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![]() ![]() ![]() 動画は下のほうにあります。 |
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![]() 遠くから来られて5時くらいから陣取っているそう、うまく写るかな… ![]() ![]() ![]() ![]()
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 大松明の16メートルはなかなか届かないのだそう、何度投げても一度も届いたことがなかったという村人もけっこういるよう(そのほうが多いかも)。ボールと比べれば握りにくく軽くてけっこう大きな小松明なので、空気抵抗があって思うほどには投げられないという。ラクラクに届くのは野球をやっているとかそうした腕の強い子だけだったと。写真を分析しても上まで届いているのは3名ほどではなかろうか。 ![]() ![]()
![]() 『定本柳田国男集第十一巻』「柱松考」 …吾輩は先づ最初に柱松と云ふ語が最も普通のものであったことを明らかにして置きたい。長門本の平家物語巻三、成親流罪の条に、柱松因縁事と題する一齣があって、播州柱松の駅の地名由来に就き、天竺震旦本朝に亙って長々と弁じて居る。固より大虚誕であるから受売をするのも大儀であるが、暫らく其大要を録すれば、昔天竺に唯円上人と云ふ人入滅の後、弟子僧の唯智なる者之を思慕し、明くる年の七月十五日に、神応草(芭蕉)の枝に不死教草と云ふ草の枯葉を取掛けて火を附け、「此光に現在に去り絵ひし影を現じたまへ、現身唱光明と唱へたまへば、故上人古の形を些しも違へず」現ぜられた。是を聞いて名残惜しき父母親類におくれた人々、七月半の孟蘭盆の夕に、葬地に往いて火をとぼし、之を光明揚(くわうみやうあげ)と謂つた。我邦では崇神天皇の御宇、花萩大納言の子に少将と云ふ人、七月中の五日亡父の墓所に詣り、墓前に枯れたる木の一本あったのに草の枯葉を結び掛けて火をとぼし、玉姿しのばゝ我に見せたまへ云々の歌を詠んだ。之を柱松と名づけたのは漢国の六宮明寿と云ふ君、命還山頂の松の名木を移して丸柱に磨き成した故事に因るとあって、此点は殊に陳紛漢である。いつの世の盲法師の作略かは知らぬが、さても根気の好い持へ事である。吾輩は毫も盲人の言を證左とする意は無いが、七月長竿の頭に火を点して立てること、即ち近世に所謂盆の高燈籠と相似たる風習が、柱松と云ふ名を以て琵琶流行の足利時代にも既に行はれて居たことは、間接に是から推測し得らるゝと思ふのである。柱松と云ふ地名は独り津の国の官道の上に存するばかりでは無かった。例へば、
和泉泉北郡山瀧村大字内畑字宗峯小字柱松 同 泉南郡山直上村大字積川小字柱松 伊勢度曾郡七保村大字野原字東柱松 下総香取郡多古町大字喜多字柱松 下野上都賀郡日光町大字日光字御柱松 丹後加佐郡西大浦村大字赤野字柱松 但馬美方郡温泉村大字春来字柱松 備中上房郡有漢村字中山ノ端小字ハシラ松 出雲能義郡比田村大字梶福留字梶小字柱松 同 飯石郡一宮村大字高窪字西畑小字柱松 同 八束郡川津村大字西川津字大内谷小字柱松 同 同 大野村大字魚ノ瀬字魚ノ瀬小字柱松 同 同 持田村大字東持田字納蔵小字焼柱 土佐幡多郡伊豆田村大字立石字焼柱 同 同 橋上村大字野地字松柱 筑前鞍手郡笠松村大字芹田字柱松 等の如く、東西の諸州にわたって此地名があるのは、此風習が少なくも或時代には全国一般のものであったことを示す上に、更に進んで考へると、柱松を執行ふべき地点が一定して居たことも推測し得られるかと思ふ。若し然らずとすれば、地名と成って後世に遺る筈も無いからである。… 七月一五日とかに、足利時代にはすでに行われていた、それも全国的であった。と。 呼び名の柱松のマツという語は火の意味であることから、これは古語辞典にも出ていないほどに古いので、もちろん森脇宗坡以前、古語辞典が典拠に採れる以前、文献以前の考古学時代からのものであろうか。仏教とは関係がない、盂蘭盆は仏教ではなく、われらの太古くからの風習であった。基本的には神の火で、城屋の若者たちも川に入り、垢離をとり身を浄めてから火を投げる、燃えがらには神霊があるとされる。柱松を何本も立てている所もあるが、何か占いであろうか、当地では一本だけであって燃え方や倒れた方向で占うのであろうか。 似た神事には、小倉の布留山神社「お松神事」がある、ここは三本立てられ、燃え方で占う、11月15日くらい(日)である、当地も明治の記録では9月15日であって、だいたい似た時期に行われたようで、元々は盂蘭盆とは関係がなかったのでなかろうか。 原型であろうと思われるのは当地の天王社12月14日「おたいまつ」という神事である。これらが巨大化し炎の芸術にまでになったものが揚松明であろうか。 ちょっとだけ付録 恐らく城屋でも本来は少なくとも3本は柱が立てられていたと考えられる。推定復原すればそのクライマックスはこんな様子↓であったのかも知れない、もっと立てられていたかも知れないが、もしこのままで現在まで引き継がれていれば世界一の最高の炎の芸術であっただろう、しかしカメラマンは黒焦げ覚悟が?(こんな絵が作りたかったのだが、今年は特別に境内に入れてもらい、ようやく念願の絵が作れた) ![]() ![]() ![]() 当サイトにたくさんありますから検索してみて下さい。 ![]() |
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