊命 速玉男命 事解男命
(由緒) 往古波多社と称せしを里民熊野大社を崇敬し以て紀伊国牟婁郡より勧請淡社相殿に祭る後、波多社の号を不唱に至り自然熊野神社を奉称る至る由、村老の口碑に稍伝るのみ其の他不詳。
境内社
天満神社(菅原道真)
大川神社(水速女神)
蛭子神社(事代主神)
武太神社(素盞鳴命)
疫神社 (大名手屡神・小名彦名神)  〉 
上は『舞鶴市市内神社資料集』であるが、それには次のようにもある。

 〈 熊野神社・持立御講之式
 熊野神社では、秋の例祭の他に往古より熊野権現持立御講之式が厳粛に行なわれ、特に講席順が文政十四年から昭和三十年までの長い間、一度も変わることなく守られてきた。しかし時代の推移と思想の変化などにより氏子惣代を上席に、それよりも年長順と席順が改められ、さらに御講の日も旧暦三月三日(節句)であったのが四月三日となり(但し昨年から四月第一日曜と改める)また女性はお膳に着くことが出来なかったが、主人の代りに着けるようになるなど、大きく変っているが、儀式だけは昔通り行なわれている。
 御講は智性院で行ない、夜明前に神官、当人方人、持立(少女)三人計十人が御供物と弓矢を持って、行列して熊野神社に参拝、神官の祝詞が終わると、境内にある仮設の弓場に行き、弓を射る慣わしとなっている。
 この行事は古老の話によると、その昔この地に怪物が住み、人身御供をすれば、その年は村落が平和で、災難を免れたということから始まり、一方、人身御供の悪習を改めるために弓を射て怪物を退治したという伝説になぞらえた行事と思われる。いずれにしても数百年も同じ行事が続いているのは珍しい。(崎山政治さん)  〉 
泉源寺という真言宗古刹の流れを汲むのではなかろうかといわれる笠松山智性院の西隣に熊野神社がある。笠松山智性院(舞鶴市泉源寺)
 この神社が波多明神と呼ばれていたのは間違いなさそうである。そんな文献はない。口碑で伝わるだけである。村老とは有り難いものである。最近の村老もこんな知識をお持ちであろうか。
たぶん「室尾山観音寺神名帳」の正三位波多明神であろう。波多は秦氏のハタであろう、本来の祭神は天日槍ではなかろうか。その泉源寺秦氏の寺が泉源寺であったと思われる。
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白鬚神社(舞鶴市吉坂)


新羅が出てきたついでに触れておけば、志楽川をさかのぼった、舞鶴市吉坂きっさかきっさかきっさかには白鬚しらひげしらひげしらひげ神社が鎮座している。国道ぶちに左の石柱が立っている。国道から南の山の谷(暮谷)へ、クレ谷川に沿って、2〜300メートルばかり入った薄暗い、かなり気味の悪い所にある。白鬚神社の石柱(舞鶴市吉坂)
イノシシ君がそこら辺りの地面をひっかき廻した跡がある。おいしいミミズでもいるのであろうか。
 『ふるさとのやしろ』は、
(白髭神社)
 〈 国道二十七号線沿いの吉坂の家並が尽きる少し手前に南側に「白髭神社」の石柱が立っている。煙谷(くれたに)川を三百メートルほど上がると、木立の中に古社が鎮座している。旧吉坂村の氏神だったが、現在、吉坂は鹿原、安岡、小倉、田中の旧四村とともに阿良須神社(一の宮)の氏子となっており、五年に一度、祭の当番の年だけ、白髭神社のお祭をし、同社から白幣を奉じて四キロ下の阿良須神社へ繰り出す。この神事は五か村中、吉坂だけに伝わり、一の宮のもとの所在地は吉坂だったとの説もある。白髭神社(舞鶴市吉坂)
 御神体は男神の座像で、祭神は猿田彦の神とされている。しかし、滋賀県高島町の白髭神社をはじめ全国各地にある白髭神社(舞鶴では加佐地区の漆原や八戸地にもある)では、猿田彦ほか、朝鮮からの渡来神、高麗の祖神とするところもある。「志楽」という地名の発音も外来語めいており、渡来神でないかとの説をなす人もある。
 吉坂はもと「木津ノ坂」で、中世の神名帳に、「正三位 木津明神」とあるのは、この白髭神社ではないかと、同社の際祀をつかさどる森本太郎夫氏(岩室稲荷神社宮司)はいう。「煙谷」は「公郷谷」がなまったもので、昔は高貴の方が住んでいた谷でないかとも。   〉 
江戸期の棟札によれば、ここには貴船神社もあるのでないかと思えるのだが、私が見た限りではそれと確認できる祠はなかった。東舞鶴で白鬚神社といえば、『加佐郡旧語集』によれば、白鬚神社は三宅社の鎮座地と思われる河辺中にもあったようである。『舞鶴市史』によれば、成生が滋賀県高島郡の本社(左写真)へ代参をしているという。これくらいしか私は知らない。白鬚神社(高島郡高島町)
 柳田国男は、

 〈 …白日は寧ろ新羅、斯慮と由ありげに候 白髭明神は新羅稗なるべく候へぱ 白日白髭の語似たるも昔ゆかしく候… と記しておりソーロー(「石神問答」)。白鬚神社とは新羅神社のことである。猿田彦を祭神とする所が多いが、それは後の変更で、本来は渡来人達の祖・新羅神である。白鬚社は比良明神とも呼ばれている、東大寺大仏建立に力を貸した神であった。裏山を比良山地と呼ぶがこの比良は新羅のことであろうとも言われる。。
 所在地の暮谷くれだにくれだにくれだに、谷口に何軒が民家があるが、そのクレは、広島県の旧軍港・呉市のクレと同じであるいは高句麗の句麗くれくれくれなのかも知れない(高は美称)。なぜか白鬚神社と高句麗(高麗こまこまこま)はよくくっついて出てくる。埼玉県日高市の高麗こまこまこま神社は高麗王若光を祀るが新羅神社とも呼ばれる。吉坂白鬚はあるいは新羅・高句麗系かも知れない。

「高麗神社」 「高麗神社」(渡来文化の残る、この辺りでは将軍標が現在も生きているようである。HPの画像は小さくてよくわからないので、下の写真を参照『日本の中の朝鮮文化1』(金達寿著)より無断借用。西武秩父線の高麗駅前に立っているという。同書は「これは朝鮮でよく見られるヂャンスン、または将軍標ジャングンピョジャングンピョジャングンピョというもので、境界線であると同時に、その村の災厄防除を願った道神、守護神でもある」としている。トーテムポールではありませぬぞ。舞鶴にはもうこんな現物は見られないが、地名として、あるいは神社名として残っており、過去には確かにあったのであろう。現在も韓国にはたくさんあり、日本のコリア・タウンで探せば、これを買うこともできるようである。「高麗郷」) 「高麗神社」 「チャンスン」


大将軍の地名(舞鶴市公文名)
左は「大将軍」の小地名が残る舞鶴市公文名。城南中学校のすぐ北側である。どの村のチャンスンであったのだろうか。国土交通省が建てた案内板には、ご覧のようにdaishogunと書かれているが、ここの大将軍の小地名は本当はタテジョウと読むのである。将軍標
どちらが下なのか知らないが下大将軍という地名もあり、シモタテジョウと読む。網野町の銚子山古墳の大将軍遺跡はダイジョウゴと読む。
ついでに書いておけば、クモンナと現在は呼んでいるが、正式にはクモンミョウ。少し以前まではそう呼んでいた。

 web上に置かれている「歴史データ・ベース」には、

 〈 高麗神社
(意味・説明)埼玉県日高市(ヒダカシ)新堀(ニイホリ)にある旧県社。祭神は高麗王若光(コマノコキシシ゛ャッコウ)・猿田彦命・武内宿禰。近代に入り、参拝した政治家が相次いで総理大臣に就任したので、出世開運の神として信仰されている。
(用法)朝鮮半島より高句麗滅亡の国難で来住した高麗王若光が 716(霊亀 2)武蔵国のこの地、高麗郡に一族1、799人とともに移されて郡司となり、王の没後に村人がその霊を祀(マツ)り、高麗明神を創建したのが始まりとされる。若光は「白鬚さま」とも呼ばれ、各地の白鬚神社にもゆかりが多い。高麗王若光の墓は近くの聖天院(ショウテ゛ンイン)にある。
 参照⇒しょうでんいん(聖天院)
(用法)神社の駐車場に朝鮮ゆかりの将軍標が建てられている。
 参照⇒しょうぐんしょう(将軍標)  〉 
ソッテとチャンスン
左は韓国の現在にも残るチャンスンである。(『図説・韓国の歴史』(1988・河出書房新社)。「竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ、人面を彫った神木をチャンスン(長木+生)という。鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され、神木には人面を彫って人格神化した。」のキャプションがついている。)
見にくいかも知れないが、天下大将軍とか地下大将軍と書かれている。


 同じ旧軍港でも呉は高句麗、舞鶴は新羅のようである、時代は違っても要港へとやってこないわけがないようである。
 尚、由良川河口の舞鶴市東神崎の大明寺(無住)の山号が高麗山である。『丹哥府志』は、高麗山大明寺(舞鶴市東神崎)

 〈 【高麗山大明寺】(曹洞宗)
文禄元年朝鮮の役に細川氏の将士神崎より出帆す、後其戦死の者の為に伽藍を建立す依て高麗山大明寺といふ。  〉 
としているが、あるいはもっと古い歴史が隠れている可能性は大きい。神崎の裏山は現在は槙山まきやままきやままきやまという、この山が山号の高麗山なのであろうが、同じ名の牧山が高浜町にもある、青葉山に並ぶ古い宗教文化があった山である、青海神社の南側の山がそれである。現在はこんな漢字で書かれるが、このマキというのが本当は真木、真楽木ではなかったかとも思われる、文献には残らないが新羅山であったかも知れないし、そうであったとしても別段に奇異な感じもない。『和名抄』下野国寒川郡真木まきまきまき郷、ここは真楽しらぎしらぎしらぎ郷が真木郷となったと想定されたりもしているそうである。あるいは高麗来こまきこまきこまき山のコが落ちのかも知れない。丹後には小牧サンがかなり見られるが、同じ意味かも知れない。宮津市府中の地名・小松、私はこれは高麗津だろうと思っていたのであるが、この地名はもっと複雑な歴史があるらしい、武庫川河口の西宮市の小松から移した地名らしい。
大和の巻向(まきむく)山は穴師(あなし)山とか痛足(あなし)痛背(あなし)とも呼ばれる。麓は邪馬台国の比定地でもある所であるが、マキと金属は何か関係がありそうである。
福井県南越前町牧谷に麻気神社が鎮座する。福井県丹生郡越前町真木に麻気神社が鎮座する。福井県丹生郡朝日町真木(牧・麻気)にも麻気神社。福井県南条郡南庄町には牧谷鉱山があった。福井県や滋賀県にはマキという所が多い。それは麻気神社の鎮座地であったり鉱山であったりする。伊勢国朝明郡(訓注・阿佐介)のアサケが麻気になり、それがマキとなったとも考えられる。『姓氏録』に「朝明史。高麗帯方国主氏韓法史之後也」。アサケはアセクともなるだろう。アサは何度も出てくるが金属と関係がありそうな地名である。

 舞鶴の白鬚神社は『ふるさとのやしろ』が書くように、西舞鶴にも川筋にもある。西舞鶴はお城ができる以前は八田と呼ばれた地であり、これも秦氏であろうから、新羅神社がない方がおかしい状況である。またその地に来れば書きます。丹後の他の地にはあまり白鬚社は見られない。新羅社とするのは見られるが、シラヒゲとなると野田川町の式内社・阿知江イソ部神社が白鬚大明神と呼ばれたくらいと、あと与謝郡内の加佐郡に近い山の中にいくつか見られるくらいである。阿知江山石部神社の案内
河辺の八幡神社祭礼に白髭神社と書かれた幟が写っている写真を見たように記憶しているのだが確かではない。また調べてみる。
 全国各地の白鬚社の本社は滋賀県高島郡高島町のものと言われる。舞鶴から近江の方へ行くにはこの社前の国道を走っていく。現在はあんな所にあるが古くは、延暦寺などができる以前は比良山系全体の神様であったようである。比良はだから新羅のことだとも言われる。
「白鬚神社」(高島町) 「若狭地方の新羅神社」

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鈴鹿神社(舞鶴市田中)

