丹後の伝説:2集雨乞鐘、青葉権現、十二月栗神社、いつもり長者、他 このページの索引 青葉権現(綾部市古和木) 雨乞鐘(福井県大飯郡高浜町中寄) いつもり長者(久美浜町箱石) さば鳥と鴎(伊根町蒲入) しはすくり神社(舞鶴市長浜) 蛇島と烏島(舞鶴市佐波賀) 大将軍社(弥栄町野間大谷) 高倉神社(舞鶴市長浜) 三浜峠の千匹狼(舞鶴市三浜) 矢取神社(天田郡夜久野町千原上) 両墓制の分布状態(舞鶴市) |
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『高浜町誌』の「伝説と民話」に、 雨乞鐘(中寄)
むかしのこと、大嵐があった。そのとき、高浜の海辺に一つの鐘が打ち上げられていた。村人たちは、この鐘を拾い上げてお宮へ納めた。 昔、朝鮮に姉妹の鐘があった。どうしたわけでその鐘が、はるばる日本のしかも高浜の浜近く漂着したのだろう。 その姉妹の鐘のうち、妹鐘は海嵐に乗って、今の鐘寄の浜へ打ち上げられたのだという。今も佐伎治神社の宝庫に保存されている鐘がそれである。 伝えによると、この鐘を撞くと今でも、鏡寄の沖合に沈んでいる姉鐘をしたい「アネゴーン」と悲しい響きで鳴るそうである。そこで何とかしてこの姉鐘を引き上げようと、何度も試みたが、そのつど一天にわかにかき曇りものすごい大雨となり、大空が抜けおちたのではないかと思うばかり、しかもそのうえ群り寄って来た烏賊の大群は、海上一面墨を流して水中真っくら闇となり、どうしても引き上げることが出来なかったという。 そういうことから久しく、旱魃が打ち続き、どうにもならなくなってきた時は、この妹鐘を海辺に運び出し、七日間海中につけると、必ず雨を呼ぶといわれている。そんなことからこの鐘を「雨乞鐘」と名付けられたのである。 近年では、昭和一四年夏、四○日間の大旱魃のあった時氏子中は、この「雨乞鐘」を、故事にならって七月一○日午後二時鐘寄海岸に沈めようとした。ところが見る見る青葉山麓から紫黒のものすごい雲がわき上がり、またたく間に大粒の雨となり、その夜も雷雨がはげしく住民は恐れおののいて神徳の深いのに驚き入ったということである。 (注)延元元年(一三三六)丙子八月十一日荒浪のため此鐘の寄りたる場所は上ユリ村下ユリ村の境なり鐘を曳揚げたる時は村中惣掛りなりし是を両村の名付神・ユリの御前へ上げたる処鐘衝き堂の釣り木折れ落ちたるに付湯を上げ候処妾は女の事故佐一彦(佐伎治社)へあげ呉れよとの神口あり永和元年(一三七五)乙卯三月三日住一彦へ納む この鐘は、昭和三一年三月一二日福井県指定文化財となり、若狭地方最古の和鐘といわれている。 鐘の丈、九三センチ、鉢回り、一六○センチ、そのほか、胴回りの文様などに和鐘としては珍しい特徴がある。 月いづこ 鐘は沈める 海の底 芭蕉 於敦賀吟 同誌の「文化財」に、 和鐘 一口 佐伎治神社
総高九三p 口径五一p 鎌倉時代 若狭最古の梵鐘で、同社神庫につるされている。銘文はないが、上帯にある飛雲文及び竜頭の形状から鎌倉時代の初期に鋳造されたものと考えられる。鐘身鋳型の外型が上下二段からなり、乳の形状が短円柱形である点から、平安時代から鎌倉時代にかけての頃に造られたものであろう。乳は四段四列、上帯に飛雲文が陽鋳され、池の間(二八・○センチ×六・五センチ) に舟型光背を背負う不動明王らしい像容が各四面に陽鋳されている。 社伝によれば、延元元年(一三三六)八月一一日中津海の海岸に漂着し、永和元年(一三七五)に神告によって佐伎治神社に奉納されたものであるという。通称雨乞鐘と呼ばれている。伝説によると、この鐘のほかに今一つの鐘が海底にあると伝えられ、それが姉鐘で、打ち上げられたのは妹鐘だという。残っている姉鐘を引き揚げようとこの鐘を海に入れると、海中はたちまち暗黒に濁り、今猶引き揚げられていない。それで、旱魃の際、この鐘を海中に入れ雨乞いをしたのだと伝えている。 『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、 鐘寄と中津海
延元元年(一三三六)八月十一日のことである。その日は朝から、高浜一帯に激しい風波が吹き荒れていた。その風波は、夕方になってもなかなかおさまる気配がなかったので、村人たちは心配になり、浜に出て様子をうかがっていた。 その時である。ひとつの大きなつり鐘が上 「むこうの方に、何かつり鐘のようなものが打ち上げられたぞ」 と言って駆け寄っていった。 「ほう、これは立派なつり鐘じゃ」 「いったい、どこから流れてきたのだろうか」 村人たちは、このつり鐘をどうしたものかと迷っていたが、結局みんなで引き上げ、蝓蜊神社に納めることにした。 後日そのつり鐘は、村人たちによって蝓蜊神社まで運ばれた。そしていよいよ、鐘楼につるそうとした時のことである。ポッキンという音とともに釣り木があっけなく折れてしまったのだった。その釣り木がなくては、どうしてもつり鐘をつるすことはできない。困った村人たちは、とうとう神にお伺いをたてた。 すると、 「この鐘は女の鐘なのでき、男の神の とのお告げがあった。 そうして永和元年(一三七五)三月三日、その鐘は佐伎治神社に無事納められたという。 また、もうひとつ別の言い伝えがある。やはり同じ延元元年の八月十一日、高浜の海が荒れ狂い、蝓蜊村の人たちは漁に出られず困り果てていた。そこで神にお伺いをたてると、 「蝓蜊神社の名を、村の名にしているからである」 とのお告げがあった。 さっそく、村人たちは役場に願い出た。下蝓蜊村は鐘を引き上げたところなので 『大飯郡誌』(昭6)に、 雨乞鐘の傳説(一)千餘年の昔、暴風雨の翌朝、海波今の鐘寄区の海辺へ一鐘を打寄す、住民引揚げて其地の祠に納む、故に其地を鐘寄といふ。其鐘即ち現社蔵の物なりと。 (二)昔時朝鮮に姉妹鐘有り、如何なる故ありてか、其一鐘此地に漂着す、之れ社蔵の物なるが、他の一鐘妹鐘を恋ひて亦来りしも、着陸するを得ず、尚海底に在り、故に社鐘を撞けばアネゴーンと悲鳴すと、之を曳揚げむとて近づけば、海水忽ち黒暗々に濁るを常とす。 或云之は烏賊の群棲して人舟の影を見れば例の墨汁を吐くくなりと。(按に鐘の伝来不明なるも、韓鐘説あるは朝鮮役の鹵獲物乎、領主従軍せり、此地の人何ぞ渡鮮せざりしを保せんや、此種の物各地に多く存せり) (三)姉鐘海底に在り、故に旱魃の時には、社鐘を鳥居浜に運び水中に浸せば 或云七日間海中に沈めて喧騒雨を祈るなりと 姉鐘其妹に会晤し得ると悦び雨を降らすと。 (四)昔時事代沖に三沈鐘を発見す、村人其二を曳揚げ、一を社に蔵め、一を馬居寺 和田村 に奇す、他の一鏑は 径約一尺 如何にするも揚げ得ず、今尚晴朗の日には之を認むるを得るも、近づけば海水黒変所在を失ふと、又数十年前に之に綱を掛けしも、一挙に断れ了りしと。 (五)牧山僧坊の物を、彼等廃頽の際海に沈めしなりと。 社蔵の大般若経の伝説と合考すれば、夫或は然らむかと首肯さる。 (六)鐘寄の傳説にては延元元年打寄せしを神告に由り永和元年此社に納むと 彼伝説参照 鐘寄と中津海の区名
鐘寄と中津海は昔時連続し、上 按にヨリとユリに何か関係あらむ、と『大飯郡誌』は鋭く突いている。ユリはイコール、ヨリであり、ユリ地名が金属と関係するらしいことがわかる。現在の地図でみれば中寄となっている。鐘寄と中津海を一緒にしてそう呼ぶのかも知れない。 たぶん 「志楽つづき」
『何鹿郡誌』(大正15)に、 強木権現
奥上林村故屋岡古和木区と、北桑田郡山森との堺なる 伝へいふ。淳和天皇の天長元年天下大いに旱し、民大に困みし時守敏僧都奏して、雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を許して雨を祈らしめ給ふに七日に至らずして降雨あり。されど京都を潤したるのみにて洛外に及ばず。朝廷よって、命を弘法大師に下し、神泉苑に於て祈誓せしめ給ひしに、其の効更に現れず。大師惟へらく、これ守敏僧都の呪力を以て、諸龍を瓶中に封ぜしによるなるべしと。仍て法を変じて、再び祈りしに大雨沛然として佳雨あるに至れり。此の時其の一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。 又一説には或る僧、この山麓なる北桑田郡鶴岡村字山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て山森の土民某の女之を渓川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀れり、即ち青葉権現なりと。是れより山森川以外に住する女は、登山すれば祟をうくとて敢て之を犯さず。若し祈雨の為に登山せんとする女子は、先ず山森村に一宿して一旦土民の如くなり、然る後登山すれば後難なしといふ。 又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び、祠辺に積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を蒙りて地方洪水の厄に遇ふべしと伝へたり。 現今、若狭遠敷郡、桑田郡、本郡より参拝する者多く、船井郡は勿論遠く播州方面よりも参拝祈祷す。当社の例祭は山麓の地方民によりて行はる。其の賽物特異なり。 『何鹿の伝承』(加藤宗一・昭29)に、 頭巾山と龍神
奥上林村故屋岡小和木区と、北桑田郡山森との山境に、何鹿の最高峯「頭巾山」というのがあります。山の頂には小さい祠があって、雨の神、青葉権現とも、強木権現ともいっています。「延喜式内社の許波伎神社なるべし」と『何鹿郡誌』には書いてあるが、かかる山頂に、しかも雨の神としての神社をお祭りしてあることは、興味ふかいものがあります。 霊泉や雨乞の傳説は、全国的に弘法大師の功徳と結びつけたものが、非常に多いのでありますが、頭巾山にもつぎの傳説がのこっています。 平安朝の天長元年(八二七年)の夏は非常な旱天がつゞき、天下の民は大いに困窮いたしました。朝庭は僧都守敏の乞をいれて、雨乞の祈祷を許しました。すると、七日にいたらずして降雨がありましたが、しかし、それは京都地方だけにしか降らなかったので、地方のものは相変らず大いになげき悲しみました。 朝庭では、こんど、弘法大師に雨乞を命じました。弘法大師は、有名な神泉苑で(いま、東寺に属し、平安京造営のとき、つくった大内裏の禁苑であって、いま、当時のものが、のこっているのは、ここばかりである。京都市上京お池通大宮西入ル)大祈祷をしましたが、なかなか効果がありません。大師は、これは、ひょっとすると、わが法敵である守敏が、呪力で諸龍をしばって瓶中に、封じこめているから、龍神がでられないのだ。と、思って、今度は法をかえ、天竺無念池の善女龍に請じて、祈りはじめますと、こんどは、瓶中から、猛然と諸龍がとび出し、雷声すさまじく、雨をふらしつゝ四方にとびました。そのうちの一つが、西北の空にとび、丹波の頭巾山に姿をかくしたと伝られています。 また、一説に、あるみすぼらしいお坊さんが、麓の北桑田鶴岡村字山森から、頭巾山にのぼるうとして、この村を通りかかりました。山森の民家のひとりの女が、そのお坊さんの白衣が汚れているので、洗って進めると、お坊さんは大変喜こんで山に登りましたが、そのまま、帰って参りません。山森の人々は、雨がなくて困っていたが、それから、雨がほしいようになると、頭巾山に雲がかかって、いいあんばいに雨が降ってくるので、このお坊さんこそ、雨の神の化身とあがめ、お祀りしました。青葉権現というのが、それだともいい傳えられています。それから、山森以外の女が登山しようとすれば、祟りがあるというので、もし、乞雨祈祷のため登山しようとするときは、山森村に一宿して、一たん山森の女となり、登山すると、後難がなく、霊験もあらたかであった。と、傳えられています。 頭巾山には、かつて若狭の遠敷郡、桑田郡、船井、わが何鹿はもちろん、遠く播州方面からもお参りしたといわれますが、いまは、すっかり廃れています。 (引用文献 「何鹿教育」 第三八号 昭和四年六月) 『北桑田郡誌』に、 頭巾山の青葉権現
