-中郡(丹波郡)-


『丹後国寺社帳』(1682)








 『丹後国寺社帳』は天和二壬戌年(1682)、阿遮梨頼元の書。↓これは『丹後資料叢書』に収録されたものですが、永浜宇平氏の解説によれば、…


 〈 成就院頼元は京極侯の帰依僧宥榮三成就院中出色の高資なり、宥榮法印初め田辺円隆寺成就院を開き後も高廣侯の宮津に徒るに従って大窪山を開きて密厳寺成就院を建て、のち更に移りて谷内岩屋寺に入り三たびの成就院を成就せしめたる名僧なるが其の資頼元は岩屋寺光研阿遮梨補忘録中の所謂「寛永中古丹後守高廣公自二田辺一移二宮津一之時不レ選二僧俗男女一有レ由之族共移レ之、榮師者田辺在二圓隆寺一高廣公有二檀信之因一依リ之移二宮津一建二成就院一、寛永十一甲戌秋譲二成就院於資頼元一隠二于此地一汲レ水担レ薪構二于宇一宇一安二本尊一矣」と見ゆる比の頼元にて京極侯が豊大閤より伝へられたら菅公像を今の桜山天神に奉祀したる社僧なり、此の書天和二年の収録に係り阿部正邦侯封治の第二年丹後現在の寺社を書き留めたるものにて巷間流布しつゝある丹後寺社帳の最も古きものに属す、尚ほ同師の編になれるものに鶴城雑記一冊あり爾後後岡焼明州法印の元治丁丑五月に収録せる御領分寺社集覧なるものもあれど此には頼元阿遮梨の寺社帳を挙ぐることゝせり。
   大正十五年十一月       永浜宇平  〉 



中郡


 中郡
  
       (参考)
洞宗 五十河村 妙性寺 京丹後市大宮町五十河
延利村 長福寺 京丹後市大宮町延利
久住村 本光寺 京丹後市大宮町久住
済宗 明田村 高原寺 京丹後市大宮町明田
森本村 興勝寺 京丹後市大宮町森本
洞宗 三重村 萬歳寺 京丹後市大宮町三重
真言宗 谷内村 岩屋寺 京丹後市大宮町谷内
日蓮宗 奥大野村 長福寺 京丹後市大宮町屋大野
洞宗 光明寺
下常吉邑 常林寺 京丹後市大宮町下常吉
日蓮宗 上常吉村 経典寺 京丹後市大宮町上常吉
口大野村 常徳寺 京丹後市大宮町口大野
周枳村 妙受寺 京丹後市大宮町周枳
洞宗 周徳寺
鱒留村 全徳寺 京丹後市峰山町鱒留
新治村 十方院 京丹後市峰山町新治



 同郡峰山領

       (参考)
済宗 河辺村 萬休院 京丹後市大宮町河辺
日蓮宗 妙徳寺 同 
一向宗 正覚寺
済宗 善王寺村 三要寺 京丹後市大宮町善王寺
長岡村 安穏寺 京丹後市峰山町長岡
一向宗 蓮光寺
日蓮宗 常教寺
真言宗 五箇村 笛原寺 京丹後市峰山町五箇
済宗 慶徳院
菅村 常泉寺 京丹後市峰山町菅
小西村 禅定寺 京丹後市峰山町小西
安村 渓禅寺 京丹後市峰山町安
真言宗 橋木村 縁城寺
十輪院、
西明院、
彌勒院、
不動院、
心王院
京丹後市峰山町橋木
済宗 矢田村 長安寺 京丹後市峰山町矢田
丹波郷村 相見寺 相光寺。京丹後市峰山町丹波
内記村 林香寺 京丹後市峰山町内記
荒山村 少林寺 京丹後市峰山町荒山




(参考) 真言倒し

丹後は真言宗がそれでもけっこうあるが、少ないと言われ、現在は宗派が違うが、元は真言宗だったと伝える寺院もある。禅宗は鎌倉時代からくらいで、時代の武士の政治文化と共存共栄でやってきたような面がある。それ以前の古い宗派の寺院は武士以前からあるものだから、武士には合わないことになる。新しい時代の流れに、潰されたり、潰れたり、新宗派に転宗して生き延びようとしていったものと思われる。