鈴鹿神社(舞鶴市田中町)
泉源寺の東は田中という所になる。ここに鈴鹿神社が鎮座ある。志楽幼稚園の隣である。この社の祭神は金山毘古神。相殿に天火明神と経津主神を祀る。残欠の志東社は志束社の誤りといわれるが、そのシズカ社である。「室尾山観音寺神名帳」の正三位志束明神あるいは同じ正三位其束明神であろうか。下に見るようにもともとは静社と志束社の二社あったので、どちらがどちらとも判断できないが、この二社に比定できるのでなかろうか。
神社調査書に、
(鈴鹿神社)
 〈 一、神社所在地 京都府加佐郡志楽村字田中宮ノ上四百五拾参番地鎮座
二、社格神社名 村社 鈴鹿神社
三、祭神 金山彦神 天火明神 経津主神四、由緒 創建不詳当社元来静社志束社箭取社ノ三社ニシテ古ヘ金山彦神ハ山陰北海ノ辺月ケ浦ニ鎮座シ専ラ海上ヲ守リ玉フ故ニ静明神ト尊称ス 天火明神ハ上古大己貴少彦各?柱ト?志束神社ト称ス貞観年中?箭取社ハ経津主神?彦坐王青葉山ノ妖賊ヲ討玉ヒ後チ村田某社ヲ建テ其ノ矢ヲ納メテ箭取神社ト称ス今其地ヲ下宮ト云フ而シテ永禄年中静社箭取社ヲ志束社ヘ合祀シ爾来鈴鹿神社ト改称シ一社号ヲ表スルニ至リタリ且ツ陰暦二月九日弓射ノ式ヲ今ニ定祭トス古ヘ将軍射賊ノ遺風なる由伝其他由緒不詳  〉 
『ふるさとのやしろ』に、

 〈 東舞鶴高校南側から東へ向う道を行くと、田中地区の山側に「鈴鹿神社」の森がある。本殿の向って右には「志束(しずか)大明神箭取(やとり)大明神」左には「山本大明神」と神名札がかかる二つの摂社のほか、秋葉神社、広峯神社、大川神社、愛宕神社、天満宮のほか妙見大権現、大峰大権現などの小さな分霊社が並んでいる。
 田中と三重県の鈴鹿と、どのようなつながりがあるのかと思っていたところ、昨年十一月、山本大明神の祭神の子孫という山本此衛太郎さん(元舞鶴市議会議長)が、弟の達三郎さん、嘉之次さんの三人で種々調べた成果を「山本大明神縁起」として発表、鈴鹿神社との関係も明らかにされた。
 これによると、山本大明神の祭神は山本掃部直文(かもんなおふみ)で、室町時代の享禄・天文年間(1528−1554)諸国を歩いて鈴鹿山中に入り、修験道を極め、鈴鹿峠に祭る鈴鹿権現(現在は片山神社と改める)を信仰し、その分霊を奉じて敦賀から海路舞鶴湾の地中(じちゅう=現在の教育隊付近)に上陸、山ぎわの道(お成道という)を東に進み、田中の下村に入り、その分霊をまつったという。加佐郡旧事記や『丹哥府志』には「鈴鹿権現」とあり、明治以降「鈴鹿神社」と改称、下村の氏神となったと見られる。
 享保十六年(一七三一)に書かれた「丹後国加佐郡寺社町在旧記」には田中村の項に「二之宮静大明神 同村下之村氏神也」とあり、静(志束=しずか)大明神を氏神としている。静神社といえば、網野町磯の海岸に、「静御前をまつるお宮」と称する静神社がある。また一説によるとシズカは朝鮮方面からの渡来神でないかともいう。スズカとシズカでは発音も似ているが、どうやら由緒は別のようだ。尚、山本掃部は田中城を築いたが、その子の時代に織田勢に敗れ、以後農家になったという。  〉 

金山毘古神は言わずと知れた鍜冶神である。シズとかスズという名から判断してもずいぶんと古い製鉄集団が祀った製鉄神の神社だろうと思われる。もともとこの地と泉源寺の月ケ浦にあった二社をここにまとめたようである。ヤトリ社は市場の八幡神社の境内にも祀られているが、天田郡夜久野町千原上にも矢取神社がある。おもしろい白鳥伝説のあるところであるし、血原という赤い土地柄、東隣は末という須恵器の産地、北は畑村、天日槍の但馬国との境である。こうしたこと等から考えてもどうも鉄、ヒボコ系統の鉄のように私には思われる。
明日香の八釣はヤトリとかヤツリとか読む、例の弘計(顕宗)の近明日香八釣宮なのだが、何か古い由緒がありそうに思える箭取社であるが、今の所何も思い当たらない。
さてその後も注意していたのであるが、滋賀県野洲郡中主町の兵主神社(名神大社)の末社にも矢取神社があった。兵主神社末社の矢取神社(中主町)祭神は手力雄神だそうである(右写真)。
「姫三社の舞など:鈴鹿神社の祭礼」
「丹後の伝説 その二・矢取神社」
「ふるさと探検」 「箭取大明神縁起」


スズは現在も錫と呼ばれる金属があるが、古くは鉄も含めて金属全般をスズとよんだのかもわからない。
『続日本紀』におもしろい記事がある。大江山麓の話である。東洋文庫によれば、


 〈 766年、散位で従七位上の昆解゛宮成は、白鑞に似た鉱物を入手して献上した。言上した。「丹波国天田郡の華浪山(福知山市瘤木にある花並山)より出土したものであります。その品質は唐の錫に劣りませんでした」と。そこで〔その証拠に〕真の白?で鋳造した鏡を呈上した。その後、〔宮成に〕外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人の〔労役〕で十斤余りを得た。ある人は、「これは鉛に似ているが鉛ではない。どういう名前か知らない」といった。〔そこで〕その時、鋳工たちを召して宮成と一緒になってこれを精練させたところ、宮成はどうすることもできず、悪いたくらみをなすことができなかった。しかし、それが白鑞に似ていることを根拠に、〔宮成は錫であると〕強く言いはって屈伏しなかった。宝亀八年、遣唐使の准判官の羽栗臣翼がこれをもって、楊州の鋳工に見せたところ、〔どの鋳工も〕みな、「これは鈍隠(鉛)だ。こちらでにせ金をつくる者が時々これを使っている」と言った。  〉 

白鑞はシロナマリと読むそうである。錫と鉛の合金だろうという。

スズというのはあのチリンチリンと鳴る鈴なのだが、『古代の鉄と神々』には、


 〈  世に鳴石と称するものがある。鳴石は「なりわ」(なりいわ)と訓まれ、地方によっては鈴石とも壷石とも称する。愛知県の高師原で発見されたところから「高師小僧」と名づけられたのもそれで、地質鉱物学上の用語をもってすれば褐鉄鉱の団塊である。褐鉄鉱とは、若干の吸着水をもつ水酸化鉄の集合体の総称で、沼沢・湖沼・湿原・浅海底等で、含鉄水が空中や水中の酸素により、またバクテリアの作用により酸化・中和し、水酸化鉄として鉱泉の流路に沿って沈澱したものである。団塊とは、堆積岩中に存在する周辺よりも堅い自生鉱物の集合体の総称で、球・楕円体・管状・土偶状等の種々の形態があり、大きさは径一p以下の小さいものから、数pにおよぷ巨太なものまである。要するに褐鉄鉱の団塊とは、水中に含まれている鉄分が沈澱して、さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったものである。とくに水辺の植物、葦・茅・薦等の根を地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで、根は枯死し、周囲に水酸化鉄を主とした固い外殻ができる。こうしてできた団塊の内部は浸透した地下水に溶解し、内核が脱水・収縮して外壁から分離し、振るとチャラチャラ音の発するものができる。これをいまは鳴石・鈴石、あるいは高師小僧と称するが、太古はこれを「スズ」と称していたのであろう。自然にできた鈴である。沼沢・湿原に生える薦・葦・茅のような植物の根に好んで形成されるのは、こうした植物の根から水中に含まている鉄分を吸収して生長するからである。

 この弥生時代の製鉄において、原料となったのが褐鉄鉱の団塊である「スズ」にほかならないことに想い到った。沼沢や湿原に生える葦・薦・茅のような植物の根に、沈澱した水酸化鉄が、鉄バクテリアの自己増殖によって固い外殻を形成し、褐鉄鉱の団塊となったものは、そのまま露天タタラで製鉄することができたのである。ただし、砂鉄の磁鉄鉱に比較して品位は低いかも知れない。それだけに酸化腐蝕して土に還元するのも早く、現代にまで製品が遣っているのは稀なのももっともであろう。それにしても「スズ」こそは弥生時代の製鉄の貴重な原料であった。 箭取神社と志束神社(鈴鹿神社摂社) 現在は少し高台にある鈴鹿神社の足下あたりまでは海が入り込んでいて、そこには芦などが繁っていたのであろうか、その根には製鉄の原料になるスズができる。これを祀ったのが鈴鹿神社のはじまりであったかも知れない。年間1億トンも生産するといった現在から考えると何とも細々とした頼りなげなものであるが、これが我国の製鉄のはじまり、歴史のはじまりなのかも知れない。
 もしそういったことならこの社の発祥は弥生期にまでさかのぼる最も古い神社であろうかも知れない、弥生期に神社というものがあったのかどうかもわからない、たぶん建物はないであろう。しかしこの技術は超古くさく、やがて出雲系製鉄にとって替わり、天日槍に替わり、次に海部氏系や秦氏系にとって替わられたように思われる。
 この神社はスズではなくシズである。カは「何処か」のカでそのある場所を指している。同じかも知れないが、違うかも知れない。さて、箭取神社は火明命を祀るから海部氏のものなのかもしれないが、本当はいつの時代の物か知りたいがたぶん海部氏以前の来歴を持つのではなかろうか、ひょっとすると兵主神社系の天日槍系、後に秦氏系ではなかろうかと私は考えている。
 たぶん静も志束も箭取も天日槍だろうと思う。祭神は恐らく三社ともに天日槍だろう。設楽市場に多い村田サンの祖神という由緒がある。海部氏はこことは別にこの向かいに大倉岐神社がある。海部氏と日槍氏の共存共栄体制がここでも見られる。いかにも丹後らしいと私は考えている。
 天日槍集団と仲がいい、良すぎるようにも感じられる丹後海部氏は、あるいは実は日槍集団の一員ではなかろうか。そのあたりを疑いながら次の社を見てみよう。

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鹿原神社(舞鶴市鹿原)

鹿原神社(舞鶴市鹿原)
鹿原かわらかわらかわら の金剛院(真言宗東寺派鹿原山金剛院(慈恩寺))へ国道からの入り口に鹿原神社がある。「室尾山観音寺神名帳」の正三位加和良明神であろう。
 ちょっとした森になっており、国道に面した鳥居に「鹿原神社」とある。
 『加佐郡誌』が、字鹿原恐らくは河原の意であらうなどと書くので、鹿原というのは何でもない、そうか河原のことかと考えていたのだが、こんな神社があるとそうではないと思われる。カワラには何かほかの意味がありそうである。金剛院の山号が鹿原山であり、山の名前のようにも思われる。
古代朝鮮語のコホリと同じであり大村カハラカハラカハラとか郡・評こほりこほりこほりの意味かも知れないし、あるいは郡家があったかも知れないような地名である。
 この神社の正体が知りたいのだが資料がない、誰も触れていない、さっぱりわからないのである。こんな大事な所に鎮座ある以上は何か大変な由緒あるに決まっていると思われるが、まったくお手上げである。
『丹後国加佐郡旧語集』に、荒神社、鍵取、市兵衛。山神社。
ご覧のごとく祠が三つほどある、何を祀るのかはわからないが、たぶん高いところにあるのが荒神社と山神社。手前は庚申様のようである。
角川日本地名大辞典に、鹿原川の荒神橋畔北に鹿原神社とある、それなら鹿原神社は荒神様になる。おかしいぞと思って調べてきた、右の写真がその国道27号線に架かる橋である。古う誌ん者し(舞鶴市鹿原)「古う志ん者し」と書かれている。ほかの欄干は新しいコンクリートで補修されていて何も読めない、荒神橋ではなく庚申橋だと思う。

 金剛院などよりもずっと古く此の地の歴史を語る社であろう。だいぶにこじつけになるかも知れないが周辺から推測するより手がなさそうである。 『加佐郡誌』に
 〈 昔天火明命が当地を領し給ふて志良久といった。或は設楽又は領地にも作る。後崇神天皇の朝に丹波道主命が青葉の賊を御征伐になって此地を日下部村と改められ、次で天武天皇の神護景雲元年に春日大社の領となってから春日部と称せられた。明治十九年町村制実施に際し古名志楽(村)に復した
何かおかしな記述もあるが、残欠に春部村(以下二行虫食)、丹後田数帳に春日村とあるのがこの村であろう。カスとかクサはクシフル系の地名の変化形だろうと思われる。天武の時代に春日大社の荘園があったとは思えない、初期荘園としても早過ぎる、もし荘園時代なら部という古代の部民制度の名がおかしい。たぶん古来よりカスカとかクサカとか呼ばれた地なのでなかろうか。カは何処かのカであってその場所を示す語である。何か由緒ありげに書くのは創造でなかろうか。最初のK音が脱落するとアスカとかアサカとなり、子音のi音が発音上付くとヤスカとかヤソカともなる。みな実際にこの辺りにある地名や神社名となる。また変化してカサとも呼ばれたようである。
 吉坂は普通は木津坂の意とされるが、この峠の向こうは青である。もしこれによって名を付けるならアオ坂であろう。さすればあるいはクサカ→キサカかも知れぬ。

