-中郡(丹波郡)-
〈 ![]() 大正十五年十一月 永浜宇平 ![]()
中郡
同郡峰山領
![]() (参考) ![]() 丹後は真言宗がそれでもけっこうあるが、少ないと言われ、現在は宗派が違うが、元は真言宗だったと伝える寺院もある。禅宗は鎌倉時代からくらいで、時代の武士の政治文化と共存共栄でやってきたような面がある。それ以前の古い宗派の寺院は武士以前からあるものだから、武士には合わないことになる。新しい時代の流れに、潰されたり、潰れたり、新宗派に転宗して生き延びようとしていったものと思われる。 『峰山郷土志』 〈 ![]() 今、一つの理由は、文禄二年のこと細川思興の内室(おくがた)の依頼によって、丹後の国中の真言宗の寺院が、ひそかに家孕を祈ったが、それがもれたため、忠興は非道な祈祷を行なうた四十八ヵ寺を倒し、寺領を取り上げ、僧を追放したと伝えられる。家孕とも、国孕とも孕女、または子女を祈らせたとも記されていて、これ以上何の説明もしていない。文字の上から考えると、世継ぎの子供を生むことを祈らせたものと解せられるが、忠興が「非道の祈り」と激怒したくらいであるから、余程のいきさつがあったのではなかろうか。確かな資料がほしいものである。また、内室とは玉子(ガラシャ夫人)ではなかったであろう。安徳山善王寺(平岡)、小盧山善成寺(小西)、礒砂山笛原寺の大伽藍が荒廃しつくしたのは、この真言倒しの時であろうか。また、この事件については、丹後の寺々が一色氏関係のものであったからとの説もあるが、直接の原因は他にあったとみるべきではなかろうか。おなじく大伽藍と伝統を誇る縁城寺が、この難をまぬがれたのはなぜであるか。かつての天皇勅願の寺として遠慮したものか、それとも将軍尊氏崇敬の寺のためか、釣鐘がその身代りとなって奪い去られたとみることもできよう(舞鶴桂林寺にある)。当時、丹後の寺院のほとんどが真言宗であったことも偉観であるし、これから山岳宗教の状態をしのぶこともできる。 平岡城の堀を埋め、山を切り下げ、善王寺の伽藍の跡などを開拓して田にしたのは、この十年後の慶長七年のことである。 ![]() 『京丹後市の伝承・方言』 〈 ![]() 旧丹後国内の寺院史を考える際に、しばしば 「丹後の寺院は真言倒しにあい、今では真言宗が少ない」と口にされることがある。確かに現在は曹洞宗、臨済宗寺院が多く、それに比べると真言宗は少ない。しかし、真言倒しの実態がどのようなものであったかについては不明な点が多く、伝える寺院によって内容はまちまちである。その原因・時期も寺院によって相違しており、おおよそは、戦国時代に戦乱のため真言宗寺院が焼き討ちにあったというものである。『丹哥府志』「善王寺」の項、『峰山旧記』「禅定寺」の項によると、真言倒しにあった寺院は四八ヶ寺であったと伝えられているが、どの寺院を指すかは不明である。現在、旧丹後国内の寺院中約一割は真言宗寺院であるが、その全てが真言倒しを伝えているわけではない。真言倒しを伝えない寺院があるのも事実であり、その違いについてもはっきりしたことはわかっていない。 京丹後市内での一例を挙げると、善王寺(大宮町善王寺)がある。往時は大伽藍を備えた寺院であったと伝えられているが、『丹哥府志』によると文禄二年(一五九三)に細川忠興により滅ぼされたとする。現在は毘沙門堂一宇が残り、近隣の三要寺の管理となっている。 残念ながら実態をつかむのは難しい状況であるが、市内の寺院を調査すると現在所属する宗派ではあまり祀らない仏像が残されていることがある。言い伝えによると前身の寺院のものであったり、近隣で廃絶した寺院から持ち込まれたものとされており、寺院の消長を探る一つの手がかりを与えてくれる。今後の課題といえよう。 ![]() ![]() ![]() 同郡峰山領(このページ) 竹野郡 ![]() 熊野郡 ![]() 与謝郡 ![]() 加佐郡 ![]() 田辺城下 ![]() |
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