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浮島丸事件
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 風化する浮島丸事件![]() ほとんど忘れられた、というか、あるいはひょっとすると意図的に消されてしまった舞鶴軍港で発生した大事件である。 ゲに舞鶴引揚記念館すら、まったく触れておらず、白々しい口先だけの「平和」を掲げるだけのことで過去の風化に加担しようとしているかのように見えてしまう。 Those who can't remember the past are condemned to repeat it. 過去を忘れる者は未来も忘れる 世界的によく知られた言葉であるが、都合悪い過去は思い出さない者は、condemned to は「運命づけられている」といった意味だそうで、戦争を繰り返すことを運命づけられる、といった意味になる。愚かな戦争を避けられないといったことである。あんな大事件をすぐ忘れてしまうようなアホタレは、また戦争しよるデ、ということである。何のためか誰のためか、あるいはその無知無能ゆえか、その重い重い腰を上げて、浮島丸関連の小さなコーナーでも設けないと、歴史修正館と呼ばれることとなろう。 浮島丸事件の証拠らしき物も何も残っていない。幸いにも若干の写真が残されている。鮮明なものは少ないが、どの地点に沈没していたかは、これらの写真から割り出せる。 背景の山と蛇島・烏島との重なり具合から、2本の正確な線が引ける、それらが重なる地点が沈没位置である。(写真はネット上にあるもの)。 A ![]() B ![]() 船尾側のマストが見えない。船体後半部は昭和25年に引き上げられた(第一次引き上げ)。その後に写された写真であろう。 C ![]() これが最も古い写真と思われる。↑ これらの写真はみな追悼会場近くの海岸から写されている。実際にその海岸位置へ行って写すと島と背後の山の重なりが一致する↓ここから写したんだとガッテンできる。 ![]() ![]() 50~100ミリくらいのレンズかトリミングである。一番下のアップのカラー写真はプロだから、もっと長いレンズを使っている。 A、Bを地図にすると↓ ![]() その位置は追悼会場のすぐ沖合400メートルくらいが、ほぼ正確な沈没位置である。 追悼会場から見て、「蛇島の方向、400メートル沖合」が沈没位置である。 専門の測量器材を持つ技術者にやってもらえれば、より正確な位置や距離が得られよう。不等辺三角形ABPの2角と夾辺(AB)の長さが分かれば、他の2辺(AP、BP)の長さはコンピューターなら瞬時に計算してくれる。 追悼会場から見て、護衛艦がいるあたり、恐らくもう少し手前であろう。浮島丸は写真の艦籍番号124「みねゆき」とほぼ同サイズである↓ ![]() 追悼会場へ行くには必ず通る舞鶴cranebridge↓全長は735メートル。この半分少々であるが、スイスイ泳ぎ切れるだろうか。もし泳げなかったら一生は終わるゾ。 ![]() 沈没位置はプロ中のプロですら間違える。 ![]() 防備隊の図は違う。「浮島丸觸雷位置」とあるあたりが、沈没位置である。 防備隊から沈没浮島丸は目視できた、それをナゼに間違えたのか ![]() 防備隊図の影響か ![]() 8管海上保安本部作成の沈没位置も違う、だいたい船体の全長も全幅も凹みと合わない、サイズが違う、サイズが違えば証拠にならない(浮島丸は全長115あるいは108、あるいは107メートル、幅は15.7メートル)「指紋」がまったく合っていない。 間違いの多い記録類や勝手な思い込みや、あやしい「証言」や「指紋」など、さらには意識的に事実を曲げているものまで、残されている資料はたいていはそのまま信用できない。プロですら間違えている、すべて不確かであいまいで、互いに矛盾している。事実らしきものが不明であるので、再度正確に事件の全貌を洗い出すことが求められる。 ちなみに、有名なこの写真↓も違う 違うというか入港時のものではない。ソ連からの入港時のものと思い込まれているが、ワタシもそうだと、悪くいえば「ずっとだまされていた」が、気にはなっていて、もう一度調べ直してみると、9月にソ連からの入港記録がない。 ![]() 追悼広場に展示されている写真↑ 1954年(昭29)9月撮影とある、「引揚船のリスト」によれば、9/27に天津の塘沽から主に民間人等500余名を乗せた興安丸が入港している。この時の写真かな、と思ったのだが、詳細に見てみると、これは入港時の写真ではなく、出港時の写真である。 デッキに人影が見える、これは引揚者ではなく、援護局職員ではなかろうか。