 『物部氏の伝承』(畑井弘)に、カハル・カハラ・カルは新羅系の鍜冶神、銅剣そのものだとしている。(ハングルと発音記号がうまく出せないので、?でがまんして下さい)

 〈 朝鮮語では、刀剣類を次のように呼ぶ。
  ? ? 剣・刀
  ? ? 剣・刀・包丁・小刀
 まず後者の「?」。これは「クハール」「カハル」「カル」と訓むと、『豊前国風士紀』の逸文に見られる「鹿春」とか、大和に多い「軽」の地名が直ぐに思い出されるであろう。すなわち、
  豊前国風土記に曰く。田河郡。鹿春郷(カハルノサト)。…中略…昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき・便即ち、名づけて鹿春(カハル)の神と曰ふ。又、郷の北に峯あり。頂に沼あり。周り卅六歩ばかりなり.黄楊樹生ひ、兼、龍骨あり。第二の峯には銅(アカガネ)、并びに黄楊、龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり。(宇佐宮託宣集)
と見られ、豊前国の香春神社と香春岳山麓の香春採銅所にその名を遺している「鹿春」とは、新羅系の鍛冶神「?」、すなわち銅剣の霊そのものを意味する渡来系の神の名に由来することが分かる。この「鹿春」の転設したものが、「軽」なのである。  〉 
カハル→カル。カルはカリともなり剣の事とも銅の事とも言われる。香春嶽は鬼ケ城とも呼ばれている、鬼が居たのであろうか。隣の何鹿郡はカルかイカリかも知れない。京都府北桑田郡美山町宮脇の道祖神社(右下写真)は軽野神社とも呼び、奥に美山鉱山がある。道祖神社(美山町宮脇)
 鹿原もたぶん古くは鬼の住む銅の産地であったのではなかろうか。豊前国田河郡香春郷の香春はカハルとかカハラと呼んでいるのだが、式内社・香春神社と宇佐八幡はきっても切れない関係にあり、『豊前風土記』に、
 〈 むかし新羅の国の神、自ら渡り到来りてこの河原に住みき。すなわち名付けて香春の神と曰ひき。また郷の北に峰あり、頂に沼あり。黄楊の樹生ひたり。また竜の骨あり。第二の峰には銅また黄楊竜の骨どもあり。第三の峰には竜の骨あり。  〉 
とある。
竜の骨というのは石灰のことで、現在も掘っていて山の姿はすっかり変わってしまったという。石灰がでるのなら、舞鶴の鹿原も同じである。新羅も同じ。
 この香春はカグフルではないかとする説がある。だから鹿原はあるいは銅の村かあるいは銅の山ということかも知れない。
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安川神社と安岡(舞鶴市)

安川神社(舞鶴市安岡)
 鹿原神社から少し西へ行くと安川神社がある。『ふるさとのやしろ』に、


 〈 安岡に「安川神社」と呼ばれるお宮がある。江戸時代には「荒神社」という記述もあった(享保年間の加佐郡寺社町在旧記、および万延二年の加佐郡旧語集)が、一方『丹哥府志』(天保年間)には、「安川大明神」とあり、二通の呼び名があったようだ。明治になって、同14年の安岡村の正式文書には「安川神社、祭神天照皇大神荒御魂」と書かれ、京都府地誌にも同様の記述がある。しかしこの後も「荒神社」の名称は併用され、「安川神社」の名が定着するのは、大正末期、鉄道小浜線の開通に伴い、社地が削られ、社殿が南の現在地に移動してからのようである。 同社の氏子は、旧安岡村の東半分の「上安岡」。昔はヤソカとかアスカとの呼び名があり、安岡とも安川ともとれる呼び名であったようだ。…  〉 
 地名にしろ神社名にしろ、発音が先で、漢字による表記法は後のものである。安川・安岡と書かれるが本来の呼び名はヤソカとかアスカであったが、無理してこんな漢字を当てたということである。このように古い発音が伝わっている場合はいいが、たいていは忘れられているから漢字を見てその意味を理解しようとするのは危険で誤ることになる。祭神は天照皇大神荒御魂となっているが、本来のものではなく、不明でないだろうか。
天照皇大神荒御魂については山崎神社(舞鶴市十倉)で触れておいたので参照して下さい。
 さて、安川神社と呼ぶのは地名からきたものだろうか。別名を荒神社とも呼ばれたという、引用の二つの文献には確かにそう書かれている。こちらが本名らしく思われるが、荒神社とは何だろうか。アラ神社と読むのか、それともコウジン社と読むのかもわからないが、古来からの一聚落の氏神様だから竈の神様の三宝荒神とか、障碍をなす祟り神でもなさそうに思われる、まあアラ神社と見ておこう。
 荒神社は日本各地にあるし、加佐郡なら河辺中・野原・由良などにも、隣の鹿原神社だろうか、旧語集や寺社町在旧記に荒神社とあるのだが、この荒は古代朝鮮の安羅あらあらあら国のアラだとも言われる。安羅とか安耶あやあやあやとか安那あなあなあなとか書かれる、隣の綾部市のアヤと同じである。綾部市は古くは漢部(何鹿郡漢部郷)と書いたが、それは古代の渡来人の雄・漢氏の部民という意味である。「あやべ」という小字は高野女布にも見られる。
荒神社は実は安羅神社で、漢神を祀ったものかも知れないということになる。福井県小浜市にも福知山市にも出石町にも荒木の地名があるが、安羅来という意味かも知れない。アスカ・ヤスカは安耶系(百済系)の人々の地なのかも知れない。アスカの本場とでも呼ぶのか奈良県高市郡明日香村の大和国高市郡は古くは今木郡と呼ばれた、これは漢氏族の集住地であったから、今来郡と呼ばれたという。今やってきた渡来人たちの住む郡という意味である。
続日本紀に、東漢氏の族長的な立場にあった坂上苅田麻呂の有名な上奏文がある。東洋文庫本から引いておく。
 〈 772年、正四位下・近衛員外中将兼安芸守で勲二等の坂上大忌寸苅田麻呂らが言上した。「桧前忌寸の一族をもって大和国高市郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、先祖の阿知使主が、軽嶋豊明宮に天下を治められた〈応神〉天皇の御世に、〈朝鮮から〉十七県の人民を率いて帰化し、〈天皇の〉詔があって高市郡桧前村の〈の地〉を頂き、居をさだめた〈ことによります〉。およそ高市郡内には、桧前忌寸〈の一族〉と十七県の人民が全土に隈なく居住し、他姓の者は十中の一、二〈の割合〉でしかありません。そこで天平元年729十一月十五日に、従五位上の民忌寸袁志比らがその事情を申し上げ、天平三年に、内蔵少属・従八位上の蔵垣忌寸家麻呂を〈高市郡の〉少領に任じ、天平十一年に家麻呂が大領に転出して外従八位下の蚊屋忌寸子虫を少領に任じ、天平元年765外正七位上の文山口忌寸公麻呂を大領に任じました。今、これらの人々が郡司に似ぜられるにつきましては、必ずしも子孫へ〈郡司の職を〉伝えてはいませんが、三氏〈蔵垣・蚊屋・文山口〉は交互に〈高市郡司に〉任命されて、今までに四世代を経ています。」天皇の勅を奉ると、「〈今後は〉郡司としての系譜を調査せず。〈桧前忌寸の一門の者を〉郡司に任命することを許すように」〈とのことであった〉。  〉 
 アスカの地・大和国高市郡は東漢氏が10中9〜8であったと彼はいうのであった。苅田麻呂は京都清水寺の開山と伝えられるの田村麻呂の父である。
 桧前というのは明日香村の地名に現在もある、高市郡桧前郷である。明日香村には川原寺跡というのがあるが、これはカワラ寺と読む。明日香村大字川原かわらかわらかわらである桧前氏は東漢氏の本流であろう。桧前あたりに本居を置いていたからそう名乗ったのである。)。ここ志楽のアスカ(安岡)の地もそんな歴史があったのかもわからない。
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荒神とは何か

上はここではだいぶに無理的な荒神の解釈であったが、次のようにも考えられている。柳田国男は、「山民の生活」で、

 〈  …全国を通じて最も単純で且つ最も由緒を知りにくいのは、荒神、サイノ神、山ノ神であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引入れようとしますが、未だ十分なる根拠はありませぬ。それだけに又此紳々の起原の新しくないことが想像せられます。  〉 
屋敷神・氏神でもあったりして、あちこちにたくさん書いているが柳田と言えども完全には答えられない。ずいぶんと古い記録に何ら残らない歴史がある。
村々の家々の資料も何も残らない社の古い古い由緒などわかるわけもない。私にももちろんわからい。歴史資料にはないというどうにもお手上げである。権力サイドではない、庶民サイドの歴史を掘り起こすことは大変なことになるが、これが歴史なのであろう。

『鉄の民俗史』(窪田蔵郎1991)には、

 〈 鉱山独特の信仰形態ができあがったのである。その現れは、まず古代の拝火教的要素を持つ火の信仰の発展した荒神、つまり竃神に五行思想の所産である金神が結びつき、金山三宝荒神といった、顔が三面、手が六本のイドラを彼らの守護神として祀る、現世利益主義的な和製の偶像が完成し、これを崇拝する思想ができあがったことにも認められる。荒神に大年神の子である出雲系の奥津彦神、奥津姫神、火産日神の三神を充てたのは後世のことである。

庚申とは、中国伝来の民間信仰で『柳文』『神道名目類聚抄』など多くの書物に書かれているが、庚申会と称して庚申の日に、三尸虫が人の油断をねらって悪事を天帝に密告するといういい伝えから、その夜は密告されないように眠らずに過ごすという、古来から実施されてきた宗教行事である。中国の『諾サイ記』によると竃神のばあいもこれと大同小異なことが同じ意味で行われており、したがって庚申は竃神すなわち荒神の転化であろうといわれている。また現在路傍に残る遺物には性神的な色彩が強く、そのためもあって、仏教的な解釈から、青面金剛、転じてインドのシバ神の祭神が導入されたもので、性器崇拝の一種であるとみられている。
(しかしこれも、元をただせば五行説からきた十干の庚、つまり『比古波衣附干支唱考』に「さて干支の義のもとは皇極内編に十為干、十二為支、十干者五行有陰陽也、十二支者六気有剛柔也といえるほどのことなるべし」とあり、同書が説く金兄弟といった考え方の金兄(かのえ)と山王系の民族の猿と結びついた鉄山の信仰である。おそらく当初は、…『准南子』天文訓の字句でも推測されるように、大陸より渡来した金属精練の技術と関係がある。『仮名暦略注』によると、庚申の神は転じて金神コンシ゛ンであり、『筆のすさび』には「庚申は支干とともに金気に粛殺の気の発生の気を剋し云々」とあり、また『ホヒツ内伝』では庚申即金神であって、さらに巨旦コタム大王の精魂が金神であり、『備後風土記』の蘇民将来を通じて素盞鳴尊が関係し、これらの点から鉄の歴史とほのかに結びついている。また野間吉夫氏の『シマの生活誌』によると、金山の神は鉱山の跡の谷を司る神で、庚申の夜出てきて邪魔をすると記している。さらに庚申の日に生れた子供にはおかねおてつ銀次郎といった金属に因んだ名をつける風習が、青森県小泊村折戸を始めその他に残っており、夏目漱石も本名の金之助はこうした風習によってつけられたものといわれている。また、前掲書には十月カネサル(カノエサル)の日に金神を祀る習俗のあることも記されている。後にこの申の猿を『孔子家語』の三緘になぞらえて、三猿の像を造る(天台宗系)、また猿田彦神を祀る(神道系)など本来の意味かな離れ、庚申も音から付会されて幸神と書かれるに至り、おいおいと広まって広く民間習俗となったのではなかろうかと思われる。仏家がこの日に青面金剛(真言宗)や帝釈天を祀ることも、これらがいずれも金属に関係のある神の垂迹という、鉄冶とは縁の深い仏体として考えられ、信仰されてきたものであるから、この点よりも一脈の関係がないとはいえないであろう。  〉 
『世界大百科事典』には、

 〈 荒神の信仰は、(1)屋内の火所にまつられ、火の神、火伏せの神の性格をもつ三宝荒神、(2)屋外にまつられ、屋敷神、同族神、部落神の性格をもつ地荒神、(3)牛馬の守護神としての荒神に大別される。東日本では、火の神としての荒神と作神としてのオカマサマを屋内に併祀する形が多い。西日本では(2)のタイプが顕著であり、集落単位でまつる荒神はウブスナ荒神と呼ばれ、作神ひいては生活全般の守護神のように考えられている。(3)のタイプは鳥取、島根、岡山県などに濃厚で、その信仰的中心は伯耆大山であったらしい。荒神信仰の3タイプが初めから併存していたわけではなく、地荒神から三宝荒神への展開が推測される。最近まで陰陽師、山伏、地神盲僧などが〈荒神祓い〉と称して、各戸の三宝荒神や土地の神を清めて回る風があった。荒神という呼称を流行させ、また複雑な荒神信仰を解説し宣伝して回ったのは、これらの民間宗教家たちであろう。  〉 
こんなところで辛抱して先へ進むより手がない。何かもう一つよくわからない。よくわからないから荒神なのであろうし、わからないからこの地の歴史をよく記憶しているのであろう、一般に解釈されている歴史とはまったく異なる本当の歴史が隠されている社ではなかろうか。
荒ぶる神というのが荒神かも知れない。征服されたその土地の古くからの神々である。古い住民の祀った神が荒神かも知れない。記録が残らないためよく正体がわからないが、何か威力ある神様のようである。
「荒神さんとは…」 「勝尾寺における三宝荒神」

