城屋の揚松明 '2010


城屋の揚松明
 城屋の揚松明は、毎年8月14日の夜10時、雨引神社境内で行われます(予定)。
 

 「城屋の揚松明」は、だいたい夜10時くらいから始まります、場所は雨引神社境内広場。駐車場や公共交通機関も申し訳ありませんがございません。自転車やタクシーなどでお越しいただければ、たいへんに助かります。揃ってのお越しをお待ちいたしております。



雨引神社(舞鶴市城屋)

↑雨引神社(地元ではジャガミサンと呼ばれるように、本来はというか素朴な信仰としてはヘビが祀られていると思われる)

雨引神社本殿

↑ 『京都府の地名』に、
雨引神社 (現)舞鶴市字城屋
 城屋の小字キノフに鎮座する。祭神は水分神。旧村社。
江戸時代には「天曳明神」(旧語集)といい、「天引」(丹後旧事記)とも記した。草創については不詳だが、伝承によれば、弘治年間(一五五五−五八)女布の土豪森脇宗坡が娘をのんた大蛇を討ったあと、三断した頭部を祀ったのが当社の起りという。これは当社に伝わる特殊神事揚松明の起源を、大蛇の供養に由縁するという説に付会したものであろう。
 揚松明は旧語集に「大松明の祭 珍鋪祭ニテ年ノ豊凶ヲ試」とある。大松明の中央、神幣を付けた大竹が萌え尽きて倒れた方向によってその年の豊凶を占う神事である。揚松明については大蛇供養説のほか、雨乞説があり、明治の神社明細書は天保(一八三〇−四四)の頃を起源としている。この行事は現在も継承され、市の無形文化財に指定されている。

雨引神社境内社

↑ 『火祭の里』に、
境内建物
・雨引神社棟上
 ・安政六年(一八五九年)九月十一日 改築
  大工棟梁 堀田亦左衛門(五良作家)
・境内十一社
多賀神社・今刀比羅神社・兵主神社・熊野神社・大川神社・八幡神社・神宮神社・春日神社・稲荷神社・正勝神社・若宮神社
・嘉永二年(一八四八年)改築
・昭和五十五年(一九八○年)再建
・鳥居 明治初年欅の大木により再建
    昭和五十五年袖柱四本補修
・お堂 慶応年間(一八六四年)新築
・狛犬 文久元年九月 氏子寄進
・橋  昭和五十二年七月 改築


 「城屋の揚松明」は、毎年8月14日の夜(点火は10時くらいから)に行われる伝統民俗行事。雨引神社の境内で、高さ5丈3尺(16メートル)の大松明に、村の青年たちが火の付いた小松明を投げ上げて、点火する。
日本各地に同じような行事も伝わるが、今の丹後では、この「城屋揚松明」行事がもっとも勇壮華やか見事で感激もの、流れ落ちる汗も忘れさせてくれる。