興安丸の背後の山並が船尾のほうに少しだけ写っている、これは大浦半島ではなく、長浜の高倉神社の裏山である (追悼会場から南側・長浜海岸)→ ![]() 対空機銃とレーダーの位置関係からしても、浮島丸の北側から南を向いて撮影したもので、興安丸は浮島丸の南を西を向いて航行している。9月が正しいのなら今から中国へ向かうのであろう。 1954年は浮島丸の前半分が引き上げられた年になる(第二次引き上げ)。9月でもまだこうした状態だったのであろうか。54年2月末に引き上げ完了とする資料もあり、7月初旬から作業が始まったともいう。 いよいよ浮島丸も引き上げられる、この機会を逃すと永遠に写せない、そう思って写しに行かれたのであろうか。 船内には340柱(370柱、367柱、247柱とも)の遺骨があったという。後半部に103柱があったといい、両方プラスした合計は524柱だともいう。 524の遺骨なら、海に浮かんでいた遺体はゼロか。船体の後半部と前半部には合わせて500近くの遺骨があった、海に浮かんでいた遺体は30体ほどである計算になる、ここでも犠牲者数524名は強い疑念が生じる。前半船内の遺骨拾いには2、300名もの朝鮮人が手弁当で駆けつけたといい、70名くらいが作業したという。それでも人数の確認は難しかった、524に近いくらいはあったのではなかろうか。当時の資料は懸命に誠実に行われていても実数は正確にはわからない。 ![]() 『舞鶴市史(現代編)』
(付) 浮島丸事件
市の浮島丸事件に対する基本認識はこんな程度のもののようである。大本営発表をそのまま信じて疑うこともない。市の認識は正しいものではないが、だいたいこうした事件だったと多くの舞鶴市民の間では長らく信じられてきたものである。第二次世界大戦の終結により、戦時中、大湊海軍施設部などで働かされていた朝鮮の人たちとその家族ら三、七○○余人を乗せた海軍特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)は、昭和二十年八月二十一日、朝鮮へ向けて青森県の大湊港を出航した。その途中、突如、日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以降航行を禁止、航行中の艦船は最寄りの港へ入港すべし、という連合国軍最高司令官の指令で航路を変更し、舞鶴へ入港することになった。ところが、二十四日午後五時ごろ、舞鶴湾内の下佐波賀沖にさしかかった際、突然、大爆発とともに船体は真二つに割れて沈没した。急報によって舞鶴海軍防備隊、同港務部、同海兵団始め地元佐波賀の人々がカッターや小船を出して現場へはせつけ、救助に当たり、近くの平海兵団や舞鶴海軍病院に収容して手当てを加え、遺体は舞鶴海兵団の仮埋葬地に葬った。この事故による死亡者は五○○余人に上り、そのほか多数の重軽傷者を出した。救助に当たった舞鶴海軍病院はその実情を次のように報告している。 浮島丸救難実状報告 舞鶴海軍病院 一、患者収容の状況並に転帰の概況 昭和二十年八月二十四日平海兵団より浮島丸遭難患者多数発生の報に接し同日二○一五収容隊を派遣せしむ、即ち指揮官軍医中尉島田浩水 同附海軍上等衛生兵曹松田宏隊員十三名患者「バス」に乗車二○三○本院出発一二○○平団病院着収容を開始し、○後本院「トラック」患者「バス」総動員にて収容に当れり、隊員小数なる為平団衛生兵の応援を依頼し、「トラック」には一回要担患者約六名患者バスは軽傷者約二○名宛にて収容、翌二十五日○一○○を以て右収容を打切れり、其間本院に於ては当直員全員をして多発傷病患者収容部署に依り応急処置を施し治療品等も全部搬出準備し、万全を期しありて右応急処置終了のものより順次本院に送院せるものなり。 而して平団病院は狭小なる為室内は言うに及ばず附近の練兵場又は空地に収容しありて附近は歩行不可能なる程多数の患者なりき、その数二千名なりと言う。本収容隊は以上の如く職務に最善を尺し疲労も意に介せずよく最後迄頑張り○一○○に至り一応その任務を終了せるものなり 而して本院に収容せる同船患者の総数は百五十九名にして内三名の死亡を見たり、又、同患者は九月十六日を以て僅か一名の患者残し全部帰鮮せるものにして内五名の患者は旅費等全く所持金なき為本院にて便宜立替支弁せる状況なり 二、同船患者入院中の状況 食事は患者食を供し患者衣一、藁等ヘッド一、毛布二枚宛を貸与し治療に関しては手術、「ギブス」固定包帯等を施しその他の近代医学及びその技術を以てこれに当り万全を期したるものにして 一般下士官兵の治療と何等の差異なきのみならず寧ろ後日の兎角の批評を慮り之が治療には細心慎重に従事せるものなり、万全を期したる治療にも拘らず遺憾ながら左の三名の死亡者を出せるが、之が死因は頭書の病名の通りなり。 