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金剛院 (舞鶴市鹿原)

鹿原には金剛院という寺院がある。真言宗の古刹。鹿原山慈恩寺金剛院という。誰も書かないが、古くは何か金属と関わりありそうな寺院である。現在は無住だが、由良の如意寺、大浦の多祢寺、泉源寺を末寺にもち多く重要文化財をもつ。今は当地方きっての紅葉の名勝で数百本といわれる紅葉の季節は人出で賑わう。


『丹後国加佐郡旧語集』に次のようにある。


 〈 慈恩寺、鹿原山、金剛院金剛院三重塔(舞鶴市鹿原・重文)
寺領弐拾弐石八斗七升八合
境内千八百弐拾五坪 其外山林
縁起紙面
 人王五十一代平城天皇王子高岡親王、法名真如法師、出家廻国此山ニ至草創也。于時淳和天皇御宇天長六己酉年建立号金剛院九百六十年ニ及
 寺之境ママ節云 高岡親王京都ニ御座時鳳凰鳴其声善哉々々ト鳴飛行跡ヲ慕ヒ給ふニ丹後国鹿原山ニ至山ニ宿ス。七日七夜鳴昼ハ善哉夜ハ怪云々々ト鳴依是相応之勝地トテ開給フ鳴声薫甚敷由
 弁財天、高野山ヨリ勧請開基相継之所山上ニ有リ
  此外中興建立
   当時ニ楓多シ色ハ不勝黄葉多シ三重塔を包囲するカメラの砲列
 大日堂 三間四面
 地蔵堂
 高岡親王戒名真如法師初ハ東大寺ニ居給ヒ後高野山ニ住シ給ヒ其後入唐
 人王七十二代白河院永保二壬戌年高岡親王創建ノ跡ヲ尋神社仏閣荒タルヲ修補シ給フ是中興開山也
此年大旱也。四月ヨリ七月迄雨不降諸事雨ヲ祈レトモ不降。当寺ニ詔シ給ヒ雨ヲ祈ル七日間祈結願ノ日大雨天下ヲ潤ス。亦同年御悩有諸寺諸山丹誠ヲ尽して験ナシ亦当寺ニテ祈之其験無ニヨリ衆僧相議シ若州辺ニ有不動明王勧請シ祈祷ス。于時永保二壬戌年九月廿八日明王ヲ鹿原ニ移ス。此作無動寺ノ相応和尚彫刻三体ノ内也。悪魔退治ノ法ヲ祈ル御悩忽平癒シ給フ依而新ニ不動ヲ安置ス
 本堂 本尊阿弥陀 安阿弥ノ作 不動明王 相応和尚作  五間四面
  往古阿弥陀ヲ本尊トス 白河天皇勅願以後不動ヲ本尊トス
 護麻堂 三間四面
 二階鐘楼 二間四方開祖・真如上人像
 鐘ハ金崎ノ海ヨリ上リタリシ由金崎ノ銘有り
金崎ノ海底ニ今モ鐘有由地ニ耳ヲ当テ聞ケハ鐘ノ響有由。長浜ノ沖ニモ鐘有テ夜更ケテ海上ニ灯火見ユル村ノ者是ヲ灯明ト云
拝殿 掛作 鎮守拝殿也 三間四方
回廊 五間ニ一間
会堂 廃ス
浴堂 廃ス
荒神社 時代不知 三尺ニ一尺
熊野権現 同   三間ニ二間
伊勢大神宮 同  五尺ニ三尺
三重素塔  同  三間四面
二王門   三間ニ二間 二王門ヨリ本堂迄
       二丁半 二王ハ安阿弥作
方丈 九間ニ六間 今七間半ニ五間
庫裏 七間ニ五間 今六間四方
塔頭 今無之
十二坊舎

此時寺号ヲ慈恩寺ト名付慈悲ノ恩沢故亦諸堂修理衆僧供領ハ志楽ノ荘ニ於被為寄付御祈願ノ勅書勅願明白也。是中興開山也。亦次ニ近衛院御宇久安二丙寅年、五百八十九年ニ及、美福門院霊仏奇瑞ノ事被及聞召高岡親王ノ草創白河帝ノ中興有由所トテ新ニ弥陀ノ像ヲ安鎮シ造営有シ。平忠盛奉行タリ。今本堂也
考巌院御宇
制札
   禁 制
丹後国志楽庄内鹿原山
金剛院 美福門院御願所
右至于当庄内地頭下司以下人々等
任自由彼寺山木切取輩背勅制
然者可処重科之状如件
 元弘三年六月 日
 昔境内湯舟山城ケ尾山ヲ限ル近年細川家山門切ニ仕給。城ケ尾古城小松殿嫡子三位中将惟盛爰ニ居給ふ
細川家之時下馬札給ル于今在之境内の千年榧(推定樹齢800年・府内随一という・市天然記念物)
  宝 物
 一 五色仏舎利 三粒
 一 五葦不動専 一軸
 一 鳥羽僧正不動専
 一 氏信筆薬師十二神
 一 大師御袈裟
 一 後鳥羽院勅額 建久戊午年被為掛
             五百四十九年ニ及
 一光厳院御于 元弘年中山林制札 四百四年
         此年正慶 改元
 一 唐筆数多有之
 一 藤孝卿 忠興卿御自筆制札
    寺中 福壽院  周快 藤ノ坊 橋本坊
       医王山 多祢寺 西蔵院
     末寺由良山 如意寺 油良ケ嶽 虚空蔵別
              当虚空蔵嶽トモ云昔長福寺ト云
       笠松山 泉源寺 智性院 愛宕山
  松尾村ヨリ市場迄志楽荘ト云 元来日下部村卜云
 古来奈良西大寺領地也 収納物相滞ニ付一色左京太夫ヲ頼田中ノ大島但馬ヲ頓テ納米取立奈良ニ送ル然所労而無功故後ハ但馬押領ス 其後大島御家人卜成故領地替ル
  一 高岡親王貞観三年上表奏事渡海入唐羅越国逆旅遷化
    高野山宿坊 西谷院 報恩寺
  荒神社
  山神社
 定免八シ六分

  〉 
高丘親王(真如上人)は空海の高弟、平城天皇の第三子、天皇にもなれたかも知れないような人物だそうである。皇太子ともあろう者が何故にこんな所にいたのであろうか。
ここに何か見つけたのでなかろうか。師が高野山で見つけたものと同じもの。それはたぶん水銀や金属ではなかろうか。
市史引用の大阪通産局の鉱区一覧では金剛院は石灰岩となっている。それ以外の記載はない。小字名としては猫谷、湯舟、樋ノ口など鉱山と思われるものがある。そのほかにもいくつか気になる点がある。誰も解明していないので、疑問点をいくらか挙げてみよう。どなたか謎を解いてはもらえないだろうか。
 美福門院御願所と書かれた元弘3年(1333(南朝))の禁制札が残っている。美福門院は鳥羽天皇の皇后ということだが、それではなく宮城十二門の一つ美福門という門、 朱雀門の西隣の美福門は古くは壬生門といった。壬生は隣の木津郷(高浜町)の木簡にも壬生国足の名がみえるし、竹野郡の式内社「生王部」神社(網野町生野内。赤坂今井墳丘墓のすぐ近く)は、壬生部神社でないかとも言われる。壬生部・生部・生壬部とか乳部とか二部とも書かれるようで、『日本古代氏族辞典』によれば、
 〈 壬生部の設置は、『日本書紀』推古天皇十五年(六〇七)二月条に「壬生部を定む」とあり、一般にこのころ、従来の名代・子代の部に代わって統一的に皇子・皇女の扶養のために置かれた部と理解されている。ただ皇子・皇女全般の部とみる説のほか、皇位継承予定者(大兄、皇太子)の部とする説があり、さらに壬生部に先立って、六世紀ごろに湯坐(ゆえ)部が設置されており、壬生部はその多くを割いて厩戸皇子(聖徳太子)の太子の地位に付属する部として新たに設けられたとする説などもあって、必ずしも一定しない。  〉 
残された文献だけを見て信じてしまうとそうなってしまう文献歴史学の壁なのだろうか、しかし二部と書かれると丹生でないのかと、私などは思ってしまう。『丹生の研究』も壬生はニフ系と見ている。(どこかで引いたかもしれないが、再度引用)

 〈 もちろん地下の水銀鉱床は、表土に多少なりとも鉱徴を見せる。そのうちとくに鉱徴が著しく、古代人の眼を奪った部分には朱砂の利用があり、それには朱産を意味するニフ・ニホ・ニイなどの名が与えられた。それらが漢字で表記されるようになると、ニフは仁布・仁宇・仁歩・壬生と書かれ、なかでも丹生氏が開発に関与した地点には丹生の名が残された。またニホに対しては仁保・邇保・丹保・丹穂・仁尾・丹尾などの漢字名が起り、ニイは仁井・二井・仁比と表示された。しかし鉱徴は顕著でも、それが利用されなかった部分には、ただその景観の異様さから赤穂・赤生などの漢字地名が生まれるにすぎなかった。ニフというコトバに山・谷・野などの地形を指すコトバが添えられた場合には、自然発露的な地名の簡略化から、また地名は2字に統一するという政府の原則やそれに基く慣習から、ニフが入の1字と化したものもあった。  〉 
小牧進三氏も丹後町岩木の丹生神社を訪れて、そこではニブ神社・ミブ神社と呼ばれていることを書かれている。氏のこの文書は全文を「丹後の伝説」に引かせてもらっているので、そのページを参照してください。
金剛院には水銀と何かつながりがかすかにあるかも知れない。
 金剛院本尊の波切不動明王は佐分利川上流の川上宝尾山から勧請されたものともいう。ここは宝尾神社のある所で、『大飯郡誌』(昭6)は、

 〈 (寳尾山)青郷村及高浜町の山脈に連績せる山にして八合目に人家四戸あり皆姓を藤原と称す是れ往昔藤原謙足公の末裔此の地に来りて居住し連綿として今日に及べりと云ふ此の山地に往昔大伽藍ありだれども年移り物変り今は僅かに舊跡を存するのみ。
七百年前山上に八間四面の高塔あり不動明王を祀りしが寺院滅亡後士中に埋没せり。寳尾山の縁起によれば鳥羽上皇の御代寳尾山の埋不動を祈らはぜ病気全快せんとの夢の告により平弘盛を遣はして発掘京都府加佐郡河原金剛院に移し蛤ひたりとあり。
参考 寳尾山縁起抄録
一、摩野山一乗寺は人皇三十代欽明天皇の開基(佛法百済より渡りし時始めてとの山に納む以後天皇度々行幸ありと)。
一、おなりが谷(天皇行幸門の跡)。
一.山鳥屋敷(殺生を禁じたる山)。
一、堀迫(庵の堂の蓮池の跡)一、舎利迫(百済より肉付の舎利を納めたる舎利塔の趾)
一、三十六坊の祈念堂(本尊は不動蔵王にして滅亡後雨露にさらさる)
一、人皇七十四代鳥羽上皇勅使を遣はされしこと。
一、祠れろ釈迦如来は聖徳太子の御自作。
一、寳尾蔵王大撚現は人皇三十代欽明天皇の勅使により本殿建立にて今に御門の鎮守と云ひ傳ふ拝  殿は人皇三十五代舒明天皇の建立権現の霊剣は天武天皇御所持のもの。
一、天武天皇一乗寺に行幸(暫く止まりて軍陣の用意し給ふ)。
一、権現の脇差の由来(旅人権現の拝殿に休息せしに大蛇来りて旅人を呑まんとす旅人脇差を抜きて
  大蛇を斬り殺したり依て一命を助かりしは権現の御加護なりとてその脇差の血を洗ひて奉納せり
  といふ)。
一、寳尾山の絶破(大同二年に高野山建立諸国の真言僧皆集りしが一乗寺の僧寺格を鼻にかけて驕慢無礼なりしがば、衆僧に憎まれて讒言を受けされより漸次衰亡すと)
一.藤原家は藤原朝臣左太臣の準官にて蔵王大権現の神主の末裔なり。.  〉 
新鞍神社(大飯町三森)宝尾神社は今は三森の新鞍神社に合祀されているという。宝尾はタタラ尾根だろうが、宝尾山は高浜町でいう牧山である。金属との関係はどうも否定できそうにもない。朝鮮直通の仏教があったかも知れないような話である。