 『加佐郡誌』は、次のように伝えている。
燃え上がる揚松明(舞鶴市城屋)
城屋の揚松明(高野村現勢調査書による説)。高野村城屋の雨引神社で行はれる毎年の行事であるけれども其の起源は詳でない。古老の伝説を聞くと昔本村開拓の際に田圃稍開けて人民が多く来て住んだ。然るに日照りが長く続いて少しも雨ふらず遂に五穀は皆枯れやうとした。それ故人民どもは非常に困っていた。時に一人の偉人があって之を非常に憂ひ自ら日浦ケ岳の水源を探し荊刺を啓き辛うじて一神池を発見した。(現に池ケ谷と云って一つの小さな池がある)又神の告を得て一大松明をともし大に神を祭り雨のふることを祈った。是から風雨は順調に来て五穀は豊熟した。それで村民は其神霊を安置して雨引神社としたといふことである。降って中頃天保年間に大に旱した。藩主牧野侯は大いに之を憂へられ近郷(加佐郡中部十九ケ村)の民をして共同して大松明を奉られめたのに其神霊の感応があって大雨沛然として来た。領主及近郷の者は挙って其神徳を称へた。それより参詣する者は常に絶えない。毎年七月十四日此の大松明を点火して例祭とするのである。抑も此松明は実に近国に其の類を見ない大規模なもので、予め備へてある長さ五十尺以上の大木の梢に清い麻殻で組んだ径八尺以上の擦鉢形の大松明、中央高く三十尺以上の大竹を附け其の梢に神幣を奉祀して之を全村民で押起し、其直立するに至って予め其木の九合目に付けた大縄で三方に引止め容易に倒れないやうにする。而して之に点火するものはもとより地方の特技であって其の時刻になると村内の少壮者は身を清め各自小松明を携へて之に神火をつけて其の松明の周囲に輪形に並び一時に哄声を挙げて極力之を揚げる(其最も高いのは七十尺に達す)そうして此の小松明が梢頭の鉢内に止ると火は直に麻殻に移り暫くにして全部一時に燃へる其の火炎の上ること一丈余り。此時鉢内の爆竹の作用によって爆声は轟然続発して無数の火の子は点々大空に飛揚する。其の様はさながら衆星が一時に集中する様で、其の奇観はとうてい云ひあらはすことが出来ない。特に不思議なのは其の白幣は火焔の中に包まれて竹の本が燃えると同時に静かに倒れて地上に墜ち、(此の神幣の倒れる方向によって其年の豊凶を知ると云ふことである)祭典は之で終りを告げるが、其の神幣は常に一点の火傷も受け給はないで無事に神殿に納め置く事が出来るといふことである。此を所謂揚松明と云ふのである。
燃え上がる揚松明(舞鶴市城屋)
城屋の揚松明(舞鶴による説)。舞鶴町を西南に距る里余高野村城屋に雨引神社といって水分神を奉祀した村社がある、俗に「蛇神さま」と称へ毎年陰暦七月十四日の夜揚松明の行事があるが、その伝説には実に奇なるものがある。今を距る三百余年前後奈良天皇の弘治年間に一色氏の遺臣森脇宗坡といふ郷士がこの村字女布に住んでいたがその長女が何鹿の郷士赤井氏に嫁し三日の里帰りのため城屋の日浦が谷を越したところこの谷に棲む大蛇のために喰はれた。そこで宗坡は大いに怒って直ちに馬に乗って城屋に馳せ日浦が谷に到り岩の根に駒の蹄を止めて谿間に蜿蜒たる彼の大蛇を射た、ところが大蛇は忽ち爛々たる眼を怒らし毒焔を吐いて宗坡に向って押し寄すると見る間に暴風は脚下に起こり霹靂は頭上を掠め猛雨は沛然として臻り天地晦暝谷鳴動して物凄いこと到底名状することも出来ない、宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫といふところへ退きその谿間に身を構へて猛り狂ふて迫って来る大蛇を射止め、これを三断した、すると雨は霽れ風は収まり夕陽は赤く宗坡を照してさながら勝ち誇る郷士を擁するが如くに見られた。かくして宗坡は大蛇を退治したがたとひ愛娘の仇とはいへすでに討ちとった以上蛇の霊は天に帰したのであるといふのでその菩提を弔ふため三断した頭部を城屋に祀り腹部を野村寺に祀り尾部を由里に祀ることにした。其の城屋に祀られたのが即ち雨引神社で、野村寺のが中の森神社、由里のが尾の森神社であるといふ。そして其の大蛇の鱗片は今も宗坡の後裔に伝へ藏せられているとの事。これから雨引神社が雨乞ひの神として崇敬せられ又宗坡が蛇を退治したといふ陰暦七月十四日には大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明の童典が行はれることになったのである。