山森頭巾山頂には一小祠ありて雨神なる青葉権現をまつる。傳へ曰ふ。淳和天皇の天長元年天下大に旱し民大に困みし時、守敏僧都奏して雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を聴して雨を祈らしめ給ふに、七日に至らずして降雨あり。されど京師を潤したるのみにて洛外に及ばず、朝廷よりて命を弘法大師に下し、神泉苑に於て祈誓せしめたまひしに、其の効更に見はれず、大師惟へらくこれ守敏傳都の呪力を以て諸龍を瓶中に封ぜしに由るなるべしと、法を変じて復び祈る所ありしに、大雨沛然として佳雨あるに至れり。この時その一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。又一説には或る僧この山麓なる山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て、山森の士民某の女之を溪川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀りしもの即ち青葉権現なりと。是より山森川流域以外に住する女は登山すれば祟を受くとて敢て之を犯さず、若し祈雨の爲に登山せんとする女子は、先づ山森に一宿して一旦土民の伽くになり、然る後登山すれば後難なかりしといふ。又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び祠辺に之を積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を祟りて地方は洪水の厄に達ふべしと傳へたり。現今なほ船井郡何鹿郡並に遠く播州方面よりも参拝祈祷す。祠の鍵今は何鹿郡上林村某氏の手に在り、同地方民当社の例祭を行ふ。 「志楽つづき」 『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも) 頭巾山
北桑田郡美山町山森 美山町鶴ヶ岡、堀越峠のテレビ塔近くから西北方を望むとはるかな山なみの中にひときわ高く見えるのが頭巾山。この頂上には雨ごいの神さまとして広く知られている青葉権現の小さなほこらがあり、鶴ヶ岡校児童たちのよい遠足の場となっている。 昔、身なりのみすぼらしい、どこからきたとも知れぬ一人のお坊さんがふもとの山森地区からこの頭巾山に登ろうとした。ところが、この坊さんの着ている白い法衣が、ひどく汚れているのを見かねた地元の娘さんが、親切にこの法衣を山森川の谷水できれいに洗たくしてさしあげた。 坊さんは大変喜んで山に登ったが、そのままいつになっても下山しなかった。山森の人たちからあの坊さんは何かの化身であったに違いない とのうわさが広がり、これをおまつりしたのがこの青葉権現という。このことがあってからは、この山森川の流域以外の女性が、この山に登ろうとすると、たちまち何かのたたりをうけるとされ、雨ごいの女たちは、一たんこの山森の地で一泊して土地の人になりすまし、登山すると後難がなかったという。 また、この権現に参る人たちはふもとから小さい石ころをいくつか拾って山頂まで持ち運び、お堂の周りに積みおくならわしがある。これとは逆に、山上の石ころをたとえ一個でも持ち帰ると、たちまち神罰をうけてその土地は洪水に遭ったといい、安政年間、この禁をおかしたものがあって村は大洪水で大弱り、庄屋にわび状を入れてあやまった。このわび状がいまも鶴ヶ岡のある旧家に残っているともいう。 このごろでは、干ばつ、日照りが続くと、近くの船井郡や綾部市のほか遠く大阪や兵庫あたりの農家の人たちが雨ごい祈願のため権現さまに参る。 (カット=織部真奈美さん=美山町鶴ヶ岡校) 〔しるべ〕 頭巾山は山森地区の国鉄バス京鶴線の鶴ヶ岡終点から約四キロ、ここから約一キロ坂道を登ると遠くに日本海を望む川頂に達する。標高八百七十一メート化 美山町で七番目に高い山である。 『丹波和知の昔話』(昭和46・稲田浩二編)に、 猿神退治
(大迫 堀 まつ) むかしむかしなあ、千年ほど昔の話やけどなあ、おっかん林のこわぎちゅうとこになあ、権現さんという山があってなあ、ときん山っていう山があってなあ、そこは高い高い山なんやな。その山へ登ったらなあ、加賀の白山が見えるちゅう、高い高い山なんやな。そこに権現さんが祭ってあって、その下に七十軒ほどの家が、百姓の家が山の中やけどあってなあ、駅へは六里も行かんなんちゅう遠い不便なとこなんや。 千年ほど昔のことやけどなあ、一年に一遍ずつ屋根に白い矢が刺さるんやて、そのどこの娘さんのある家に。そこの家に、矢が屋根に刺さったらそこの家の娘さんは、その権現さんへ、桐の木の白木の箱へ載せて、入れて、ほしてみんなが荷て行かなんだら、村中恐しい祟りがあるちゅう、言い伝えになっとったんやそうな。 ほんで、そこへ、知らん間に、夜さりの間に白羽の矢が立つとるんやって。ほんで柿いさかいに娘さんを早よう片付けることにしやはるんのやけど、なかなか、そう早よう片付けるいうたかて、もう十六ぐらいになったら昔のこっちゃで、早い人はもう十三ぐらいから、嫁はんにやったやけどなあ、ほんでも、今と違うて、やっとやっと、子を産む、五人も六人も子を産む、時代やさかいになあ、ほんでそねえしとったら、ほしたら昔、旅の人が強い強い旅の人が通りかかって、「一夜さ泊めてくれえ」て言わはってそしてまあ来なはったもんやさかい、ほんで、 「ほんなら、いつもやったら泊めてあげるけえど、今日はうちに実は取り込んどることがあるさかいに」。お母さんもお父さんも目泣きはらしてなあ、してはんなり、どえらい強い侍さんやったんやってなあ、それが。平家の落武者やったらいう話やったけどなあ、そかその人が、 「それは、どういうこっちゃ知らんけど、一遍話してみないなあ」いうて言うたら、 「ほんなら話すさかい、聞いとくれえなあ」言うて、ほしてまあ、 「実はうちの屋根に昨夜、白い矢が刺さって、人身御供に連れて行かんならんで。ほんで人身御供に連れて行ったら、もう、生けって戻る気遣いは無いんやはかいに、こわい神さんが居やはって、ほんで、村中の人に送ってもろうて、そして、そこへ荷て上がって、高い、加賀の白山が見えるぐらいのとこやで、ずいぶん高い山や、そこは。ほんで、今日は行かんならんさかいちゅうて、白装束してなあ娘さんを、白木の長持へ入れて、担いで上がってほしてそこまで持って行ったら、そこに置いといて、たあ−っと後も見んと戻って来やはるのやてえ。ほんで悲しい」ちゅうて泣いて、 「ほんなやったらしやないで、今夜はわしが代りに、身代りに行ってあげるさかい」ちゅうて、娘さんの代りにその長持の中へその侍さんがはいってなあ、ほして荷て上がってもろうて、行かはったとこが、夜なかになって、丑三つ時ちゅう時になったらなあ、ごつい風が吹いて、大きな音がして、ほして侍さんは刀あ抜いて長持の中に坐ってはったやけど、ほいたら、ミシリミシリいうて、そこへはいって来て、ほして、 「しんぺいとうざに知らせまいぞや」って言ったちゅんやな、一方の人が。ほしたもう一方の人が 、 「ふうん、しんぺいとうざには、知らすまいぞや。しんぺいとうざに知らせまいぞや。しんぺいとうざに知らせまいぞや」って、いうて、言うとる声がはっきり聞えたちゅう、長持の中へな。しんぺいとうざちゅう人は、どえらい強い人らしいけど、自分はしんぺいとうざではないんやけど、しんぺいとうざに知られたら命が無いと、いって言うて、そういうふうに言うて話して、ほいて、 「毎年毎年の人身御供御馳走になろうぞ」って言うて、長持の蓋をあけると同時に侍さんがとんで出て、ほいてしたら、そら、からだ中毛むくじゃらで、まっ白な毛むくじゃらなもんが、三匹、人とも畜生ともなんとも訳の分からんもんが二つ、上から襲いかかるなり、侍さん刀持つとるもんやで、それと、ちょうちょうはっしと切り合いして、ほして、しまいには、なんとも訳の分からん大きな化け物が、二つが逃げて行ったなり、侍さんは下だって戻ってきて、村へ逃げて戻ってきたって。そしたら村の人が、びっくりしてなあ、その娘はおるなり、侍さんはそんなことやって、みんなが知ったわけや。そういう神通力のあるもんやったら、もう化けてはいったことを知っとるかも知れんさかいに、ほんで内緒でなあ、家内の人だけでそういうふうにして、わしに委せえちゅう言わはるもんやで、その侍さんがはいって行ったわけやったんやなあ。ほしてまあしやないで、その人が、 「もう、しんぺいとうざちゅう人を捜すことより、この村を救う道は無いんやはかいに、わしがこれから、しんぺいとうざちゅう人を捜すさかいに、来年の人身御供までに、しんぺいとうざちゅう人をわしが捜すさかい」ちゅうてなあ、その侍さんが、その村を毎日毎日、捜して、隣の村まで行くやけど、しんぺいとうざちゅう人がおってないんやってなあ。ほんでもう、尋ねあぐねて宮はんの石段に腰かけて、ほして煙草のんで、精も根も尽きはてて、もう日にちも迫ってくるなり、弱っとってやったんやって。ほしたら、十ぐらいの男の子が、大きな犬う連れてなあ、 「しんぺいとうざ来い来い来い、しんぺいとうざ来い来い来い」いうて言うと、その犬が尾を振って来るのやって。へかその人喜んでなあ、 「これはしんぺいとうざちゅう犬か」ちゅうたら、 「しんぺいとうざちゅう、これは犬や。おじさん、この犬はなあ、強い強い、そらあ何者にも負けへん強い犬やで」って、その子が言うたちゅうて。 「ああ、うれしい。ほんならその犬分けてくれへんか」言うたら、 「よう分けん」言うんやって。 「これは、わしが生まれる前から、うちにおる犬やさかい、ほんなもん売ったりなにはようせん」 「ほんな−晩だけでよいで貸してくれえ」言うてなあ、−その人びっくりしてなあ.人やと思うとったもんやで、−ほいたらこれこそ天の助けや思うて喜んで、そかその家へ戻って来て そこに犬う飼うて待機して待つとったとこが、何日ぶりか知らんけえどまた次の家へ白羽の矢が立ったちゅう。へか、 「今度はもう負けへんぞ」ちゅうて、ほして、その犬は今度長持い入れて、自分は長持の中へはいらんとな、あ、隠れて、またそこへ同じようにして、上がって行ったんて。ほしたら、また、同じこと言うてなあ、 「しんぺいとうざに知らせまいそや。しんぺいとうざには、知らせまいぞや。しんぺいとうざに知らしたら、こちゃ命が無いぞ」ちゅうてなあ、はっきりまた聞えるんやって。ほいて、メリメリメリメリ、ひどい嵐の中を、メリメリメリメリ、長持の蓋あ開けたら、開けた拍子に、しんぺいとうざがとび出てたあ、ほいで、その犬と、その人と−その侍さんやなあ−両方で葦あやりおうて、犬が咽笛に食いついたりして、そしてようようにしとめて、人身御供いうことは、それ以来、−まあ村へ戻ってきたら、どいらい喜んでもろうてなあ、大喜びしてもろて ほいてまあ、その侍さんは去んだんかどうしたんか知らんけど、犬はほとんど瀕死の重傷でなあ、傷だらけの血だらけになったやつを負うて戻って、ほしてまあ、祭って、その村はそれで助かって、それ以来白羽の矢も立たんなり、殺したもんは、ひひり猿ちゅうもんで何百年生けったか知らんけど、もう、ものを言うようになっとった。昔話やで−猿がものを言うたちゅろこともないやろけども、ひひり猿ちゅうもんが二匹、雄と雌とやった。年を何年もくれた大きなひひり猿やったちゅう話。しまい。
『天田郡志資料』(昭11年・竹毛誠)の矢取神社に、 矢取神社
祭日・十月十三日。 氏子・五十戸。 末社・若宮神社、祭神多久理比売命 稲荷神社、三柱神社。 伝説・鳥海彌三郎、鎌倉権五郎景政と戦って腰を射られながら白鳥と化し血を流し当千原の深山に降れり依って之を祭り後此地に移す。金谷村田和有徳神社は景政を祭る。故に古来千原と田和とは結婚せず。若し背くときにはいろいろ不吉の事起ると云。此社へは腰痛の者矢を奉納すれば全治すと伝へ賽者多しと。 『福知山市史』は、 (矢取神社などについて)