舞鶴の白杉の槙山、マキというのは何か大切な意味があるのではなかろうか。
『大飯郡誌』は、

 〈 (牧山寺).( 牧山寺趾 此山は町内の最高峰にして、嶮峻青葉山に次ぎ、其山頂の眺望絶佳、三丹若越の諸嶺と日本海の碧波を一眸に収むるを得。傳ふ空海勅願を奉じて草創し.堂宇輪興高野山と盛を競ひしが中世彼僧兵の燹略に遭ひ廃残せりと。山上小池の畔.断礎両三と石刻不動尚存ぜり。又傳ふ佐伎治神藏の雨詰鐘(小池の水を攬伴し、或は之を汚す時は風雨を起すと傳へ、古来馬乞此山に行ひしと云ふ、此鐘或は之に関る乎)佐伎治神社所藏の大般若経、笠原阿禰陀堂の本尊は共に其遺物にして、青郷日置の太部坊次郎坊は隆盛当時の附属寺院なりと。
(其他毘沙門 畑 私蔵 坂田 観音 元興寺 等此山寺の遺物と称するもの町内處々に現存す)
 按に龍蔵院舊 佐伎治神社所蔵 大般若経 第三百十巻 奥書に永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺常住也願主施入景正六郎奉国と奥書せり、生守村は或は現今青郷村の一部にあらざりし乎。(…)  〉 

宝尾山遺跡(大飯町川上)『高浜町誌』は、

 〈 高浜中央部の南側に牧山・宝尾と称する山嶺があり、そこには、弘法大師が高野山へ赴く以前に真言寺院を創立したとの伝承を持つ。かっては壮大な伽らんがあったとし、高野山との勢力争いの結果焼打ちされ消滅したという。弘法大師云々は別としても山頂で平安期と思われる須恵器も出土していることから何らかの遺構が残存すると推察され、加えて、牧山に所在したとする仏像が牧山・宝尾の山裾集落に点在することも合せて考えねばならない。牧山がどの年代まで持続したか明らかでないが、北側山麓の坂田(高浜町坂田)金蔵寺には平安末期の地蔵菩薩立像があり、西側の畑(同町畑)に鎌倉未の毘沙門天、北東の笠原に阿弥陀如来がある。また、牧山の尾根続きの南に位置する宝尾山裾の川上(大飯町川上)では阿弥陀如来、懸仏があって牧山伝説を裏付ける資料が数多く残されている。牧山山上の寺院は一乗寺或いは福願寺とも称され、松尾寺金剛院(舞鶴市)とともに大きな勢力を持っていたというが定かでない。現中山寺は一乗寺の後身とするが、享禄三年(一五三○)一一月一五日付一乗寺本堂修覆勧進帳『飯盛寺文書』にはもともと中山寺であったものを再興して一乗寺に改めたと記す。
 以上のように、当町の仏教文化は青葉山を中心にする地域と、牧山・宝尾を中心とする地域の二つに分播されるが、青葉山は青郷、牧山は木津郷の範囲に求められ、原始・古代を通してこの区分が存続したと推考されるのである。
  〉 

美福門院藤原得子といい、金剛院も意外と若狭文化のようである。金剛院の重文・快慶作の深沙大将立像と執金剛神立像もあるいは宝尾山から移されたかも知れない。「金剛院」
松尾寺にしてもそうだが、このあたりは丹後というよりは若狭と関係の深い文化である。もう少し『高浜町誌』を引かせてもらう。


 〈 槙山寺(牧山)
 この寺は、その伝によれば「空海、勅願を奉じて草創し」とあるところから真言系統寺院であることは、ほぼまちがいない。しかし古くに廃絶して確たる伝承がないので、山号寺号等も明らかにしない。伝えによればこの寺は紀州高野山の前身で、開祖空海はここを真言根本道場に擬していた。後世故あってその地位を紀州に移してから、双方は互いに地位の上で争いの絶え間がなかったが、遂に紀州宗徒のため廃絶の憂き目に追い込まれたものだという。
 古書に、(「若狭国史」)「永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺は、牧山頂に遺跡を留むる古寺にあらざるか」とあり、また「牧山は弘法大師(空海・八六三)開基になり七堂伽藍塔堂百坊の寺あり、谷々峰々に連廻り恰も魚鱗の如し、然るに中頃北国に大々兵乱起こり神社仏閣焼失す」云々とある。
 現在は町の南方にそびえ立つ牧山には、その寺の礎石と思われるものを多少は見かけるが、かつての槙山寺の遺跡としては確たるものではない。現在は、その辺りに小堂を建て石不動尊一躰が祀られているにすぎない。
 しかしかつての槙山寺の遺物と伝える仏躰を町内の寺院や仏堂で数多く拝することが出来る。それらを思うとき、当時槙山寺がいかに隆盛をきわめていたことか、そこには七堂伽藍いらかをならべ、衆僧が修する「国家鎮護」経文読誦の音声今にしてなお耳にあるかに思えて、その当時が偲ばれる。
 子生区では毎年六月二八日の早朝より区民挙って登山し、不動尊にみあかしをあげ、供物を献じ、区内の安全と五穀豊饒の祈願が行われている。
   牧山寺趾 伝ふ空海勅願を奉じて草創し、堂宇輪興高野山と盛を競ひしが中世彼僧兵の燹略に遭ひ廃残せりと。山上小池の畔、断礎両三と石刻不動尚存せり。又伝ふ佐伎治神蔵の雨請鐘彼条下に写出(小池の水を撹拌し、或は之を汚す時は風雨を起こすと伝へ、古来雨乞此山頂に行ひしと云ふ、此或は之に関る乎)佐伎治神社所蔵の大般若経、笠原阿弥陀堂の本尊は共に其遺物にして、青郷日置の太郎坊次郎坊は隆盛当時の附属寺院なりと。(其他毘沙門畑地蔵 坂田観音 元興寺等此山寺の遺物と称するもの町内処々に現存す)
   牧山寺は福満寺?
       按に龍蔵院旧佐伎治神社所蔵大般若経 第三百十巻奥書に永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺常住也願主施入景正六郎奉国と奥書せり。生守村は或は現今青郷村の一部にあらざりし乎。(遠敷郡今富村にも生守あれど、青郷村の南半が、遠敷郡なりし考説は全郡沿革章下に試みあれば、経の奥書に遠敷郡生守村とあるも青郷の一部を認得る)
若狭国誌「生守山 在関屋村青郷以南山嶺版巌窟」云々に拠れば青郷村在るも生守の称ありて、其の所在も大らかなりしと可想
龍蔵院
 山号を摩尼山、寺号は西宝寺と称したと伝える。当院は砕導(さいち)明神の別当寺として、佐伎治神社の社僧が常住神事を奉仕していた。
 創建は二条院帝の勅願所として長寛年中(一一六四〜一一六五)(若狭郡県志)である。創めは和田安土山麓に在ったが、佐伎治明神の社が今のところに移るに当たって〔天正一九年(一五九一)弥助文書〕、この寺もここに移建されたが、明治一一年(一八六九)神仏混淆の禁止と、廃仏毀釈のあおりをうけて衰滅したようである。
 この間、元禄六年(一六九三)と寛延三年(一七五○)の再度にわたって、松尾寺本尊開帳に関わる紛争訴状沙汰があったと古記録に見える。すなわち、松尾寺支院遍明院は、本尊厨子の鍵を開帳ごとに、龍蔵院と交互に保管するという古来のしきたりを守らず不都合なりとして、神野村叟太夫とともに連判して、時の寺社奉行宛て御裁断を仰ぎたいと訴状に及んでいる。


一乗寺
 昔、南北朝の頃、高野の地に槙尾山(摩耶山ともいう)一乗寺と称する真言宗の大寺があった。
 延文四年の一乗寺免田畠寄進状にのこる文言から推測して、少なくともこれ以前の創建と思われる古刹である(中山寺由緒記によれば天平八年(七三六)とある)当時は、守護職の祈祷所として多くの寺禄が寄進せられ、天下安全、鎮護国家の祈願が修されていた模様である。以来、これら大檀那の中には、若狭の守護職武田氏や小浜藩主酒井忠勝の名も残っている。
 当寺最盛期には、境内塔中二十五坊を数え、隆盛をきわめたが、例のごとく紀州高野山と屡々争うに至って焼滅した。今に残る高野今寺等の地名や、精進畑の伝説など往時をしのばせるもの
がある。
 一乗寺が創建された当時は「中山寺」と称していたという。その由縁を以て二十五坊中の塔頭であった正寿院(杉本坊)が後年一乗寺の旧寺号を継承して中山寺と称し、今日に至っているという。
 また言う。鹿原の不動明王像(重文)はその昔、一乗寺にあったものだとあり(福井県の伝説……福井師範学校発行)、佐伎治神社にある雨乞鐘(県指定文化財)も一乗寺宛に(朝鮮又は中国)送られて来
たものだともいう。
 以上、高浜町における寺院の概観を述べたが、その中に聖徳太子・弘法大師・行基菩薩・泰澄大師等、日本仏教史上特筆すべき高僧の名をみることが出来る。これらのことをもってもかつてはこの地方は仏教に有縁の土地柄であり、かつ、早くよりひらけていたであろうことがわかる。.
  〉 
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布留山神社阿良須神社(舞鶴市小倉)

阿良須神社(左)と布留山神社(舞鶴市小倉)志楽ではフル(右・布留山神社)とアラ(左・阿良須神社)が同じ所に同居している。古代朝鮮語の多少なりの知識がないとどうにも歯が立ちそうにもないのが特にこのあたりの神社群であろう。一宮神社と呼ばれていて、私も小学校の遠足で行った記憶がよみがえる。
 日本というのは面白い国である。鏡に映る自分の顔にヒントを得たのか、あるいは低国史観の根拠のないド偏見と思い上がりが本気でアホらしくなった人かも知れないが、幸いにも研究を進めてくれた先人達も多いので、それらの知見を元にしながら見てみよう。低国史観と現代社会の一般通念の大きなホコロビがここにある、ここでしっかり勉強するなら、ここから過去の世界が変わる、明日の新しい日本が生まれるかも知れない。
台風23号などの被害もあって、目下ここの神社は改修工事中で、さらに立派になりつつあるようである。場所は志楽小学校の向かい国道27号線に沿ってある。車から見える。あちこちに足場が組まれていて写真が撮れそうにもないので少々古い物で、ご勘弁を願いたい。

この2社について、『ふるさとのやしろ』は、


 〈 舞鶴農協志楽支店の前に、二つの神社が並んでいる。東は阿良須神社、西は布留山神社。阿良須神社は「一の宮」ともいわれ、志楽郷五か村の総氏神で、かつては郷社であった。布留山神社は小倉だけの氏神で、「加佐郡旧語集」では、「古山牛頭天王」として「一の宮末社」と記されている。だが、阿良須神社は、もと田中にあったのが、慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いの当時、田辺城を包囲した西軍のため焼かれ、翌年布留山神社境内に移ってきたもので、布留山神社が古いとの説もある。
 社伝によると、崇神天皇の代、青葉山の土蜘、玖賀耳御笠を征伐した日子坐王が、ここに須佐之男、経津主命、武御雷神を祭って戦勝を祈り、平定後社を建て、兵器庫とし、この地を布留と称したとある。
 一説には丹後風土記残欠に書かれている「大倉木社」がこの神社で、小倉の地名は大倉が転訛したものという。大倉木は海部氏の祖神、天火明命から十六代目の大倉岐命に当る。
 江戸時代には「富山天王」と称したこともある。陰暦の十一月十五日には、社前に三本の大松明に点火、その燃え方により、明年の早生、中生、晩生の稲の作柄を占う「おまつり神事」が行われ、今年は十一月十三日正午に伝統の火がつけられる。  〉 
さて、『舞鶴市史』は、阿良須神社(舞鶴市小倉)

 〈  阿良須神社
阿良須神社は小倉にあり、古くは一ノ宮と称していた。一ノ宮、二ノ宮などの名称は広く分布しているが、これは当初、国司の赴任に伴い国内の神社を順拝するのを例としたから、その順番を示すものといわれるが、同社の場合は確証がない。今の祭神は豊受大神であるが、大宮売大明神・若宮売大明神(丹後旧事記)ともいわれ、両神は丹波道主が中郡大宮町周択の大宮売の神(式内名神大)を勧請したとしている。伝承に従えば道主がこの地に入り、柳原において天神地祇を祀り社殿を創建したが、のち廃絶し、天武天皇の十年(六八一)に社殿が再興され、同十一年に高市皇子の社参をみたとしている。
 かってこの地は日下村(日下部村)とも春日部村とも称したといわれ、その起源説は「天武天皇の神護景雲元年(七六七)に春日大社の領となったため」(加佐郡誌)とされている。しかし春日大社の創祀は神護景雲二年、天皇は称徳であるから地名起源説の伝承には誤りがあることになる。ただ中世文書の「梅垣西浦文書」(舞鶴市史・史料編)および「注進丹後国諸庄園郷保総田数帳」(同)には春日(部)村の名称が見える。また同神社蔵の中世文書に対する精密な検討も必要である。更にまた、同神社の所在地名がフル山(布留山)というのも、同社に関しての新しい見解を生む要素である。ただ、阿良須の名を称したのは新しい。
 この神社は、加佐郡大江町北有路にも同名の神社があり、祭神を神吾田津姫命として「神名帳」所載の式内社であるとしている。  〉 