『峰山郷土志』

 〈 【丹後真言倒し】その三年後の文禄二年(一五九三)忠興は、丹後の真言宗四十八ヵ寺を廃し、僧侶を追放した。これを丹後真言倒しと呼んでいる。ことの起りについてはまちまちであるが、その理由の一つは、元亀二年、織田信長のために焼かれた比叡山延暦寺の僧が丹後に逃げ込み、真言の僧たちをかたらって信長誅滅の祈祷を行なったが、その祈祷の霊験によって、天正十年六月二日(一説、三日)逆臣明智光秀のために、本能寺で自刃したのであるという噂がひろがったためであるという。
今、一つの理由は、文禄二年のこと細川思興の内室(おくがた)の依頼によって、丹後の国中の真言宗の寺院が、ひそかに家孕を祈ったが、それがもれたため、忠興は非道な祈祷を行なうた四十八ヵ寺を倒し、寺領を取り上げ、僧を追放したと伝えられる。家孕とも、国孕とも孕女、または子女を祈らせたとも記されていて、これ以上何の説明もしていない。文字の上から考えると、世継ぎの子供を生むことを祈らせたものと解せられるが、忠興が「非道の祈り」と激怒したくらいであるから、余程のいきさつがあったのではなかろうか。確かな資料がほしいものである。また、内室とは玉子(ガラシャ夫人)ではなかったであろう。安徳山善王寺(平岡)、小盧山善成寺(小西)、礒砂山笛原寺の大伽藍が荒廃しつくしたのは、この真言倒しの時であろうか。また、この事件については、丹後の寺々が一色氏関係のものであったからとの説もあるが、直接の原因は他にあったとみるべきではなかろうか。おなじく大伽藍と伝統を誇る縁城寺が、この難をまぬがれたのはなぜであるか。かつての天皇勅願の寺として遠慮したものか、それとも将軍尊氏崇敬の寺のためか、釣鐘がその身代りとなって奪い去られたとみることもできよう(舞鶴桂林寺にある)。当時、丹後の寺院のほとんどが真言宗であったことも偉観であるし、これから山岳宗教の状態をしのぶこともできる。
平岡城の堀を埋め、山を切り下げ、善王寺の伽藍の跡などを開拓して田にしたのは、この十年後の慶長七年のことである。   〉 


『京丹後市の伝承・方言』

 〈 丹後と真言倒し
 旧丹後国内の寺院史を考える際に、しばしば 「丹後の寺院は真言倒しにあい、今では真言宗が少ない」と口にされることがある。確かに現在は曹洞宗、臨済宗寺院が多く、それに比べると真言宗は少ない。しかし、真言倒しの実態がどのようなものであったかについては不明な点が多く、伝える寺院によって内容はまちまちである。その原因・時期も寺院によって相違しており、おおよそは、戦国時代に戦乱のため真言宗寺院が焼き討ちにあったというものである。『丹哥府志』「善王寺」の項、『峰山旧記』「禅定寺」の項によると、真言倒しにあった寺院は四八ヶ寺であったと伝えられているが、どの寺院を指すかは不明である。現在、旧丹後国内の寺院中約一割は真言宗寺院であるが、その全てが真言倒しを伝えているわけではない。真言倒しを伝えない寺院があるのも事実であり、その違いについてもはっきりしたことはわかっていない。
 京丹後市内での一例を挙げると、善王寺(大宮町善王寺)がある。往時は大伽藍を備えた寺院であったと伝えられているが、『丹哥府志』によると文禄二年(一五九三)に細川忠興により滅ぼされたとする。現在は毘沙門堂一宇が残り、近隣の三要寺の管理となっている。
 残念ながら実態をつかむのは難しい状況であるが、市内の寺院を調査すると現在所属する宗派ではあまり祀らない仏像が残されていることがある。言い伝えによると前身の寺院のものであったり、近隣で廃絶した寺院から持ち込まれたものとされており、寺院の消長を探る一つの手がかりを与えてくれる。今後の課題といえよう。  〉 






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