金山・川口・金谷・夜久野方面に有徳神社という宮が存在する。すなわち旧上川口村字夷の有徳神社は源義家、同義綱、同義光を祭り、旧上夜久野村字板生の有徳神社は進雄(すさのおの)命を祭り、その末社に鎌倉神社と称し、鎌倉権五郎景正を祭る祠がある。また旧下夜久野村字千原に矢取神社というのがあって祭神は日本武尊となっていて、鎌倉権五郎の仇、鳥海与三郎の霊が白鳥となって同地へ飛来したといい伝えている。これは日本武尊の霊が伊勢の能褒野から白鳥となって、大和や河内に飛んで来たという記紀の伝説と類似するもので、いわゆる「白鳥伝説」の一つであろう。 一方市内宇田和の有徳神社は、鎌倉権五郎景正及びその母が祭ってあると同社に標示してある。なぜこの地方にほとんど無縁の義家や景正を祭っているのであろうか。この地方では次のような俗信もある。昔田和の神と千原の神が戦いをし、田和の神は目を射られ、その矢を抜いてやった千原の神は逆に怒られて腰を射られたというので、後世千原の神に矢を供えるようになったといい、近代でも田和の人と千原の人とは結婚することを忌むというのである。また田和の神は古来眼病治癒の神として人々が参詣し祈願したという。(現今はその習慣は絶えている) 元来田和の有徳神社は、字宮垣の一宮神社の分霊を一条天皇の正暦五年(九九四)に、田和が宮垣から分離した時に移し祭ったものという。そして一宮神社は、貞観三年(八六二 に出雲大社の祭神大己貴神の分霊を祭っているのである。それがどうして鎌倉権五郎をまつるといい、また「目の神」となっていったものであろう。 古語拾遺によれば、忌部氏の祖に天一目命というのがある。天一目命は日本書紀の一書に曰くというところでは、天目一箇命とかいて作金者(カナタクミ)となっており、名のごとく採鉱・冶金をつかさどったものとなっている。この地方では古代において相当金属鉱物を産したらしく、その鉱山業に従事する部民が、この天一目命を祭ったものであろう。実際田和(宮垣)にはごく近代でも銅山が経営された。田和には鉄滓もあるし、額田(ぬかた)は泥形(にかた)に通じ冶金に関係する地名ともいわれる。丹後の浜詰にも鉄滓が出るし、中郡五箇村の藤社の末社には金屋神社があり、天一目命を祭っているという。旧上川ロ村字上小田の三吉野神社は金山彦命(鉱業神)を祭り、下夜久野の三柱神社の末社に鍛冶神社がある。こういうわけでこの天田郡西北部一帯は古代における冶金・鍛冶に関係が多いことがうかがわれよう。 もともと採鉱冶金の術は他のそれと同じく朝鮮から伝来したものらしい。最近は木炭と共に鉄鉱を焼いたが、後に石や粘土で炉を造り、踏鞴(「ふいご」のこと)でもって強い風を送ることが行われるようになった。(応神紀に韓鍛治(からかぬち) 卓素入朝のことが出ている)こうして新しい朝鮮の技術の輸入により、天目一箇命のことは忘れられ、ただ漠然と、「目一つ」ということのみが強く印象づけられて残り伝わったのであった。 ところが後三年の役に源義家に従った鎌倉権五郎平景正というものが、金沢柵を攻めた時、敵の矢が景正の眼にあたったが、景正は自らその矢を折って、別の矢で敵を射殺し、冑をぬいでたおれた。矢はまだ眼に立っていたので、戦友三浦為継が足で景正の顔を踏んで矢を抜こうとしたところ、景正は立って刀を抜き、人の顔に足をかけるとは何事ぞと為継を殺そうとした。為継はその失礼を詑びて跪いて矢を抜いたという。関東武士大中臣氏がこの地方の地頭に補せられて、この地方に来てからこの武勇伝が地方にも喧伝されたので、片眼となった権五郎と、天目一箇命が混同されて、権五郎が冶金の神に間違えられたものである。 なお一般に、金谷とか金屋とかいう地名は採鉱に関係がある場合が多いということは、香取秀真著「日本鉱業史資料」にも書かれており、また天目一箇命の子孫は主として剣を作る家柄となったもので、命やその子孫のことは播磨風土記や姓氏録にしばしば出ている。 私のカンによれば、このヤというのは何かカゴ(銅)とつながる名であって、この社は銅採る神社と見て間違いはないと思っている。矢といえばカゴ矢のことであった時代の、たぶん天目一箇神よりももう一段古い神社なのではなかろうか。 「志楽つづき」
『舞鶴の民話2』に、 しはすくり
自転車に乗って、長浜の坂を下る。今は住宅地が続き、高倉神社のところから更に東に行く。西に行けば海上保安学校となる。山すその広い道路を更にいくと、京都大学のビルがある。その先は国有地で、雁又といって戦時中は特殊潜航邸艇の基地で、海軍のつわものの夢の跡である。 現在自衛隊のへリコプター基地にしようかどうかの議論が市会でやかましく、海上自衛隊としてはどうしても基地にしたいところだ。 この京大の水産研究所のある当りは、むかし長浜といって、いくらかの家があり漁業、農業を営む人があった。そのむかしこのあたりを爾保といっていた。 ここには十二月栗の神があり、社はなかった、神と称する木を奉じていた。 古老が伝えて話してくれる所によると、むかし、稚産(ワツムス)神の植えるところの木があり、毎年十二月一日に花が生じ、二十日に実をならした。 正月元旦に其の実をとり大神に供えていた。 この神社は今から五百年あまり前の長享戌申の年、大聖院昔海写の丹後風土記に記されている。しかしながらその栗の木もいつのまにかなくなり、京大の用地となってしまった。 一説には、その神は現在の高倉神社にあったというが、どこをさがしてもそれらしきものはない。長浜の古老に聞くが、その話をいってくれる人もない。風土記にかかれているのだからあったのだろう。神のわざの不思議なことだ。
『舞鶴市史』には、 帆綱を断ち切った神様 (長浜) 高倉神社は、大昔は現在の社殿の後方の山頂に鎮座していたが、この社の前を舟が通る時は、必ず帆を下ろして進まないと、立ちどころに帆綱が断ち切れてしまったという。こうしたことがあって村人達は、神威のあらたかなことを恐れて、中世になっていまの地に遷座したと伝えられている。 『舞鶴の民話1』に、 舟の帆づな切った神様
(長浜) 長浜の高倉神社には慶長八年作の一対の狛犬があり市の指定文化財となっています。 この狛犬はこの近くの安久材で窯業にたずさわっていた人たち(備前つぼやき衆)が当時この村の氏神である高倉神社に初窯の作品を奉納したものであろうといわれ、この窯で焼かれたのを安久焼といわれ、つぼ類が多かった。しかし現存しているものは現在みつかっていない。 この高倉の宮は、むかしは現在の社殿の後方山頂に鎮座していた。海に関係している人たちには信仰かあつく、海の守り神として必ずおまいりしていた。 ある日この近海を通る船かほどよい風で帆は半月にはっていた。舞鶴湾をすべるように西北に向け走っていた。北前船の一隻だったろう。頭のはげあがった六十才の船頭は、さきほどから胸さわきがしてならない。西の空が少しくもってきている。長浜の白砂が山のみどりと調和して美しい。高倉さんにともされた神燈があかあかと海を照らしている。なまあたたかい風か吹いてきた。波がでてきて、ばしゃんばしゃんと船べりにあたる。お宮の神燈がゆれている。 「今夜はどうしたことか」 船に乗っている船員たちも胸さわきがする。船荷は浜村の素麺等で金沢まで一刻も早く運ばねばならぬ西の空は雲でまっくろになってきた、波が高く船が上へ下へとゆれだした。 「あゝ神燈が消えた」今まで消えたことのないあかり、風がきつくなった。波のうねりが大きくなる風は西から東へと方向がかわった、帆柱がきしむ、船員たちは帆綱をきつく結びなおした。ますます風かでてきた。突然「ふつん」と帆綱がきれ、帆が落下してくると共に船は左右にぐらぐらとゆれ、船員たちは左へ右へと船上を立って歩けない。船はもときた方に流される、船頭は高倉の宮に両手をあわせお祈りする。船は長浜の浜辺にうちあげられた。 夜中風か吹きまくり、雨も降った。早朝になりようやく風はおさまった。話によると、海に出た船のほとんどは難破したそうで、帆綱がおれたのは高倉の神様のおかげだ、船員たちは命びろいしたのだ。外海にでていたら、今ごろ海のもくずになっていただろう。船頭は高倉神社にまいり、お礼をいうと共に、大きなローソクの神燈をともした。 このことか人々につたわり、帆綱をきって救ってくれた神様を近在からお参りする人がふえ、おまいりする人は必ず大きなローソクをおそなえした。
『舞鶴の民話1』に、 くらがけ石
(長浜) 晴天つづきの初夏、自衛隊の旗艦が並ぶ軍港道路を汗をふきふき歩く。 昔、この湾に海軍工廠があり、日露海戦で活躍した戦艦「吾妻(あづま)」の見学に列をなした五十年の昔を思い浮べながら、しばしの間、たたずむ。 駆逐艦の専門だった海軍舞鶴工廠。はなやかな進水式。くす玉が割れ、白ハトがうれしそうに飛んでいく。子どもたちは手をたたき、日の丸を打ちふったものだ。 余部下通りを長浜へ行く。高倉神社につく。鳥居をくぐり、周囲を見回わす。あった、あった……黒ぴかりする一メートル余りの石。 昔、備後の国(中国地方)は下山守村に太郎左エ門という信心深いお百姓さんがあって、毎年かかさず安芸の宮島にお参りしていた。 年老いた彼は、ある時、これが最期になるだろうと、お参りしたあと小石を一つたもとに入れて帰り小さな祠(ほこら)を建てた。 それからというもの彼は、その石を厳島大明神とあがめて、毎日お参りを欠かさなかった。すると、不思議なことに、その石がだんだん大きくなりついに高さ一尺八寸(約六○センチ)、周囲一尺五寸(約五○センチ)ほどにもなった。 長浜のこの高倉神社の神石も村人によると、主祭神がのりうつられたものとして崇敬し、この石をまたぐことを許さず、これを犯した者には、かならず“たたり“があるといい、村人はこれを避けて、なぎさにそって回わり道をしたといい伝えられている。 この石は別名を“くらがけ石“ともいう。これは戦国時代、このあたり一帯が練武場で 高倉神社の主祭神がこの石に鞍(くら)をかけ、馬上姿となって練武を鼓舞された……ということから、この名が伝えられている。この石は、もと高倉神社の裏山近くの海岸にあったが、戦前、海軍の拡張工事のため現在地に移されたものである。 石が成長すると考えられていた伝説が書かれている、私はこんな民話ははじめてお目にかかる。何物も小さき物として誕生し、時間をかけて大きく成長していく。生物は皆そうである。石もきっとそうだろうと信じられたと想像できる。さざれ石(=小石)も巌となる。人の一生くらいでは石の成長は確認できない、もっともっと長い長い時間が必要なのだろう。 "さざれ石の巌となりて苔のむすまで"の意味が理解できる。そんな長い長い時間の間、「君が代」が続きますように。という意味である。 君が代を歌えと宣う支配者どもではあるが、その意味などはもちろん知らないであろうし、知ろうとも考えてはいないであろう。誠に愚かな連中である。意味もわからないものを歌えというのか。私は先だって小学校の入学式に参加する機会があった。さてどれくらいの人が歌うのかと興味を持って眺めていたのであるが、父兄はゼロであった。もっとも君が代に大きな歴史上の問題があり、反対だから歌おうとしていないのか、それともよく知らない、こんな場で歌う習慣もないから歌わないのか、そのあたりはわからない。 先生方はどうかというと、言わないでおこうか、うれしそうに大口あけているのがヒラメ教師だろうか、苦しそうにしているのが組合の教師だろうか。 君が代の歌詞の意味を廻って教師達のあいだでも論議されることがあると聞くが、誰一人として正解をいった者はないと、愚妻はいっていた。誰も民俗学などは勉強もしたことがないようである。イミもわからぬままに歌わせようというわけらしい。 さて、君が代のキミは全世界の体現者の神としてのキミである。このキミが死ぬときは全世界も死ぬ。太古の聖なる王・聖なる祭司の伝統をも持つキミである。フレイザーは、この類に属する君主の典型が日本のミカドだと書いている。君が代が続いてくれないことには、自分の命もないのである。君が代は真剣な祈りであった。 天候がいいも悪いも何もかもキミの責任であり、うまくいかないと責任をとらされキミは殺された。駄目な年老いて力のなくなったキミは廃されたり、殺された、全世界が駄目にならない前に、新たな若々しいエネルギーに充ちたキミを選んだのである。
子守地蔵尊
(余部上道芝) 町原清助さん 道柴には子守、道芝、和合と称する地蔵尊が祭られている。なかでも子守地蔵尊にはいろいろな変遷がある。今は昔日の面影はないが、余部下の長浜海岸は戦前までは天然の海水浴場として賑わった。なかでも高倉神社境内横の海辺は、人出も多く、それだけ不慮の事故で水死する子供も多かった。当時、長浜に住んでいた江上仁左衛門、田中善吉、浜田丑蔵、松井四郎藏の諸氏がこれを憂え、地元の有志に呼びかけ子供の命を水禍から守ろうと親子二体の菩薩像を若狭の石工によって建立した。 以来三十年間、海辺にあって子供の命を守り、仮死状態のものも蘇生(そせい)さすなど霊験まことにあらたかであった。 この間、ご座所を移すこと五度、ついに戦雲急を告げる昭和16年、長浜地区民は強制疎開の運命にあい、先祖伝来の地を離れて他地区へ移住、海岸一帯は埋立てられ、この地蔵堂も同年春、現在の地に遷座、道芝地区の子供の守り菩薩として信仰を集め、今日にいたっていへる。 水の事故から子供を守る地蔵尊が、いまは山間の奥深い地にお移りになり、あたかもカッパが陸へ上がったようなかっこうで、物言わぬ地蔵尊もさぞや内心ご不満のことと思われる。
『丹後伊根の昔話』に、(イラストも) さば鳥と鴎
蒲入・泉とく子 鴎は、へんな、身をかまって、綺麗に綺麗にまあしたがる鳥だったそうですわ。ほいであのもんだ、親がまあ危篤状態になってえ、ほいて、「悪いさきやあでに、まあ来てくれ」言うて、へて、したところが、さば鳥いう鳥はなあ、もうすぐに親の死に目に会うてて、一生懸命になって、ーさば鳥も鴎もまあ同しような、親が一つだったそうですわ。ーほいてまあ、すぐに来たさきやあに死に目に会うて、へて、親の死に目に会うただし、鴎はもう、身を綺麗にしようしようして、へて、化粧ごろしとったもんださきやでに、親の死に目に会わなんでえ。ほいであのうもんだ、さば鳥は、生きった物が食べられるけども、鴎は、死んだ物より食べられんだし、さば鳥は、化粧も何にもせんで汚やあし、鴎は、その綺麗に身飾っとるで、今でも綺麗に口紅つけて、白粉塗って、綺麗なけど、死んだ物より食われん。
大将軍といった神社や地名は各地に残るが、ここにはこんな伝説が残る。 『京都の伝説・丹後を歩く』(淡交社・平成6年)に、 平家の落武者