先にも引いたが、『神社資料集』も、


 〈 小字布留は古のお旅所と云ふが「フル」とは「クシフル」とか「ソフル」などでも判るとおり韓語の首邑との意であって新羅来(シラキ)に縁由するのではなかろうか。  〉 

大字小倉小字フルヤマが鎮座地の地名である。この山がフルヤマなのだろう。このフルがどうもアヤシイぞということを指摘している。そのほかのイワレは附会伝説のようなもので、あまり当てにはなりそうにもない。アラとフルを解かねばこれらの神社の本当の姿はあらわれそうにもない。そしてたぶん小倉のクラも同じような意味を持ちアヤシくなるであろう。ついでに枯木の意味や揚松明がなぜ燃やされるのかといった疑問も解けそうな予感もする。布留山神社(舞鶴市小倉)
 さて、石上の布留の大神と呼ばれる神社も同じであろうが、このフルは確かに朝鮮語でソフルのフルであり、村の意味もある。神武の諡号は神日本磐余彦かむやまといわれひこかむやまといわれひこかむやまといわれひこというが、その大和の磐余いわれいわれいわれは石寸(寸は村の略字)とも書かれる、奈良県桜井市の西部、三輪山の西麓一帯の地名といわれるが、イワレとはイワフレのことであり、日本でも村をフルと呼んでいたことがわかる。日本語のムラもこのブルの転訛だろうといわれる。磐余と余という字で書かれるとフルはアルとも呼んだのでなかろうかとも思われる。『履中紀』や『姓氏録』に膳臣余磯という人が見える。アレシと読んでいる。イワアレ・イワフルとどちらとも呼ばれてフルとアラは同じ意味と思われるのである。ここのようにフルとアラが同居していたり、大江町南有路のすぐ奥にに古地谷があって十倉神社もあったりするとその感じが強まる。
 朝鮮語フルは日・火の意味もあることもよく知られている。日本語の日や火もこのフルの転訛であろうと言われる。大日蛭貴おおひるめのむちおおひるめのむちおおひるめのむち命(天照大神の古名)のヒルは日のことである。現在の昼も同じであろう。こちらがフルの原義に近いようで、フルの神、日の神の降臨する場所が本来はフルなのである。どんな村でもフルではなくそうした聖地の村がフルと呼ばれたという。
聖語purの研究」(田中勝蔵著)という興味深い論考が『東アジアの古代文化2』に載せられているが、


 〈 purはわが国においてムラと訛っているはかりでなく、景行四十年紀のごとく、より原語音に近い村(フレ)・村(アレ)などの訓も併用されていたが、それは漫然たる人の聚落ではなく古くは神降臨の聖地を意味したものであった。対馬の酸豆の伝承にも天童の聖母の漂着した聖浜が有(アリ)浦と呼ばれ、佐須村にも雷神臨降の聖所として阿連(アレ)なる地名が語られている。こうした意義をもつpurはやがて神の代理者たる神人的王者の城邑の意味に転義し、夫里(polまたはpur)と呼ばれ、また略訳されて、piとなったと故・池内宏博士は示教されている。  〉 


などと書かれている。そんなことは気がつかなかった。面白い。調べてみると景行四十年紀の「村之無長」の村をフレと読んでいる。景行十八年紀の「八代県豊村」の村をアレと読むようである。
アレどころかポリスと関係がありそうな話で、いよいよアラ・フルは遠い昔の人類共通語のように思われる。どうだかわからないが、日本語のアルとイルの使い分けが外国人には難しいようである。「Aさんがあります」などと言う。たぶんどちらも同じでこのフル系の言葉ではないのかと思う。英語を習い始めた頃にareとisがアル・イルに似ているように思えて仕方無かった記憶がよみがえるが、be動詞のビーというのもフルに似ている。イラクかパレスチナかどこかそのあたりにこの語が残っていないかと冗談で調べてみると、やはりある。何と!、本当に地名は化石だと思う。アララト山(5165m・大洪水の後ノアの方舟がたどり着いたと伝わる)の周辺をアラスと呼んだそうである。チグリス・ユーフラテスの源流で、同じ高原からはアラスやクラと呼ばれる川が流れ出ている。アフリカから出た私たちの祖先が何万年かこの辺りに住んだと言われる。現代人の共通の故地である。私の1千万分の1の地図ではよく分からないが、アララト山に源流を持ち、東南へ流れてアルメニア・アゼルバイジャンとイランとの国境になっていて、クラ川に合流し、カスピ海に注いでいる。我らのご先祖様はこの聖なる語を何万年にもわたって忘れずに持ち続けて東の果てまでやってきたのであろうか。
「アラス川」 「アララト山衛星写真集」

余礒と書いてアレシと読む。アレシとはアラスではないか。膳氏は若狭と関係が深く、『先代旧事本紀』国造本紀に、若狭国造。遠飛鳥朝御代。膳臣祖佐白米命児荒礪命定賜国造とあるが、その荒礪命もアレシと読む。あるいはアラスは膳氏と関係がある地名なのかも知れない。もっとも稗田阿礼(ひえだのあれい)(古事記の暗誦者)などもいるから、そうした聖地に仕えたシャーマンに共通名なのかも知れない。アレシのシは特に意味はなく、アレを強めるための接尾語のようなものである。アレシもアレも同じ意味である。アラスのスの意味は特にはない。そうするとフルはフルスともなり、H・Kの転訛でフルスはクルスともなるようである。このあたりに多い荒神もあるいはこのアラ神社なのかも知れない。

日本では丹後の三ケ所と、あとは葛野郡の嵐山と有栖川、それに大阪四天王寺の支院の有栖寺くらいか。アリスはもう少しあるのではないかと思われるが、私のデータ・ベースにはない。「山州名跡志」は有栖川は賀茂・紫野・嵯峨の三ヵ所にあり、としているという。有栖は荒樔・荒瀬の意味で、嵐山が古く荒樔山といわれ、大堰川(桂川)が元来荒樔川であったともいわれる。(『京都府の地名』)。葛野のアラスもかなり広い範囲のように思われる。ありそうでない地名なので、さて問題は顕宗紀の歌荒樔田と丹後のアラスは何か関係があるのかも知れないとも疑ってみればどうなるか。『日本書紀』(顕宗天皇条)に、


 〈 三年の春二月の丁巳の朔に、阿閉臣事代、命を銜けて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて謂りて曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒横田を以ちてす。(歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り)。壱伎県主の先祖押見宿蘭、祠に侍へまつる。  〉 

 〈  夏四月の丙辰の朔にして庚申に、日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく、「磐余の田を以ちて、我が祖高皇産霊に献れ」とのたまふ。事代、便ち奏して、神の乞の依に、田十四町を献る。対馬の下県直、祠に侍へまつる。  〉 

高皇産霊尊の氏族と関係する地名なのかも知れない。天孫降臨の本来の指令神とされる神で、天地を鎔造したとあるように、北方系の鍛冶屋の大親玉である。丹後海部氏の祖・火明命の母方の祖である。もともとは対馬や壱岐が本拠で、忌部氏の祖であり、天目一箇神のボスである。
阿閇臣事代は伊賀上野の敢国神社(伊賀一ノ宮)の氏族。すぐ近くに佐那具という地名もあり、金属の氏族である。壱伎県主や対馬直は中臣氏で雷大臣の後とある。中世は志楽庄春日部村と呼ばれたのであるが、何かそれも関係があるのかも知れない。押見というのは忍海や凡海をを思い起こさせる名である。だから渡来の天目一箇神系の金属技術をもつ人々がもってきた地名と思われる。ここにその地名があるということはここは金属の地と思われる。アラスは荒塩ともされて羽衣伝説にも登場するし、アラスの地は海部氏とも関係が深いと思われる。


修復完了した阿良須神社舞鶴のアラスは長年苦労したからいっぱい文書は集めたが、『京都府の地名』が一応要領よくまとめてあるので引いておく。


 〈 阿良須神社 (現)舞鶴市字小倉
 小倉の北端、志楽川に注ぐ小倉川の谷の出口、若狭街道に面した山を背にして鎮座する。少し離れた所にもと社地があった。境内には老樹が繁茂し、眼下に志楽谷平野が東西に広がる。
 「延喜式」神名帳に載せる「阿良須(アラスノ)神社」に比定される。中近世には、一宮・一ノ宮大明神あるいは大森社と称した。祭神は豊受大神。一説には大宮売大明神・若宮売大明神(丹後旧事記)で、両神は丹波道主命が丹波郡周枳(現中郡大宮町)の大宮売神を勧請したと伝える。
 中世には志楽庄春日部村の鎮守であり、近くの金剛院の鎮守社でもあったらしい。当社に中世文書が一〇余通所蔵されるが、ほとんどが「志楽庄一宮」関係のもので、最も古いものは、観応元年(一三五〇)三月二三日付の政所堯基による春日部村大森宮毎月晦日講田一段の宛行状である。そのほか宮座関係の貴重な史料が多いが、一例を挙げれば次のとおりである。
   志楽庄一宮置文案
     定 志楽庄一宮置文事
  禰宜事ハ、於座衆之内為一老可持、并祝の事為ニ老可持、然者神思に八斗代壱段ツゝ可取者也、
 一大般若講并九日仕立等事、禰宜祝為両人打変に可動者也、
 一徹供打蒔風情事、禰宜祝講長為両三人可取者也、
 一毎月籠事、於神前無退転通夜事、
 一神田所当米事、講師坊禰宜祝座衆両三方、寄召算用候て、相残分候ハゝ御宮造□あるへく候、如比定置上者、禰宜祝座衆聊違乱あるへからす、背此旨輩者為座衆、堅其成敗あるへく候、仇御宮置文代如件
                政所曽根兵衛肋
    文安六年二月十一日
 政所曽根兵衛助による置文であるが、宮座衆のうち一老が禰宜に、二老が祝になったことがわかる。
 近世には慶長五年(一六〇〇)石田三成方の田辺城攻撃の際兵火にかかり、本社・拝殿・神宝・縁起などほとんどを灰燼に帰したといい、翌年細川忠興により現在地(もとの御旅所)に再建されたと伝える。氏子は小倉村をはじめ、鹿原・田中・吉坂・安岡の五ヵ村であった。
  〉 

修復工事完了したばかりの阿良須神社『丹哥府志』に、


 〈 【小倉村(市場村の次。若狭街道。古名春日部)】
阿良須神社(延喜式)。社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受皇大神宮なり、神名帳に所謂阿良須神社是なり。今正一位一宮大明神と称す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る。
曇る世に柳の原を眺むれは
     神の恵やはるゝ朝霧
風きねに青葉の山の畑たへ
    行き先き遠き雲の上かな
愚按ずるに、皇子は天武天皇の皇子なり、天皇に従ふて大友の帝を攻む。始め天智天皇十年の九月秋の頃より天皇豫まず、十月十七日天皇の病益甚し、よって大海人皇子(天皇の皇弟也)に勅して後事を托す、皇子蘇我安麻呂の言を用ひ固辞して僧となり吉野の山に入る、時の人龍に翼を授くといふ、於是大友皇子を立てゝ太子とす、十二月三日天皇志賀の都に崩ず年四十六、翌年の夏六月大海人皇子果して吉野に叛す(日本記に大海人皇子反すといはず、日本史に初めて其是非を正し大海人皇子吉野に反すといふ)、大友天皇防戦して力を尽すといへども遂に利あらず、七月廿三日粟津の山前に崩す(国史畧に云、皇太子自縊し薨時年卅五)。 先是京狩田辺小隅夜年に枚を喞みて大海人皇子の将田中足麻呂を襲ふて大に倉歴の営を破り遂に進みて荊荻野の営を襲ふ今社記に高市皇子故ありて丹波に遁るといふ正史に之を載せずといへども恐らくは此時ならん。延暦廿四年初階正一位に進む、天正の頃兵火の為焚失して富山天皇の社に合せ奉ると云。  〉 

『丹哥府志』も市史も『…地名』もこの社を加佐郡式内社の阿良須神社と比定しているようだし、事実そうであっても何も不思議でもない古い格別の神社であり式内社がふさわしいと身びいきでもなく思えるのだが、残欠神名帳の記載順等から推測すると式内社はこの社ではなく北有路の同名社と考えざるを得なくなるのである。
 小倉の二社は本来は一つのもので、残欠の大倉木社、「室尾山観音寺神名帳」ではすでに何社かに分祀されていて正三位神並明神などに比定されると思われる。
大江町北有路と大宮町周枳のアラス社は調査しておいたので、それらのペーシ゛を参照のこと。
「有路・阿良須神社」
「アラス(大宮町周枳・荒塩神社)」
柳原橋