 その揚松明は長さ五丈の大木の梢頭に麻殻で組んだ径八尺以上の摺鉢形の大松明に、中央高さ三丈以上の青竹を付けその梢には神帯を奉祀してこれを全村民で押し起こし、時刻になると村内の少壮男子はともに潔斎して各自に小松明を携へて神火を点じ、大松明の周囲を取り巻いて一斉に哄声を挙げ、手にせる小松明が梢頭の鉢内に止まると火は忽ちにして麻殻に移り火焔は天を焦がし爆竹の音深山に谺して壮観実に例へ様がない。そのやがて燃終らうとする頃引き止めた大綱を緩めてこれを地に倒すのであるが、そのさまは恰も火焔を吐ける獰猛な大蛇の最後に似て凄々言語に絶する。竹梢の神幣は火焔の中にあっても常に一点の火傷を受けられる事もなく無事これを神殿に奉祀するのであるが、その神幣の大松明の梢頭から倒れ落ちた時、雨のやうに降り来る火の粉を冒してそれを取り出して神殿に奉祀する名誉ある任にあたるものは、先頭第一に梢頭の鉢内に小松明を止め得た青年で、この青年は全村謳歌の中心になるといふことである。

↓ 大松明の製作。朝6時から始められ、昼頃まではかかる。材料は麻殻(おがら)麻薬の大麻です、今は城屋では栽培はしていません。この神事用としてかつては当地で栽培されていた、ずっと太くてメラメラペンペンと音たてて燃えたという、この神事の長い長い歴史と較べれば、ごくごく最近に出来た法律のため栽培できなくなり、遠地より細いものを購入している。
『魏志倭人伝』にも「禾稲、、紵麻を種え…」とあるように、稲と同じように大麻は大昔より栽培されていた、貫頭衣などはこれから作ったものであった。男子はミズラを結い、木綿を頭にかけている、とある。ここの木綿はユウのことで楮の木の繊維。絹は古くからあるが、木綿(コットン)は16世紀頃からのもので、中国にもまだなく、庶民は大麻の繊維で紡いだ着物を着ていた、今も麻の涼しげな服はあるが、どの地でも栽培されたきわめてポピュラーな身近な植物であった。大麻に麻薬効果があることは知られていなかった。もともと日本産のものはそれくらいの「麻薬」でしかないものと言われる、仮に服用したからといっても効果があるとは限らないそうで、たいていの人には何も効果がなさそうだと大麻栽培の歴史は教える。ただインド産のもののなかには麻酔効果のあるものもあり、それを抽出するとマリファナになる。何かほかの原因がこの法律にはありそうに思われるが私は知らない。しかし手は絶対に出さないように。
村は2班に分けられていて一年交替で担当する。尚、綱だけはこれより早く製作される。

大松明が作られていく

↓ 大松明を立てる。できあがれば立てる。昼過ぎくらいになる。


↓見学はこの辺りが特等席。高野川を挟んで対岸の公民館前の広場、広場ではなく道路。例年はこんなスキマなどはなくビッシリだが、今年は少なめか。特等席は上昇気流に巻き上げられた火の雨が時に降る。
少な目はカメラマンにはラッキー。火の粉は大松明の高さの倍以上に高く舞い上がります、ここから写されるなら最低でも24ミリ、できたら10ミリ代、できるだけ短いレンズ、フィッシュアイでもいい、を持ってこられるといい。
城屋の揚松明:ギャラリー


城屋の揚松明:はじまり

↑ここの少し川上でミソギを終えた若者たちが提燈を灯し揃って宮前の橋の上を帰ってくる。

↓小松明に点火して、いよいよ本番がスタート。

城屋の揚松明

城屋の揚松明

城屋の揚松明
↑さあ行くぞ。おお!
20数名の若者が火の付いた小松明を投げ上げて点火する。若者というのは、氏子の高校生以上、上は特に制限はないというが、みんなまじめな子らぁやという、男の子だけ、もし女の子が投げてもまずどのこ子も届かないのでは?