伝承地 竹野郡弥栄町大谷 字大谷の細田神社は、中古は大将軍と称し、土地の人はダイシャウゴサンと伝えている。平重盛の子・丹後侍従小松忠房は、主馬判官盛久・越中治郎兵衛盛次・上総国部兵衛忠元と丹後与謝郡に留まり、平家の成り行きを見た後に自刃したという。この大将軍社は、原大将の社と称し、小松忠房を祀るものと伝える。 (『野間郷土誌』)
『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)に、 丹波のダイジゴ
まえがき 数年前から、若狭や近江のダイジョーゴが注目されている。今までの資料では、ダイジョーゴは祖神的な性格のものや、地神的な性格のものなど区々ではあるが、祖霊信仰につながる興味ある問題であることはたしかである。この問題の掘り下げのためにはより多くの資料の集積が必要であると考えられるので、ここに丹波地方(主として綾部市を中心とした中丹地方)のダイジゴの資料の若干について報告してみたいと思う。 この地方のダイジゴには、もっぱら「大将軍」どいう漢字が当てられている。この地方の大字毎、所によっては小字にあるのが普通である。今は地点名として残存しているだけで注意もされず、もちろん信仰も失われ、正確な位置さえも伝えられていないものもある。小祠が残っているのはよい方で、区有の空地として残されている例もある。ダイジゴの名称もすでに失われ、他の名称に置きかえられたと推測されるものもある。 この地方のダイジゴの共通した性格は、その位置が、その部落、あるいはその部落の古い家群、すなわち村の草分けと考えられる家筋の宗家、又はその屋敷跡のウシトラの方向に当っていることである。その土地の鬼門の守護神的な性格を持つものであるとの伝承が、今も古老の心意の底に根強くのこっていることはたしかである。 なお、注意したいことは、ダイジゴと称せられる土地、あるいはその小祠の付近からは、土器の破片などが出土する例の多いことである。 (一) 延(のぶ)のタイジゴ 綾部市延は旧何鹿郡中筋村であるが、この延部落の東北隅の一角に、通称ダイジゴの薮がある、そこにダイジゴさんの小祠がある。近い頃、他の個所にあった天神様と稲荷さんの祠とをこのダイジゴさんの境内に移したので、今はダイジゴの祠のほかに、この二つの祠がある。 このダイジゴの薮は、由良川の沖積地帯に発達した延部落の中でも、少しく高みになっていて、昭和二十八年秋の由良川大洪水の折には、延部落の全家屋が浸水し倒壊した家屋もあったのであるが、このダイジゴの薮には、上流の流失家屋が堆積したのに、この祠はびくともしないでいた。今ダイジゴの小祠のある場所は、この部落の旧い家筋である桑原株の大本家というべき桑原直右衛門の屋敷跡に近い。この桑原家は代々地方に著名な宮大工で、その作った社は今も残っているし、今あるダイジゴの祠もその末代の作であるという。今はもう畑地になっているが、この桑原家の屋敷跡につづく付近から、漁網用の錘であった素焼のイワが出土するし。土器の破片も出るという。 昔は十一月二十日にダイジゴさんのお祭りをした。部落で米を一合ずつ持ちよって、黒豆入りの握飯を作って子供達に配るのがならわしであった。今はこれという祭りをしないが、子供の神様だといって.子供が生れると必ずこのダイジゴにおまいりするし、夜泣きをする子供のためにもダイジゴにまいる。 今は十一月二十二日にコードをするが、この時、区長の指図で当番の組で黒豆の握飯を作って子供に配るのはダイジゴさんの祭りの名残りである。コードという行事については別に報告を持ちたいが、この話をしてくれた土地の古老、桑原庄吉さん(八十二才)が、コードは「土地の誕生日」のようなお祭りだといわれたのは印象的な言葉であった。 なお、このダイジゴの位置は、延部落のウシトラの隅にあるので、土地の鬼門を守る神様であるとも考えられている。 (二)井倉(いのくら)のダイジゴ 綾部市井倉部落の東北隅、小字名を大将軍という地域の一角にダイジゴさんの小祠がある。この大将軍には、古屋敷といって、井倉では古株の安村株の宗家の屋敷跡があり、先年もこの古屋敷の付近の畑の中から土器が出土したという。 ダイジゴの祭日は十二月二十四日で、今はただ、付近の人達がささやかにまつるだけであるが、昔は井倉全体でまつったという。古くは必ず田の落穂をひらって、これで団子を作って供えたものであるという。ダイジゴさんは稲の穂を盗んで食べられたので、この日雪が降ると足跡が消えるので、必ず雪が降るのだとも、ダイジゴさんは足がすりこぎで、この日雪が降ると日本におられるが、降られと天竺へ旅立たれるのだとも云い伝えている。 又.この井倉のダイジゴさんの境内には、萱が茂っていた。正月十四日のカヤの箸は、必ずのダイジゴコさんの萱で作るもので、朝早く無くならぬ間にそれをいただきに行った。このカヤの箸で、十五日のオカイ正月のオカイを祝ったものであるという。 井倉のダイジゴも、井倉の土地の鬼門除けの神様である。 (三)上延のダイジゴ 綾部市上延部落は旧何鹿郡中筋村分であるが、この上延から段寺部落への道が、安場川を渡る所にダイジゴ橋がある。小さい橋で橋には大将軍橋と刻されている。橋の近くに今、樫の木の少しばかりの茂みがあるが、昔はこの森にはもっと大きな樫の木があって、そこにダイジゴさんの小祠があったということである。古老に聞いてみてる誰もダイジゴについては何も知らない。ただ前年、この橋の東側の台地を、道路を改修するために工事をした時、土が崩壊して村人の一人が大怪我をして、それが原因で死んだことがあった。この台地付近を村人達は崇るといっておそれてはいる。村の中心には、村の古い株である上原株の家群がかたまっているが ダイジゴ橋は大体村の中心からウシトラの方向に当っている。 なお、上原株には株荒神を持っていて、この株荒神の位置は、上原株の大本家の上原太郎兵衛の屋敷に近い処にあり、この株荒神のある谷を宮の谷といい、この谷は株内の持山で、株内で分家があるとこの山を介けることになっているという。 (四)小呂のダイジゴ 旧何鹿郡吉美村大字小呂は、今綾部市に編入されている。小呂部落の中心家群の東北に対する谷迫にダイジゴという所がある。小呂部落には、二つの梅原株があるが、その株の一つである梅原喜代蔵さんの家が、ダイジゴにあるので、土地の人々は梅原さんの家のことを、ダイジゴの喜代蔵さんと呼んでいる。二つの梅原株の中でも喜代蔵さんの方は古いといわれている。 梅原さんに聞いてみてるダイジゴのことは全く不明で、ただ前年梅原さんの家の上の台地に塚らしいものがあって、ここから土器が出土したことがある。又、土地の人はダイジゴともいうが、訛って、ダイジゴー、ダイジーグーともいうとの話であった。 (五)大島のダイジゴ 綾部市の西郊、旧何鹿郡中筋村大字大島のダイジゴもすでに忘却の一歩手前にある。位置は綾部−福知山間の鉄道線路の北側、由良川よりの畑の中の、区有地だという礫石の集積した十坪位の一区画である。明治二十九年の由良川大洪水の頃までは、欅、桧、松などの巨木があったというが、今は全くない。古くあったという小祠も失われて長い。二十九年の大水に上流の岡(地名)の某が家共に流されて大島のダイジゴさんの大木にかかって助かったという話がある。 昔、大島の部落の周囲にはワダノモリ、オカノモリ、ウメノモリ、イナリノモリ、ダイジゴノモリなどの小宮があったが、今残っているのはイナリノモリだけなのだという。イナリさんの森は今も繁っていて、近年まで周り一丈もある欅が幾本もあった。イナリさんのお祭は初午で、小豆の握飯を作って祝うのと、十二月八日にイナリコードといって村人がお詣りする位である。別に稲荷さんにはお詣りはしないが、村の古い株の大島株では同じ十二月八日に株講があるという。 (六)その他のダイジゴ この地方のダイジゴはこれらのほか、旧小畑村中のダイジゴはシタガワ垣内でまつるもので立波な小祠がのこっている。於与岐のダイショウグンは当地に残されている検地帳に「大上こんのむかい」という記載があり古くかちあったようで、今は下村中川原の境、於与岐八幡宮の東側に小さい敷地にまつられている。旧口上林村浦入にもダイジョウゴンという地名が残っていて、此処にはかって欅の巨木があったが、それを伐って祟りがあったと伝承されている。旧豊里村川面にもダイジゴさんの小祠が残っていて、川北株の祖神的性格をもつるのではないかと考えられる伝承の残存があるように感じられる。その他、上八田、上杉などにもダイジゴの小祠があるというし、旧物部村西坂、天田郡旧川合村台頭、福知山市前田にも大将軍という地名が見出されるようである。 あとがき 以上丹波地方のダイジゴの若干の資料について報告したわけであるが、まだこのほかにも注意してみると、この地方にはこれと同系のいくつかの資料を指摘出来るようである。御承知の通り、本家を中心とする同族団の結合は、地方により、村落により多少のちがいはあるが、その分布はほぼ全国的であって、この同族集団が日本の農村社会の基本的なグループ形態であるとせられている。このことはわが国の村落成立の多数が「家」を単位とする同族グループの定着開拓によって始ったものであることを物語っているのである。 いうまでもなくこの地方に見られるいわゆるカブ(株)は、この同族結合の一つの形であって、久しい歴史的な変遷をたどり、分家、別家などが派生したり、後からの移住家族や、移住同族のそれぞれの間に、さまざまな文化的、政治的、経済的な関係をもちながら、一つ一つの家は興亡の歴史をたどって来たものであった。これらの株は、現在においては、その組織と機能はくずれつつはあるけれども、本家を中心とする社会的な基盤の上にたって、相互扶助の働きを示しつづけている。とくに株内の婚礼や葬礼の時の協力には大きな役割をはたしている。 それぞれの株は、株講と称して、ある特定の日に集合して飲食を共にして、共同祭祠を行うのが普通である。株講の形式は土地によってまちまちである。株荒神と称する同族共同の小祠を持つもの、先祖の画像を中心に祭りを取り行うもの、先祖の法名を記した軸を床にかけて祠るものなどであるが、一種の先祖祭であることにかわりない。丹波地方における株および株講については、すでに竹田聴州氏の貴重な幾多の論考がある。 同族神は、東北、九州南部では「ウチガミ」と称せられ、関東、中部、近畿では「地神」といわれ、中国、山陰地方では「荒神」「荒神森」と呼ばれるものなどが同質同系のものと考えられている。同族神の類型の種々相については今後の調査研究にまたねばならないだろう。ここに提供したダイジゴも、今後多くの事例の分析によって、その性格の解明が期せられるわけであって、今の段階では決定的な何も言えないというのが答えであろう。 (一九五五・六)
『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、 小和田の七森
小和田には七森という不思議な森がある。この森の中に“大将軍塚”がある。大将軍塚と書いてダイジョコと呼ぶ。むかしから、ここの木を切ると悪い病気がはやるといわれて、だれも切りにいかない。 村人の間では、この塚は平家の落人の墓、もしかしたら平清盛の親の墓ではないかという伝えもある。古くから、小和田には平家の落人がいたといわれており、大将軍塚が前方後円墳のようでもあるところから、昔のえらい人の墓として大切に守られてきたのかもしれない。 しかし、ダイジョコとは祖霊崇拝、地神、山の神、田の神などをおまつりする民俗信仰の一つであり、古い形の神事とされている。これに陰陽道の星の神である大将軍がいつのまにか合わさったのではないか。大将軍という神は三年ごとにめぐってきて、その方位に当たると三年ふさがりとされ、人びとにたいへん恐れられた凶神である。地の神、山の神への敬いと凶神への恐れがからんでいるようである。さらにその上に、小和田では平家の落人伝説が重なったのかもしれない。 七森の塚のあるところの木をさわると、たたりがあるということで、その結果、地の神を守り続けたのではなかろうか。
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承探訪も) 三浜峠の千匹狼