 右は阿良須神社の故地と伝わる柳原の地、最近市道が出来て新川にこんな橋もできた。柳原橋という。右手の大きな建物が志楽小学校、中央の森に阿良須神社が鎮座する。 「神社旧辞録」に、


 〈 祭神殿内秘座  木華咲耶姫命  下の砂を受けて産屋に布けば平産と由縁也  〉 
とある。有路の祭神と同じである。このあたりにもかつては産屋の風習があったと思われる。
 鎮座地のフルヤマは神奈備の浅香の森とも呼ばれた。アサカはアラスカか。カは場所を示す語。すぐ北の安岡なども同じ意味ではないかとも思われ、アラスはもう少し広く朝来あたりも含む範囲を指した地名ではないかと思う。
柳原の原にフルが見える。本当に柳だったかわからないが、柳なら『世界大百科事典』に、
 〈 柳は生命力に満ち、春一番に芽ぶくため、正月には蛭花をつけたり、これで柳神(やなぎばし)、削掛け、粟穂剰穂(あわぼひえぼ)などを作って豊作や健康を祈る風がある。《万葉集》にも柳を蘰(かずら)や挿頭(かざし)にすることが詠まれており、古くから長寿や繁栄の呪い(まじない)とされていた。小正月に柳の若木を焚いて蛭をあぶって食べると若返るといったり、柳神や楊子(ようじ)を使うと歯がうずかないというのも、柳が呪力(じゆりよく)をもつ神聖な木とされたからであろう。また苗代に稲種をまいた後に、柳を田の神の依代(よりしろ)として水口にさして祭る風も広く見られ、古く《万葉集》にも〈青楊の枝伐りおろし斎種(ゆだね)蒔き……〉とうたわれている。また柳は村境や町はずれに植えられ境界の目印とされたり、橋の側や遊郭の出入口には見返りの柳が植えられ、この世と異界の境を示す象徴とみられた。このため、柳には幽霊や妖怪が出没するという伝説が伴っていることが多い。とくに、枝垂(しだれ)柳は他の木とちがって枝が下に垂れており、神霊の降臨する神の木とされた。三十三回忌や五十回忌の最終年忌がすむと、弔い上げに柳のうれ付き(芽や葉が出た枝)塔婆を墓に立て、これが根づくのを成仏の印とみる風も広い。柳を焚くと屍臭(ししゆう)がするとか、柳を切ると幽霊が出るといった柳に関する俗信は多いが、柳を屋敷に植えたり家の建材として使うことも忌まれている。     飯島 吉晴  〉 


残欠神名帳の大倉木社はここのことだろうと言われる。本文にも記事がある。


 〈 大倉木社。祭神国造 (以下三行虫食)

残欠の時代は阿良須神社とは呼ばなかった。正式な名称は大倉木(おおくらき)社。正式にはそうであったのかも知れないがアラスともフルヤマとも呼ばれていたのであろう。同じ意味である。アラ・フル・クラというのは同じで聖語purの転訛だろうと思われる。鎮座地の現在の小倉という地名はこれから出た地名と言われる。

倉木・枯木はフル木・アラ木のことであり、此の地の世界樹・生命樹伝説に基づくものと思う。アラスやフルのarにたぶん大を意味するKの接頭語がついてこうした言葉が生まれたものと思う。この樹は太陽樹であり水の樹であり蛇の樹でもあったと思う。豊饒な生命に充ち満ちた樹であり、この樹を伝って天上界にも地下世界へも行けた。
此の地の伝説の始祖王・大倉岐(おおくらき)命はこの神樹の人格化、あるいは化身であろう。正確に表記すれば大ar樹のミコトである。現在ともなれば海部氏系図によってしかその姿をかいま見ることしかできないが、後に海部氏の系図に取り入れられた王であろうと思われる。本来はそれとは違った古い物語が伝わっていたと思われるが、我々はそれを知ることができない。彼はどんな王であったのか、『金枝篇』によって無理に復元してみよう。先に一度引いたが再度ここに引いておこう。


 〈 古代、この森の風景は、繰り返される不思議な悲劇の現場であった。湖の北岸、現在のネミの村が位置する切り立った崖の真下に、ディアナ・ネモレンシスすなわち森のディアナの、聖なる木立と聖所があった。この湖と木立は、ときにアリキアの湖と木立と呼ばれた。だがアリキアの町(現在のラ・リッキア)〔現在の名はアリッチャ Ariccia〕は三マイル離れたアルバノの山の麓にあり、山腹の小さな噴火口のような窪みに横たわる湖からは、険しい勾配によって隔てられていた。この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついているのが日にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。これがこの聖所の捉であった。祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く校滑な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。

 ネミの聖所の中には、枝を折ってはならないある種の木が生えていた。逃亡奴隷だけが、もし可能ならば、一本の枝を折ることが許されていた。この試みに成功すれば、祭司と決闘する権利が与えられ、もし彼が祭司を殺せば、代わりに彼が森の王(レクス・ネモレンシス)の称号を、得支配権を握った。伝説の主張するところによれば、この運命の枝は、アエネアスが黄泉の国への危険な旅に乗り出す前に、巫女の命により折り取った、黄金の枝であった。

 答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺さなければならないのか? そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか?  〉 
金枝というのか、ここではクラ木とかカラ木と呼ばれた神木、それは柳であったかも知れないが、その枝を折り取り、前代の王を殺して王になった王である。彼もそのうちに次代若手の王候補者に殺されることになる。そうした王であったと思われる。

大倉木社は祭神が勘注系図の十六世孫・丹波国造・大倉岐命であったと言われる。勘注系図注文に、
 〈 亦名を大楯縫命。稚足彦天皇御宇癸丑年夏五月、桑田郡大枝山辺に大蛇有り、而人民被害を為す。則此命直方市愁い、群臣を率い之の征伐を将いた時、大山咋命が現れて之を助けた。群臣と之を斬る。此時孤独窮口を憐撫する状が天聴に達した。故楯桙等を賜り而して丹波国造を賜った。加佐郡志楽郷長谷山に葬った。
  〉 
桑田郡大枝山は老ノ坂のあたりである。大蛇退治をしたという。だからこの人自身が大蛇でもあったと思われる。大楯縫命とか別名、別名と言われる名が実はたくさんあるそうである。大倉木どこにでもありそうな名であるので、本当は各地にたくさんの大倉木命がいて、何代も襲名していたことであろう。それを全部一人の人のように考えるからわけがわからなくなったものと思われる。国造本紀に、

 〈 丹波国造、志賀高穴穂朝御世尾張同祖建稲種命四世孫大倉岐命定賜国造
  〉 
これはどの地の大倉木命かわからない。福知山市今安の式内社・天照玉命神社の創始者も大倉岐命といわれる。『京都府の地名』に、

 〈 天照玉命 (あまてるたまのみこと)神社 (現)福知山市字今安天照
 今安集落の中央天照(てんしょう)に鎮座。「延喜式」神名帳にみえる「天照玉命神社」に比定される。旧郷社。
 祭神は天照国照彦火明命で別名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日命いう(「古事記」上巻に「此の御子(原注・天忍穂耳命)は、高木神の女、万幡豊秋津師比売命に御合して、生みませる子、天火明命。次に日子番能邇邇芸命(割注・二柱)なり」とあり、「日本書紀」神代下(第九段)に「一書に曰はく、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊尊の女天万栲幡千幡姫を娶りて、妃として児を生む。天照国照彦火明命と号く。是尾張連等が遠祖なり」とある。「火明(ほのあかり)」は「穂赤熟(ほあかり)」の意とされる(古事紀伝)。「神祇志料」によれば成務天皇の代に、天火明命一二世の孫建稲種命の四世の孫大倉伎命が丹波の国造に任じられたが、その在任中に先祖の天火明命を祀ったものであるという。「続日本紀」延暦四年(七八五)正月二七日条に「丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麻呂」がみえる。「神祇志料」は「丹波氏系図に重基五世の祖康頼は丹波天田郡の人とあるによる時、丹波朝臣即ち国造の同族にして、天照玉命の神裔なる事著きを」と記す。「大同類聚方」には、「保賀世薬丹波国天田郡天照玉命神社之丹波直人足之家方也」とある。…
  〉 

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龍宮伝説こっといこっといこっとい(舞鶴市市場)

志楽川河口
何かむつかしいので頭が痛くなってしまった龍宮の話をしてみよう。志楽川河口の市場には龍宮(上の写真でいえば丸い山の右手麓)という地名がある。地名としては新しいもののようであるが、龍宮橋(一番右手の志楽川に架かる橋)とか乙姫橋(まんなかの小さな橋)もあり、この辺りには乙姫を祀る小祠があったという。大浦半島の小橋や三浜の浜辺は龍宮浜と呼ばれる。こんな地名がある限りは観光用に最近つけたのでなければ龍宮伝説があったかと思われる。コットイ崎は左の鉛筆のあたりであろうか。『舞鶴の民話4』に、

 〈   竜 宮 鼻 (新舞鶴)  〉 

 〈  現在の東図書館から志楽川にかかる松島橋を渡ったあたりは、昔、丸山ともコットイ崎ともよばれた山が岬になって海につきでていました。
 この突端が、地図の上では竜宮鼻とかかれています。昭和初期のころまでは、龍宮の神乙姫を祀る小さいほこらがあった。このあたりを竜宮という由来は竜宮伝説によるといわれている。むかしのことだが正月が近づくと、若狭から吉坂峠をこえて、正月のしめかざりを市場まで売りにくる娘がいた。売れのこると捨てて身がるになって帰った。娘は、売れのこったしめかざりを竜が岬から海にすててかえったそうだ。
 ある年のこと、娘がしめかざりを海になげると、乙姫様があらわれ、「娘のなげてくれるしめかざりのおかげで、龍宮城に正月をむかえることが出来る」と礼をいい、娘のねがいを一つだけかなえてあげようといった。
 娘は「私はいま一番幸せです。いつまでもこのままでいたいです」と答えると乙姫様は「これをのみなさい」と人魚のきもでこしらえた丸薬をわたした。娘はこれをもってかえって、薬をのんだ。
 この薬のため娘はいつまでたっても年をとらなかった。とうとう八百歳になってしまった。どうしてもおむかえがこないので、小浜の現在の小浜小学校の東の山すそに横穴をほってその中に入り身をうずめて、再び外にはでてこなかった。八百比丘尼の入定の地には空印寺がたてられ穴には立てふだがたてられ、ここが八百比丘尼の入定したところだとかかれている。この八百比丘伝説は各地にある。調べてみると八百比丘尼は大浦半島にも跡を残している。むかしは志楽荘は若狭とも関係があったと思われる。.  〉 
『丹哥府志』に、

 〈 【猩々の頭】  〉 

 〈 浜村は元森村の浜村なり。よつて産土は森村の大森大明神なり、其祭礼の道具一切龍宮より納ると語り伝へて浜村に伝はる。浜村の磯に島あり、祭の前夜其島に往きて例年の通り祭の道具借用せんと請ふ翌朝迄に其用ゆる所の道具一切備りぬ、これを用ひて又元の如く揃へて其島に返す事を年々如此仕来るなり、一年雨にぬるるよつて是を干す。以是一日遅延に及ぶ、是歳より取りに来らず遂に此村に伝はるといふ。深く秘蔵して祭礼には新たに道具を造り其品は用ひずといふ。斯様の事は怪しき事なれども吾山陰にては往々此類の事多し、近年も谷の中より膳椀の類を取り出す事あり、皆狐狸の所為なりと聞く。其道具の中に猩々の頭といふものあり、頭の所に皮を剥ぎて毛の長サ二尺余り其色紅の如し、又其家に八百比丘尼の縫ひたる幕あり。  〉 
『舞鶴の民話3』に、