死因 氏 名(略) 備 考 一、患者食 一回量 米七分麦三分 計百九十一 副食物(豆腐、馬鈴薯、玉葱、青菜等) 二、看護員 看護婦十六名 衛生兵(特志)六名 当直は三直制にして兵一名 看護婦三名 終 (舞鶴市役所文書) また、乗船者および遭難死亡者数は、引揚援護庁復員局第二復員局残務処理部の発表によると次の通りである。 昭和二十八年十二月 輸送艦浮島丸に関する資料 第二復員局残務処理部 一、輸送の経緯 終戦直後大湊地区に在った旧海軍軍属朝鮮人工員多数は連合軍の進駐を極度に恐れたためか帰鮮の熱望を訴えて不隠の兆を示した。当時日本海軍としては既に解員手続きを完了した元工員に対して之を帰鮮せしめねばならぬという義務はなかったけれども事態の平隠な解決を欲したので特に特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)に彼等を便乗せしめこれを朝鮮に輸送する如く準備し昭和二十年八月二十一日朝大湊を出港した。 二、浮島丸の便乗者 同船は朝鮮人元工員二、八三八名、同民間人八九七名計三、七三五名(外に正規の手続きを経ずして殆んど乱入乗込ともいうべき者が少数あり)を収容した。 三、浮島丸が舞鶴に入港した経緯 「マニラ」に於て日本側代表者に手交された連合軍のRequirements Document No.3 に依り日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以後航行を禁止せられ、航行中の船舶は最寄りの港に入泊すべき旨指令された。 浮島丸はこれに基く中央からの命令により無通告にて舞鶴港に入港したのであるが、昭和二十年八月二十四日投錨前舞鶴湾内蛇島の北方に於て連合軍の敷設した機雷に触れ、沈没するに至った。 四、遭難死没者及びこれに対する通報 (イ) 朝鮮出身死没者は次の通りである。
(参考) 固有乗員の軍人二五五名中、死没者二五名(遭難当時遺体未収容)あり、依って死役者の合計は五四九名となる。 そのうち遭難当時遺体を収容せるもの一七五体、救助されて後病院に於て死没したるもの七名計一八二柱である。依って船内残存遺体は三六七体となる。 (略) キッチリと数字の帳尻が合っているものはまず信用できない、机上の帳簿上の数字に合わせた作文であろうか。史実とは関係のないものである。何人が乗船していたかが不明、現場の証言とも違うのに、なぜか数字だけがキッチリ合うのはイカサマの子供だましの証拠であろう。 大変にエエかげんなのは、舞鶴人が誤魔化しをしているわけではない、右も左も歴史修正主義者なのでもなかろう、荷が大き過ぎて持てあます、手に負えない、全体を問題なきように認識できない、処置できない状態が続いている、戦争遺産は日本人全体が受け止めかねていて舞鶴ばかりを責められない。戦争関連遺産だけでもない、どれだけの歴史遺産が正しく評価されず、捨てられてしまったことか、恐ろしいようなことである。未来はないぞ。 事件は見えない所で発生した。また終戦直後の極度の混乱期であった。 ![]() 東舞鶴七条海岸「商工観光センタービル」の高い階から写したもの↑。高い所から見てもこれくらいで、蛇島の手前の防波堤のように見える所は雁又で、今は「航空基地」になっているが、そこも舞廠であって、工場建物があった、それに隠れて蛇島も浮島丸も見えない。多くの市民は直接には目にすることはなかった。見えたのは北の佐波賀と西の白杉だけで、そのほかはみな軍事基地の高い塀に遮られ、覗き見たりは禁止されていた。 見るな聞くな話すな 軍港内であり、要塞内で軍事基地内で発生したものであった、軍機法、要塞法があり、この海で起きたことは見てはならない、聞いてはならない、話してもならなかった。もし犯せばスパイだ国賊だとされ、家一軒建つほどの罰金がきた。これらの悪法はこの時はまだ生きていた。(9/2の無条件降伏調印、軍の解体で失効したのであろう)。 三国岳も愛宕山も山頂は木が茂っていて湾の方向は眺望がないようである、下から見ても大きな木々に覆われていて、行っても見えないな、とワタシは登ったことがないが、幸いにも写した人がある、こんな様子だという。↓ ![]() ![]() 一部の「上級乗船人」の名簿はあるが、すべての乗船名簿はない、何名乗っていたのか数がわからない。従って何名の犠牲なのか今も不明である。 仮埋葬時や荼毘時にはその数を数えたと思われる、仮にも人様の遺体である、その数も数えずに仮埋葬したり、荼毘に付したりは、いかな海軍様とても、為したりはしまいと思われる、その数の記録が厚生省に残ってないか、隠してないか、… 何名が犠牲になったのかのナゾのほか、ナゾは多く残されている。 浮島丸出港のナゾ 爆沈原因のナゾ 遅れ過ぎる遺骨返還のナゾ … またいつか取り上げてみる… ![]() ![]() ![]()
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