伝承地 舞鶴市三浜 昔むかし、三浜峠に道らしい道がなくて、一本松という松の大木があって、そのあたりに千匹狼が棲んでいた。三浜の村では、そのころは庄屋のことをトウネンドウといっていた。そのころに本当にあったという話。 あるとき、遠いよその国から薬売りが三浜の村をめざして歩いてきた。平から山石を踏み、木の根を踏んで峠にさしかかったら、日がとっぷりと暮れてしまった。薬屋は、村の者が楽しみにしていることを思うと、引っ返すことをやめて、山を登っていった。ところが、とうとう真っ暗になってしまって、どっちがどっちか全くわからなくなってしまった。 どこかに村の灯でも見えないものかと彼方を窺っていると、ボチッと灯が見えた。薬屋はその灯の方へ歩いたらよいと思ってどんどん行くと、なんと、その灯が右に左に動いている。狸にでもだまされたのかと立ち止まって瞳をこらすと、灯の数がだんだんふえてきた。「あっ、これは狼の眼だ」と、気がついた時は、もう遅かった。狼は薬屋を大敷(大敷網。魚網のこと)にかけるようにして、「ウウウッ」と唸りながら輪を縮めてきた。「なにか逃げ道はないか」と周りを探したら、一本松がすぐそこに黒々と聳え立っているのが見える。薬屋は、神の助けと思って松の木に取りつき、一生懸命に登った。やっと横枝に腰をおろして、下を見ると、狼がうようよ集まってなにか相談を始めた。 薬屋は「松の木へは登ることができないだろうから、もうしばらくすれば、あきらめて帰るだろう」と思っていたら、狼は松の木をぐるりと囲んで、幹に足をかけた。その上にまた狼が乗り、その狼の上にまた狼が乗り、そのまた上に狼が乗る。狼の上に狼、狼の上に狼と、だんだん上ってくる。「狼ばしごというのがこれか」と、薬屋は上へ上へと逃げ登っていった。狼もどんどん狼ばしごを上へ重ねて追ってくる。とにかく千匹も狼がいる。 薬屋はとうとう一本松のてつぺんまで登りつめた。ところが、狼ももう少しというところで止まってしまった。狼のなかからだれかが言った。「九百九十九匹、だれか一人足りないぞ」「それは、トウネンドウのお方だ」「トウネンドウのお方を呼べ」「トウネンドウのお方を呼べ」。そこで、狼が声を揃えて「ウオーン、ウオーン」と遠吠えすると、しばらくしてから風を巻き起こして銀色の毛を持つ狼がやって来た。そして、狼ぱしごをするすると上ってきたかと思うと、薬屋の足に噛みつこうとした。やにわに薬屋は脇差を抜いて、「なむさん」と、銀色狼に切りつけると、狼は左一肩から血が吹き出し、「ギャーッ」と一声残して、ころげ落ちた。すると、狼ばしごを作っていた九百九十九匹の狼も崩れ落ち、あきらめたのか、一斉に闇のなかに姿を隠してしまった。 薬屋は、翌朝、夜が明けるのを侍って一本松から下り、山を下って三浜の村へ入っていくと、トウネンドウ(刀祢殿。村役のこと)の屋敷の前に人だかりがしている。薬屋が聞くと、お方(奥さま)が昨夜から病で伏せっているという。ちょうどよいところへ来たと、薬屋は、みんなに迎え入れられるままに、座敷に上がってゆくと、近郷近在で美女の評判の高いお方は布団をかぶって寝たままで、トウネンドウは枕元でおろおろしていた。薬屋は、「ちょっと拝見」と布団をめくって、「あっ」と驚いた。美しいトウネンドウのお方の左肩がざっくり割れている。「これは、たしかにゆうべの銀色狼の……」と、薬屋が大声を上げると、終わりまで聞かず、一迅のものすごいつむじ風が巻き起こり、お方は銀色狼に姿を変えると屋敷を飛び出し、三浜の山へ向かって、たちまち姿を隠してしまった。 後になって、本当のお方は山から逃げて帰ってきたそうだ。千匹狼はお方をさらって、銀色の雌狼をお方に化けさせてトウネンドウの屋敷に送りこみ、三浜の村全体を狼のものにしようとしていたことがわかった。そして、あやうく、薬屋の働きで村が助かったということだ。(『わが郷土』) 【伝承探訪】 舞鶴湾に面した集落平地区から北に道をとると、三浜峠にかかる。大浦半島の中央部の山塊を越え、再び海辺の集落まで下って行くので、かなり高度差のある峠である。平から三浜までは五キロの道程。現在の峠道は、昭和三十五年、三浜の村人たちの悲願によって開通した。しかし、その道ができるまでは、谷あいの隘路を、ときには腰まで水に浸かったりしながら、行かねばならず、歩行は困難をきわめたという。 お訪ねしたのは三浜村の庄屋をなさっていたという徳永長太郎氏のお宅であるが、徳永氏が子供の頃ご母堂からこの話を聞かれたということである。この話が真実なるものとして語り聞かれているのなら、自らの家のできごとを語る伝承ということになるが、ご母堂は昔話として語り、また氏も珍奇な話として聞かれたという。とすれば、これは虚構の話として空想を楽しむものであったのだ。昔話「鍛冶屋の婆」がこの土地と結びついて語られたものということになる。 旅人が狼と出会った一本松という場所は、今、定かではない。徳永氏などの話では、その場所はサイノカミというところとして聞いているとされる。さまざまな語り方があったのだろう。ところで、このサイノカミという場所は三浜からの古い峠道を上りにかかったところだという。サイノカミとは道祖神、境の神のことである。そして、そこには柴折り地蔵と呼ばれる地蔵が祀られ、道行く人は必ず木の枝を折って手向けたという。旅の安全を祈る古い信仰である。また、話の場に加わられた梅田幾久枝さんは、その地を通るときには、髪の毛がひっぱられ、体がこわばるように感じたものだと言われる。古来、峠には恐ろしい境の神がいると信じられてきた。そのような心意が伝えられてきているのである。千匹の狼たちが旅人を襲う場所と幻想されるのにふさわしい。 この話は虚構のものとして受けとめられてきたものではあるが、土地の人々の心意と結びつき、共感されながら語り継がれてきたのであった。 「千匹狼」(侍が狼に襲われて木の上に逃げる。鍛冶屋の婆さんと呼ばれるひときわ大きな狼がやって来て、侍と戦うが、鍛冶屋の婆さんは肩口を切りつけられて逃げ出す。という、島根県の伝説) 「鍛冶屋の母」とか「弥三郎婆」とか呼ばれている全国に分布する伝説である。 『鍛冶屋の母』(谷川健一)に、 本書の主題にアジアの遊牧民の伝承から照明を与える手がかりとして、護雅夫氏の『遊牧騎馬民族国家』(講談社現代新書)があることを付記しておきたい。ジンギスカンにも蒼き狼の子孫であり、鍛冶屋の子孫という伝承があった。護雅夫氏の書を読んでみれば、同じ伝承を持った遊牧騎馬民族の首長は多い。多いというのかほとんどかも知れない。その末裔なのか日本でも鍛冶屋=狼とする伝承があったのではないかと思われる。しかも「天降る」蒼き狼、「天降る」鍛冶屋の子孫とされるから、日本の天皇サンも実はそうした所と繋がってくることになる。薬屋というのも元は鍛冶屋だろうとすれば、これは薬屋(鍛冶屋)が伝えた伝説と思われる。本来の住処・天に近い峠に出没するのもそうした理由かも知れないし、また三浜に根付いたのにはそれなりの理由、ここ三浜も鍛冶屋の里であったとか、そうした必然の要因があったと思われる。日本の伝説だとばかり思い込んでいたのだが、実ははるか北の大草原の香りがとどいてくる伝説であった。似た話は網野町郷などにもにもあるが、面白いと思うのは加佐郡唯一の明神大社・大川神社の神様は伝説によればどうも狼のように思われることである。天一大川明神は鍛冶神であると私は考えているが、このあたりからも証明されそうである。 『丹後の昔話』(昭53・日本放送出版協会)に、 千匹狼(峰山町)
むかし、郷から峰山へ行きます街道にたけくらべ(小地名)というところがありまして、その道のわきにちょつとしたいさい祠があって、そこには一本の大きな榎がありました。旅人は時にはそこを道中の休み場にしておりました。 あるとき、一人の六部が夕方そこを通りかかりました。ところがもう日が暮れて、次の村へ行くまがないので、そこの祠の前で一休みしながら考えますのには、まあ今夜はこの場で野宿しようと、こう考えたそうです。そこでまあ、野宿の覚悟をして眠ろうとしておりましたところが、夜中になって一匹の狼の遠吠えの声が遠くからしてくる。はあ、あれは狼だな、思っておると、だんだん狼の声が近づいてくる。これはただごとではすまん、どうしようかなあ、と大変びっくりして、びっくり仰天しとりましたが、しだいにその数があっちからも狼の声、こっちからも狼の声が聞こえてきて、近く眼で見えるようになりましたので、もうこわなって、その大きな榎の木へさして身を避難しました。 ところが、狼が、その、無数に現われてきまして、狼が背中に乗り、二匹乗り、三匹乗りして背を高うしてする。六部はだんだん木の上へ上へ、その、追いあげられて、しました上ころが、すでに登りつめる上いうところになって、手が届くような格好になってきましたが、ところがもう一匹狼が足らんということで、狼の申しますには、石田のとねんが婆を至急に呼んでこい、と、こう命令を狼の大将がしたもんです。へてしたこころが、狼が郷のとねんが婆という狼を呼んできます。そうしてそのまあ、六部を取って食うという段取りにくいつけておったわけです。ところが、ちょうどそれが明け方でありましたので、それまでに、腰に差しておった短刀でいちばん上のどねんが婆を、いちばんあとからきたとねんが婆の狼を切ったそうです。そうすると、崩れ落ちて、まあ、明け方になったのとともに、仰天して退散してしまったということです。 ところがその六部は不思議に思った。郷のとねんが婆を呼んでこいと言うとったで、郷という村をさがして、とねんが婆という家を尋ねて見よう。で、一太刀あわしてあるで、わかるだろうと思って、へえて、たビリたどりて郷の石田のとねん婆の家へやってまいりました。ところが、その家へ来てみますと、上を下へのまあ大混雑をしており、家の内には、こう、何となくただごとならん気配がしておりました。 一人の人をつかまえて話しますには、 「わしは旅の者だが、昨夜たけくらべでこうこうこういう目に会うたで、この家が、その、とねんが婆の家か」と言いますと、 「そうだ」言うので、主人に、 「会わしてくれ」いうて話しをするところ、 「いや、昨夜は婆は外出をしまして、途中でけがをして、まあ、手当てをし、うめき苦しんでおりますだで、今夜のとこはでけません」と、まあ、話しがありました。が、その狼の部屋へ主人の断わるのを押し切って入って、呪文をとなえて、念珠をつまぐって祈とうをしますところが、その婆さんがにわかに狼の姿になって牙をむきだし、ものすごい形相になって雲を呼び、戊亥の方角へ飛び去ってしまいました。 あとになって六部とその主人の話しますには、 「このとねんが婆は、わしは早よから細々とこの屋敷に長らく住んで、見ての通り古い屋敷ですが、住んでおりましたが、早よう家内に先立たれて、へえしたところが、途中あの女が出てきまして一緒に住むようになりまして。ところが薬をその後添いの女がこしらえて、そしてそれを近所隣へ売り歩き、良く効く、良く効くということで、だんだんその分限者になりまして、まあ、現在こんな状態で裕福に暮らしておりましたところが、こういう状態で、まあ、びっくり仰天であります。あなたはまあ、諸国を回られてなんですか、しばらくこの家に逗留しておくれならんか。いつなんどき舞いもどってこないもんじゃないともわかりませんし、なお、つきる話もありますし、しばらく逗留してもらいたい」と頼みましたところが、六部も快う承諾して、へえして、たいして急ぐ旅でないから、そんならやっかいになろうかということになって、その家におりました。そうして、いろいろと聞いておりましたところ、どうやら狼のふんを原料としてその薬をこしらえたでなかろうか。言い伝えでありますが、『奈佐(豊岡市奈佐)のこう薬』いうむかしのこう薬がありますが、その奈佐というのは狼の飛び去った方角ではなかろうかということです。 (名彙「千疋狼」) 語り手・竹野郡網野町郷 後藤宗右衛門 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教育委員会・S60)に、 千匹狼(とねんが婆の話)(網野町)