 〈 猩々の頭 (新舞鶴)  〉 

 〈   こんもりと茂った小山を浮島といい、嶋満神社が頂上にある。むかしは海のなかに浮かんでいたのであろう。浅いところがあり、浜から歩いていけたらしい。古老の話によると、 浜村は米を中心とした農村で、海岸には葦が一面に生え、舟をよせる場所は寺川河口付近にかぎられていた。江戸時代中期(一七四六)の郡中局究付覚によると、農家戸数八十三戸で与保呂川沿いにたてられていた。与保呂川は森より流れ、朝日通りに沿って寺川の方に流れていた。幕末になると、田辺藩内から、二三男の百姓たちが集まり、朝日開発が盛んになされた。古くは枯木ヶ浦ともいい龍宮伝説の海でもあった。そこから浜村の磯の島に祭りの前夜住きて例年の通りの道具を借用していた。そして祭りの翌朝迄にその用いる所の道具一切を借りて、これを用いて元の如く揃えてその島に返すことは毎年の例であった。ところが、ある年道具が雨に濡れてしまったので、これを干すために一日延びてしまった。
 どうしたわけか、道具を竜宮より取りにこず、この村に伝わるという、今日深く蔵して、祭礼には新たに道具をつくり、その品は用いず、このような話は山陰ではよくあることであると「丹後(ママ)府志」に書かれてあると、その道具の中に、猩々の頭というものあり、はぎて毛の長さ二尺あまり、その色紅の如しと、これ嶋満神社におさめたというが現在見つからず。又この社に八百比丘尼の縫いたる幕もあるというが見あたらぬ。丹後府志というのは宮津藩の小林玄章によって宝暦十一年に書きはじめられ、十三年には宮津府志として書きあげられ、のち江戸名所図会にならって、丹後全土に記録を広げたもので、父子孫三代にわたって書きつづり、天保十二年に丹後府志として完成したという。この話の真偽はともかく、今でも嶋満神社の夏祭りは盛んで、東高の浮島分校のグラウンドには店が並び、沢山の人が祭りにやってくる。浮島の古老はこの宮のことを誇らしげに話をする。
  〉 
いろいろな伝説がくっついているが、猩々というのはオランウータンだという。龍宮と猿が関係あるのかどうか、乙姫様や龍宮の龍の不治の病を治せるのは猿の生き肝だという話が沖縄にあるという。「沖縄民話」
 コットイ崎は惜しいことにもう失われてしまったが、これも龍宮も関係がありそうに私には思われるのである。コットイとは牡牛のことで、『万葉集』に歌われる古い言葉でである。雄略紀にも磯特牛という人が出てくるがシコトヒと読んでいる。舞鶴あたりでは今もコッテ牛とかコッテイ牛と呼んでいる。牛は龍神の遣いだと言われる。本来は龍神そのものが牛だったと思われる、ギリシャ神話の海神ポセイドンは牛だとも言われる。
「カミに供える牛」 「水神の話」
私が想像するのはこれらの地名や伝説は龍神に猿や牡牛を犠牲にして捧げ、長寿を願った神事がかつて行われたのではないかということである。コットイ崎で牡牛を屠ったのではなかろうか。
備前の設楽(=新羅浦)について以前にどこかですでに書いでいるが、ここは岡山県邑久郡牛窓町に含まれて、牛窓設楽という。『備前国風土記逸文』(東洋文庫・吉野裕)に、

 〈 備前国
牛窓
神功皇后の舟が備前の海上を通った時、大きな牛があって、出てきて舟を覆えそうとした。すると住吉の明神が老翁の姿となって出て、その牛の角を持って投げ倒した。それ故にそこの処を名づけて牛転(うしまろび)といった。いま牛窓(うしまど)というのは訛ったのである。(『本朝神社考』六)  〉 
ウシマロビといったのである。そしてこれは牛を殺した場所かも知れないと谷川健一氏は書いている(『続 日本の地名』)

 〈 …この伝承の興味ある点は、海から牛が出てきたということである。ギリシャ神話では、牛は海神ポセイドンと深く結びついているが、宮古島では牛は竜宮の使者と考えられ、その牛が暴れると海に風波が立つと信じられていた。
では、牛窓の前の牛転という地名は何を意味しているのだろうか。沖縄では豚の頭を海中に投じて竜宮の神に捧げる行事があるが、牛窓の伝承は、海神である住吉明神に牛を屠って献じた儀礼とも解せられる。
また、雨乞いのときに牛の首を切って神に供える儀礼は各地に見られた。たとえば、和歌山県の西牟婁郡白浜町庄川に牛屋谷と呼ばれるところがあり、そこの滝に牛の首を供えて雨乞いの祈りをするという(中山太郎『日本民俗学辞典』)。
本間雅彦によると、牛転(ウシコロバシ、ウシコロビ)という地名は殺牛場を意味するという(『牛のきた道』)。牛転(ウシマロビ)もあるいは殺牛場を意味したのかも知れない。殺牛儀礼は古代に大陸から伝わった。してみると、朝鮮からの渡来者とゆかりの深い牛窓にそれがあったとしてもふしぎではない。  〉 
ここ加佐郡志楽郷にコットイ崎があるのは、あるいはそうしたことなのかも知れない。
『ふるさと泉源寺1』(平18)は、

 〈 (犢崎) 小山のある尾崎
 ここは昭和十年代後半から行われた愛宕地区の区画整理事業の埋立に用いる土をとるため先端が取りくづされた。
コットイとは雄の牛のことであるがこの取りくづした所と東側のつき出た所を牛の角としてその上の稜線をみると実に牡牛の頭によく似ていると私はいつも思うのである。古人はここからコットイ崎と呼んだと考える。  〉 

 『古語林』によれば、「特負・特牛」「特負牛」という言葉がある、ことひ・ことひうし、と読む。特にいっぱい荷を負える、の意の「殊負ひ」の変化した語か、としている。屯倉の枕詞でもある。重い荷物を背中に一杯背負って道をゆっくりと進んでいく姿に牡牛を特徴づけているのであろうか。牡人間もそうでなければならないのかも知れないが、このごろは何も背負わない空っぽの背中をした男が多いように思われる。コッテ牛が笑っているかも知れない、「この半人前のボッチャマが」と。
しっかりと荷が負える一人前の男に成長させるには何が必要なのであろう。
しかし誰しもその背には逃れることができない見えない荷を負っている。死神である。
そのうえ日本の若い世代はもう一つ超大きな荷が背負わされる。一千兆円の財政赤字である。ひとり頭一千万円の借金という貧乏神である。四人家族なら四千万円にもなる。これはもう正直無茶苦茶である。こんな無茶苦茶政治を許してきた世代としては誠にすまない気持ちがする。
それでもこの若い世代はそんなとんでもない貧乏神を背負わせてくれた政府与党を支持しているようだから、今後もますます貧乏神は大きく重くなることだろう。ボケボケしてると五千万や八千万にはすぐになろう。しっかりしろよ、これからはもうお前さんたち自身のツケでもあるのだから。誰かが支払ってはくれたりはしない、いつかは精算されねばならなくなる。
特というのは牡牛の意味である。特牛というのは一頭のいけにえの牛、特羊は一頭のいけにえの羊のことだそうである。角川日本地名大辞典の特崎の小字名にルビがふってあって「とつこいざき」となっているが、間違いであろう。

この辺りにも何か軍事基地があったのだろうか。軍法会議の建物があったとか書かれている。防空壕の立派なものもある。
『舞鶴史話』(昭和29)は、

 〈 舞鶴の遊廓
舞鶴には西に朝代遊廓がありましたが、この花街ができたのは豊岡県時代の明治十三、三年頃で、舞鶴の堀上に住んでいた通称コントラ事近藤寅太郎という人が極力奔走して創始したということです。又東には龍宮新地があり、余部には加津良新地がありましたが、これらはいずれも新市街が海軍街としてデビューしてから現出したものでありました。  〉 
藩政時代にはなかったのであるが、近代になってからできたものである、立派な文明開化であった。さらに海軍さんがバックで要求したのである。国内においてすらこんなことであるから、植民地や敵国内においてはさぞや立派な軍人さんであったことであろうと想像できる。己に勝てないようでは敵には勝てまい、さぞ強い軍人どもであったろうとも想像できる。
現在もこれらの建物は残っている。すでに表は改築されていてわかりにくくはなっているが、その面影は残している。もう耐用年数はすぎていようかと思う、これらを文化財として保存してはいかがか。しっかりと歴史と向き合う中でのみ未来はつくられる。

志楽郷の一番上へ

片目の神を祀る御霊神社(舞鶴市泉源寺)

府立東舞鶴高校の隣に御霊神社が鎮座している。このあたりを大将軍という。古墳もいくつかある。
『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)に所収の「郷土教育資料」(志楽尋常高等小学校)に、御霊神社(舞鶴市泉源寺)

 〈 御霊神社  村社  氏子戸数 二十二戸
(祭神)吉備大臣外七神
(由緒)近郷の里俗、鎌倉権五郎の宮と称し之を尊崇し眼病に罹者平癒を当社に迄ひ祈受く、其恩頼者報賽と称し赤色の紙を神前に捧ぐ故に神験御暴なり詣ずる人多し然ると雖も村民の伝説は之無く考ふるに近傍の字大館と云ふ又社地を距ること一町余にして石塚あり号るに大将軍と言傍耕地の字に現存す。これに因って之を視れば往昔高貴の霊神を斎しならんと推考するのみ確たること不詳なり。
境内社
新田神社(新田義貞)

御霊神社にまつわる伝説

 昔、岩見重太郎という武士が親の仇を尋ねて諸国行脚の途中、倉梯村の池田屋という酒屋で休んだ時、たまたま志楽村泉源寺のさる女房が酒を買いに来た。そして歎いて言うのには「御霊神社に住むヒヒ猿のため、かわいい娘を人身御供に出さなければなりません。こんな悲しいことがまたとありましょうか」と。
 重太郎はこれを聞いて、「私が娘御を助けて進ぜよう」と引受け、ついにこの大猿を退治、その後、天の橋立に赴いて親の仇を討ったという。
  〉 
同書所収の「神社旧辞録」案内板

 〈 御霊神社  祭神左の八神  同市字泉源寺
  祭神 草良親王 伊予親王 吉備大臣 藤原吉子 文屋宮日麿 橘逸勢 菅原道真 藤原広嗣
 御霊神社とは非業の裡に怨念を懐いて世を去った魂魄を慰め現世に祟りなきよう神に祀った社と謂はれる。福智山の明智光秀の祀った御霊神社は有名である。当社は京都の上御霊神社の八所御霊神と同じなので、この社を勧請したかと察せられる。なをこの社はその昔近傍に住む大蛇を封し給ひ威徳ありとも伝える。
  〉 

『ふるさとのやしろ』は、

 〈 東舞鶴高校正門の北に小さな森がある。御霊神社はこの森の中にまつられている。「京都府地誌」の泉源寺村の項に「村ノ東ニアリ、祭神詳カナラズ、里俗に云フ鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ祀ルト」と書きながら「然レドモ考フベカラズ」と編者自身は否定している。同社の際祀を司る森本太郎夫宮司は「古いノボリには”八所御霊”と書かれ、京都の上・下の御霊神社から歓請したものに違いありません」という。
 御霊とは本来”みたま”と同義で、実在の人の霊魂のことだが、平安初期の政情不安から、無罪の罪で死んだ人の怨霊のたたりを恐れ、災厄除けにその霊をまつるよになって、意味が変って来た。
 京都に遷都した初代天皇、桓武天皇の弟で、次の天皇に予定されながら、無実の罪をかぶせられ、断食して亡くなられた草良親王(崇道天皇)らの霊をまつる御霊会が営まれたが、後に上・下の御霊神社に吉備大臣・草良親王・伊予親王・藤原夫人・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田丸・火雷天神の八柱をまつるようになった。武家時代になると語呂合せから「五郎」のついた荒武者も祭神とされる風習が生れ「鎌倉権五郎」もその一人という。このことから「泉源寺の御霊神社」の祭神が、岡安の池の大蛇を弓で退治し、目に突きささった矢を、頭に踏まえて引き抜いた」という伝説が生れ、このお宮は「眼病に霊験がある」とされている。また眼病の治癒を祈願する人は、眼に赤い紙を当て、お参りしたあとは「鳥居のあたりで振りかえったりしてはいけない」との言い伝えがある。なお同社の東隣に東高のテニスコートをつくるため整地したさい、古墳が発見され、鉄剣が出土しており、このあたりは何か古い歴史を秘めているようだ。
  〉 
片目の武士(鎌倉権五郎景政)がなぜ御霊として祀られるのか。全国の御霊(五霊)神社はたいてい彼を祀る。ゴローとゴリョーが混同したのか。
元々は製鉄の始祖神である天目一箇神を祀る金属技術者の社であったと思われる。大蛇退治の話があるからそう推測できる。『西丹波秘境の旅』は、鎌倉権五郎について、

 〈 生没年不詳。平安時代後期の武将。十六歳のとき源義家に属し、後三年の役に従軍して剛勇をいたわれた。この合戦のとき、清原武衡の部下に右眼を射られ、その矢は兜に達するほどで、遂に失明して片目になった。このことから転じて片目になった景政は、後人から天目一箇神と並ぶ製鉄の神として仰がれるようになった、
  〉 
としている。彼を祀る社はこのあたりでは有徳神社と呼ばれることが多いようであるが、たとえば『京都府の地名』の福知山市宇田和の項に、

 〈 宮垣村との間の富国(ふこく)山は銀・銅を産出した。双方の村から採掘し宮垣銀(銅)山・田和銀(銅)山とよんだ。幕末、福知山藩の家老飯田節が藩の財政窮乏を救うため田和から銀を採掘し、銀貨を鋳造したと伝える。
 氏神は宇徳(うとく)大明神(現有徳神社)で、「丹波志」に「祭礼湯立斗」とある。祭神は鎌倉権五郎景政およびその母の霊を祀るといい(天田郡志資料)文政元年(一四四四)の草創と伝える。当地方には諸所に鉱山跡があり、採鉱冶金をつかさどる天目一箇命にちなんで、同じく隻眼の鎌倉権五郎を祀ったものであろう。同社は眼病治癒の神として参詣者も多かったが、今ではそのならわしは絶えた。
  〉 
舞鶴市の岸谷若宮神社。菅坂峠をこえる途中の綾部市五津合町睦志の若宮神社にも彼の伝説が伝わるという。







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