↓16mあるから、元気な男の子でも簡単にはあがらない。あがっても大松明の上に乗ってくれない。だいいち暗くてどこがどこだか見えない、写真に大松明が写るのは、付近にたまたま偶然に小松明の明かりがあったときだけ。

城屋の揚松明

城屋の揚松明
↑めでためでたの大松明が燃え上がるまでは、周囲は暗く、写真は偶然にしか写りません、よく見えないので、何か動きがありそうなら、メモリーある限りシャッターを押し続けられるのがいいと思います、ひょっとしてあるいは、たいへんな名作が写っているかも…。



城屋の揚松明

↑ うまく倒れた(倒した)。この方向でないと柱が折れるかも…
↓川の水を掛けて消火… 小松明や大松明などの燃え殻は魔除けの効果高いと信じられ、争って持ち帰り玄関先などに架けたという。お土産に拾って帰られるといいかも、これが終われば盆踊りが始まります、踊ってお帰り下さい。

城屋の揚松明


 「城屋の揚松明」は、いつから伝わるものとも、何のためかくなることをしているのかも、誰にももはやシカとはわからなくなっている、みんなみんな確かな事はすでに忘れてしまい、文献記録にも確かな話は残らない。
何ともわからないままにも、よくぞ長い年月を、揚松明神事を現在にまで伝えてくれたものと、先人達の努力を誠に有り難く思う。
我らとしても何としても次の世代へと繋いでいきたいもの。何物かと我らなりの研究も添えられればさらに良いのだろうが…

 何度見ても飽きないが、何度写してもうまくは写らない、何度考えてもよくはわからない。大昔のものだから、安っぽい現代人に簡単にわかるわけはないもの。
古くは見ていないようで、一般には愛宕さんの火伏行事説と盆の精霊送り説とある。特に根拠があるとも思えないし、多くの伝統要素が習合しているので一発では決めがたい。
『ふるさと泉源寺』に、(イラストも)
高燈籠(舞鶴市泉源寺) 揚灯篭と力石
 稲の虫送りについて書いているうちに幼い頃にあった泉源寺の習俗に揚灯篭を思い出した。
 七日盆といって墓掃除を行い盆の準備をはじめる時に智性院から桧の旗竿のような竿を青年がワッショワッショとかつぎ出して十王堂(単に堂と呼んで子供の遊び場であり村の中心でもあり盆踊りの場所でもあった)に運ぶ。それをまた総がかりで立てるのであった。位置は丁度、現作業場の西南隅、警鐘台の所で高さもそれと同じくらいであった。
 揚灯竜が立てられるといよいよ盆が来るという思いに幼心は期待し楽しんだ。
 盆の期間中これに木製の灯篭を滑車でつり上げる。菜種油の灯であった。
 民族辞典によると,高灯篭として日本各地の盆行事に出ているが高い竹の竿を用い百数十年前の江戸でもいたるところにこの灯が星のように眺められたとある。
 それが、おいおい軒先の切子灯篭となり次に岐阜提灯にかわってきたとも記されているが、泉源寺では村の中心に揚灯篭を立て各家々はそれぞれ切子をともした。
 わが家では私の記憶では岐阜提灯がすでに使用されていたが近所のたいていは切子であった。…

 こうした静かな物と揚松明のような勇壮な物が同じかと考えれば、やはりノーではなかろうか。では火伏かと考えればそれもノーではなかろうか。これらはいずれも雨引神社伝説、揚松明伝説、大蛇伝説、蛇神さんとはからんでいない。雨乞いならその願いは何もこの村だけに限ることでもあるまいがなぜここだけにしかないのか、そうした農耕的なものというよりも北方的な騎馬民族的な感じをもったりするが、これら三説以前に遡る古い遠い来歴を思うのである。いかにユメなき現代人とはいえ、こんな祭りを見た時くらいはもう少しロマンチックになろうではありませぬか。



 「城屋の揚松明」は、私ももうすでに何度も書いているので、というのか書きすぎて、さらに書くサイトがなくなってきたため、このサイトにも書き込むハメとなっているが、私の説は、説というほどでもないが、こんな風に考えてみては、という程度のものだが、興味ある方は次のものでも参照して下さい。



城屋の揚松明など:丹後の伝説12
城屋の揚松明:アルバム1
当サイトにたくさんありますから検索してみて下さい。

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