ずっとむかし、ある日の夕暮ごろ 六部さんが旅につかれて、生野内(いくのうち・網野町)のあたりまでたどりつきました。 そのうち小字竹倉部(たけくらべ)の森のかたわらにある小さな祠を見つけ今宵の宿と定めました。 旅のつかれも出て、すぐに寝入りましたが、夜ふけてから、なにか獣のほえる声に目をさまし、もしもここまでおそって来たら、どうしてそれを避けようか、と考えているうちに、その叫び声は、だんだん数が多くなり、今にもここへ飛びこんできそうな気配なので、六部は、あわてて、そばにあった榎によじ登った。 くらやみを透してよく見ると、数えきれないほどの多くの狼がむらがって、榎の木の本に押しよせ、六部めがけて、ものすごくほえています。 狼の上に別の狼が乗り、その上に他の狼と、丈継ぎして、六部の足元にしだいに接近してきた。この時、頭らしい狼が、「もう一匹足らん、郷の石田のとねんが婆あをすぐ呼んでこ」と命じると、一匹が飛んで行った。 しばらくすると、その狼が、別の狼を連れてやってきた。それが一ばん上の狼の背に飛びあがり、今にも六部の足にかみつこうとする気配です。六部は持っていた短刀をふりおろし一番上の狼に切りつけました。 すると、丈継ぎしていた狼が、ばたばたと崩れ落ち、取巻きの狼がいっそう強く、ものすごくほえたてた。しかし、どうしたわけか、しばらくすると、次つぎと逃げ散ってゆきました。 榎の上にしがみついていた六部は生きる気もせず、やがて明け方近くなったので、木から降りましたが、あたりは静かで昨夜の出来ごとは、まったく悪夢のような恐ろしい出来ごとでした。 それにしても不思議なことだ。石田のとねんが婆あとは何者か、ともかくこれから出かけて村の人に尋ねてみようと、石田までやって来ました。 近くのある一軒家へ立寄ってみると、どうやら家の中は取り込んでいるらしい。聞いてみると、この家の老婆がゆうべ何者かに斬られたのだという。ますます不思議に思い、 「わしは廻国の六部であって少々呪術も心得ているから、ご希望なら治して進ぜよう」と言い、家人の辞退をも聞かんふりで病人の居間へはいった。 すると、ものすごい顔の老婆がふせて、うなっている。 六部は数珠を手に呪文を唱えて悪魔退散を祈ると、老婆の顔はみるまに獣の相に変り、眼(まなこ)をいからせ、ロから火を吹いて 今にも六部に飛びかかる身がまえするので、六部は手にした数珠をえいと投げつけた。 すると、白雲が舞いあがり、老婆はその雲に乗って戌(西北)の空へ飛び去りましだ。 まったくあっと思う間のできごとで 家人や、集ってきた近所の者たち一同は、この恐ろしい出来ごとに、恐れおののいて声を出す者もありません。 そこで六部は、昨夜の狼の事件を物語り、 「このお家も古びたお家だが、何をやって暮していられるか、またこれまで何か変ったことはなかったでしょうか」と尋ねると、この家のおやじが言うには 「私の家はもとこの向いの和田垣に住っておりまして、その当時はかなりの裕福に暮していたのですが、ここへ移ってから暮しも苦しくなり、妻にも先立たれて、長らくやもめで暮しておりました。ところが先年、どこからか、今の婆あがやってきて なにくれとなく まめまめしくよく働き、夜業にはこう薬をつくって、あちこち売り歩き、などいたしました。そのこう薬がよく効くので、売れゆきもよく、そのため暮しむきも楽になって悦んでおりました。 ところが昨夕、誰かに呼び出されて 出て行きましたが、何者かに斬られ、血まみれになって、ころげ帰りました。そこですぐ婆あの作ったこう薬をつけてやりました。その時あなた様がおい出なされたわけで、何とも恐ろしいことばかりで……」と語りました。 おやじがぜひにと頼むので、六部はしばらくこの家に泊っていましたが、さいわい隣村の生野内に大慈寺という無住のお寺があったので そこへ移り住むようになったといいます。 (原話 郷 後藤宇右衛門) 註 「六部さん」とは書写した法華経を六十六カ所の霊地に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を過歴する巡礼のことで、六部とは、六十六部の略です。 『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、 千匹狼(久美浜町)
昔になあや、浦明から関に越す道中に、日光寺いうこわえ(こわい)ところがあってなあや、そこには千匹狼いう狼がようけ(たくさん)おってなあや、日のうちはまあ、なんにもなしに通れるだけど、ちょっと暗(くろ)なるちゅうと、もうそこを通る人はみんな狼に食われちまって、通ることがでけんいうこわえとこがあって。 それで、神崎の大家(おおや)が京まで買い物に行って、そして関までもどったら日が暮れちまって、 「もう一息すりやあ神崎着くのに、日が暮れもまって、日光越すのはこわえ。だけど、もうちょっとすりや神崎だし、いにゃ(帰ると)嫁や親らが待つとるだし、子供も待つとることだし、まあ、むりしていぬるにしよう」いうことで、日光寺峠を半分ほど来たところが、案のじょう、ウーいって狼がようけ出てきて、神崎の大家を食いきたもんだ。神崎の大家は、ふるえあがって、横にあった木にカラカラッと上がって、隠れとったら、そしたら、人間の匂いきゃあで(かいで)、狼がどんどんどんどん寄ってきて、その木の足もとのほうがみな狼でうまってしまって。それでも、木の上におるもんだで、狼は噛みつくことはできんだし、うろうろしとったら、そのうちの大将が、「肩くませえ」ってやめえた(わめいた)。そしたら、狼がつぎつぎに上になり上になりして、とうとうその大家の足もとまで肩くましてのぼってきて、もうちょっとのところでその大家に届くところになったけど、狼の数がいつぴゃあになっちまって届かんと。そしたら、大将が、 「だれぞ行って、神崎の大家呼んでこい」言ってやめえたら、 「おいしょう」言って、そのうちの一匹の狼が神崎まで呼びい行った。しばらくしたら、神崎の大家いうのを連れてもどってきた。そして、神崎の大家は肩くまの一番上にずうっと上がってきて、まさにその神崎の大家の足にガッと噛みつかあとした時に、大家も腰の刀抜いてぱぁつと投げた。ほしたらええぐあいにそれが狼に当たって、狼はころころつと下へまくれ(ころび)落ちてしまった。ほれでまあ、狼もあきらめて、みないんでしまっただし。大家はそろそろ木からおりて、走って神崎まで帰って、 「おおい、今もどったぞ」言うたら、そしたら常なら、「まあ、もどんなったかにゃあ」言って迎(むき)やあに出てくれる嫁が出てくれんだげなし。変なことだなあ思って、 「おお、今もどったがどうだいや」ってまた言ったら、 「今日はおみゃあ、屋根の上へあがっとって、はしごから足ふみすべらきゃあて、大けがして寝とるだわな」言って、納戸のほうで言っとるだし。 「ほう、そりゃ悪いことだったわな。わりや(私は)今日は、日光寺で千匹狼にぼられて、ひでえめにあって死にはずれにゃあたわいや(死にかけたよ)。とんでもどってきただ。まあ、水一杯くれえや」ちゃなことで、それからまあ水飲んで、 「まあ、ちょっとまあ、けが見せや。どうしただ」って。 「いや、まあ見てもらうようなところじゃなあで、まあ見んとってくんにゃあなあ」いうて言うたげなし。せからまあ、 「そにゃ言ったって、わら(お前)医者はんになっと(なりと)見せなしゃあにゃあだが、どうしただ」言って見たところが、肩先にけがしとる。 「ありや、こりゃあ、わりゃあはしごからあだけた(落ちた)ような傷じゃねえでにゃあか。さっきがた、木の上で『神崎の大家呼んでこい』ちゅうことを大将の狼が言ったが、わりゃなんぞその神崎の大家いった狼となんぞあれへんか(ないか)」言ったら、そしたらその、神崎の大家の嫁さんがむくっと起きてきて手ついて、 「いかにもすまんことをしとった。わしは実は千匹狼だ。じゃけど、お前が留守の間に、お前の嫁さん食い殺(これ)えてしまって嫁さんに化けて、長えことこうしていっしょに暮らえてきたんだけど、うらは千匹狼だ。まあ、こうして正体あばかれたからにゃあ、もうここにはおれんで。だけど、わしもほんとうはまっと(もっと)早よいぬるつもりしとっただけど、長え間いっしょにおる間に、つい子供の情にひかされて、こうして今までおったけど、まあ、正体見破られたからにはしゃあねえで、これからいぬるで。どうぞこの残った子を大事にしちゃって大きしちゃってくんにゃあ。またぞうよ(お金)もいるだらあけど、あの、わしは人間みたいに手水(便所)にいってこく(ひる)ことができんで、縁の下にようけ糞がこいちゃる。この狼の糞は、血の道にようきく薬だで、この糞を焼あて売んなりさあすりゃあ、この子の大きいなるまあでのぞうよにはさしつかえなきのもんが残しちゃるで。それで、どうぞ、この子は大きしちゃってくれ」と言って、その狼はとうとういんじまって。 それで、その狼がいんだ後で縁の下めくってみたら、なるほどようけ狼の糞があって、それで、神崎には、その狼の糞を黒焼きにした神崎のおおかめ薬がある。これは、女子の血の道にようきく薬で、長(なぎ)やあこと、「神崎のおおかめ薬」って売っちゃったんだわや。 語り手・中地 誠(久美浜町甲山) 『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、 【若狭の伝説】 千匹狼(
(高浜町小黒飯) ある大晦日のことである。 「ウォーウォー」 狼たちの吠える声が聞こえてきた。すっかり気味悪くなった刀祢さんは、ますます足を速めるのだが、家まではまだまだ遠い道のりである。 ずいぶん歩いて、ちょうど脇坂にさしかかった時、 「もう、大丈夫だろう」 と安心していると、突然目の前に狼たちの群が現れた。 「これは何てこったい」 刀祢さんはあわてて逃げ場を捜したが、いつのまにか狼たちに四方を取り囲まれてしまった。仕方がないので刀祢さんは、すぐそばにあったタモの木に必死でよじ登った。狼は木に登ることができないので、 「これで狼たちもあきらめるだろう。」 と思っていた。しかし、狼たちも負けてはいない。狼どうしが背へ背へと乗ってきて狼ばしごをつくり、刀祢さんに近づいてきたのである。刀祢さんはさらに上へと登っていったが、もうこれより先、登る枝はない。 今や食いつかれそうになり、刀祢さんはいよいよ腰にさした刀を引き抜いた。そして狼たちを容赦なく順番に切り落としていった。こうして刀祢さんは、やっとのことで逃げ帰ることができたのである。 年が明けた。刀祢さんは昨日の恐ろしい出来事をもうすっかり忘れ、すがすがしい気分で膳についた。刀祢のおかみさんの作ってくれたお雑煮を、ありがたく頂戴しようとしたところ、何やらもじゃもじゃとしたものが浮いているではないか。 「おまえ、これはいったい何なんだ」 おかみさんは、いつもと違う音色で言った。 「それはわたしの毛です。どうぞ召し上がれ」 刀祢さんは、おかみさんに何か悪いことがおきたのではないかと心配した。そして突然、おかみさんの顔付きが鋭く変わったかと思うと、ドロンと狼に早変わりしたのである。 あの晩、刀祢さんが刀で切り落とした狼たちは、先回りして刀祢のおかみさんを食い殺し、おかみさんに化けていたのであった。それを知った刀祢さんの悔しさと言ったら、たいへんなものだった。 それからというもの、刀祢さんの家では、代々元日にはお雑煮を食べず、二日を祝い日としているという。
狼哀話
船井郡瑞穂町井尻 その家では、老婆と狼が一緒に暮らしていた。オオカミの姿を見た村人はいなかったが、野良の行き帰りなどに、老婆が食べ物をサラに盛って与えている姿が障子に写って見えた。 「あのオオカミや。あいつが吾作やたけを食い殺したにちがいない……。」 「先日、旅の者が一本杉のところで、ふとももを食いちぎられたのも、あれの仕業だろうて」村人たちは、いつもささやくようにうわさし合い、足早に老婆の家の前を通り過ぎた。 ある晩、村人の一人が勇気をふりしぼって軒先に近づき、中の様子をそっとうかがった。老婆は小さな箱で作った仏壇の前にすわり、手を合わせていた。小一時間もそうしていただろうか。立ち上がると土間まで行きオオカミを呼んだ。 「オオカミや、よく聞くんだよ。お前ともいよいよ別れるときがきた。お前が留守の間にお坊さんがみえてね。仲間のところへ帰してやるのがお前の幸せのためだ、とおっしゃってね」 いつもの通り食べ物を与えながら、老婆は声をつまらせた。 「この秋口から息子や嫁や孫たちが病気で相次ぎ死んでしまった。私もいつ死のうかとばかり考えてきた。けど、お前がこの家にきてくれたので、なんとか寂しさをこらえることができた。村の者たちはとやかくうわさするようだけれども、私はお前のことをみんな知ってるんだよ。お前が旅人や村人を襲うのは、お前の息子が人間どもに殺されたことへの報復だということもね……」 家いっぱいに早春の日がさし込み、屋根からドサッ、ドサッと雪の塊が絶え間なくころげ落ちていた。次の日、雪どけ道を歩いてお坊さんがやってきた。 「オオカミよ、よく聞きなさい。私のお経でお前を仲間のもとへ帰してやる。目をつむって静かに聞きなさい」。お坊さんが経を半ばまで読んだころ、ズドーンという大きな銃声が家中に響きわたった。お坊さんの前に、肩口から胸にかけ銃弾で打ち貫かれたオオカミが倒れていた。そばに猟銃を手にした老婆が立っていた。目には涙があふれていた。老婆は裏口からスギの林を抜け、丘の上までオオカミの死がいを運び供養碑を立てた。それ以後、オオカミによる犠牲者は一人も出なかった。老婆の行方もその後わからなくなったという。 (カット=高畑守君・災原由晃君=瑞穂町桧山校) 〔しるべ〕この話は瑞穂町井尻に伝えられている。国近9号線を北上、瑞穂町の中心部、桧山を少し過ぎたあたりが井尻で、現在は約五十戸の農村。オオカミの供養碑はいまも残っているという。
『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承探訪、地図も) いつもり長者
伝承地 熊野郡久美浜町箱石 函石浜におこう野というところがある。 このあたりはずっと大昔、家が千軒余りも立ち並んで、たいそう栄えた時代があった。 そのころ、ここに「いつもり」という長者が住んでいた。立派な家屋敷に住み、多くの財産を持って、何不自由のない幸せな暮らしをしていた。毎朝、黄金の鶏が時を告げたともいう。この長者はたいそう慈悲深くて、人々によく恵みをしたので、遠方までもその名が知られ、近郷の人々から敬慕されていた。 いつもり長者は紀州の生まれであったが、まだそこに住んでいた頃のことである。屋敷に一本の杉の苗木を植えたところ、不思議なことに、わずかの間にこの苗木が成長してついに見あげるばかりの大木になった。これは大変だ、前代未聞のできごとだということで、あちらこちらから人々が毎日見物に出てきた。いつもり長者は仏教の信仰に篤い人だったので、これはきっと仏の導きに違いないと考え、占い師に占わせたところ、「この木で観音の像を造って祀れ」とのことであった。そこで、さっそく、仏師に命じて観音像を造らせることにした。仏師が最初に末口の木で刻んだ仏像は、やり損じて、うまくできあがらなかった。次に二番木で造ったものは、後に大和の長谷寺の本尊として紀られた。そして、三番木で造ったものを長者の屋敷で祀ることになった。その後、いつもり長者は丹後の函石浜に移り住むことになったので、観音像も移し、寺を建てて丁重に祀ったという。 ある年、この観音像を刻んだ仏師は但馬の湯島(現城崎温泉)へ入湯に出かけた。円山川を渡し舟で渡り、向こう岸に着いて、舟を下りようとし 川岸に敷いてあった土台木に足をかけたところ、その材木が崩れて川に落ちた。ふとその土台木を見ると、それは自分がかつて紀州で刻んだ観音像の残木であった。不思議なことがあるものだ、きっと仏の因縁にちがいない、と思って、この木からさらにもう一像を刻んで祀った。これが城崎の温泉寺の本尊である。後の世の人々は、この温泉寺の観音と大和の長谷寺の本尊とおこう野観音とを同木同作の三観音と称した。 一方、いつもり長者には悲しいできごとが起こった。それは年頃になったかわいい娘に角が生えてきたことであった。長者はさまざま手を尽くしたが、まったく効き目はなかった。この上はただ神仏の力にすがるよりほかはないということで、函石の氏神岩船神社に毎朝毎夕祈願した。ある夜のこと、夢に岩船の神が現われて、「お前の日頃の善根と熱心な願いによって、その望みは聞き届けよう。だが、自分の力では一本しか落とすことができない。残りは観世音に願うがよい」と告げた。長者はたいそう喜び、さっそく、おこう野の観音にもひたすら祈願をした。その心が通じたのか、角はきれいに落ちて、娘はもとの美しい姿に戻った。 その後、人角は岩船神社に一本、おこう野の観音に一本、それぞれ神宝、寺宝として納められた。その娘の名はさよといったので、角の落ちたところをさよが端というようになった。 (『木津の伝説』) 【伝承探訪】 おこの野村があったという函石浜は数キロにわたって続く砂丘で、兵庫県の円山側から運ばれてきた砂が堆積してできたものである。砂は海岸から一キロ余り南の丘陵にまで積もり、人々の砂害に対する苦労は大変なものであったことが偲ばれる。今、海岸部には砂を防ぐための松林が続き、広大な畑が拓かれている。 この地にはかつて千軒余りの家があり、金の鶏が時を告げたと伝える。このような伝説は依遅ケ尾山山麓の矢畑集落の奥にもあって、やはり金の鶏が正月に時を告げたという。厳しい土地柄ゆえの幻想なのだ。このおこう野村は砂に埋もれ、上野・俵野・溝野・鹿野・葛野の五ヶ所に分村したと伝えられている。 さて、この話は、おこう野村に住んだといういつもり長者が観音を造立し、その観音と岩船神社の神が霊験を示したというものである。 この観音が祀られているのは上野集落にある真言宗高野山派の中性院である。江戸時代以来本尊とされている高さ一尺八寸の聖観世音菩薩像がこのいつもり長者の造立したと伝えるものである。秘仏とされ、三十三年に一度開帳されてきた。長谷寺・温泉寺の観音と同木同作とするのは、この観音像の尊さを説くためなのであろう。近江国高島郡の長谷寺の縁起にも本尊三体同木作の話を載せている。中性院に伝わる古文書には、伊賀国上野の長者がこの像を背負って霊地を求め、ここに像を安置し、伊勢国豊久野のあたりに帰ったという異なる伝承が載せられる。また、この古文書のさよについての伝承では、俵野に住んでいた娘の角が観音に祈願することによって取れたとある。一方、葛野の岩船神社の古文書では、いつもり長者の娘に生えた二本の角が岩船神社と中性院の観音との両方に祈願して取れたとしている。初め、観音の造立・霊験諺として語り出されたものが、後に岩船神社の神徳を説くものとしても語られることになったらしい。また、長者とは関わりのない娘であったのが、伝承されてゆくうちに、長者と結びついたもののようだ。 その長者屋敷跡と伝える、草木の生い茂る地を友人とともに二度にわたって捜し求め、ようやくにして捜し当てた。朝霧のなか、かの長者の栄華はまことに幻であった。
『郷土と美術』(昭和14年9月号)に、 函石浜の伝説
井上正一 宮津線を下りの汽車でお出になった方は、丹後木津驛をすぎて砂丘の切割を越えると窓外が急に展開して、日本海を背景に白砂青松と桃園の點續した絵の様な景色が見渡されるでせう。こゝが次に申上げる函石浜であります。この浜には考古学上有名な石器時代の遺跡があります。函石浜は石鍬等の如き武器の製造場であったらしいといひますが、今でも石鏃を始め、石斧、石槌、土器、玉、貝製品等の出土品が発見されます。これら出土品によって調査すれば、この浜の先住民族の居住年代は、石器時代から遥か後代、金属使用期時代に至る、前後千数百年に及び、その間同一民族の居住してゐた形跡があって、こんな長期に亘るのは他の遺跡に例の少い珍らしいことであるといはれてゐます。 函石浜がそれほど永住に適した住みよい土地であるか.それに何故村が現従まで續かなかったか、そして叉近代に至って枯木にを芽を出した様にボツリと函石部落がなぜ作られたか、これは地理学上にも経済史上にも誠に興味深い、実に面白い問題であります。また函石浜には土器の破片と共に夢物語のやうな傳承がごろごろしてゐまず。私共の如くこの浜の先住民族を祖先とする者には「函石浜」と聞いただけでも、なつかしさがこみ上げるのであります。 いつもり長者の話 函石浜に小字「おこう野」といふ所がありますこのおこう野にはずっと昔には家が千軒あまりも立ち並んで、大変栄えてゐたと言ひ傳へてゐます。その頃こいに「いつもり」といふ長者がありました。沢山の財産を持ち、立派な屋敷に住んで何一つ不自由を知らぬ誠に幸幅な暮しをしてゐました。毎朝黄金の鶏が時をつくったのだとも言ひ傳へてゐます。長者は大愛慈悲深く、人々によく恵みましたので、遠方までもその名が知られ、多くの人々から崇敬されてゐました。いつもり長者の出生地は紀州でありまして、まだ紀州にゐた頃の事、長者の屋敷に一本の杉の木が植ゑられました。不思議なことにはこの杉の木が僅かの期間に太りだし、遂に見上げるばかりの大木になってしまひました。これは誠に前代未聞の出来事だといって、毎日々々見物人がつぎきました。いつもり長者は仏教の信仰に篤い人でありましたから、これはきっとみ仏の導きにちがひないと考へ、占師に占はせました所「この木を以て観音の像を刻んで祀れ」との御心なことが明らかになりましたので、早速仏師に命じて観昔の像をつくらせることに致しましに。第一番に末口で造ったみ像はやりそこなって物にならす、二番木で造ったのが見事に出来てこれを大和の長谷寺に祀り.次に三番木で造ったみ像を屋敷内にて祀りました。その後この丹後の函石浜に移りましてからは観音のみ像も共に移し一寺を建立して鄭重に祀つたといひます。 同木同作の三観音 話かはって、この観音を刻んだ仏師が但馬の湯島温泉へ入湯に出かけましたとき、円山川を渡舟で渡り、丁度舟が向ふ岸へ着きましたので舟を降りやうとして対岸に足をかけますと、あいにくそこにあった材木が崩れて仏師は川へ落りました。その時この材木をよく見ると、前に自分が観音像を刻んだ残木ではありませんか、これは実に不思議なことである、必ずやみ仏の因縁によることであらうとて、この地に於て、尚一像を刻んで祀りました。これが城崎温泉寺の御本尊であるといひます。後の世の人々はこの長谷寺の観音と、温泉寺の観音と、おこう野の観音と「同木同作の三観音」と言ひ傳へてゐます。 人角 いつもり長者のやうな幸福な人にも、こゝに一つの悲しい事件が起りました。それは可愛い年頃の娘の頭に角が生えて来たことであります。この前代未聞の奇病に濁して長者大変驚き、その財力にあかして様々治療に手をつくしましたが何のききめもありません。この外はたゞ神仏の力を借るより仕方はない、とて函石の氏神、岩船神社に毎朝、毎夕祈願致しました。だが一向にしるしは見えませんでした。或夜長者は夢に岩船の神が現れ「お前の日頃の善根と熱心な祈願によりその願は聞き届けてやらう、だが自分の力では一本しか落すことができん。残りの一本は観世昔にお願ひするがよい、私は岩船の榊だ」と申されました。長者は大いに悦び、観世昔にも一心にお願ひしました。その熱心な願ひは途に神仏に通じて、娘の角はきれいに落ちて、元の美しい顔に立かへりました。いま岩船神社に一本と、中性院に一本保存されてゐる人角がそれであると言ひ傳へてゐます。 函石浜の分村 函石浜はその後幾百年の間に土地の異動もあり又、海岸より人家中へ盛んに砂を吹き寄せるやうになったので、遂に一郷の者がこぞって近辺の安全地帯へ分村移住致しました。各新村の名は何れもおこう野の野を取って、 上野村 (今の竹野郡木津村字上野) 俵野村 (今の竹野郡木津村字俵野) 溝野村 (同 村字溝野) 鹿野村 (熊 野 郡神 野村字鹿野) 葛野村 (熊 野 郡湊 村 字 葛野) と五ケ村とも野をつけました。 そ の 後 の 函石浜 おこう野の観世昔も分村の時、上野村へ移しましたが、只今中性院に御本尊として祀られてあるのがそれでありまして昔から六十年に一度だけ開扉することになってゐます。数年前京大の西川直二郎博士が取調べられました時、これは実に立派なもので、国宝に準かる名作であるから厳重に管理するやうにと申されました。おこう野にはいつもり長者の屋敷跡といふのも残ってゐまして先年誰かゞ発掘致しましたが、石器.土器の類は出たが、傳承に残ってゐる黄金の茶釜も金の鶏も一向に出て来ませんでした。 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教育委員会・S60)に、 「おこうの村」といつもり長者
網野町の浜詰から、久美浜町と葛野部落にかけての海岸砂丘地帯を、往古には「おこうの村」と称した。そLて家が千軒もあって栄えていたとの伝承があります。 この村に「いつもり」という長者がありました。この人はもと伊賀の上野の出身で 裕福な家であり、深く観世音を尊信していたそうです。 ある年 屋敷に植えた杉苗が、僅かの期間に大木に成長Lて この不思議なできごとに長者は驚きましたが、前代未聞のできごとだとで、遠近の人々が毎日見物にやって来たといいます。 そこで長者は念のため、占師にうらなわせましたところ 「これは、み仏の因縁じゃ、この木を伐って観音の像を刻んで祀れとのお教示があった」と言う。そこで長者は仏師に依頼しこの木を伐って観音像を刻ませました。 三体の御像が出来上りましたので、一体は大和の長谷寺に、一体は但馬の湯島(今の城崎)の温泉寺に寄進し、一体は、わが家に祀っていたのです。 その後、ある年、長者は国主の意に逆う事件に関係したため、その地に住めなくなり、観音の尊像を背負って霊地を廻国し、ついに丹後のこの浜に留りました。おこうのの地に、住居をつくり、別に一寺を建立して観音の像を祀ったのであります。 ところが、たった一人の娘の頭に二本の角らしいものが生えるという奇病にかかり、それがだんだん延びてゆきます。長者は医師にも見せ、充分な手当てをしたが効なく、この上は神仏にたよるよりほかないと考え、村の氏神であった岩船の神に毎日日参して祈願しました。 ある夜、岩船の神が、長者の夢枕にあらわれ 「その方の善根と熱心な願いにより、その願いは聞きとどけたいと思うが、わしの力では一本しか落すことができない。残りの一本は観世音に頼め」と告げられた。 長者はたいへん喜こび、それからは伊賀より移して祀った観音堂に娘を日参させましたところ、ちょうど百日の満願の日の帰りに、途中で最後の一本もころりと落ちました。 村の衆は、その角の落ちた所を、娘の名をとって「さいが鼻」と言うようになりました。娘の名を「おさい」と言ったようです。 さてこの霊験あらたかな観音堂は、上野岡の天王の地の薬王寺境内に祀られていたのですが、強い西風のたびに海岸の飛砂が境内を埋めるので、慶安四年(一六五一)に、現地に移され、寺名も真言宗、薬王寺覚性院と号していました。 その後、明治五年(一八七二)無檀家の故にて廃寺になるところ 久美浜町大向の迎接寺内から中性院を移したことにして、今日では寺名も改め、真言宗中性院となっています。 (原話 俵野 井上正一)
両墓制
両墓制とは、遺体を埋める第一次墓地(埋め墓)のほかに、さらに別に死者の霊を祭る第二次墓地(詣り墓)の二つの墓地をあわせ持った慕制である。 両墓制の起源については、なお今後の研究にまたなければならないけれども、古くから死亡による忌・穢れを恐れる観念を培ってきたわれわれの祖先が、死者の埋葬地を記念して墓碑を立て、死霊を祭ろうとする新しい意識を持つようになったため、この新旧両方の観念が習合して、埋め墓と詣り墓とを営む墓制を生むにいたった、と一応は説明されている。 市内における両墓制の研究については、「丹後の両墓制」(井上正一、舞鶴地方史研究第一七号所収)があるが、これに今回の調査結果を補足して記したい。 両墓制の分布状況は図のとおりであるが、この墓制も、明治以降、徐々に今日一般的にみられる埋葬地に墓碑を立てる単墓制に移行しており、たとえば、平・小倉・東神崎・西神崎のごとく現在では字内全戸が単墓となったところや、与保呂のように両墓の家は字戸数の一三%にすぎなくなったところも生じている。 両墓の称呼は、埋め墓を「ミハカ・ミバカ」と呼ぶのがもっとも多く、その他、「ウメバカ」・ マイソウバカ」・「ミボチ」・「ホンバカ」・「サンマイ」といい、詣り墓は、ほとんどが「セキトウバカ・セキドウバカ」と称し、ほかに「マイリバカ」・「オガミバカ」・「ヒキバカ」・「ラントウ」というのもある。また女布の両墓、白杉の埋め墓のように、墓地の所在地名・地形名を呼称としているところもある。なお栃尾・鹿原では、普通の埋め墓は「ミハカ」と称するが、伝染病死者・行き倒れ人とか死牛馬の埋葬墓を特に「サンマイ」という。 埋め墓と詣り墓との距離は、ところによりまちまちで、遠くて一キロメート近くは前後や左右に相接しているものもある。 埋め墓の多くは個人所有地で共同墓地の字は少ないのに対し、詣り墓の方は私有地の字と共同墓地の字とがほぼ同数ぐらいあり、中には多門院・堂奥のごとく字内が個人墓地と共同墓地とに分かれているところもある。 盂蘭盆や年忌法要などには、どの家も埋め墓・詣り墓の双方に参っているが、野原では三十三回忌ないし五十回忌を過ぎると、「ホンバカ」は古いものから埋けかえるので、その年忌から後は「マイリバカ」の方だけへお参りする。田井では、五十年忌になると椎の木の枝付き塔婆をつくって「セキドウバカ」に立て、死者は神さんになったといって、それからは「ミハカ」には詣らない。埋め墓を祭るのは笹部・白屋・岸谷でも五十回忌までであるが、森のように二百年忌までのところもある。 なお、吉坂・小倉では「ミバカ」の各墓ごとに、かつては樒を植えたという。 『綾部市史』に、 両墓制
墓制の方式には単墓制と両墓制とがある。死者の遺骸や遺骨を埋葬した上に墓石をたててその霊をまつる形式が単墓制であり、埋葬地とは別に祭地を設け、墓石をたてて死者の霊をまつるという二つの墓地をもつ形式を両墓制という。 両墓制は日本人の霊魂観や祖霊観の根源に迫るものをもつ墓制であって、その発生過程を知ることは墓制変遷史の上で重要である。この両墓制は全国的にみられるが、特に近畿を中心に最も多く分布する。このように中央先進地域に偏在している事実は、古いしきたりが周辺地域に残されるという理論と矛盾していて、両墓制が古いしきたりといえないところがあり、民俗学的にもまだ解明されていないものである。 丹波では六郡どこにも両墓制が分布していて、船井郡二八地区、桑田郡一三地区、多紀郡七地区、氷上郡八地区、天田郡一地区と特に船井郡に多い報告が出されている。(磯貝勇 丹波地方及びその周辺における両墓制について) 綾部市内では上林地域にあるし、東八田地域の一部にもその形跡がうかがえる。この分布はさらに北へ伸び、若狭大飯郡から舞鶴市の大浦地方におよんでいる。このことは単に地域性だけで片付けられないものがあり、どのように位置づけるかは今後の研究にまつところである。 上林地域の両墓制は、奥上林のほとんどの地区と中上林の数町区にみられ、その形式はそれぞれ集落によって少しずつ異っている。第一次墓地をウメバカ・イケバカ・ミハカ・村バカなどとよび、第二次墓地をヒキバカ・マツリバカ・カブバカなどとよんでいる。この第一次墓地と第二次墓地との距離は念道・草壁・神塚・市茅野のようにかなり離れている所もあるし、志古田・川原・小仲・早稲谷・古和木・栃・小唐内・大唐内のように極めて近接しているところもある。死者の遺骸を埋葬し土盛りのままにしておくものが多く、自然石を置くものもある。このウメバカはほとんどが共同墓地になっており、その中で各戸別に墓地がきまっているところや、死者が出ると順に埋めていき、何年か経過すると初めのところへかえって埋めていくところなどがある。埋めたあとは草や笹が生い茂ってどこへ埋めたかわからなくなっているところも多い。お盆には草を刈り掃除をするところもあるが、二、三年に一度刈るところ、全然刈らずに埋めるときだけそのあたりを刈るところなどがある。ステバカという呼び方があるが、全くそれに近いところもある。埋葬地への墓参は地区により四九日、初盆、一周忌、三回忌などと一定しない。 第二次墓地へ移すことを「墓をヒク」という。つまりヒキバカの呼び方を意味するもので、このときに石を一つ持っていくとか、土を一握り運んでいくというのが一般的であるが、最近あまり行わなくなったところもでてきている。墓をひいてからあとウメバカにはまいらないところ、三年ほどまではまいるところ、長期間まいるところなどがある。 ウメバカは家から遠く離れた山や丘の上、河原などにつくられ、ヒキバカは家の近くでまいりやすいところにつくられているとの報告もあるが、上林地域では、そういうところもあるし、ウメバカとヒキバカが隣り合っているところも多い。 ヒキバカは個人の家ごとにつくられるか、株ごとにつくられるかのどちらかであって、狭い墓地に石塔がひしめきあって建てられているところが多い。近年は個人の石塔をたてる余地がなくなって、「○○家先祖代々之墓」をたてて個人碑をたてない家も出てきた。 このような墓碑はいつごろから建てられるようになったのだろうか。両墓制・単墓制に限らず死者の埋葬地をとどめるとか、祭地を設けるために自然石を置くことがはじまり、やがて宝篋印塔や五輪塔などの墓碑がたてられるようになった。しかし庶民の墓地として刻名ある石碑を建てるのは近世以降である。ヒキバカの石塔の中には、室町末期の宝篋印塔や五輪塔、桃山時代の石造厨子や石仏龕などのほかに小形板碑・一石五輪塔が元禄以後の石碑に混在している。このように両墓制が行われている地区には、特色としておびただしい数の板碑や一石五輪などが墓地に造存しており、単墓制の地区にはみられない傾向である。両墓制の一つの墓地であるまいり墓は、現実にはすべて石碑・石塔が建てられていることからして、石碑以前のまいり墓がどのようなものであったかが問題である。推論ではあるが寺院がまいり墓の性格をもっていたのではなかろうか。睦寄町光明寺や睦合町善福寺では詣り墓の意味をもっていたと考えられる習俗を伝えている。 死穢を忌み遠ざけようとする気持ちと、死者を親しみなつかしんで別れがたい感情との二つの対立する心情が、こうした両墓制の基盤になっているといわれている。 『和知町誌1』に、 墓制
今日、墓と呼ばれるものは次に述べる二つの側面を持っている。すなわち、 @ 遺骸や遺骨を葬った場所=葬地 A 死者の霊を祀る場所=祭地 そうした墓の役割や仕組みのことを一般に墓制と呼んでいるが、墓制には「単量制」と「両墓制」の二つがある。単墓制とは右の@とAの役割を一つの墓で満たしている場合のことで、呼び方は単に「ハカ」と呼ぶ。両墓制 とは、@とAが別々の場所に設けられている場合で、ウメバカ(埋め墓)とマイリバカ(詣り墓)に分かれることになる。両墓制は中世の末ごろから近世の初めにかけて発生したと言われ、近畿地方の北部に特に多い(図69)。 両墓制の生まれた主な理由は、日本の社会に昔から根強い「死穢」死者は不浄・穢れ多いものとしてこれを忌み、遠ざけようとする考え方)の観念に基づくと言われ、結果として@(葬った所)とA(祀る所)が区別して扱われる形になったものである。 和知における墓制を集落別に表すと表109のようになる。 つまり単墓制のみの所が一二集落、両墓制のみの所が一三集落、両墓制と単墓制の双方を含む所が二集落といった具合である(この表は、主に昭和五十年(一九七五)代ぐらいまでの実態に基づいてまとめた。現状とは若干異なる)。 これを見ると、単墓制は主に篠原以北と下地区の左岸地域にほぼ集中していると言える。また複数の墓制を有するのが中山と稲次であるが、その理由ははっきりわからない。前の分布の理由も同様である。 明治以後の墓地事情 最近になって火葬が一般化するまでの埋葬地(集落ごとの共同墓地)は、どの集落でも各民家から相当の距離にあり、しかも高燥(高くてよく乾いている)な土地に限られていたが、これにはそれなりの理由がある。 従来の墓地は個々の民家ごとか、カブ(株=同族の集団)ごとの単位で、住居からそう遠からぬ位置に設けられるのが近世以来の姿であった。ところが明治十七年(一八八四)十一月十八日付の内務省通達「墓地及埋葬取締規則」が出されたことによって、町域でも多くの集落で先に述べたような状況に変わっていったのであった。 〇人家及国(県・府)道、鉄道並ニ河川ヲ隔ツル六十間以上 ○土地高燥ニシテ近傍ニ人家ノ飲料水ニ支障ナキコト というのがその骨子であった。京都府でも明治二十七年になって、趣旨の徹底のために府令を出し、所轄の警察署による行政指導や学校教員の働きかけを通じてその実現を図った。小畑では既に明治二十四年十一月に龍福寺境内に共同墓地を新設(明治廿四年十一月廿一日「字小畑墓地申合規約」)しているし、細谷でも三十年ごろに条件に合致した場所に墓地を移転(ヒキバカ)した事実がある(今西愛之助談)。 しかし、その後の移行の実態は時期も形態も集落によってまちまちで、最近まで旧来そのままの所もあれば、新しく造る墓のみを共同墓地に設けるとした例などもある。が、いずれにしても墓地の位置が高い山腹などにあって、埋葬時や墓参の際に難渋することが多かったので、そうした所では最近再移転した例もいくつかある。) 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 両墓とは、埋め墓と祭り墓(拝み墓)と二か所つくり、埋め墓は石を置いた簡単なものであるが、祭り墓は三、四回忌から七回忌までの間に、家の近くの参るのに便利な所に立派な墓を建てるのが普通である。
この珍しい風習は府下では亀岡市千代川の千原、園部町大村の横田、宮津市の中津、久美浜町葛野などの部落に見られる。熊野郡の湊には埋葬後三年目に改葬する引墓がある。
『舞鶴市史』に、 蛇島
蛇島には大昔、大蛇が住んでいて、前の佐波賀村の人々を苦しめて仕方がなかった。佐波賀上、下の中間に「子ナギ」という谷があり、昔は両字の人たちはこの谷に住んでいたが、蛇島の大蛇がねらって痛めるので、上、下に分かれたという。 この大蛇を退治したのは、雲門寺の開山普明国師であるといわれ、また大蛇は雄島へ逃げたともいわれるが、とにかく蛇が住んでいたから蛇島と名付けられたといわれている。 【丹後の伝説】 『舞鶴の民話2』に、 カラス島 (佐波賀上)
舞鶴の東湾の方には、蛇島とからす島という島がある。蛇島は大じゃが住んでいたとというけど、今はからすの巣である。なぜからす島にからすが住んでいないのか古老にそのわけを聞いてみた。 むかし、からす島にはたくさんのからすが住んでいた、いつのまにか島のどうくつにふくろうが住みつきました。はじめは仲よく住んでいたのですが、ちょっとしたことで仲たがいをしてしまった。からすは羽根が強く、昼はじょうぶな羽根でふくろうをいじめていました。しかし、ふくろうは夜になるとよく目が見えるので、夜になるとからすをいじめました。ねる頃になるとふくろうはからすをつついたり、たたいたりしたのでからすは段々ね不足になった。その為かからすはとなりの蛇島にうつってしまったのです。それよりこの島はふくろうの天下になってしまったのです。 からす島には弁天さんという女の神様がまつってあります。へび年の七月生まれで、とてもきれいな女の人で、七福神の一人で、お金の神様の一人です。 毎年七月の十二支の巳の日におまつりがあり、豊作、豊漁、家内安全をいのったそうです。たいこをたたいてとにぎやかなお祭りでなく、船で島までいって、おまいりするだけでした。 今は自動車を各家に持つようになり、町に出る船を持っている家もすぐなくなり、おまいりもほとんどなく、魚つり業の人たちが、都会から来た人を案内する船があるだけで、島々や蛇島の附近は釣人のつり場としてさかんで、夜になるとこの島からふくろうの鳴き声がきこえてきます。 |
資料編の索引
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第二集